マルコ 2:1-12 <身体麻痺患者の癒し> 並行マタイ9:1-8、ルカ5:17-26

 

マルコ2

そして幾日か後に再びカファルナウムに入ると、彼が家に居るという話が伝わった。そして多くの者が集まったので、もはや戸口のあたりさえも、すきまがないほどであった。そしてその人たちに言葉を語るのであった。そして彼のもとに体麻痺の患者が四人の者に担われて連れて来られるそして群衆のせいで彼のもとまで連れていくことができなかったので、居る場所の屋根をはがして穴をあけ、患者が寝ている床をつり下ろす。そしてイエスは彼らの信頼を見て、患者に言う、「子よ、あなたの罪は赦される」。何人かの法学者がそこに座っていて、心の中で論じた、どうしてこの男はこういう言い方をするのか。冒涜している神のみのほかに誰が罪を赦しうるか」。そしてすぐにイエスは分の霊でもって、彼らが自分たちの中でこのように考えているのを察知して、彼らに言う、「あなた方はどうしてこういうことを論じているのか。麻痺の人、あなたの罪は赦される、と言うのと、起きよ、自分の床を担って歩め、と言うのと、どちらがたやすいか。10人の子は地上で罪を赦す権威を持っている、ということをあなた方が認識するためには」、患者に言う、11あなたに言う、起きて自分の床を担い、自分の家にお行きなさい」。12そして起きた。そしてすぐに床を担い、みんなの前に出て行った。そこでみんながびっくりし、神に栄光を帰して言った、「こういうようなことは、これまで見たことがない」。

 

マタイ9

1そして舟に乗り、(湖を)わたって、自分の町に帰って来た2そして見よ、身体麻痺の患者がにのせられて彼のところに連れて来られた。そしてイエスは彼らの信頼を見て、患者に言った、「気を出せ、子よ、あなたの罪は赦される」。3そして見よ、何人かの律法学者が自分たちの中で言った、「この者は冒とくしている」。4そしてイエスは彼らの考えを知って、言った、「何のためにあなた方は心の中で悪いことを考えるのか5あなたの罪は赦される、と言うのと、起きて歩め、と言うのと、どちらがたやすいか。6人の子は罪を赦す権威を地上持っている、ということをあなた方が認識するためには」。その患者に言う、「起きて、自分の床を担い、自分の家にお行きなさい。7そして起き、自分の家へと去って行った。8群集は見て、恐れこのような権威を人間たちに与えた神に感謝した。

 

ルカ5

17そしてある日のこと、彼自身は教えをなし、そこにパリサイ派の者律法の教師たちも座っている、ということがあった。彼らはガリラヤやユダヤやエルサレムのあらゆる村から来ていた。そして主の力が(働いて)、彼に治療行為をさせるようにしていた。18そして見よ、何人かの者が、麻痺した人を床にのせて運んで来て、中に運びいれて彼の前に置こうと試みた。19しかし群衆のせいで患者を運びいれる場所を見出せなかったので、屋根に上って患者を床板とともに屋根瓦を通して真ん中へとイエスの前に下ろした。20そして彼らの信頼を見て、言った、「人よ、あなたの罪はあなたに対して赦された」。21ところが律法学者パリサイ派論じはじめて、言った、「これは何者だ。冒涜を口にしている。神のみのほかに誰が罪を赦しうるか」。22イエスは彼らの議論を察知して、答えて彼らに対して言った、「あなた方は心の中で何を論じているのか。23あなたの罪はあなたに対して赦された、と言うのと、起きて歩め、と言うのと、どちらがたやすいか。24人の子は地上で罪を赦す権威を持っている、ということをあなた方が認識するためには」。患者に言った、「あなたに言う、起きて自分の床板を担い、自分の家にお行きなさ」。25そして患者は即座に人々の前で立ち、自分が寝ていた床を担って、神に栄光を帰しながら家へと帰って行った。26そして驚愕みなの者を捕らえ、みなの者は神に栄光を帰し、恐れに満ちて、言った、「我々は今日、奇跡を見た」。

 

 

 

マルコでは2:1-3:6まで、五つの「罪」に関する論争物語がまとめられている。

「身体麻痺患者の癒し」伝承は、1章の奇跡物語集(1:21-45)と論争物語集を繋ぐ、橋渡し的な役割を果たしている。

 

最初の論争物語である「身体麻痺患者の癒し」は、前段の「癩病人の癒し」と同じく、二部構成となっている。

マルコにおける中間の6-10節のイエスと律法学者との論争を省いて、前半の奇跡物語の5節と11節を繋げると、イエスと患者との会話がスムースにつながる。

 

奇跡物語伝承と中間に挟まれた律法学者との論争物語とは、もともとは別々の伝承であったと思われるが、その二つが合成されて一つの物語の様式となっている。

 

マルコにおけるこの物語の構成や役割を考えると、奇跡伝承と論争伝承を一つの物語に合成したのはマルコであると思われる。

 

奇跡伝承の間に論争伝承を挟みこむという構成はマタイとルカも同様であり、彼らがマルコを参照にしていることは明白。

 

マタイはマルコの文をなるべく短くして、写そうとしている。

ルカはマルコの文に脚色を施しながら、説明的に書き直してくれている。

 

 

三者の導入句は、それぞれの構成により、異なるものとなっている。

 

マルコ2

そして幾日か後に再びカファルナウムに入ると、彼が家に居るという話が伝わった。そして多くの者が集まったので、もはや戸口のあたりさえも、すきまがないほどであった。そしてその人たちに言葉を語るのであった。

 

マタイ9

1そして舟に乗り、(湖を)わたって、自分の町に帰って来た

 

ルカ

17そしてある日のこと、彼自身は教えをなし、そこにパリサイ派の者律法の教師たちも座っている、ということがあった。彼らはガリラヤやユダヤやエルサレムのあらゆる村から来ていた。そして主の力が(働いて)、彼に治療行為をさせるようにしていた。

 

 

マルコは、イエスが活動の本拠地としていたカペルナウムにある「家に居る」(en oikO)時の出来事という設定である。

 

主要な大文字写本(P88、シナイ、B、D、L、W、f13ほか)がそろって「家に居る」(en oikO)であるが、eis oikonとする異読(A、C、0130,f1,13)があり、自分の家ではなく、誰かの家に入って居る時と読めるものとなっている

 

この「家」(oikO)とは、定冠詞付きの「家」ではないので、イエスの自宅を想定しているのではなく、おそらくマルコの編集上の設定であろう。

 

ほかにも、マルコでは3:20、7:17,24、9:28,33、10:10などの編集句にも、「家に居る」(eis oikon, en tE oikia, eis tEn oikan)時という状況設定が用いられている。

 

従がって、この「家」が「人の子には頭を横たえる所がない」(マタイ8:20、ルカ9:58)という句を根拠に、「イエスの自宅」ではなく、ペテロの「家」、あるいは他のイエスを信奉する者の「家」であった、などと議論するのは無意味と思われる。

 

マルコとしては、イエスの群衆人気を描写するための一つの構図なのであろう。

 

WTは、マルコ2:1の「家」を「カペルナウム」の比喩と解釈している。

*** 洞‐1 599ページ カペルナウム ***

イエスはカペルナウムの近辺から召した4人の弟子たちを伴ってガリラヤを伝道して回った後,カペルナウムに戻られました。そのころには,カペルナウムはイエス「ご自身の都市」と呼ばれるほどで,イエスが『家にいる』と言われる場所になっていました。(マタ 9:1; マル 2:1)

 

 

これは、並行のマタイ9:1の「自分の町に帰って来た」という表現をマルコに読み込んだ解釈。

 

マタイは、この話の前にマルコ5章の「ゲラサ人の地」の話を「ガダラ人」として組み込んでいる。

カペルナウムでの活動を一時中断し、ヨルダン川の東側にある異邦人の地での活動に話題を移した。

「身体麻痺患者の癒し」物語を始めるためには、再び、カペルナウムでの話に戻す必要がある。そこでマタイは、ここでイエスに湖を渡らせることにしたのである。

 

マタイは、4:13でイエスがナザレを去ってから、カペルナウムに住んだ、としているので、カペルナウムを「自分の町」と表現したのであろう。

 

 

ルカは、マルコと同じく、「癩病人の癒し」物語に続いているが、ユダヤのある都市での出来事と読める設定となっている。

 

それに続く、「身体麻痺患者の癒し」物語でも、「ガリラヤやユダヤやエルサレムのあらゆる村から来ていた」時の出来事と設定している。

 

エルサレムをガリラヤやユダヤと同じくkai=andで並べているので、都市名ではなく、地方名として扱っていることになる。

 

その結果ルカでは、ユダヤ地方の一都市であるエルサレムも市内に多くの村々を有することになっている。

 

 

NWTはその矛盾を気づかせないように、「すべての村」の句が、エルサレムにかからないように、「ガリラヤとユダヤのすべての村およびエルサレムから」と訳している。

口語訳等も同じような誤魔化し訳をしている。

 

ルカはパレスチナの地理に疎いのか、「エルサレム」を一つの都市ではなく、多数の村からなる地方名と考えているようである。

 

いずれにしてもルカはこの物語も、ユダヤ地方での出来事と設定しているようである。

 

 

マルコでは、イエスの群衆人気はすさまじく、戸口のあたりさえも、隙間がないほど、多くの者が集まり、彼らに「言葉」(ton logon)を語る。

 

この「言葉」(ton logon)は定冠詞付きで、多くの和訳聖書で「御言葉」という趣旨に訳されている。

NWT「み言葉」であるが、RNWTは「神の言葉」と訳している。

原文に「神の」という語は出て来ない。

 

この定冠詞付き「言葉」(ton logon)は、前項の「癩病人の癒し」の中でも登場しており、癒された癩病人が、「言葉を広めはじめた」(diaphEmizein ton logon)とある。

 

NWTは「事の次第を広めはじめた」、RNWは「起きたことを…広め始めた」と訳している。

 

原文では同じ定冠詞付き「言葉」であるのに、癩病人が語ると「事の次第」や「起きたこと」になり、イエスが語ると「み言葉」や「神の言葉」に変貌を遂げるようである。

 

他の和訳聖書も、癩病人が語った定冠詞付き「言葉」を、「この出来事」、「このこと」、「自分の身に起こったこと」(口語訳)訳しているので同罪であろう。

 

 

マルコにおける定冠詞付き「言葉」は、定冠詞付き「福音」とほとんど同義である。

ただし、キリスト教の教義や信仰告白などの宗教教義としての「福音」というのではなく、イエスの語った「言葉」全体を指している。

そこには、イエスの生き方を含め、我々もイエスの「言葉」を継承していこうという意識が働いている。

 

マタイは、イエスが群衆に定冠詞付き「言葉」を語ったとするマルコの文を削除している。

 

ルカは、定冠詞付き「言葉」ではなく、「教え」(didaskOn)をなしていたとしている。

ルカにおいて、イエスが「教えをなす」(En didaskOn)対象となるのは、「弟子たち」だけであり、「群衆」は対象外である。

ルカにおけるイエスの「教え」とは、ルカ的キリスト教の教義とほとんど同義である。

 

 

マルコでは、イエスが定冠詞付き「言葉」を多くの群衆に語っていると、イエスのもとに身体麻痺の患者が連れて来られる。

 

マタイでは、湖をわたって、カペルナウムに帰って来ると、身体麻痺の患者が連れて来られる。

 

ルカでは、イエスが群衆に対して、定冠詞付き「言葉」を語っている時でではなく、群衆が「治療行為」を受けている時の出来事という設定である。

 

ルカにおける群衆は、イエスの定冠詞付き「言葉」を理解できる存在ではなく、治療行為を欲するだけの存在で、自己本位の「烏合の衆」という扱いである。

 

ルカは、イエスの「治療行為」に「主の力」(dynamis kuriou)が働いていたとしているが、NWT・RNWTは「エホバの力」と訳している。

イエスが生前の話であるから、この「主」とは「キリスト」ではなく、「神」を指すものであろうが、原文に「神」(theos)という語はない。

原文の「主」を「神」と訳しているのは、他の和訳聖書はLiving Bibleだけ。

それ以外は、すべて原文の「主」のままに訳している。

 

マルコ・マタイにイエスが「群衆に治療行為を施していた」とする記述はない。

ルカの群衆蔑視による創作的付加。

「パリサイ派の者」と「律法の教師たち」も同席しているところに、身体麻痺の患者が運ばれてくる。

 

 

マルコ2

そして彼のもとに身体麻痺の患者が四人の者に担われて連れて来られるそして群衆のせいで彼のもとまで連れていくことができなかったので、居る場所の屋根をはがして穴をあけ、患者が寝ている床をつり下ろす。そしてイエスは彼らの信頼を見て、患者に言う、「子よ、あなたの罪は赦される」。

 

マタイ9

2そして見よ、身体麻痺の患者がにのせられて彼のところに連れて来られた。そしてイエスは彼らの信頼を見て、患者に言った、「勇気を出せ、子よ、あなたの罪は赦される」。

 

ルカ5

18そして見よ、何人かの者が、麻痺した人を床にのせて運んで来て、中に運びいれて彼の前に置こうと試みた。19しかし群衆のせいで患者を運びいれる場所を見出せなかったので、屋根に上って患者を床板とともに屋根瓦を通して真ん中へとイエスの前に下ろした。20そして彼らの信頼を見て、言った、「人よ、あなたの罪はあなたに対して赦された」。

 

 

マルコの「身体麻痺の患者」(paralytikos)の原語は、一単語のギリシャ語。

para(脇)+lyO(切り離す、駄目にする)という動詞から作られた受動形容詞。

動詞の受動形も受動形容詞も、「半身(脇)不随の状態」を意味する。

 

マタイはマルコの一語の単語である対格の「身体麻痺患者」(paralytikon)をそのまま写している。

 

ルカは「麻痺した人」(anthrOpon hos En paralelymenos)と関係代名詞を用い、「半身不随の状態にある人」と説明的に書き直してくれている。

 

ギリシャ語ユダヤ人であるマタイにはなじみのある単語であったのであろうが、純ギリシャ語人間であるルカにはなじみがなかったのかもしれない

 

NWT「まひした人」、RNWT「身体が麻痺した人」と訳しているが、和訳聖書の多くが「中風」と訳している。

 

いくつかの英和、仏和辞典などがparalytic, paralytiqueを「中風」と訳したことによる伝統であるが、手足の麻痺、もしくは半身不随の原因が「中風」「脳卒中」だけとは限らない。

事故や怪我等、外傷性のものを含めいろいろな理由がある。

 

 

マルコの「連れて来られる」(erchontai)は、非人称的三人称複数の現在形。

主語を特定しない構文であり、何となく「人々」がという趣旨。

ここにもマルコにおける群衆のイエス人気が反映されている。

 

マタイの「連れて来られた」(prosepheron)は、マルコと異なる動詞の非人称的三人称複数の未完了形。

マルコにはない「そして見よ」(kai idO)というヘブライ語アラム語的に注意を促す、間投詞を置いている。

「連れて来られた」(prosepheron)という動詞には、pros(前に)という接頭語が付いており、イエスの前におずおずと畏敬の念をもって連れて来られた、という感じ。

 

ルカは、マルコの「四人の者に」(hypo tessarOn)を、「何人かの者が」(andres)という「男」の複数形の主語に変え、「運んだ」(pherontes)というマタイの接頭語を外した動詞を用いている。

 

ルカもマタイと同じく、「そして見よ」(kai idO)という間投詞を置き、読者の注意を促し、マルコにはない「イエスの前に置こうと試みた」(eisenegkein kai theinai enOpion autou)という句を付加してくれた。

 

 

マルコでは、「群衆のせいで」(dia ton ochlon)、イエスのもとまで連れて行くことが出来なかったのであるが、「群衆」がイエスに近づくのを邪魔したわけではない。

 

イエスの定冠詞付き「言葉」を聞こうとする「群衆」があまりにも多く、隙間がないので、イエスのもとまで連れて行くことが出来なかっただけである。

 

マルコにおけるイエスの「群衆」人気を反映している表現となっている。

それで、仕方なく、屋根をはがし、イエスの前に患者が寝ている床をつり下ろすこととなる。

 

 

マタイは、この種の群衆人気に関するマルコの表現は、綺麗に削除してくれている。

ただ「身体麻痺の患者が床にのせられ、イエスのところに連れて来られた」とあるだけ

 

 

ルカは、麻痺した人をイエスの前に置こうとしたが、運び入れる場所を見出せなかったのは、「群衆のせい」(dia ton ochlon)だとしている。

 

あらゆる村から来ていた治療を望む「群衆」が、麻痺した人をイエスに近づけるのを妨げたため、屋根からイエスの前に降ろさざるを得なかった、という構図になっている。

 

ルカの群衆蔑視。

 

 

マルコは「床」(karabatos)という語を用いているが、マタイは「床」(klinE)という別の語を用いている。

どちらかと言うとマルコの「床」(karabatos)の方が粗末な床で、マタイの「床」(klinE)方がちゃんとした寝床の意味。

 

マルコはつり下ろされるのだから、簡易的な寝床の方が良いと思ったのだろうが、マタイはイエスの前に連れて行かれるのだから、きちんとした寝台の方が良いと思ったのだろう。

 

ルカは、運び込まれた時はマタイと同じく「床」(klinE)としていたが、つり下ろされる時は「床板」(klinidion)と指小辞を付けた語に変えている。

直訳は「小さな寝床」。

 

「床」(klinE)はベッドのようなちゃんとした寝台を指すから、まさかそのまま屋根から降ろすわけにはいかないと思ったのだろう

指小辞を付けて、人を乗せて運ぶことができる担架のようなものにしてくれている。

 

 

チーム身体麻痺患者の行動に関して、イエスは彼らの「信頼」を見て、患者に対して、声をかける。

 

「信頼」(pistis)を、NWT・RNWTを含め、和訳聖書ではすべて「信仰」と訳している。

ルターがpistisを「信仰」(Glaube, 人間が神あるいはキリストに対して持つ信仰)と訳した以来の伝統。

 

ただし、この語pistisは、形容詞pistos「誠実である」、「信頼に値する」、「信実である」を名詞化したもので、基本的には「信頼」「誠実」「信実」という意味である。

 

ギリシャ語の「信じる」(piteuO)という動詞は、与格支配の自動詞であり、他動詞ではない。

原意としては、「~を信じる」というよりも、「~に対して信を置く」という趣旨である。

 

ここは、患者がイエスに対して、宗教的信仰を持っている、という意味ではなく、イエスが自分の病気を癒してくれるという絶大な信頼感を持っている、という趣旨である。

 

 

マルコのイエスは、彼らの「信頼」を見て、患者に「子よ、あなたの罪は赦される」(teknon apheOntai sou hai hamartiai)と告げる。

 

マタイのイエスは、彼らの「信頼」を見て、患者に「勇気を出せ、子よ、あなたの罪は赦される」(tharsei teknon apheOntai sou hai hamartiai)と告げる。

「勇気を出せ」(tharsei)という二人称単数命令形の句を付加してくれた。

 

ルカは、マルコの「子よ」(teknon)という呼格の呼びかけを「人よ」(anthrOpe)に変え、「あなたの罪はあなたに対して赦された」(apheOntai soi hai hamartitai sou)と告げる。

与格で「あなたに対して」(soi)という代名詞を付加してくれている。

 

 

マルコの「赦される」の読みには、異読があり、現在形のものと完了形のものとがある。

現在形の読みは、B写本と小文字写本の一部だけで、大多数の重要写本が完了形の読みである。

lectio difficiliorの原則からすれば、現在形の読みを採るところである。

 

現在形といっても、未来的な意味で、「赦されることになる」というのではなく、「現在赦されてある」という趣旨であろう。

完了形とほとんど意味は変わらない。

 

ルカの「赦す」は完了形で、与格の「あなた」という代名詞を付加している。

「赦す」という動詞は、対象となる与格がないと落ち着かない。

 

とすれば、マルコの現在形をギリシャ語人間のルカが完了形に修正し、マルコやマタイにも完了形の読みが逆輸入されたということだろう

 

 

イエスが、「あなたの罪は赦されている」と言うと、律法学者たちが意義を唱える。

 

マルコ2

何人かの律法学者がそこに座っていて、心の中で論じた、どうしてこの男はこういう言い方をするのか。冒涜している神のみのほかに誰が罪を赦しうるか」。そしてすぐにイエスは分の霊でもって、彼らが自分たちの中でこのように考えているのを察知して、彼らに言う、「あなた方はどうしてこういうことを論じているのか。麻痺の人、あなたの罪は赦される、と言うのと、起きよ、自分の床を担って歩め、と言うのと、どちらがたやすいか。10人の子は地上で罪を赦す権威を持っている、ということをあなた方が認識するためには」、患者に言う、11あなたに言う、起きて自分の床を担い、自分の家にお行きなさい」。

 

マタイ9

3そして見よ、何人かの律法学者自分たちの中で言った、「この者は冒とくしている」。4そしてイエスは彼らの考えを知って、言った、「何のためにあなた方は心の中で悪いことを考えるのか5あなたの罪は赦される、と言うのと、起きて歩め、と言うのと、どちらがたやすいか。6人の子は罪を赦す権威を地上持っている、ということをあなた方が認識するためには」。その患者に言う、「起きて、自分の床を担い、自分の家にお行きなさい。7そして起き、自分の家へと去って行った。

 

ルカ5

21ところが律法学者パリサイ派論じはじめて、言った、「これは何者だ。冒涜を口にしている。神のみのほかに誰が罪を赦しうるか」。22イエスは彼らの議論を察知して、答えて彼らに対して言った、「あなた方は心の中で何を論じているのか。23あなたの罪はあなたに対して赦された、と言うのと、起きて歩め、と言うのと、どちらがたやすいか。24人の子は地上で罪を赦す権威を持っている、ということをあなた方が認識するためには」。患者に言った、「あなたに言う、起きて自分の床板を担い、自分の家にお行きなさい」。25そして患者は即座に人々の前で立ち、自分が寝ていた床を担って、神に栄光を帰しながら家へと帰って行った。

 

 

本来の奇跡的治癒伝承は、イエスの「あなたの罪は赦される」という宣言に続いて、11節の「起きて自分の床を担い、自分の家にお行きなさい」という句が続いていたのであろう。

 

マルコの「お行きなさい」(hypagO)をマタイはそのまま写しているのに対して、ルカの「お行きなさい」(poreuomai)は異なる動詞。

マルコ・マタイの「行く」は、通俗用法で「去る」という感じで、ルカの「行く」は普通に「行く」。

 

 

「あなたの罪は赦される」というイエスの発言に対して、「冒涜」と断定し、「神のみのほかに誰が罪を赦しうるか」という反論はいかにも律法学者らしい論理の展開である。

 

イエスの宣言は、当時のユダヤ教の思想環境の中では、かなり衝撃的な発言であったはずである。

 

律法学者が治癒場面の実際に同席していたのか、実際には同席せず、もし律法学者が同席していたら、イエスの言葉にこう反応するだろうと考えたのか、不明。

おそらく、マルコがイエスと律法学者との対立の構図を設定し、ここに組み込んだのであろう。

 

 

マルコ・マタイでは、「何人かの律法学者」(tines tOn grammateOn)だけであるが、ルカでは「律法学者」(hoi grammateis)に「パリサイ派」(hoi pharisaioi)が加わっている。

 

「律法学者たち」(grammateOn)の原義は、「書物の人」という意味で、ユダヤ教ギリシャ語用語。

 

ルカは、導入句では、「律法の教師たち」(nomodidaskaloi)と、「律法」(nomos)+「教師」(didaskalos)という合成語で、説明的に言い換えているのに、ここではそのままマルコを写して「律法学者」(grammateis)としている。

 

ルカは、導入句でも「パリサイ派」を付加している。

70年のエルサレム崩壊以降のユダヤ教は、政治的には親ローマであるパリサイ派だけが生き残った。

ルカ当時、キリスト教とユダヤ教との論争相手と言えば、パリサイ派以外、存在していなかったからであろう。

 

 

彼らは、イエスの「あなたの罪は赦される」という発言に対して、「冒涜している。神のほかに誰が罪を赦しうるか」と心の中で論じる。

 

「論じる」(dialogizomai)の原義は、「言葉をかわす」。

そこから「互いに言葉をかわす」「議論する」という意味になる。

もしも自分一人で心の中で言葉をかわすのであれば、「心の中で論じる」ということになる。

 

マルコでは、律法学者たちの心の中の論議をイエスが察知して、彼らに反論する。

 

マタイもマルコと同じく、何人かの律法学者の心の中の論議を察知して、彼らに反論する。

 

ルカは、マルコの「彼らの心の中で」(en tais kardiais auton)という句を削除し、患者に対するイエスの発言を聞いて、律法学者とパリサイ派が、実際に議論を始めたという構図に変えた。

イエスはその「議論」(dialogismous)を察知して、反論する、という設定に変えている。

 

マルコの、イエスが口に出して言わないのに、超人的な能力で心の中での議論を察知した、とする話は、いくらキリスト様でもおかしいと思ったのだろう。

 

ところが、続くイエスの反論では、「あなた方は心の中で何を論じているのか」(ti dialogizesthe en tais kardiais hymOn)と彼らの議論が、実際の議論であったはずなのに、心の中の議論であることになっている。

 

マルコの律法学者の「心の中で」という句を削除したのであれば、対応するこちらの「自分たちの中で」(en heautois)という句を「心の中で」(ti dialogizesthe en tais kardiais hymOn)などと書き変えずに、削除すれば良かったのに。

 

他人の文書を写しながら、ところどころ自分流にアレンジを加えようとするから、こうした馬脚が現われてしまうのだろう。

 

 

律法学者たちの「神のほかに誰が罪を赦しうるか」という反論に対して、イエスは「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」と反論する。

 

この話を理解する点で鍵となるのは「人の子」(ho hyios tou anthrOpou)という表現の意味と「人の子が罪を赦す権威を持っている」とはどういう意味か。

 

それと関連して、「罪」と「病気」の因果関係と「メシア信仰」と「罪の赦し」との関係をどう解釈するか。

 

 

マルコの10「人の子」がイエスを指す固有名詞的表現であるのなら、イエスは特別な終末論的存在である「人の子」という趣旨になる。

イエスは終末的メシア的「人の子」であるのだから、地上で罪を赦す権限を持っているのだ、というキリスト教教義を説いているということになる。

 

NWTは「人の」の「」にアンダーラインを引いて、この大文字の「」が、神の特別な「子」としての存在であることを読み込ませている。

他の和訳聖書も同様であるが、他の英訳聖書も同様である。

 

しかし、この「人の子」がメシアとしてのイエスという意味ではなく、通常の意味での「人の子」つまり「一人の人間」という意味であるなら、単に「人間というものは自分たちの世界で生じる罪を自分たちで赦す権限ぐらい持っているのだ」という意味になる。

 

 

マルコにおいて「人の子」という表現は、8:31の受難予告以後、数多く登場し、そのほとんどが受難予告に関連して用いられている。

しかし、それ以外で単数形の「人の子」という表現は、ここの2:10と2:28の2回に登場するだけである。

 

これらの2箇所は、受難の「人の子」(8:31ほか)や再臨の「人の子」(13:26ほか)に関してではなく、生前のイエスに関して単数の「人の子」という表現が用いられている。

 

複数形の「人の子ら」は、という表現は、3:28に出て来るが、イエスやイエスの持つ権威と結び付けられて、称号としての特別な意味を帯びているのではなく、あくまでもごく普通の意味で、「人間の子ら」という趣旨で使われている。

 

NWTは2:10の「人の」に関して、これがイエスの称号であると解していることを大文字の「で示している。

RNWTでは単に「人の子」と、アンダーラインを削除している。

 

並行のマタイは9:6「人の子は罪を赦す権威を地上で持っている」という表現を、9:8で「神がこのような権威を人間たちに与えた」と言い換えている。

 

つまり、マタイは、マルコの「人の子」をイエスの称号としてではなく、普通の意味で「人間の子」という意味に解しているのである。

 

 

NWTでは、マタイ9:6の「人のはイエスを指す称号である解し、9:8では原文が複数形であるにもかかわらず、単に「人」と訳している。

 

原文の複数形を、あえて複数形の意味を消して、生前の人間「イエス」個人を指すかのように「このような権威を人に与えた神の栄光をたたえた」と恣意的に訳しているのである。

 

RNWTでは単に「人の子」と、アンダーラインを削除している。

 

マタイはこの個所におけるマルコの「人の子」という表現を、生前のイエスにおけるメシア的称号として解していたのではなく、普通の意味で「人間」という趣旨に解していたことが理解できる。

 

マタイは最初の6「人の子」は単数形にしているが、言い換えた8「人間たち」の方は複数形にしている。

これは、おそらく罪を赦す権威を持っているのは、イエスというただ一人の人間だけに与えられているのではなく、イエスを継承する使徒たちなどの複数の「人間たち」にも、罪を赦す権威が与えられているということを読み込むためであろう

 

 

「病気」と「罪」の関係について、この句を引き合いに出して、当時のユダヤ教社会では、病気はその者の犯した罪の結果であるという考え方が普通だった、と解説されることがある。

 

しかし、四福音書でも病気の原因は、その病人の犯した罪である、という考え方が示されるのは、この個所とヨハネ9:2以下だけである。

他にも大量に病気とその治癒の話が出て来るが、大抵の病気治癒の話では「罪」には全く言及されていない。

 

前述の二箇所でも、イエス本人は、「病気」が「本人の罪」または「親の罪」を原因とする考えを支持しているわけではない。

 

WTは、直接本人の犯した罪の結果とまでは断定しないものの、「病気」は受け継いだ「罪」=「不完全」の結果であると解説する。

 

*** 洞‐1 1066ページ 疾患と治療 ***

病気は,罪人となったアダムが死をもたらす不完全さを人類に伝えた結果として生じています。(創 3:17‐19; ロマ 5:12)

 

*** 塔08 4/15 30ページ 7節 ヨハネによる書の目立った点 ***

5:14 ― 病気になるのは罪をおかしたためですか。必ずしもそうではありません。その男性はイエスに治していただくまで,38年間その病気を患っていましたが,原因は受け継いだ不完全さでした。(ヨハ 5:1‐9)

 

しかしながら、JWの間では、病気や災難や不幸な出来事が生じると、その人の「隠された罪」が関係しているとまことしやかに噂されることが多い。

 

*** 塔08 10/15 5ページ 12節 エホバの「輝く目」がすべての人を調べる ***

12 他の人に気づかれなければ悪いことをしてもかまわない,と考える人もいるでしょう。(詩 19:12)しかし,よく考えて見れば,隠れた罪などは存在しません。「すべてのものは[神の]目に裸で,あらわにされており,この方に対してわたしたちは言い開きをしなければなりません」。(ヘブ 4:13)エホバは,わたしたちの最も深い動機を調べる裁き主であられ,悪行に対するその反応には,完全な公正が示されます。エホバは「憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神」であられます。しかし,「故意に罪を習わしに(し)」,心が曲がっていて悪いことをたくらむ,悔い改めない人に対しては,『処罰を免れさせることは決してされません』。(出 34:6,7。ヘブ 10:26)その点は,アカン,それにアナニアとサッピラをエホバがどう扱われたかに示されています。

 

 

この「身体麻痺患者の癒し」物語には、「病気を罪の結果」とみなす思想が関係しているが、当時のユダヤ教神学の一般的な考え方であったわけではないようである。

 

理由のはっきりしない慢性病に苦しんでいる病人や不幸の状態で苦しんでいる者に、あいつは何か悪いことをやった因果でそういう目にあっているのだ、と無責任にけなす者が出て来るものである。

 

世界中のあらゆるところで、あらゆる時代に見られる他人の不幸を無責任に断罪して、自分の幸福の優位性を担保しようとする人間心理の醜い働きの所産であろう。

 

本人に思い当たることがなければ、親の罪、それもなければ、先祖の罪、それもなければ隠れた罪とあくまでも不幸は罪の結果であるという考えに固執して、因果応報を結論づけようとするのである。

 

周りの人たちがあれは罪のせいだと吹聴しているのが耳に入れば、何かあったのか、と自分でも考え込んでしまうかもしれない。

 

慢性的な病気に苦しんでいるだけでも精神的な負担なのに、残酷な根拠のない悪口に晒されているなら、自分でもどういう罪を犯したのか、疑心暗鬼にもなるだろう。

 

どうしたらその罪が赦されるのか、祭司に託して供え物をささげてみても、病気は改善されない。

お祓いでもしてもらいたくなるかもしれない。

 

くよくよ思い悩むのは、病気には一番良くない。

他人の無責任で残酷な噂話が、病気をさらに重くする。

 

そんな時、イエスなる男がどんな難病でも直す奇跡的な力を持っている、という噂が入る。

身内の者四人に、床に寝たままの状態で担がれてやって来る。

 

病人を癒すために、イエスが「罪の赦し」を口にしたのは、この時だけである。

 

この男が罪を犯したが故に、不治の病に伏せることになったと噂され、本人もそのことを悩んでいた。

 

イエスはそんな事情を察して、「子よ、あなたの罪は赦される。もう、起きて歩くがよい」と断定的に、力強く、宣言したのだろう。

 

この患者は、胸に仕えていた塊が晴れ、まるで直ったように気分になった。

もともと、神経症的なヒステリー反応であったのであれば、暗示効果から解かれ、実際に歩いたということはあり得るのかもしれない。

 

 

「あなたの罪は赦される」という宣言に、イエスの「罪」の問題に対する姿勢がはっきりと示されている。

 

もし、イエスが「罪の赦し」そのものを重要視していたか、自分が「罪を赦す権威」を有していることを明らかにしたかったのであれば、病気治療の度ごとに「あなたの罪は赦される」と宣言して歩いたことだろう。

 

しかし、イエスは病気治療の度ごとに、「罪の赦し」を宣言して、治療することも、宣教することもしない。

 

自分に「罪の赦しの権威」があることを証明するために、病人を「罪人」に仕立てる必要はなかったのである。

 

むしろ、イエスの関心は「罪」や「罪の赦し」よりも、苦しんでいる病人に対して、「おまえの病気は罪の結果」であると断罪している律法学者たちのような人間に向けられている

 

敬虔ぶりながら、「冒涜だ」と宣言し、「神以外に罪の許しを宣言することは赦されない」とし、「病気は罪の結果」と残酷に苦しんでいる人をののしる連中に対して、怒りを込めて、それなら敢えて、俺が宣言してやる。

「子よ、あなたの罪は赦されてある!起きよ、自分の床を担って歩め!」

 

 

イエスが「罪」について発言したもう一つのセリフは、マルコ3:28「人間にはいかなる罪であろうと赦される」という宣言。

 

ユダヤ教には複雑な律法体系があり、それに従がって小さい罪や大きい罪が様々に規定され、どの罪が赦されるにはどうしたらよいか、細かく規定されている。

赦されない罪とされる重い罪も規定されていた。

その裁定をするのは人間である。

 

イエスのセリフは、明快である。

「人間にはいかなる罪であろうと赦されるのだ!」「いい加減にしろ・・・。」

 

このイエスの宣言は、「罪と赦し」を律法で体系化させているユダヤ教の本質に対する完全否認である

 

しかし、キリスト教団は、ユダヤ教の伝統を脱却できず、イエスの発言に「しかし、聖霊に対する冒涜は赦されない」と付加して、伝承している。

 

身体麻痺患者に対しても、この罪に関する宣言にしても、罪が赦されるためには悔い改めが必要とか、悔い改めにふさわしい実を結べとか、洗礼を受けろ、というような律法を背景とするような指示は一切言われていない。

 

ここに洗礼者ヨハネとイエスとの決定的な相違がある。

さらに重要なこととして、イエスは、この二箇所以外、「罪」について一切発言していない、ということである。

 

イエスの関心は、宗教家づらをして厚顔無恥にも他人のことを「罪人」呼ばわりする連中に対する憤りだったのであろう。

 

マルコが身体麻痺患者の癒しの中に、罪に関する律法学者との論争を組み込んだ理由もそのあたりにあるのかもしれない。

 

 

イエスの「子よ、あなたの罪は赦される。起きて自分の床の担い、自分の家にお行きなさい」という宣言に、身体麻痺の患者は癒される。

 

マルコ2

12そして起きた。そしてすぐに床を担い、みんなの前に出て行った。そこでみんながびっくりし、神に栄光を帰して言った、「こういうようなことは、これまで見たことがない」。

 

マタイ9

8群集は見て、恐れこのような権威を人間たちに与えた神に感謝した。

 

ルカ5

25そして患者は即座に人々の前で立ち、自分が寝ていた床を担って、神に栄光を帰しながら家へと帰って行った。26そして驚愕がみなの者を捕らえ、みなの者は神に栄光を帰し、恐れに満ちて、言った、「我々は今日、奇跡を見た」。

 

 

マルコでは、奇跡物語の結びにそれを見た人々が「びっくりし」、神に栄光を帰した、と結んでいる。

マタイは、「びっくり」(existEmi)ではなく、「恐れ」(thaumazO)に変えている。

 

奇跡物語の結末を「驚き」の要素で結ぶのはマルコの基本的傾向のようである。(1:22、1:27、5:20、9:15ほか参照)

 

「驚く」を意味する異なる動詞を用いているが、意味を使い分けているわけではなさそうである。

おそらく、同義語として奇跡物語を結ぶ定型表現としているのだろう。

 

この個所の「びっくりする」の字義は、ex+histEmi「自分の外に立つ」。

これを「我を忘れる」「びっくりする」という趣旨に用いるのは、ユダヤ教的ギリシャ語用法。

 

マルコでは、「みんながびっくりし」とあるので、その中には「弟子たち」も含まれていることになる。

イエスの群衆人気を中心に描いている。

 

マタイでは、「恐れ」たのは、「群衆」だけであり、そこに弟子たちは含まれていない。

 

マタイとしては、イエスと共に行動している弟子たちであれば、イエスは「神の子、主キリスト」であると信じているのだから、今さら「びっくり」する必要はない、と考えたのだろう。

それで群衆だけが奇跡を見て「恐れた」という設定に変えたのであろう。

 

ルカでは、「驚き」や「恐れ」度も、マルコやマタイより強調されているだけでなく、「神への栄光」もより強調されている。

 

マルコの口癖である「そしてすぐに」(kai ethys)を「即座に」(kai parachrEma)とイエスの宣言と同時に奇跡が生じた、と奇跡の奇跡性を高めてくれている。

 

「神に栄光を帰しながら」家へと帰って行くのは、癒された患者だけではない。

「みなの者は神に栄光を帰し」、「驚愕がみなの者を捕え」、「恐れ」に満たされ、「我々は今日、奇跡を見た」と叫ぶ。

「みなの者」(hapontas)を主語とする動詞が四つ並べられている。

 

「奇跡」(paradoxa)は、複数形で一つの事柄を指し、普通考えられることに反する出来事を意味する。

マルコで「奇跡」と訳される語はdynamisで「力」の複数形。「力ある業」という趣旨。

 

ルカでは、「驚愕」「恐れ」「奇跡」などの神の栄光を讃えるための表現が多用されている。

 

 

 

 

 

「病気」と「罪」と「罪の赦し」の因果関係について

 

マルコ1:10並行における病気の患者に対する「あなたの罪は赦される」というイエスの言葉は、病気と罪との因果関係を示す真理であると解説されることが多い。

 

WTは、病気の真の原因は「罪」にあると教えている。

*** 洞‐2 243ページ 罪 ***

病気,苦痛,および老化  人間の死は一般に疾患や老化の過程と関連しているので,これらは罪に付随するものということになります。イスラエルとのモーセの律法契約のもとでは,罪のための種々の犠牲を律する律法には,らい病の災厄を患っていた人々のための贖罪も含まれていました。(レビ 14:2,19)人は人間の遺体に触れることはおろか,天幕の中で人が死んだ時,その天幕に入るだけでも汚れることになり,儀式上の浄めを行なわなければなりませんでした。(民 19:11‐19。民 31:19,20と比較。)イエスもやはり,病気を罪と関連づけられました。(マタ 9:2‐7; ヨハ 5:5‐15)とはいえ,特定の苦しみが必ずしも何らかの特定の罪深い行為の結果だというわけではないことをも示されました。(ヨハ 9:2,3)ほかに,人の健康に義(罪をおかすのとは正反対の歩み)の及ぼす有益な影響を示す聖句があります。(箴 3:7,8; 4:20‐22; 14:30)罪と共に支配する死は,キリストの統治期間中に除去され(ロマ 5:21),それに伴って苦痛もなくなります。―コリ一 15:25,26; 啓 21:4。

 

 

イエスが病気と罪を関連付けたとして、マルコ2:5-10並行のマタイ9:2-7を指摘するのは、「人の子」をイエスのメシア的称号と解するWT的解釈。

 

「罪」といっても、「犯罪」という意味ではなく、「創造者に関して的を外すこと」=「罪を置かすこと」=「不完全さ」が、病気や老化や死の真の原因であると解説している。

*** 洞‐2 240ページ 罪 ***

「罪」と訳されている一般的なヘブライ語はハッタートで,ギリシャ語のその普通の言葉はハマルティアです。どちらの言語でも,その動詞形(ヘ語,ハーター; ギ語,ハマルタノー)は,目標,道,印,または正しい点を外す,もしくはそれに到達しないという意味で「外す」ことを意味しています。裁き人 20章16節ではハーターが,「毛ほどの幅のところに石を投げて逸する[英文字義,外す]ことのない者たち」であったベニヤミン人を描写するのに否定語と共に使われています。ギリシャ人の著述家は多くの場合,的を外す槍兵に関してハマルタノーを使いました。これらの言葉は両方とも,単に物理的な対象物もしくは目標(ヨブ 5:24)だけでなく,倫理的もしくは知的な目標または標準から外れる,あるいはそれに到達し損なうことを意味するのに使われました。箴言 8章35,36節によれば,敬虔な知恵を見いだす人は命を見いだしますが,『知恵を得損なう[ヘブライ語ハーターに由来する]は,自分の魂に対して暴虐を行なっており』,死を招きます。聖書では,ヘブライ語とギリシャ語のこれらの語はどちらも,おもに,神の理知のある被造物が罪をおかし創造者に関して的を外すことを指しています。

 

「創造者に関して的を外す」行為をするのは「理知ある被造物」であるのだから、結局は「その人の罪」が、死や病気の原因だと言っているのと同じだと思うのだが…。

 

 

 

マルコ2:1-12(並行)に関しても、イエスがまひした人の「罪」を赦すことによって、すぐに完治し、健常生活に戻った例として、ヨハネ5章の「38年間病気の者の癒し」や9章の「生まれつき盲人の癒し」と共に説明される。

 

ここの奇跡物語と論争物語を合成した話も、WTでは「人の子が罪を赦す権威を持つ」という句を中心に、独立した信仰箇条として語られることが多い。

 

しかしながら、マルコはこの合成物語を、一つの物語として記述しているのであり、「人の子が罪を赦す権威をもつ」ことを証明するために記述しているのではないようである。

 

つまり、「人の子が罪を赦す権威を持っている」ということを一般化される「真理」として述べているのではなく、あくまでもこの麻痺した人の治療状況の中で発せられたイエスの言葉として組み込まれている。

 

律法学者たちは、「病気やまひの原因は罪」と考えていることは、イエスの患者に対する「あなたの罪は赦される」という言葉に対して、「神のみのほかに誰が罪を赦しうるか」と考えていたことから明らかである。

 

イエスは、彼らの「病気の原因は罪にある」という因果律に支配されていた律法学者に対する反論の言葉として、「人の子は罪を赦す権威をもっている」と語っている。

「神の子イエス、主キリストが罪を赦す権威を持っている」という「真理」を証明するために語っているわけではない。

 

 

NWTでは、マルコの「人の」もマタイ・ルカの「人のもすべてアンダーライン付きの「」と表記し、イエスに適用すべき特別な称号という意味を持たせている。

 

イエスが治療を行なう動機として、田川訳では「彼らの信頼」を見て、とあるが、NWTでは「彼らの信仰」が癒しの根拠とされている。

 

つまり、NWTでは病気治療の根拠は、イエスを神の特別な「人の子」=「メシア」という「キリスト信仰」にあるとしていることとなる。

 

それに対し、田川訳では、「彼らの信頼」、つまり、「イエスに対する彼らが持つ信頼」が癒しの根拠となることになる。

 

イエス=キリスト信仰とは無関係であり、イエス個人の病気治療能力に対する信頼が病気治療の根拠とされている。

 

 

マルコにおいて、イエスは患者に対しては、「子よ」と呼びかけており、自らに関して、「人の子は」と自称して、「地上で罪を赦す権威を持っている」と語っている。

 

どのような意味で、イエスが「人の子」という表現を地上における権威として自分に適用して語ったのかが問題となる。

 

「人の子」という称号は、ユダヤ教伝来のメシア論的称号であり、ダニエル書やエノク書に登場する。

どちらの場合も終末時に天から雲に乗ってやってきて全世界を裁く、という終末時に登場する神的存在に適用されている。

 

このマルコの個所では終末のメシアとは無関係である。

終末時の「人の子」は全世界を裁く存在であり、個々の「罪を赦す権威を持つ」存在としては描かれていない。

 

さらに、初期キリスト教会においては、「罪の赦し」はイエスの死(贖い)によって与えられると考えられていた。

ここでは生前のイエスが、「人の子」と自称して「罪を赦す権威を地上で持っている」と述べている。

 

復活後のイエスではなく、生前のイエスの言葉によってこの患者は癒されたのであるから、「人の子」という表現をイエスはメシア的称号として使っていたわけではない

単に自分自身を呼ぶ表現として用いていたと考えられる。

 

マルコにおいてイエスが「人の子」という表現が8:31の受難予告以前の個所では、他に2:28の「人の子は安息日の主でもある」という2個所に登場するだけである。

 

その箇所の「人の子」という表現も生前のイエス自身に関して語っているのであり、終末時のメシア的称号として語っているわけではない。

 

受難の「人の子」と再臨の「人の子」というメシア的称号とは異なる意味であり、生前のイエス自身を「人の子」と称していると考えられる。

 

マルコは、受難のイエスや終末時のメシアではなく、生きている人間イエス、つまり人間そのものが罪の赦しの権威を持っていると考えていたのであろう。

 

マタイはマルコの主張を理解できたので、マルコの「人の子」という表現を「人間たち」にと複数形に言い換えている。

 

イエスに適用する単数の6「人の子」を、言い換えで複数の8人間」としたのは、イエスの継承者である弟子たちにも「罪を赦す権威」が与えられている、という意味に読めるようにするためであろう。

 

律法学者たちは病気の原因を罪と結び付けており、この病人が罪ある存在とされていることを、イエスも否定しているわけではない。

 

しかし、繰り返すが、イエスは律法学者たちに対する反論として、「人の子は罪を赦す権威を持っている」と主張しているわけではない。

 

病人は「罪」があるとされているかもしれないが、「罪」があるとしているのは「神」ではなく、「人の子」である。

それゆえ、「人の子」は「罪」を赦し得るのだ、ということである。

 

つまり、律法学者たちの主張するように病気の原因はその病人の犯した罪にあるという考え方が存在していたが、イエスは彼らの思想に同意して、彼らの思想を前提に話しているのではない。

 

彼らに対しては、否定的であり、彼らの思想の根源となっている「罪」と「赦し」の律法規定に対しても、否定的である。

 

むしろ、彼らの独善的な支配的権威に抵抗し、人間は彼らの権威を無効にできる存在であるという主張に重ねて、マルコはイエスの口に置いたのではなかろうか。

 

 

 

 

 

四福音書中でも、病気の原因はその人が犯した罪であるという思想が示されているのは、この個所と、ヨハネ9:2以下の「生まれつき盲人の癒し」だけである。

ほかに大量に病気とその治療話が記されているが、「罪」が原因とされている記述はない。

 

律法学者の中には、いかなる病気も神がその者の罪を許さない限り治癒することはないと言い張った者もいるが、新約当時のユダヤ教やラビ文献における治療奇跡話の中では、大抵は「罪」と無関係に癒されており、「罪」が全く考慮されていないという。

(Paul Fiebig,Judische Wundergeschihten des neutamentlichen Zeialters,Tubingen,1911 ; Rabbinische Wundergeschihten des Zeialters Tubingen,1911 参照)

 

つまり、古代ユダヤ教社会に限らず、古今東西どこの社会でも、他人の苦しみを罪のせいにして、お前が苦しむのはお前自身が悪いからだ、お前が、お前の先祖が「罪」を犯したせいだ、という人間が存在しているのである。

 

 

マルコはこの律法学者のように人を「罪」で縛ろうとする人間に対して、「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」と断じるイエスの姿を描いたのである。

 

この病人は手足の神経が麻痺して起き上がることもできないという症状だった。本当のところの病気は分からないが、神経症的な症状だったのかもしれない。他人の無責任で残酷な噂話がこの人の病気をさらに重くしたのかもしれない。おそらく、祭司に託して罪の赦しのための供え物も捧げたのだろうが、治癒しないどころか悪化する。

 

そんな時、イエスなる男はどんな難病でも治す奇跡的な力を持っているという噂が届く。そこで、病人は床に寝たまま、おそらく親族であろう、四人にかつがれてやって来た。

 

イエスが病人を癒すために「罪の赦し」を口にしたのは、この時だけである。おそらく、此の男が罪を犯したため不治の病に罹患したと噂され、本人もそのことで悩んでいたことを知っていたのかもしれない。

 

この場合は、病気治癒のためには「罪の赦し」が心理的に必要だという事情があったから、「あなたの罪は赦される」と断言し、赦されたのだから、もう起きて歩くがよい」と精神的な負荷を解いてあげたのではなかろうか。

 

                  (田川健三著「イエスという男」p303-305参照)