マルコ13:28-32 <終末の時> 並行マタイ24:32-36、ルカ21:29-33
マルコ13 (田川訳)
28いちじくの木から、次の比喩を学ぶがよい。その枝がやわらかくなり、葉が出て来ると、あなた方は夏が近いと知る。29同様にあなた方も、これらのことが生じるのを見たら、戸の近くまで来ていると知るがよい。30アメーン、あなた方に言う、これら一切が生じるまではこの世が過ぎ去ることはない。31天地は過ぎ去るだろう。しかし私の言葉が過ぎ去ることはない。32その日、その時については、誰も知らない。御父以外は、天にいる天使も、御子も、知らないのである。
マタイ24
32いちじくの木から、次の比喩を学ぶがよい。その枝がやわらかくなり、葉が出て来ると、あなた方は夏が近いと知る。33同様にあなた方も、これらのことがすべて生じるのを見たら、戸の近くまで来ていると知るがよい。34アメーン、あなた方に言う、これらすべてが生じるまではこの世が過ぎ去ることはない。35天地は過ぎ去るだろう。しかし私の言葉が過ぎ去ることはない。36その日とその時については、誰も知らない。御父のみの外は、天にいる天使たちも、御子も、知らないのである。
ルカ21
29そして彼らに比喩を語った、「いちじくの木を、またすべての木を見るがよい。30芽を出せば、あなた方は自分でそれを見て、すでに夏が近いと知る。31同様にあなた方も、これらのことが生じるのを見たら、神の国が近いと知るがよい。32アメーン、あなた方に言う、一切が生じるまではこの世が過ぎ去ることはない。33天地は過ぎ去るだろう。しかし私の言葉が過ぎ去ることはない。
マルコ13 (NWT)
28 「では,いちじくの木から例えを学びなさい。その若枝が柔らかくなって,その葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。29 同じようにあなた方は,これらのことが起きているのを見たら,彼が近づいて,戸口にいることを知りなさい。30 あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。31 天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は過ぎ去らないのです。
32 「その日または時刻についてはだれも知りません。天にいるみ使いたちも子も[知らず],父だけが[知っておられます]。
マタイ24
32 「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。33 同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。34 あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。35 天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。
36 「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。37 人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。38 洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。39 そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在[の時]もそのようになるのです。40 その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。41 二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。42 それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。
ルカ21
29 そうして[イエス]は彼らにひとつの例えを話された。「いちじくの木やほかのすべての木をよく見なさい。30 それらが既に芽ぐんでいれば,あなた方はそれを観察して,もう夏の近いことを自分で知ります。31 このように,あなた方はまた,これらの事が起きているのを見たなら,神の王国の近いことを知りなさい。32 あなた方に真実に言いますが,すべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。33 天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。
「終末と人の子の来臨」に続く、「終末」に関する伝承である。
マタイはマルコをほぼそのまま写しているが、強調の一語を加えたので、マルコとは意味するところが変わってしまっている。
また、マルコとマタイでは「近くまで来ている」ものに対して、異なる設定をしているので、内容も異なることになった。
ルカは、「近い」のが「神の王国」であることにし、「その日、その時については、誰も知らない」とするマルコの文を削除している。
マルコは、「いちじくの木」の比喩から、「近くに来ている」ものに対して、何を「学ぶがよい」と言っているのか。
マルコ13
28いちじくの木から、次の比喩を学ぶがよい。その枝がやわらかくなり、葉が出て来ると、あなた方は夏が近いと知る。29同様にあなた方も、これらのことが生じるのを見たら、戸の近くまで来ていると知るがよい。
マタイ24
32いちじくの木から、次の比喩を学ぶがよい。その枝がやわらかくなり、葉が出て来ると、あなた方は夏が近いと知る。33同様にあなた方も、これらのことがすべて生じるのを見たら、戸の近くまで来ていると知るがよい。
ルカ21
29そして彼らに比喩を語った、「いちじくの木を、またすべての木を見るがよい。30芽を出せば、あなた方は自分でそれを見て、すでに夏が近いと知る。31同様にあなた方も、これらのことが生じるのを見たら、神の国が近いと知るがよい。
マルコの「次の比喩」を、NWTは、単に「例え」と訳している。
原文は、定冠詞付き「比喩」の単数形(tEn parabolEn)。
定冠詞がついているだけで、「次の」という語あるわけではない。
「この比喩」という趣旨で、これから述べる「比喩」を指しているのだから、田川訳は「次の」と訳したもの。
マタイも同じく、定冠詞付き「比喩」の単数形としている。
ルカは、定冠詞を取り、直接話法で、イエスが彼らに「比喩」を語った(kai eipen parabolEn)という構文で始めている。
マルコもマタイも、いちじくの木の枝が柔らかくなり、葉が出て来ると、夏が近いことを知るのと同じように、「これらのこと」が生じるのを見たら、「戸の近くまで来ている」ことを知れ、と言う。
マルコの「これらのこと」(tauta)という複数形の代名詞は、何を指しているのか。
素直に読めば、前段の「終末」(=天体の消滅)と「人の子の来臨」を指す、と読める。
あるいは「終末」だけを指すと読むか。
マルコとしては、天体の消滅と人の子の来臨があれば、それはもう「終末」そのものであり、「宇宙の終焉」なのだ、と言っているのだろう。
しかし、多くの学者はこの読み方に反対しているそうだ。
天体の消滅と人の子の来臨は、すでに終末そのものであるから、それが起こったら、終末が近いと知りなさい、と言われても、すでに終末になっているのだから、もう遅い、意味をなさない、というのである。
それで、前段の伝承とこの段の「これらのこと」を含む伝承とは、本来無関係の伝承のものであったが、マルコが二つを繋いで編集したので、「これらのこと」とは「天体の消滅」と「人の子の来臨」を指す、と読めるようになったのだ、と主張する。
「これらのこと」に関する論文は掃いて捨てるほどあるそうであるが、無理に議論する必要ない論議として田川先生は一蹴している。(「訳と註」p413参照)
反対している多くの学者も認めているように、文字通りに読めば、マルコの「これらのこと」とは、「天体の消滅」と「人の子の来臨」を指すことは、明らかである。
ただ、この文はあくまでも「終末」ではなく、終末が来る前の「徴」を読者に知らせるためのものだと解釈したいのであろう。
そのためには、「これらのこと」とは、「終末」以外のものを指していなければならない。
つまり、マルコの「戸の近くまで来ている」という文の主語を「終末」に解釈することを認めたくないのであろう。
「人の子」を主語にするなら、「終末」ではなく「終末の徴」と解釈することは可能である。
マタイは、「これらのことがすべて」(panta tauta)が生じるのを見たなら、とマルコにはない「すべて」(panta)という語を付加した。
マルコの「これらのこと」(tauta)とは、前段で述べている話の内容を指しているだけであったのに、マタイでは、これまで述べて来た「すべて」の事柄を指すことになった。
マタイでは、前段でも30「人の子の徴」が天に現われてから、「人の子の到来」が生じるのであり、主要な関心は、「終末の徴」と「キリストの再臨の徴」(24:3)という「徴」にある。
「終末」や「人の子の来臨」そのものよりも、「徴」と「終末」、「徴」と「キリストの再臨」との関係性に重きが置かれている。
マタイにとって、いつ「終末の徴」が、いつ「再臨の徴」が見られるかが重要なのである。
それに対して、マルコは「終末」にしても「人の子の到来」にしても、「徴」に対する関心には否定的である。
これまでも繰り返し述べてきたが、マルコの中で、「徴」を求めるのは、イエスに反対する「パリサイ派」(8:11)と「弟子たち」(13:4)であり、「徴」や「奇跡」を行なうのは、「偽キリストや偽預言者」(13:22)だけである。
マルコは、「終末だ、キリストだ、徴だ」と言いつのり、「過ぎ去る、過ぎ去る」などと騒ぎ立てる姿勢を一貫して批判している。
本当に「終末」が来る時には、天体が消滅してしまうのだから、その時になったら、これが「終末」だと受け入れればいいだけだろう、とマルコは言いたいのであろう。
マルコの「これらのこと」を「終末の徴」や「人の子の来臨の徴」と読もうとするのは、マタイをマルコに読み込むものであり、聖書霊感説信仰に基づく護教主義の所産であろう。
マタイを中心にして福音書を解釈しようとすると、「戸の近くまで来ている」という文の主語が重要になる。
原文は、eggus estin epi thuraisであり、主語が特定されていない三人称単数の動詞(estin)を使っている非人称的な文。
NWTは、「彼が近づいて戸口にいることを知りなさい」と主語に「彼」を置いている。
これはもちろん、「人の子」(=キリスト)を指していると解釈したのであろうが、原文の動詞は三人称ではあるが、男性形ではない。
原文(eggus estin epi thurais)を字義訳すると、「近くに」「それがある」「戸のところに」という並び。
「それが戸の近くにある」という意味になるが、厳密には非人称であるから、「人間や何かの男性形で示されるものが近くに存在している」、という意味ではなく、何となく曖昧に「それが近い」という趣旨である。
この文の前には、「終末」と「人の子の来臨」が書かれているが、この文の後には、「人の子の来臨」に関する言及はない。
後にあるのは、「此の世と天地が過ぎ去る」ことに言及しているのだから、前後の文脈からすれば、「終末が近い」という意味に取るのが常識的であるように思える。
ここに「彼」という人称代名詞を入れて読んでしまうと、「キリストの再臨が近い」と読むことになり、マルコの「これらのこと」とは「「再臨の徴」を意味していることになってしまう。
つまり、マルコとマタイは同じことを言っている、と読んでしまうことになる。
しかし、マルコの文は、「これらのことが生じるのを見たなら、(これらのことが)戸の近くまで来ていることを知るがよい」と言っているだけである。
原文では主語がついていないマルコの「戸の近くまで来ている」という文に、主語を入れて訳しているのは、NWTだけではない。
共同訳 「人の子が戸口に近づいている」
フ会訳 「人の子が戸口に近づいている」
岩波訳 「彼が入口のところまで近づいている」
新共同訳 「人の子が戸口に近づいている」
前田訳 「人の子が戸口に近い」
新改訳 「人の子が戸口まで近づいている」
塚本訳 「人の子(わたし)が門口近くに来ている」
口語訳 「人の子が戸口まで近づいている」
文語訳 「人の子すでに近づきて門邊にいたる」
和訳聖書のすべてが、「人の子」もしくは「彼」という主語を置いている。
ルターは原文の曖昧さを残し、「それ」(es)という主語をつけている。
ティンダル以後の英訳も、それに倣い主語に「それ」(it)を置いている。
ところが、19世紀末ごろのシオニズム運動の高まりとともに、この主語に「人の子」を補う説が強くなる。
英訳RV=RSVにも採用され、和訳聖書にも導入されていった。
シオニズム運動から生まれたWTも当然この説を採用しているので、NWTもまるではじめから原文についているかのように( )も付けずに、「彼」を補っている。
この文の主語に「人の子」を置くのは、三人称単数の動詞の主語が、27節の「人の子」という単数を指すと解釈しなければならず、離れ過ぎている。
「来ている」の動詞も男性形ではない。
文法的に、主語は中性名詞の単数形を指すことになり、「これらのこと」もしくは「夏」を指すことになるので、とても無理があるように思える。
「夏」を指すと読んでも、「終末」の比喩であるから、「これらのこと」を指すと読むのと同じことである。
( )も付けずに原文であるかのように、「人の子」や「彼」を置くのは、改竄の部類であろう。
マタイの「これらのこと」とは、マルコにはない「すべて」という語を付加したため、これまでマタイが述べて来た「終末の徴」もしくは「人の子の到来の徴」を指すことになった。
マタイの「これらのこと」とは「終末」そのものを指すわけではないので、「戸の近くまで来ている」のが、「終末」であっても、「徴」がすべて生じるのを見たなら、「終末」が「近いことを知りなさい」と読むことになり、素直に通じる。
マタイは、マルコの文に「徴」という語と「すべて」という語を足すだけで、マルコの意図とは真逆の、「徴」の重要性を説く福音書に仕立て直したのである。
天才的な「言葉の魔術師」と言おうか、「詐欺師」と言おうか、感動を覚えるほど見事な「詐話術」、「すり替え論理」の名人である。
ルカは、主語が明示されていなマルコの文に「神の国」を主語として置き、「これらのことが生じるのを見たら、神の国が近いとと知るがよい」と「神の国」を待望するキリスト教に書き変えた。
ルカの「これらのこと」(tauta)とは、前段の内容を指している。
具体的には「天体の徴」「諸民族の窮状」「人の子の到来」「贖い」(=救済)を指す、と読める。
ルカは、マルコでは「いちじくの木」だけの比喩であったものに、「すべての木を見る」ことを付加した。
その結果、ルカでは、前段以前の「徴」や「弾圧」を含めた、これらのこと「すべて」が、「神の国が近い」ことの徴となったのである。
マルコは、「天体の終焉」や「人の子の到来」が見られたら、宇宙が終焉する「終末」が、すぐ近くまで来ていることを学ばせ、何を知らせたかったのか。
マルコ13
29…これらのことが生じるのを見たら、戸の近くまで来ていると知るがよい。30アメーン、あなた方に言う、これら一切が生じるまではこの世が過ぎ去ることはない。31天地は過ぎ去るだろう。しかし私の言葉が過ぎ去ることはない。32その日、その時については、誰も知らない。御父以外は、天にいる天使も、御子も、知らないのである。
マタイ24
33…これらのことがすべて生じるのを見たら、戸の近くまで来ていると知るがよい。34アメーン、あなた方に言う、これらすべてが生じるまではこの世が過ぎ去ることはない。35天地は過ぎ去るだろう。しかし私の言葉が過ぎ去ることはない。36その日とその時については、誰も知らない。御父のみの外は、天にいる天使たちも、御子も、知らないのである。
ルカ21
30…これらのことが生じるのを見たら、神の国が近いと知るがよい。32アメーン、あなた方に言う、一切が生じるまではこの世が過ぎ去ることはない。33天地は過ぎ去るだろう。しかし私の言葉が過ぎ去ることはない。
マルコのイエスは、「アメーン」という保証の言葉を添えて、「これら一切が生じるまではこの世が過ぎ去ることはない」と、否定語を重ねて「過ぎ去ることはない」(ou mE parelthE)ことを強調している。
「これら一切」(panta auta)とは、「終末」以前(13:1-23)に生じる一切の患難を指している。
「終末」とは天地が過ぎ去る、宇宙の終焉なのだから、「終末だ」「徴だ」「キリストだ」と騒ぐんじゃない。
いろいろな患難が生じたとしても、此の世は簡単に過ぎ去ることはない。
「これら一切」(panta auta)が生じるまでは、「此の世は過ぎ去ることはない」(ou mE parelthE hE genea hautE)と否定語を重ねて「過ぎ去ることはない、ない」、と「あなた方」に言うのである。
マルコの「あなた方」とは、前段の「選びの者」を想定しているのか、それとも読者を想定しているのか。
どちらにしても、患難を生き残る者たちは、「神の選びの者」であるのだから、「終末」が来たからと言って、ジタバタ騒ぐんじゃぁない。
すぐに「此の世が過ぎ去ることはないし、ないのだから」。
だがいずれ「天地は過ぎ去る」時が来るのは避けられないだろう。
しかし、「イエスの言葉」が過ぎ去ることはない、と言っている。
マルコにとって「イエスの言葉」とは「福音」と同義である。
マルコの考える「福音」とは、「キリスト教信仰」という意味ではなく、「イエスの生き方そのもの」を指している。
マルコとしては、神を信頼し、「イエスの言葉」に従がって、しっかり歩もうではないか。
その時、「人の子」は「地の端から天の端にいたるまで、四方から」、「選びの者」を集めて下さるのだから。
くり返して言うが、「終末の日」は来る。
だが、「その日、その時については」、誰も知らない。
神以外は、天使も御子も誰も知らないのだから、と言うのである。
「御子」(ho huios)は、定冠詞付き「子」で、「神の子」という意味。
マルコは、イエスを「神の子」とみなしていたとしても、「神」とは異なり、「神の子」でさえ、「終末」がいつ起こるかなどということは知らない、と言う。
しかし、「イエスの言葉」は過ぎ去ることはないのだから、「終末の日」が来るその日まで、「イエスの言葉」(=福音=イエスの生き方)に従がって、生きていこうではないか、と繰り返し、言っているのだろう。
それに対し、マタイのイエスも、マルコのイエスと同じく、「アメーン」という保証の言葉を添えて、「これらすべて」(panta tauta)が生じるまでは「此の世は過ぎ去ることはない」(ou mE parelthE hE genea hautE)と言う。
「アメーン、あなた方に言う」(amEn legO humin)まで、含めて、マルコと一言一句同じである。
マタイの「あなた方」もマルコと同じく前段の「選びの者」もしくは読者を指しているのだろう。
しかしながら、マルコと同じ意味での「選びの者」でも「読者」でもない。
マタイは、「選びの者」として、「マタイ派キリスト教信仰の信者」を想定しており、ユダヤ人を含め、それ以外の「氏族」や「民族」は「終末の日」にすべて滅ぼされるという設定にしている。
マルコの「これら一切」(panta tauta)とは、「終末」が来るまでの長い期間にわたる患難を伴なう日々に起きる一切の出来事」を指しており、「戦争」や「地震」や「飢饉」や「弾圧」があるかもしれないけど、そう簡単には「終末」なんぞ来ないよ、言っているのであり、「此の世が過ぎ去らない」ことを保証しているのではない。
簡単に「終末」は来ないことを保証しているのである。
それに対し、マタイの「これらすべて」(panta tauta)とは、「終末の徴」と「人の子の徴」の「すべて」を指しており、「すべての徴」が成就するまでは、「此の世が過ぎ去ることはない」と保証することとなったのである。
マタイでも、「天地は過ぎ去るであろう。しかし私の言葉が過ぎ去ることはない」というマルコと一言一句同じ文が続いている。
ところが、マタイのこの節を丸ごと削除している写本がある。
シナイ写本の第一写記であり、最重要写本の一つである。
常識的には、他の重要写本のすべてが異なっている場合、最重要写本一つでその読みが決定されることはない。
だが、この句を削除してある読みは、マタイ的には引っかかる要素がある。
マタイには、「天と地が過ぎ去るが過ぎ去ることはない」ものに関する別の伝承が収められており、5:18「すなわち、アメーン、汝らに言う、天地が過ぎ去るまでは、一点一画たりとも律法から過ぎ去ることはない。一切が生じるまでは。」とある。
マタイとしては、「天地が過ぎ去る」、としても決して過ぎ去ることのないものは、「イエスの言葉」ではなく、「律法」であるはずである。
マタイ5:18の並行とされるルカ16:17にも似たような伝承が収められており、「17律法の一画が落ちるよりも、天地が過ぎ去る方が容易である。」とある。
大元には共通の短いイエス伝承が存在したのは確かであろうが、マタイとルカではだいぶ言葉遣いが異なっている。
ルカでは単に「一画」とあるだけなのに、マタイは「一点一画」と強調している。
さらにマタイは冒頭に「アメーン、あなた方に言う」という句を入れ、権威付けしている。
最後には「一切が生じるまでは」と付け加えている。
マタイとしてはパリサイ派のユダヤ教によっては、「律法」は完成されておらず、その「一切が生じ」、完成されるのは、ユダヤ教を受け継いだマタイ派キリスト教においてである、と考えているのだろう。
つまり、マタイにとっては、天地が過ぎ去ろうとも、過ぎ去らないものとは「律法」であると考えている。
マルコのこの伝承とマタイとルカの伝承を比較すると、元伝承を作成した初期キリスト教のユダヤ人キリスト信者は、まだまだキリスト教をユダヤ教律法の枠内にとどめておきたかったのだろう。
だから、マタイも何が過ぎ去ろうとも、旧約律法は一点一画にいたるまで、過ぎ去ることはない、と強調したのだろう。
それに対し、マルコの文には「律法」を示唆する文言は一切無く、「私の言葉」として、「イエスの言葉」、マルコの言う「福音」、「イエスの生き方」こそが、過ぎ去ることのないものだ、と主張するのである。
マタイの「律法」を絶対視する姿勢は、マルコと著しく異なっている。
マタイにマルコの文が一字一句違わずにそのまま置かれているということは、マルコの「私の言葉」の「私」を「神」を指すと読んで、「神の言葉が過ぎ去ることはない」と解釈した写本家により、マタイに組み込まれた可能性も否定できないように思える。
あるいは、マルコの「私の言葉」を「神の言葉」と読んだマタイがそのまま写したのか。
マタイがマルコの「私の言葉」を「イエスの言葉」もしくは「キリストの言葉」と読んだとしても、「神の言葉」と読むとは考え難いのだが…。
シナイ写本のマタイの第一写記に、この節が削除されているのをどう理解するか…。
マタイでは次の、マルコでは同じ趣旨のことの繰り返しとなっているこの段の結びの節も、マルコとまったくといいほど一言一句同じである。
違いはマルコの「御父以外」(mE ho patEr)をマタイは「御父のみ以外」(mE ho patrE monos)と強調語(monos)を入れているだけ。
マルコの文にこの種の強調を加えるのはマタイの得意技でもある。
マタイに35節のマルコと同じ文がなくても、続く節と趣旨は変わらないから、意味は通じる。
マルコは、終末がいつ来るのかを知っているのは神だけであり、人間にそんなことが分かるはずがない。
人間どころか、天使や御子でさえも、知らない、と言っている。
「御子」(ho huios)は、定冠詞付き「子」で、「神の子」という趣旨。
「神の子キリスト」信仰が定着した後世のキリスト教では、都合が悪かったのだろう、ヴルガータの多数の写本がマルコの「御子も」を削除している。
マタイはマルコをそのまま写し、「御子」も知らない、としている。
ただし、ビザンチン系の多数のマタイ写本は、「御子も」を削除している。
ヴルガータの時代(四世紀)には、イエス・キリストの神格化が進み、神が知っているのは当然であるとしても、神格化された「神の子キリスト」までが、知らないというのでは、キリスト教ドグマ的に不都合だったのであろう。
マルコでもマタイでも「御子も知らない」という句は削除されたのである。
マルコでもマタイでも、「その日、その時については、御父以外は、誰も知らない。御子も知らない」とあるにもかかわらず、WTは、復活したイエスが「終末」の来る日を知っていると解釈している。
*** 塔96 8/1 31ページ 読者からの質問 ***
イエスは,神のみ名において征服する者として今や権限を与えられているわけですから,終わりが来る時,また「征服を完了する」時について父から知らされていると考えるのは道理にかなったことと思われます。
このWT解釈は、マルコとマタイから「御子も知らない」とする句を削除した写本家と同様の精神を示しているのではなかろうか。
ルカは、マルコの「アメーン、あなた方に言う…しかし私の言葉が過ぎ去ることはない」まで、ほぼほぼそのまま写している。
違いは、マルコの「これら一切が生じる」(panta tauta genEtai)を「一切が生じる」(panta genEtai)とし、「これら」(tauta)という語を削った。
「これら」が付くと、前文が言及していることに限定されるが、「一切」(panta)だけになると、限定が外される。
ルカがこれまで述べて来た「終末の徴」としている「一切」の出来事を指すことになる。
さらにルカは、マルコの最後の節をまるまる削除した。
「神の子キリスト」様が、終末に関することなど知るわけがない、とするマルコの文を採用するわけにはいかなかったのだろう。
ルカにとって重要なのは、宇宙の終焉を意味する「終末の日」ではなく、「エルサレムの荒廃の日」の終末であり、その後も「此の世」が過ぎ去ることはなかったことを知っている。
キリスト様に対する絶対的信仰者のルカとしては、天地が過ぎ去ろうとも、キリスト様の言葉が過ぎ去ることがなければ、それで十分だったのであろう。
マルコの意味を深く考えることもなく、ルカの信仰に都合の悪いところは削除し、後はそのまま写したのだろう。
同じ言葉を使って、同じ文を作っているように見えても、それぞれに異なる宗教観を見せてくれている。