マルコ14:43-52 <逮捕> 並行マタイ26:47-56、ルカ22:47-53、参照ヨハネ18:1-12
マルコ14 (田川訳)
43そしてすぐに、彼がまだ話しているうちに、十二人の一人であるユダが近づいて来る。そして彼とともに、祭司長、律法学者、長老らのもとから剣や棒を持った群衆も。44彼を引き渡す者は、前もって彼らに合図を教えて、言った、「私が口づけする者がそれだ。その者を捕えて、間違いなく連れて行くがよい」。45そして来て、すぐに彼に近寄り、言う、「ラビ」。そして彼に口づけした。46そして彼らは彼に手をかけ、つかまえた。47そばに立っていた者の一人が剣を抜き、大祭司の下僕を打ち、その耳を切り取った。48そしてイエスは答えて彼らに言った、「あなた達は強盗にでも対するように私をつかまえるのに剣や棒を持ってやって来たのか。49私は毎日あなた達のところで、神殿で、教えていたではないか。しかもあなた達は私を捕えることをしなかった。しかし書物が成就するためには」。50そして皆彼を見捨てて、逃げた。51そして一人の若者が一緒に彼について来ていたのだが、裸の上に上等の衣をまとっていた。そして彼をつかまえる。52だが彼は衣を残して、裸で逃げた。
マタイ26
47そして彼がまだ話しているうちに、見よ、十二人の一人であるユダが来た。そして彼とともに、祭司長や民の長老らのもとから大勢の群衆が剣や棒を持ってやって来た。48彼を引き渡す者は、前もって彼らに合図を教えて、言った、「私が口づけする者がそれだ。その者を捕らえるがよい」。49そして直ちにイエスのもとに進み出て、言った、「幸あれ、ラビ」。そして彼に口づけした。50イエスは彼に言った、「友よ、あなたはこのために来たのか」。その時彼らは進み出て、イエスに手をかけ、つかまえた。51そして見よ、イエスとともに居た者の一人が手をのばして自分の剣を抜き、大祭司の僕を打ち、その耳を切り取った。52その時イエスが彼に言う、「汝の剣をその鞘におさめよ。剣を取る者は皆剣にて滅びる。53それとも、私が私の父に呼びかけることが出来ないとでも思っているのか。そうすれば父はすぐに十二軍団以上もの天使の群を提供して下さるであろう。54だがそれでは、このように事が生じなければならぬという書物がどうして成就することができようか」。55その同じ時、イエスは群衆に対して言った、「あなた方は強盗にでも対するように私をつかまえるのに剣や棒を持ってやって来たのか。私は毎日神殿に座って、教えていたではないか。しかもあなた方は私を捕らえることをしなかった」。56しかしこれら一切は預言者たちの書物が成就するために生じたのである。その時、弟子たちはみな彼を見捨てて、逃げた。
ルカ22
47彼がまだ話している時に、見よ、群衆が、そして十二人の一人でユダと呼ばれる者が彼らの先頭に立ってやって来た。そしてイエスに近づき、口づけした。48イエスは彼に言った、「ユダよ、お前は口づけでもって人の子を引き渡すのか」。49彼のまわりに居た者たちが起ころうとしていることを見て、言った、「主よ、剣で打ってやりましょうか」。50そして彼らのうちの一人が大祭司の僕を打ち、右耳を切り取った。51イエスが答えて言った、「そこまでにしておけ」、そして耳にさわり、癒した。52イエスは、彼のもとにやって来た祭司長や神殿長や長老に言った、「あなた達は強盗にでも対するように剣や棒を持ってやって来たのか。53私は毎日神殿であなた達とともにいたのに、あなた達は私に手をのばすことはしなかった。しかし今はあなた達の時なのであり、闇の権力なのである。」
参ヨハネ18
1こう言ってイエスは自分の弟子たちとともに、キドロンの冬流の向う側へと出て行った。そこに庭園があって、彼と彼の弟子たちはその中に入って行った。2だが、彼を引き渡すことになるユダもまたこの場所を知っていた。イエスはしばしば自分の弟子たちとそこで集まっていたからである。3それでユダは(ローマ軍の)部隊と、祭司長やパリサイ派から(遣わされた)下役たちを連れ、燈火や松明や武器を持って、そこに来る。4それでイエスは自分に起こるであろうことをすべて知り、出て来た。そして彼らに言う、「誰を捜しているのか」。5彼に答えた、「ナザレ人イエスを」。彼らに言う、「私だ」。彼を引き渡すユダもまた彼らと一緒にいた。6それで彼が彼らに「私だ」と言った時に、彼らは後ろに下がり、地に倒れた。7それで再び彼らにたずねた、「誰を捜しているのか」。彼らは言った、「ナザレ人イエスを」。8イエスは答えた、「私だ、とあなた方に申し上げたではないか。それで、もしも私を求めているのなら、他の者たちは行かせなさい」。9これは、あなたが私に与えた者のうち私は誰も失わなかった、と彼が言った言葉が成就するためである。
10それでシモン・ペテロは短剣を持っていたのだが、それを抜いて、大祭司の僕を打ち、その右耳を切り落とした。その僕の名前はマルコスであった。11それでイエスがペテロに言った、「剣を鞘におさめなさい。父が私に与えた杯を私が飲まずにいられようか」。
12それで部隊と千卒長とユダヤ人の下役たちがイエスをとらえて、縛った。
マルコ14 (NWT)
43 するとすぐ,[イエス]がまだ話しておられるうちに,十二人の一人であるユダが現われた。そして,剣やこん棒を持ち,祭司長・書士・年長者たちのもとから来た群衆が一緒であった。44 さて,[イエス]を裏切る者は,「だれであれわたしが口づけするのがその人だ。それを拘引して,しっかりと引いて行け」と言って,彼らと合図を打ち合わせてあった。45 そこで彼はまっすぐに寄って来て[イエス]に近づき,「ラビ!」と言って,いとも優しく口づけした。46 そこで彼らは[イエス]に手をかけて拘引した。47 しかし,そばに立っていた者のひとりが剣を抜いて大祭司の奴隷に撃ちかかり,その耳を切り落とした。48 しかしイエスはこたえて彼らに言われた,「あなた方は,わたしを捕縛するのに,強盗に対するように剣やこん棒を持って出て来たのですか。49 日々わたしは神殿であなた方と共にいて教えていたのに,あなた方はわたしを拘引しませんでした。だが,これは聖書が成就するためなのです」。
50 すると,[弟子たち]はみな彼を捨てて逃げて行った。51 しかし,裸の[体]にりっぱな亜麻布の衣を着けたある若者が彼のすぐあとに付いて行った。それで彼らは[この若者]を捕まえようとしたが,52 彼は亜麻布の衣をあとに残して,裸のまま逃げてしまった。
マタイ26
47 すると,[イエス]がまだ話しておられるうちに,見よ,十二人の一人であるユダがやって来た。そして,剣やこん棒を持ち,祭司長および民の年長者たちのもとから来た大群衆が彼と一緒であった。
48 さて,[イエス]を裏切る者は,「だれであれわたしが口づけするのがその人だ。それを拘引せよ」と言って,彼らと合図を決めてあった。49 それで彼はまっすぐイエスのところに寄って行き,「ラビ,こんにちは」と言って,いとも優しく口づけした。50 しかしイエスは,「君,何のためにここにいるのか」と言われた。その時,彼らが進み出,イエスに手をかけて拘引した。51 ところが,見よ,イエスと共にいた者の一人が,手を伸ばして自分の剣を抜き,大祭司の奴隷に撃ちかかってその耳を切り落とした。52 その時イエスは彼に言われた,「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです。53 それともあなたは,わたしが父に訴えて,この瞬間に十二軍団以上のみ使いを備えていただくことができないとでも考えるのですか。54 そのようにしたなら,必ずこうなると[述べる]聖書はどうして成就するでしょうか」。55 その折,イエスは群衆にこう言われた。「あなた方は,わたしを捕縛するのに,強盗に対するように剣やこん棒を持って出て来たのですか。日々わたしは神殿の中に座って教えていたのに,あなた方はわたしを拘引しませんでした。56 しかし,このすべては,預言者たちの[記した]聖句が成就するために起きたのです」。その時,弟子たちはみな彼を捨てて逃げて行った。
ルカ22
47 [イエス]がまだ話しておられるうちに,見よ,群衆が,そして,十二人の一人でユダと呼ばれる者がその先頭に立って[やって来た]。そして彼は口づけをしようとしてイエスに近づいた。48 しかしイエスは彼に言われた,「ユダ,あなたは人の子を口づけして裏切るのですか」。49 彼のまわりにいた者たちは,起ころうとする事を見て,「主よ,剣で撃ちましょうか」と言った。50 そのうちのある者は実際に大祭司の奴隷に撃ちかかり,その右の耳を切り落とした。51 しかしイエスはそれにこたえて,「それまでにしなさい」と言われた。そして,その耳に触れて,おいやしになった。52 それからイエスは,自分のところにやって来た祭司長・神殿の指揮官・年長者たちにこう言われた。「あなた方は,強盗に対するように,剣やこん棒を持って出て来たのですか。53 わたしが日々あなた方と共に神殿にいた時には,あなた方はわたしに向かって手を出しませんでした。しかし,今はあなた方の時,闇の権威なのです」。
参ヨハネ18
1これらのことを言われてから,イエスは弟子たちと共に外に出,キデロンの冬の奔流を渡って園のある所に行き,彼も弟子たちもその中に入った。2 さて,彼を裏切る者であるユダもその場所を知っていた。イエスはそこで弟子たちと何度も会合しておられたからである。3 それゆえユダは,兵士の一隊と,祭司長やパリサイ人の下役たちを連れ,たいまつやともしびや武器を携えてそこにやって来た。4 それゆえイエスは,自分に臨もうとするすべての事柄を知り,進み出て彼らに言われた,「あなた方はだれを捜しているのですか」。5 彼らは,「ナザレ人のイエスを」と答えた。[イエス]は彼らに言われた,「わたしが[その者]です」。さて,[イエス]を裏切る者であるユダも彼らと共に立っていた。
6 しかしながら,「わたしが[その者]です」と[イエス]が言われた時,彼らは後ずさりして地面に倒れた。7 それゆえ,[イエス]は彼らに再びお尋ねになった,「あなた方はだれを捜しているのですか」。彼らは,「ナザレ人のイエスを」と言った。8 イエスは答えられた,「わたしが[その者]ですと告げたではありませんか。それゆえ,あなた方の捜しているのがわたしであれば,これらの者たちは去らせなさい」。9 これは,「わたしに与えてくださった者のうち,わたしはその一人をも失いませんでした」と言われた言葉が成就するためであった。
10 その時シモン・ペテロは,剣を携えていたので,それを抜いて大祭司の奴隷に撃ちかかり,その右の耳を切り落とした。その奴隷の名はマルコスといった。11 しかしイエスはペテロに言われた,「剣をさやに納めなさい。父がわたしにお与えになった杯,わたしはそれをぜひとも飲むべきではありませんか」。
12 その時,兵士の一隊と軍司令官,そしてユダヤ人の下役たちはイエスを捕らえて縛り,
マタイは基本的にマルコを踏襲しているが、イエスをキリスト化する創作物語を組み込んでいる。
ルカもイエスの受難に関して、弟子たちを擁護する創作物語を付加し、イエスの受難を旧約の成就とするのではなく、ルカの設定する「時」に関する解釈を組み込んでいる。
ヨハネの受難物語には共観福音書にはない細かい情報が付加されている。
マルコのこの段落には、13章までの本論では出て来ない単語がいくつも出て来る。(テイラー)
「(剣を)抜く」(spaO)、「打つ」(paiO)、「取り去る(切り取る)」(aphaireO)、「耳(指小語)」(Otarion)。
話の内容に応じて、他では出て来ない単語が出て来ても、それ自体に不思議はない。
しかしながら、その語が特殊な用語ではなく、ごく普通の言葉であるにもかかわらず、1-13章全体で一度も出て来ないということは、その単語が本人の語彙には属していない、ということになる。
つまり、この段落の主たる部分はマルコ自身の文ではなく、元伝承の文をほぼそのままに写しているものと考えられる。
イエスがゲッセマネで話している時に、ユダとともに群衆が近づいて来る。
マルコ14
43そしてすぐに、彼がまだ話しているうちに、十二人の一人であるユダが近づいて来る。そして彼とともに、祭司長、律法学者、長老らのもとから剣や棒を持った群衆も。44彼を引き渡す者は、前もって彼らに合図を教えて、言った、「私が口づけする者がそれだ。その者を捕えて、間違いなく連れて行くがよい」。45そして来て、すぐに彼に近寄り、言う、「ラビ」。そして彼に口づけした。46そして彼らは彼に手をかけ、つかまえた。
マタイ26
47そして彼がまだ話しているうちに、見よ、十二人の一人であるユダが来た。そして彼とともに、祭司長や民の長老らのもとから大勢の群衆が剣や棒を持ってやって来た。48彼を引き渡す者は、前もって彼らに合図を教えて、言った、「私が口づけする者がそれだ。その者を捕らえるがよい」。49そして直ちにイエスのもとに進み出て、言った、「幸あれ、ラビ」。そして彼に口づけした。50イエスは彼に言った、「友よ、あなたはこのために来たのか」。その時彼らは進み出て、イエスに手をかけ、つかまえた。
ルカ22
47彼がまだ話している時に、見よ、群衆が、そして十二人の一人でユダと呼ばれる者が彼らの先頭に立ってやって来た。そしてイエスに近づき、口づけした。48イエスは彼に言った、「ユダよ、お前は口づけでもって人の子を引き渡すのか」。
参ヨハネ18
1こう言ってイエスは自分の弟子たちとともに、キドロンの冬流の向う側へと出て行った。そこに庭園があって、彼と彼の弟子たちはその中に入って行った。2だが、彼を引き渡すことになるユダもまたこの場所を知っていた。イエスはしばしば自分の弟子たちとそこで集まっていたからである。3それでユダは(ローマ軍の)部隊と、祭司長やパリサイ派から(遣わされた)下役たちを連れ、燈火や松明や武器を持って、そこに来る。4それでイエスは自分に起こるであろうことをすべて知り、出て来た。そして彼らに言う、「誰を捜しているのか」。5彼に答えた、「ナザレ人イエスを」。彼らに言う、「私だ」。彼を引き渡すユダもまた彼らと一緒にいた。6それで彼が彼らに「私だ」と言った時に、彼らは後ろに下がり、地に倒れた。7それで再び彼らにたずねた、「誰を捜しているのか」。彼らは言った、「ナザレ人イエスを」。8イエスは答えた、「私だ、とあなた方に申し上げたではないか。それで、もしも私を求めているのなら、他の者たちは行かせなさい」。
9これは、あなたが私に与えた者のうち私は誰も失わなかった、と彼が言った言葉が成就するためである。
マルコの書き出しの「そしてすぐに」(kai euthys)は、マルコの口癖で、全部で24回。ほとんどすべて文頭に出て来る。
マタイには一度も出て来ず、ルカには一回だけ(6:49)。
マルコにおけるこの言い方に、時間的な意味で「すぐに」という意味はなく、前の文に対して新しい文を始める「標」程度の軽い意味。
段落の中身はほぼ伝承のままであると思われるが、導入句はマルコの文体で記したのだろう。
ユダと一緒に、「群衆」(ochlos)がイエスを逮捕するために来る。
マルコの「群衆」は、祭司長・律法学者・長老らのもとから来た集団であるが、マタイの「大勢の群衆」には、律法学者のもとからの者はいない。
マタイは「長老ら」(ton presbuteron)に「民の」(tou laou)を付加し、「群衆」がユダヤ人からなる集団であることをはっきりさせてくれている。
ルカの「群衆」は、52「祭司長・神殿長・長老」で構成されている。
ヨハネでイエスの逮捕において、ユダと同行するのは、「ローマの部隊と祭司長やパリサイ派から遣わされた下役たち」からなる異邦人とユダヤ人の混成集団である。
マタイの「民」(laos)は基本的に「ユダヤ民族」を指し、「群衆」(ochlos)は「異邦人」を指す。
ルカの「群衆」(ochlos)は、「その場に居る一群の集団」を指すこともあり、必ずしも「異邦人」を指すわけではないが、イエスを理解しない「烏合の衆」である。
マルコの「群衆」(ochlos)はイエスの理解者であり、無理解なのは「弟子たち」の方である。
13章までのマルコにおける「群衆」は、常にイエスに対して好意的な存在であり、イエスも積極的に「群衆」に語りかける。
ところが受難物語になると、「群衆」(ochlos)の立場は逆転し、イエスに敵対する存在として登場する。エルサレムの支配当局に味方し、イエスの殺害を間接的に支援するのである。(15:8~)
マルコの受難物語における「群衆」の立場は、マタイやルカに共通するもので、受難物語伝承そのものが、使徒集団によって興された初期キリスト教団により流布されたものと考えられる。
イエスの「逮捕」はオリーヴ山のゲッセマネでの出来事とされているが、ヨハネはその場所が、キドロンの冬流の向こう側にある庭園であると紹介している。
「キドロンの冬流」(tou cheimarros tOn kidron)の「キデロン」という地名は、旧約でも何度も出て来る地名。(サム下15:23、列上2:37,15:13、列下23:6,12)ヘブライ語綴りは、QiderOn。NWTはキデロンと表記。
「冬流」(cheimarros)は、「冬」(cheimOn)+「流れる」(rheO)の合成語。
雨の少ない夏の間は水流のない渓谷に、冬の降水量が多い時期になると小川が生じる。
その「向こう側」(peran)というのだから、オリーヴ山の中腹にある庭園ということになる。
マルコのユダは、イエスを引き渡す合図が、「口づけ」であることを教え、「ラビ」と言って、近づく。いわゆる、Judas Kissの元となる故事。
マタイのユダは、「幸いあれ、ラビ」と言って、「進み出る」。
NWTは「ラビ、こんにちは」と言って、「寄って行く」。
マタイのイエスには、裏切り者でも捕縛する者でも、キリスト様として、敬意を払い、「進み出て」から、声をかけなければならないようである。
ルカでは、ユダが群衆の先頭に立ってやって来る。
マタイとルカには、「見よ」(idou)という強調のための間投詞が付いており、ユダの行動を強く非難する気持ちがある。
ヨハネは、燈火や松明を持っていることから、夜の出来事としているが、Judas Kissによって引き渡されるのではなく、イエスが自ら名乗り出て、逮捕される。
「幸いあれ」(chairete)は、ギリシャ語としてはごく普通の挨拶の言葉。
字義的には「喜ぶ」で、ここはその命令形。
つまり、相手に対して「喜べるような良い状態であれ」と呼びかけるもの。
NWT「こんにちは」でも良いのだが、聖書霊感説に従い、夜の出来事とするのであるなら、挨拶の言葉は「今晩は」であろう。
RNWTは「こんばんは、ラビ」と修正してくれている。
イエスの逮捕を阻もうとして、弟子の一人が武力行使する。
マルコ14
47そばに立っていた者の一人が剣を抜き、大祭司の下僕を打ち、その耳を切り取った。
マタイ26
51そして見よ、イエスとともに居た者の一人が手をのばして自分の剣を抜き、大祭司の僕を打ち、その耳を切り取った。
ルカ22
49彼のまわりに居た者たちが起ころうとしていることを見て、言った、「主よ、剣で打ってやりましょうか」。50そして彼らのうちの一人が大祭司の僕を打ち、右耳を切り取った。
参ヨハネ18
10それでシモン・ペテロは短剣を持っていたのだが、それを抜いて、大祭司の僕を打ち、その右耳を切り落とした。その僕の名前はマルコスであった。
大祭司の僕の耳を切り取ったのは、マルコでは「そばに立っていた者の一人」、マタイでは、「イエスとともに居た者の一人」、ルカでは、「イエスのまわりに居た者のうちの一人」であり、十二使徒のうちの誰であるかは示されていない。
ヨハネは、耳を切り取った者が、ペテロであることを示し、切られた大祭司の僕が、マルコス(malchos)という名前であるとしている。
ただし、マルコ(markos)とは綴りが違う。
マタイは、ペテロの行為に関しても、「見よ」(idou)という強調のための間投詞を付けている。
マタイにはペテロの蛮行を称賛する気持ちがあるのだろう。
ヨハネの受難物語にはペテロの持っていた剣が「短剣」であることを指摘していたり、共観福音書にはないこの種の詳細な情報が多く見られる。
ヨハネによる創作の可能性もあるが、事実を知っていて書いている可能性も高い。
後述するが、ルカもこの段落にいたる前後関係の文章の構成からして、それがペテロであることは知っていたものと思われる。
ただしルカがヨハネを知っていた可能性はないので、おそらく、イエスの逮捕時に耳を切り取ったのがペテロであるという伝承が存在していたのであろう。
マルコの「打つ」(paiO)とマタイ・ルカ・ヨハネの「打つ」(patassO)は、別の語。
新約では、マタイ・ルカ・ヨハネの方の「打つ」(patassO)の方がよく用いられる。
マルコの方の「打つ」(paiO)はどちらかと言うと「平手で叩く」という感じが強い。(Mt26:68=Lu22:64)
マルコ・マタイは単数の「耳」(to Otarion)と片方の耳の一部であることを示しているが、ルカの「耳」(to ous)もヨハネも「耳」(to Otarion)も、切られたのが「右」(to dechion)であったことを付加している。
これが事実であるとすれば、右利きの人なら、対面している相手の左耳を切り取ることになるので、ペテロは左利きということになる。
このペテロの行動に関して、イエスは四者四様の対応をする。
マルコ14
48そしてイエスは答えて彼らに言った、「あなた達は強盗にでも対するように私をつかまえるのに剣や棒を持ってやって来たのか。49私は毎日あなた達のところで、神殿で、教えていたではないか。しかもあなた達は私を捕えることをしなかった。しかし書物が成就するためには」。
マタイ26
52その時イエスが彼に言う、「汝の剣をその鞘におさめよ。剣を取る者は皆剣にて滅びる。53それとも、私が私の父に呼びかけることが出来ないとでも思っているのか。そうすれば父はすぐに十二軍団以上もの天使の群を提供して下さるであろう。54だがそれでは、このように事が生じなければならぬという書物がどうして成就することができようか」。55その同じ時、イエスは群衆に対して言った、「あなた方は強盗にでも対するように私をつかまえるのに剣や棒を持ってやって来たのか。私は毎日神殿に座って、教えていたではないか。しかもあなた方は私を捕らえることをしなかった」。56しかしこれら一切は預言者たちの書物が成就するために生じたのである。…
ルカ22
51イエスが答えて言った、「そこまでにしておけ」、そして耳にさわり、癒した。52イエスは、彼のもとにやって来た祭司長や神殿長や長老に言った、「あなた達は強盗にでも対するように剣や棒を持ってやって来たのか。53私は毎日神殿であなた達とともにいたのに、あなた達は私に手をのばすことはしなかった。しかし今はあなた達の時なのであり、闇の権力なのである。」
参ヨハネ18
11それでイエスがペテロに言った、「剣を鞘におさめなさい。父が私に与えた杯を私が飲まずにいられようか」。
12それで部隊と千卒長とユダヤ人の下役たちがイエスをとらえて、縛った。
マルコの「答えて」とは、必ずしも質問に「答えて」言うという意味ではなく、その状況に「応えて」、その状況に呼応して、発言するという趣旨。
マルコでは、イエスが言った「彼ら」とは「弟子たち」のことではない。
マルコのイエスは、弟子たちには何も言わず、逮捕しに来た「群衆」に対して発言する。
マタイのイエスは、まず、耳を切り取った「彼」に対して、「汝の剣をその鞘におさめよ。剣を取る者は皆剣によって滅びる」、と諌め、イエスの受難が旧約の預言成就であることを「弟子たち」に証言する。
その後、逮捕しに来た「群衆」に対しても、旧約の預言成就であることを宣言する。
この52-54節のイエスの発言はマタイによる付加。
「私の父に呼びかけて天使の軍団を備えさせる」というイエスを神の子としてキリスト化しつつ、救済信仰と結び付けるキリスト教ドグマを旧約の成就とする脚色は、キリスト教会設立に伴い作成された創作物語であろう。
マルコにも「書物が成就するためには」とあるが、主文が省略されている。
イエスを逮捕しに来た祭司長らの配下にある群衆に対して、「毎日、神殿で教えていたのに、捕えなかった。しかし、書物が成就するためには」というのだから、「書物が成就するためには、敢えて受難を覚悟しよう」あるいは「イエスが逮捕されるのは、書物が成就するためだったのだ」という趣旨であろう。
マタイはマルコをそう読んでいる。
「書物」(複数形)は、原則として旧約聖書を指すが、旧約のどの個所かを指摘する文は付いていない。
旧約の特定の個所による預言成就というのではなく、キリストの受難は旧約全体によって預言されたことの成就だ、という宣言に過ぎない。
この種の「キリストの死を旧約の預言」とする解釈は、第一コリントス15:3にも見られ、古い伝承に属する。
まず、イエスの死をキリストの死とし、旧約の成就とするキリスト教信仰が初期キリスト教会において成立し、その後、旧約のどの個所が当てはまるかを具体的に探しはじめ、キリスト教ドグマが成立していったのであろう。
ルカは、イエスが、まず、耳を切り取った者に対して、「そこまでにしておけ」と制し、切り取った「耳」を癒した、という奇跡物語を付加している。
ルカは、ペテロの居眠りを暴露する「ゲッセマネの祈り」伝承の前に並行記述のない「剣を持たぬ者は剣を買え」(22:35-38)とするイエスのロギア伝承を組み込んでいる。
ルカは、「ゲッセマネの祈り」伝承でも三度の居眠りを一回だけのことにしただけでなく、その理由も「苦しみの故」であることして、ペテロを擁護している。
そして、「ゲッセマネの祈り」伝承の前に弟子たちに対して「剣を買え」とするイエスの命令伝承を組み込み、「耳切り」事件の布石を置いているのである。
ルカの意図は明らかであろう。
この後、イエスが逮捕されることになり、「イエスのまわりに居た者たち」が、起ころうとしていることを見て、「主よ、剣で打ってやりましょうか」と言って、その中の一人が大祭司の僕の「耳」を切る。
つまり、ペテロたちは、イエスの逮捕を阻止しようとして、闘う気構えであった、という構図をルカは描きたいのである。
ルカは弟子たちの抵抗行為は、「剣を持たぬ者は剣を買え」というイエスの指示に沿ったものであり、僕の耳を切り取ることも、その延長線上にある行為として、擁護しようとしたのである。
しかし、それだけだと、イエスの逮捕を阻止するために、弟子たちは徹底抗戦しなければ、辻褄が合わなくなる。
「剣を買え」伝承では、弟子たちには二振りの剣があり、イエスは「それで十分だ」と答えるのである。
そこでルカは、イエスに「そこまでにしておけ」と弟子たちを制させ、切り取った耳を癒すことにさせたのである。
十一人の弟子たちの中で剣を持っていたのは二人だけであるのだから、徹底抗戦することなど不可能である。
しかもイエスが苦難の祈りをささげている時に居眠りしていた弟子たちである。
イエスが拘引されると、イエスを捨てて、逃げた弟子たちである。
初めからイエスの逮捕のために来た集団と闘う気などさらさらない連中であろう。
ルカとしては、マルコの描くペテロをはじめとする弟子たちの本当姿を晒したくはなかったので、擁護しようとしてくれたのであろう。
ルカにおける「最後の晩餐」(22:14-23)以降の構成は、「聖餐式の設定」(19-20)→「ユダの裏切り予告」(21-23)→「ペテロ護教論の挿入」(24-34)→「剣を持たぬ者は剣を買え」(35-38)→「ゲッセマネの祈り」(39-46)→「イエスの逮捕」(47-53)→「ペテロによる三度の否認」と続いていく。
ルカの受難物語には、並行個所のない「ペテロ護教論」伝承が挿入されている。
「剣を買え」伝承も、並行個所のない、ルカ独自の伝承である。
ルカによるペテロ擁護のための創作キリスト物語であろう。
しかし、ルカにとってもイエスの生涯は、自ら進んで受難の死を遂げ、復活の道を歩み、全世界の救済者となるというキリストとしての使命を受け入れるものでなければならない。
つまり、一方では、弟子たちがイエスの逮捕を阻止しようとする行為を擁護しつつ、他方では、受難の死を神からの使命として成就させる必要も生じる。
それで、マルコではイエスを逮捕するために剣や棒を持ってやって来た行動を旧約の成就という観点からは必要のない行動であると批判しているだけなのに、ルカはそれを「闇の権力の時」が到来したからであることにした。
ルカはイエスの受難を単に旧約の預言成就とするのではなく、神が定めた「時」の里程標に従がったものであり、イエスの受難は「今はあなた方の時」、「闇の権力」、つまり、「サタンの支配する時が始まった」ことにしたのである。
ヨハネのイエスは、「剣を鞘に納めなさい」と言い、受難を「父が与えた杯」として、受諾することを承知し、そのままローマの部隊とユダヤ人の下役たちに捕縛される。
イエスの逮捕時における弟子たちの行動は、大きく二つに分かれている。
マルコ14
50そして皆彼を見捨てて、逃げた。
マタイ26
56…その時、弟子たちはみな彼を見捨てて、逃げた。
ルカ22
54彼らは彼を引きとらえて、大祭司の館の中に連れて来たのだが、ペテロが遠くからついて来た。
参ヨハネ18
8イエスは答えた、「私だ、とあなた方に申し上げたではないか。それで、もしも私を求めているのなら、他の者たちは行かせなさい」。9これは、あなたが私に与えた者のうち私は誰も失わなかった、と彼が言った言葉が成就するためである。
マルコは、「皆」イエスを見捨てて、逃げた、と言っているだけで、はっきり「弟子たち」とは書いていない。「弟子たち」であることは間違いないが、曖昧にしている。
マタイは、はっきりと「弟子たちはみな」、イエスを「見捨てて、逃げた」と書いてくれている。
ルカは、「弟子たちが皆、イエスを見捨てて、逃げた」という文を削除し、次段の冒頭で、「ペテロが遠くからついて来た」と述べている。
おそらく、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げたわけではなく、少なくてもペテロは離れたところから、イエスについて行った、という設定にしたいのだろう。
ヨハネは、弟子たちがイエスを見捨てて逃げたのではなく、イエスが弟子たちを捕縛者たちから守るために、行かせた、のであり、イエスの予言の成就としている。
ただし、9節は、教会的編集者による付加。
マルコには、弟子たちは皆イエスを見捨てて、逃げたのであるが、ある若者がイエスについて来たことを述べている。
マルコ14
51そして一人の若者が一緒に彼について来ていたのだが、裸の上に上等の衣をまとっていた。そして彼をつかまえる。52だが彼は衣を残して、裸で逃げた。
「上等の衣」(shidOn)は、上等の布地、もしくはその生地で作った上等の衣を指す。
たいていは「亜麻布」の素材。
口語訳・新共同訳をはじめ、主な和訳の聖書は、すべて、「亜麻布」の訳。
単に「亜麻布」とすると、衣ではなく、敷布のようなただの布地をイメージしてしまう。
NWTは「亜麻布の衣」。
RNWTは「亜麻布の服」。
「裸の上に」とあることからすると、下着を付けずに、上等の衣を羽織っていた、ということだろう。
ドイツ語の註解書の伝統では、この「亜麻布」(sindOn)とは、「肌着」のことだと解説されている。(ホルツマン、クロスターマン、バウアーの辞書)
これは、「裸の上に」であるから、「肌着」に決まっていると決めつけたもの。
この若者は福音書著者のマルコ自身のことであるとする意見が古くからある。
六世紀以降、カテナ(Catena)と呼ばれる要約的解説本が流行ったが、その一つであるアンティオキアのVictorのカテナにすでに出ている解釈であるという。(クロスターマン)
現代では、Th・ツァーン、ホルツマンなどをはじめとして、19世紀後半から20世紀にかけて結構支持された解釈である。
WTもこの説を支持している。
*** 塔08 2/1 24ページ マルコはやめてしまわなかった ***
マルコが書いた福音書によると,イエスが捕らえられた晩,「裸の体に」1枚の衣を着けただけの若者がその場にいました。敵たちがイエスを捕まえた時にその若者は逃げた,とマルコは書いています。その若者はだれだったと思いますか。― そう,マルコだったようです。その晩,イエスと使徒たちが出かけた後,マルコは急いで衣を身に着けてあとに付いて来たのでしょう。―マルコ 14:51,52。
もしも、最後の晩餐の場所がマルコの母親マリアの家であったとすれば(使徒12:12)、そこから「一緒にイエスについて来た」というのだから、この若者がマルコである可能性は十分にあるように思える。
ただし、「過越の準備」で弟子たちを遣わす伝承の中で、家の主人とイエスの間には知己の関係があったとする要素はあるが、最後の晩餐の場所が、マルコの母親の家であったことを示唆する積極的な箇所は存在しない。