マルコ1:12-13 <荒野の試練> 参照マタイ4:1-11、ルカ4:1-13

 

マルコ1

12そしてすぐに、霊が彼を荒野にほうり出す13そして四十日の間荒野に居て、サタンによって試みられたそして野獣とともにいた。そして天使たちが彼に仕えた。

 

マタイ4

1その時イエスは、悪魔に試みられるために、霊によって荒野へと連れて行かれた2そして、四十日四十夜断食し、その後飢えた。3そして試みる者進み出て、彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、この石ころがパンになるように命じてみろ」4彼は答えて言った人間はパンだけで生きるわけではない神の口から出るすべての言葉によって生きる、と書いてある」。5その時、悪魔は彼を聖なる町へと連れて行き、神殿のに立たせた6そして彼に言う、「もしもお前が神の子であるなら、この下に身を投げてみろ。(神は)汝のために天使たちに命令する、すると、天使たちはその手で汝を支え、汝の足が石に打ちつけられないようにするだろう、と書いてある」7彼は悪魔に言った、「主なる汝の神を試みてはならないとも書いてある」。8また悪魔は彼を非常に高い山に連れて行くそして世界のすべての国々とその栄光を見せ、9彼に言った、「お前がひれふして俺を拝んだら、これを全部やるよ」。10その時イエスは悪魔に言う、「サタンよ、退け。主なる汝の神を拝みただ神のみを礼拝せよ、と書いてある。11その時悪魔は彼を去り、見よ、天使たちが進み出て彼に仕えるのであった。

 

ルカ4

イエスは聖霊に満ちてヨルダン(川)からもどって来た。そして霊において荒野の中を導かれ四十日の間悪魔によって試みられた。そしてその間何も食べなかった。そしてこの日々が終わると、飢えた。そこで悪魔が彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、この石ころに、パンになるように、と言ってみろ」。イエスは悪魔に対して答えた、「人間はパンだけで生きているわけではない、と書いてある」また悪魔は彼を上の方へと連れて行き、一瞬の間に世界の国々を見せて、言った、「この国々に対する支配権をみんな、それにその栄光も、お前にやろうか。これは俺にまかされているんだから、俺がやりたい奴にやることができる。もしもお前が俺の前で拝んだら、これはみんなお前のものになるぞ」。そこでイエスは答えて彼に言った、「主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ、と書いてある」。そこで悪魔は彼をエルサレムに連れて行き、神殿のてっぺんに立たせた。そして彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、ここから下に身を投げてみろ。(神は)汝のために天使たちに、汝を守るようにと命令し、11そうすると、天使たちはその手で汝を支え、汝の足が石に打ちつけられないようにするだろう、と書いてある」12そしてイエスは答えて悪魔に言った、「主なる汝の神を試みてはならない、と言われている」。13そして悪魔は一切の試みを終えて、時が来るまで彼から離れた。

 

 

 

マルコでは、イエスが「サタン」に試みられたとあるだけで、彼らの間に律法論議は登場しない。

マルコにおける「誘惑物語」は、一応前半の導入文と後半の結びに分けられるが、全文が導入文のようなもので、次の「福音の宣言」の項に引き渡す、繋ぎの文となっている。

 

マタイとルカでは、「悪魔」がイエスを三度誘惑する。

ただし、マタイとルカでは、第二の誘惑と第三の順番が逆になっている。

 

ヨハネに、悪魔による誘惑話は出て来ない。

 

マルコ1

12そしてすぐに霊が彼を荒野にほうり出す13そして四十日の間荒野に居て、サタンによって試みられたそして野獣とともにいた。そして天使たちが彼に仕えた。

 

マタイ4

1その時イエスは、悪魔に試みられるために、霊によって荒野へと連れて行かれた2そして、四十日四十夜断食し、その後飢えた。3そして試みる者進み出て、彼に言った…

11その時悪魔は彼を去り、見よ、天使たちが進み出て彼に仕えるのであった。

 

ルカ4

イエスは聖霊に満ちてヨルダン(川)からもどって来た。そして霊において荒野の中を導かれ四十日の間悪魔によって試みられた。そしてその間何も食べなかった。そしてこの日々が終わると、飢えた。そこで悪魔が彼に言った・・・

13そして悪魔は一切の試みを終えて、時が来るまで彼から離れた

 

 

マルコの「そしてすぐに」(kai euthys)は、前段の「イエスの洗礼」の項にも出て来るが、マルコの口癖。

「すぐに」とあるが、「○○をしてすぐに」という意味ではなく、単に、新しい文を始めるという程度の軽い意味。

マルコに24回、マタイには0、ルカには1回だけ。

 

マルコでは、「霊が彼を荒野にほうり出す」(to pneuma auton ekballei eis tEn erEmon)。

「ほうり出す」(ekballei)の原義は、接頭語ek(外に)+ballo(投げる)。

「追い出す」「ほうり出す」という趣旨のかなりきつい意味の他動詞を能動で使っている。

「霊」が強引にイエスを荒野にほうり出した、という感じ。

マルコでは「サタンによって試みられた」(peirazomenos hypo tou satana)とあるが、この「霊」が、「イエスの霊」、「神の霊」、「サタンの霊」かは、はっきりしない。

 

 

マタイの書き出しは、「その時」(tote)。マタイはこの語を軽い接続詞として用い、厳密な意味での「その時」という意味ではなく、つい言ってしまう口癖のようなもの。

マタイに90回、そのうち23回は段落のはじめに。段落の途中で主語を変えるような場合にも使っている。

マルコは6回、ルカに15回、ヨハネに9回。すべて文字通り「その時に」という意味で使っている。

 

マタイは、「霊によって荒野へと連れて行かれた」(anEchthE eis tEn erEmon hypo tou pneumatos)。

「連れて行かれた」(anEchthE)は、anagOの受身形。原義はana(=up)+ago(=lead)で、「導く」「連れて行く」の受身形だから、イエス自身の意思で、荒野へと行ったわけではない。

 

つまり、この「霊」はイエスの「霊」ではなく、「神の霊」か「悪魔の霊」かのどちらかとなる。

 

「神の子」であるイエスが「悪魔の霊」に導かれるはずはないので、「神の霊」であると考えるなら、神は意図的にイエスが「悪魔の霊」に導かれるようにさせた、ということになる。

 

「サタンの霊」であるとしたら、「神の子」であるイエスは、洗礼を受け「聖霊」を受けたにもかかわらず、「サタンの霊」に支配され得る、より弱い「霊」しか持っていないことになる。

 

マタイとしては、主なるキリスト様をいきなりほうり出すなど失礼なことだと思い、マルコの「ほうり出された」(ekballei)を「連れて行かれた」(anEchthE)と別の丁寧な意味の語に変えてくれただけであろう。

 

 

ルカは、「イエスの洗礼」の項で、イエスがヨハネから洗礼を受けたことを明言したくなかったのだろう。マルコの「ヨルダンでヨハネから」という句を削除している。

その代わり、「荒野の誘惑」の導入文として、「イエスは聖霊に満ちてヨルダン(川)からもどって来た。そして…」という文を付加した。

 

ルカが「…もどって来た。そして…」という表現で繋いでいるのは、マルコの「そしてすぐ」という表現を、口癖とは思わずに、文字通りに「そして、その後すぐに」という意味に解したからであろう。

 

ルカは、「霊において荒野の中を導かれ」(egeto en tO pneumatic eis tEn erEmon)。

「導かれ」(egeto)は、「導く」(ago)の受身形で、マタイの「連れて行かれた」(anagoの受身)の接頭語anaを外したもの。

「霊に満ちた状態のままで、荒野へと連れて行かれた」という趣旨。

ルカには、その前にイエスは「聖霊に満ちて」(pneumatos hagiou plErEs)とあるので、イエスを荒野へと連れて行った「霊」とは「聖霊」=「神の霊」ということなる。

 

 

マルコでは、四十日の間荒野に居て、サタンにより試みられる。その期間中、野獣とともにいるが、天使たちが彼に仕えていた、とある。

つまり、天使たちがイエスに仕えていたので、四十日の間、サタンにより試みられたが、イエスが野獣に害されることはなかった、ということになる。

 

 

マタイでは、四十日四十夜断食をして、飢えた後、「悪魔」が三度の誘惑を開始する。

マタイの「四十日四十夜」は「断食」というユダヤ教律法の慣習の励行を擁護する意図が見える。

マタイは「試みる者」(ho peirazOn)としているが、ルカは同じ個所を「悪魔」(ho diabolos)としている。

ルカは一貫して「悪魔」という語を使用しているし、マタイも他のルカに対する箇所では「悪魔」としている。

 

つまり、マタイとルカの共通資料(Q資料)には、「悪魔」とあったのを、マタイがこの個所だけ「試みる者」に変えたのだろう。

おそらく、マルコに「サタンによって試みられた」(peirazomenos hypo tou satana)とあるで、「試みる」(peirazO)の分詞に定冠詞を付けて、「試みる者」(ho peirazOn)とし、マルコとQ資料を合成したのだろう。

 

「試みる者」とは「悪魔」を指していることは明らかであるが、マタイでは「悪魔」がキリスト様を試みる際にも「進み出て」(proselthOn)から、近づかなければならないようである。

この「進み出て」(proselthOn)はルカの並行個所には付いていない。

つまりQ資料に由来する表現ではなく、マタイによる付加。

 

 

ルカでは、霊において荒野の中を導かれ、四十日の間悪魔によって試みられている。

つまり、ルカのイエスは、四十日間、霊において荒野の中をあちこちに導かれ、悪魔によって試みられたことになる。

その間、何も食べなかったので、飢えていたが、荒野の彷徨が終了した後に、悪魔が誘惑する。

 

ルカの「四十日の間」は、「霊において荒野の中を導かれる」ことと結び付けられており、「モーセにおける荒野の彷徨」を想起させる。

 

 

マルコは「サタン」、マタイ・ルカは「悪魔」であるが、「荒野で四十日間、サタン(悪魔)によって試みられる」ことや「霊によって荒野に連れて行かれる」ことは三者に共通している。

 

「四十日間」、断食をして、その後、飢えた、というのもおかしな話であるが、その後悪魔が三度の誘惑するというマタイとルカの構成も共通している。

 

イエスが荒野で野獣とともに居るというシーンはマルコだけに登場する。

 

マルコとマタイには、結びで「天使たち」が登場するが、マルコの「天使たち」は、サタンの試みの間、イエスに仕えていたとしている。

 

マタイの「天使たち」は、マルコとは異なり、悪魔の誘惑時にはイエスに仕えておらず、三度の誘惑に首尾よく勝利した後、結びの句で11「天使たちがみ出て彼に仕えるのであった」としている。

マタイでは、「天使たち」でさえキリスト様であるイエスに仕える時には、「進み出て」近づかなければならないようである。マルコ以上にイエスの神格化が進んでいる。

 

ルカにおける「悪魔の誘惑」の場面には、天使たちは登場しない。

荒野の誘惑中も誘惑後も、天使たちがイエスに仕えたという記述はない。

「悪魔」も、結びの句で13「そして悪魔は一切の試みを終えて、時が来るまで彼から離れた」とあるだけ。

ルカでは、悪魔がイエスから離れるのは「時が来るまで」の一時的な期間に過ぎず、「時が来る」と、再びイエスを試みることになる。

 

マタイとルカには、悪魔による三度の誘惑が試みられる。

 

第一の誘惑は、断食後の飢えを覚えているイエスにサタンは、石をパンに変えて、空腹を満たすよう誘惑する。

 

マタイ4

3そして試みる者が進み出て、彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、この石ころがパンになるように命じてみろ」4彼は答えて言った人間はパンだけで生きるわけではない神の口から出るすべての言葉によって生きる、と書いてある」。

 

ルカ4

そこで悪魔が彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、この石ころに、パンになるように、と言ってみろ」。イエスは悪魔に対して答えた、「人間はパンだけで生きているわけではないと書いてある」。

 

 

イエスが「神の子」ではなく、「石」を「パン」に変える奇跡的能力が備わっていないなら、「試み」にも「誘惑」にもならない。イエスが「神の子」であり「キリスト」であることを前提とした上で、奇跡を引き起こす能力を有し、なおかつイエスを聖人君主であることに仕立てようとしているとしている伝承である。

 

「人間はパンだけで……」という有名なイエスの言葉は、七十人訳申命記8:3の引用であり、語順まで一致している。

ヘブライ語本文では後半の「神の口から出るすべての言葉」は「神の口から出るすべてのもの」で、「言葉」という語は出て来ない。

 

ルカには、マタイ後半の「神の口から出るすべての言葉…」という句はない。

マタイの付加か、ルカの削除か、という問題になるが、Q資料にあったのであれば、ルカが削る理由はない。

おそらく、マタイによる付加であろう。

 

とすれば、マタイは七十人訳だけに依存しており、ヘブライ語本文を読んではいないことになる。

第二、第三の誘惑に対するイエスの返答も七十人訳とぴったり一致しており、ルカとも一致している。

つまりQ資料の段階で、七十人訳を引用した誘惑物語が伝承されていたことになる。

 

 

マタイの第二、ルカでは第三となるが、悪魔は「神の子なら、神が助けるはずだから、神殿から身投げしろ」と誘惑する。

 

マタイ4

5その時、悪魔は彼を聖なる町へと連れて行き、神殿のに立たせた。6そして彼に言う、「もしもお前が神の子であるなら、この下に身を投げてみろ。(神は)汝のために天使たちに命令する、すると、天使たちはその手で汝を支え、汝の足が石に打ちつけられないようにするだろう、と書いてある」7彼は悪魔に言った、「主なる汝の神を試みてはならないとも書いてある」。

 

ルカ4

そこで悪魔は彼をエルサレムに連れて行き、神殿のてっぺんに立たせた。そして彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、こから下に身を投げてみろ。10(神は)汝のために天使たちに、汝を守るようにと命令し、11そうすると、天使たちはその手で汝を支え、汝の足が石に打ちつけられないようにするだろう、と書いてある」12そしてイエスは答えて悪魔に言った、「主なる汝の神を試みてはならない、と言われている」。

 

 

マタイは「聖なる町」(tEn hagion polin)、ルカは「エルサレム」としている。

エルサレムを定冠詞付きで「聖なる町」と呼ぶのは、エルサレムがユダヤ教の聖地であり、ユダヤ教の神を意識している表現である。

マタイが、ユダヤ人意識の非常に強い人間であることを示している。

マタイは、27:53でもエルサレムを「聖なる町」(tEn hagion polin)と呼んでいる。

 

悪魔の「身を投げろ」(bale seauton)の直訳は、「自分自身を投げろ」。

 

悪魔の誘惑の言葉「(神は)汝のために天使たちに命令する……」は七十人訳詩篇90(91):11-12の引用。詩篇11節の後半を省略しているが、これも七十人訳とぴったり一致している。ただし11節前半に続く「すると」(kai)は七十人訳にはない。

ルカにも「すると」(kai)は付いているので、Q資料の作者が最初から入れていたもの。

 

イエスの返答「主なる汝の神を試みてはならない」は、七十人訳申命記6:16の引用。これも七十人訳とぴったり一致している。

 

旧約律法の質問に旧約律法で答えるスタイルは、ラビ的問答の型であり、律法学者の手法。

Q資料の創作物語にユダヤ教律法学者出身のユダヤ人キリスト信者たちの関与があったのは間違いない。

 

 

マタイの第三、ルカでは第二とされているが、悪魔は「自分を崇拝するなら、世界の支配権と栄光を与える」と誘惑する。

 

マタイ4

8また悪魔は彼を非常に高い山に連れて行く。そして世界のすべての国々とその栄光を見せ、9彼に言った、「お前がひれふして俺を拝んだら、これを全部やるよ」。10その時イエスは悪魔に言う、サタンよ、退け。主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよと書いてある。

 

ルカ4

また悪魔は彼を上の方へと連れて行き、一瞬の間に世界の国々を見せて、言った、「この国々に対する支配権をみんな、それにその栄光も、お前にやろうか。これは俺にまかされているんだから、俺がやりたい奴にやることができる。もしもお前が俺の前で拝んだら、これはみんなお前のものになるぞ」。そこでイエスは答えて彼に言った、「主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ、と書いてある」。

 

 

マタイとルカでは、趣旨は同じであるが、御妙に言い回しが違っている。

ルカの方が、奇跡物語として、より生々しく、より現実的である。

 

マタイでは、「非常に高い山に」(eis oros hypsElon lian)連れて行き、世界のすべての国々とその栄光とを見せる。

ルカでは、「上の方へと」(eis oros hypsElon)連れて行き、「一瞬の間に」(en stigma chronou)世界の国々を見せる。

 

イエスの返答「主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ」は、七十人訳申命記6:13の引用。

しかし、ここは通常の七十人訳の代表であるB写本とは異なり、「恐れ」(phobetheis)ではなく、「拝み」(latreuseis)、「神」(autO)ではなく「神のみ」(autO monO)となっており、七十人訳A写本と一致している。

マタイとルカもまったく一致しており、Q資料における誘惑物語の作者は、七十人訳でもA写本を資料として創作したことが理解できる。

 

 

マタイとルカでは第二と第三の誘惑の順番が逆であるが、どちらがもともとの順番であったのかは不明。

ただ、三回の誘惑問答が一つのまとまった物語として完成していたものと思われる。

 

 

 

 

マタイの順番とルカの順番のどちら誘惑がより効果的か、マズロー的解釈から考察したことがある。

 

聖書研究とは無関係なコラムであるが、過去記事は、短期間の掲載で削除していたようである。

 

その一部を最後に「付録」として載せておく。

 

閑話休題。

 

 

それぞれの結びの句も三者三様である。

 

マルコ1

13そして四十日の間荒野に居て、サタンによって試みられたそして野獣とともにいた。そして天使たちが彼に仕えた。

 

マタイ4

10その時イエスは悪魔に言う、「サタンよ、退け。主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ、と書いてある。11その時悪魔は彼を去り、見よ、天使たちが進み出て彼に仕えるのであった。

 

ルカ4

12そしてイエスは答えて悪魔に言った、「主なる汝の神を試みてはならない、と言われている」。13そして悪魔は一切の試みを終えて、時が来るまで彼から離れた。

 

 

マルコは、イエスが野獣と共にいて、天使たちが仕えている姿で誘惑物語を終えている。

マタイは、悪魔の誘惑を退けた時、悪魔が去り、天使たちが仕えている姿で結んでいる。

ルカは、イエスが悪魔の誘惑を退けると、一切の試みを終えて、時が来るまで離れた、と結んでいる。

 

 

誘惑物語において、マルコは「サタン」(satana)という語を用いている。

マタイとルカは、一貫して「悪魔」(diablos)としている。

この「悪魔」(diabolos)という表現はQ資料にあったものだろう。

マルコは「悪魔」という語を用いない。(マタイ6回、ルカ5回)

パウロも「悪魔」という語は用いていない。

 

「サタン」という語は、新約後期のマタイに属する語ではなく、新約前期のマルコやパウロに属する表現である。

 

「悪魔」という表現は、疑似パウロ書簡、公同書簡、黙示録などにも登場し、新約後期に属する文書に出て来る特色である。

 

ただし、誘惑物語においてマタイは一度だけ「サタン」(satana)という語を用いている。

 

悪魔(ho diabolos)に対して、イエスが4:10「サタンよ、退け」(hypage satana)と申命記を引用する前に、檄を飛ばす。

 

ルカに、この句は付いておらず、申命記の引用だけである。

つまりQ資料にはなかった句である。

 

マタイの句にある「サタンよ。退け」(hypage satana)という言い方は、マルコ8:33でイエスがペテロに発した「私の後ろにひっこんでいろサタンよ」(hypage opisO mou satana)と同じような言い方である。

「私の後ろに」(opisO mou)を削れば、まったく同じである。

 

マタイは、結びの句で、「その時悪魔が彼を去り……」と誘惑物語をまとめている。

悪魔を去らせる良い言葉として、マルコ8:33のイエスの言い方が頭にあり、「サタンよ、退け」という命令文を付加したのかもしれない。

 

とすれば、マタイはマルコがペテロを厳しく批判するためにイエスに「サタン」と言わせていることを十分承知していながら、意図的にペテロを擁護しようとして、マルコ8:27-33の並行(マタイ16:16-23)を創作したことになる。

 

 

マルコには、サタンとイエスの問答が出て来ない。

それで、もともとはQ資料のような長い物語だったのであるが、マルコは筋書きだけにしたものという説が出て来る。

 

WTでは、「悪魔の誘惑」伝承だけでなく、マルコ福音書は「キリスト教の音信」のダイジェスト版という扱いである。

*** 塔82 4/15 28ページ マルコ,活動に満ちた福音書の筆記者 ***

キリスト教の音信のいわばダイジェスト版をお望みですか。そのような方は聖書を開いて,「マルコによる書」をお読みください。

 

しかし「悪魔の誘惑」にしても、短いがマルコにはQ資料には出て来ない要素がいくつか登場する。

内容上Q資料と共通しているのは、イエスがサタンに荒野で誘惑された、という話の骨格だけである。

「野獣とともにいた」という話はQ資料にはない。

荒野で「天使たちがイエスに仕えていた」という話はマタイとは明らかに矛盾している。

ルカに「天使たち」は登場しない。

 

Q資料における荒野でのイエスは、天使たちの保護を拒否し、たった一人でサタンの誘惑に立ち向かう孤高の「キリスト」、「神の子」というイメージである。

 

それに対し、マルコの荒野でのイエスは、「野獣や天使たちと共に平和に過ごしている」というイメージである。

 

マルコには、イエスとサタンとの旧約議論がないので、「誘惑」のイメージが希薄である。

それで、田川訳では、マルコには「荒野の試練」、マタイとルカを「荒野の誘惑」、という副題を付けたのだろう。

 

 

マタイやルカの誘惑物語における「荒野」は、サタンとの戦いが行われる淋しく恐い場所、というイメージが一般にある。

 

しかし、ユダヤ教後期やキリスト教最初期では、終末論的メシア待望信仰と荒野は強く結び付けられていたようである。

 

二世紀初頭のラビ・アキバは「メシアはイスラエル人を荒野に連れて行く」という言葉を残している。

 

「ユダヤ戦記」や「古代誌」でおなじみの一世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスは、ネロの時代にローマ独立運動のメシア的指導者が何人も「神の霊感を受けたと装って革命的な変革をつくりだそうとし、大衆を説き伏せて神がかりのようにさせて荒野に連れ出した。荒野で神が彼らに解放のしるしを示してくださる、というのである」と伝えている。(「ユダヤ戦記」2:259)

 

正典以外は参考資料に過ぎず、正典と矛盾する思想は「聖書的な真実」ではないと判断する純粋な聖書無謬信仰の方のために、新約からの証拠も二つ取り上げておく。

 

使徒行伝21:38では、パウロが「荒野に連れ出した」反ローマ主義のメシア的指導者と勘違いされたことが書かれている

 

「終わりの日」の預言の一部とされているマタイ24:26では、偽キリストや偽預言者が、メシアが「荒野にいる」と言われても、ついて行くな、と警告されている。

 

「荒野」にメシアや預言者がいるのは、当然のことであり、当時の常識的な信仰だったことが理解できる。

 

洗礼者ヨハネも荒野の預言者である。

ユダヤ人の間では洗礼者ヨハネがキリストではないかと考えられていた(ルカ3:15)としている。

 

しかしながら、ヨハネ自身が、自分は「キリストの先駆者」に過ぎないと否定している。

実際の洗礼者ヨハネは「キリストの先駆者」ではなく、「神の先駆者」として活動していたものと思われる。

 

マルコにおける洗礼者ヨハネの「駱駝の毛を着て、皮の帯を腰のまわりにしめ、蝗と野蜜を食べていた」という様子は、いかにも荒野の預言者の風貌である。

 

つまり、イエスの時代の「荒野」とは、決して悪い場所ではなく、「神に近い場所」であり、「神的存在と出会う」場所なのである。

 

終末のイスラエルが、野獣によって危害が加えられるのではなく、むしろ「野獣とともにいて、天使たちに守られている」というマルコの構図は、旧約文書にも見られる。

JWが大好きなイザヤが描くメシアによる楽園の支配(11:5-9)とも一致する。

 

「十二族長の遺言」ナフタリ8:4では終末時にイスラエルに救いが生じる時には「悪魔は汝らから逃げ出し、獣は汝らを恐れ、天使が汝らの仲間となろう」とある。

 

マルコにおける荒野のイエスと調和しているだけでなく、Q資料の原型も見ることもできる。

 

マルコは「サタンによって試みられた」と記しておきながら、その内容には触れない。

しかし、Q資料には無い情報を提供している。

 

とすれば、マルコが原資料とした伝承にも、おそらくQ資料のようなサタンとイエスの問答が記録されていたのかもしれない。

ただし、原資料にあったとしても、イエスをラビ的キリスト化しているQ資料とは異なる伝承だったのかもしれない。

 

Q資料のイエスと悪魔の律法論議には奇跡信仰やラビ的問答に見られるような説教話の教訓的要素が含まれている。

 

マルコはそれらの奇跡話やラビ的説教に賛成できなかったのか、興味がなかったのか。

いずれにしても福音書に登場させる必要はないと判断したので、単に「試みられた」という出来事を指摘するだけにとどめている。

 

マルコにとって、実際のイエスと、サタンと律法論議をするQ資料のような姿のイエスとは調和しなかったのであろう。

 

 

マルコは、「サタンの試み」を指摘するだけにとどめ、イエスが「荒野」に「野獣」や「天使」たちとともにいた、という表象を描き、何を示したかったのか。

 

「荒野」の表象は、一種のパラダイスの実現であり、終末の時に実現する「至福の状態」をイエスが持っていたことを示していた。

 

古今東西の偉人や聖人は、断固誘惑を拒否する超然とした人物でなければならない。

人間的な欲望に屈してしまうのでは、偉人はともかく、聖人の資格はないとされるのが常識である。

誘惑にさらされるメシアや神の子という姿は、葛藤する人間的な姿であり、マルコのイエスのイメージにはそぐわなかったのかもしれない。

 

マルコが「サタンの試み」を指摘するだけにとどめたのは、あらゆる聖者や偉人物語に共通する誘惑克服者としてのイエスを登場させたかっただけなのだろうか。

 

マルコでは、「洗礼者ヨハネの活動」から始まり、「イエスの洗礼」に続き、「荒野の誘惑」を経て、本格的に「イエスの宣教活動」へと入っていく。

 

これからイエスの宣教活動が始まる序曲として、「荒野」という「神に近い場所」で「神的存在に出会い」、誘惑を克服した聖者の中の聖者として、活動を開始する。

 

その序曲の舞台が、「荒野」であり、そこで「野獣」や「天使たち」とともにいて、平和な状態を享受している。

そしていよいよ、イエスの宣教活動の幕が上がるのである。

 

「荒野」とは、神的存在に出会う、神に近い場所である。一種の理想郷、パラダイスの象徴である。

洗礼者ヨハネは、荒野の預言者であり、人々をその理想郷に導く存在である。

 

イエスはそのヨハネの洗礼を受け、ヨハネの捕縛後、ヨハネが導いた「荒野」を出て、人々の間で奇跡的治療者、救済者として活動する姿がマルコのイエスである。

 

マルコのイエスは、荒野の預言者ではなく、人々の間の預言者、メシアである。

マルコは、「ユダヤ教信仰における理想郷に導くメシア」という姿ではなく、「人々の間で民衆と共に生きるメシア」という姿を描きたかったのではなかろうか。

 

マタイが描く説教壇の上からの偉大な律法教師としてのキリストという姿は、エルサレム教会に属するペテロ派(使徒派)などのユダヤ教的キリスト教団が作り上げたイエス像であろう。

 

マルコの描くイエスは、社会の中で支配者に搾取されながらも懸命に生きる農民や季節労働者、病人や障害者、生活困窮者を救う民衆とともにいるイエス・キリストである。

支配者や権力者と闘うイエス・キリストである。

 

ペテロ派やパウロ派が創り上げたQ資料に登場するような超然としたイエス像や説教壇にいる権力者然としたイエス像とはなじまないように思う。

マルコが原資料からイエスとサタンの問答を削除した理由はそのあたりあるのかもしれない。

 

マルコにおいては、ここまでが序曲、イエス・キリスト物語のオープニングである。

これから本格的なイエス・キリスト物語の幕が上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

付録

<マズローの欲求段階説から考察する悪魔の三度の誘惑

マタイ4:1‐11、ルカ4:1‐12

 

マズローの欲求段階説の骨子は、下位の欲求が満たされると、より上位の欲求に向かい、たえず自己実現に向かって成長するという考え方です。

逆に、下位の欲求が満たされないと、より上位の欲求には向かわず、自己実現や自己超越には向かわず、段階を飛ばして、より上位の欲求を満たそうとしても、下位の欲求が上位の欲求の実現を無意識に阻害する、ということにもなります。

1940年代に提唱された理論ですが、現在でも、ビジネスだけでなく、種々の依存症や嗜癖や認知の歪みの分析や認知療法に活用されることもあります。

 

 

大きく、「欠乏欲求」と「成長欲求」に分けられ、欠乏欲求には四段階、成長欲求は二段階に分けられます。

下から、「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」までを「欠乏欲求」に分類し、「自己実現欲求」と「自己超越」を「成長欲求」に分類します。

通常、「生理的欲求」から「自己実現欲求」までの五段階をマズローの欲求段階説と呼ばれます。

人間のもっとも高度な欲求は、個人を越えて、人類、社会のために貢献したいと願う欲求であり、利他的な愛を動機とする欲求であるとされています。

 

 

 

アメブロにも、コメントを頂いた読者の方からか、ご要望があったので、「サタンの誘惑(マズロー的考察)」と題して、投稿したと思います。

ただし田川訳からの聖書研究の本質からは外れるので、短い期間で削除しました。

 

 

その時の原稿がPCに残っていましたので、一部を貼りつけておきます。

 

30代後半か40代前半かに、いくつかの会衆の公開講演でも使ったネタですが、洗脳時代の黒歴史の遺物の一つです。

 

読み返してみると、聖書の信頼性を高め、神の言葉として信仰するように話を展開させていく構成にしていたことに気付かされます。

 

元ネタが、公開講演の筋書き原稿ですから、当然と言えば当然なのですが…(笑)

 

 

 

 

 

 

このサタンの誘惑物語は、マルコには登場せず、Q資料に由来する物語です。

サタンは、イエスに三つの誘惑をしかけますが、二番目と三番目の誘惑がマタイとルカでは逆です。

 

第一の誘惑は、40日40夜断食の後、「石をパンに変えるように。神の子ならできるはずだから」というものです。

マタイの第二の誘惑は、神殿の城壁の上に立たせ「身を投じなさい。神はみ使いを送り、あなたを助けるから」というものです。ルカでは、これが三番目の誘惑となります。

マタイの三番目のものは、この世界のすべての栄光を見せ、「サタンを崇拝するなら、この世の国々とその栄光を全部上げるというものです」。ルカでは、二番目の誘惑となっていますが、マタイとは表現が少し異なり、「国々に対する支配権とその栄光をあげる。それは俺に任されているから、俺の望む者に与えることができるから」となっています。

 

これを、マズローの欲求段階説の視点から、考えてみましょう。

第一の誘惑は、「石をパンに」というもので、空腹時における、食べ物を誘惑材料にしています。第一段階の基本的な欲求である、生存に必要な、「生理的欲求」をサタンは誘惑材料にしたことになります。もちろん「あなたが神の子であるなら」という条件を付けていますので、社会的欲求や承認欲求を絡めて誘惑していますが、直接的には、生存欲求を刺激しています。

 

マタイにおける二番目は、「身を投じても、神はあなたを助けるから」というものです。ルカには「あなたが神の子なら」という条件が付けられていますが、マタイにはありません。マタイでは、「聖書に助けると書いてあるから」という条件が提示されています。

マタイの記述からすれば、「安全欲求」が満たされる、絶好の機会なる誘惑であった、と考えられます。しかし、ルカの方では、「あなたが神の子であるなら」という条件がありますから、「安全欲求」に「承認欲求」を満たせる誘惑になったと考えられます。

 

マタイにおける三番目の誘惑は、崇拝に関係したものとなっていますが、「王国と栄光を上げる」というものです。これは、「社会的欲求」と「承認欲求」を刺激する誘惑です。ルカの方では、やはり「あなたが神の子であるなら」という条件がつけられていますが、誘惑そのものはマタイと同じく「社会的欲求」と「承認欲求」を刺激するものです。

 

 

第二の誘惑と第三の誘惑がマタイとルカでは順番が逆になっていますが、どちらが元々の順番だったのは分かりません。しかし、論理的に考慮すると、物語の順番としては、ルカが正解だろうと思われます。

 

第一の誘惑は、人間の「生存欲求」の第一である食欲に関するものです。失敗したので、権力欲、名誉欲という「社会的、承認欲求」を刺激して、崇拝行為を要求し、誘惑します。それにも失敗したので、より高次の欲求である存在意義の根底にある「承認欲求」を刺激して、自己実現を達成するように誘惑したのでしょう。そして城壁から飛び降りるように誘惑します。

悪魔がルカの第一(生理的欲求の誘惑)、第二の誘惑(社会的、承認欲求の誘惑)に成功したとしても、イエスに関する神の目的を阻害することになるかもしれませんが、イエスの存在を闇に葬ることとはなりません。しかし、もし、悪魔が最後の誘惑に成功すれば、イエスを殺すことに成功することになります。

 

マタイの順での誘惑であるとすれば、第二の誘惑(安全欲求の誘惑)が成功した時点で、イエスは神からの使命を果たさず死ぬことになります。そうすると第三の誘惑(社会的、承認欲求の誘惑)は行なわれず、イエスの使命は崇拝の問題とは無関係のものとなります。マタイの記述は、はじめから、第二誘惑(安全欲求の誘惑)が失敗することを前提として書かれていることになります。

 

おそらくマタイは、ユダヤ教の成就としてのキリスト教の成立という観点で書いていますから、ユダヤ教の神がキリスト教の神に継承されていることを重視しているため、崇拝問題の誘惑を最後に置いたのだと思われます。

 

ルカは、贖い=人間の救済という宗教観で書いていますから、イエスの生死を重要視しています。そのため、死の危険のある存在意義を左右する承認欲求の誘惑を最後に置いたのでしょう。

 

 

面白いのは、ルカの三つの誘惑には、すべて「あなたが神の子であるなら」という条件が付けられていることです。つまり「イエスが神の子である」ということを刺激する「自己実現欲求」を誘惑の条件として提示していることです。

サタンの誘惑が失敗したのは、イエスの自己実現の達成動機が「神の子」にあるのではなく、「贖いとなりメシアとなる」ことにあったからではないかと思われます。

 

ルカの福音書は、すべての誘惑を拒絶し、これから、イエスが神の子・メシアとなるべく、贖いとなるために進んで行く、という構図をとっています。そして最後に「父よ、汝の御手にわが霊をゆだねます」と言って、自己実現が完成したことを示唆して、息を引き取ります。ヨハネ福音書は、ルカのメシア論を引き継ぎ「成し遂げられた」と言って息を引き取った、としています。

 

 

 

 

 

以上が、昔分析したサタンの誘惑に関するマズロー的考察です。

 

 

 

お恥ずかしい…