マルコ12:37b-40 <律法学者批判> 並行マタイ23:6-7,14、ルカ20:45-47

 

マルコ12 (田川訳)

37…そして多くの群衆が彼に喜んで耳を傾けていた。38そしてその教えの中で言った、「律法学者に気をつけよ。彼らは正装して歩くことや、広場での挨拶を好む。39また会堂の上席食事の上を好む。40彼らはやもめの家々を食いつぶしその言い訳に長々と祈る。この者たちはより大きい裁きを受けるだろう」。

 

マタイ23

6食事の上座会堂の上席を好み、7また広場での挨拶や、人々からラビと呼ばれることを好む。

14(禍いあれ、汝ら偽善なる律法学者、パリサイ派よ。汝らはやめもの家々を食いつぶし、その言い訳に長々と祈る。この故に、汝らはより大きい裁きを受けるだろう。)

 

ルカ20

45すべての民が聞いているところで、自分の弟子たちに対してった、46「律法学者に注意せよ。彼らは正装して歩くことを好み広場での挨拶を嬉しがる。また会堂の上席食事の上座を好む。47彼らはやもめの家々を食いつぶしその言い訳に長々と祈るこの者たちはより大きい裁きを受けるだろう」。

 

 

マルコ12 (NWT)

37…そして大群衆が彼[の話すこと]を喜んで聴いていた。38 また,その教えの中で続けてこう言われた。「書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み,市の立つ広場でのあいさつと,39 会堂の正面の座席そして晩さんでは特に目立つ場所を望みます。40 彼らは,やもめたちの家を食い荒らし,見せかけのために長い祈りをする者たちです。こうした者たちはより重い裁きを受けるでしょう」。

 

マタイ23

6 また彼らは晩さんにおいては最も目立つ場所を,そして会堂では正面の座席を好み,7 また市の立つ広場でのあいさつや,人にラビと呼ばれることを[好み]ます。

14 ――

 

ルカ20

45 それから,民すべてが聴いているところで,[イエス]は弟子たちにこう言われた。46 「書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み,市の立つ広場でのあいさつと,会堂の正面の座席,そして晩さんでは特に目立つ場所を好みます。47 彼らは,やもめたちの家を食い荒らし,見せかけのために長い祈りをする者たちです。こうした者たちはより重い裁きを受けるでしょう」。

 

 

 

マタイの並行(23:6-7)は、23章全体の「律法学者批判とパリサイ派批判」の一部に組み込まれている。

マタイはマルコとは別に手に入れた律法学者・パリサイ派批判を元に、ルカとの共通資料も取り入れ、長々と律法学者・パリサイ派批判の演説に仕立てている。

 

ところが、律法学者批判の肝心要であるマルコ12:40「彼らはやもめの家々を食いつぶす」は削除した。

 

マタイが無視したはずのマルコの句を後代の写本家が23:14に組み込んでくれた。

 

写本の分析から正文批判が進み、またまたマタイ23:14は削除されることになる。

 

ルカは、イエスのロギアに関してはマルコをほぼそのまま写しているが、導入句に関してはお好みの三分類に仕分けている。

 

 

マルコでは、耳を傾けている「多くの群衆」(ho polus ocholos)に対して、「その教え」の中で、「律法学者批判」を展開している。

マルコのイエスは「群衆」(ocholos)に対して、喜んで教えを授ける。

 

それに対し、ルカでは「すべての民」(pantos tou laou)が聞いているとこで、「弟子たち」(tois mathEtais)に対して「律法学者」批判を展開する。

 

ルカはマルコの「群衆」(ocholos)を「民」(laou)に変え、「弟子たち」に対して、特別な教えを授けるという設定にしている。

 

ここのルカにおける定冠詞付き「民」(tou laou)はその場にいる「人々」という意味で使っていると思われるが、ルカのイエスは彼らとは異なる特別な存在として「弟子たち」(matheEtais)を扱っている。

 

導入句以外は、ほぼマルコとおなじである。

 

ルカはマルコで「群衆」がイエスの話に「喜んで耳を傾けている」ことが気にくわない。

ルカにとっての「群衆」はイエスを理解しない「烏合の衆」であり、イエスの話に「喜んで耳を傾けている」のは「弟子たち」でなければならないのである。

 

また、ルカの定冠詞付き「民」という表現は、ユダヤ人の「民」という意味でも使われることが多い。

 

とすれば、キリスト教を聞いたけれどもイエスを受け入れなかったユダヤ人の「民」に対する批判の意味も込めて、定冠詞付き「民」という表現を使ったのかもしれない。

 

ルカの「群衆」蔑視、「弟子たち」優遇視、「ユダヤ民族」批判の精神がマルコの導入句を変更させたのであろう。

 

 

マルコにおける律法学者批判の要素となっている、「正装して歩く」「広場での挨拶、会堂での上席、食所の上座を好む」の原文は「律法学者」にかかる分詞構文となっている。

 

律法学者というものは、そのような要素を持つ者であるから、律法学者という輩そのものに「気をつけよ」という意味にも、そのような要素を持つ「律法学者」には「気をつけよ」という意味にも取れる。

 

イエス自身のユダヤ教律法学者に対する厳しい姿勢からすれば、そのような要素を持つ一部の「律法学者」に対する批判というのではなく、すべからく「律法学者」という者は…という趣旨であり、彼らの持つ一般的な要素に対する批判であると考えられる。

 

 

マタイとマルコの共通点は、「食事の上座、会堂での上席、広場での挨拶」という要素であるが、「好む」という動詞は異なる語を使っている。

マルコはthelontOnという分詞表現、マタイはphilousin という主動詞表現。

三つの要素も順番が異なり、マタイには「ラビと呼ばれる」という要素が加わっている。

おそらく、マタイはQ資料の表現を参照しているのだろう。

 

ルカはマルコをほぼそのまま写しているのが見て取れる。

マルコが動詞一つで「好む」(thelontOn)としている要素を順にkaiで繋げているだけであるが、ルカは「好む」(thelontOn)に加えて、「広場の挨拶」に「嬉しがる」(philountOn)という分詞表現をもう一つ加えているだけで、以降はマルコと同じく順に要素をkaiで繋いでいる。

 

マルコの「彼らはやもめの家々を食いつぶし、その言い訳に長々と祈る。この者たちはより大きい裁きを受けるだろう」の句も「祈る」の動詞表現が異なるだけで、ほかは全く同じ。

マルコはproseuchomenoiという分詞表現でルカはproseuchontaiという主動詞表現。

態や時制も一緒であり、ルカが分詞だけで主動詞がないマルコの文を、より自然なギリシャ語に整えてくれただけであろう。

 

 

 

 

 

ブログのテーマが「田川訳とNWTと原文との比較」であるから、一応NWTの表現との違いをあげておく。

 

田川訳「正装」→NWT「長い衣」→原文(stole)

原文のギリシャ語は、「置く、整える」(stellO)という動詞を名詞にしたもので、「整えられたもの」というのが原意。

軍隊の「装備」ほかいろいろな意味を持ち、衣装に用いられる場合、「正装」の意味になる。特別な役職にある者や僧侶などが、自分の身分をあらわすために身にまとう「正装」を指す。

 

これをルターがlange Kleiderと訳し、ティンダルがlong clothing と英訳し、聖書訳の伝統で「長い衣装」と訳すようになったもの。

 

欽定訳はティンダルを継承し、long clothingであるが、仏語訳では古くからrobe longueと訳されており、16世紀からジュネーヴ聖書の英訳にも入り、long robeの言い方が普及する。

その結果英語では、long robeという言い方が「正装」の意味に用いられるようになる。

 

和訳では文語訳以来の伝統で「長い衣」。

共同訳「正装」以外の和訳聖書はすべて「長い衣」の訳。

 

日本語では「衣」とは上等の「正装」を指すとは限らず、衣服一般をさすから、「長い衣」という表現では単に「長い衣服」と言うだけの意味に解され、「正装」という意味合いが消えてしまう。

 

ここでは律法学者は、律法学者の身分を示す特別な衣装で正装し、人中を出歩くことを好む、という意味。

 

 

田川訳「会堂の上席」→NWT「会堂の正面の座席」→原文(kathedra)

原文は「座る椅子」を意味する語。

会堂(synagogue)に集まる一般信者が座る椅子ではなく、会堂の重鎮が座るために用意された「椅子」のこと。

 

田川訳「食事の上座」→NWT「晩餐では特に目立つ場所」→原文(klisia)

こちらの原文は、食の時に横たわる「長椅子」のこと。

 

NWTは「上席」を「正面の座席」、「上座」を「特に目立つ場所」と訳しているが、KIではどちらもprOtoklisianを原語としている。

 

これは、1516年に発行されたテクストゥス・レセプトゥス(Textus Receptus)をテキストとした訳。聖書霊感信仰に影響されており、共観福音書に共通した表現となっているが、正文批判からして現代では受け入れられていないテキストの訳となっている。

NWT訳はTextus Receptus(「受け入れられた原文」の意)を元に、WT解釈を読み込んだもの。

 

田川訳「言い訳に」→NWT「見せかけのために」→原文(prophasei)

原義はpro(前)+phainO(光らせる)で「(何かを隠すために)前を光らせる」という趣旨の動詞の不定詞。to make for a pretenseという意味。

 

この「やもめの家々を食いつぶし、その言い訳に長々と祈る」という言い方からすれば、気の弱いやもめの家に行って、祈ってやるから謝礼金をよこせ、といったことをやらかしていたのだろう。体のいい宗教詐欺である。宗教とはそもそも詐欺だ、とおっしゃる人もいるけれども。(「訳と註」p393より)

 

「正装」して歩くことを好む「律法学者」たちは、「法服」の色や「戒名」の文字によって、高額な「お布施」を暗黙の了解で「お気持ち」として受け取るご立派な住職と同じような輩だったのだろう。

 

 

銀色の13年版RNWT「人の目に留まるように長い祈りをします」。

英訳はfor pretext making long prayersからfor show they make long prayersに改訂。

 

NWTがpretextという語を使うなら「見せかけ」よりもtextという表現を生かして、「名目」「建前」と訳した方がWTの本質に近いような…。

JW関係を利用して、「励まし」や「癒し」や「兄弟」という「名目」や「建前」で、「やもめの家」や「仲間の家」にたかりに行き、タダ飯タダ酒タダ宿で御馳走になったり、仕事や小銭大銭をせしめようとする律法学者のようなJWの何と多いことか…。

 

今般はNWT「見せかけのために食い荒らす」ライス・クリスチャンのような「偽善者」JWではなく、RNWT「人の目に留まるように奪い取る」ために、「やもめの家」や「仲間の家」を利用する「強盗」JWが増えているのでしょうか…。

 

新世界訳聖書に忠実な人々の集団ですから…。

 

 

以上が共観福音書における「律法学者」批判と「律法学者」的素養を持つJW批判でした。