マルコ13:14‐23 <ローマ皇帝による神殿冒涜と偽キリスト> 

               並行マタイ24:15‐28、ルカ21:20‐24、参照ルカ17:31

マルコ13 (田川訳)

14荒廃の忌むべきものが立ってはならないところに立つのを見たなら―――読者は理解されたし―――その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。15屋根の上に居る者は、下りて来て中に入り、自分の家からものを持って行こうなどとするな。16畑に居る者は自分の衣を取るために後を振り向くな。17その日々には、身重の乳を飲ませている女にとっては禍いがある。18それが冬に起こらないようにと祈れ。19その日々には、神が創造した創造のはじめから今にいたるまでそのようなことが起こったことがなく、今後も起こることのないような患難が生じるからである。20そしてもしも主がその日々を縮めて下さらなければ、いかなる人間もわれないだろう。だが主が選んだ選びの者たちの故に、主はその日々を縮めて下さった。21そしてその時、もしも誰かがあなた方に、見よ、ここにキリストが、見よ、あそこに、などと言っても信じるな。22というのも、偽キリストや偽預言者が現れ、できれば選びの者たちを惑わし欺くために、や奇跡をなすからである。23あなた方自身で気をつけよ一切をあなた方に前もって言っておく

 

マタイ24

15預言者ダニエルによって言われている荒廃の忌むべきものがなる場所に立つのを見たならー読者は理解されたしー16その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。17屋根の上に居る者は、下りて自分の家からものを持って行こうなどとするな。18畑に居る者は自分の衣を取るために後を振り向くな。19その日々は、身重の女、乳を飲ませている女にとっては禍いである。20あなた方の避難が冬に、また安息日に、起こらないようにと祈れ。21の時には、創造のはじめから今にいたるまで起こったことがなく、今後も起こらないような大きな患難が生じるのである。22そしてもしもその日々が縮められなければ、いかなる人間も救われないだろう。だが選びの者たちの故に、その日々は縮められる23その時、もしも誰かがあなた方に、見よ、ここにキリストが、とか、いや、ここだ、などと言っても、信じるな。24というのも、偽キリストや偽預言者が出て来て、できれば選びの者たちさえも惑わすために、大きな徴や奇跡をなすからである。25見よ、あなた方に前もって言っておく26もしもあなた方に、見よ、荒野に居る、などと言われても、出て行くな。見よ、奥まった部屋の中だ、と言われても信じるな。27稲妻が東から出て西にまで現れるように、人の子の来臨もそのようであるだろう。28もしも屍体があるならば、そこにが集って来る。

 

ルカ21

20エルサレムが軍隊によって包囲されるのを見たなら、その時には、エルサレムの荒廃の日が近づいたと知るがよい。21その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。またユダヤの中心に居る者は地方に移り、諸地方に居る者はユダヤに入ってはならないこれは書かれていることがすべて成就するための懲罰の日々だからである。23その日々には、身重の女、乳を飲ませている女にとっては禍いがある。地には大きな困難が生じ、この民に対しては怒りがあるからである。24そして彼らは剣の刃に倒れ、捕虜となってすべての異邦人のもとに引かれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時が満ちるまで異邦人によって踏みつけられるであろう。

 

参ルカ17

31その日には、屋根の上にいる者は、自分の器などが家の中にあっても、下りて来てそれを持ってこようとするな。畑にいる者も同様に後を振り向くな

 

 

マルコ13 (NWT)

14 「しかしながら,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,[立っては]ならない所に立っているのを見かけるなら(読者は識別力を働かせなさい),その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。15 屋上にいる人は下りてはならず,家から何かを取り出そうとして中に入ってもなりません。16 また,野にいる人は,自分の外衣を拾おうとして後ろのものに戻ってはなりません。17 その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! 18 それが冬期に起きないように祈っていなさい。19 それはがなされた創造の初めからその時まで起きたことがなく,また二度と起きないような患難の日となるからです。20 実際,エホバがその日を短くされなかったとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,そのお選びになった,選ばれた者たちのゆえに,[]はその日を短くされたのです。

21 「またその時,『見よ,ここにキリストがいる』,『見よ,そこにいる』と言う者がいても,[それを]信じてはなりません。22 偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちを迷わそうとして,しるしや不思議を行なうからです。23 ですから,あなた方は気を付けていなさい。わたしはあなた方にすべてのことを前もって告げたのです。

 

マタイ24

15 「それゆえ,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる場所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい,)16 その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。17 屋上にいる人は,家から物を取り出そうとして下りてはならず,18 野にいる人は,外衣を拾おうとして家に帰ってはなりません。19 その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! 20 あなた方の逃げるのが冬期または安息日にならないように祈っていなさい。21 その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。22 実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。

23 「その時,『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても,それを信じてはなりません。24 偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きなしるしや不思議を行なうからです。25 ご覧なさい,わたしはあなた方にあらかじめ警告しました。26 それゆえ,人々が,『見よ,彼は荒野にいる』と言っても,出て行ってはなりません。『見よ,奥の間にいる』[と言っても],それを信じてはなりません。27 稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように,人のの臨在もそのようだからです。28 どこでも死がいのある所,そこには鷲が集まっているでしょう。

29 「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。30 またその時,人ののしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人のが力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。31 そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。

 

ルカ21

20 「また,エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。21 その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。[都]の中にいる者はそこを出なさい。田舎にいる者は[都]の中に入ってはなりません。22 なぜなら,これは処断の日であり,それによって,書かれていることのすべてが成就するのです。23 その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! その土地に非常な窮乏が,そしてこの民に憤りが臨むからです。24 そして人々は剣の刃に倒れ,捕らわれとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです。

 

参ルカ17

31 「その日,屋上にいる人は,家財が家の中にあっても,それを取りに下りてはならず,野に出ている人も,後ろのものに戻ってはなりません。

 

 

 

マルコはカリグラ事件(40‐41年)を念頭に、「荒廃の忌むべきもの」が「立ってはならないところに立つ」時に関して予想される事柄を念頭に伝承を編集している。

 

マタイは、マルコの文法上の間違いやマタイ好みの表現に修正したり、マルコにはない指摘やQ資料伝承も付加している。

それ以外はほぼマルコを写している。

 

それに対してルカには、そもそも「荒廃の忌むべきもの」という表現が登場しない。

ルカはすでに第一次ユダヤ戦争を知っており、70年のエルサレム崩壊を念頭にユダヤ人に対する終末預言として大幅に文章を書き変えている。

 

 

まず、「荒廃の忌むべきもの」とは何を指しているのか。

 

マルコ13

14荒廃の忌むべきものが立ってはならないところに立つのを見たなら―――読者は理解されたし―――その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。

 

マタイ24

15預言者ダニエルによって言われている荒廃の忌むべきものがなる場所に立つのを見たならー読者は理解されたしー16その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。

 

ルカ21

20エルサレムが軍隊によって包囲されるのを見たなら、その時には、エルサレムの荒廃の日が近づいたと知るがよい。21その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。またユダヤの中心に居る者は地方に移り、諸地方に居る者はユダヤに入ってはならない

 

 

マタイはマルコと同じ構文であり、マルコを写しているが、ルカは大幅に書き変えていることが理解できる。

 

マタイはマルコの「立ってはならないところに立つ」を「聖なる場所に立つ」に書き変えた。

神殿嫌いのマタイではあるが、「エルサレム神殿」は「聖なる場所」なのであろう。

 

マタイは「荒廃の忌むべきもの」という表現がダニエル書に由来するものであることを指摘している

 

マルコは、「荒廃の忌むべきものが立ってはならないところに立つのを見たなら」、「読者は理解されたし」(ho anaginOskOn noeitO)と命令形現在で、「読者に理解」を促している。

 

なぜか。

 

NWTは「読者は識別力を働かせなさい」。

まるで、謎解きをしなければ理解できないかのように訳している。

 

「識別力を働かせなさい」と訳しているギリシャ語は一語の動詞(noeitO)で、原形は、noeO。nous=mindを動詞化したもので、原意は「思う、思考する」。英語のthink、understanndに相当するような初級動詞。

 

NWT英訳のuse discernmentなどと大層な表現に訳す必要もないギリシャ語動詞である。

ギリシャ語原文には、「識別力」に相当する名詞も「働かせる」に相当する動詞も登場しない。

ほとんどの英訳聖書が、understandと訳している。

 

マルコは「読者は理解されたし」(ho anaginOskOn noeitO)と、定冠詞付き「読者」に対して、子どもでも理解できる簡単な動詞を使い、命令形現在で述べているだけである。

 

とすれば、マルコとしては「荒廃の忌むべきもの」と言えば、当時の読者にとって何を指しているか、すぐに理解できるはずだ、と思っていることになる。

 

マタイも同じ動詞を使っている。

 

当時のユダヤ人や初期のキリスト信者なら、マタイが指摘するまでもなく、ダニエル書にある「荒廃の忌むべきもの」(to bdelygma tEs erEmOseOs)という表現はよく知られていたものと思われる。

 

NWTの訳は、この預言が一世紀に関する預言の成就だけではなく、現代における終末予言の一部であり、WTだけが「識別力」を与えられ、正しい理解を得ていると読ませたいのであろう。

 

「忌むべきもの」(to bdelygma)は定冠詞付き単数で、直訳は「吐き気をもよおすようなもの」という抽象名詞。

 

「荒廃の」(tEs erEmOseOs)は定冠詞付き属格であるが、「荒廃であるような」という意味ではなく、「荒廃をもたらすような」という趣旨であろう。

 

 

「荒廃の忌むべきもの」という表現は、マタイが指摘しているように、ダニエル書に出て来る。(9:27,11:31 ,12:11)

 

ヘブライ語本文9:27は、「荒廃」という形容詞が「忌むべきもの」ではなく「翼」にかかるが、ギリシャ語訳は七十人訳もテオドティオン訳もすべて「荒廃の忌むべきもの」。

ただし、「荒廃」が複数形だったり、冠詞が付いていなかったりする。

 

マルコでは「荒廃」も「忌むべきもの」もどちらも定冠詞付き単数形(to bdelygma tEs erEmOseOs)。

ダニエル書の特定個所から引用というよりも、マルコの当時に一般的に認知されていた表現であり、マルコはそのまま採用したのであろう。

 

ただし「荒廃の忌むべきもの」という表現は、旧約ダニエル書だけに登場するわけではない。

 

第一マカバイ1:54に、「そして第145年のカセルの月15日に、王は祭壇の上に荒廃の忌むべきものを建て、(エルサレムの)周囲の町々に(異教の)祭壇を築いた」とある。

 

第一マカバイ6:7では、「荒廃の」は付いていないが、「アンティオコスがエルサレムの祭壇の上に建てた忌むべきものを取り壊し、聖所に以前のごとく高い城壁を巡らし…」とある。

 

つまり、「荒廃の忌むべきもの」という表現は、第一マカバイ書が指摘するように、アンティオコスがエルサレム神殿に異教の祭壇を築き、「荒廃の忌むべきもの」を建てたことに由来する表現である。

 

 

ここでダニエル書に関する余計な情報を一つ。

ダニエル書に「荒廃の忌むべきもの」という表現が出て来るということは、少なくてもその表現が関係する箇所はダニエル自身が書いたものではなく、マカバイ戦争以後に加筆されたものと考えられる。

旧約ヘブライ語本文における「ダニエル書」は、「預言書」ではなく「諸書」に分類されている。

「識別力を働かせる」読者は、ダニエルの終末予言をどのように理解するのだろうか。

 

閑話休題。

 

前二世紀当時、ユダヤを支配していたアンティオキアのヘレニズム王朝の王アンティオコス四世(通称エピファネス)は、ユダヤ教を禁止し、極端なヘレニズム政策を実施した。

前168年にエルサレム神殿にオリンピアのゼウス像を建てさせた

ユダヤ人にとっては耐え難い屈辱であり、この暴挙をきっかけにして、マカバイ兄弟を中心としたユダヤ独立運動が展開する。

 

いわゆるマカバイ戦争である。

その結果、ユダヤはヘレニズム王朝から独立することになる。

 

 

マルコは、ユダヤ独立戦争のきっかけとなった、このアンティオコス四世のゼウス像建立を念頭に「荒廃の忌むべきもの」と表現しているのであろう。

 

マルコは「…見たなら、その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ」と言っているのだから、「その時」(tote)はまだ到来しておらず、将来の出来事として述べている。

 

「その時」とは「荒廃の忌むべきもの」が「立ってはならないところに立つ」時のことを指している。

 

つまり、文字通りに読めば、マルコはアンティオコス四世(エピファネス)がエルサレム神殿にゼウス像を建立したのと同様の危機感が迫って来ている状況で、イエスにこの予言を語らせている、と考えられる。

 

マルコの時代に起きた、ローマ帝国とユダヤ人の間に戦争に発展しそうなマカバイ戦争と同様の事件とは何か。

 

正確な時期については多少の議論があるが、ローマ皇帝カリグラはエルサレム神殿に自分の彫像を立てさせようとしていた。(後39‐41年)

 

この事件は、一世紀の著名なユダヤ人著者であるアレクサンドリアのフィロン(「ガイユスへの使節」29章以下、)や、ヨセフス(「古代史)18・261以下、「ユダヤ戦記」2・184以下」が詳しく伝えている。

 

カリグラの命令を受けたのはシリアの総督(proconsul)ペトロニウスであった。

彼はカリグラの指示通り、偶像崇拝を否定するユダヤ教の聖地であるエルサレム神殿にローマ皇帝の像を建てたら、暴動が起きることを承知していた。

それゆえ、いろいろな理由をつけて、実行に移さずにいた。

 

カリグラは強引に事を推し進めようとして、ペトロニウスに命令の手紙を送る。

だが、届く前に、カリグラが暗殺されてしまう。(後41年1月)

 

間一髪のところで、実行には至らなかったが、もし、神殿にローマ皇帝像の建立が強行されることになったら、ユダヤ人は抵抗運動を起こしていただろうし、カリグラは軍隊を派遣し、戦争状態になることは必至だったであろう。

 

もしマルコが、カリグラ事件における危機的な状況が回避されたことを知っていて、その後に福音書が書かれたのであれば、ユダヤ独立運動の気運が高まってはいるが、ローマ軍との戦争状態となる決定的な状況にはまだ陥ってはいない状況で書かれたとも考えられる。(41頃‐66年以前。ただしパウロの第一回宣教旅行以降であるから、49年頃‐66年以前)

 

 

マルコが13:7で「戦争」(polemous)と「戦争の噂」(akoas plemOn)とどちらも複数形で言及しているのは、特定の「戦争」を意識しているのではなく、当時の世界では常に「戦争」の可能性は付きまとい、「戦争の噂」はあちこちで聞かれていた、ということだろう。

 

つまり、70年のエルサレム神殿崩壊に至る第一次ユダヤ戦争を指して「戦争」・「戦争の噂」と言っているのではなく、カリグラの事件を念頭に、アンティオコス四世(エピファネス)と同様の事が生じたなら、マカバイ戦争と同様の戦争状態に陥ることであろうし、「その時には、神殿の石がほかの石の上に請われることなく積み残ることはないだろう」。

「その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ」、と言っているものと考えられる。

 

マルコの「荒廃の忌むべきもの」が「立ってはならないところに立つ」とは、カリグラ事件を念頭に置いた予言と理解できる。

 

 

この説とは異なる解釈をする説が、二つある。

 

一つは、マルコの「荒廃の忌むべきものが立ってはならないところに立つ」という言葉を、「終末の時の大悪魔」もしくは「反キリストの出現」を予言したものと解釈する説。

 

その根拠を、「立つ」(hestEkota)という分詞が男性形であることに見出そうとする。

「忌むべきもの」(bdelygma)は中性名詞であるのだから、「立つ」という分詞も文法的には中性(hestEkos)にならなければならない。

 

それをマルコがわざわざ男性形で「立つ」としているのは、「忌むべきもの」を中性形として、「彫像」を暗示しているのではなく、何らかの人格的存在を指して、男性形にしているからだと解釈するのである。

 

それで「荒廃の忌むべきもの」の実体は男性形であるから、中性の意味で理解すべきではなく、終末時の「大悪魔」もしくは「反キリスト」を指すと解釈するのである。

 

しかしながら「荒廃の忌むべきもの」という表現は、アンティオコス四世の事件に関してしか用いられない特殊な表現である。

これを「終末時の大悪魔」もしくは「終末時の反キリスト」を指すという用例は全く知られていない。

 

そもそもマルコには「終末時の反キリスト」などという概念は出て来ない。

マルコどころか他の福音書にも出て来ない。

「反キリスト」(antichristos)という概念はヨハネの手紙にしか登場しない。

 

マルコ13:21-22の「偽キリスト」に関しても、「終末時の反キリスト」と同義ではない。

むしろ「終末の徴」を騒ぎ立てるキリスト教や「キリストや救世主」を標榜するキリスト教のキリスト信者を「偽キリスト」・「偽預言者」と見ている。

 

マルコはそのような終末思想には、「あなた方自身で気をつけて」、「惑わされるな」、むやみに「信じるな」、と「前もって言って」いる。

 

ではマルコの「立つ」(estEkOta)の男性形をどのように理解することが出来るか。

 

マルコの表現は確かに文法的には間違いであるが、ギリシャ語が第二言語のマルコに、厳密な文法的正確さを求めるのは酷というものであろう。

 

マルコは新約の中で黙示録の著者に次いで、文法的な間違いが多い著者である。(4:28ほか多数)

マルコとしては、像そのものよりも、それを立てさせる皇帝の方が頭にあったので「立つ」の方を男性形にしてしまったのか。もしくは単なる不注意か。

マタイは、中性形の「立つ」(hetOs)に修正してくれている。

 

 

母語であっても誤字脱字や文法の間違いは優れた著者にも見られるものである。

あくまでも「終末時」に登場する「荒廃の忌むべきもの」として解釈したいのであれば、どうぞご自由に。

 

マルコはこの出来事を「ユダヤ地方」に限定される危機として、描いている。

カリグラの事件であれば、ローマ軍の暴虐はユダヤ地方に生じる。

 

しかし、「終末時」に登場する全世界を震撼させる事象であるなら、ユダヤに居る者が山に逃げよ、という指示は無意味となる。

 

「ユダヤ」も「山」も終末時における世界的な広がりを見せる「何か」の象徴と解さなければ、整合性はなくなる。

 

この種の解釈は、そもそもマルコ13章がマタイ24章と同じく、初めから終末予言であることを前提として解釈することに問題がある。

 

繰り返しになるが、マルコにはマタイのような終末意識はない。

むしろ逆である。

戦争やその他の災難は、終末の「徴」などという前兆ではなく、此の世の歴史においては常に生じ得る災難であると言っている。

 

マルコにとっての「終末」とは「神が創造したものの終末」であり、「いかなる人間も救われない」、二度と生じない「宇宙の終焉」である。

 

だから、終末だ、徴だ、キリストだ、などと言っても信じるのではなく、騒ぎ立てるな、と言っているのである。

 

 

もう一つの説は、マルコの「荒廃の忌むべきもの」が「立ってはならないところに立つ」という表現は、第一次ユダヤ独立戦争における最後のエルサレム崩壊(70年)を念頭に置いた終末預言と解釈する説。

 

しかし、70年の時に、ローマ帝国が、エルサレム神殿に「荒廃の忌むべきもの」が、立つようにさせる、つまり「偶像」を建立しようとする企てなど全く計画されていない。

 

第一次ユダヤ戦争の引き金は、カイサリアにおけるユダヤ人の殺害にある。

ローマ帝国から派遣された総督(proconsul)フロルスが、エルサレムのインフラ整備のために神殿の宝物を持ち出した。

それを阻止しようとしたユダヤ人の女・子どもを含めて3,600人ほどをフロルスが処刑したことから、民族主義運動が展開され、熱心党により過激化してゆく。

 

「エルサレム神殿への偶像建立」とは全く無関係のユダヤ人独立紛争である。

 

しかもアンティオコス四世の真似をしたカリグラ事件がついこの間起こったばかりで、ユダヤ人たちの記憶には生々しく残っている時期である。

 

「荒廃の忌むべきもの」が「立ってはならないところに立つ」という表現を70年の「エルサレム神殿崩壊」の状態を指す、と解釈する合理的な理由は存在しない。

 

むしろ、「エルサレム神殿崩壊」を前提に、マルコの「荒廃の…」という表現が「エルサレム神殿崩壊」を指すと解釈するというマッチ・ポンプのような解釈である。

 

まるで、「聖書はなぜ聖書なのか」という疑問に、「なぜなら、聖書が聖書だからです」と答えるようなものである。

 

これではマルコが何故、「荒廃の忌むべきもの」というアンティオコス四世に由来する表現を用いたのか、全く説明がつかないことになる。

 

マルコには神殿破壊の預言に関連して、7「戦争と戦争の噂」という表現が出て来るが、この「戦争」が第一次ユダヤ戦争におけるエルサレム神殿の崩壊を直接的に示唆するような記述ではない。

 

繰り返しになるが、「戦争や戦争の噂」に関しては、カリグラ事件を念頭に、7「狼狽するな。戦争は起こるものだ」(mE thrieisthe dei gar genesthai)とあるだけである。

 

しかも、仮に神殿崩壊の危機に直面し、戦争・地震・飢饉が伴なったとしても、8「これらは苦痛の始まりに過ぎない」と述べている。

 

マルコは、カリグラ事件による神殿崩壊の危機を予想していても、第一次ユダヤ戦争における神殿崩壊に関しては、何も述べていない。

 

マルコ13章には、それ以外では、マルコの考える終末の予言があるだけである。

 

「戦争や騒乱」や「迫害」を「エルサレムの荒廃の日」の「徴」としているのは、マルコではなくルカである。

 

ルカは70年の「エルサレム崩壊」を知っており、マルコの「カリグラ事件」に対する予想を「エルサレムの荒廃の日」の成就として書き変えたのである。

 

ルカには「荒廃の忌むべきもの」という表現はどこにも登場しない。

「立ってはならないところに立つ」という表現も登場しない。

ルカはマルコの記述を「エルサレムが軍隊によって包囲されるのを見たなら、その時には…」と第一次ユダヤ戦争を念頭にして、大幅に書き変えているのである。

 

マルコの「荒廃の忌むべきものが立ってはならないところに立つ」時を70年の「エルサレム崩壊」の時と解釈するのは、マルコにルカを読み込み、マルコの「荒廃の忌むべきもの」とは「ローマ帝国の軍隊」であると解釈しなければ成立しない。

 

かつマルコの「立ってはならないところに立つ」という表現を「異教の偶像をエルサレム神殿に建立する」という意味ではなく、「ローマ帝国の軍隊がエルサレム神殿を崩壊させる」という意味に解釈しなければならない。

 

ユダヤ人や初期ユダヤ人キリスト信者が、「荒廃の忌むべきもの」という表現を「ローマ帝国の軍隊」を指すとする用例も、「立ってはならないところに立つ」という表現が「軍事力によって神殿を制圧する」という意味であるとする用例も知られていない。

 

 

WTの「荒廃の忌むべきもの」を「国際連合」と解釈する説は、上述の聖書的歴史的根拠の乏しい二つの説を聖書霊感説信仰に基づき、融合させた変形バージョンであろう。

 

まずマタイを前提に、マルコの「荒廃の忌むべきもの」を「終末時の反キリスト」とする解釈に、ルカを読み込み、「立ってはならないところに立つ」とは70年の「エルサレム崩壊」を指すと解釈する。

 

次にマルコにマタイを読み込み「立ってはならないところに立つ」とは「聖なるところに立つ」という意味であり、マタイの「終わりの日の徴」の一部と解釈する。

 

さらに、「エルサレムの荒廃の日」を「ユダヤ人に対する懲罰の日々」として成就したとするルカの解釈を予型とした上で、「終わりの日の成就」を対型とする。

 

マタイの「終わりの日」に登場する「聖なるところ」を「神の王国」と解釈する。

マルコの「立ってはならないところに立つ」ことを「終わりの日」に誕生する全地球的な平和を実現する組織である「神の王国」の偶像的な偽物と解釈する。

 

ルカの「ローマ帝国の軍隊」を予型とし、「終わりの日」に誕生した「国際連合」を対型として、マタイの「終わりの日の終り」である「大患難」の時に成就すると解釈したのであろう。

 

WTの解釈は、聖書霊感説信仰を前提としなければ成立しない「識別力」を要する解釈である。マタイを前提に、マルコもルカもすべて現代の「終わりの日」に成就する一つの同じ予言していると解釈しなければ成立しない。

 

それぞれの福音書著者が、それぞれのイエスを描いていることになると、全く整合性をもたない解釈となる。

 

NWTは、「識別力を働かせることの出来る読者には、山に逃げ始めなさい」、と勧めている。

 

 

マルコが「山に逃げよ」と読者に促した行動に続く部分を比較してみる。

 

マルコ13

14…その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。15屋根の上に居る者は、下りて来て中に入り、自分の家からものを持って行こうなどとするな。16畑に居る者は自分の衣を取るために後を振り向くな。

 

マタイ24

16その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。17屋根の上に居る者は、下りて自分の家からものを持って行こうなどとするな。18畑に居る者は自分の衣を取るために後を振り向くな。

 

ルカ21

21その時にはユダヤに居る者は山に逃げよ。またユダヤの中心居る者は地方に移り、諸地方に居る者はユダヤに入ってはならない22これは書かれていることがすべて成就するための懲罰の日々だからである。

 

参ルカ17

31その日には、屋根の上にいる者は、自分の器などが家の中にあっても、下りて来てそれを持ってこようとするな。畑にいる者も同様に後を振り向くな。

 

 

マルコは、「その時には…逃げよ」と言っているのだから、カリグラ事件に関して、ローマ軍の暴虐や侵略が予想されるとはいえ、逃げる準備をするための多少の時間はあるはずである。

 

ところが、それに続く節では、「屋根の上に居る者は…。畑に居る者は…」と、直ちに緊急避難しなければならないほど事態が緊迫している状況となっている。

 

文の内容が前後の状況とうまくつながっていない。

 

マタイはマルコをそのまま写しているが、マタイでは14そしてその時に終末が来る」という文に続く、終末予言の一部となっているので、マルコのような違和感はない。

 

ルカは「エルサレムの荒廃の日」の預言としている21章では、「屋根に居る者は…。畑に居る者は…」というマルコの文を削除している。

 

その代わり、参ルカ17章で、同じ内容であるが、表現が異なる「屋根の上に居る者は…。畑に居る者も…」伝承を取り上げている。

 

ルカの17章は、非マルコ伝承を納めた部分である。

ノアの日」、「ロトの日」に関連した一連の伝承として取り上げられており、終末時における伝承の一つとして組み込まれている。

 

つまり、マルコの「屋根の上に居る者は…。畑に居る者は…」の元伝承は、元来終末時における短い独立伝承として伝えられていたものであったのだろう。

それをマルコがカリグラ事件を示唆する続きの部分に組み込んだため、前後に違和感が生じてしまったのだろう。

 

マルコは「畑に居る者」(ho eis ton agron)を前置詞をeisとし対格で受けているが、文法的に正しくは、enとすべきところ。

マタイの「畑に居る者」(ho en tO agrO)は前置詞を正しくenとし与格で受け、修正してくれている。

 

 

続く、「その日々」における「身重の女、乳を飲ませている女」以降に関する部分の比較。

 

マルコ13

17その日々には、身重の女乳を飲ませている女にとっては禍いがある。18それが冬に起こらないようにと祈れ。19その日々に神が創造した創造のはじめから今にいたるまでそのようなことが起こったことがなく、今後も起こることのないような患難が生じるらである。20そしてもしも主がその日々を縮めて下さらなければいかなる人間も救われないだろう。だが主が選んだ選びの者たちの故に、主はその日々を縮めて下さった。21そしてその時もしも誰かがあなた方に、見よ、ここにキリストが、見よ、あそこに、などと言っても信じるな22というのも、偽キリスト偽預言者が現れ、できれば選びの者たちを惑わし欺くために、や奇跡をなすからである。23あなた方自身で気をつけよ一切をあなた方に前もって言っておく

 

マタイ24

19その日々は、身重の女、乳を飲ませている女にとっては禍いである。20あなた方の避難が冬に、また安息日に、起こらないようにと祈れ。21その時には創造のはじめから今にいたるまで起こったことがなく、今後も起こらないような大きな患難が生じるのである。22そしてもしもその日々が縮められなければ、いかなる人間も救われないだろう。だが選びの者たちの故に、その日々は縮められる23その時、もしも誰かがあなた方に、見よ、ここにキリストが、とか、いや、ここだ、などと言っても、信じるな。24というのも、偽キリストや偽預言者が出て来て、できれば選びの者たちさえも惑わすために、大きな徴や奇跡をなすからである。25見よ、あなた方に前もって言っておく26もしもあなた方に、見よ、荒野に居る、などと言われても、出て行くな。見よ、奥まった部屋の中だ、と言われても信じるな。27稲妻が東から出て西にまで現れるように、人の子の来臨もそのようであるだろう。28もしも屍体があるならば、そこにが集って来る。

 

ルカ21

23その日々には、身重の女、乳を飲ませている女にとっては禍いがある。地には大きな困難が生じ、この民に対しては怒りがあるからである。24そして彼らは剣の刃に倒れ、捕虜となってすべての異邦人のもとに引かれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時が満ちるまで異邦人によって踏みつけられるであろう。

 

 

「その日々には」(en ekeinais tais hEmerais)の原文は、定冠詞付き「日」の複数で、「特定の日々」を想定している表現。

 

文脈に従がって素直に読めば、マルコの「その日々」とは、「荒廃の忌むべきものが立ってはならないところに立つ」時のことを指すと読める。

 

つまり、「カリグラ事件」が実行される時が到来した日々には、彼女たちにとっては禍いがある、と読める。

 

しかし、「屋根の上に居る者」や「畑に居る者」に関する元伝承は、「終末の日」における他の伝承と並べられていることからすると、ここも元伝承では「終末の日」を指して、ルカと同じく、「その日々には」とあったのだろう。

 

マルコは、元伝承では「終末の日々」を指す「その日々には」という表現を、ここでは「カリグラ事件」に関連する「日々」を指して、使うことにしたのだろう。

 

マルコの19節以降の「その日々」に関しても、「いかなる人間も救われないような患難」を指しており、元伝承では「終末の日」を指していたと思われる。

 

元伝承からすれば、「終末の日々」とは、20いかなる人間も救われない」、19「創造のはじめから、今までも、今後も起こることのないような患難が生じる」のだから、人類史上ただ一度限りの創造宇宙が始まって以来の患難が生じる「日々」のことを指すのであろう。

 

しかし、マルコでは、「終末の日」も「人の子の到来」もまだ先のことである。

 

マルコの「終末の日」とは、次段13:24の「こういう患難の後」に来る「かの日々」(tais hEmerais)のことである。

太陽も月も星も天にある諸力も崩壊する、創造宇宙が終焉する定冠詞付き「日々」である。

「人の子の到来」もその時に生じる。

 

従がって、ここでは、マルコの考える「終末の日々」ではなく、「患難の日々」に想定される戦争やその他の災害、前に出て来た地震や飢饉などの「いかなる人間も救われない」と思えるような状況を考えていることになる。

 

「いかなる人間」も、人災、自然災害の如何を問わず、これらの災害の犠牲者になることを絶対的に避けられる方法などない、と言っていることになる。

 

 

マタイはマルコを写しているので、同じ表現が多い。ほとんど同じである。

 

しかし、マルコとマタイでは、「終わりの日」と「患難の日」の到来の設定が異なっているので、異なる内容となっている。

 

マタイにおける、彼女たちにとって禍いである「その日々」とは、「荒野の忌むべきものが聖なる場所に立つ」時のことである。

 

ただし、マタイは西暦70年の「エルサレム神殿崩壊」の事実を知って書いており、「世界的福音宣教」が実現した後に到来する「終末の日々」における出来事である。

 

マタイにとっての「終末の日」とは、22いかなる人間も救われない」、21「創造のはじめから、今までも、今後も起こることのないような大きな患難が生じる」のだから、マルコと同じく、人類史上ただ一度限りの創造宇宙が経験する大患難の「日々」のことである。

 

マタイでは「選びの者たちの故に、その日々は縮められる」ので、「大きな患難」の日々は短くされ、創造宇宙の危機は回避される。

 

しかし、マルコでは「終末の日々」が縮められることはない。

縮められるのは「患難の日々」である。

 

マルコでは、「終末の日々」はまだ到来していないので、「患難の日々」が縮められても、「終末の日々」が縮められることにはならない。

 

しかしマタイでは、「大患難が生じる」ことも「大患難が縮められる」ことも、「世界的福音宣教」後に到来した「終末の日々」における出来事である。

 

マタイでは、「終わりの日」が到来してから「大きな患難」が生じ、短くされるのである。

マルコでは、順番が逆である。

患難」が短くされてから、「終末の日」が到来するのである。

 

「偽キリスト」や「偽預言者」の出現も、マルコとマタイでは異なっている。

マルコでは、「偽キリスト」や「偽預言者」は、「終わりの日」が来る前の「患難」の日々に出現する。

 

しかし、マタイでは、24章を最初から読んでいけば理解できるが、「終わりの日」が来る前にも、来た後にも、「大患難」の前にも、「大患難の日々」にも、「選びの者」を集める時まで、出現し続けるのである。

 

 

マタイでは、「終わりの日の徴」は、「キリスト再臨の徴」でもある(24:3)ので、「人の子の来臨」は「終わりの日」の到来とともに生じるはずである。

 

しかし、24:27からすれば、「人の子の来臨」は、「大患難の日々」にも到来するようである。

マタイ24:27は、ルカ17:23‐24と並行の非マルコ資料。

 

マルコでは「患難」時に、「人の子は到来」しない。

「患難」後の「終わりの日」に「人の子が到来する」。

 

マタイは、マルコの文を写しながら、Q資料から見つけた終末伝承を組み込んだ。

そのおかげで、マタイでは「キリストの再臨」に関して混乱が生じることになったのである。

 

 

いつでも患難や戦争において最も被害を受けるのは、社会的弱者であり、「身重の女」、「乳を飲ませている女」のように身動きの不自由な者たちである。

 

マルコは、「禍い」(ouai)と言っているが、黙示録やマタイ23章で繰り返し出て来る「禍いあれ」(ouai tois)(ouai humin)という言い方とは異なっている。

 

黙示録やマタイのように、この「わぁ~い」(ouai)という語に与格を置くと、「○○に対して禍いあれ」と、自分が相手を呪う表現になる。

 

マルコは「わぁ~い」(ouai)を動詞ではなく、「禍い」という意味の名詞として用いている。

相手を呪うのではなく、ouais de tais en…という言い方で、「…という状態にある者は禍いである」と客観的な事実として述べている。

 

マルコでは「禍い」(ouai)という語は、ほかに14:21で「人の子を引き渡す者」に関してこの語を使われているが、伝承をそのまま写しているのだろう。

マルコに、社会的弱者に対して「禍い」が降りかかることを望む気持ちがあるわけではない。

 

マタイもルカも「身重の女、乳を飲ませている女」に関しては、マルコをそのまま写している。

 

ただしマタイは、彼女たちの「避難」が「冬」だけではなく、「安息日」にも起こらないようにと祈れとしている。

マルコが「冬」だけなのに対し、マタイは「安息日」を付加した。

 

「安息日」には、律法の規定により、「旅行」が禁止されていたので、移動できる距離が限られていた。

 

律法学者のマタイにとっては、身重の女たちの安全や行く末より、「安息日」遵守の方が気になったのであろう。

 

ルカにとって「禍いとなる身重の女や乳を飲ませている女」とは「ユダヤに居る者」であり、「ユダヤの中心に居る者」である。「諸地方に居る者」は含まれていない。

ルカによれば、「禍となる身重の女や乳を飲ませている女」は、神の「怒り」により、ユダヤ人に対する「懲罰」として「成就するための日々」でもあるそうだ。

 

 

マルコの「その日々には…患難が生じる」(esontai gar hai hEmerai ekinai thlipsis…)の直訳は「その日々は…患難である」。

 

マタイはマルコの誤謬を修正してくれている。

 

「日々」という時空そのものが、「患難」という事象であるはずもないので、「日々」を削除して、「その時には患難があるだろう」(estai gar tote thlipsis …)と書き変えてくれた。

 

マルコの表現でも、意味が通じないことはないのだが、マタイ先生はマルコの誤謬に厳しいようである。

 

それ以降も、マタイはマルコの細かく修正してくれているが、ほぼマルコをそのまま写している。

 

マルコは「主」(kurios)を主語において文を作っているが、マタイは「主」という語を避け、「神」の名をみだりに発音しないユダヤ人の慣習に従って、削除してくれている。

マルコの「その日々には」(en ekeinais tais hEmerais)がくり返されるので、「その時」(tote)に変えたり、「その日々」(hai hEmerai ekeinai)を主語にして受身の文に書き変えてくれている。

 

しかし、マルコとマタイでは「徴と奇跡」に対する見方が異なっているので、同じ表現でも、全く同じ意味ということにはならない。

 

マルコもマタイも、偽キリストや偽預言者の出現を予言しているが、どちらも同じ時期の同じものを想定しているわけではない。

か「終わりの日」に対する見方も異なっている。

 

マルコでは、21「主が選んだ選びの者たちの故に、その日々を縮めて下さった」とあるが、「その日々」とは、20「もしも主がの日々を縮めて下さらなければ、いかなる人間も救われない」日々のことであるから、19今後も起こることのないような患難」の日々を指している。

 

マルコの21「その時」とは、「選ばれた者たちの故に縮められた日々」のことであり、その時に「偽キリスト」や「偽預言者」が出現する、と言っている。

 

マルコでは、「患難が生じる日々」に「偽キリスト」や「偽預言者」が出現する。

 

元伝承では、「終末の日々」に関する伝承であったが、マルコは「カリグラ事件」を想定した「患難の日々」に適用している。

 

つまり、マルコの「終末」の「日々」は、この時点ではまだ到来していない。

 

従がって、ここでは「患難の日々」に想定される戦争やその他の災害、前に出て来た地震や飢饉などの「いかなる人間も救われない」と思えるような状況を考えていることになる。

 

「いかなる人間」も、人災、自然災害の如何を問わず、これらの災害の犠牲者になることを絶対的に避けられる方法などない、と言っているだけである。

 

では、「主が選んだ選びの者たちの故に、主はその日々を縮めて下さった」とはどういう意味か。

 

神が人間の中から「選びの者」という特別な人間を選んで、「患難の日々」を途中で中断させて下さった、という意味だろうか。

 

マタイはマルコをそう読んだのであろうが、マルコの意図はそうではなかろう。

 

「終わりの日」はまだ到来していないのであるから、「いかなる人間も救われない」と思われる「患難の日々」にも、生き残る者たちは存在することになる。

 

彼らにとっては「主はその日々を縮めて下さった」ので生き残ることが出来たのだと言いたいのであろう。

 

「生き残れた」ということは、「主が選んだ選びの者」である故のことであり、神が「患難の日々」を縮めて下さったおかげであるという趣旨だろう。

 

マルコには「終わりの日」における宗教的な意味での「救い」や「永遠の生命の付与」による死後の救いのような「救済信仰」は存在しない。

 

マルコは「あなた方」や「選びの者」に対して、「信じるな」、「あなた方自身で気をつけよ」という行動を基本としており、「キリスト」を主張する者たちや「徴」や「奇跡」で、キリストを判断しようとする姿勢を根本的に否定している。

 

マルコでは、「選ばれた者たちの故に、患難の日々を神が縮めて下さる」時に、「徴や奇跡」をなして、「救いをもたらす」=「キリスト」と主張する者が「偽預言者」であり、「偽キリスト」である。

 

マルコは、定冠詞付き「読者」に対して「理解」を促し、「偽キリスト」や「偽預言者」だけでなく、その前に述べたことも含めて、「キリストの出現」を騒ぐキリスト信者や「徴や奇跡」を騒ぐキリスト信者の登場に、「惑わし、欺か」れないように、「一切を」前もって言っておくのである。

 

 

それに対しマタイは、マルコの「一切を」(panta)を削り、単に「前もって言っておく」とした。

その結果、マタイでは「選びの者たち」に対して、「偽キリスト」や「偽預言者」に惑わされないための警告として、「前もって言っておく」ことになった。

 

マタイは、「世界的福音宣教」の後に訪れる「終わりの日」に関して、これらの一連の出来事が「徴」として、生じることとしている。

 

つまり「荒廃の忌むべきもの」が「聖なる場所に立つのを見る」時は、「終わりの日」のことであり、ユダヤ地方に生じる「徴」となる出来事である。

 

21「その時には」、有史以来未曾有の「いかなる人間も救われない」ような「大きな患難」が生じるが、「選びの者たちの故に」、「その日々は縮められる」ことになる。

マタイにおける「その日々」とは「終わりの日」における「大患難の日々」を指す。

 

つまり、「いかなる人間も救われない」ような「大きな患難の日々」は、「選びの者たち」の故に縮められ、「救われる者」たちが生き残ることが可能になり、宇宙の終焉は回避されることになるのである。

 

マタイでは23「その時」、出現するのが、「ここに、キリストが。いやここだ、」などと言う人である。

 

マタイの「偽キリスト」や「偽預言者」は、24できれば選びの者たちさえも惑わす」ために、「終わりの日」の「大患難の日々」に出現する。

 

マタイは定冠詞付き「読者」に、「選びの者たち」(=マタイ派キリスト信者)を想定し、理解を促しているのであろう。

 

マタイの「偽キリスト」や「偽預言者」は「終わりの日」における「徴」の一つであり、彼らのなす「大きな徴」や「奇跡」に「惑わされてはならない」と「あなた方(=選びの者たち)に前もって言っておく」のである。

 

 

マルコの「惑わしあざむく」(apoplanaO)は、マタイの「惑わす」(planaO)に、分離を意味する接頭語(apo)をつけて強調したもの。「惑わして、正しい道から引き離す」という趣旨。

 

マルコの「徴と奇跡」(sEmeia kai tErata)という表現は、使徒行伝ではイエスや使徒たちの奇跡活動を表わす表現として用いられている。(2:19,22,43,4:30、3:19.5:12,6:8,7:36.14:3,15:12)

 

マルコでは、この個所で、「偽キリスト」や「偽預言者」の活動に関して一度だけ用いられているだけである。

 

ヨハネ福音書では「徴」(sEmeia)という語を一貫してイエスの奇跡行為を指すのであるが、マルコでは一度もイエスの奇跡行為に関して「徴」という語を用いていない。

 

マルコにおいてイエスの奇跡行為は、イエスがキリストであることを示す「徴」として用いられている箇所はない。

逆に「徴」を求めるのはイエスの論的であるパリサイ派と弟子たちだけである

 

マルコにおいて、「徴と奇跡」を行なうのは、「偽キリスト」と「偽預言者」だけである。

 

 

それに対しマタイの弟子たちは、イエスに積極的に、「徴」を求める。

マタイはマルコとは逆で、「徴」を求める行為を、信仰に篤い、模範的なキリスト信者の手本と考えているのだろう。

 

マルコの「偽キリスト」や「偽預言者」の行なう「徴と奇跡」に関しても、マタイは「大きな徴と奇跡」(sEmeia megala kai terata)と「大きな」(megala)をつけて強調している。

 

マルコの「患難」(thlipsis)に関しても、「大きな患難」(thilipsis megalE)と「大きな」(megalE)をつけて、強大化させている。

 

マタイにおける「終わりの日」と「キリストの再臨」の「徴」を「理解」するのは、「大きな患難の日々」を「縮める」ことも可能にし、「偽キリスト」や「偽預言者」のなす「大きな徴や奇跡」にも「惑わ」されることのない「選びの者たち」なのであろう。

 

 

マタイは、「偽キリスト」と「偽預言者」に関するマルコにはない伝承を付加してくれている。

 

26「見よ、荒野に居る、などと言われても、出ていくな」「見よ、奥まった部屋の中で、と言われても信じるな」

 

ユダヤ教の預言者は、エリヤやエリシャやイザヤだけでなく、洗礼者ヨハネと同じように、すべて「荒野」で活動するものである。(マタイ3:7、11:7‐9)

 

「奥まった部屋」(tamieion)とは「執事、管理人」(tamias)を形容詞化し、さらに中性名詞にしたもの。原意は「執事室」。

 

「執事」は主人の財産を管理し、金銭を保管するので、その執事室は、建物の最も奥まった安全なところに作られた。

そこから建物の「奥にある部屋」もtemieionと呼ばれるようになったもの。

 

この個所の場合、「預言者」と「執事」を対比しているわけではなく、「荒野」と「奥まった部屋」を対比しているのだろう。

 

「荒野」は「危険な場所」の象徴であり、逆に「安全な場所」の象徴として「奥まった部屋」を対比させているのだろう。

 

次節に、「人の子の再臨」もそのようであるとマタイは指摘しているが、当時メシアが「奥まった部屋の中」に出現すると信じられていたわけではない。

 

この文には並行記事がなく、マタイが収集したイエスの単独ロギアなのか、マタイによる作文なのか不明。

 

マタイは「稲妻が東から出て西にまで現われるように、人の子の来臨もそのようであるだろう」と指摘しているが、こちらはルカ17:23‐24に並行がある・

 

ルカが17章に収めていることからも、ルカとの共通資料(Q資料)から、マタイが終末予言に組み込んだものであろう。

 

しかし、その結果、マルコではまだこの時点では「人の子の到来」は先のことであるのに、マタイでは「人の子の再臨」が「終わりの日」の到来と同時なのか、「大患難」の前なのか、「偽キリスト」や「偽預言者」の出現と同時なのか、「選びの者」たちの故に「大患難」が縮められた後なのか、混乱することになった。

 

 

マタイの「もし、屍体があるならば、そこに鷲が集まって来る」というロギアも、ルカ17:37に並行がある。

 

しかし、ルカはマタイのように27節にこのロギアを繋げていない

ルカでは、17章の最後に前後の繋がりなしに置かれている。

終末伝承であることを示唆する「その日々」「かの日」という定冠詞付き「日」の複数形も用いられていない。

既にQ資料の段階で、どのようなつながりの伝承か不明となっていたのだろう。

 

マタイもルカも、「屍体」「鷲」という語が使われているから、終末伝承として、ルカは非マルコ資料の17章に、マタイは終末伝承の24章にと、それぞれの個所に組み込んだのだろう。

 

 

ルカは、第一次ユダヤ戦争における「エルサレム神殿崩壊」をユダヤ人における「終わりの日」に想定しており、それ以後の世界を「異邦人」キリスト信者を中心とする社会の構築に位置付けている。

 

ルカは、マルコの「患難」(thlipsis)を「懲罰の日々」(hEmerai ekdikEseOs)に変え、エルサレム神殿の崩壊が、定冠詞付き「この民」(to laO toutO)と表現し、ユダヤ人に対する神の「怒り」(orgE)の「懲罰」であるというキリスト教信仰を読み込んでいる。

 

そして、70年の神殿崩壊を知っているルカは、ユダヤ人がローマ軍の捕虜となる姿を描写して、「彼らは剣の刃に倒れ、捕虜となってすべての異邦人のもとにひかれるであろう」と予言している。

 

さらに「エルサレムは、異邦人の時が満ちるまで、異邦人によって踏みつけられるであろう」と、エルサレム神殿の荒廃が続き、異邦人によるユダヤ人支配が続くことを予言する。

 

「異邦人のが満ちるまで」(achri plErOthOsin kairoi ethnOn)と、期間を限定しているが、第一次ユダヤ戦争におけるユダヤ人の惨状を知っての発言であろう

 

NWTは「諸国民の定められた時が満ちるまで」と訳している。

「定められた時」と訳しているkairosはkara=headを語源としており、一定の期間とういうより、それが主体となる期間という意味が強いように思われる。

 

ユダヤ人に対する神の「怒り」の期間が過ぎれば、再びエルサレムに対するユダヤ人による支配が回復する、という意味ではないと思われる。

 

ルカの時代のユダヤ人とエルサレムの惨状からすれば、回復は到底望める見込みもなく、ローマ帝国によるユダヤ人支配が長く続いて行く、とルカの予想を読み込んだものだろう。

 

ルカとすれば、ユダヤ人が主体のキリスト教の時代は終焉し、今後は異邦人が主体のキリスト教が長く続いていくと言いたいのだろう。

 

 

ルカの「異邦人の時」をダニエル書の「七つの時」と同一視する根拠は、どこにも存在しない。

ルカは、「ダニエル書」に読者の理解を促すこともしていない。

「預言者ダニエル」に読者の理解を促しているのは、マタイであり、「荒野の忌むべきものが聖なる場所に立つ」という表現に関する理解である。

 

「七つの時」とは表現も、内容とも無関係である。

 

WTの「七つの時」に関する「識別力を働かせる」理解も、聖書霊感説信仰が崩れたら、すべて瓦壊する解釈である。

 

 

 

 

 

詳述はしないが、WT教理の柱となっている、「七つの時」や「終わりの日」に関する預言の解釈は、マルコより先にマタイとルカが書かれ、共観福音書がすべて第一次ユダヤ戦争以前に書かれていなければ、成立しない論理構造となっている。

 

マタイとルカがマルコを写していることが明らかになり、マタイとルカが第一次ユダヤ戦争後に書かれたとなれば、整合性をもたない論理となる。

 

WT教理を守ろうとするなら、何が何でもマタイが第一次ユダヤ戦争前に書かれた最初の福音書でなければならないはずである。

 

マルコが福音書と聖書を理解する「基軸」となっては、終末予言は成立しなくなるのである。