マルコ14:26-31 <ペテロの裏切りの予告> 並行マタイ26:30-35、ルカ22:39,31-34

                     参照ヨハネ13:36-38

マルコ14 (田川訳)

26そして讃美歌を歌いながら、オリーヴの山へと出て行った。そして彼らにイエスが言う、「あなた方はみな躓くであろうなわち我、羊飼いを打つ。すると羊たちは散らされると書いてある28しかし、私は甦った後、あなた方を先立ち導いてガリラヤへと行くであろう」。29ペテロが彼に言った、「たとえすべての者が躓いても、私は躓きません」。30そして彼にイエスが言う、「アーメン、あなたに言う、あなたこそ今日、今宵、鶏が二度鳴く前に、私を三度否むであろう」。31彼はますます言いつのった、「たとえ私があなたとともに死なねばならぬとしても、私があなたを否むようなことはありません」。またすべての者が同様に言った。

 

マタイ26

30そして賛美歌を歌いながら、オリーブ山へと出て行った。31その時、彼らにイエスが言う、「あなた方はみな、今宵、私に躓くであろう。何故なら、我、羊飼いを打つ、するとその羊飼いの羊の群は散らされる、と書いてあるからだ。32だが私は甦った後、なた方よりも先にガリラヤへと行っている」。33ペテロが答えて彼に言った、「たとえすべての人があなたに躓いても、私は決して躓きません」。34イエスが彼に言った、「アメーン、あなたに言う、今宵、鶏が鳴く前に、あなたは私を三度否むであろう」。35ペテロが彼に言う、「たと私があなたとともに死なねばならぬようなことがあっても私があなたを否むようなことはありません」。またすべての弟子たちが同じように言った。

 

ルカ22

31シモン、シモン、見よ、サタンがあなた達を穀物のように振い分けることを願い出ている。32私はあなたのために、あなたの信仰が傾かないようにと祈ってあげた。そしてあなたはいつか立ち戻って、あなたの兄弟たちを強めてあげなさい」。33シモンは彼に言った、「主よ、私はあなたと共に牢獄へも、死へも進んで行くつもりです」。34彼は言った、「あなたに言う、ペテロよ、あなたが三度私のことを知らないと否むまで、今日鶏が鳴くことはないだろう」。……

39そして出て行って、いつものように、オリーヴ山に行った。また弟子たちも彼に従って行った。

 

参ヨハネ13

36彼にシモン・ペテロが言う、「主よ、あなたはどこに行かれるのですか」。彼にイエスが答えた、「私が行くところにあなたは今は私について来ることができない。いずれ後について来ることになろう」。37彼にペテロが言う、「主よ、何故今はあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために捧げます」。38イエスが答える、「あなたの生命を私のために捧げると?アメーン、アメーン、汝に告ぐ、あなたが私を三度否むまでは、鶏が鳴くことはないだろう」。

 

 

マルコ14 (NWT)

26 最後に,賛美を歌ってから,彼らはオリーブ山に出て行った。

27 それからイエスは彼らにこう言われた。「あなた方はみなつまずくでしょう。『わたしは牧者を打つ。すると,羊は散り散りになるであろう』と書いてあるからです。28 しかしわたしは,よみがえらされた後,あなた方に先立ってガリラヤに行きます」。29 しかしペテロは言った,「たとえほかのみんながつまずいても,わたしは[つまずき]ません」。30 するとイエスは言われた,「あなたに真実に言っておきますが,あなたは今日,そうです,今夜,おんどりが二度鳴く前に,あなたでさえ三度わたしのことを否認するでしょう」。31 しかし彼はしきりにこう言うのであった。「あなたと一緒に死なねばならないとしても,わたしは決してあなたのことを否認したりはしません」。また,ほかの者たちもみな同じことを言いだした。

 

マタイ26

30 最後に,賛美を歌ってから,彼らはオリーブ山に出て行った。

31 それからイエスは彼らにこう言われた。「今夜,あなた方は皆わたしに関してつまずくでしょう。『わたしは牧者を打つ。すると,群れの羊は散り散りになるであろう』と書いてあるからです。32 しかしわたしは,よみがえらされた後,あなた方に先立ってガリラヤに行きます」。33 しかしペテロは答えて言った,「ほかのみんながあなたに関してつまずいても,わたしは決してつまずきません!」34 イエスは彼に言われた,「あなたに真実に言っておきますが,今夜,おんどりが鳴く前に,あなたは三度わたしのことを否認するでしょう」。35 ペテロは言った,「たとえ共に死なねばならないとしても,わたしは決してあなたのことを否認したりはしません」。ほかの弟子たちもみな同じことを言った。

 

ルカ22

39 外に出ると,[イエス]はいつものようにオリーブ山に行かれた。そして弟子たちもそのあとに従った。

31 「シモン,シモン,見よ,サタンは,あなた方を小麦のようにふるいにかけるため,あなた方を手に入れることを要求しました。32 しかしわたしは,あなたの信仰が尽きないように,あなたのために祈願をしたのです。それであなたは,ひとたび立ち直ったなら,あなたの兄弟たちを強めなさい」。33 すると彼は言った,「よ,わたしはあなたと共に獄に入ることも死ぬことも覚悟しているのです」。34 しかし[イエス]は言われた,「ペテロ,あなたに言いますが,あなたがわたしを知っていることを三度否定するまで,今日,おんどりは鳴かないでしょう」。

 

参ヨハネ13

36 シモン・ペテロが彼に言った,「よ,どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた,「わたしが行こうとしている所へあなたは今は付いて来ることはできません。後になって付いて来ることになるでしょう」。37 ペテロは彼に言った,「よ,どうして今はあなたに付いて行けないのですか。わたしは,あなたのためには自分の魂もなげうちます」。38 イエスは答えられた,「わたしのために自分の魂もなげうつというのですか。きわめて真実にあなたに言いますが,あなたがわたしのことを三度否認するまで,決しておんどりは鳴かないでしょう」。

 

 

 

NWTは、26節を「主の晩餐の設定」伝承の最後にくっつけて、27節から新しい段落を始めている。

新共同訳も同様の段落の切り方をしている。

 

しかし、これは原文の趣旨を無視した切り方であり、「主の晩餐」を讃美歌で締め、儀式的典礼の完了としたいための護教的な解釈であろう。

 

NWTが「最後に」と訳している原文のギリシャ語は、kai=andであり、マルコが接続小辞代わりに使う口癖のような接続詞である。

必ずしも厳密な意味で、前文の時系列に続いて、「そして」と言っているのではなく、マルコにとっては新しい文を始める時の「標」のようなものである。

そこに「最後に」などという意味はない。

 

新共同訳も「一同は賛美の歌をうたってから、…」と、原文のkaiを「…してから」という意味に訳している。

 

古代の写本に段落が付いているわけではなく、ほとんど段落を切らずに、ずらずらと文を書き連ねている。句読点や鉤括弧等の記号もない。

多少の切れ目を表示する時には、現代のように改行して段落を変えるのではなく、文と文との間にやや大きな空白を入れて目立つようにしているだけであった。

しかも、それら空白の切れ目表示も写本により、かなりまちまちであり、基本的には写本家の判断で段落を切っているだけである。

 

現代の聖書も同じで、編集者自身の意見に従がって段落が切られているだけである。

句読点と段落の切り方は、それぞれ現代の編集者が好みで入れたもの、と考えて良いようである。

 

ちなみに、NWTが27節で「それから」と訳している語の原文も、kaiである。

 

 

マルコとマタイにおける「ペテロの裏切り予告」は、「主の晩餐」を終えた後のオリーヴ山での出来事とされている。

 

しかし、ルカは「主の晩餐」後の「ユダの裏切り予告」に続く「ペテロ擁護論」の一部に組み込まれており、オリーヴ山での「ペテロの裏切り予告」という設定とはなっていない。

ルカのイエスが、「主の晩餐」を後にして、オリーヴ山に行くのは、「ペテロの裏切り予告」後にもう一説教した後の22:39でのことである。

 

ヨハネにおける「ペテロの裏切り予告」は、「ユダの裏切り予告」後、ユダが出て行った後であるが、「最後の晩餐」における一連の説教話の一部に組み込まれている。

ヨハネのイエスは、14:31で、「外に行こう」と言うが、まだ外には出ない。

15-17章までの説教が続き、オリーブ山(キドロンの冬流の向こう側)に向かうのは、18:1でのことである。

 

イエスはペテロをはじめ弟子たちが「躓く」ことを予告する。

 

マルコ14

26そして讃美歌を歌いながら、オリーヴの山へと出て行った。そして彼らにイエスが言う、「あなた方はみな躓くであろうなわち我、羊飼いを打つ。すると羊たちは散らされると書いてある

 

マタイ26

30そして賛美歌を歌いながら、オリーブ山へと出て行った。31その時、彼らにイエスが言う、「あなた方はみな、今宵、私に躓くであろう。何故なら、我、羊飼いを打つ、するとその羊飼いの羊の群は散らされる、と書いてあるからだ。

 

ルカ22

31シモン、シモン、見よ、サタンがあなた達を穀物のように振い分けることを願い出ている。……

39そして出て行って、いつものように、オリーヴ山に行った。また弟子たちも彼に従って行った。

 

参ヨハネ13

36彼にシモン・ペテロが言う、「主よ、あなたはどこに行かれるのですか」。彼にイエスが答えた、「私が行くところにあなたは今は私について来ることができない。いずれ後について来ることになろう」。

 

 

マルコのイエスは「あなた方はみな躓くであろう」(pantes skandalisthEsesthe)と弟子たちに告げるが、マタイのイエスは「あなた方はみな、今宵私に躓くであろう」(pantes skandalisthEsesthe en emoi en tE nukti)とマルコにはない「今宵」(en tE nukti)と「私に」(en emoi)という句を付加した。

 

マタイが「私に」という句を付加したために、弟子たちはみな「イエス個人に」躓くであろう、という意味になった。

 

マルコには「私に」という目的語は付いていない。

マルコは、イエス個人に躓くのではなく、イエスのもたらした基本姿勢、つまりマルコの言うところの「福音」に、弟子たちはみな躓くであろう、と言っている。

 

マルコはペテロをはじめ弟子たちが、イエスを理解せず、みなイエスの福音(=イエスの生き方)を担おうとはしなかった、と批判しているのである。

 

マルコもマタイも、弟子たちがみな躓くことを、旧約の預言成就であるとしているが、微妙に異なっている。

ザカリア13:7の引用であるが、マルコは、一人称単数で「我、羊飼いを打つ」である。

ヘブライ語本文は、「羊飼いを打て」と二人称命令。

七十人訳は、「羊飼いを打て」は共通しているが、後半は写本によって異なっている。

A写本「羊飼いを打て。するとその羊飼いの羊たちは散らされる」

B写本「羊飼いを打て。そして羊たちを引き出せ」。

Q写本「羊飼いを打て。すると羊たちは散らされる」。

 

マルコの「我、羊飼いを打つ。すると羊たちは散らされる」は、一人称単数と二人称命令の違いはあるが、「羊飼いの羊たち」ではなく、単に「羊たちは散らされる」であり、七十人訳ではQ写本が一番近い。

 

マタイは「我、羊飼いを打つ。すると羊飼いの羊たちは散らされる」であるから、七十人訳ではA写本が一番近い。

 

B写本は、「散らされる」ではなく、「引き出される」と動詞が異なっている。

これは、イスラエルの指導者は間違っているから、これを懲らしめ、民の中の正しい者たちを救え、という解釈を読み込むために写本家が動詞を変えたのだろう。(K.Stendahl,The school of St.Mathew,2nd ed.1967.Lund,82)

 

七十人訳の写本はすべてキリスト教会で伝えられたものである。

キリスト教会で七十人訳の写本を作る場合、キリスト信者となったユダヤ人律法学者たちによって、キリスト教における預言成就とする解釈に合わせて、ヘブライ語本文と微妙に異なる表現に書き変えられた。

 

キリスト教会が旧約聖書に関して、七十人訳をキリスト教の正典として採用した結果、ユダヤ教徒は七十人訳を放棄して、別のギリシャ語訳を持つようになった。

 

七十人訳には、「我、羊飼いを打つ」とする写本は存在しないので、ヘブライ語本文と同じく「羊飼いを打て」と二人称命令で書かれていたものと思われる。

 

とすれば、ヘブライ語本文の二人称命令を一人称単数に変えて、伝承したのは、イエスの受難と弟子たちの離散は神の意志に基づくものだ、とするために「我=神」が「羊飼い=イエス」を打つ、と読ませるためのキリスト教会側の変更であろう。

 

マルコは、七十人訳Q写本を基にした伝承をそのまま記したのであろうが、マタイはA写本に「羊飼いの羊たちが散らされる」とあるのを見て、マルコの「羊たち」を「羊飼いの羊たち」に修正してくれたのであろう。

 

マルコは、hotiという名詞節を導く接続詞を用いて「すなわち」とザカリアを引用しているが、マタイは、garという理由を導く接続詞を用いて、「なぜなら」とザカリアを引用している。

 

ルカのイエスは、弟子たちが「みな」とは言わず、シモン(ペテロ)だけを対象にしている。

しかも、マルコ・マタイの旧約の預言成就でもなく、マルコのようにイエスの福音に「躓く」のでもなく、マタイのようにイエス個人に「躓く」のでもない。

「サタン」が活動した結果の出来事であるとしている。

 

ヨハネのイエスもルカと同じく、対象を「シモン・ペテロ」に限定している。

しかし、「躓く」と言っているのではなく、37私が行くところに…ついて来ることができない」と言う。

 

これは、ペテロの質問にイエスが答える形であるが、36節は、33節から繋がる文である。

イエスが最後の晩餐時、弟子たちに「新しいおきて」を与えたとされる34-35節は教会的編集者による挿入文であると思われる。

ヨハネでは、ユダの裏切り予告の後、ユダが出て行った後、残りの弟子たちにイエスが説教を開始する。(13:31-33)

 

「人の子も神も栄光化もされるが、私が行くところにあなた方は来ることができない」と言う。

その説教を聞いて、ペテロが質問したのである。36「主よ、あなたはどこに行かれるのですか」と。

 

その質問に対して、イエスがペテロに「今は私について来ることができないが、いずれは後について来ることになろう」と答える。

 

ヨハネでは、ペテロが「躓く」のではなく、「イエスについて来ることができない」と言うのである。

 

ただし、マルコやマタイのように、旧約預言の成就とはみなしていない。

 

マルコとマタイのイエスは、弟子たちに、甦った後、ガリラヤに行くであろうと告げる。

 

マルコ14

28しかし、私は甦った後、あなた方を先立ち導いてガリラヤへと行くであろう」。

 

マタイ26

32だが私は甦った後、あなた方よりも先にガリラヤへと行ってい」。

 

ルカ22

32私はあなたのために、あなたの信仰が傾かないようにと祈ってあげた。そしてあなたはいつか立ち戻って、あなたの兄弟たちを強めてあげなさい」。

 

参ヨハネ13

36…彼にイエスが答えた、「…いずれ後について来ることになろう」。

 

マルコとマタイは同じことを言っているように見えるが、実は二人の思想は大きく異なっている。

 

マルコの「しかし、私は甦った後、あなた方を先立ち導いてガリラヤへと行くであろう」(alla meta to egerthEnai me proachO humas eis tEn galolaoan)とマタイの「だが私は甦った後、あなた方よりも先にガリラヤへと行っている」(meta de to egerthEnai me proachO humas eis tEn galilaian)の原文での違いは、接続詞だけである。

 

だがマルコとマタイでは、「先に行く」(proagO)という動詞の使い方が大きく異なっている。

 

マルコの「甦った」(egerthEnai<egeirO)は受動形であるが、パウロ以外の文書では、この受動形は自動詞的な意味で、「自らが甦る」という趣旨で使われる。

パウロの場合は、「神が○○を甦らせる」という意味の他動詞の受動形として使っているので、○○は(神によって)「甦らされる」という趣旨になる。

 

マルコは13章までは、イエスの復活に関してこの「甦る」(egeirO)という語をイエスに関しては用いていない。イエスに関しては、自動詞で「起きる」の意のanistEmi を復活の意味で用いている。

しかし、14以降の受難物語では、逆転し、復活の意味でanistEmiを用いることはなく、egeirOだけが用いられている

 

つまり、マルコはイエスの復活に関してegeirOの受動形を用いていた伝承をそのまま写しているのであろう。

しかし、イエスに関しては、神によって「甦らされた」、と信じていたわけではなく、13章までのanistEmiと同じく自動詞的に「甦る」と考えているのであろう。

受難物語のegeirOは形こそ受身であるが、マルコの思想的には、能動の意味で考えているものと思われる。

 

マタイの「甦った」(egerthEnai)はマルコと同じく、受動であるが、能動の意味で「復活する」と考えている。

 

しかし、マルコの「先立ち導いて行く」(proachO<proagO)とマタイの「先に行く」(proachO<proagO)は同じ動詞を同じ態で使っているが、意味は異なっている。

 

原義は、pro(前に)+agO(導く、連れて行く)。接頭語proを時間的な意味で「前」という意味に取り、agOを自動詞的な意味で「行く」と取れば、「あなた方より先に行く」、つまり「弟子たちより、イエスが先にガリラヤに行って、待っている」という意味になる。

 

それに対し、proを場所的な意味で「前」と取り、agOを「導く」の他動詞の意味に取れば、あなた方を先立ち導いて行く」、つまり「イエスが先頭になり弟子たちがその後に連なり、連れて行く」という意味になる。

 

この動詞が人物を直接目的語に置いている場合は、ほぼすべてが場所的意味で「前に」と意味で「先立ち導く」の意味で使っている。

 

それを時間的な意味で「先に」という意味で使っているのは、マタイ14;22、26:32,28:7。

マルコ6:45でも時間的な意味で「先に行っている」という意味でこの動詞が使われているが、目的語はついていない。自動詞の意味で使っている。

つまり、新約著者の場合だけでなく、このproagOという動詞に人物の目的語を置きながら、「先に行って待っている」という趣旨で使うのはマタイだけである

 

マルコは、10:32でイエスが死を決意してエルサレムに向かう場面で、イエスは「彼ら(弟子たち)を先だち導く」(proagOn autou)とこの語を使っている。

 

この10:32の場面とここの14:28の場面と復活後の16:7の場面で、マルコが同じproagOという動詞を使っているのは意図的である。

 

マルコは死に向かって弟子たちの先頭に立って進むイエスと、復活後、同じく弟子たちの先頭に立ってガリラヤへと導いて行くイエスとを意図的に対照させているのである。

 

エルサレムに向かう途上での第三回受難予告のマルコ10:32のproagOを場所的な意味でのproと解し、「先立ち導く」、つまり「イエスが弟子たちの先頭に立って進んで行く」と読むのであれば、復活するイエスが14:28や16:7で、proagOすることを時間的な意味でのproと解し、「先に行く」、つまり「弟子たちより先に行って、待っている」と読むことはできないことになる。

 

しかし、マタイはマルコとは異なり、時間的な意味でイエスが「先に行く」、つまり、復活後、弟子たちはエルサレムにいるが、イエスは先にガリラヤへと行って、弟子たちを待っている、と言っていることにした。(マタイ28:7,10参照)

 

おそらく、マルコの文をマタイ独自のproagOの使い方によって、そう読んだのであろう。

 

マルコには復活のイエスがガリラヤで顕現したなどという話は全く記されていない。

マタイにあるだけである。(28:16-17)

 

ルカの方では、復活したイエスがエマウスという町に向かう途中の弟子たちと出会い、「もっと遠くに行く様子」(24:28)であったが、弟子たちをベタニアの方へと連れ出す。(24:50)

イエスはその場所で消え、弟子たちはエルサレムに戻る。(24:51-52)

ルカのイエスは最終的にオリーヴ山で昇天する。(使徒11:9-12)

ルカでは、ガリラヤ出身の弟子たちはエルサレムにとどまっており、復活したイエスが先にガリラヤに行って弟子たちを待っていることを示唆する記述はない。

 

マルコにはイエスの復活顕現話そのものが存在しない。

イエスの墓が空になっているのを目撃した女性たちは、震えと自失に捕われており、恐ろしくて、誰にも言わなかった(16:8)というのが、マルコにおけるイエスの復活物語である。

 

マルコはマタイと同じ意味で、「先に行く」と言っているのではない。

 

マルコは、イエスが「弟子たちの先頭に立って導き行く」と書くことで、何を言いたかったのだろうか。

 

おそらく、ペテロをはじめとする使徒たちに対する批判を意図しているのだろう。

 

イエスの直弟子と称する「使徒たち」は、イエスの死後、エルサレムで復活のイエスに出会ったと称して、キリスト教を発足させた。

そのまま、エルサレムにとどまったのか、あるいは一度ガリラヤに戻ったのかもしれないが、再びエルサレムに戻り、エルサレムをキリスト教の拠点とした。

 

マルコにはこれが気に入らない。

 

エルサレムはイエスを殺し、イエスを抹殺しようとした地である。

そもそもイエスはエルサレムを中心としたユダヤ教社会の宗教権力を批判する活動をしたため、殺されたのである。

 

それにもかかわらず、直弟子と称する「使徒たち」は、こともあろうに、ユダヤ教の宗教権力者に迎合する形でキリスト教の教団づくりを始めた。

 

イエスの生き方とは、真逆の方向で、イエスをキリスト化させて、イエスを殺したエルサレムをユダヤ教イエス派としてキリスト教の本拠地に据えたのである。

 

マルコとしては、イエスはあなた方が本拠地としているエルサレムになんぞにいないよ。本当はあなた方の先頭に立って、あなた方をガリラヤへと、つまりイエスの本当の本拠地へと、導いて行こうとしているのだ。

 

ガリラヤでこそ、イエスのなんたるかを知ることができるのだ、エルサレムではない、と言いたいのだろう。

 

パウロやペテロなどのエルサレムに迎合するユダヤ教的キリスト教はイエスに倣ったキリスト教ではなく、むしろイエスの教えに敵対するキリスト教であるとマルコは批判しているのだろう。

 

ルカのイエスは、弟子たちが「躓く」とも、ガリラヤへと「先立ち導く」とも、「先に行く」とも言わない。

その代わり、ペテロのために、ペテロの信仰が傾かないように、祈ってあげた、というのである。

 

ルカのイエスは、この話の前の箇所でも使徒たちを特別に擁護する言葉を残している

28あなた方は私の試練の中で私とともにとどまってくれた者たちである」とイエスに忠節な弟子たちとして、称賛するのである。

 

マルコでは、ペテロたちはまるでイエスに対して無理解であり、イエスの受難の時には、ついに誰一人イエスとともにとどまることなく、イエスを見捨てて逃げた者たちとして描かれている。

 

使徒たちが、イエスの受難の時にもイエスを離れず、イエスとともにとどまった者なのだ、という話をイエスの死後にまわりの信者たちに語っていたのは、ほかならぬ使徒たち自身であろう。

 

彼らは、自分たちはイエスの試練の時にもともにとどまっていたのだ、だからキリスト教会の指導者としてふさわしいと権威付けしていたのだろう。

 

弟子たちの中で誰が一番偉いのか、常に議論していた者たちであり、神の国でイエスの右と左の座に就くことを画策していた野心的な権威主義者たちである。

 

しかし、マルコが描く使徒たちは、イエスの試練の時に、つまり最後の晩にイエスがゲッセマネの園で「死ぬほど苦しんで祈っていた」と言われる時に、最も重要な弟子とみなされていたペテロ・ヤコブ・ヨハネの三弟子たちはそろいもそろって、イエスの近くで居眠りをしていた(14:32~)というのである。

 

イエスの裁判の時には、「たとえ共に死ぬことになろうと決して裏切らない」と豪語していたペテロが中庭で三度否認したという話(14:66~)はマルコに由来するものである。

 

つまり、一方ではルカが描こうとしている、ペテロたちがキリスト教会を設立して以後、使徒たちこそが主キリスト・イエスの試練の時にずっと付き添い、とどまっていたのだとする、使徒たち自身によって流布されていた伝承があった。

 

他方では、マルコの描く、ペテロをはじめとする弟子たちは、ルカの描く伝承のようなイエスに忠実な者たちではないと批判する伝承も存在した。

 

マルコが最初の福音書を書いて、キリスト信者をはじめとする読者に広く読まれ、知られていたため、マタイもルカもマルコの文章を真っ向から否定することは出来なかったのであろう。

 

そのため、マルコの文を基軸にしながら、使徒たちを擁護する表現を付加したり、すり変えたり、イエスや使徒たちを聖人化する伝承を組み込んだりしながら、マルコの使徒批判をかわすためにエルサレム重視の福音書を書いたのであろう。

 

マタイはペテロの裏切りについて、基本的にはマルコを写している。

マルコによって、ペテロの裏切りについては広く知られる伝承となっていたのであろう。

 

さすがのルカさんもペテロの裏切りそのものを否認出来ないと観念していたらしく、事実そのものは否定してはいない。

 

ただし、ゲッセマネでのペテロたちの居眠りに関しては、マルコにはない「苦しみの故に」(apo tEs lypEs)という句を付加することによって、見事に、と言いますか、何と申しますか、ペテロさんたちの名誉挽回を謀っている(22:45)。

 

ルカはもちろんマルコを読んで知っているし、ルカの時代の多くの信者たちもマルコをよく読んでいるという事実も知っている。

 

今さら、なかったことにすることにも出来ないので、受難物語の中にも「使徒」様たちの自己主張を組み込んで、マルコの使徒批判の矛先をすり替え、汚名返上しようとしているのである。

 

ルカはペテロ様がイエスを裏切るのはサタンのせいであり、イエスは信仰の試練を乗り越えられるように祈っていた。だから、立ち直ったら、今度はキリスト信者を助けるための指導者として、あなたの兄弟たちを強めてあげなさい、と言うのである。

 

ペテロをはじめとする使徒たちは、一度はイエスを見捨てたのであるが、悔い改めて立ち戻り、立派なキリスト教指導者となりました、という遠藤周作節は、すでにルカの時代から存在するのである。

 

実際のペテロたちは、悔い改めるどころか、自分たちは最初から来たるべき神の国の権威者として任命されたのだ、と吹聴し、自信満々でキリスト教会を発足させたのだろう。

 

もちろん、イエス自身はキリストと呼ばれることすら否定しているのだから、使徒たちを神の国の権威者として任命することなどあろうはずもない。

 

実はペテロさんたちは、生前のイエスには叱られてばかりで、イエスのことをまるで理解できず、身に危険が及ぶと、イエスを捨てて、トンヅラした「使徒」様だったのですよ、とマルコは暴露したのである。

 

マルコめ、余計なことをしやがって、と思っていたマタイさんとルカさんのおかげもあって、マルコ福音書はその後正確に読まれることがなくなる。

その代わり、ペテロ一派は最初から立派なイエスのお弟子さんとしてキリスト教を出発させた、という話が広く信じられるようになってしまったのである。

 

マルコを最初に読めば、マタイとルカの誤魔化しが見えるのであるが、マタイの刷り込みがあるとルカは理解できるが、マルコは理解できなくなる。

 

マルコがマタイ・ルカとは違うことを言っている、という事実は二十世紀になって、再発見されることになる。

 

再発見につながったのは、数多くの写本が残されたことによる正文批判の研究成果でもあるのだから、ある意味では聖書正典信仰のおかげとも言える。

 

おかげさまで使徒たちの「汚名」は「挽回」されることになったのである。

 

 

ヨハネのイエスは、ガリラヤに「先立ち導く」とも「先に行く」とも言わない。

ペテロに「いずれ後について来ることになろう」と個人的な予言を伝える。

このイエスの言葉は、ペテロの殉教を予言したものと解釈されている。

 

 

イエスの弟子たちがみな「躓く」という言葉に、ペテロは反論する。

 

マルコ14

29ペテロが彼に言った、「たとえすべての者が躓いても、私は躓きません」。30そして彼にイエスが言う、「アーメン、あなたに言う、あなたこそ今日、今宵、鶏が二度鳴く前に、私を否むであろう」。31彼はますます言いつのった、「たとえ私があなたとともに死なねばならぬとしても、私があなたを否むようなことはありません」。またすべての者が同様に言った。

 

マタイ26

33ペテロが答えて彼に言った、「たとえすべての人があなたにいても、私は決して躓きません」。34イエスが彼に言った、「アメーン、あなたに言う、今宵、鶏が鳴く前に、あなたは私を三度否むであろう」。35ペテロが彼に言う、「たと私があなたとともに死なねばならぬようなことがあっても私があなたを否むようなことはありません」。またすべての弟子たちが同じように言った。

 

ルカ22

33シモンは彼に言った、「主よ、私はあなたと共に牢獄へも、死へも進んで行くつもりです」。34彼は言った、「あなたに言う、ペテロよ、あなたが三度私のことを知らないと否むまで、今日鶏が鳴くことはないだろう」。

 

参ヨハネ13

37彼にペテロが言う、「主よ、何故今はあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために捧げます」。38イエスが答える、「あなたの生命を私のために捧げると?アメーン、アメーン、汝に告ぐ、あなたが私を三度否むまでは、鶏が鳴くことはないだろう」。

 

 

マルコの「躓く」(skandalisthEsontai)という自動詞には、補語となる語はついていないが、マタイは「あなたに」(en soi)という句を置いている。

 

マタイは、「決して」(oudepote)という副詞を付けて、ペテロの「躓かない」とする決意を強調してくれた。

結果は余計に裏目に出るのであるが、後に悔い改め、立派な使徒になった、とする話からすれば、傲慢さが強調されるほど、悔い改め時の謙遜さも強調されることになるのだろう。

 

ルカのペテロは、「私は躓きません」などと豪語しない。「主よ、私はあなたと共に牢獄へも、死へも進んで行くつもりです」と死をも厭わずイエスに従がう決意であることを示す。

これもまた前節に続くペテロ護教論の続きである。

 

おそらく、イエスの逮捕時にペテロは逃げ出したのだが、その後アグリッパ王の弾圧に際しては投獄を体験した(使徒12:3~)ことを念頭に置いて、「牢獄へと」を入れたのだろう。

「死へも」と付け足していることからすると、ルカはペテロが殉教の死を遂げた、と思っているのかもしれない。

 

本当のところ、ペテロの最期についてはまったく不明。

パウロがアンティオキア教会に居た時にペテロもそこに居て、パウロとの間に意見の衝突があった(ガラ2:11~)とする記述はあるが、それ以後のペテロの足跡については不明である。

 

すでにルカの時代からペテロを聖人化する本人発の伝承が作られ、流布されていたのであろう。

 

ルカは、ペテロだけでなく、「またすべての者が同様に言った」というマルコの文を削除した。

ペテロだけでなく、使徒たちの面目も守ってくれたのだろう。

 

ルカではマタイ以上に「十二使徒」に対する聖人信仰が進んでいることが伺える。

 

ヨハネのペテロも「主よ、なぜ今はあなたについて行くことができなのですか。私は自分の生命をあなたのために捧げます」とルカのペテロと同じく、死をも厭わずイエスに従がう決意を示す。

 

しかし、ルカとは異なり、ヨハネにペテロを擁護するつもりはない。

 

ヨハネとルカでは、言葉遣いも、共通の語もなく、ヨハネがルカを知っていたというのではない。

 

ヨハネはマルコの後半にある「たとえあなたと共に死なねばならないとしても、私を否むようなことありません」という文を念頭に、ヨハネ流の表現に書き変えたのであろう。

 

 

イエスは、ペテロの「躓かない」とする自信満々の決意を、「アメーン、あなたに言う」という保証の言葉を添えて、ペテロの自画自賛を完全に否定する。

 

マルコ14

30そして彼にイエスが言う、「アーメン、あなたに言う、あなたこそ今日、今宵、鶏が二度鳴く前に、私を三度否むであろう」。彼はますます言いつのった、「たとえ私があなたとともに死なねばならぬとしても、私があなたを否むようなことはありません」。またすべての者が同様に言った。

 

マタイ26

34イエスが彼に言った、「アメーン、あなたに言う、今宵、鶏が鳴く前に、あなたは私を三度否むであろう」。35ペテロが彼に言う、「たとえ私があなたとともに死なねばならぬようなことがあっても、私があなたを否むようなことはありません」。またすべての弟子たちが同じように言った。

 

ルカ22

34彼は言った、「あなたに言う、ペテロよ、あなたが三度私のことを知らないと否むまで、今日鶏が鳴くことはないだろう」。

 

参ヨハネ13

38イエスが答える、「あなたの生命を私のために捧げると?アメーン、アメーン、汝に告ぐ、あなたが私を三度否むまでは、鶏が鳴くことはないだろう」。

 

マルコのイエスは、ペテロに対して、保証となる「アメーン」言葉だけでなく、「あなたに言う、あなたこそ…」(legO soi hoti su…)と最初は対格で「あなたに」と呼びかけ、続けて主格で「あなたが」と繰り返し、ペテロに対して言っている。

「あなたこそ今日、今宵、鶏が二度鳴く前に、私を三度否むであろう」(su sEmeron en tE nukti tauta prin hE dis alektra phOnEsai tris aparnEsE me)と。

 

動詞の態だけで主語が特定できるのに、わざわざ主格の「あなた(su)」を置いている。

つまり、この主格の「あなた」(=ペテロ)を強く強調する意図があるということ。

 

ペテロさんよ、他の者は躓くかもしれないけど、私は躓かない、などと良い気になっているようですが、他ならぬペテロさんよ、あなた様が、今日、今宵、いの一番にイエスを否定する。

しかも、三度も否定し、完全否認することになるんですよ、という含みがある。

 

マルコとしては、「ペテロよ、お前がそれを言うか!」という思いなのだろう。

 

マルコのペテロは、相変わらずイエスの言葉に無理解で、イエスを否定し、自分の命にかけても「否む」ことはしない、とますますイエスの言葉を認めない。

聖餐式でイエスと一緒に食事をした、すべての者(十二使徒)が「同様に言った」のだから、彼らもペテロと同罪であろう。

 

マルコは十二使徒全員がイエスを見捨てて完全に否認したのであるから、ペテロを含め十二使徒たちの罪は、イエスを引き渡したユダの罪と大差ないと考えているのだろう。

確かに大祭司に引き渡す手続きをしたのはユダであるかもしれないが、イエスの敵を前にして、イエスを見捨てて、全員逃げているのだから、イエスを裏切っていることに関してはユダと同罪であるとみなしているのだろう。

 

むしろ絶対に「躓かない」と豪語しているだけに、ユダよりペテロの方が罪が重いと考えているのかもしれない。

 

マタイは、ペテロの「躓かない」とする決意に関しては、「決して」と強調しているのに、イエスがペテロを批判する意図で強調しているマルコの「あなたこそ」(su)は削除した。

 

マルコが「今日、今宵」(sEmeron en tE nukti)と無駄に繰り返し、強調している箇所も、マタイは「今宵」(en tE nukti)だけにした。

 

マタイとしてはイエスのペテロ批判と使徒批判を少しでも和らげたいのであろう。

 

ルカのイエスは、ペテロに対する批判につながる言葉を一切言わず、ペテロのために祈り、立ちもどって、兄弟たちを強めるように、励ます。

ペテロの方も、イエスに対し「主よ」と呼びかけ、信仰告白し、忠節の決意を表明する。

 

ルカはペテロが三度否認することを主文として描くのではなく、「あなたが三度私のことを知らないと否むまで、今日鶏が鳴くことはないだろう」(ou mE phOnesei sEmeron alektOr prin he tris aparnEsE mE eidenai me)と「鶏」を主役にして、ペテロの裏切りを従属文にして、イエスの予言を描く。

 

しかし、肝心のマルコの「またすべての者が同様に言った」とする十二使徒たちも同罪であることを示す文は削除している。

 

ルカはペテロや十二使徒たちに対してマタイ以上に同情的である。

 

ヨハネのイエスは、マルコのイエスと同じく、ペテロに批判的である。

ペテロの「私は自分の生命をあなたのために捧げます」というペテロの生命をかけた決意に対して、鼻であしらうように答える。

「あなたの生命を私のために捧げると?」

 

ペテロさんよ、お前さん、ふざけたことを言うんじゃないよ、というヨハネの感情が読み取れる。

 

この話の流れは、おそらく、マルコの31たとえ私があなたとともに死なねばならぬようなことがあっても、私があなたを否むようなことはありません」という文を念頭に置き、マルコの「あなたこそ」そのものではないか、というニュアンスを読み込んだのだろう。

 

そして、ヨハネ流の「アメーン」を繰り返す「アメーン言葉」でペテロに告げる。

「あなたが私を三度否むまでは、鶏が鳴くことないだろう」 (ou mE alektOr phOnEsei hoes hou aparnEsE me tris)と。

 

ペテロが否認することを軸にしたマルコの表現、「あなたこそ今日、今宵、鶏が二度鳴く前に、私を三度否むであろう」(su sEmeron en tE nukti tauta prin hE dis alektra phOnEsai tris aparnEsE me)というペテロを主語にした文を念頭に置いたものだろう。

 

マタイ・ルカの「ペテロの裏切り」伝承に、「あなたこそ」(su)という主格の主語はついておらず、主格の「あなた」(su)を入れたのは、マルコであり、元伝承にはついていなかったのかもしれない。

 

四福音書の著者におけるペテロと十二使徒に対するそれぞれの異なる姿勢が見える「ペテロの裏切り」物語となっている。