マルコ1:29-31 <シモンの姑の癒し> 並行マタイ8:14-15、ルカ4:38-39
マルコ1:29-31
29そしてすぐに、会堂から出て、シモンとアンドレアスの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。30シモンの姑が熱を出して、伏せっていたのだが、そしてすぐに、彼女のことを告げる。31そして彼女のもとに来ると、手を取って、起こした。そして熱は彼女を離れ、彼女は彼らに仕えるのであった。
マタイ8:14-15
14そしてイエスがペテロの家に来ると、姑が倒れて、熱を出しているのを観た。15そして彼女の手にさわった。そして熱は彼女を離れた。彼女は起き上がって、彼に仕えた。
ルカ4:38-39
38会堂から立ち上がって出て行き、シモンの家に行った。シモンの姑がひどい熱を患っていたので、彼女のことを彼にお願いした。39そして彼女の枕もとに立ち、熱を叱りつけると、熱は彼女を離れ、彼女は即座に立ちあがって、彼らに仕えるのであった。
マタイとルカは、マルコをベースにそれぞれのキリスト信仰を加味して書きかえているが、ヨハネにはこの話は登場しない。
マルコの29「そしてすぐに」(kai eythys)は、これまでも繰り返し出てきたが、時系列的な意味で「すぐに」という意味ではなく、次の話に移ったことを示す印のようなもの。
特に深い意味はない。
「出て行った」(Elthon)という動詞には、三人称単数の読み(カイサレア系、西方系、とB)と複数の読み(B以外のアレクサンドリア系といわゆるビザンチン系)がある。
ネストレは複数形の読みを採用している。
マルコにおけるカイサレア系と西方系に加えて、アレクサンドリア系の最重要写本であるBまで一致しているのだから、文句なく「単数形」の読みを採用すべきところ。
単数形の読みを採用している和訳聖書は、前田訳、新改訳、塚本訳。
複数形の読みを採用しているのは、共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、新共同訳、Living Bible、NWT、RNWT。
口語訳と文語訳は、主語を曖昧にして訳している。
単数形の読みであるなら、主語は「イエス」一人ということであるから、シモンとアンドレアスは「家」にいて、イエスを迎えたということになる。
複数形の読みであるなら、「ヤコブとヨハネも一緒であった」とあるので、この二人を除く、イエスとシモンとアンドレアスが主語となり、この三人で、「シモンの家」に行った、という意味になる。
段落の初めの動詞を単数にするか複数にするか、諸写本に混乱が見られるが、写本家の頭の中には、イエスとその弟子たちがいつも一緒に行動していた、という刷り込みがあるから、つい複数形にしてしまったのだろう。
それに対してマルコ自身は、前の段落でイエスが弟子たちと一緒に登場するとしても、次の段落では、とりあえず、イエスのことしか考えていないので、単数で書きはじめてしまうのだろう。
ヨハネ1:44によれば、シモンとアンドレアスは、ベツサイダの出身である。
この物語の場面であるカペルナウムとはヨルダン川を渡った対岸に位置する町である。カペルナウムにシモンの家があったとすれば、シモンは結婚して妻の家の方に住んだということになろうか。
シモンが結婚していたことは、パウロも第一コリント9:5で指摘している。
しかしながら、「シモンとアンドレアスの家」(tEn oikian simOnos kai andreou)とあるので、結婚していたシモン家族の少なくても二世代とシモンの妻からすれば義理の兄弟となる夫の兄のアンドレアスと一緒に住んでいたことになる。
これはこれで、不自然であるが、正確なところは不明。
このシモンの姑の癒しに関する奇跡物語は、シモンの家で起きた出来事であることからして、シモン自身が語った経験談が伝承化されたものかもしれない。
マルコの「ヤコブとヨハネも一緒であった」という記述をマタイとルカは削除している。。
しかし、マタイではペテロたちの召命以降、「彼ら四人は直ちに舟と父親を捨てて、イエスに従った」(マタイ4:22)という設定なので、ヤコブとヨハネは山上の垂訓後もイエスと常に行動を共にしていたというのだろう。
イエスは癩病人を癒し(マタイ8:1-)、カペルナウムで百卒長の子の麻痺を癒し、ペテロの家に行く。
マタイとしては、ペテロたち四人は、姑の癒しの場面でもイエスと一緒にいた、というつもりなのだろう。
ルカでは、まだ弟子たちは誰も召命されていない。
ルカにおけるペテロたちの召命は5:1-11で生じる。
ルカは、前段で汚れた「悪魔の霊に憑かれた人を癒した物語」を取り上げているが、それが33「会堂」での出来事という設定である。
この段を「会堂から立ち上がって」(anastas de ek synagOgEs)という男性形単数の動詞で始めている。
前節が、不人称的三人称単数形の動詞であるから、ギリシャ語文法的にはイエスという主語が欲しいところである。
主語の交代を示すdeという小辞詞が置かれているが、主語は明記していない。
全体としてルカは、「イエス」という名前をはっきり明示することが少ない。
この段と次の段の38-44節では、一度も出て来ない
福音書全体でも、マルコ81回、マタイ150回、ルカ89回。
文書の長さを考えると、ルカはマルコの倍ぐらい使われていてもよいはずである。
ルカが、前節から主語の交代があるにもかかわらず、イエスの名前を明記しない事象は、特に段落のはじめに目立つ。
それも、後になればなるほど多くなる。
ルカとしては、主人公がイエスであることは分かっているのだから、わざわざ明示する必要もないというつもりか、とは田川先生の註解。
マルコでは、「シモンとアンドレアスの家」であるが、マタイは、「ペテロの家」としている。
ルカは「シモンの家」。
マタイとルカは「アンドレアス」を削除している。
マタイにおいて「ペテロ」は、教会の礎となる重要な人物であるから、初めから「シモン」ではなく、「シモン・ペテロ」として登場する。
「熱を出して」と訳されている語は、一語の動詞(puressO)。
直訳は「熱とある」「熱につかれる」という趣旨。
「熱」(pura)というものが彼女にとりついていたのだが、イエスが「手を取って、起こす」と「熱」は彼女を「離れ」、回復した、とある。
つまり、「熱」がほとんど擬人化され、悪霊や汚れた霊のように、人にとりつくと「熱」を発症し、「熱」が離れると回復する、という構図。
NWTだけでなく口語訳等も「熱病にかかって」、「熱が引いた」と訳している。
現代の病気罹患と病気治癒がなされたかのように訳してしまうと、イエスの処置によって「熱が下がった」のだと現代的に解釈してしまい、「熱」という症状のもとが去っていったという原文のニュアンスは伝わらない。
原文のイメージは、痛い患部に手を当てて、「痛いの、痛いの、飛んで行け!」「飛んでった!」という感じ。
面白いのは、マルコの段階では、イエスが直接「手を取って」から、「起こす」という行動を相手に直接的に関与することによって、「癒し」という奇跡行動が成就する。
回復の証拠として「彼らに仕える」あるいは「彼らをもてなした」という結びを付けるのは、本当に病気から治ったことの証拠を示そうとする表現で、奇跡物語の常套句。
マタイの段階になると、実際に「手を取ったり、起こしたり」しなくても、「手に触る」だけで、癒しが完成されている。「起こす」のはイエスではなく、彼女自らが自分で「起き上がった」とされている。
マルコでは、シモンがイエスに「告げた」ので、癒しが行われる。
マタイになると、イエスが「観た」だけで、癒しを開始する。
イエスの聖人化と神格化が進んでいる。
マルコでは奇跡成就の証拠として、「彼らに仕える」(diEkonei autois)のであるが、マタイでは、「彼に仕えた」(diEkonei autO)と、イエス一人に仕えた、としている。
マタイにとっては弟子たちというその他大勢に仕える必要はないのだろう。
教祖であるイエス様にお仕えするのが、奇跡受益者の責務なのであろう。
マルコでは、まだまだイエス物語であるが、マタイにおいては教祖様物語となっている。
ルカの段階になると、奇跡物語が更に盛られていく。
もはや、イエスは相手に触れなくも、「熱を叱りつける」だけで、「即座に」(parachrEma)、病気を癒す権能を持つように超人化させている。
マルコの「熱とある」(pyressousa)という一語の動詞を、ルカは「ひどい熱を患っていた」(En synechomenE puretO megalO)(直訳は「大きな熱とともに来ている」)と、「大きな」(megalO)という形容詞を付加し、重病化させている。
イエスの病気治癒に関する奇跡的能力も向上している。
マルコでは、シモンが姑のことをイエスに「告げる」(legousin)だけで,癒しが行われる。
ルカでは、イエスに「告げる」だけでは十分ではないらしく、丁寧に「イエスにお願いする」(erOtEsan auton)する必要があるようである。
マタイ以上にイエスの聖人化と神格化が進んでいる。
癒された後も、マルコでは、熱が離れると、「彼女は彼らに仕える」のであるが、ルカでは「即座に」(parachrEma)、「彼らに仕える」ことができるようになったようである。
ルカにおけるシモンの姑は、マルコ以上に重病であるにもかかわらず、イエス様に丁寧に「お願い」し、お言葉をいただくだけで、治療行為は完遂し、さっきまで高熱で床に伏せっていたにもかかわらず、「即座に」立ち上がれるほど、健康体に回復するようである。
ルカは、マタイのように。「彼に仕えた」(diEkonei autO)とするのではなく、マルコと同じく「彼らに仕えた」(diEkonei autois)とあるので、マルコを写しながら、イエスの神格化を進めて行っていることが理解できる。
NWTのルカでは「人々が彼女のためにお願いしたので」と訳している.
原文の「彼女のことをお願いした」(ErOtEsan auton peri autEs)の直訳は「彼に彼女のことをお願いした」。
「お願いした」(ErOtEsan)は三人称複数形の動詞であり、「人々が」という主語があるわけではない。
厳密に言えば、「彼女のことを」(peri autEs)も、「彼女について」お願いしたのであり、「彼女のために」とは書かれていない。
NWTのイエスは、神格化と教組の聖者信仰が原文以上に強化されている。
短い伝承であるが、それぞれの福音書著者が、イエス伝承をどのように消化しているのか、違いが見えておもしろい。