マルコ13:1-8 <神殿破壊の予言、終末の時> 並行マタイ24:1-8、ルカ21:5-11
マルコ13 (田川訳)
1そして彼が神殿から出て来ると、彼の弟子たちの一人が言う、「先生、ごらんなさい。何という石、何という建物でしょう」。2そしてイエスが彼に言った、「あなたはこれらの巨大な建造物を眺めておいでか。ここでは石がほかの石の上に壊れることなく積み残ることはないだろう」。
3そして彼がオリーヴ山で神殿に向かって座っていた時に、ペテロとヤコブとヨハネとアンドレアスが自分たちだけで彼に尋ねた、4「そういったことがいつ生じるのか、またそういった一切のことが終焉する時にどういう徴があるのか、私たちにおっしゃって下さい」。5イエスは彼らに答えるのであった、「人があなた方を惑わすことのないよう、気をつけなさい。6多くの者が私の名を名のって現れ、私だ、と言って、多くの者を惑わすだろう。7戦争と戦争の噂を聞いても、狼狽するな。戦争は起こるものだ。しかしまだ終末ではない。8何故なら、民族が民族に対して、王国が王国に対して立ち上がったり、場所によっては地震があったり、また飢饉があったりするだろう。これらは苦痛のはじまりにすぎない。
マタイ24
1そしてイエスが神殿から出て歩んで来ると、彼の弟子たちが進み出て、神殿の建造物を彼に指し示した。2彼は答えて彼らに言った、「あなた方はこれらすべてを見ることをしないのか。アメーン、あなた方に言う、ここでは石がほかの石の上に壊れることなく積み残ることはないだろう」。
3彼がオリーブ山の上に座っている時に、弟子たちが自分たちだけで彼のもとに進み出て、言った、「これらのことがいつ生じるのか、またあなたの再臨と此の世の終焉の徴がどういうものであるのか、私たちにおっしゃって下さい」。4そしてイエスが彼らに答えて言った、「人があなた方を惑わすことのないよう、気をつけなさい。5というのも、多くの者が私の名によって現れ、自分がキリストだと言って、多くの者を惑わすからである。6あなた方は戦争と戦争の噂を聞くであろう。狼狽しないよう、気をつけなさい。何故なら、戦争は起こるものだが、まだ終末ではないからだ。7民族が民族に対して、王国が王国に対して立ち上がったり、飢饉や地震が場所によってはあるだろう。8だがこれら一切は苦痛のはじまりにすぎない。
ルカ21
5そしてある者たちが神殿について、見事な石や奉納品によって飾られていますね、などと言ったものだから、彼は言った、6「あなた方はこれらのものを眺めているが、石がほかの石の上に壊れることなく積み残ることのない日が来るだろう」。
7そして彼に尋ねて言った、「先生、そういったことはいつ生じるのでしょうか、またそれが生じる時にどういう徴があるのでしょうか」。8彼は言った、「惑わされることのないよう、気をつけなさい。というのも、多くの者が私の名を名のって現れ、私だ、時が近づいたのだ、などと言うだろう。そういう者の後について行ってはいけない。9戦争や騒乱があると聞いてもおたおたするな。何故なら、そういったことがまず起こるものだが、それですぐに終末になるわけではない」。10その時彼は彼らに言った、「民族が民族に対して、王国が王国に対して立ち上がったり、11大地震や、場所によっては飢饉に飢饉が続いたりするだろう。また恐ろしいことや、天から大きな徴があったりするだろう。
マルコ13 (NWT)
1[イエス]が神殿から出て行かれる時であったが,弟子の一人がこう言った。「師よ,ご覧ください,何という石,それに何という建物なのでしょう」。2 しかし,イエスは彼に言われた,「あなたはこれらの大きな建物に見入っているのですか。石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう」。
3 そして,[イエス]がオリーブ山の上で神殿の見える所に座っておられた時であったが,ペテロ,ヤコブ,ヨハネ,アンデレが自分たちだけでこう尋ねはじめた。4 「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,これらのすべてのものが終結に至るように定まった時のしるしには何がありますか」。5 そこでイエスは彼らにこう言い始められた。「だれにも惑わされないように気を付けなさい。6 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがそれだ』と言って多くの者を惑わすからです。7 また,戦争のことや戦争の知らせを聞いても,恐れおののいてはなりません。[これらの事は]必ず起きますが,終わりはまだなのです。
8 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと地震があり,食糧不足があるからです。これらは苦しみの劇痛の始まりです。
マタイ24
1さて,イエスが[そこを]たって神殿から去って行かれるところであったが,弟子たちが神殿の建物を示そうとして近づいて来た。2 [イエス]はそれにこたえてこう言われた。「あなた方はこれらのすべてのものを眺めないのですか。あなた方に真実に言いますが,石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう」。
3 [イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。
4 そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。5 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。6 あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。
7 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。8 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
ルカ21
5 後に,ある者たちが,神殿に関し,それがりっぱな石や献納物で飾られていることについて話していたところ,6 [イエス]はこう言われた。「あなた方が見入っているこれらの物について言えば,石が一つとしてこのまま石の上に残らず,[すべてが]崩されてしまう日が来ます」。7 そこで彼らは質問して言った,「師よ,そのようなことは実際にはいつあるのでしょうか。また,そのようなことが起きるように定まった時のしるしには何がありますか」。8 [イエス]は言われた,「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがそれだ』とか,『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません。9 さらに,戦争や無秩序な事態について聞いても,恐れおののいてはなりません。これらはまず必ず起きる事だからです。しかし,終わりはすぐには[来]ないのです」。
10 それから[イエス]はさらにこう言われた。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がるでしょう。11 そして,大きな地震があり,そこからここへと疫病や食糧不足があります。また,恐ろしい光景や天からの大いなるしるしがあるでしょう。
JWにとってはおなじみのイエスの「終わりの日のしるし」を現代預言に解釈するWT信仰の中心となる予言である。
WTの「終わりの日」に関する預言解釈の矛盾に関しては、「エホバの証人研究」(www.jwstudy.com/ja/)などのサイトや他の方のブログで詳しく論じられているので、お任せすることにする。
マタイとルカはマルコを元に70年のエルサレム神殿破壊の歴史的事実を知って書いていると思われるが、マルコの神殿破壊予言は必ずしも70年のエルサレム神殿破壊の予告ではないと思われる。
マルコ13
1そして彼が神殿から出て来ると、彼の弟子たちの一人が言う、「先生、ごらんなさい。何という石、何という建物でしょう」。2そしてイエスが彼に言った、「あなたはこれらの巨大な建造物を眺めておいでか。ここでは石がほかの石の上に壊れることなく積み残ることはないだろう」。
マタイ24
1そしてイエスが神殿から出て歩んで来ると、彼の弟子たちが進み出て、神殿の建造物を彼に指し示した。2彼は答えて彼らに言った、「あなた方はこれらすべてを見ることをしないのか。アメーン、あなた方に言う、ここでは石がほかの石の上に壊れることなく積み残ることはないだろう」。
ルカ21
5そしてある者たちが神殿について、見事な石や奉納品によって飾られていますね、などと言ったものだから、彼は言った、6「あなた方はこれらのものを眺めているが、石がほかの石の上に壊れることなく積み残ることのない日が来るだろう」。
マルコでは、イエスが「神殿から出て来ると」、「弟子の一人」が、ユダヤ教神殿の荘厳さに感嘆し、思わずイエスに同意を求めるように、感動を口にする。
それに対し、マルコのイエスは、「弟子」の「神殿賛美」に意義を唱えるように「神殿破壊」を予言する。
この「弟子の一人」とは、3節に登場する四人の弟子のうちの「一人」であると思われる。
反ユダヤ教のイエスに対して親ユダヤ教のキリスト信者の発言であることを考えると、マルコはユダヤ教イエス派としてキリスト教を興した「ペテロ」を想定しているのかもしれない。
それに対し、マタイでは「弟子たち」が「進み出て」、神殿を「指し示す」だけで、誰も神殿の荘厳さに感嘆する声をあげることはしない。
マタイのイエスは、弟子たちが「神殿」に注目したことに呼応するように「神殿破壊」を予言する。
マタイは神殿嫌いで、「イエスの弟子たち」がユダヤ教擁護につながる神殿賛美の声をあげる状況を好ましく思わなかったのだろう。
マルコとマタイにおける「神殿破壊」予言は、「神殿」を出ている場所でなされる。
ルカでは、神殿の荘厳さに声をあげるのは「ある者たち」であり、「弟子たち」とはされていない。
マタイと同じく「弟子たち」にユダヤ教神殿を賛美させたくないルカは、マルコの「弟子たちの一人」を「ある者たち」に変えたのであろう。
ルカの「ある者たち」は「神殿」について語るだけであり、神殿の「中」での出来事なのか、神殿の「外」での出来事なのかはっきりしない。
ただし、前段の「レプタ二つ」伝承が神殿内での出来事であり、ルカはkaiでこの「神殿破壊予言」伝承を始めている。
ルカとしては、おそらく神殿内での予言という設定なのであろう。
マルコでは単に「石が石の上に壊れることなく積み残ることはないだろう」(ou mE aphethE lithos epi litho hos ou mE kataluthe)という仮定法アオリスト形で予言する。
マタイはマルコの句に、「アメーン、あなた方に言う」(amEn legO humin)という句を付加している。
マタイのイエスは、「エルサレム神殿の崩壊」に「アメーン」なる出来事として保証する言葉を添えて、預言の成就を「弟子たち」に約束するのである。
ルカのイエスは、「石がほかの石の上に壊れることなく積み残ることのない」出来事が生じる「日が来る」(eleusontai hEmerai en hais)ことを「ある者たち」に予言する。
マルコの仮定法でのイエス予言を、ルカは「積み残ることのない日が来る」(eleusontai hEmerai en hais ouk aphethaaaesentai)とわざわざ未来形に変えている。
マルコのように仮定法過去で「積み残ることはないだろう」(mE aphethE)とすると、万が一そのようなことがあるとすれば、そうなれば良いのにという期待を込めて、そのようになるだろうという趣旨になる。
それに対しルカのイエスは、将来のある特定の「日」に「エルサレム神殿が崩壊される」出来事が生じることとして予言するのである。
ルカもマタイと同じく、「エルサレム神殿が崩壊」した出来事を知っていたのだろう。
イエスはいわゆる「終わりの日のしるし」「事物の体制の終結のしるし」(NWT)を語るのであるが、誰に対して語るかは三者三様である。
マルコ13
3そして彼がオリーヴ山で神殿に向かって座っていた時に、ペテロとヤコブとヨハネとアンドレアスが自分たちだけで彼に尋ねた、4「そういったことがいつ生じるのか、またそういった一切のことが終焉する時にどういう徴があるのか、私たちにおっしゃって下さい」。
マタイ24
3彼がオリーブ山の上に座っている時に、弟子たちが自分たちだけで彼のもとに進み出て、言った、「これらのことがいつ生じるのか、またあなたの再臨と此の世の終焉の徴がどういうものであるのか、私たちにおっしゃって下さい」。
ルカ21
7そして彼に尋ねて言った、「先生、そういったことはいつ生じるのでしょうか、またそれが生じる時にどういう徴があるのでしょうか」。
マルコでは、「神殿の偉大さ」を賛美するのは「弟子たちの一人」であるが、イエスが「終焉の徴」について告げるのは、主語が交代しており、「ペテロ」「ヤコブ」「ヨハネ」「アンドレ」の四人に対してである。
場面も「オリーブ山」に移動した時に変更されている。
「弟子たちの一人」がエルサレム神殿の巨大さや宗教的栄華を誇っている状態に感嘆しきりであったことに意趣返しに、「巨大な石の建造物にご執心で眺めておいでだが、いずれ石の山となるだけかも…」と皮肉的に仮定法過去で予言する。
おそらく、ほかの弟子たちもその場にいたのであろう。
オリーヴ山に移動した時に、四人の弟子たちがイエスに質問する、という設定である。
マルコでは、「そういったこと」(tauta)が「いつ生じるか」、「そういった一切のこと」(panta tauta)が生じる時に「どういう徴があるか」とイエスに質問する。
「そういったこと」(tauta)、「そういった一切のこと」(panta tauta)とは何を指すのか。
「そういったこと」(tauta)とは、文法的には前述の文を指すから、文脈からすると「エルサレム神殿の崩壊」を指すことになる。
しかしながら、マルコは「そういったこと」と述べて、続けて「そうした一切のこと」と言い直している。
無駄な重複にも見えるが、「そうした一切のこと」(panta tauta)という表現は、どちらかというと、終末論的術語として使われる言い方である。
とすれば、マルコにおける「そういった一切のこと」とは、終末時における天変地異やその際に生じることが予想されるその他一切の出来事を指しており、エルサレム神殿崩壊に限定しているものではないとも考えられる。
世界の終焉は地球の終焉であり、宇宙の終焉でもあるから、当然エルサレム神殿の終焉も生じることになる。
マルコとしては、イエスの弟子たちが「神殿崩壊」を「終末の前兆」と考えて、「エルサレム神殿崩壊」を終末時に生じるべき「一切の事柄」の一つとみなしてイエスに質問した、と言いたいのだろうか。
それに対してイエスが、たかが「神殿の崩壊」ぐらいで大騒ぎするんじゃないよ、「終焉時」に生じる「一切の事柄」の始まりにもならない、と弟子たちを諌めたという出来事が元になっているのかもしれない。
マタイでは「神殿の建造物」を指し示すのは「イエスの弟子たち」であり、「終焉の徴」だけでなく、「イエスの再臨の徴」も「弟子たち」が尋ね、それに対してイエスが積極的に告げるという設定となっている。
マタイにとっての「終末の時」とは「キリストの再臨の時」でもあるから、「終焉の徴」は「再臨の徴」をも意味することになる。
「再臨」(parousia)の字義的な意味は「臨在」もしくは「来臨」であり、「再び」という意味はない。
ただし、マタイ派のキリスト信者はかつて地上で生きていたキリストが終末の時に世界の審判者として再び地上に顕現するのを期待していた。
それゆえマタイでは、「イエスのparousiaの徴」は「此の世の終焉の徴」(tEs synteleias tou aiOnosの徴)ともなるのである。
NWTは、「再臨」(parousiia)を「臨在」と訳し、「此の世」(tEs synteleias tou aiOnos)を「事物の体制」と訳している。
WTが「再臨」ではなく、「臨在」という表現にこだわるのは、一度目の「臨在」はイエスがメシア(キリスト)となるために、目に見える姿で地上に顕現したのであるが、二度目の「臨在」はキリストとなったイエスが、目に見える形で地上に顕現するのではなく、眼には見えない姿で天の王国の王として顕現するという教理を擁しているからであろう。
一度目の「臨在」(parousia)は誰の目にも見える形で顕現するが、二度目の「臨在」(parousia)は目に見えるわけではなく、「臨在のしるし」を認識した者だけに「見える」(see=理解する)という教理だからである。
1914年10月王国の誕生により、キリストの二度目の「臨在」が成就し、「王イエス」により、すぐにでも地上の悪を一掃する、という解釈であったが、実現せず、「短い時が残されている」だけであった。
だが、終わりが来ないので、「残されている短い時」が天の「王国の成員」を集めるための時間から、地上の「支配領域の臣民」を「集めるための時間」に拡大解釈された。
それでも、終わりは来ないので、「終わりの時」の最終段階(大患難)で地上の悪を一掃する時に「イエスと王国の成員とみ使いの連合軍」が最終攻撃(ハルマゲドン)をしかけ、「サタン連合軍を縛り」、地上の千年王国が到来するという教理に変更された。
つまり、WT終末解釈によれば、イエスの「臨在」は「終わりの日」の「始まり」と「終わり」にも二回あることになるので、一世紀と合わせて、イエスには「三度の臨在」があることになる。
いや、三度だけではない。
イエスの三度目の「臨在」により、「千年王国」が始まり、「復活」も始まるが、「千年統治」の「終わり」に活動停止にさせられていた「サタンと悪霊たち」が解放され、人々を惑わすことが許され、「天のエルサレム」が攻撃される。
その時、再び「イエス連合軍」と「サタン連合軍」が最終対決し、「天のサタン連合軍」+「地上のサタン支持者」は永遠の滅びに処される、というのが現在の教理である。
とすれば、WTの聖書理解によるとイエスの「臨在」は全部で四回あることになる。
WT解釈を守ろうとするのであれば、paruousiaを「再臨」と訳すわけにはいかないのは当然であろう。
「再臨」とすると「臨在」が二度しか生じ得ないことになるが、「臨在」とすれば何度でも生じ得ることになり、WTの解釈変更には都合のよい表現なのであろう。
WTの出版物には、「臨在」(parousia)に関する様々な詳しい説明や研究記事があるが、二度目の「臨在」が「目に見えない臨在」であることを信じさせたいだけのように思える。
NWTが「此の世の終焉」を「事物の体制の終結」と訳している理由も「臨在」と訳す理由と同様だろう。
「此の世の終焉」は「地球の最後」「宇宙の最後」を意味するので、ただ一度だけの出来事であるが、「事物体制の終結」は何度でも到来可能である。
イエスの「臨在」の直前はいつでも「事物の体制の終結」であり、一世紀にイエスが登場した時も「ユダヤ人の事物の体制の終結」の時であった。
二度目の「王国誕生」の直前の社会情勢も「近代」という「事物の体制の終結」の時であり、第一次世界大戦後に、「現代」という「事物の体制」に入る。
三度目のイエスの「臨在」は「千年王国」という「現代」の「事物の体制の終結」の直前に到来し、四度目のイエスの「臨在」は「千年王国」の「事物の体制の終結」の直前に到来するのである。
「再臨」(parousia)を「臨在」と訳し、「此の世の終焉」(tEs synteleias tou aiOnos)を「事物の体制の終結」と訳すことにより、イエスのparousiaと「此の世の終焉」(tEs synteleias tou aiOnos)は何度でも到来可能となったのである。
WTの「終わりの日のしるし」は「目に見える徴」を通して「見る」(see=理解する)ものなので、実際に目で「見て」いても、WTの「理解」を通さなければ、別の「理解」になる。
WTの「理解」が変更されれば、それまでの「目に見える徴」は「見えない徴」となり、新しいWTの「理解」を通して「見る」のでなければ、「目に見える徴」は「見えない」ことになる。
WTの描く予言が成就するまで、新たな「理解」の「目に見える徴」を追加すれば、「事物の体制の終結」は到来しても、いつまででも「終わりの日」は続いて行くことが可能となるのである。
JWが期待する「終わり」がなかなか到来しないのも当然である。
福音書で「臨在」(parousia)という語を用いているのはマタイだけである。
マルコにもルカにもヨハネにも登場しない。
新約中全部で24回登場するが、マタイに4回。
ヤコブ5:7,8と第一ヨハネ2:28を除くと、残りは真正パウロ書簡と疑似パウロ書簡のパウロ系文書だけである。
パウロは自分が生きている間に「主の再臨」が到来し、信者はイエスのように天に昇天させられると信じていた。
ヤコブ書は反パウロ系文書で、そのようなパウロの「キリストの再臨」信仰を批判している。
キリスト教は、マタイ福音書とパウロ系文書を中心に正統化されていく。
第一ヨハネの時代には「イエスの再臨」は信仰箇条の一つとなっていた。
マタイの「弟子たち」は「十二使徒」を指しているが、場面はマルコと同じく「オリーブ山」に変更されている。
ルカでは「神殿を賛美する」のは「ある者たち」であり、「いつ生じるのか」「どういう徴があるのか」尋ねるが、主語の交代はなく、「ある者たち」であり、「ある者たち」に対して「徴」も語られている。
ルカとしては「弟子たち」の中の「ある者たち」という趣旨であり、マルコが「四人の弟子たち」だけに「告げた」という設定であるから、「十二使徒たち」全部ではなく、マルコの「四人の弟子たち」を指して、「ある者たち」としているのであろう。
ルカでは、「積み残ることのない日が来る」と予言した日と「徴」について語った時の場面設定も変更はなく、「ある者たち」が「神殿を賛美した」時の続きの場面という設定になっている。
マルコ・マタイでは「徴」について語ったのは「オリーブ山」での設定に変更されているが、ルカでは場面設定の変更がない。
その結果、「いつ生じるのか」「どんな徴があるのか」イエスが語った場所も「神殿」の「中」なのか「外」なのかもはっきりしなくなっているが、前段の「レプタ二つ」伝承の続きと読めば、「神殿内」での出来事という設定なのであろう。
イエスは彼らの質問に答える。
マルコ13
5イエスは彼らに答えるのであった、「人があなた方を惑わすことのないよう、気をつけなさい。6多くの者が私の名を名のって現れ、私だ、と言って、多くの者を惑わすだろう。7戦争と戦争の噂を聞いても、狼狽するな。戦争は起こるものだ。しかしまだ終末ではない。8何故なら、民族が民族に対して、王国が王国に対して立ち上がったり、場所によっては地震があったり、また飢饉があったりするだろう。これらは苦痛のはじまりにすぎない。
マタイ24
4そしてイエスが彼らに答えて言った、「人があなた方を惑わすことのないよう、気をつけなさい。5というのも、多くの者が私の名によって現れ、自分がキリストだと言って、多くの者を惑わすからである。6あなた方は戦争と戦争の噂を聞くであろう。狼狽しないよう、気をつけなさい。何故なら、戦争は起こるものだが、まだ終末ではないからだ。7民族が民族に対して、王国が王国に対して立ち上がったり、飢饉や地震が場所によってはあるだろう。8だがこれら一切は苦痛のはじまりにすぎない。
ルカ21
8彼は言った、「惑わされることのないよう、気をつけなさい。というのも、多くの者が私の名を名のって現れ、私だ、時が近づいたのだ、などと言うだろう。そういう者の後について行ってはいけない。9戦争や騒乱があると聞いてもおたおたするな。何故なら、そういったことがまず起こるものだが、それですぐに終末になるわけではない」。10その時彼は彼らに言った、「民族が民族に対して、王国が王国に対して立ち上がったり、11大地震や、場所によっては飢饉に飢饉が続いたりするだろう。また恐ろしいことや、天から大きな徴があったりするだろう。
マルコのイエスは「私だと言う」(legontes hoti egO eimi)多くの者が惑わすから気を付けるようにと告げる。
マタイのイエスは「自分がキリストだと言う」(legontes hoti egO eimi ho christos)多くの者が惑わすから気を付けるようにと告げる。
マルコの文に「キリスト」(ho christos)を補語として付加した。
NWTは「『わたしがそれだ』と言って」と訳しているが、原文に「それ」に相当する補語は付いていない。
ここに「それ」を入れてしまうと、「『わたしがキリストだ』と言って」と同じ意味になる。
マルコにマタイを読み込んだ訳としているである。
和訳聖書のすべても「それ」を補語として入れている訳となっている。
マルコの「私だ」(egO eimi)とは、「私である」という意味であり、直前に「私の名を名のって現われ」とあることからしても、自分が「イエスという名前の者である」と唱えて、「イエスの再臨」を自称する多くの者が出て来る、という趣旨である。
マタイの「私がキリストだ」(egO eimi ho christos)とは、必ずしも「イエス」という名前を自称するという意味ではなく、自分を「キリスト」(=メシア)とし、自分が「救世主」であることを自称する多く者が出て来るという趣旨である。
マルコと同じ意味ではない。
マタイにおける「私の名を名のって」とは、「イエス・キリストを名のる」という趣旨であるが、マルコのイエスは「キリストを名のる」とも「キリストだと言う」とも言っていない。
ルカは、マルコの句に、「私だ」と言うだけでなく、「時が近づいたのだ」という句を付加している。
それだけでなく、マルコが「戦争は起こるものだ」(dei gar genesthai)と言っているのを「戦争や騒乱」があると聞いても「おたおたするな」。そういったことはまず起こるものである」(dei gar tauta genesthai prOton)という表現に変えている。
さらに、ルカはマルコの「まだ終末ではない」(oupO to telos)を、「すぐに終末になるわけではない」(ouk eutheOs to telos)と変えている。
マルコは「終末」に関して完全否定しているが、ルカは「終末」に関して部分否定しているにすぎない。
マルコの「起こるものだ」の直訳は「起こるべきである」だが、そうなるのが当然で、マルコが「戦争が起きる」ことに同意しているわけではない。
「必然」を意味しているだけで、「嫌がおうでも、避けがたいもので、戦争が起こるだろう」と言っているに過ぎない。
マルコとしては、終末の前兆として戦争が起こるだろうと予想している人々に対して、我々の世の中では残念ながら戦争が繰り返し起こらざるを得ない。
しかし、だからといってそれが終末の前兆だなどというものではない、と言いたいのだろう。
ルカの「そういったこと」とは「戦争や騒乱」を指している。しかし、「そういったことはまず起こるものである」という言い方は、「まず起こる」ことを最初から承知していることを前提としている表現である。
ルカは70年の「エルサレム神殿崩壊」がユダヤ人キリスト信者の期待する「終焉の時」とはならなかったことを知っているので、「イエス」を自称するだけでなく、「時が近づいた」と吹聴する「偽預言者について行ってはいけない」とイエスに語らせることにしたのであろう。
マタイは「戦争」に関しては、冒頭の接続詞を変えているだけで、ほぼマルコを写している。
マルコは、「場所によって」(kata topous)という句を「地震」にかけているが、「飢饉」にはかけていない。
NWTは「そこからここへと」と訳しているが、この表現は地震が非常に多くの土地で起こる、と言っているのではない。
「戦争」はあらゆる土地を襲うけれども、「地震」はすべての土地を襲うわけではなく、土地によって襲われるところもある、という趣旨。
それに対してマタイは「場所によって」(kata topous)という句を「地震」と「飢饉」の両方にかけている。
ルカはマルコとは逆で、「場所によって」(kata topous)という句を「地震」ではなく、「飢饉」の方にかけた上で、「飢饉」に「飢饉が続く」と強調している。(NWT「疫病や食料不足がある」)
ルカにとっては「飢饉」の方が地域的に限定された災害のつもりなのだろうか。
さらにルカのイエスは、マルコにはない「恐ろしいこと」や「天から大きな徴があったりする」ことを付加している。
ルカにしてみれば、終末が来る直前の「徴」としてはいろいろな天変地異があるのだから「天からの徴」も付加しておこうと思ったのだろう。
しかしながら、マルコは偽預言者の出現や戦争・地震・飢饉などの「徴」とされるものが、「終末の徴」であることを、「まだ終末ではない」として完全否定している。
「天からの徴」を見いだそうとする行為自体をマルコのイエスは、8:11-12「「天からの徴」伝承で「パリサイ派」に同調する行為として厳しく批判している。
実際のイエスが、語るはずもない。
マルコのイエスは、これらは「終わりの徴」などではなく、「苦痛の始まりに過ぎない」と言って、まだまだ「苦痛」が長く続くと言うのである。
マタイは「弟子たち」の「徴」がどういうものかという質問にイエスが答えたという設定なので、「これら一切」の内容が「再臨と此の世の終焉の徴」となったのである。
ルカに関しては、「此の世の終焉の徴」ではなく、「エルサレム神殿崩壊」の「徴」をイエスに尋ねており、その「徴」として答えているだけに過ぎない。
「終わりの日のしるし」に関して余談を一つ。
現役JW最後の時期に、WT解釈を逆手にとって一年ほど逆証言していたことあった。
今回の「終わりの日のしるし」伝承を福音書間で比較し、「偽預言者」の実態を探ろうというもの。
JWは聖書霊感説信仰者であり、聖書には矛盾がない、と信じている。
終わりの日に関する聖書予言も各福音書で同じことを指していると信じている。
そこを逆手にとり、WT解釈と聖書を比較してもらうのである。
共観福音書には「終わりの日のしるし」は書かれているが、ヨハネ書には書かれていない。
しかし同じヨハネが書いたとされる「啓示」が「終わりの日のしるし」に相当すると解釈されている。
WTが「黙示録」を「啓示」と表現するのは、WTにとっては「黙示」ではなく、すでに「啓示」されている事柄となっているという解釈からである。
WTにとっての「アポカリプス」(黙示)は、もはや否定辞の「ア」が取れた「ポカリプス」であるから「啓示」だという主張である。
WTが「啓示」とする巻末の書に登場する四騎士が共観福音書の「徴」の何に相当するのか考えてもらうゲームである。
マタイで登場する「徴」の順番。
「偽預言者」→「戦争」→「飢饉」→「地震」
マルコ
「偽預言者」→「戦争」→「地震」→「飢饉」
ルカ
「偽預言者」→「戦争」→「大地震」→「疫病」→「食料不足」
啓示
「白い馬」→「赤い馬」→「黒い馬」→「青い馬」
啓示のWT解釈によれば、
「白い馬の騎手」=王イエス
「赤い馬」=戦争
「黒い馬」=食料不足→飢饉
「青い馬の騎手」=死→疫病
「終わりの日」の始まりに誕生したとされる「神の王国」に「イエス・キリスト」が「王」として任命されたという話の聖書的真偽は如何に。
共観福音書の「終わりの日のしるし」からすれば、最初に「偽預言者」が登場するはずである。
しかし、「啓示」の「終わりの日」に最初に登場するのは「白い馬」に乗った「騎手」である。
この「騎手」を王「イエス・キリスト」だと名のらせているのはWTの統治体である。
キリスト教世界では、一般に「白い馬」の白は「白く塗った墓」と同じ偽善の「白」であり、「騎手」は「共観福音書と同じく「偽預言者」=「偽キリスト」と解釈されている。
「白い馬」の「騎手」が王「イエス・キリスト」だと予言するWT統治体は、聖書からすれば「偽預言者」か、それとも「忠実で思慮深い奴隷」か。
「黙示録」はWT及び統治体に関して何を「啓示」したのか。
資料と聖句はWTが発行したものしか使っておりません。
その答えは、ご自身でご判断ください。
そんな話を織り込んだ、「交わり」や「飲み会」をくり返していたら、ほどなく、危険人物認定されてしまったようです。((笑))
会衆だけでなく近隣の諸会衆や地方の会衆、巡回や特開まで巻き込み、巡回訪問中に巡回を通して協会に経緯を詳述した手紙が届くように内容証明で送りつけたら、一切関わらず、untouchableの扱いにするようにとの指示が長老団に届いたそうです。((笑))