マルコ1:1 <表題> 並行マタイ1:1、ルカ1:1-4

 

マルコ1 (田川訳)

イエス・キリストの福音のはじめ

 

マタイ1 

イエス・キリスト、すなわちアブラハムの子ダヴィデの子の、成の書

 

ルカ1 

我々の間で成就した事柄について、最初からの目撃者であり、御言葉の仕え手となった者たちが我々に伝承したとおりに話を整えようと、多くの者が手をつけたのでありますが、私もまた、はじめから、すべてを、詳細に、追ってきておりますので、テオフィロ閣下よ、それをあなたのために順序よく書いてさしあげたく存じます。うすれば閣下もすでに学ばれた事柄について確かなことをお知りになることができましょう。

 

ヨハネ1

はじめにロゴスがあった。そしてロゴスは神のもとにあったのだ、ロゴスは。

 

 


「表題」と「福音」について

 

現在のほとんどすべての聖書には、各福音書の冒頭に「○○による福音書」「○○の福音書」「○○伝福音書」という「表題」が付けられている。

しかし、書かれた当時の原文には、現代の書籍のように「表題」となるタイトルのようなものは付いていなかった。

 

古代の出版物に、「表題」を付けるというような慣習はなく、特に書簡の場合には、実際に送られた書簡であるから、原文に表題などついていない。

パウロ書簡の場合は、二世紀半ばの正典化運動の始まりに伴い、書簡集がまとめられると、相互に区別する必要が生じ、「後書」(subscripto)として各文書の最後に置かれた。

 

福音書の場合、表題(inscriptio)は、後世の写本では、冒頭に記されていた。

旧約・新約の両方がそろった現存最古(四世紀)の最重要写本であるシナイ写本(א)とバチカン写本(B)では、単に「マルコによる」(kata Markon)としてある。

三世紀初めの大文字パピルス写本であるP46は初めの部分が欠落しており、どう書いてあったかわからない。

同時代のヨハネ福音書の写本であるP66は、「ヨハネによる福音書」という表題がつけられている。

つまり、三世紀前半には、すでに福音書には「~による」(kata ~)という表題を付けるのは一般化していたと思われる。

 

五世紀以降になると、大多数の写本(ADLWΘなど)が、「○○による」の冒頭に定冠詞付きで「福音」を加えて、「○○による福音」(to euangelion kata Markon)と記すようになっている。

 

しかし、「福音書」が書かれた頃は、まだイエスの伝記を記した書物を「福音」と呼ぶことはなかった。

「マルコ福音書」は、「イエス・キリストの福音のはじめ」(archE tou euaggeliou iEsou christou)という句で始まっている。

「イエス・キリストという良い知らせ」という意味で、euangelionという語を使ったのは、マルコが初めてであると思われる。

 

二世紀前半に、新約聖書正典化運動が始まっていたが、一つの福音書に書簡類を加えたもので構成されており、四福音書のすべてが正典として受け入れられてはいなかった。

ほかにもたくさんの使徒の名が冠された福音書や行伝と称する書物が読まれていた。

正統派キリスト教会によって、今日では「新約聖書外典」に分類されている。

正典化運動が始まる前は、自派の採用する福音書と他派の採用する「福音書」と区別するために、「○○による」という表題を付ける必要はなかったのである。

 

つまり、「○○による福音書」(kata ○○ )という表題は、四福音書正典論を前提とした表現である。

二世紀末ごろから、四つの福音書をもって正典とするという意見がエイレナイオスによって提唱されたものと思われる。

 

それ以前には、そのような考え方は見当たらない。

 

それ以後でも、四福音書正典論が、全キリスト教会の世論になるまでは、結構時間がかかっている。

一応の結論に達したのも、「異端」排除のために、いわゆる正統派キリスト教会が、政治的に結束した結果であって、思想の純粋性を求めた結果ではない。

 

「○○による福音」という呼称が確認できる現存する最古の文献はエイレナイオスの「異端論駁」3・11・8「ルカによる(福音)」である。

つまり、二世紀末以降のエイレナイオスの時代になって、ようやく、マルコの言い方に倣って、イエスの伝記を記した書物を「福音」と呼ぶことが定着しはじめたのである。

 

四福音書をすべて権威ある正典とみなす都合上、四福音書はいずれも「同一の福音」記述しており、矛盾はない、とする必要に迫られた。

それで、四福音書はそれぞれ四人の福音書筆者の手によるものであるが、「一つの福音」を四つの異なる視点から見たのであり、相互にいかなる矛盾もない、と主張したのである。

 

共観福音書を相互に比較検討していけば明らかになることであるが、これは事実と真実を無視した正典信仰にすぎない。

 

それでも、この四福音書正典論は、三世紀には急速にキリスト教全体に定着する。

その「正典信仰」を前提として、「マルコによる福音」「マタイによる~」「ルカによる~」「ヨハネによる~」という言い方が成立するのである。

つまり、「唯一の福音」がそれぞれ「マルコによる」「マタイによる」「ルカによる」「ヨハネによる」表現で書かれている、というのである。

 

この「~による」(kata 〜)という表現は、英語のaccording toに対応するものであり、byではない。それぞれの著者によって(by)書かれた著作、という意味ではなく、同一の「福音」のいわば異なった版がそれぞれマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの「仕方に応じて」(according to)伝えられた、という趣旨になる。

 

各「福音書」を「○○による福音書」と呼ぶことは、四福音書正典論の信仰者であり、聖書無謬説を信仰している、と宣言しているようなものである。

 

福音書に書かれていることを書かれているままに読むのではなく、聖書無謬説信仰に基づいて解釈し、その解釈が真実であり、聖書に書かれていると信じていることになる。

 

「マルコ福音書」は史上初めて書かれたイエスに関する伝記書物であり、他の三人の福音書の著者は、マルコ福音書に満足しなかったのか、もしくはイエスに関する異なる見解を主張するために発行したのであろう。

マルコのイエス像とは正反対のイエス像がしばしば描かれている。

マタイやルカの福音書は、マルコの「改訂版」というより、むしろ「改竄版」である。

ヨハネには、マルコとは異なる記述が散見される。

 

 

古代の書物においては、著者自身が自分で表題を付けるという習慣はなく、むしろ表題を付けないのが普通だった。

もしも表題らしきものを付けるとすれば、書物の冒頭の書きはじめの言葉が、表題にあたる。

 

マルコの場合は「イエス・キリストの福音のはじめ」(archE tou euaggeliou iEsou christou)という書き出しの句が一種の表題なのであろう。

 

冒頭の「はじめ」に定冠詞付き属格「福音」を置いた書き出しからすれば、マルコには「福音」(euangelion)と称されているものの本当の「始まり」はこうだった、という意識が働いているのだろう。

 

内容からしても、マルコとしては、巷で「福音」(euangelion)として流布されている「イエス・キリストの福音」は間違いであると考え、反論のために「イエス・キリストの福音」を書いたものと思われる。

 

 

マタイの冒頭には「福音」という語は登場せず、「イエス・キリストの創成の書」(biblos genEseos iesou christou)という句で始まる。

 

「創成の書」(biblos genEseos)という表現は、「genesisの書」ということであるが、genesisの語義もbiblosの語義も、マタイがどのような意味で用いようとしているのか、実ははっきりしない。

ティンダル=欽定訳の段階では、the book of the generationと訳していた。

 

その後、genesisは「系図」(genealogy)の意味だと解されるようになり、RSV(1946)では、the book of the genealogyと訳されている。

biblosの方はまだthe bookとしているが、NEB(1970)になるとa table of the descentとなり、TEV(1989)になるとthe list of the ancestorsとなる。

biblosは「書物、巻物」という意味であり、もちろんtableやlistなどという意味はない。

 

仏語でもルイ・スゴンの改定版(1975)以降、原文のbiblosを無視して単に「系図」(genealogie)、独訳共同訳(1978)も単に「系図」(Stammbaum)とされている。

和訳聖書では、ほぼ「系図と訳されているが、岩波訳「誕生の記録」、NWT・RNWT「歴史の書」。

 

マタイのこの句の後には、「系図」が続くのだから、問題ないと考えるかもしれないが、genesisという語は「生じる」という動詞と同根の名詞である。

あくまでも「生成、生じること、生じたもの」という意味であり、「系図」に当てはめるとしても、「その人物から生じたもの、生れた者たち」の趣旨となる。

語義からすれば、イエス・キリストから始まる子どもたち、子孫の系図とならなければならないはずである。

 

ところがマタイの「系図」は逆である。

イエスから先祖へと逆に遡る「系図」であり、イスラエル王国の王ダビデを経て、ユダヤ人の祖とされている「アブラハム」に辿り着く。

これを「イエスのgenesis」と呼ぶことはありえない。

 

NWT・RNWTの「歴史の書」は「系図」を言い換えたものだろう。

KI:genesisi=of originの字義訳をthe book of the historyと英訳しているが、originにhistoryの意味があろうはずもない。

 

biblosは新約では一貫して「書物、巻物」の意味であり、genesisという語は、旧約の「創世記」(genesis)と同じ表現である。

ユダヤ教徒もキリスト教徒も旧約の「創世記」をギリシャ語でgenesisと呼んでいた。

 

マタイとしては「旧約の創世記」(to genesis)に変わる、イエス・キリストの「新約の創世記」(to genesis)をこれから書きますよ、という意図を持っているのかもしれない。

 

マタイにとって、「イエス・キリストのゲネシス」とは「イエス・キリストから創世されたキリスト教というものの出発点の話」であり、「イエス・キリストに成就したユダヤ教に代わるキリスト教の創世記となる書物」というつもりなのであろう。

 

内容からしても、マタイはイエスに関する出来事を旧約の預言成就とする定型引用を11か所にも施している。

ほかの個所でも可能な限り、旧約と関連付けようとする意図が働いている。

 

 

ルカの場合は、1-4までの長い一文が、福音書と使徒行伝の二巻からなるルカ文書の序文となっている。

ギリシャ古典以来、「歴史書」(historie)に関しては、この種の序文を付けることが伝統として定着していた。

 

ルカの書き出しは、「多くの者が話を整えようとした我々の間で成就した事柄について」(epeidEper polloi wpecheirEsan anatachasthai diEgEsin peri tOn peplErphorEmenOn en hEmin pragpatOn)というもの。

「我々の間で成就した事柄」の歴史書、という体裁で、正体のわからない「テオフィロス閣下」に上呈する体裁で書かれている。

 

この「我々の間で成就した事柄」が何を意味するか、議論があるが、田川先生は「概論」に譲るとして、「訳と註」では触れられていない。

「概論」は執筆中との告知はあるが、まだ出版されていない。

 

ただ「我々の間で、話を整えようと多くの者が手を付けた」とあることからすれば、ルカの時代には、種々の異なるイエスに関する福音書が読まれており、種々の異なるキリスト教が信じられていたことは確かである。

ルカは自分が属する教会で信じられていたキリスト教を正統なキリスト教として位置づけようとして福音書を書くことにしたのであろう。

 

内容的にも、マタイ以上にイエスや使徒たちを神格化しており、キリスト信仰が進んでいることを示している。ルカ神学に沿ってマルコを解釈しようとしている箇所も多い。

ルカ神学に都合が悪いマルコの個所は削除したり、違う語に変えたり、別の創作物語を挿入したりして、マルコの記述を否定しようとする意識も強い。

 

WTは、歴史上最初に書かれた福音書は、「マタイによる福音書」である、と主張する。

しかし、マルコに「福音」という表現が冒頭に登場するからこそ、「福音書」という表題が誕生したのであろう。

 

冒頭を「創世の書」としているマタイが、マルコより先に「福音書」を書いたということは考えにくい。

マタイの冒頭に「福音」という言葉は登場しないし、マルコ以上にイエスの聖人化、神格化が施されている。

 

教組の神格化は時代と共に進むものであり、信者の間で教祖の聖人化が逆行することはありえない。

マルコを元にマタイが「改竄版」もしくは「神格化版」を書いたものと考えるのが自然である。

 

 

マルコは、なぜ「イエスの伝記」をeuangelionと表現したのだろうか。

 

「福音」=「良い音信」、「良いたより」を意味するだけなら、angelosの抽象名詞は、angeliaであるから、「良い」という形容詞を付け、kale angeliaとすれば表現できたはずである。

それをわざわざ、「良い」を意味する接頭語のeu-を付け、抽象名詞語尾の-iaではなく、-ionという指小辞を用いて、「一語」の単語とし、さらに「定冠詞」を付けている。

絶対用法でThe「良いたより」と言われても、漠然とし過ぎていて、意味が取り難い。

 

それまでのギリシャ語で、euangelionと言えば、「良い知らせをもたらした伝令に与えられるご褒美」という意味で使われるのが普通であった。

いわゆる「福音」という意味で使われることはなかったようである。

字義的には「良い知らせに対するちょっとしたもの」という趣旨であるから、当然と言えば当然である。

 

マルコは、ギリシャ語としては違和感のある使い方をしているにもかかわらず、イエスの伝記を指して、なぜ、わざわざ定冠詞を付けてまで、euangelionと表現したのだろうか。

 

マルコが福音書を書いた当時、主としてパウロ及びパウロ派キリスト信者が、「自派が伝えるキリスト信仰」の音信を指して、euangelion(福音)という語を用いていたようである。

 

パウロの真正七書簡でこの語は48回も用いられている。

パウロ系文書である疑似パウロ書簡と第一ペテロにも多少出て来る

 

福音書以外の非パウロ系文書であるヤコブ書、ヨハネ書簡、ユダ書、第二ペテロ、ヘブライ書、黙示録では、黙示録の一か所(14:6)を除き、ただの一度もこの語は使われていない。

 

パウロにとってもマルコにとっても、ギリシャ語は第二言語であったようであるから、指小辞(-ion)の用い方を無視した単語の用い方も気にならなかったのかもしれない。

ただし、パウロとマルコでは、異なる意味でこの語を用いているようである。

 

マルコにとって、「イエス・キリストの福音(euangelion)」とは、「イエスの生き方そのもの」であり、「イエスの活動全体」を意味している。

 

しかし、パウロにとって重要なのは、復活して、キリストとなったイエスであり、生前のイエスにはまったく関心を持っていない。

コリント教会の人々に、「わたしは、あなた方の間では、イエス・キリスト、しかも杭につけられたキリスト以外には何も知るまいと決めたのです」(NWT第一コリント2:2)と言い放っている。

 

つまり、イエスについては十字架の死と復活以外知る必要はない、イエスがキリストであることが重要なのであり、それ以外は必要ない、とパウロは言っているのである。

おそらく、コリント教会にいる生前のイエスを直接知るキリスト信者からの反発がなされたのだろう。

 

パウロは、イエスを直接知っていた人たちが語る、かつて生きていたイエスの大切な思い出を無視し、キリストが復活して自分に現れたとする幻視体験を誇り、あくまでも、十字架の「贖罪」による救済信仰を「福音」(euangelion)と称して、それ以外は知る必要がない、と宣言しているのである。(ガラテア1:1-9参照)

コリント教会では、パウロの「キリストの福音」とは異なる「イエス・キリストの福音」が語られ、信じられていたのであろう。

 

マルコはパウロの第一回宣教旅行に同行したが、途中でエルサレムに戻っている。(使徒13:13)

パウロの第二回宣教旅行に際し、マルコの人選をめぐり、バルナバとパウロの間で、大喧嘩の末、マルコもバルナバもパウロとの同行を拒否している。(使徒15:36-41)

マルコが、あえてこの語を、イエスの伝記書物の表題として採用した理由も、そのあたりにあるのかもしれない。

 

マルコは、パウロ、及びパウロ派キリスト信者たちが、生前のイエスの活動を無視し、「パウロ教」こそ、「福音」であり、「キリスト教」だ、という主張に納得いかなかったのだろう。

 

生前のイエスの言葉やイエスの活動を無視して、何が「福音」(euangelion)だ。

イエスの言葉やイエスの活動、イエスの生き方そのものが、「福音」(euangelion)ではないか、と主張したかったのだろうか。

 

マルコには、イエスの誕生物語も、復活したイエスも登場しない。

洗礼者ヨハネから始め、成人後のイエスの活動だけを記述している。

 

マルコは、イエスの死に関する詳細は記述しているが、復活後のイエスの活動に関しては、一切触れていないのである。

あくまでも、生前の活動しているイエスの姿がテーマなのである。

そこには、「十字架のキリスト」を中心に据えたパウロ教批判やペテロ教批判が潜んでいる。

 

 

ギリシャ語として、euangelionという語を「福音」の意味で用いるのに違和感があることは、マタイとマルコを比べてみれば、理解できる。

 

マタイはギリシャ語を第一言語とするギリシャ語人間である。

マルコが七回用いているこの語を、マタイが並行記事でそれをそのまま写しているのは、4:23,24:14,26:13の三回だけである。

他に9:35でも登場するが、これは4:23をくり返しただけである。

 

マタイは、マルコの定冠詞付き「福音」(to euangelion)という表現を、並行個所でそのまま写して、用いることは決してしない。

自分自身の表現で「御国の福音」(to euangelion tEs basileias)と「御国の」(tEs basileias)という形容語を付けている。(4:23,9:35,24:14)

26:13のみ「この福音」(to aggelion touto)と指示代名詞(touto)で済ましているが、「この」(touto)は「御国の」の代わりである。

 

くり返すが、マルコは、単に「福音」と言えば、それは「かつてイエスが生きていて語り、なしたこと、イエスの活動全体」を指すものとして用いている。

マルコも最初の二度は、形容語を付け「イエス・キリストの福音」(1:1)、「神の福音」(1:14)と表現しているが、それは「イエス・キリストという福音」、「神的な福音」という意味であり、「イエス・キリストが伝えた福音」「神の国に関する福音」という意味ではない。

マルコは、他の個所ではすべて定冠詞付きの絶対用法で、この語を用いている。

 

一方、マタイは自分自身の文において、マルコのようにeuangelionという語を、定冠詞付き絶対用法では用いない。

 

なぜなら、この語は本来「知らせを伝える」(angllO)という意味の動詞の語幹から派生しているので、目的語となる知らせの中身を明示しないと舌足らずの印象になるからである。

「福音」とだけ言われても、「何の」、「どんな」という疑問が残る。

それで、マタイはこの語には形容語を付けて、知らせの内容を付加したのである。

本来、定冠詞を付けた絶対用法には向かない言葉である。

 

それで、ギリシャ語に堪能なマタイは、その違和感を消すために、tEs basileiasという形容語を置き、「御国の福音」(to euangelion tEs basileias)(NWT「王国の良いたより」)と表現しているのである。

マタイの「天の国」(hE basileia tOn ouranOn)(NWT「天の王国」)は、ユダヤ教の習慣に従がって「神の国」を言い換えたものであるが、マタイに32回登場する。

 

「天の国」(hE basileia tOn ouranOn)に関する「福音(to angelion)」という表現に、マタイのキリスト教が示されている。

 

マルコにとっては、イエスの存在、活動のすべてが「福音」であったが、マタイはイエスを「天の国」に関する「福音」の「伝え手」としてしまったのである。

マタイ書を読むと良いたよりの内容に注目が行くのはそのためである。

 

ルカは、euangelionという言葉を、福音書では一度も用いていない。

使徒行伝では15:7と20:24で二度用いているが、どちらもペテロやパウロの言葉として使っているだけで、自身では、注意深くその語の使用を避けているようである。

 

マタイと同じくギリシャ語人間であるルカも、同じくその語の用い方に違和感があったからだろう。

ルカは「福音」という言葉を使わず、その代わり動詞化して、「良いたよりを伝える」(euangelizesthai)という語を多用している。

 

ルカ神学の基本概念は、「世の中の人間はすべて「罪人」であり、「悔い改める」つまりキリストの信者になることで罪人は赦されて、救いを得られる」というものである。

Euangelizesthaiという他動詞を用いることにより、「イエスの生き方」に倣うことよりも、「悔い改め」と「救済」の「福音を宣べ伝える」という行動に重きがおかれることになった。

 

 

正統的教会が自らの権威と教理の典拠として、マタイとルカを重用したがるのは良く理解できる。

イエスの生き方そのものよりも、神格化されたイエスの権威を笠に信者を支配するのに好都合のドグマが成立しているからである。

 

 

ヨハネ福音書には、euangelionという言葉は一度も使われていない。

冒頭の書き出しも「はじめにロゴスがあった」(en archE En ho logos)というもので、いわゆる「ロゴス讃歌」で始まっている。

洗礼者ヨハネ教団の宗教的ロゴス讃歌でリズムの良い散文詩となっている。

冒頭に表題となるべき表現は出て来ない。

 

ヨハネ書は一人の筆者によって書かれたものではなく、原著者の文に教会的編集者が各所に教会的ドグマを挿入して、編纂された福音書である。

 

教会的編集者が削除した部分は補足しようがないが、書き足した部分を削除して見ると、純粋ユダヤ主義的キリスト教であったペテロ派(使徒派)に対する批判が見えてくる。

 

原著者には、共観福音書にはないイエスのエピソードを取り上げ、使徒を権威の中心におくユダヤ教式のキリスト教ではなく、神はキリスト信者個人に霊を注ぎ導くとする預言者的キリスト教の正統性を担保しようとする意図があったのかもしれない。

 

いずれにしても、ヨハネ書は、エフェソスを中心としたキリスト教グループの教会的編集者により数回にわたり、追記挿入されていったもののようだ。

 

 

それに対して、パウロ系文書では、パウロの最初の書簡であるテサロニケ第一の手紙の冒頭から、euangelionという言葉が出現する。

テサロニケ第一の手紙は、第二回宣教旅行の途上に訪れたコリントで、西暦50年ごろ書かれた。

マルコの人選を巡って、パウロとバルナバが大喧嘩の末、別々に宣教旅行に出かけた時の途上である。

 

その1:5「我らの福音」(euangelion emon)という表現は、「我々の信じる教理こそ福音」であるとのパウロの自負の表れである。

 

パウロは、euangelionという「伝令がもたらす良い知らせに対するご褒美」という意味の語を、イエスをキリストとして良い知らせを宣教するなら、人々にも自分にも「救い」というご褒美が神から与えられる、と考えたのだろうか。

 

NWTは「われわれの宣べ伝える良いたより」と訳しているが、「宣べ伝える」に相当するギリシャ語は本文にはない。

「宣ベ伝える」ことを「救い」の代名詞とするNWTらしい原文にはない付加である。

 

 

それはともかく、パウロのこの「我らの福音」(euangelion emon)という表現は、同時にパウロ派とは異なる「我らとは異なる福音」が存在していたことの傍証でもある。

 

つまり、マルコやペテロやパウロの時代ですら、「一つのキリスト教」というのは幻想にすぎないことが理解できる。

 

ましてや、WTの主張する「統治体」なる中央集権組織がエルサレムに存在していた、とする証拠はどこにも存在しないのである。

 

ペテロを中心とする使徒集団によってエルサレムでキリスト教会を興したのは確かであろうが、全キリスト教に対する支配権を行使していたとする証拠は聖書からも、史実文献からも確認できない。

 

むしろ、異なる多数のキリスト教を信じるキリスト教会の存在が浮かび上がって来るだけである。

 

 

マルコがイエスの福音書を書いたのは、なぜか?

 

簡単にまとめると、

 

パウロやパウロ派は、生きていた時のイエスに重きを置くのではなく、自分が幻想の中で出会ったという「贖罪となり、復活したキリスト」による「救済」を「福音」として、宣教していた。

十二弟子やペテロ派も、生きていたイエスではなく、復活後のキリストが信仰の中心である。

 

マルコはそれに対して、もしも「福音」などと言いたいのであれば、かつて現実に生きていた時の「イエス」のことを無視して何の「福音」があろうか、との思いがあった。

それで、パウロ派キリスト教用語である「福音」という言葉に、パウロ用語とは異なる意味を持たせて、定冠詞を付けて、例の「福音」とは、復活した「キリストの福音」ではなく、「イエスの福音」なのだ、という主張を込めて、「イエス・キリストの福音のはじめ」(archE tou euaggeliou iEsou christou)という言葉でイエスの伝記を書きはじめたのであろう。

 

当時のキリスト教にあっては、非常に挑戦的な行為であったと思われる。

 

古代ギリシャ語以来、西洋語では「福音」と「福音書」を単語としては区別しない。

どちらも同じ、euangelionである。

 

「福音」の中心であるイエスの真の姿を探りたいのであれば、マルコを中心に福音書を読むのでなければ、「福音」も「イエス」の真の姿も見えて来ないのではないかと思う。

 

 

 

 

<付記 英訳2013年、和訳2019年の新世界訳改訂版(RNWT)>

 

マルコ1 (RNWT)

神の子イエス・キリストについての良い知らせの始まり。

The beginning of the good news about Jesus Christ, the Son of God.

 

 

NWT「良いたより」がRNWT「良い知らせ」に変更されただけでなく、冒頭に「神の子」という言葉が付加されている。

 

英訳では、Jesus Christの後ろに、コンマ(,)を付けて、文末に、the Son of Godと定冠詞に大文字の「子」の「神の子」として、「イエス・キリスト」と同格に並べている。

Jesua christ=the Son of Godという信仰を読み込んでいるのである。

 

確かに写本によっては、「神の子」が付加しているものもある。

 

付け加えているのは、א(シナイ写本)を除く、アレクサンドリア系、西方系、多くの小文字写本等で、ネストレ新版(28版)である。

「神の子」が付いていないのは、カイサリア系とא(シナイ写本)、ネストレ旧版(27版)である。

 

写本の多さでは、「神の子」が付いている読みが圧倒的であるが、数が多いだけのビザンチン系の写本が中心であり、原文ではありえない。

 

ここはlectio diffiliciorの原則や写本の重要性など、あらゆる事情からして、ここは「神の子」なしの読みを採用するのが正文批判の常識である。

 

一部の小文字写本は異なっているものの、カイサリア系の読みが「神の子」なしであることは明白である。

 

マルコの場合は、カイサリア系が原文の読みを示す可能性が非常に高い。

さらに、カイサリア系以外の最重要写本の一つであるא(シナイ写本)まで一致しているのだから、これだけで決まりのようなものである。

エイレナイオスやオリゲネスなどの伝える読みも「神の子」なしである。

 

lectio difficiliorの原則からしても、後世の、キリスト教正統主義が確立した後の写本家たちが、原文に「神の子」が付いていたのなら、わざわざ削ることは考えられないことである。

 

つまり、マルコが「イエス・キリストの福音」と書きはじめたのが気に入らない護教家の写本家が、「神の子イエス・キリストの福音」と書き換えたのである。

 

RNWTでは、大文字でChristとしているが、原文の「イエス・キリスト」の「キリスト」には、定冠詞は付いていない。

ここの、「キリスト」という語は、普通名詞で使われているのであり、「メシア」のギリシャ語訳として使われているのではない、ということを示している。

 

つまり、終末論的な意味での救世主「メシア」なるイエス、という意味ではなく、「キリスト」はイエスにつけられた単なる固有名詞として使っているのである。

 

イエス(ヨシュア)という名は、ユダヤ人には非常に多い名前であったので、単に「イエス」だけでは、どのイエスかはっきりしない。

それで、マルコは「イエス・キリスト」と記しただけであろう。

マルコにおいて、「イエス・キリスト」という表現は、ここだけである。

あとは、常に「イエス」と呼ぶだけで「キリスト」は付いていない。

 

つまり、マルコには、復活したイエスを、終末の「メシア」、救世主「キリスト」とする信仰は意識されていないのである。

 

それなのに、RNWTは、堂々と「キリスト」を大文字で表記し、「子」に定冠詞を付け大文字で表記し、「神の子」という句を付加したのである。

 

そのどこが、「神の聖なる力の導きによって書かれた、もともとの内容を正確に伝えている」 (RNWT A1 P2038) 信頼できる翻訳と言えるのだろうか。

 

「イエス」という名前は、ヘブライ語の「エホシュア」や「ヨシュア」という名前と同じで、「エホバは救い」という意味を持つ、ということを御存知の方も多いと思う。

 

「ヨシュア」がなぜ「イエス」と同じ意味を持つのか、調べてみた。

 

「ヨシュア」(Yehoschua’)の気息音のYehoが訛って、Yeと発音されるようになり、「イェシュア」(Yeschua’)となり、それをギリシャ語綴りに直し名詞語尾-sをつけたのが、IEsusとなったのである。

 

「ベン・シラの知恵」の著者もイエスであるし、イエス裁判の場面に出て来るバラバも写本によっては、イエスという名を付加しているものがある。(マタイ27:16Θ写本)

コロサイ4:11には「ユスト」と呼ばれる「イエス」なる人物が出て来る。

ヨセフスの著作には、21人の「イエス」が登場する。

 

無冠詞の「キリスト」が固有名詞としてではなく、「メシア」の意味にも用いられる例が皆無ではないようであるが、マルコの場合には、無冠詞の「キリスト」は1:1と9:41だけである。

どちらも固有名詞としての「イエス・キリスト」の意味である。

あとは、すべて冠詞が付いており、「メシア」の意味で用いられている。(8:29、12:36、13:21、14:61、15:32)

 

つまり、マルコは、他のイエスと区別するために「イエス・キリスト」と呼んでいるだけであり、「イエス」が「キリスト」であることの信仰表明として、ここで「イエス・キリスト」と言っているわけではない。

 

それなのに、ここに「神の子」という原文にはあったはずもない語を堂々と本文に付加して、最新の理解による、最も信頼できる聖書であるとWTは主張するのだから、驚きである。

もう10年以上前からWT信者ではないのですが……、信者を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と言いたくなってしまった。

 

「イエス・キリストの福音」という表現について、もう少し補足すると、「イエス」(iEsou)も「キリスト」(christou)も「定冠詞」(tou)も「福音」(euaggeliou)もそれぞれ属格である。

対格的属格の意味で解すると「イエス・キリストについての、イエス・キリストのことを物語る福音」となり、主格的属格と解すると「イエス・キリストがもたらした福音」という意味になる。

 

しかし、マルコにとって、「福音」とは、「イエスが語ったところのもの、イエスがもたらした事柄」(1:14,15)という主格的属格の意味であり、「イエスの存在自身、イエスの出来事自体」(8:35,10:29)という対格的属格の意味でもある。

 

マルコにとって、確かにイエスは福音を語ったのであるが、それは単に救いをもたらす信仰ドグマとしてではなく、イエス自身の「生」「生き方」「生き様」が「福音」そのものの実現と考えている。

 

それゆえに、イエスが語ったこと、イエスが認識したことだけが福音なのではなく、イエスの生き方、イエス自身が福音なのである。

マルコにとって、福音とは、現在の自分たちの生き方にもかかわっている事柄であり(8:35,10:29,13:10)、イエスのような生き方を自分自身に問うことになる。

 

福音に生きる、福音と共に生きる、ということは、「イエスと同じ倫理観で生きる」、ということを意味するだけでなく、「イエスのことを語る」ということも含めて、「イエス・キリストの福音」なのであろう。

 

 

主な和訳聖書のマルコ1:1をあげておく。

当然ながらマルコの原文に「神の子」という句は付いていない。

「神の子」を入れているかどうかで、聖書を護教的キリスト教の教理に従がって読ませようとしているかのどうかを判断する目安となる。

 

フランシスコ会訳2013  「神の子イエス・キリストの福音の始まり」

岩波訳1995    「[神の子]「イエス・キリストの福音」の源」

新共同訳1987   「神の子イエス・キリストの福音の初め」

前田訳1978    「イエス・キリストの福音のはじめはこうである」

新改訳1970         「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」

塚本訳1963    「イエス・キリストの福音はこうして始まった」

口語訳1955    「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」

文語訳 1917    「神の子イエス、キリストの福音の始」

Living Bible    「神の子イエス・キリストのすばらしい物語の始まりは、こうです」

 

岩波訳は[ ]付きでの採用であるが、個人訳以外はすべて「神の子」を入れている。

キリスト教の宗派や聖書協会、キリスト教系出版社が関係している聖書はすべて「神の子」付きである。

 

キリスト教の特定の宗派の教理に囚われずに聖書を読みたいのであれば、それが何を意味しているのか、よく考えた上で、聖書を選んだほうがよさそうである。

 

大きなお世話ですが、NWTだけは「神の子」を付けていなかったのに、RNWTでは他のキリスト教会御用達の聖書と同じく「神の子」が入っていることが、何を意味しているのか、RNWT利用者のJWの皆さんはよくお考えになった方がよさそうである。