マルコ1:2-8 <洗礼者ヨハネ> 並行マタイ3:1-6,11-12、ルカ3:1-6,15-17。
マルコ1 (田川訳)
2預言者イザヤに、「見よ、我、わが使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう。3荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ、と」。2と書いてあるように、4洗礼者ヨハネが荒野に居て、そして罪の赦しにいたる悔改めの洗礼を宣べ伝えていた。5そして彼のもとに全ユダヤ地方と、エルサレム人もみな出て来て、自分の罪を告白し、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた。6そしてヨハネは駱駝の毛を着て、皮の帯を腰のまわりにしめ、蝗と野蜜を食べていた。7そして宣ベ伝えて、言った、「私の後から私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。8私はあなた方に水で洗礼をほどこしたが、その方はあなた方に聖霊で洗礼をほどこすであろう」。
マタイ3
1その頃、洗礼者ヨハネがやって来て、ユダヤの荒野で宣べ伝えて、2言う、「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」。3この者こそ預言者イザヤによって、「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ、と」と言われていた者である。4ヨハネ自身はらくだの毛から(つくった)衣を着、革の帯を腰のまわりにしめ、食べ物は蝗と野蜜であった。5その時、エルサレムと全ユダヤと、ヨルダンのあたりの全地域が、彼のもとに出て来て、6自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7多くのパリサイ派やサドカイ派の者たちが彼の洗礼のために来るのを見て、ヨハネは彼らに言った、「蝮の裔よ、誰があなたたちに未来の怒りから逃れるようにと教えたのか。8それなら悔改めにふさわしい実を結ぶがよい。9そして、自分たちはアブラハムを父祖として持っている、などと自分たちの中で言おうと思うな。何故なら、あなた達に言う、神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになるのだ。10すでに斧が木々の根元に置かれている。良い実を結ばない木はすべて切られ、火の中に投げ入れられるであろう。
11私はあなた達が悔い改めるようにと水にて洗礼をほどこしたが、私より後からおいでになる方は私より力があり、私はその履物を脱がしてさしあげるほどの資格もない。その方は、あなた達に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。12その手には箕がある。そして脱穀場を掃き清め、自分の麦を集めて倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き捨てるのである」。
ルカ3
1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの代官であった頃、そしてヘロデがガリラヤ四分領主で、その弟のフィリポスがイトゥライアとトラコニティス地方の四分領主で、リュサニアスがアピレーネー地方の四分領主だった時、2またアンナスとカヤパが大祭司だった時に。
神の言葉が荒野でゼカリヤの子ヨハネにあった。3そしてヨルダンのあたりの全地域へと行って、罪の赦しにいたる悔改めの洗礼を宣べ伝えた。4預言者イザヤの言葉の書物に書いてあるように、「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。5あらゆる窪地は埋められ、あらゆる山と丘は低められる。そして曲がったところは真っ直ぐになり、悪路は平たんな道になる。6そしてすべての肉が神の救いの賜物を見るであろう」、と。
7それで、彼から洗礼を受けようとして出て来た群衆に対して、言った、「蝮の裔よ、誰があなた達に未来の怒りから逃れるようにと教えたのか。8それなら悔い改めにふさわしい実を結ぶがよい。そして、自分たちはアブラハムを父祖として持っている、などと心の中で言いはじめるな。何故なら、あなた達に言う、神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになるからだ。9すでに斧も木々の根元に置かれている。良い実を結ばない木はすべて切られて、火の中に投げ入れられるであろう」。
10そして群衆は彼にたずねて言った、「では私たちは何をしたらいいのでしょうか」。11答えて彼らに言った、「下着を二枚持っている者は、持っていない者に分け与えるがよい。また食べ物を持っている者も同様にせよ」。12また収税人も洗礼を受けるために来て、彼に対し言った、「先生、私たちは何をしたらいいのでしょうか」。13彼らに対して言った、「自分に定められていること以上に取り立ててはならぬ」。14兵士たちもまた彼にたずねて言った、「では私たちは何をしたらいいのでしょうか」。そして彼らには言った、「いかなるものも強請ってはならぬ。また不当に告発してはならぬ。自分の俸給で満足するがよい」。
15民は待望しており、また多くの者が心の中でヨハネについて論じて、もしかして彼こそがキリストではないのか、と言っていたので、 16ヨハネが皆に答えて言った、「私はあなた達に水で洗礼をほどこすが、私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をほどくほどの資格もない。その方はあなた方に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。17その手には箕があり、脱穀場を掃き清め、麦を集めて自分の倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き捨てるのである」。
18こうして、ほかにも多くのことを呼びかけて、民に福音を伝えた。
ヨハネ1
6人がいた。神のもとから派遣されたのである。名前をヨハネという。7この者は証言のために来た。光について証言するため、すべての者が彼によって信じるためである。8かの者が光であったのではない。光について証言するためだったのだ。
マルコは、洗礼者ヨハネの登場を旧約預言の成就とする記述から、「イエス・キリストの福音」を始めている。
マタイは、「イエスの創成の書」として1-2章で、イエスからアブラハムに遡る系図とイエスの誕生物語を置き、洗礼者ヨハネの登場はその後となる。
ルカは、冒頭の書き出しを「我々の間で成就した事柄」として、1-2章にマタイとは異なるイエスの誕生物語とイエスの神童物語を置き、洗礼者ヨハネの登場は、3章になってからである。
ヨハネにおける「洗礼者ヨハネ」に関する最初の言及は、「ロゴス讃歌」(1:1-18)の中の6-8に登場する。
マルコとマタイには、洗礼者ヨハネの登場における具体的な日付がわかる直接的な情報を与えてはいないが、ルカには年号がわかる具体的な記述がある。
マルコ1
2預言者イザヤに、「見よ、我、わが使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう。3荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ、と」。2と書いてあるように、4洗礼者ヨハネが荒野に居て、そして罪の赦しにいたる悔改めの洗礼を宣べ伝えていた。5そして彼のもとに全ユダヤ地方と、エルサレム人もみな出て来て、自分の罪を告白し、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた。6そしてヨハネは駱駝の毛を着て、皮の帯を腰のまわりにしめ、蝗と野蜜を食べていた。
7そして宣ベ伝えて、言った、「私の後から私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。8私はあなた方に水で洗礼をほどこしたが、その方はあなた方に聖霊で洗礼をほどこすであろう」。
マタイ3
1その頃、洗礼者ヨハネがやって来て、ユダヤの荒野で宣べ伝えて、2言う、「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」。3この者こそ預言者イザヤによって、「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ、と」と言われていた者である。4ヨハネ自身はらくだの毛から(つくった)衣を着、革の帯を腰のまわりにしめ、食べ物は蝗と野蜜であった。5その時、エルサレムと全ユダヤと、ヨルダンのあたりの全地域が、彼のもとに出て来て、6自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ルカ3
1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの代官であった頃、そしてヘロデがガリラヤ四分領主で、その弟のフィリポスがイトゥライアとトラコニティス地方の四分領主で、リュサニアスがアピレーネー地方の四分領主だった時、2またアンナスとカヤパが大祭司だった時に。
神の言葉が荒野でゼカリヤの子ヨハネにあった。3そしてヨルダンのあたりの全地域へと行って、罪の赦しにいたる悔改めの洗礼を宣べ伝えた。4預言者イザヤの言葉の書物に書いてあるように、「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。5あらゆる窪地は埋められ、あらゆる山と丘は低められる。そして曲がったところは真っ直ぐになり、悪路は平たんな道になる。6そしてすべての肉が神の救いの賜物を見るであろう」、と。
マルコは「と書いてあるように」(kathOs gegraptai)という句を文頭におき、洗礼者ヨハネの活動を伝えている。
マタイの文頭は、直前に「イエスの家族が「ナザレと呼ばれる町に住みついた」ことを伝えた後、「その頃に」(en de tais hEmerais)という句で始まっている。
二語目のdeは主語の交代を示す小辞詞で、直訳は、「それらの日々に」。
ルカは、洗礼者ヨハネの登場に先立ち、年代特定可能なユダヤ人を支配する者たちを登場させている。
ルカ3:1-2aは、三章全体に対する序文となっている。
ルカ1:1-4が福音書と使徒行伝に対する全体の序文であるのと同じ意図で付けたのであろう。
当時の書物において、このような序文は「歴史書」(historia)につけるものである。
ルカとしてはこれからキリストであるイエスに関する歴史が始まるよ、というつもりなのであろう。
「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」とする年代は、洗礼者ヨハネの活動の前におかれているので、ヨハネの登場の年を記そうとしていると解説しているものもある。
しかし、ルカは「洗礼者ヨハネ」伝承に関しても、10「もしかして彼こそがキリストではないか」と多くの者が言っていたという伝承を取り上げている。
ルカとしては、ヨハネについての話だけでなく、キリストであるイエスの活動年代を正確に記そうとしているのだろう。
ルカは、ヨハネが洗礼活動を始めて、すぐにイエスが洗礼を受け、イエスの活動が始まった、と考えている。(使徒1:22参照)
マルコの「預言者イザヤに」(en tO Esaia tO prophEtE)という言い方に対し、マタイは「預言者イザヤによって」(dia Esaiou tou prophEtou)という言い方。
ルカは「預言者イザヤの言葉の書物に」(en biblO logOn Esaiou tou prophEtou)。
マルコは与格支配の前置詞en=inを使い、マタイは属格支配dia=throughという異なる前置詞を使っているので、それに伴い格変化しているだけ。
ユダヤ人や旧約が背景にある人は、旧約の預言者の書物を指す時に、いちいち「預言者○○の書物」という言い方はせず、単に「預言者○○」という言い方をするのが普通。
「預言者」を付けずに預言者の名前だけで「○○が言っている」とか「○○に書いてある」という言い方もする。
異邦人のルカは単に「預言者イザヤ」と名前を言うだけでは、正確ではないと思ったのか、丁寧に「預言者イザヤが言っている書物の中に」という言い方に訂正してくれている。
ちなみに「預言者」(prophEtEs)とは、ご存知のように、ユダヤ人ギリシャ語やヘブライ語では、必ずしも未来のことを予測して言う者という意味ではなく、神から預かった言葉を伝える者、という意味が基本にある。
両者の区別は曖昧であるが、旧約、ユダヤ教に関するかぎり「予言者」ではなく「預言者」と表記するのが普通。
つまり旧約からの引用文での「我」あるいは「主」とは「神」を指すことになる。
マルコには、「預言者イザヤに……」と書いてあるように、洗礼者ヨハネが、宣ベ伝えていた、とある。
とすれば、「預言者イザヤに書いてあること」は、洗礼者ヨハネに自身に成就するものとし、ヨハネ教団によって宣ベ伝えられていたものだった、という可能性がある。
しかしながら、ヨハネ自身は自身が7「力ある者」(ho ischyroteros)であることは否定している。
マルコは2「我、我が使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう」という旧約からの引用をイザヤからのものとしているが、実際には最初の句が出エジプト23:20で、次の句がマラキ3:1。
イザヤからの引用(40:3)は、後半の3「荒野に呼ばわるものの声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」という句だけである。
混成引用となる前半とイザヤの引用となる後半とが、二行並行のユダヤ文学詩文を意識して構成されており、二行同義の詩文となる。
旧約からの引用の「我」とは「神」であり、「我が使者」とは、「洗礼者ヨハネ」を指すと読める。
とすれば、「汝の道を整える」ことになる「この者」も、当然洗礼者ヨハネを指していることになる。
一行目のマルコが旧約の混成引用している「「汝の前」の「汝」とは「ユダヤ人」を指し、「汝の道」とは「ユダヤ人の道」であり、「道筋」とは「ユダヤ人の道筋」ということになる。
二行同義と読むと、二行目のイザヤ40:3の「荒野に呼ばわるものの声」も、洗礼者ヨハネの「声」であり、「主の道」とはユダヤ人の前に置かれる「神の道」を指し、「まっすぐにすべき道筋」もユダヤ人のために備えられる「神の道筋」を指すことになる。
「我」=「神」が「我が使者」を遣わすのであるから、到来する「我が使者」とは、=「神的存在」、もしくは「超人間的存在」であり、「人間」が到来するわけではない。
「主の道」とあることからすると、ユダヤ人は、「神」もしくは「超人間的な神的存在」が、直接ユダヤ人の前に顕現し、「神の道」を備え、「ユダヤ人の道筋」を整え、「まっすぐにする」、すなわち「ユダヤ人を救済する」預言として信じていたのだろう。
マルコは「洗礼者ヨハネが荒野に居て、そして罪の赦しにいたる悔改めの洗礼を宣ベ伝えていた」とし、それを預言者イザヤの成就としている。
とすれば、「荒野に呼ばわるものの声」は当然、洗礼者ヨハネの声であり、「その道筋をまっすぐにせよ」という「悔い改めの洗礼」を「汝」であるユダヤ人に宣ベ伝えていたことになる。
実際、洗礼者ヨハネのもとに「全ユダヤ地方と、エルサレム人もみな出て来て、自分の罪を告白し、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた」出来事を旧約の預言成就としている。
洗礼者ヨハネにとって、イザヤ書の「主の道」とは、「神の道」を指すのであるから、ヨハネは、「神」もしくは「神的存在」として到来するユダヤ教における終末的「メシア」が顕現する道を整え、その道筋をまっすぐにするための「先駆者」ということになる。
洗礼者ヨハネ自身も、自分自身が「メシア」ではなく、到来する「神」もしくは「神的存在」の「先駆者」と自覚していたのだろう。
しかしながら、キリスト教においては、洗礼者ヨハネが、「神の使者」であるという解釈は変わらないものの、「我、我が使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう」というイザヤとされている混成引用の「汝」を「ユダヤ人」ではなく、将来「キリスト」となる「イエス」と解釈し、神は「イエスの前」に、「先駆者となる洗礼者ヨハネ」を遣わすと解釈されている。
そして、後半のイザヤ書の「主の道」とは、「神の道」ではなく、「イエスの道」を指し、「荒野に呼ばわる者の声」である「洗礼者ヨハネ」は、「イエスの道」を備え、「キリスト教への道筋」をまっすぐにするものだ、と解釈されている。
マタイもルカも、神が「神の使者」である「洗礼者ヨハネ」を遣わし、洗礼者ヨハネが「メシアなるキリスト・イエス」の道を整えた、と解釈している。
マルコでも、洗礼者ヨハネが受浸者に宣ベ伝えたとする7「私の後から私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。8私はあなた方に水で洗礼をほどこしたが、その方はあなた方に聖霊で洗礼を施すであろう」という言葉は、「我、我が使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう」という言葉をイエスに成就させようとする意図のもとに適用されている。
マルコの「洗礼者ヨハネ」伝承は、「洗礼者ヨハネ」が「神の道」を整える「神」もしくは「神的存在」の「先駆者」として活動する「洗礼者ヨハネ教団」と、洗礼者ヨハネは、「イエスの道」を整える「先駆者」に過ぎないとする「キリスト教団」との二重構造となっている。
それ以外にも、洗礼者ヨハネ自身は否定しているが、「洗礼者ヨハネ」を「メシア」と考える集団の存在も示唆している。
実際ルカは、「洗礼者ヨハネ」を「メシア」と考えている集団がいたことを認めている。
とすれば、洗礼活動はヨハネから始まったのであり、イザヤの預言も、もともとは洗礼者ヨハネ教団によって洗礼者ヨハネに適用され、宣ベ伝えられ、旧約預言の成就と解釈されていた。
それを、キリスト教団が拝借し、イエスに適用させ、洗礼者ヨハネを「イエスの先駆者」として解釈し直し、キリスト教団によって宣ベ伝えられていたと考えられるのである。
マタイは、マルコの前半にある「見よ、我、我が使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう」という混成引用の句を削除している。
その代わり「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」(metanoeite Eggiken gar hE basileia tOn ouranOn)という洗礼者ヨハネの第一声で宣教を始めさせている。
その後にマルコの後半部分のイザヤ40:3引用を置き、洗礼者ヨハネへの成就としている。
マタイでは、洗礼者ヨハネの宣教宣言と、イエスの宣教宣言とは、まったく同じ言葉で始められている。
洗礼者ヨハネの「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」(3:3)という宣言は、イエスの宣教宣言4:17「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」(metanoeite Eggiken gar hE basileia tOn ouranOn)とまったく同じである。
マルコはイエスの宣教を1:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音において信ぜよ」(peplE ho kairos kai Eggiken hE basileia tou theou metanoeite kai pisteuete en tO euaggelio)という言葉で始めたとしている。
マタイはマルコにおけるイエスの宣教宣言の中から、「神の国は近づいた。悔い改めよ」(Eggiken hE basileia tou theou metanoite)という言葉だけを抜き出し、「悔い改めよ。天の国は近づいたのだから」(metanoeite Eggiken gar hE basileia tOn ouranOn)としたのである。
マタイは、「神」という語を発音しないユダヤ教の慣習に従がって、マルコの「神」を「天」に言い換えた。
さらに、マルコが「神の国が近づいた」と「悔い改めよ」という句を並列に置いているだけなのに、マタイは「神の国が近づいた」ことを、ユダヤ人たちが「悔い改める」べき理由としたのである。
ただし、イエスが語るマルコの「神の国」とマタイの「天の国」とは同じものを指しているわけではない。
マルコでは、イエスが洗礼を受けるに際し、イエス自身に旧約の来たるべきメシアとする意識はなく、単にヨハネから洗礼を受けるために、ナザレから出て来るだけである。
「国」(basileia)は「支配する」(basileuO)という動詞の抽象名詞であり、「神の国」(hE basileia tou theou)とは、あくまでも「神が行なう支配」が行き渡る状態を指している。
「支配者」(hE basileia)はあくまでも「神」(tou theou)である。
しかし、マタイには、イエス自身がいずれキリストとして「天の国」を到来させるという意識が初めからある。
マタイにおけるイザヤ預言の成就には、初めから洗礼者ヨハネがやがてキリストとなるイエスの宣教に備えて、先駆者として登場したという前提で解釈されている。
ルカはマルコのイザヤ40:3「荒野に呼ばわるものの声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」の引用に続けて、続く40:4-5も付加して、引用としている。
七十人訳からの引用である。ただし七十人訳の「平野」を「平坦な道」に書き変えている。
「悪路」を修理するのであるから、「平野」になるのではなく「平坦な道」になるはずだと考えたのだろう。
その代わり、ルカもマタイと同じくマルコの前半の混成引用を削除している。
ルカはマルコがイザヤの引用している七十人訳を、自分で調べて、イザヤ書にはないことがわかったのであろう。
調べたついでに、40:3に続く節も関係しているとして付加することにしたと思われる。
ルカでは、イザヤからの引用をマルコと同じく洗礼者ヨハネに成就した預言として扱っている。
マタイもルカも、マルコの後半部分に移る前に、マルコにはない洗礼者ヨハネの「蝮の裔」に対する裁きの予告を付加している。
マタイ3
7多くのパリサイ派やサドカイ派の者たちが彼の洗礼のために来るのを見て、ヨハネは彼らに言った、「蝮の裔よ、誰があなたたちに未来の怒りから逃れるようにと教えたのか。8それなら悔改めにふさわしい実を結ぶがよい。9そして、自分たちはアブラハムを父祖として持っている、などと自分たちの中で言おうと思うな。何故なら、あなた達に言う、神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになるのだ。10すでに斧が木々の根元に置かれている。良い実を結ばない木はすべて切られ、火の中に投げ入れられるであろう。
ルカ3
7それで、彼から洗礼を受けようとして出て来た群衆に対して、言った、「蝮の裔よ、誰があなた達に未来の怒りから逃れるようにと教えたのか。8それなら悔い改めにふさわしい実を結ぶがよい。そして、自分たちはアブラハムを父祖として持っている、などと心の中で言いはじめるな。何故なら、あなた達に言う、神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになるからだ。9すでに斧も木々の根元に置かれている。良い実を結ばない木はすべて切られて、火の中に投げ入れられるであろう」。
マタイは「多くのパリサイ派と多くのサドカイ派の者たち」を「蝮の裔」として、悔い改めるべきヨハネの洗礼の対象としている
ルカは、「群衆」をその対象としているが、洗礼者ヨハネが彼らに対して語った裁きの言葉は、二人ともほぼ完全に一致している。
マタイとルカの違いは、伝承での違いではなく、導入句での違いであり、マタイとルカの宗教観の違いを示すものでもある。
マタイはキリスト教に敵対する対象を「パリサイ派」と「サドカイ派」しており、ルカはその対象を「群衆」に設定しているのである。
マタイもルカもが共に洗礼者ヨハネの言葉として語っている。
マタイとルカの元伝承に、洗礼者ヨハネの言葉として書かれていたものかもしれない。
言葉だけのロギアが並べられていただけで、マタイとルカがそれぞれに洗礼者ヨハネの言葉として設定したものが、偶然一致した可能性も一応ある。
元資料が洗礼者ヨハネの言葉としていた可能性が高いが、誰を対象にして「蝮の裔」と呼んだのかは不明である。
洗礼者ヨハネの宣教対象は旧約における「汝」であるから、ユダヤ人であるとしても、「蝮の裔」とは、宗教指導者層や王たち支配者層か、一般大衆をも含むのかはっきりしない。
マタイの時代におけるキリスト教の主要な論的は「パリサイ派」であり、「サドカイ派」は復活を否定するユダヤ教の一派である。
キリスト教はイエスの復活を基盤として成立するものであるから、マタイは彼らを「蝮の裔」とし、悔い改めるべき対象にしたのであり、ルカは「群衆」をその対象にしたのである。
ルカにおける「群衆」はイエスを理解しない「烏合の衆」である。
ルカのキリスト教において、イエス以外はみな「罪人」であり、ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、キリスト教に転向しない「悔い改めない罪人」は、みな「蝮の裔」なのであろう。
この個所のマタイとルカは共に、共通する資料(いわゆるQ資料)を元に書き写している。
「Q資料」とは、一冊のまとまった文書資料があったことを示しているのではなく、マルコには出て来ない文で、マタイとルカにのみ一致している文のことを総称する表現である。
マタイとルカに共通する箇所の実態が良く分からないので、Qという記号で呼んだものがその名前となったもの。
ドイツ語の「資料」(Quelle)という単語の頭文字を取って、「Q資料」と読んでいるだけで、一部分は同じであるが、別の部分では趣旨は同じでもかなりの相違がある箇所もある。
すべてが文書資料なのか、一部は口伝伝承なのか、すべてがギリシャ語で書きおろされたのか、アラム語の伝承がギリシャ語に訳されたものか、そもそもマタイが見ていたQ資料とルカが見ていたQ資料が同じものであったのか、異なるものだったのかさえも、実ははっきりしない。
「Q資料」をイエスの発言だけを集めた「イエス語録」と解説するものもあるが、根拠のない学説の一つ。
自説の定義に当てはまるものだけを集めて「Q資料」と称しているだけである。
実際この個所では、マタイもルカも洗礼者ヨハネの発言としている。
マタイもルカも、「神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになる」(dynatai ho Theos ek tOn lithOn toutOn egeirai tekna tO abraam)というQ資料の伝承を取り上げている。
なぜ、「石」と「子孫」とを対比させた格言が語られたのか。
両者の間にどのような関係があるのか。
この句をギリシャ語からアラム語(あるいはヘブライ語)に翻訳してみると、あるいは翻訳し戻してみると、言った方が良いかもしれないが、その関連があきらかになる。
アラム語の「子」は「バーン」であり、複数形は「バーニム」であり、「子孫」という意味も持つ。
単数形の「石」は「エベン」で、複数形は「エバーニム」である。
洗礼者ヨハネは、アラム語で、神は「エバーニム」から「バーニム」を生ぜしめることがおできになる」と言っていたことになる。
「エバーニム」から「エ」を取り去れば「バーニム」になる。
神が言葉を発すれば、言葉通りに実現するとする言霊信仰からすれば、「石」から「子孫」を生じさせることは、創造者である神が「エ」を言葉にしなければ、実現することになる。
要するに、アラム語による語呂遊びの類である。
ギリシャ語で「石」の単数形は、lithosで複数形は、lithOn。「子」の単数形は、teknonで複数形が「子孫」の意味も持ち、teknaとなる。
ギリシャ語では、アラム語のような語呂遊びが成立しない。
マタイにもルカにも、ギリシャ語の複数形で「石」(lithOn)と「子孫」(tekna)とする写本以外存在しない。
つまり、Q資料の時点で、「石」(lithOn)と「子孫」(tekna)とされていたと考えられる。
もし、洗礼者ヨハネがアラム語で語った言葉が、ギリシャ語に翻訳されたのであれば、「エバーニム」すなわちギリシャ語で「石」(lithOn)、「バーニム」すなわちギリシャ語で「子孫」(tekna)というような註が入っているはずである。
そうでなければ、なぜ神が「石」からアブラハムの「子孫」を生じさせることができるか、ギリシャ語を話す人間には理解できないことになる。
ほかの言語でも同様である。
アラム語・ヘブライ語でなければ理解できない駄洒落となっているのである。
つまり、最初はアラム語・ヘブライ語で書かれた洗礼者ヨハネの言葉であったのであるが、ギリシャ語で訳された時点で、アラム語の語呂遊びは成立しなくなっていたのである。
この、語呂合わせはアラム語からギリシャ語に、ギリシャ語から英語に移すことができなかった。もちろん日本語にも移すことはできない。
しかし、語られた言葉をそのまま記録すれば保存されたはずである。
もし、マタイ福音書が最初ヘブライ語で書かれ、その後ギリシャ語に翻訳されたのであれば、「エバーニム」、訳せばギリシャ語の「石」(lithOn)、「バーニム」訳せばギリシャ語の「子孫」(tekna)というような註解が入っていたはずである。
しかし、この種のヘブライ語に関する註解が入っているギリシャ語写本が存在しない。
ということは、この伝承は洗礼者ヨハネ集団にヘブライ語で伝わっていた伝承がギリシャ語に翻訳され、キリスト教に取り入れられたことを示すものであろう。
マタイが福音書を刊行する時には、すでにヘブライ語の語呂合わせのことは忘れられ、イエスの神の子信仰だけが独り歩きしていたことを示している。
決して、マタイ福音書がヘブライ語で発行されたことを示す証拠ではなく、むしろ最初からギリシャ語で書かれたことを示している伝承となっている。
マタイが歴史上最初に書かれた福音書であり、原文はヘブライ語で書かれていたと頑なに信じ込んでいるJWはこの事実をどのように説明するのだろうか。
*** 塔09 11/1 23ページ ヘブライ語やギリシャ語を学ぶ必要がありますか ***
マタイによる福音書は,使徒マタイによって元々ヘブライ語で書かれた,と考えられています。しかしそうだとしても,今日まで保存されてきたものは原文のギリシャ語訳です。それを翻訳したのはマタイ自身であった,と思われます。
ルカには、マルコにもマタイにも登場しない洗礼者ヨハネの問答が記されている。
ルカ3
10そして群衆は彼にたずねて言った、「では私たちは何をしたらいいのでしょうか」。11答えて彼らに言った、「下着を二枚持っている者は、持っていない者に分け与えるがよい。また食べ物を持っている者も同様にせよ」。12また収税人も洗礼を受けるために来て、彼に対し言った、「先生、私たちは何をしたらいいのでしょうか」。13彼らに対して言った、「自分に定められていること以上に取り立ててはならぬ」。14兵士たちもまた彼にたずねて言った、「では私たちは何をしたらいいのでしょうか」。そして彼らには言った、「いかなるものも強請ってはならぬ。また不当に告発してはならぬ。自分の俸給で満足するがよい」。
「群衆」・「収税人」・「兵士たち」が「洗礼者ヨハネ」に、「私たちは何をしたらいいのでしょうか」(ti poiEsomen)と尋ねるという設定である。
このイエスの説教話はマルコにもマタイにも登場しない。
どこかにイエスの言葉や新約の言葉としてありそうであるが、同じ言葉遣いの表現はどこにも出て来ない。
ほかには、単数形の動詞で使徒22:10「私は何をしたらいいのでしょうか」(ti poiEsO)に出て来るだけ。つまりルカ独自の文である。
洗礼者ヨハネの言葉とされているロギアの部分は、実際に洗礼者ヨハネが語ったものか、単なる倫理的な言葉の伝承としてルカに届いていたのか不明。
ルカは、7-9のQ資料の部分を「群衆」に適用したので、「群衆」嫌いのルカとしては、もう少し「群衆」に属する者たちに対する説教を付け足したくなったのだろう。
「収税人」と「兵士たち」は、「罪人」とみなされていた人の代表である。
「兵士たち」が「ローマ兵」を指すのであれば、洗礼者ヨハネのもとに洗礼を受けにくるとは考えられない。ユダヤ人の兵士を指すのであれば、ヘロデの宮殿兵士やエルサレムの神殿兵士を指すことになるが、彼らが洗礼を受けにきたとするも現実的ではない。
ルカに届いた「私たちは何をしたらよいでしょうか」(ti poiEsomen)という悔い改めを想起させる言葉を洗礼者ヨハネの説教として創作し、ここにはめ込んだものであろう。
独語の学者たちは、この個所のルカ資料を「身分説教」(Standespredigt)と呼んでいるそうである。
マルコにおける後半の洗礼者ヨハネの宣言は、キリストの到来の預言となっている。
マタイとルカも同様であるが、微妙に異なる表現となっている。
マルコ1
7そして宣ベ伝えて、言った、「私の後から私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。8私はあなた方に水で洗礼をほどこしたが、その方はあなた方に聖霊で洗礼をほどこすであろう」。
マタイ3
11私はあなた達が悔い改めるようにと水にて洗礼をほどこしたが、私より後からおいでになる方は私より力があり、私はその履物を脱がしてさしあげるほどの資格もない。その方は、あなた達に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。12その手には箕がある。そして脱穀場を掃き清め、自分の麦を集めて倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き捨てるのである」。
ルカ3
15民は待望しており、また多くの者が心の中でヨハネについて論じて、もしかして彼こそがキリストではないのか、と言っていたので、16ヨハネが皆に答えて言った、「私はあなた達に水で洗礼をほどこすが、私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をほどくほどの資格もない。その方はあなた方に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。17その手には箕があり、脱穀場を掃き清め、麦を集めて自分の倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き捨てるのである」。
18こうして、ほかにも多くのことを呼びかけて、民に福音を伝えた。
ヨハネ1
6人がいた。神のもとから派遣されたのである。名前をヨハネという。7この者は証言のために来た。光について証言するため、すべての者が彼によって信じるためである。8かの者が光であったのではない。光について証言するためだったのだ。
マルコにおける洗礼者ヨハネの言葉は、イエスがキリストとして登場することを予告するものであり、自身をキリストの先駆者として位置付けるものである。
マルコが冒頭でイザヤの預言としている「見よ、我、我が使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう」という混成引用をイエスの出来事に対する旧約の預言成就とする意図で適用されたものであろう。
繰り返すが、おそらくヨハネ教団では、「我が使者」とは洗礼者ヨハネを指し、神が洗礼者ヨハネを「神の使者」としてイスラエルの民の前に遣わす、という意味に解釈し、洗礼者ヨハネを「神」の先駆者として洗礼活動をしていたのであろう。
それをキリスト教団は、イエスをメシアとするために、「汝の前」を「イエスの前」と解釈し、神はユダヤ人をキリスト教の道に整えるために、「神の使者」である洗礼者ヨハネを「イエスの前」に遣わし、洗礼者ヨハネの洗礼を受けるようにさせた、と解釈し直したのであろう。
イエスもユダヤ人であるから、ヨハネ教団の解釈とキリスト教団の解釈は矛盾しないように感じるかもしれない。
しかしマタイは、マルコの一行目にあたる混成引用を削除し、二行同義の詩文の後半だけをイザヤの引用として、洗礼者ヨハネに成就した預言としている。
「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」という句の「荒野に呼ばわる者の声」とは、マルコと同じく「洗礼者ヨハネの声」を指している。
しかしながら、「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」というヨハネの宣言を最初においているので、イザヤの「その道筋をまっすぐにせよ」という言葉は、「悔い改めよ」という言葉に対応するものとなり、「主の道を備える」とは、「近づいている天の国」への道に備えるという意味となった。
その結果、「その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤの句は、「天の国への道筋のために悔い改めよ」という意味になり、「洗礼者ヨハネの洗礼を受け、イエスの天の国に備えよ」という意味になる。
マルコでは「主の道」とはユダヤ人の前に備えられた「神の道」であったのであるが、マタイの「主の道」とは「神の道」であると同時に「イエスの道」、つまり「イエスが備える天の国への道」という意味にもなることとなった。
マルコには、まだヨハネ教団とキリスト教団との確執があったことを、このイザヤの預言の成就とする個所の二重の適用から読み取ることができる。
しかし、マタイでは洗礼者ヨハネは、神の前に「主の道」を備える者となり、「神の先駆者」ではなく、「イエスの先駆者」として描かれている。
ルカでは洗礼者ヨハネを待望する「神」もしくは「神的存在」である「メシア」と考えている多くの「民」が存在していたことを認めている。
しかし、洗礼者ヨハネが「神」もしくは「神的存在」である「メシア」=「キリスト」であることを、ヨハネ自身が否定し、自分より力ある方が出ることを予告し、自分自身が「神」もしくは「メシア」の先駆者=「キリストの先駆者」であることを告白する。
マルコでは、「神の先駆者」である洗礼者ヨハネは、「あなた方に水で洗礼を施す」(baptisei humas hydati)が、「私より力ある方」=「神」もしくは「神的存在」となるメシア(キリスト)となるイエスは「あなた方に聖霊で洗礼を施す」(baptisei humas en pneumati hagiO)と予告する。
「あなた方」(humas)とは、「ヨハネから水の洗礼を受けた者たち」を指す。
マタイでは、洗礼者ヨハネは「あなた達が悔い改めるようにと水にて洗礼を施す」(humas baptize en hydati eis metanoian)が、イエスは、「あなた達に聖霊と火にて洗礼を施す」(autos humas baptisei en pneumati hagiO kai puri)と予告する。
「あなた達」(humas)とは、「多くのパリサイ派やサドカイの者たち」を指す。
マタイのイエスから洗礼を受ける者は、「聖霊」と「火」に二分され、「倉に入れられる自分の麦」と「殻」とに対比されている。
洗礼者ヨハネから水の洗礼を受けたユダヤ人キリスト信者は、「自分の麦」として「天の国」に集められ、ユダヤ人の「多くのパリサイ派やサドカイの者たち」は、「立派な実を生み出さない木」であり、「殻」であるから、「火」で滅ぼされるというのだろう。
ルカでは「群衆」(ocholos)に対して、マタイと同じ言葉が語られ、「良い実を結ばない木」として、「火」の中に投げ入れられる、としている。
ルカでは、洗礼者ヨハネは「あなた達に水で洗礼を施す」(hydati batizO humas)が、キリストは「あなた方に聖霊と火にて洗礼を施す」(autos humas baptisei en pneumati hagiO kai puri)、と予告する。
マルコが「聖霊」だけなのに対し、マタイもルカも「火」を加えて、「聖霊と火」としている。
「火」は、おそらくQ資料についていたのであろう。
ルカの「水」で洗礼をほどこされる「あなた達」(humas)とは15節の「民」(tou laou)を指す。
「聖霊と火」で洗礼を施される「あなた方」(humas)も15節の「民」(tou laou)を指すが、キリスト信者となるユダヤ人は「聖霊」で洗礼を施されるが、「火」で洗礼を施される者は滅びることになるので、「民」(laos)ではなく、「あなた方」(humas)としたのであろう。
ルカは「民」(laos)の使い方と「群衆」(ochlos)の使い方を明確に区別している。
10「蝮の裔よ」と罵倒する相手は「群衆」(ochloi)であるが、18「福音を伝える」相手は「民」(laon)である。
ヨハネ書における洗礼者ヨハネの最初の登場は比喩的な「光」について証言するために、「神のもとから派遣された」のであり、彼自身が「光」であったのではない、としている。
ヨハネの冒頭に出て来る「ロゴス」と「光」に関する散文詩の中で、洗礼者ヨハネが「ロゴス」あるいは「光」であるとは、主張されておらず、むしろ繰り返し否定しようとしている。
まるで、洗礼者ヨハネは、「ロゴスの先駆者」であり「光の先駆者」であることを執拗に必死で訴えているようにすら見える。
つまり、洗礼者ヨハネを「ロゴス」あるいは「光」として信奉する集団が存在しており、彼らとキリスト教団との間で対立関係にあったことが想像される。(ヨハネ1:19-51、3:22~参照)
ヨハネにおいて、洗礼者ヨハネをイザヤの預言と結び付ける記述は、「洗礼者ヨハネのイエスについての証言」の項(1:19-36)に登場する。
共感福音書の段階では、洗礼者ヨハネを「神の先駆者」もしくは「メシアの先駆者」としているが、必ずしもイエスの洗礼の段階でイエスを「神の子」と認定しているわけではない。
マルコはもちろん、マタイやルカでも、洗礼者ヨハネ自身がイエスを何者であるか判断できかねて迷っていたとする伝承を載せている。(マタイ11:2-3=ルカ7:18-19)
ところが、ヨハネでは、洗礼者ヨハネはイエスが「神の子」であると認識し、人々に告げていた、としている。(1:29-34)
ヨハネでは、洗礼者ヨハネ自身がイエスのことを「神の子」「神の子羊」「我々が待望していた者」だと繰り返し発言する場面が登場する。
つまり、ヨハネ福音書の原著者や教会的編集の周辺では、洗礼者ヨハネを「メシア」あるい「神の先駆者」として信奉する洗礼者ヨハネ教団を意識して活動していたということなのであろう。
福音書の冒頭から四者四様のキリスト教観が示されている。
キリスト教は黎明期となる最初から異なる多数のキリスト教が存在していたようである。