マルコ13:9-13 <弾圧> 並行マタイ10:17-22、24:9-14、ルカ21:12-19、参照ルカ12:11-12

 

マルコ13 (田川訳)

あなた方は自分自身のことを気をつけよ。彼らはあなた方を議会引き渡し、あなた方は会堂打ち叩かれるであろう。そして代官王たちのもとに、私の故に、立たされるであろう。彼らに対する証のために10またすべての民族に対してまず福音が宣べ伝えられねばならない。11そしてあなた方が連れて行かれ、引き渡されることがあっても何を語ろうかと前もって心配することはない。その時にあなた方に与えられることを語ればよろしい。語るのはあなた方自身ではなく、聖霊だからである12そして兄弟が兄弟を死に引き渡すようなことがあろう。また父が子を。そして子が親に対して逆らって立ち、死なせることもあろう。13そしてあなた方は私の名の故にすべての人々に憎まれることになる。しかし最後まで耐え忍ぶ者は、その者こそが、救われる。

 

マタイ10

17人間たちに注意せよ。彼らはあなた方を議会に引き渡し彼らの会堂であなた方を鞭打つであろう。18そして代官や王たちのもとに、私の故に、彼らに対するまた異邦人に対する証のために連れて行かれるだろう。19あなた方が引き渡されることがあっても、どのように、また何を語ろうかと心配することはない何を語るかはその時にあなた方に与えられるであろうから。20語るのあなた方自身ではなく、あなた方の中で語っているあなた方のの霊だからである。21兄弟が兄弟を死に引き渡すようなことがあろう。また父が子を。そして子が親に対して逆らって立ち、死なせることもあろう。22そしてあなた方は私の名の故にすべての人々に憎まれることになる。しかし最後まで耐え忍ぶ者は、その者こそが、救われる

 

マタイ24

9その時あなた方は患難にあうために引き渡され、殺される。そして、私の名の故にすべての民族に憎まれることになろう。10そしてその時、多くの者が躓き、互いに互いを引き渡し、互いに憎みあうこととなろう。11また多くの偽預言者が出て来て、多くの者を惑わすであろう。12そして不法が満ちるので、多くの者のが冷えるであろう。13しかし最後まで耐え忍ぶ者は、その者こそが、救われる。14そしてこの御国の福音は全世界において、すべての民族に対する証のために宣べ伝えられるであろう。そしてその時に終末が来る。

 

ルカ21

12だが、これらすべての起こる前に、あなた方は手をかけられ、迫害され会堂や獄へと引き渡され、私のの故に王たちや代官たちのもとに連れて行かれるであろう。13だがそれは結局あなた方にとって証の機会となる。14その際、弁明する仕方を前もって心配したりしないよう、心にとめておくがよい。15何故なら、私があなた方に口と知恵を与えるのであって、あなた方に対立するいかなる者もその知恵に対抗したり、抗弁したりすることはできない。16あなた方は親、兄弟、親族、友人によってさえも引き渡され、あなた方のうち何人かは殺されるであろう。17そしてあなた方は私の名前の故にすべての人々に憎まれることになる。18またあなた方の頭の髪の毛一本失われることはない19あなた方はみずから耐え忍ぶことによって、みずからの生命を得ることになろう。

 

参ルカ12

11会堂や官憲や権力に連れて行かれることがあっても、どのように、また何を弁明し、何を言おうかと心配するな12その時になって、聖霊があなた方に何を語るべきかを教えてくれるであろうから」。

 

 

マルコ13 (NWT)

9 「あなた方は,自分自身に気を付けていなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,あなた方は会堂で打ちたたかれ,わたしのために総督や王たちの前立たされるでしょう。彼らに対する証しのためです。10 またあらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません。11 しかし,人々があなた方を引き渡そうとして引いて行くとき,何を話そうかと前もって思い煩ってはなりません。何であれその時に与えられること,それを話しなさい。あなた方が話しているのではなく,聖霊が[話している]のです。12 さらにまた,兄弟が兄弟を,父が子供を死に渡し,子供が親に逆らって立ち上がり,彼らを死に至らせるでしょう。13 そしてあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人々の憎しみの的となるでしょう。しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。

 

マタイ10

17 人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。18 いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。19 しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。20 話すのは単にあなた方ではなく,あなた方のの霊が,あなた方によって話すのです。21 さらに,兄弟が兄弟を,父が子供を死に渡し,また子供が親に逆らって立ち上がり,彼らを死に至らせるでしょう。22 そしてあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。

 

マタイ24

9 「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。10 またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。11 そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。12 また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。13 しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。14 そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。

 

ルカ21

12 「しかし,これらのすべての事の前に,人々はあなた方に手をかけて迫害し,あなた方を会堂や獄に引き渡し,あなた方はわたしの名のために王や総督たちの前に引き出されるでしょう。13 それはあなた方にとって証しの[機会]となるのです。14 それゆえ,どのように弁明するか前もってけいこなどしないことを心に定めなさい。15 わたしがあなた方に口と知恵を与えるからです。あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう。16 さらに,あなた方は,親,兄弟,親族,友人たちによってさえ引き渡され,彼らはあなた方のうちのある者たちを死に渡すでしょう。17 またあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。18 それでも,あなた方の髪の毛一本すら決して滅びることはありません。19 あなた方は自らの忍耐によって自分の魂を獲得するのです。

 

参ルカ12

11 それでも,人々があなた方を,公の集会や政府の役人また権威者たちの前に連れて行くとき,弁明のためにどのように,何を話すか,また何を言うかについて思い煩ってはなりません。12 聖霊が,言うべきことをその時あなた方に教えるからです」。

 

 

 

マルコの「弾圧」伝承とマタイ10:17-22の「弾圧」伝承は、ほぼ同じ内容であり、マタイがマルコを写している。

 

マタイは24章でも「終末予言」の並行として、「弾圧」伝承を取り上げている。

マルコと重なる部分もあるが、参ルカ12との共通部分もあり、10章では扱わなかった部分も構成を変えて取り上げている。

 

ルカ21の「弾圧」伝承は内容的にはマルコと同じであるが、文章としては異なる表現も多い。

マルコを軸に参ルカ12の表現を取り入れながら、ルカ時代のキリスト教状況に合わせて加筆修正しながら、整えてくれたのだろう。

 

 

マルコ13章と並行の「弾圧」伝承は、いわゆる「終末予言」に続く個所であり、その一部として解説されることが多い。

マルコ書は70年「エルサレム神殿崩壊」以前に書かれているが、その種の「徴」を解釈することに否定的であり、13章全体を通して、「徴」なるものを安直に信じて騒ぎ立てるな、という主張を基本的な骨子としている。

 

マタイは70年「エルサレム神殿崩壊」以後に書かれており、終末と神殿崩壊とを直接関連付けてはいない。

 

ルカも70年「エルサレム神殿崩壊」以後に書かれているが、「終末予言」の「徴」として「神殿崩壊」を想定しながら、ルカ時代のキリスト教弾圧の状況を加味した終末予言となっている

 

 

まずマルコの「終末予言」とされている「弾圧」伝承とマタイでは「終末予言」とはされていない10章の「使徒派遣における説教」伝承を比較してみる。

 

マルコ13

あなた方は自分自身のことを気をつけよ。彼らはあなた方を議会に引き渡し、あなた方は会堂で打ち叩かれるであろう。そして代官や王たちのもとに、私の故に、立たされるであろう。彼らに対する証のために10またすべての民族に対してまず福音が宣べ伝えられねばならない。

 

マタイ10

17人間たちに注意せよ。彼らはあなた方を議会に引き渡し彼らの会堂であなた方を鞭打つであろう。18そして代官や王たちのもとに、私の故に、彼らに対するまた異邦人に対する証のために連れて行かれるだろう。

 

マタイ24

14そしてこの御国の福音は全世界において、すべての民族に対する証のために、宣べ伝えられるであろう。

 

 

マルコとマタイ10章が、内容的にも言葉遣いにも共通点が多く、マタイがマルコを写しているのがよく理解できる。

ただし、マルコ13:10をマタイ10では、削除している。

マタイが削除したマルコ13:10をマタイは「終末予言」の一部として、24:14で採用している。

 

細かな違いを見てみる。

 

マルコの9「あなた方は自分自身のことを気をつけよ」(blepete de humeis heautous)に対し、マタイは17「人間たちに注意せよ」(prosechete de apo tOn anthrOpOn)。

マルコの「自分自身」(heautous)を定冠詞付き「人間」(tOn anthrOpOn)に書き変えた。

 

マルコの「自分自身に気をつけよ」とは、まわりに起こることだけでなく、自分自身の身に起きることにも気をつけよ、という意味。

 

マタイの「人間」が、「人々」という意味なら定冠詞はいらないので、定冠詞を付けている事には何らかの意味があるのだろう。

マタイがキリスト信者を「神」の立場に置き、「神」と「人間」との対比を意識して、定冠詞付きの「人間」としているのであれば、「キリスト教に反対する人々」を指しているのかもしれない。

 

マタイはマルコの「気をつけよ」(blepO)という動詞を「注意せよ」(prosechete)という動詞に変えたがる。(16:8参照)

 

マルコの「議会に引き渡し」、「会堂で打ち叩かれる」の原文はparadOsousin humas eis synedria kai eis synagOgas darEsethe。

前文が動詞+前置詞句、kaiを挟んで後半は、前半とは逆に前置詞句+動詞の構文。

交叉語法(chiasmus)という文学的手法で書かれている。

 

マタイの「議会に引き渡し」、「会堂で鞭打つ」の原文は、paradOsousin gar humas eis synedria kai en tais synagOgais autOn mastigOsousin humas

技巧的な構文は取っておらず、前置詞を整え、代名詞を付加したり、わかりやすい動詞に変えたりして、意味が通りやすい文に添削してくれている。

 

マルコの「打ち叩く」(darEsomai)は「(獣の)皮をはぐ」(derO)という動詞の受動態であるが、俗語では、刑罰として人間を「打ち叩く、鞭打つ」の意味で用いられた。

 

マタイの「鞭打つ」(mastizO)は「鞭」(mastiks)から派生した動詞で、文字通り「鞭打ちする」の意。

 

NWTは「議会」(synedrionの複数形)を「地方法廷」と訳している。

単数で定冠詞付きの場合には、「エルサレムの議会」(=サンヘドリン)を指すが、ここは無冠詞で複数形。

おそらく諸都市の「議会」を指しているのだろう。

「議会」は「裁判所」の機能も果たしていた。

NWTは迫害裁判を想定しているので、「法廷」という語を訳に織り込んだのだろう。

 

マルコ・マタイの「代官」は、hEgemOnの複数形で、通常はローマ帝国の「地方行政官」(procurator)を指す。

もっと上のproconsul「地方長官」までを指すかどうかは議論がある。

使徒行伝ではproconsulについてはanthypatosを用いている。(13:7,18:12ほか)

第一ペテロ2:14では「王に遣わされた者」を指してhEgemOnを使っているのでproconsulを指しているのかもしれない。

 

NWTは「総督」と訳しているが、それでは、ローマ帝国から、地方行政の長として任命されているproconsulという役職の「地方長官」一人だけを指すことになる。

原文は複数形だから、誤解を招くことになる。

 

「王たち」はbasileusの複数形で、通常はローマ帝国支配下の諸民族の王を指す。

帝国に屈従しながら、一応独立を保っているが、必ずしも公的に「王」の称号が許されていない場合も、通俗的には「王」と呼ばれていた。(tetrarchE「四分領太守」等)

 

「議会」「会堂」「代官」「王」も複数形であるから、パレスチナだけでなく、広くローマ帝国支配下の諸地方を念頭に置いているのだろう。

 

ローマ帝国全支配領域を意識しているなら、イエス自身の言葉ではありえず、当時のキリスト教会の情勢が読み込まれている伝承ということになる。

 

 

マルコでは、「彼らへの証において」(eis marturion autoi)という句と「すべての民族において」(eis panta ta ethnE)という句がkaiで繋がれている。

「彼らへの証において」という句の前には、「立たされるであろう」(stathEsethe)という動詞があり、「すべての民族において」という句の後には「宣べ伝えられるであろう」(kEruchthEnai)という動詞が置かれている。

 

これらの句がどの動詞にかかると読むかで微妙に意味が違ってくる

 

両方の句とも「立たされる」にかかると読むと、「イエスの故に代官や王たちの前に立たされるのは、代官や王たちに対する証のためだけではなく、すべての民族に対する証のためでもある」という趣旨になる。この後に「まず福音が宣ベ伝えられねばならない」という文が続くことになる。

 

最初の句は「立たされる」にかかり、後の句は「宣べ伝えられる」にかかると読むと、「イエスの故に代官や王たちの前に立たされるのは、彼らに対する証のためである」が、「まずすべての民族に対して福音が宣ベ伝えられねばならない」という趣旨になる。

 

和訳聖書のすべてだけでなく、普及している外国語のほぼすべての聖書が、10節冒頭の句である「すべての民族において」という句を、同じ10節の「宣ベ伝えられる」という動詞にかけて訳している。

 

もちろんNWTもこちらの訳を採用。

マタイ24:14と並んで、「終わりが来る前に、まず、すべての国の人々に良いたよりが宣ベ伝えられることが必要である」から、終わりの日に住むキリスト信者にとって宣教活動は「最も重要で優先すべきの仕事」である、と解釈する根拠となっている。

 

新約聖書に章節の番号が振られたのは、16世紀中ごろであり、もちろん原典に章節の区分はなされてはいない。

 

章節の番号に囚われなければ、文法的には10節頭にあるkai eis panta ta ethnEという句を、9節の「立たされるであろう」という動詞にかかる句と解して、eis marturion autoiという句と共に、どちらも「私の故に」という句の補足的説明をしていると解することも可能である。

 

つまり、代官たちや王たちのところに、「私の故に」、立たされるであろうが、それは「彼らに対する証のため」であり、また「すべての民族に対する証のため」でもある、という意味に読むことになる。「まず福音が宣べ伝えられねばならない」という文は、「弾圧」とも「終わりの日」における「すべての民族に対する証」とも無関係の単独の文となる。

 

「彼らに対する証のために」とは、彼らの法廷に引き出されること自体が彼らに対する「証」になるという意味だから、単に法廷で無理矢理証言させられるという消極的な意味ではなく、自分たちが彼らにつかまり、彼らが間違っていて、自分たちが正しい、ということの証になる、ということでもある。

 

「すべての民族に対して」とは、我々が弾圧されて、法廷に引っ張って行かれるのは、単に弾圧者たちに対して福音の正当性を見せるためだけではない。それは世界全体に対する証言でもあるのだ。何が起ころうと、「イエスの故に」、まず「福音」を「宣べ伝えようではないか」、という意味になる。

 

「福音」が「宣ベ伝えられねばならない」とはどういう意味か。

 

マルコは「徴」を求めることを批判し、「福音」を「イエスの生き方全体」と同義にみなしている。

「私の故に、立たされるであろう」が、「自分自身のことに気をつけよ」とも言っている。

キリスト信者はイエスの故に立たされることがあろうとも、イエスの生き方に倣っているかどうか、自分自身に起きることに注意を払うべきだ、という趣旨だろう。

 

周囲には、「そら終末だ、終末の前兆だ」などと騒いでいるキリスト信者がいるが、そんなことでジタバタ騒がないで、我々はしっかりやるべきことをやろうじゃないか」。

 

まず自らが「福音」(=イエスの生き方)を踏襲し、あらゆる人々に「宣ベ伝える」(実践していることを示す)ことがキリスト信者の本分ではなかろうか、と言いたいのであろう。

 

古代のカイサリア系の写本や古ラテン語訳の諸写本、ヴルガータの写本の一つも「まず福音が…」の前にdeという指小辞が入っており、別の文として始まることを示している。(「訳と註」p402)

 

ほとんどの大文字写本は、接続小辞のdeが入っていない読みであるから、rectio deffiliciorの原則からしても、deの入らない読みが原文であろう。

その場合、「まず福音が宣べ伝えられねばならない」という指小辞のない文は、asyndetonという崩れた文法の構文となる。

 

ただし、マタイが普及された以降も、「すべての民族に対して」という句は「福音を宣ベ伝える」という動詞にかかるのではなく、「私の故に立たされるであろう」という動詞にかかると読んでいるものがあったのである。

 

カイサリア系の写本家はマルコの意図を読み取り、deを入れた読みの写本にしたのであろう。

 

 

マタイにはマルコ13:9,10の並行として、10:18と24:14の二つがある。

直接の並行である24:14は「この御国の福音は全世界において、すべての民族に対する証のために、宣べ伝えられるであろう」(kEruchthEsetai touto to euaggelion tEs basileias en holE tE oikoumenE eis marturion pasin tois ethnesin)としている。

 

これは、マルコ13:9,10を合成した読みで、13:10の「すべての民族に対して」(eis panta ta ethnE)という句を「宣ベ伝える」(kEruchthEnai)という動詞にかけて読み、13:9の「彼らに対する証のために」(eis marturion pasin tois ethnesin)という句から、「証」(marturion)という語を拝借させて、読んだものである。

 

マルコ13:9,10のもう一方の並行であるマタイ10:18は「代官や王たちの元に、私の故に、彼らに対するまた異邦人に対する証のために連れて行かれるだろう」(epi hEdemonas de kai basileis achthEawathe hwnwkwn wmou eis marturion autois kai tois ethnesin)としている。

 

こちらは、マルコ13:9、10から、9の「彼らに対する証のために」(eis marturion autois)という句と、10前半の「すべての民族に対して」(eis panta ta ethnE )という句の両方を9の「立たされる」(stathEsethe)という動詞にかけて読み、「連れて行かれる」(achthEsethe)という動詞に変えて、10後半の「まず福音が宣べ伝えられねばならない」の文を削除したものである。

 

つまり、マタイはマルコ13:10の「すべての民族に対して」という句を、10:18では「立たされる」という動詞にかけて読み、24:14では「宣ベ伝える」という動詞にかけて読み、二箇所で採用したということである。

 

マルコの「すべての民族に対して」(eis panta ta ethnE)がマタイ10では「異邦人に対して」(eis tois ethonesin)と同じ句が別々の表記で訳されている。

マタイにとって複数形定冠詞付き「民族」(tois ethonesin)とは、ユダヤ人以外の民族、つまり「異邦人」を指すからである。

 

マタイ24の複数形定冠詞付き「民族」(tois ethonesin)が「民族」と訳されているのは、「すべての」(pasin)という形容詞が付いているからである。

 

マルコ13:10の「すべての民族に対して」という句を「宣ベ伝える」という動詞にかけて訳そうとするのは、マタイ24:14をマルコに読み込み、キリスト教の「異邦人伝道」を正当化しようとするものだろう。

 

WTの推奨する「終わりの日における宣教最優先」の教義を正当化するためには、マルコにマタイを読み込んで、マルコ13:10をマタイ24:14と同じく「すべての国民に対する証のための宣教」と解釈しなければ成立しない。

 

またマルコがキリスト信者の「天からの徴」を求める態度を偽善的として批判しているのを否定し、マタイやルカと同じように「終わりの日の徴」を求める姿勢を示していると解釈しなければ成立しない教義でもある。

 

 

マルコの「弾圧」伝承における最初の部分とルカの並行を比較してみる。

 

マルコ13

あなた方は自分自身のことを気をつけよ。彼らはあなた方を議会引き渡し、あなた方は会堂打ち叩かれるであろう。そして代官王たちのもとに、私の故に、立たされるであろう。彼らに対する証のために10またすべての民族に対してまず福音が宣べ伝えられねばならない。

 

ルカ21

12だが、これらすべての起こる前に、あなた方は手をかけられ迫害され会堂や獄へと引き渡され私の名の故に王たちや代官たちのもとに連れて行かれるであろう。13だがそれは結局あなた方にとって証の機会となる。

 

 

ルカの「これらすべて」とは前段の「終末に起こることのすべて」を指しており、キリスト信者への弾圧を「終末予言」の一部としている。

 

内容的にはマルコの並行記事と同じことを言っているが、ルカは、「迫害される」(diOkOの受身)という動詞を用いている。

この動詞は、本来単に「追う」「追い求める」「追いかける」の意味で用いられる動詞であるが、キリスト教用語として「キリスト教徒を追い回して迫害する」という意味の術語として用いられるようになったもの。

 

マルコでは、この動詞の名詞形(diOgmos)は出て来る(4:17、10:30)が、動詞は用いられていない。

 

つまり、マルコの時代では、この動詞(diOkO)が「迫害する」という意味では用いられていなかったことを示している。

「迫害」(diOgmos)が頻繁に起こるようになったので、字義「追いかける」(diOkO)という動詞が「迫害する」という意味を持つようになったのである。

 

ルカはイエスの時代にはまだ存在していない「迫害」の状況をイエスの口に語らせ、「終末の徴」としたのである。

 

マルコの「代官や王たちのもとに、私の故に、彼らに対する証のために、立たされるであろう」(epi hEdemonOn kai basileOn tathEsesthe heneken emou eis marturion autois)を、ルカは「私のの故に王たちや代官たちのもと連れて行かれるであろう。だがそれは結局あなた方にとって証の機会となる」(agomenous epi basileis kai hEdemonas heneken tou onomatos mou apobEsetadehumin eis marturion)と書き変えている。

 

マルコの「私の故に」(heneken emou)をルカは「私のの故に」(heneken tou onomatos mou)と定冠詞付き「名前」を入れ、「立たされる」(tathEsesthe)という動詞を「連れて行かれる」(agomenous)という動詞に変えた。

 

定冠詞付き「名前」(tou onomatos)が入ると、単に「イエス」という名前の人物というよりも、「イエス」という特別な意味を持つ名前の人物、という意味合いになる。

ルカには、「イエス」とは、単に人間「イエス」ではなく、「イエス・キリスト」、もしくは「キリスト」なる「イエス」という意識が働いているのである。

 

さらに、「彼らに対する証のために」(eis marturion autois)というマルコの句の鍵となる「証のために」(eis marturion)を生かし、接続小辞deで始まる「あなた方に証のための機会となる」(apobEsetai de humin eis marturion)とし、「あなた方」を主語にした文に整えてくれたのである。

 

ルカもマタ10と同じくマルコの「まず福音が宣ベ伝えられねばならない」という句は削除している。

 

 

マルコの「まず福音が宣ベ伝えられねばならない」に続く並行個所を比較してみる。

 

マルコ13

11そしてあなた方が連れて行かれ引き渡されることがあっても何を語ろうかと前もって心配することはない。その時にあなた方に与えられることを語ればよろしい。語るのはあなた方自身ではなく、聖霊だからである12そして兄弟が兄弟を死に引き渡すようなことがあろう。また父が子を。そして子が親に対して逆らって立ち、死なせることもあろう。

 

マタイ10

19あなた方が引き渡されることがあっても、どのように、またを語ろうかと心配することはな何を語るかはその時にあなた方に与えられるであろうから。20語るのはあなた方自身ではなく、あなた方の中で語っているあなた方の父の霊だからである。21兄弟が兄弟を死に引き渡すようなことがあろう。また父が子を。そして子が親に対して逆らって立ち、死なせることもあろう。

 

ルカ21

14その際、弁明する仕方を前もって心配したりしないよう、心にとめておくがよい。15何故なら、私があなた方に口と知恵を与えるのであって、あなた方に対立するいかなる者もその知恵に対抗したり、抗弁したりすることはできない16あなた方は親、兄弟、親族友人によってさえも引き渡され、あなた方のうち何人かは殺されるであろう。

 

参ルカ12

11会堂や官憲や権力に連れて行かれることがあっても、どのように、また何を弁明し、何を言おうかと心配するな12その時になって、聖霊があなた方に何を語るべきかを教えてくれるであろうから」。

 

 

この部分のマルコとマタイ10は、ほとんどが同じ表現であり、マタイがマルコを写しているのがわかる。

 

違いは、マタイがマルコの「連れて行かれる」(agO)という動詞を削除し、「引き渡される」(paradidO)という動詞だけを残している点。

 

マタイは削除した「連れて行かれる」(agO)という動詞をマルコでは9「立たされる」(histEmi)とある動詞と置き換えて、前文で18「連れて行かれる」(ago)として採用したのだろう。

 

マルコの「霊」(to pneuma to hagion)をマタイが「あなた方のの霊」(to pneuma tou patros humOn)としている点。

 

参ルカ12でも「聖霊」(to puneuma to hagion)とあり、マルコもQ資料も同じ表現である。

 

マタイは定冠詞付き「聖」や「神」という語を避け、「天」や「父」という語に置き換えて使うユダヤ人の慣習に従がったのだろう。

 

マタイはマルコの「何を語ろうかと前もって心配することはない」(mE promerimnate ti lalEsEte)を、「どのようにまた何を語ろうかと心配することはない」(mE merimnEsEte pOs e ti lalEsete)としている。

 

参ルカ12では、「どのようにまた何を弁明し、何を言うかと心配するな」(mE merimnate pOs e ti apologEsEsthe e ti eipEte)とある。

 

マタイは参ルカ12の「どのように、また何を」(pOs e ti)という同じ表現を用いている。

 

おそらくマタイは参ルカ12と同じ資料(Q資料)を見て、マルコと合体させて一つの文を構成させたのであろう。

 

ルカ21は「その際、弁明する仕方を前もって心配したりしないよう、心にとめておくがよい」(thesthe oun eis tas kardias humOn mE promeletan apologEthEnai)としているが、マルコを軸にQ資料の「弁明する」という動詞を採用し、洗練された表現に直してくれたのであろう。

 

マルコのイエスは「語るのはあなた方自身ではなく、聖霊である」と告げるが、ルカのイエスは「があなた方に口と知恵を与える」と神ではなく、イエスが支えることに変えている。

それだけでなく、ルカのイエスは「あなた方に対立するいかなる者もその知恵に対抗したり、抗弁したりすることはできない」という保証の言葉を加える。

 

マルコの「兄弟が兄弟を」「父が子を」「子が親に逆らって立ち、死なせることもあろう」を、マタイはそのまま写しているが、ルカは「親、兄弟、親族、友人によってさえ引き渡され、あなた方のうち何人かは殺されるであろう」としている。

ルカは「引き渡す」人間に、「親」・「兄弟」だけでなく、「親族」と「友人」を加えてくれている。

 

マルコの「逆らって立ち、死なせる」とは、前文の「死に引き渡す」と同義であり、弾圧下の状況家族が家族を「引き渡す」、つまり家族の中のキリスト信者でない者がキリスト信者を官憲に「引き渡し」、直接「死なせる」わけではないが、「死んでもかまわないような処遇にさせる」ということである。

 

ルカは、「引き渡し」、「殺される」ようにさせる人間を拡張させ、親・兄弟だけでなく、「親族」や「友人」を含めているのだから、キリスト教がかなり伝播しており、対立もマルコ時代よりもはるかに拡大していたことが読み取れる。

 

マルコの「あなた方は私の名の故にすべての人々に憎まれることになる。しかし最後まで耐え忍ぶ者は、その者こそが、救われる」というイエスのロギアを、マタイ10はそのまま採用している。

 

ルカはマルコの前半はそのまま引用するが、後半を18あなた方の頭の髪の毛一本失われることはない」と保証した上で、19「あなた方はみずから耐え忍ぶことによって、みずからの生命を得ることになろう」に書き変えている。

 

「みずからの生命を得る」とは、「みずからで生き続ける生命を得る」という意味である。

 

ルカはマルコの「救われる」という意味を、弾圧に耐え忍ぶなら、神によって与えられる結果として、「永遠の生命」を得ることが出来る、という意味に変えたのである。

 

マルコは、確かに「その者こそが」(houtos)とわざわざ主語を置いて強調しているが、単に「救われる」と言っているだけであり、弾圧に耐え、キリスト信仰を守るなら、永遠の生命が神から授けられる、などとは言っていない。

 

ルカは、ルカ流のキリスト教を展開させているのである。

 

ルカは16節では「何人かは殺される」と弾圧による「殺されてしまう」犠牲者の存在を認めている。

ところが、18節では「あなた方の頭の髪の毛一本失われることはない、と命を保証したのである。

 

ルカにとっては、「殺される」よりも、「髪の毛を失う」方が重大なことなのだろう。

 

 

マタイはマタイ10ではマルコをそのまま写したが、もう一つの並行であるマタイ24では、二つに分けて採用している。

 

マルコの前半の「私の名の故にすべての民族に憎まれる」を9節に置き、後半の「しかし最後まで耐え忍ぶ者は、その者こそが救われる」を13節に置いた。

 

マタイはマタイで、マタイ流のキリスト教を展開させている。

 

マタイ24

10そしてその時、多くの者が躓き、互いに互いを引き渡し、互いに憎みあうこととなろう。11また多くの偽預言者が出て来て、多くの者を惑わすであろう。12そして不法が満ちるので、多くの者のが冷えるであろう。

 

マタイの言う「多くの者」とは、現在キリスト信者である者の中での「多くの者」という意味であろう。

マタイは、神によってユダヤ人が最初に招かれたが、彼らがふさわしくなかったので、見捨てられ、代わりにキリスト信者が招かれた。だが、キリスト信者の中にもふさわしくないものが存在する、という信条を強く持っている。

 

マタイのこの主張は山上の垂訓から終末予言まで、繰り返し登場する。

有名なところでは、

マタイ7:21‐23「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の王国に入るのではなく、天におられる父のご意思を行なう者が入るのです。その日には、多くの者が私に向かって、「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し、あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか」と言うでしょう。しかしその時、わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない。不法を働く者たちよ。わたしから離れ去れ、と」(NWT)というイエスの宣告。

 

マタイのイエスは、キリスト信者であっても、「不法を働く者」として、「多くの者」が処断されると言っている。

 

このいわゆるマタイの「内教会批判」(corpus mixtum)は、ほかにも、「羊の装いをした狼」や「良い実を結ばない木」などの譬、「王の設けた婚宴に結婚式の衣装を着けずに出席した招待された客」や「忠実で思慮深い奴隷とよこしまな奴隷」や「十人の処女」のなどの話等々、数多くの個所で見られる。

 

マタイとしては、キリスト信者が「イエスの名の故に」憎まれるのは、何もユダヤ人を含めたすべての民族からだけでない。

キリスト信者の中にも他のキリスト信者を憎む者は存在する。

それなら、キリスト信者同士の間でも「多くの者」が、「互いが互いを」裏切り、「互いに」憎み合うことが生じる、と言いたいのだろう。

 

続けてマタイはマルコの13:22で登場する「偽預言者」を先取りして、「偽預言者」批判を展開させる。

 

「偽預言者」が多く出て来るので、「不法」が満ち、「愛」が冷える、というのである。

 

マタイはキリスト教における旧約律法の完成を目指しており、律法全体の核として「愛」の実践を置いている。

マタイにとって「不法」とは「愛」を実践しないことであり、「愛」の実践は「神の意志」でもある。

 

マタイのパリサイ派批判も律法学者批判も、律法の規定には熱心であっても、「愛」の実践が伴わないからである。

 

マタイにとって「法」の実践とは「愛」の実践なのである。

それゆえ、「愛」の実践の伴わない「法」の実践は「不法」なのである。

 

マタイはここでも、キリスト教内での「愛」の実践の伴わないキリスト信者を批判しているのであろう。

 

そして「最後まで耐え忍ぶ者は、その者こそが、救われる」とマルコの後半部分を繋げる。

 

マタイにとって「最後まで耐え忍ぶ」とは、単に「弾圧」に対して「耐え忍ぶ」ことだけではなく、たとえ「キリスト信者を名のる偽預言者により「多くの者」が惑わされ、不法が満ちても、「愛」の実践を最後まで貫く」ことを指しており、「その者こそが、救われる」というマタイ流のキリスト教を展開させているのであろう。

 

とすれば、続くマタイの「この御国の福音」(touto to euangelion tEs basileias)には神が支配する「愛」の実践なされる世界の到来が含まれているのだろう。

 

 

「御国の福音」の内容に関してWTはマタイのキリスト教を踏襲していると言えるかもしれないが、「愛」の実践に関しては、マタイのキリスト教を踏襲している、と言えるのだろうか。

 

「法」の実践はしていても、「愛」を実践しないキリスト信者をマタイのイエスは「偽預言者」または「不法を働く者」と断罪している。

 

マタイのイエスによれば、「イエスの名の故に」憎まれるだけで「救われる」わけではない。

「最後まで耐え忍ぶ者」(ho de hypomeinas eis telos)として「愛」を実践する者、「その者こそ」が(houtos)、「救われる」(sOthEsetai)という動詞の主語となっているのである。

 

 

ただし、マルコのイエスはそんなことは言っていない。

単に、たとえ厳しい弾圧があろうとも、「福音」(イエスの生き方全体)を世界に伝えようではないか、と呼びかけているだけである。

 

マタイはマルコとは「弾圧」伝承の構成を変更し、「御国の福音」の「宣教」を最後に置いている。そして、「その時に終末が来る」と付け加えた。

 

そのため、マタイでは「福音」の世界宣教が、「終末の徴」の一部となり、「終末が来る」ための前提条件の一つとなったのである。

 

「福音」が世界中に伝えられるまでは終末は来ないが、その時になったら確実に「終末」が来るとマタイのイエスは保証するのである。

 

一方マルコのイエスは、「終末」が来るぞ、来るぞ、と騒ぎ立てる人々に同調するキリスト信者に対して、「誰にも言うな」と批判している。(8:27‐30)

 

「徴」を求めて議論し、「天からの徴」を解釈しようとする姿勢に対して、「パリサイ派」と同じであり、そんな輩に「徴が与えられることなど決してない」と批判している。(8:11‐12)

 

マルコは、様々な要素を関連付けて「終末」に関するドグマを構築しようとするマタイの姿勢とは、真逆である。