マルコ13:24-27 <終末、人の子の来臨> 並行マタイ24:29-31、ルカ21:25-28

 

マルコ13 (田川訳)

24だが、こういう患難の後、かの日々には太陽が暗くなり月はその光を与えず、25星は天から落ちてくる。そして天にある諸力がゆり動かされる。26そしてその時、人の子が雲の中でらゆる力と栄光をもって到来するのが見られるであろう。27そしてその時、人の子は天使たちを遣わして、地の端から天の端にいたるまで、四方から、その選びの者を集めるであろう。

 

マタイ24

29これらの日々の患難の後、直ちに、太陽が暗くなり、月はその光を与えず、星は天から落ちて来る。そして天の諸力がゆり動かされる。30そしてその時人の子の徴が天に現れるであろう。そしてその時、地のすべての氏族胸を打っ(嘆き)、人の子が天の雲の上で力とあらゆる栄光をもって到来するのを見るであろう。31そして人の子は、大きなラッパ(の響き)とともに天使たちを遣わして、四方から、天の端から端にいたるまで、その選びの者を集めるであろう。

 

ルカ21

25そして太陽と月と星に徴が生じるだろう。そして地上ではの轟や大揺れの困惑の中で諸民族の窮状があるだろう。26人々は恐怖と世界に起ころうとすることの予感の故に、気を失うであろう。天の諸力がゆり動かされるからである。27してその時、人の子が雲の中であらゆる力と栄光をもって到来するのが見られるであろう。28これらのことが起こりはじめたら、身を上げ、頭を上げるがよい。あなた方の贖いが近づいているのだから」。

 

 

マルコ13 (NWT)

24 「しかしその日,その患難ののちに,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,25 星は天から落ちてゆき,天にあるもろもろの力は揺り動かされるでしょう。26 またその時,人々は,人のが大いなる力と栄光を伴い,雲のうちにあって来るのを見るでしょう。27 そしてその時,彼はみ使いたちを遣わし,四方の風から,地の果てから天の果てまで,自分の選ばれた者たちを集めるでしょう。

 

マタイ24

29 「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。30 またその時,人のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人のが力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。31 そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。

 

ルカ21

25 「また,太陽と月と星にしるしがあり,地上では海のとどろきと[その]動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。26 同時に人々は,人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。27 そのとき彼らは,人のが力と大いなる栄光を伴い,雲のうちにあって来るのを見るでしょう。28 しかし,これらの事が起こり始めたら,あなた方は身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなた方のが近づいているからです」。

 

 

 

マルコでは、この段落で初めて終末について記している。

これ以前は、様々な患難が生じるにせよ、マタイのような終末や終末の徴ではない。

本当の終末の時には、此の世の社会における様々な悲劇とは違って、宇宙そのものが終焉する、と言っている。

 

それに対し、マタイはこれ以前に述べている事柄はすべて「終末の徴」であり、それらの災害が生じたら、その後すぐに「終末」がやって来るとしている。

 

ルカは、マルコの「終末」伝承を採用しながら人間が観察できる「徴」とし、エルサレムの荒廃の続きに位置付けている。

そのため、ルカの終末は、宇宙の終焉であると同時に、地上における諸民族の窮状が混在することになった。

 

「人の子の到来」による「救い」に関する宗教観もそれぞれの著者により、異なっている。

 

 

まずマルコは、「終末の日」をどのようなものとして捉えているのか。

 

マルコ13

24だが、こういう患難の後、かの日々には太陽が暗くなり月はその光を与えず、25星は天から落ちてくる。そして天にある諸力がゆり動かされる。

 

マタイ24

29これらの日々の患難の後、直ちに、太陽が暗くなり、月はその光を与えず、星は天から落ちて来る。そして天の緒力がゆり動かされる。

 

ルカ21

25そして太陽と月と星に徴が生じるだろう。そして地上ではの轟や大揺れの困惑の中で諸民族の窮状があるだろう。26人々は恐怖と世界に起ころうとすることの予感の故に、気を失うであろう。天の諸力がゆり動かされるからである。

 

 

マルコの「かの日々」(ekeinais tais hEmerais)の直訳は、その+定冠詞付き「日」の複数形。

「いわゆる例の日」の日々、という意味で、「終末の日」のことを指している。

その日には、太陽も月も消滅し、星も落ちて来る、という宇宙の終焉の時となる、としている。

 

「そして、天の諸力はゆり動かされる」というマルコの文を、マタイはそのまま写している。

 

「天にある諸力」とは彼らの時代の世界観を示している表現。

当時は、太陽と月以外に天で光を放つ「星」は、何らかの霊的存在が「力」(dynamis)を発しているからであり、その多くは悪霊的勢力の力であると考えられていた。

 

人間に病気や異常行動を起こさせる「力」(dynamis)が、天体の影響による「力」、あるいは「悪霊」に由来する「力」とされているのもそのためである。

その「力」が無力化されるなら、病気や異常行動は止み、正常に回復するのである。

 

「諸力」(hai dynameis)は、定冠詞付き「力」の複数形。

人間に害を及ぼす天にある悪霊が働かせる様々な「力」に関して、「諸力」と言っている。

つまり、ここでは神に敵対する天的悪霊勢力は、ゆさぶられて消滅する、という趣旨。

 

WTは、「天にあるもろもろの力が揺り動かされる」と「天体の異常現象」が生じると解説している。(WT90/04/01,99/05/01他)

つまり、「天にあるもろもろの力」とは、宇宙を構成している物理的な「力」を指すと解釈しているのだろう。

 

 

マタイの「これらの日々」(tOn hEmerOn ekeinOn)は、定冠詞付き「その日」の複数形。

マルコと「それら」(ekeinos)を置く位置は異なるが、同じく「終末の日」のことを指す表現。

 

しかし、マタイはマルコにはない、「直ちに」(eutheOs)という副詞を文頭に置いた。

その結果、患難に関する前段との直接のつながりが生じることになった。

 

これまでにマタイで書かれている災害が生じたなら、それは終末の徴なのだから、その後「直ちに」終末がやって来る、という趣旨になった。

マタイでは、「大患難」に続いて、「直ちに」終末が到来することになったのである。

 

 

ルカの「終わりの日」とは、20「エルサレムの荒廃の日」のことであり、7「徴」も「神殿の崩壊」が生じる時の「徴」である。

 

ルカは、この段落と前段とを、「そして」(kai)で繋いでおり、その25「徴」が太陽と月と星にも生じるとしている。

 

ルカは70年のエルサレム崩壊を知って、終末予言を書いている。

ルカは地上における「諸国民の窮状」をその「徴」の一つに加えた。

 

ところがマルコの宇宙の終焉を「終末」とする話を前後に採用し、その間に、「地上での窮状」を組み込んだ。

 

その結果、ルカでは、この段落もエルサレムの荒廃の日に関する「徴」の話となっている。

 

そして、マルコの「そして、天の諸力はゆり動かされる」という文の接続小辞をkaiからgarに変えて採用している。

 

もしかしたら、ルカはマルコやマタイとは異なり、「天にある諸力」が「ゆり動かされ」るということは、悪霊的勢力が消滅する、というのではなく、「天にある諸力」(=悪霊の勢力)が「ゆり動かされ」て、地上に落とされる、と想定しているのかもしれない。

 

それが原因で、諸民族の窮状と人々の恐怖と予想から気を失う事態が生じる、とルカは言いたいのかもしれない。

 

ただし、ギリシャ語が堪能であるはずのルカにしては、kaiやenがくり返される構文となっており、「諸民族の窮状」にかかる分詞構文も二重になっていて、収まりが悪い文となっている。

 

「太陽と月と星」が関係する終末伝承と「諸国民の窮状」が関係する終末伝承をルカが組み合わせたことによるぎこちなさなのだろうか。

ルカの作文には思えない。

 

ルカはさらに「人々は恐怖と…気を失う」という文を付加しているが、こちらは、すっきりと整ったギリシャ語の構文となっている。

続く、ルカの救済信仰と対比されており、こちらはルカ自身による作文だろうか。

 

いずれにしても、マルコの文とは大きく異なっている。

 

マルコでは、終末の日が到来した時に、人の子の到来も生じる。

 

マルコ13

26そしてその時、人の子が雲の中であらゆる力と栄光をもって到来するのが見られるであろう。27そしてその時、人の子は天使たちを遣わして、地の端から天の端にいたるまで方からその選びの者を集めるであろう。

 

マタイ24

30そしてその時人の子の徴が天に現れるであろう。そしてその時、地のすべての氏族胸を打って(嘆き)、人の子が天の雲の上で力とあらゆる栄光をもって到来するのを見るであろう。31そして人の子は、大きなラッパ(の響き)とともに天使たちを遣わして、四方から天の端から端にいたるまで、その選びの者を集めるであろう。

 

ルカ21

27そしてその時、人の子が雲の中であらゆる力と栄光をもって到来するのが見られるであろう。28これらのことが起こりはじめたら、身を上げ、頭を上げるがよい。あなた方の贖いが近づいているのだから」。

 

 

マルコの「人の子が雲の中で、あらゆる力と栄光を持って到来する」という句は、ダニエル7:13に由来する伝承。

 

ダニエル書には、アラム語の原文と七十人訳とテオドティオン訳の二つのギリシャ語訳があり、細部はそれぞれかなり異なっている。

 

7:13に関しては、三者とも大差ないが、どちらと言えば、二つのギリシャ語訳の方がアラム語原文より、マルコの文に近い。

 

違いは、アラム語原文が「雲の上に乗って」であるが、ギリシャ語訳は二つとも「雲をともなって」とあり、前置詞が異なっていることぐらい。

 

マルコでは「雲の中で」(en nephErais)であるが、マタイは「雲の上に」(epi tOn nephelOn)としている。

 

マルコとしては、ギリシャ語訳由来の「雲をともなって」という表現を採用したのであるが、マタイはアラム語原文の表記に従がって、「雲の上に」と修正してくれたのだろう。

 

ルカは、「雲の中で」(en nephelE)とマルコを写している。

 

ただし、ダニエル書とマルコでは大きな違いがある。

ダニエルでは、これは「夜の幻」の中で見られた「天の出来事」であるが、マルコでは、幻の中の出来事ではなく、終末に際して「人の子」が「此の世に現われる」、というもの。

 

マルコでは「人の子」(定冠詞付き「人の子」)であり、固有名詞化して、使われているが、ダニエルでは、「人の子のような者」であり、「人の子」という表現は、アラム語的に「人間」という意味で使われている。

 

ダニエルでは、「人間のような姿をした超越的存在」(メシア)を想定しているが、マルコでは、「人の子」をメシアあるいはキリストと想定しているが、イエスと同定してはいない。

 

ダニエルでは、メシアなる「人の子のような者」が、「日の老いたる者」(=神)の前に現われるのであるが、マルコでは「人の子」は「神の前に」現われることはしない。

終末に際して、幻の中でも、神の前でもなく、人間が「見る」ことのできる「此の世界に」現われるのである。

 

マルコでは、「人の子」が地上に「到来する」のであるが、マタイでは、「人の子の徴」が「天に現われる」こととなっている。

 

おそらく、マタイは「終わりの日」と同じで、「人の子」が直接的に現われるのではなく、まず「人の子の徴」が現われてから、「人の子」が到来する、と考えたのであろう。

 

次いで30「その時、地のすべての氏族が胸を打つ」という文を付加している。

マタイとしては、「人の子」は最後の審判を行なうのだから、世界の「諸氏族」がみずからの滅びを前にして、嘆き悲しむ、という文を付加したくなったのであろう。

 

 

マルコでは、「人の子」は「あらゆる力と栄光をもって」(meta dynamenOs pollEs kai doxEs)到来するのであるが、マタイでは「力とあらゆる栄光をもって」(meta dynameOs kai doxEs pollEs)到来する。

 

ルカもマタイと同じく、「あらゆる力と栄光をもって」(meta dynameOs kai doxEs pollEs)到来する。

 

「あらゆる」(pollEs)という強調語を置く位置が異なっており、マルコでは「力」(dynameOs)にかかり、マタイとルカでは「栄光」(doxEs)にかかっていると読める。

両方にかかると読めなくもないが…。

 

マルコでは「人の子」の「力」に対して力点を置いているが、マタイとルカでは、「人の子」の神格化が進み、「栄光」に力点が置かれるようになったのだろう。

 

 

「人の子」が「選びの者」を集める際、マルコでは単に「天使たちを遣わす」だけであるが、マタイでは「人の子」が「大きなラッパとともに」、「天使たちを遣わす」。

 

終末の時にラッパを吹き鳴らすというのは、ユダヤ教終末論に多く見られる表象である。

啓示(1:10、4:1、8:1他多数)にも登場するし、パウロもお好みである。(Ⅰテサ4:16、Ⅰコリ15:52)

 

マタイとしては、黙示的終末論の表象を付加して、終末の人の子の到来を盛り上げてくれているのだろう。

 

ルカでは、マルコの27節をまるまる削除してくれているので、「人の子」が「選びの者」を集めることはしない。

 

 

マタイでは「選びの者」たちだけが救われるのであり、「地のすべての氏族」はこの時滅ぼされることになっている。

 

マタイは「すべての氏族」(pasao hai phylai)と「民族」(ethnos)ではなく「氏族」(phylE)という語の複数形を使っている。「民族」の複数形(ethnon)を使うと、「ユダヤ人」を除く「異邦人」という意味に読まれることになる。

 

わざわざ「氏族」という語の複数形を用いているということは、マタイとしては「異邦人」だけでなく、「ユダヤ人」を含めて、「選びの者」でなければ、誰も救われない、と言いたいのであろう。

 

マルコにおける「選びの者」たちは、単に「地の端から天の端に」いたるまで集められるだけで、あらあるところに住む、あらゆる「氏族」「民族」の人々で構成されている。

 

患難を生き残った人々は、すべて「選びの者」たちであり、救われるべき者として神が選んで下さった者たちである。

 

マルコには、キリスト信者だけが「選びの者」となり、救われるのだ、という宗教観は存在しない。

 

ただし「終末時に神が選びの者を集める」という発想そのものは、すでにキリスト教以前のユダヤ教黙示文学の中で形成されている。(ヘノク書57章、ソロモンの詩11:3他)

 

申命記30:4や七十人訳ザカリヤ2:6の引用とも言われるが、マルコとは異なっている。

「選びの者」を集める際の、「地の端から天の端にいたるまで」というマルコの言い方も申命記とは異なるし、ザカリアとも異なっている。

 

旧約の個所は、終末の話ではないし、「選びの者」もイスラエルの十二部族を想定しており、あらゆる「氏族」や「民族」の人々が「選びの者」となり、生き残るとするマルコの宗教観とは真逆である。

 

マタイは「天の端から端にいたるまで」とマルコの「地の端」という表現を削除している。

 

マルコもマタイも「四方から」(ek tOn tessarOn anemOn)としているが、直訳は、「四つの風から」。

東西南北あらゆる風から、という趣旨。

 

NWT「四方の風から」。「四方」とするなら「風」は重訳となる。

わざわざ「風」という語を訳に入れたのは、ザカリア2:6と啓示7:1を織り込もうとしたものだろう。

ザカリア2:6-7では、天の四方の風に散らされた者たちに対して、バビロンから逃げて来るよう、シオンの娘に告げている。

それに啓示7:1の四人のみ使いが地に災いをもたらす地の「四方の風」を押さえていることを読み込み、「選ばれた者たちを集める」ことが完了するまで、終末は来ないとするWT教理に合わせたのであろう。

 

マタイの「天の端から端まで、四方から」という句は、「四方から」という句にも「天の端から端まで」という句にも、「彼ら」というかかる代名詞(autou,autOn)が付いており、地上のあまねく四方から、定冠詞付き「選びの者」を「集める」という意味に読める。

 

マタイは、「世界的福音宣教」が完了した後の「終末の日」と「人の子の到来」としているので、マタイにおける「選びの者」とは、マタイの福音を信奉する者たちを想定しているのだろう。

 

 

マルコでは、「地の端から天の端にいたるまで、四方から」であり、マタイとは異なり「地の端」という語がついている。

 

マルコの「四方から」(ek tOn anemOn)という句の前には、「選びの者」を指す「彼」(autou)という代名詞があるが、マタイとは異なり「地の端から天の端まで」(ap akrougEs hoes akrou ouranou)という句にはかかる「彼」(autOn)という代名詞がついていない。

どちらの句も、「四方から」の前にある「彼」(autou)にかかると読むと、「四方から」も「地の端から天の端まで」も、定冠詞付き「選びの者」を「集める」と読める。

 

その場合、「地の端から天の端にいたるまで」と「四方から」とは同義と解釈することになり、マタイと同じく「地の四方から」、定冠詞付き「選びの者」を集めるという趣旨になる。

 

ただしマルコの定冠詞付き「選びの者」とは、マタイとは異なり、宗教的な意味での「信仰者の救済」という意味はない。

「生存」自体が「選びの者」という意識であり、「患難の生存者」という意味しかない。

 

しかし、「地の端から天の端にいたるまで」という句が「四方」(tOn anemOn)にかかると読めば、

「地の端からの四方から」も「天の端にいたるまでの四方から」も、「選びの者」たちを集める、とも読める。

 

「地の四方」とは、終末の時に患難をくぐり抜け、「地上に生き残っている者たち」を指しているのであろうが、「天の四方」からの「選びの者」とは誰を想定しているのか?

 

サドカイ派との「復活」論議において、マルコのイエスは、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神を、死んだ者の神ではなく、生きている者の神として反論している。

マタイもルカもイエスの反論をそのまま採用している。

 

とすれば、マルコの当時のユダヤ教では、過去の死んだ者たちの中にも、「選びの者」となり、天のどこかで星になって、生きていると信じられていたのかもしれない。

あるいはマルコの独創か。

 

マルコとしては、過去に亡くなった者たちの中にも、「選びの者」たちは存在し、「人の子」は天使を遣わし、「地の四方から」だけでなく、「天の四方から」も、くまなく「集められる」と言いたいのかもしれない。

 

 

ルカは「人の子が天使を遣わし、選びの者を集める」というマルコの文を削除した。

その代わり、「あなた方の贖いが近づいた」という文を付加している。

ルカは、マルコの「選びの者」が集められることを、「贖い」が実行される時であると考えていることになる。

 

ルカの「贖い」(apolytrOsis)は分離の「接頭語付き「身代金」(lytron)の女性形で、パウロと同じ表現(ロマ3:24,8:23Ⅰコリ1:30他)。

パウロ派キリスト教信仰を元にしている表現。

 

名詞を女性形にすると、「それが産み出すもの」までを包含するようになるので、「抽象的な概念」が強くなる。

 

接頭語なしの「贖い」(lytlOsiis)も新約に登場するが、旧約に由来し、古いユダヤ人キリスト信者に限られる言い方である。

 

パウロとしては、神がキリストの血という代価を支払って、信者たちもしくは人間たちを買い取ってくれた、という意味を込めて、相手から買い戻すのであるから、「から」(apo)という分離の接頭語をつけて、女性形で「贖い」を表現したのであろう。

 

しかし、単に「買い戻し」と女性形で言われても、その語だけでは理解し難い。

さらに接頭語が付くと、意味が広がる。

ますます説明がないと意味が理解できなくなる。

宗教用語として使われると、聞くに聞けない、謎めいた神秘的な要素が加わる。

 

「贖い(apolytrosis)という語は、解っている人には分かる暗号のような宗教的符牒となり、キリスト教の宗教的専門用語として用いられるようになる。

 

ルカの時代になると原義は忘れ去られ、ほとんどキリスト教による「救済」と同じ意味で使われるようになっていた。

 

NWTは「救出」と訳している。

 

ルカは、「人の子」の到来をキリスト教信者の「救済」に位置付けており、終末には「諸民族の窮状」があるだろうが、「贖い」信仰のキリスト信者であるあなた方は、身を上げ、頭を上げるがよい。

 

何故ならあなた方の「救済」が近づいているからである、と言うのである。

 

マタイの「選びの者」に、「贖い」信仰は関係していない。

 

やはり、ここでも三者三様のキリスト教を展開しているのである。