マルコ12:35-37a <ダヴィデの子> 並行マタイ22:41-45、ルカ20:41-44

 

マルコ12 (田川訳)

35そして神殿で教えている時に、イエスは答えて言った、「どうして律法学者たちはキリストがダヴィデの子であるなどと言うのか。36ダヴィデ自身、聖霊によって言っているではないか。主は我が主に言った、汝の敵たちを汝の足下に置くまで、我が右に座せ、と37ダヴィデ自身が彼を主と呼んでいる。どうして(キリストが)ダヴィデの子たりえようか」。

 

マタイ22

41パリサイ派が集って来た時に、イエスが彼らにたずねて、42言った、「あなた方はキリストについてどう思うのですか。キリストは誰の子か」。彼らは言う、「ダヴィデの子ですよ」。43彼らに言う、「ではどうしてダヴィデは霊によって彼を主と呼び言っているのですか、44主はわが主に言った、汝の敵たちを汝の足の下に置くまで、わが右に座せ、と。45ダヴィデが彼を主と呼んでいるのなら、どうして彼がその子たりえましょうか」。46そして誰も彼に言葉を返すことができなかった。またその日以来もはや誰も敢えて彼に問うことはしなかった。

 

ルカ20

41だが彼らに対して言った、「どうしてキリストがダヴィデの子であるなどと言うのか42ダヴィデ自身が詩篇の書物で言っているではないか。主は我が主に言った、43汝の敵たちを汝の足下に置くまで、42我が右に座せ、と。44つまりダヴィデが彼を主と呼んでいるのだ。どうして(キリストが)ダヴィデの子たりえようか」。

 

 

マルコ12 (NWT)

35 しかし,神殿で教えていた時,イエスは,返答をする際にう言いはじめられた。「書士たちが,キリストはダビデの子であると言うのはどうしてでしょうか。36 聖霊によってダビデ自身がこう言ったのです。『エホバはわたしのに言われた,「わたしがあなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで,わたしの右に座していなさい」』。37 ダビデ自身が『と呼んでいるのに,どうして彼の子なのですか」。

 

マタイ22

41 さて,パリサイ人が共に集まっていた間に,イエスは彼らにこうお尋ねになった。42 「あなた方はキリストについてどう考えますか。彼はだれの子ですか」。彼らは,「ダビデの[子]です」と言った。43 [イエス]は彼らに言われた,「では,どうしてダビデは,霊感によって彼を『』と呼び,44 『エホバはわたしのに,「わたしがあなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで,わたしの右に座っていなさい」と言われた』と言っているのですか。45 それで,ダビデが彼を『と呼んでいるのであれば,どうして彼の子でしょうか」。46 すると,だれも,一言も彼に答えられなかった。また,その日以後は,だれもあえてそれ以上彼に質問しなかった。

 

ルカ20

41 かわって[イエス]が彼らに言われた,「人々が,キリストはダビデの子だと言うのはどうしてですか。42 ダビデ自身が詩編の書の中で,『エホバがわたしのに言われた,43 わたしがあなたの敵をあなたの足台として据えるまで,わたしの右に座していなさい』と言っています。44 それゆえ,ダビデは彼を『』と呼んでいるのです。それで,どうして彼の子でしょうか」。

 

 

マルコとマタイは、「愛の戒めについて」伝承の後に置いているが、ルカは非マルコ資料伝承をまとめて扱っている中間部分(9:51-18:14)である10章に置いたので、この伝承はマルコ・マタイでは前前段の「死人から復活」伝承の後に置かれている。

 

マタイもルカもマルコを写しているので、それぞれの導入の編集句における場面設定や結論の編集句に多少の違いが生じているだけで、内容に関しては、三者に大きな違いはないようにも見える。

 

しかしながら、マルコとマタイでは異なる視点で描かれている。

マタイのイエス論議が頭にあるとマルコの視点は隠れてしまうことになる。

 

 

マルコの前段の結びには「誰も敢えてイエスに問うことはしなくなった」とあるのに、イエスが神殿で教えている時に、イエスが「答えて言った」というのは矛盾だと思われるかもしれない。

 

だが、マルコの「答えて言った」(apokritheis…elegen)はヘブライ語的語法。

その場の状況に対応して言った、という趣旨であり、誰かがイエスに質問し、それに答えてイエスが言った、という意味ではない。

 

「神殿で教えている時に」という状況設定であり、マルコのイエスが言った相手は、イエスの信奉者である。

イエスの信奉者が抱いているであろう疑問に応える趣旨で、イエスが「キリスト」は「ダヴィデの主」であり、「ダヴィデの子」ではないと教えたという意味である。

 

マタイは、集ってきたパリサイ派に対してイエスが質問したという設定にしている。

「キリスト」が「ダヴィデの子」であると主張しているのは、イエスに敵対するパリサイ派である。マタイのイエスは反対者に対する反論として、「ダヴィデ」は「主」と呼んでいるのに、「キリスト」が「ダヴィデの子」であり得るのか、と逆質問したという設定である。

 

マタイのイエスは「キリスト」が「ダヴィデの子」であることを否定していない。

「ではどうしてダヴィデはキリストを「主」と呼んでいるのに「ダヴィデの子」なのか」という質問は、イエスが反対者に投げかけた謎であり、反対者は誰もその謎に「言葉を返すことが出来なかった」という物語にしている。

 

マルコでは前段の結びである34もはや誰も敢えて彼に問うことはしなくなった」という句をマタイはこちらの結びに利用し、「キリスト」(メシア)=「ダヴィデの子」=「ダヴィデの主」であること示して、キリスト教がユダヤ教から継承された宗教だと主張したいのであろう。

 

それで、マタイは46そして誰も彼に言葉を返すことが出来なかった。またその日以来もはや敢えて彼に問うことはしなかった」と結んだものと思われる。

 

ルカの「彼らに対して言った」(eipen de pros autous)は人称代名詞三人称複数(autous)を対象として「言った」という意味であり、前段を受けた「彼ら」であり、39「何人かの律法学者たち」を指している。

 

ルカもマタイと同じく、イエスに敵対する者に対して反論する形の設定であり、「キリスト」が「ダヴィデの子」であると言っているのは律法学者である。

 

しかしながら、ルカのイエスは、その主張に反論する形で、マルコと同じく、「キリスト」は「ダヴィデの子」ではないと主張している。

 

 

「ダヴィデの子」という表現は「メシア」の代名詞として当時のユダヤ教の中で広く流布していた理念である

 

ダヴィデはユダヤ人の歴史の中で最も偉大な王として尊敬されてきており、「メシア」という表現は、王となる者が即位式において、頭に香油が注がれたことに由来する。

 

御存じのように「メシア」とは「油注がれた者」という意味のヘブライ語であり、そのギリシャ語が「キリスト」である。

 

来たるべき「メシア」は、ダヴィデの子孫であるはずだという理念は当時のユダヤ教だけでなく、キリスト教にもかなり早い段階からユダヤ人キリスト信者によって持ち込まれていたと思われる。

 

マルコの伝承では、「キリスト」が「ダヴィデの子」であるとする理念を持っているのは「律法学者」になっている。

ユダヤ教の「律法学者」であれば、イエスと対立している存在であるので、「キリスト」ではなく、「メシア」と主張するものだろう。

 

マルコの伝承では、イエスが自らの側から積極的に持ち出しているが、旧約をエビデンスとして、「キリスト」が「ダヴィデの子」であることを否定する論議となっている。

 

とすれば、この伝承は本来ユダヤ教の理念である「メシア」=「ダヴィデの子」という概念をキリスト教にも持ち込もうとした者たちに対する批判として、同じキリスト教の中から出て来た論議を元にしているのかもしれない。

 

イエス自身は自分自身を「メシア」あるいは「キリスト」とみなされることを否定しており、旧約に照らして、「メシア」と特定するような論議に興味は持たなかったであろう。

そもそも、そのような論議そのものに否定的であったと思われる。

 

旧約の言葉を引用して、その中の些細な言葉遣いを手掛かりに針小棒大に論議を進めようとするやり方は、いかにも律法学者が好む方法である。

 

初期キリスト教会においてユダヤ人キリスト信者たちの間で、「メシア」=「ダヴィデの子」という理念をキリスト教にも持ち込み、「キリスト」=「ダヴィデの子」であることを証明しようとする議論があったのだろう。

 

「キリスト」を「ダヴィデの主」とする点では、三者とも肯定的である。

皆キリスト信者であるから当然であるが、マルコとルカは、「ダヴィデの子」とする点では否定的である。

 

ルカはマルコを写しているだけであるから、マルコ同様否定的になっているだけであろう。

 

マタイのイエスは「パリサイ派」に「キリストは誰の子か」と質問し、「パリサイ派」が「ダヴィデの子」であると答えることにより、「キリスト」=「ダヴィデの子」という理念は敵対する「パリサイ派」も真実と認める教条であるという設定にすり替わっている。

 

マタイはイエスがダヴィデの子孫であることを証明しようとして冒頭にイエスからダヴィデに繋がる系図を作成している。

 

マルコの「ダヴィデの子」伝承は、マタイのように「キリスト」=「ダヴィデの子」とするキリスト信者に対して、「キリスト」はユダヤ教における「メシア」=「ダヴィデの子」ではありえないとするキリスト信者もいたことを示唆している。

 

おそらく律法学者出身のキリスト信者か律法学者的な素養を持つユダヤ人キリスト信者によって、ダヴィデの作とされる詩編の文言を根拠に否定しようという論陣を張っていたのかもしれない。

 

 

「主は我が主に…」という旧約は七十人訳詩篇109(110):1の引用。

「足下」という表現の単語が少し違うのを除き、七十人訳と全く同じである。

 

この時代の解釈からすれば、「主」とは「神」のこと。

「我が主」は「メシア」のこと。

神がメシアに対して、敵対する勢力を神が自ら制圧してやるから、それまでメシアは神の右に座していなさい、という趣旨。

 

旧約の詩篇は、ユダヤ教正典信仰の立場からすれば、ほぼすべてダヴィデ王の作とされており、引用箇所も「ダヴィデ」の作とされている。

 

マルコは、「ダヴィデ自身、聖霊によって言っている」、マタイは「ダヴィデは霊によって…言っている」としているが、ルカは「ダヴィデ自身が詩篇の書物で言っている」。

 

マルコの「聖霊によって」(en tO pneumati tO hagiO)、マタイの「霊によって」(en pneumati)であるが、ルカの「詩篇の書物で」(en biblO psalmOn)。

 

ルカは「霊によって」という句を削除している。

 

ルカは、ユダヤ人ではないので、旧約を「霊によって」(en pneumati)書かれたとは言いたくなかったのであろうか。

 

 

短い「ダヴィデの子」伝承であるが、ここでも三者三様の微妙に異なるキリスト教が展開されている。