マルコ12:41-44 <レプタ二つ> 並行ルカ21:1-4

 

マルコ12 (田川訳)

41そして賽銭箱の向かい側に座って、群衆が賽銭箱に銅貨を投げ入れるのを見ていた。そして大勢の金持がたくさん投げ入れていた42そして一人の貧しいやもめが来て、小銭を二つ投げ入れた。一コドラントにあたる。43そして彼が弟子たちを呼び寄せ、彼らに言った、「アーメン、あなた方に言う。この貧しいやもめ賽銭箱に投げ入れているほかのどの者よりも多く投げ入れたのだ。44というのも、皆は自分にとってあり余っているものの中から投げ入れたのだが、彼女は自分の欠乏の中から、自分が持っている一切を投げ入れたのである。自分の全生活費を」

 

ルカ21

目を上げると、賽銭箱の中に自分の献金を投げ入れている金持どが見えた。また一人の貧困なやもめがそこに小銭を二つ投げ入れるのも見えた。3そして言った、「まことにあなた方に言う。この貧しいやもめは誰よりも多く投げ入れたのだ。というのも、この者たちは皆、自分にとってあり余っているものの中から献金箱に投げ入れたのだが、彼女は自分の欠乏の中から、自分が持っている一切を投げ入れたのである。自分の全生活費を」

 

 

マルコ12 (NWT)

41 それから[イエス]は宝物庫の箱の見えるところに座り,群衆が宝物庫の箱の中にお金を入れる様子を見守っておられた。すると,大勢の富んだ人たちがたくさんの硬貨を入れていた。42 そこへ,ひとりの貧しいやもめがやって来て,小さな硬貨二つを入れた。それは価のごくわずかなものである。43 すると[イエス]は弟子たちを自分のもとに呼んでこう言われた。「あなた方に真実に言いますが,この貧しいやもめは,宝物庫の箱にお金を入れているあの人たち全部よりたくさん入れたのです。44 彼らはみな自分の余っている中から入れましたが,彼女は,その乏しい中から,自分の持つもの全部,その暮らしのもとをそっくり入れたからです」。

 

ルカ21

さて,[イエス]が目を上げると,富んだ人々が自分の供え物を宝物庫の箱に入れているのが見えた。2 次いで[イエス]は,ある貧乏なやもめがごくわずかな価しかない小さな硬貨二つをそこに入れるのをご覧になって,3 こう言われた。「あなた方に真実をこめて言いますが,このやもめは,しいとはいえ,彼ら全部より多く入れました。4 これらの者はみな自分の余っている中から供え物を入れましたが,この[女]はその乏しい中から,自分の持つ暮らしのもとすべてを入れたのです」。

 

 

 

話としては、世界のどこの宗教にも必ずありそうな、「貧者の一燈」という感動的な説話である。

 

貧しければ貧しいほど、苦しければ苦しいほど、神に対する依存度は増し、信仰を純化させようとするのが宗教信者の常。

生活が苦しければ、祈りたくもなるし、祈るためにはお賽銭も持って行かなければ…、とより自罰的に、より利他的であらねば…と思い込むものだ。

 

説教壇からこの種の感動的な「貧者の一燈」話が語られるたびに、貧者の僅かな資産までが、宗教教団に吸い上げられ、組織的搾取の隠れ蓑となる。

 

ユニセフや寄付を主催する団体にも通じる詐欺的集金活動の宣伝にもってこいの救済と慈善感情を刺激するよく出来たお話である。

 

 

イエスが神殿の前に座っていて、実際に見た出来事の伝承なのか、初期教会が寄付集めの説教のために創作した伝承なのか定かではない。

 

イエスが自ら寄付活動を見守り、神殿宗教を維持する立場で活動していたというのは、考え難い。

 

もし神殿で貧しいやもめの寄付行為を偶然見かけたことに由来する伝承であるのなら、貧しいやもめの僅かな額の寄付行為を称賛するだけの話ではなかったものと思われる。

 

神殿商人たちや神殿税で巨額の利得を得ている祭司からなる神殿貴族を「強盗の巣窟」と批判しているイエスであるから、彼らに対する批判を意図した話であったと思われる。

 

金持がいくら多めの賽銭を投げいれたところで、貧しい者たちからの搾取している彼らの願いは神に聞き入れられるものではない。

神に聞き届けられるとすれば、貧しい者の必死の願いだけであろう、という骨子だったのであろうか。

 

 

マルコとルカの違いを、NWTとの違いも含めて示しておく。

 

マルコでは「群衆」も「大勢の金持」も賽銭箱に投銭しているのをイエスが向かい側に座って見守っているという設定である。

 

ルカは、「金持ども」が「自分の献金」(ta dOra autOnを投げ入れているのをイエスがたまたま見かけたという設定にしている。

 

ルカはマルコの「銅貨」(chalkon)を「自分の献金」(ta dOra autOn)に変え、「群衆」の献金状況を設定から削除した。

これも、ルカの「群衆」蔑視であろう。

 

ルカの「自分の献金」(ta dOra autOn)の直訳は「彼らの捧げ物」(NWT「自分の供え物」)であるが、動物や穀物の「捧げ物」(NWT「供え物」)ではありえない。

 

定冠詞付き「捧げ物」(ta dOra)とは、「賽銭箱」(NWT「宝物庫の箱」)に「投げ入れる」(ballousan)ことのできるものであることからして、「硬貨」を意味していることは明らかである。

 

ルカは、マルコが「銅貨」としているのを見て、「自分の捧げ物」と婉曲的な表現に直してくれたのだろう。

 

 

「小銭」(lepta)は、leptonの複数形。

「レプタ」という単位で呼ばれる貨幣があり、レプタ硬貨を二枚投じたと思われているかもしれないが、正確にはそうではない。

単数形の「レプトン」と呼ばれる単位の硬貨というのでもない。

leptonは、「ちっぽけな」(leptos)という形容詞の中性形。それを「小銭」の意味で用いたもの。

 

マルコは「小銭二個」(lepta duo)の後に「一コドラント」にあたる(ho estin kodrantEs)と説明を付け加えているが、ルカはこの句を削除している。

 

「コドラント」(kodrantEs)はラテン語でローマの通貨quadransのギリシャ語表記。

「四分の一」という意味で、ローマ通貨の銅貨asの「四分の一」という意味であるから、これが当時の最少額通貨であった。

ただし、現代の硬貨のように形も重量も国家により正確に統一されていたわけではなく、貨幣の鋳造は都市国家(polis)に任されており、大きさや重さにばらつきが多かった。

 

NWTは、「一コドラント」を「価のごくわずかなもの」と訳しているが、原文にそのような意味があるわけではない。

 

洞-I,p597では、ローマの貨幣の単位として「クワドランス」という表現で登場する。

*** 洞‐1 597ページ 貨幣,金 ***

1  レプタ              =  1/2  クワドランス                        .006㌦

  (銅または青銅)

1  クワドランス        =  2  レプタ                                .012

  (銅または青銅)

1  アス(アサリオン)  =  4  クワドランス                          .046

  (銅または青銅)

1  デナリ(銀)        =  16  アス                                  .74

1  ドラクマ(銀)      =                                            .65

1  ディドラクマ(銀)  =  2  ドラクマ                              1.31

1  テトラドラクマ*     =  4  ドラクマ                              2.62

1  ミナ(銀)          =  100  ドラクマ                           65.40

1  タラント(銀)      =  60  ミナ                             3,924.00

1  タラント(金)      =                                     228,900.00

* スタテル(銀)と同じであると考えられている

 

 

この「クワドランス」がマルコで「価のごくわずかなもの」と訳されている語であることを知っているJWはどれほどいるのだろうか。

 

RNWTは、マルコ12:42bの句(ho estin kodratEs)を「ごく少額の」という形容詞でもあるかのように扱い、「ごく小額の小さな硬貨2枚を入れた」という訳で、マルコ12:42を終えている。

 

ルカの原文には「小銭二つ」(lepta duo)とあるだけで、マルコの「一コドラント」にあたるという説明句は付いていない。

 

NWTは、「ごくわずかな価しかない小さな硬貨二つ」と訳し、マルコの説明句を訳に織り込んでいる。

RNWTでは、「ごく少額の小さな硬貨2枚を入れた」とマルコとルカでは異なる原文であるにもかかわらず、全く同じ訳に統一させている。

 

RNWTは、驚くほど原文に不忠実で、聖書霊感説信仰丸出しの訳となっている。

聖書翻訳の歴史上、カトリックやプロテスタントの教会が発行しているどの聖書よりも聖書不謬信仰を織り込もうという意図が露骨な訳となっている。

 

WTはかつて現代語に意訳した「リビング・バイブル」には「隠された危険」が秘められていると批判していた。

*** 塔79 11/15 13–15ページ 翻訳聖書 ― どれを選んでも構いませんか ***

あなたは,翻訳された聖書に何を求めますか。基本的に言って,翻訳された聖書には字義訳と意訳の二つのタイプがあります。前者はできるだけ,つまり熟語や単語の選択の許される範囲で原語にしっかりと付き従います。それとは対照的に,意訳のほうは,原文で用いられている単語をそのまま用いるのではなく,翻訳者が自分の解釈に従って原著者の考えを言い表わそうとする“自由な”訳です。言うまでもなく,これら二つの取り組み方はかなり異なっており,意訳された聖書の不正確さは,以下に述べるとおり,隠された危険を秘めています。

意訳されたリビング・バイブル(英語版)の序文には次のような陳述があります。「著者の言葉が原語からそのまま翻訳されていない場合には,たとえどんなに正確な翻訳者であっても,原著者の意図しなかった事柄を英語の読者に伝えてしまうことがある。……ギリシャ語やヘブライ語があいまいな場合,翻訳者の奉ずる神学が指針になるからである」。この問題点を例証するために,一つだけ例を考慮してみましょう。

使徒 15章には,割礼に関する問題を解決するためにエルサレムで開かれた使徒および年長者たちの重要な集まりの模様が,わたしたちのために記されています。この集まりの結果として,血とその用い方という重大な問題に関するキリスト教の教義の問題も解決され,淫行の禁止も確定しました。しかし,使徒 15章19節のヤコブの言葉および28節に記されている手紙の宣言をリビング・バイブルがどのように訳出しているかに注目してください。「ですから,これはあくまで私の判断ですが……,神様に立ち返る外国人に,ユダヤ人のおきてを押しつけるべきではありません」。「これ以外のユダヤ人のおきてを押しつけるようなことは,好ましくありません。それは,聖霊様もお示しになったことですし,私たちも,そう判断するのです」。(下線は本誌)

ギリシャ語の写本を調べてみると,「ユダヤ人のおきて」に言及している部分は,自由な翻訳の直接の結果として加えられた挿入句であることがはっきりと分かります。ヤコブとそこに席を連ねていたその仲間たちはいずれもユダヤ人の血統の人で,ユダヤ人のおきては確かにそうした事柄を非としているという点を念頭に置いて考えてみるなら,これは大した問題ではないのではありませんか。いいえ,そうではありません。実のところ,この翻訳を受け入れるとすれば,この訳はクリスチャンを危険な妥協へと陥れかねません。その理由は簡単です。エホバは幾世紀も昔に,血とその使用を禁ずる命令を族長ノアとその家族に与えておられたからです。(創世 9:1‐6)その禁令は後日モーセの律法に組み入れられましたが,律法は確かに過ぎ去ったにもかかわらず,この禁令のほうは一度も撤回されたことはなく,それが今日の人類全体に当てはまることに疑問の余地はありません

意訳された聖書は大抵,生気にあふれ,読み易いものです。しかし,それを用いる際には,不断の注意が求められます。速く読んで,聖書の一節の全体的な雰囲気をつかむ場合には,そうした聖書にも幾らか利点があるでしょう。とはいえ,自分の読んだ詳細にわたる点を全く信頼の置ける,正確なものとしてうのみにしてしまわないよう注意しなければなりません。ケネス・N・テーラーは,意訳された「生きた福音書」の序文の中で,その事情を見事に要約し,次のように述べています。「研究を目的としている場合,意訳は厳密な翻訳に照らして正確さを確かめてみなければならない」。わたしたちが「真理の正確な知識に至る」ことを願うのであれば,そのような優れた助言に是非とも従わねばなりません。―テモテ第一 2:4。

 

どうやらRNWTの翻訳者たちはJW信者が「真理の正確な知識に至る」ことを願ってもおらず、「優れた助言」にもさらさら従がう気もないようです。

むしろ、JW信者にとって「全く信頼の置ける、正確なものとしてうのみにしてしまわないよう注意しなければ」ならない訳となっている聖書のようです。

 

 

 

マルコでは、イエスが「弟子たちを呼び寄せ」、貧しいやもめの寄付について説教するのであるが、ルカではこの導入句は削除されている。

 

ルカは前段「律法学者批判」伝承を弟子たちに対する教訓的説教話という設定にしている。

「レプタ二つ」伝承はその続きという設定であるから、わざわざ「弟子たちを呼び寄せる」必要はないので削除したのであろう。

 

マルコの前段である「律法学者批判」伝承は、イエスの話に喜んで耳を傾けている「多くの群衆」に対する「教え」としての説教であり、「弟子たち」を含めてはいない。

 

それで、「レプタ二つ」伝承を「弟子たち」に対する教訓的説教話とするためには「弟子たち」を呼びよせる必要が生じる。

 

 

ただし、マルコのおける「弟子たち」という語の用い方には、ある種の特徴がある。

マルコはイエスの弟子たちに関して、定冠詞付き複数形で「弟子たち」という時は、「彼の」という属格人称代名詞を付加している場合と「彼の」を付けない場合がある。

 

写本の読みにもよる(8:1は「彼の」が付いている読みと付いていない読みがある)が、「彼の弟子たち」が31回。

「彼の」がつかないただの「弟子たち」は6回。(4:34、8:1、9:14、10:10,13、12:43)

ここは、単に「定冠詞付き複数形の「弟子たち」(tous mathEtas)で、「彼の」(autou)は付いていない。

 

マタイは13章まで、ルカは9:14まで、例外なくすべて定冠詞(tois tous等)付きで「彼の弟子たち」(mathEtais autou)としているが、それ以降は「彼の」がつかない定冠詞付き「弟子たち」が多くなる。

 

マタイルカには「弟子たち」を批判する要素はなく、「彼の」が付く、付かない、による区別はないように思える。

 

しかしながら、マルコの場合、「弟子たち」がイエスに対して無理解を示す時には「彼の」がつかないようである。

 

「レプタ二つ」伝承の「弟子たち」に、「彼の」は付いていないが、「弟子たち」がイエスに対する無理解を示す場面とはなっていない。

 

マルコが単に元伝承のままに写しているだけなのか、敢えて「彼の」を付けない「弟子たち」としたのか。

 

もしも、マルコがイエスに対する無理解批判を意識して、「彼の」を付けない定冠詞付き「弟子たち」を呼んで、「貧しいやもめの寄付」伝承を置いたのであれば、前段の「律法学者批判」伝承における「やもめの家々を食いつぶす」律法学者と弟子たちを重ねていることになる。

 

イエスは「貧しいやもめの寄付」を高く評価しているのだが、弟子たちはイエスを理解せず、律法学者たちと同じように「やもめの家々を食いつぶしている」と批判する意図を含んでいることになる。

 

 

マルコの「貧しいやもめ」の「貧しい」(ptOchos)と、ルカの「貧困なやもめ」の「貧困な」(penichros)とは別の語。

「貧しい」(ptOchos)は「かがむ」(ptOssO)という動詞から派生した形容詞で、物乞いするようなというイメージで「貧しい」という意味であるが、「貧困な」(penichros)は「日々のパンのために働く」(penomai)から派生した形容詞で「日銭をやっと稼いでいる程度の」という趣旨。

 

ルカはギリシャ語人間らしく、マルコにおける最初の「一人の貧しいやもめ」(mia chEra ptOchE)という表現に違和感を覚えたのか、「ある貧困なやもめ」(tina chEran penichran)と変更した。

 

ところが、次節でイエスのロギアの中に登場するマルコの「この貧しいやもめ」(he chEra hautE he ptOche)という表現に関しては、「この貧しいやもめ」(he chEra he ptOche autE)と指示代名詞の位置を変えただけで、マルコの「貧しい」(ptOche)はそのまま写している。

 

NWTはルカの2番目の「この貧しいやもめ」を「このやもめは、貧しいとはいえ」と訳しているが、「とはいえ」に相当する接続詞は原文には存在しない。

 

RNWTは例によってマルコもルカも「この貧しいやもめ」に統一されている。

 

 

「賽銭箱」(gazophylakion)の原義は「宝物」(gaza)+「貯蔵する場所」(phylakion)であるから、NWT「宝物庫」の意味である。

 

しかしながら、話の流れからは「群衆が銅貨を投げ入れていた」のであるから、「賽銭箱」の意味で使っているのは明白である。

 

NWTは、「宝物庫」に硬貨を投げ入れているのはおかしいと思ったのか、丁寧に「宝物庫の箱」と「箱」を付加してくれている。しかし原文に「箱」という語があるわけではない。

RNWTは「寄付箱」に変更。

 

マルコは全部「賽銭箱」(gazophylakion)としているが、ルカは、最初だけ「賽銭箱」(gazophylokion)とマルコを写しているが、イエスのロギア中に登場するマルコの「賽銭箱」(gazophylokion)に関しては「献金箱」(dOra)に変えている・

 

「献金箱」(dOra)の原意は「捧げ物」であるが、捧げ物を入れる「箱」も「献金箱」(dOra)と呼ばれた。

「貧しいやもめ」の同じ行動に関して言及しているのだから、同じ物を指しているのは明らかである。

 

NWTは「供え物」。

RNWTは「寄付」。

 

RNWTは、もはや原文の意味の細かな違いはどうでも良いようで、とにかく「寄付箱」に「寄付」を入れろ、と言いたいのだろう。

 

 

 

マタイは、「レプタ二つ」伝承を削除している。

 

前段の「律法学者」批判でも、マルコの「やもめの家」に関する窮状を批判する句を削除している。

 

金持好きで律法学者に肩入れするマタイとしては、「貧者」の信仰を称賛する伝承には興味がなかったのだろう。

 

 

「貧者のわずかな寄付」を「信仰の誉れ」と高く評価し、「全生活費」まで寄付させようとする「レプタ二つ」伝承には、ブラック企業や貧困ビジネスなどの反社的な搾取構造の臭いも強く漂っている。

 

とてもイエスの実話とは思えないし、説話的に出来過ぎており、組織的な集金目的の意図さえ感じさせる伝承に仕上がっている。

 

初期エルサレム教会は、自らを「貧しい者」と呼び、「霊的に貧しいこと」(=神に請い願う姿勢を持つこと)を信仰の高い評価に置いていた。(マタイ5:3参照)

彼らはエルサレムに住んでいたのであるから経済的に貧しかったわけではなく、実際には中産階級以上の富裕層に属していた。

 

おそらくこの伝承は、元は金持嫌いのイエスが彼らを批判し、搾取されている貧しい者たちの純粋な信仰を高く評価する話だったのであろう。

 

それを初期エルサレム教会の支配者層が、貧者の純粋な信仰に高い評価が置かれることを利用し、信者からの搾取的寄付目的のために、作り上げられた伝承であるとも考えられるのである。

 

 

 

 

 

 

 

JW、元JWの中には、「レプタ二つ」の話に関連して、マタイ10:29-31とルカ12:6-7と関連させた「おまけの雀」の話を覚えている方もいるかもしれない。

 

*** 塔08 4/1 9ページ わたしたちの価値に目を留めてくださる方 ***

ある時イエスは,「すずめ二羽はわずかな価の硬貨ひとつで売っている」と言われました。(マタイ 10:29,31)ルカ 12章6,7節によれば,イエスは次のようにも言われました。「すずめ五羽はわずかな価の硬貨二つで売っているではありませんか。それでも,その一羽といえども神のみ前で忘れられることはありません。……恐れることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです」。この簡潔ながら強力な例えは,エホバがご自分の崇拝者一人一人をどう見ておられるかを教えています。

すずめは食用にされた鳥の中でもとりわけ安価でした。イエスは,家族のための食料を買いに来た貧しい女性たちが市場でこの小さな鳥を買い求めるのを目にしたことでしょう。もしかしたら,自分の母親がすずめを買うのを見たかもしれません。1アサリオン,つまり今の価格にして5円ほどの硬貨1枚で,すずめを2羽買うことができました。すずめはとても安く,硬貨を2枚出すと,4羽ではなく5羽買えました。1羽がおまけとして付いてきたのです。

イエスは,1羽のすずめも「神のみ前で忘れられること」はなく,み父に知られずに『地面に落ちることはない』と説明されました。(マタイ 10:29)すずめが,けがを負って地面に落ちるにしても,えさを探して地面に降りるにしても,エホバはその時々のすずめの様子に目を留めておられます。すずめは取るに足りない鳥のように見えますが,エホバは創造するまでもないとは考えませんでしたし,気に留めるまでもないと考えてもいません。それどころか,すずめを価値ある存在と見ておられます。命ある貴いものだからです。イエスの例えの言わんとしていることがお分かりですか。

 

 

こちらの方で使われている「硬貨」と訳されているギリシャ語は上記の記事にもあるが、assarionでローマ銅貨の単位であるが、「レプタ」(lepton)ではない。

 

ところが、JWの中には、雀2羽を買えた「わずかな価の硬貨」(assarion)とやもめの寄付における「価のごくわずかな」硬貨(kodranntEs)=「小さな硬貨」(lepta)と同じものだと勘違いしている方もいる。

 

 

聖書霊感信仰に従がって、単純化すると、

マルコ12:42から、

2レプタ=1コドラント=1/4アサリオンであるから1アサリオン=8レプタとなる。

 

マタイ10:29、ルカ12:6-7から

雀2羽=1アサリオン=8レプタ→雀5羽=2アサリオン=16レプタとなる。

 

実際に売られていたかどうかは知らないが、2レプタでは雀1羽も買えない計算になる。

 

「貧しいやもめ」が寄付した2レプタは、彼女の全財産であり、雀5羽しか買えなかったと説明し、「おまけの1羽」と「貧しいやもめ」とを同一視させたベテル講演者がいた。

 

問題なのは、「わずかな価の硬貨」で、実際に何羽の雀が買えたかという話ではない。

「やもめの寄付」の話を「おまけの雀」の話に組み込んで解釈することが問題である。

 

「おまけの雀」の話は、「寄付の価値」に関係する話ではなく、「生命の価値」に関する話である。

 

それにもかかわらず、「貧しいやもめ」は「おまけの一羽」と同じような無価値な存在と考えるかもしれないが、神にとっては「貴重な存在」であると投影させる。

 

それゆえ、「貧しいやもめのわずかな寄付」も「神にとっての貴重な寄付」であるという結論に導くという筋書きである。

 

マルコの「貧しいやもめの寄付」の話とマタイ・ルカの「おまけの一羽」をも「神が貴重な存在」とみなしているという話は本来無関係である。

 

「おまけの一羽」の話は、「寄付」の話ではない。

 

マタイの「雀2羽」伝承とルカの「雀5羽」伝承は、並行関係にあり、共にQ資料由来。

マルコにこの種の「雀」伝承はない。

 

マルコはマタイもルカも知らないが、当然マタイとルカはマルコを知っている。

しかし、マタイはルカを知らないし、ルカもマタイを知らない。

 

マタイの「雀2羽は1アサリオンで売っている」という伝承が、ルカでは「雀5羽は2アサリオンで売っている」という伝承になっているだけである。

 

これは、口伝段階で数字が入れ替わったものと考えられる。

 

おそらく、伝承者には口伝の段階で「2」という数字が記憶に残っており、ある伝承者は「雀の数」にし、別の伝承者は「アサリオンの数」にしたのであろう。

 

その結果、マタイには「雀2羽は1アサリオンで売っている」という伝承で届き、ルカには「雀5羽は2アサリオンで売っている」という伝承で届いたのであろう。

 

ルカは「雀5羽が2アサリオンで売っている」と言っているだけで、「雀2羽が1アサリオンで売っている」とは言っていない。

雀2羽を二つ買うと1羽おまけする、というバナナのたたき売りのような慣習が当時に存在していたのか確認されているわけではない。

 

マタイの「雀2羽が1アサリオンで売っている」という伝承もルカの「雀5羽が2アサリオンで売っている」という伝承もどちらも真実であり、当時からまとめて買うとおまけしてくれるという慣習があったという前提でなければ、「おまけの1羽」という結論は導き出すことはできない論理である。

 

WTの「おまけの1羽」と「貧しいやもめの寄付」を合体させた話は、マルコにマタイとルカを合成して、聖書無謬信仰から導き出された感動的な創作的寄付誘導物語である

 

 

 

 

信者の命は「おまけの1羽」よりはるかに貴重で尊い、と教えているはずのWTは、組織からの任命により異国の地で残虐に殺された若い女性信者の命を組織とは無関係の命であるかのように扱う。

その事実は、WT組織(=統治体)が「信者の命」を「おまけの1羽」ほどの価値もない「気に留めるまでもない」命と考えているからであろう。

 

 

しかしながら、WT組織(=統治体)にとっては「おまけの1羽」ほどの価値もない「貧しいやもめ」からであっても、「わずかな価の硬貨」や「価のごくわずかな小さな硬貨」は、大きな価値を持つ寄付とみなされるようである。