マルコ12:28-34 <愛の戒めについて> 並行マタイ22:34-40、参照ルカ10:25-28

 

マルコ12 (田川訳)

28そして一人の律法学者進み出て彼らが議論しているのを聞き、彼らに対してうまく答えているのを見て、彼にたずねた、「すべての戒めの中で第一の戒めは何ですか」。29イエスが答えた、「第一はこれです。聞け、イスラエルよ、主なる我らの神は唯一の主なリ。30汝のすべての心から、汝のすべての生命から、汝のすべての思いから、汝のすべてのから、主なる汝の神を愛すべし。31第二はこれです。おのれの如く汝の隣人を愛すべし。ほかのどの戒めもこの二つの戒めより大きくはありません」。32そして彼に律法学者が言った、「結構です、先生。(主なる神は)唯一であって、ほかに主はいない、とおっしゃるのは真実のことです。33そして、すべてのから、すべての理性から、すべてのから神を愛し、おのれの如く隣人を愛するのは、いかなる燔祭や犠牲よりもまさることです」。34そしてイエスは彼が賢く答えたのを見て、彼に言った、「あなたは神の国から遠くない」。そしてもはや誰も敢えて彼に問うことはしなくなった。

 

マタイ22

34彼がサドカイ派を黙らせたと聞いて、パリサイ派が同じ場所に集って来た。35そして彼らのうちの一人法学者が質問して、彼を試みた36「先生、律法の中でどの戒めが大きいものでしょうか」。37彼に言った、「汝のすべての心において、汝のすべての生命において、汝のすべての思いにおいて、主なる汝の神を愛すべし。38これが大きい、かつ第一の戒めです。39第二もこれと同じです。おのれの如く隣人を愛すべし。40この二つの戒めに全律法と預言者とがかかっているのです」。

 

参ルカ10

25そして見よ、ある法学者が立って、彼を試みて言った、「先生、何をしたら永遠の生命を受け継ぐことができますか」。26その者に対して言った、「律法には何と書いてあります?どう読んでおいでで?」。27その者は答えて言った、「汝のすべての心をもって、汝のすべての生命において、汝のすべてのにおいて、汝のすべての思いにおいて、主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛すべし、と」。28その者に言った、「正確にお答えになりましたね。それを実行なさったら、生きることがおできになりましょう」。

 

 

マルコ12 (NWT)

28 さて,そばに来て彼らが議論しているのを聞いていた書士の一人は,[イエス]が彼らにみごとに答えたのを知って,こう尋ねた。「すべてのうちどのおきてが第一ですか」。29 イエスはこう答えられた。「第一は,『聞け,イスラエルよ,わたしたちのエホバはただひとりのエホバであり,30 あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたのエホバを愛さねばならない』。31 第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。これらより大きなおきてはほかにありません」。32 書士は彼に言った,「師よ,『[]はただひとりであり,そのほかにはいない』と,真理に即してよくぞ言われました。33 そして,この,心をこめ,理解力をこめ,力をこめて[]を愛すること,また,隣人を自分自身のように愛するこのことは,全焼燔の捧げ物と犠牲全部よりはるかに価値があります」。34 するとイエスは,彼がそう明な答えをしたのを見て,「あなたはの王国から遠くありません」と言われた。しかし,それ以上[イエス]に質問する勇気はもうだれにもなかった。

 

マタイ22

34 パリサイ人たちは,[イエス]がサドカイ人を沈黙させたことを聞いたのち,一団となってやって来た。35 そして,そのうちの一人で,律法に通じた者が,彼を試して,こう尋ねた。36 「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」。37 [イエス]は彼に言われた,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたのエホバを愛さねばならない』。38 これが最大で第一のおきてです。39 第二もそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』40 律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。

 

参ルカ10

25 さて,見よ,律法に通じたある人が立ち上がり,彼を試そうとしてこう言った。「師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」。26 [イエス]は彼に言われた,「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読みますか」。27 彼は答えて言った,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたのエホバを愛さねばならない』,そして,『あなたの隣人を自分自身のように[愛さねばならない]』」。28 [イエス]は彼に言われた,「あなたは正しく答えました。『このことを行ないつづけなさい。そうすれば命を得ます』」。

 

 

 

ユダヤ教の数多くの律法を「神と隣人への愛」という二つの「愛」の原則に統合したイエスは、「愛の説教師」である、と語られる根拠となっている伝承である。

 

マルコとルカは別の伝承資料に基づいて物語を構成している。

マタイはマルコとの一致も、ルカとの一致も見られ、マルコ資料と非マルコ資料を合成して、物語を構成していると考えられる。

 

マルコの話とルカの話は表面上よく似ているようでも、正反対の方向を向いている。

 

マルコでは、律法の中で「第一の戒め」は何か、という律法学者の質問に対して、神の愛と隣人愛が最も重要だ、という自論を積極的に主張するのはイエスであり、律法学者はイエスの意見に賛同しているにすぎない。

 

マタイもこの構造を採用している。

 

それに対して、ルカではマルコとは逆で、神の愛と隣人愛が最も重要だ、と主張するのは律法学者の方で、イエスは斜に構えて、結構なことでございますね。それならどうぞ、御理解されているようにおやりになったらいかがですか、と冷たくあしらっている感じである。

 

そしてこの話を導入として、その後に有名な「良きサマリア人の譬え」が結論として続いている。

 

律法学者であるユダヤ教の指導者連中は、毎日ご立派に建前的に「隣人を愛せ」と唱えていても、実際にやっていることはまるで逆ではないか、とルカのイエスは糾弾するのである。

 

おそらく、ルカの伝承の方がマルコの伝承よりも古く、イエス自身にまでさかのぼるものだろう。

 

マルコの伝承の方は、イエスをキリスト化させていることからして、元伝承における立場を逆転させ、初期キリスト教団が伝承させたものだろう。

 

 

イエスと律法学者との間で「愛の戒め」についての議論が交わされる。

 

マルコ12

28そして一人の律法学者進み出て彼らが議論しているのを聞き、彼らに対してうまく答えているのを見て、彼にたずねた、「すべての戒めの中で第一の戒めは何ですか」。

 

マタイ22

34彼がサドカイ派を黙らせたと聞いて、パリサイ派が同じ場所に集って来た。35そして彼らのうちの一人法学者が質問して、彼を試みた36「先生、律法の中でどの戒めが大きいものでしょうか」。

 

ルカ10

25そして見よ、ある法学者が立って、彼を試みて言った、「先生、何をしたら永遠の生命を受け継ぐことができますか」。26その者に対して言った、「律法には何と書いてあります?どう読んでおいでで?」。

 

 

マルコでは、サドカイ派との「復活」論争に続けて、それを見聞きしていた「律法学者」(grammateus)がイエスに「進み出て」、ユダヤ教律法中の「第一の戒め」に関して質問した、という設定で、「愛の戒めについて」伝承を始めている。

 

マタイは、マルコとは異なりパリサイ派がサドカイ派との「復活」論議を見聞きしていたわけではなく、彼らを「黙らせた」ことを聞き付けて集まって来たパリサイ派の中の「法学者」(nomikos)がイエスに近づき、「試みる」(peirazOn)意図を持って質問した、という設定にしている。

 

ルカは、「パリサイ派」でもなく「律法学者」でもなく、サドカイ派との「復活」論争の場にいた「法学者」(nomikos)が立って、「試みる」(ekpeirazOn)意図を持って質問した、という設定にしている。

 

マタイとルカは「律法学者」(grammateus)ではなく、「法学者」(nomikos)が「「試みる」(Mt:peirazOn.Lu:ekpeirazOn)としているが、これはマルコと異なる資料にあった言葉遣いを写したものと考えられる。

 

この非マルコ資料は、いわゆるマタイ・ルカの共通資料(Q資料)であったのか、マタイとルカがそれぞれ独自で入手したマタイ資料・ルカ資料がたまたま一致していただけのものなのかは不明。

 

マルコの「律法学者」(grammateus)の直訳は「書物の人」という意味。

ユダヤ教における「書物」とはいわゆる「旧約聖書」を意味するが、その中でも「律法」(トーラー:モーセ五書)を指すので、律法を研究し、人々に教え、ユダヤ教の指導者となった人たちを「書物の人たち」(grammateus)と呼んだ。

 

マタイ・ルカの「法学者」(nomikos)は「法」(nomos)を形容詞にし、さらに名詞化したもので、ユダヤ教の律法には限定されない「法の人」、「法律の専門家」という趣旨。

 

ギリシャ語ユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒の間では、「律法学者」(grammateus)という言い方が一般的であったが、ギリシャ語の単語としては通じにくいそうで、普通のギリシャ語人間にとっては「法学者」(nomikos)の方が言葉として通じやすかったようである。

 

ルカは「律法学者」(grammateus)を14か所で用いているが12箇所はマルコを直接写している場合か、マルコで「律法学者」(grammateus)が登場する記事の続きの箇所である。(Lu5:21→Mr2:7、Lu5:30→Mr2:16、Lu6:7→Mr3:2、Lu9:13→Mr8:31、Lu19:47,20:1→Mr11:18、Lu20:19→Mr12:12、Lu20:39→Mr12:28、Lu20:46→Mr12:38、Lu22:2→Mr14:1、Lu22:52,23:6→Mr15:1)

 

 

残りの二箇所が非マルコ資料であるが、11:53は「Q資料」で、15:2のみが「ルカ資料」。

ただし、15:2「パリサイ派律法学者」(hoi pharisaioi kai hoi grammateis)はマルコ2:16の場面設定と同じであり、マルコの「パリサイ派律法学者」(hoi grammateis tOn pharisaio)に影響された言葉遣いであろう。

 

ルカは上の二箇所以外、非マルコ資料の場合、一貫して「法学者」(nomikos)を用いている。(全六回:7:30,10:25,11:45,11:46,11:52,14:3)

 

それに対し、マタイが「法学者」(nomikos)を用いている箇所は、22:35のこの個所だけである。

 

何故か。

 

マタイは非マルコ資料にあったルカと共通の「法学者」(nomikos)という表現を採用することにしたからであろう。

 

ただし、マタイ・ルカの共通資料と言っても、一致点は「法学者」(nomikos)という単語、ルカは接頭語付きであるが「試みる」という分詞、それとどのように神を愛するかに関する項目において使われている前置詞enであり、マタイ・ルカだけの共通要素はそれほど多くはない。

 

マタイとルカでは場面設定が真逆である。

 

マタイはマルコと同じく、イエスが律法学者に「神の愛」と「隣人への愛」と説き勧める設定であるが、ルカでは「神の愛」と「隣人への愛」と説くのは律法学者の方である。

 

ルカの「法学者」は、「何をしたら永遠の生命を受け継ぐことが出来るか」と、イエスを「試みて」言っているのだから、何を遵守すべきかという答えを理解している前提での質問であり、「神の愛」と「隣人への愛」を説くのは「法学者」という設定である。

 

 

「第一の戒め」における「神への愛」示すべき要素も三者三様で微妙に異なっている。

 

マルコ12

28…「すべての戒めの中で第一の戒めは何ですか」。29イエスが答えた、「第一はこれです。聞け、イスラエルよ、主なる我らの神は唯一の主なリ。30汝のすべての心から、汝のすべての生命ら、汝のすべての思いから、汝のすべてのから、主なる汝の神を愛すべし。

 

マタイ22

36「先生、律法の中でどの戒めが大きいものでしょうか」。37彼に言った、「汝のすべての心において、汝のすべての生命において、汝のすべての思いにおいて、主なる汝の神を愛すべし。38れが大きい、かつ第一の戒めです。

 

ルカ20

25…「先生、何をしたら永遠の生命を受け継ぐことができますか」。26その者に対して言った、「律法には何と書いてあります?どう読んでおいでで?」。27その者は答えて言った、「汝のすべての心をもって、汝のすべての生命において、汝のすべてのにおいて、汝のすべての思いにおいて、主なる汝の神を愛すべし。

 

 

マルコの「第一の戒めは何か」に対し、マタイは「どの戒めが大きいか」。

 

マルコでは律法学者が「進み出て」イエスに教えを請うという設定であるが、律法の戒めの中で、価値水準を整理して、「大きな戒め」と「小さな戒め」に分類するのは、当時のユダヤ教会堂で教えられており、常識として定着していた。

 

最重要の戒めを基準として、他の戒めをその基準に照らして大小を測ろうとする考えである。

 

当時の律法学者の間では、律法の中でどれが最も大きい戒めであるか、と問うのが流行っていたという。(ビラーベック第一巻p907以下参照)

 

マタイは律法学者のもの言いを熟知しており、マルコの「第一の戒め」を「どの戒めが大きいか」に変えたのかもしれない。

 

あるいはマタイが参照した非マルコ資料には「律法の中でどの戒めが大きいか」と書かれていたのかもしれない。

 

ルカは、「第一の戒めは何か」あるいは「どの戒めが大きいか」という律法の解釈に関する質問ではなく、「何をしたら永遠の生命を受け継ぐことが出来るか」という質問にしている。

 

 

「どの戒めが大きいか」という質問が一般的だったとすれば、ルカが参照した非マルコ資料にはマタイと同じく「律法の中でどの戒めが大きいか」とあったものを、ルカが「何をしたら永遠の生命を受け継ぐことが出来るか」という言い方に変えたのかもしれない。

 

「受け継ぐ」(klEronomeO)という言葉遣いはユダヤ教独特のもので、神がイスラエル民族に与えたものをその民族の者たちが遺産として継承する、という趣旨。

 

ルカがなぜ「永遠の生命を受け継ぐ」としたのか確かなことは不明であるが、ユダヤ教信者は律法遵守により、永遠の生命を獲得できると信奉していると考えていることは確かであろう。

 

マタイとルカの「法学者」はイエスを「試みて」質問しているのだから、当然、「法学者」は自分の質問に対する正しい答えを知っている。

 

イエスがその「試みの質問」に直接答えてしまうならば、法学者が基本構造とする律法主義体系を承認した前提での答えとなってしまう。

 

ユダヤ教の律法主義体系に批判的なイエスが、直接的に答えるはずもない。

「法学者」にとっては、イエスに答えさせるのでなければ、「試み」とはならない。

 

イエスとしては逆質問して、法学者に答えさせ、「試み」をかわし、主導権を握る方が得策である。

 

「第一の戒め」が何であるか、「どの戒めが大きいものか」、イエスも律法学者も十分理解している。

 

「汝のすべての心から…」は申命記6:5の引用。

 

マルコは6:4「聞け、イスラエルよ…」から引用しているが、この部分はマタイもルカも削除している。

 

マルコが引用している申命記6:4-5「聞け、イスラエルよ…。汝のすべての心から…主なる汝の神を愛すべし」という句は、「シュマの祈り」としてユダヤ教信者に重要視されていた。

 

ミシュナの巻頭に置かれているベラコート2:2では、毎日、朝と夕、ミシュナの祈りを唱えることこそが「神の国のくびきを負う」行為だとされている。

 

「神の国」と言ってもマタイのキリスト教的な意味での「天の国」=「天国」という意味ではない。

 

「国」(basileia)とは「支配」(basileia)という意味でもあるので、神が王として支配する状態であり、現実の社会でその状態が実現した場所が「神の国」ということになる。

 

つまり、ユダヤ教の律法を十全に守って生きて行くことが、「神の支配のくびきを負う」ことであり、「神の国」を待望できることになる。

 

ユダヤ教信者にとってシュマの祈りに従がって生きて行くことが「神の国のくびきを負う」ことになるというのである。

 

結婚の初夜だけは花婿がシェマを唱える義務を免除されるが、ラビ・ガマリエル二世(後90年ごろ)は初夜にまでシェマを唱えたという。

 

弟子たちが、あなたの教えによれば初夜には免除されるはずですが、と質問したところ、「諸君の言うことに従がって、ほんの一瞬たりとも神のくびきをはずすようなことはしたくない」と答えたという。(ベラコート2:5)

 

マルコのイエスが「第一の戒め」として律法学者に説教したとされるシュマの祈りが、ユダヤ教にとっても最重視されていた「第一の戒め」であった、ということである。

 

七十人訳では、「汝のすべての心から」「汝のすべての生命から」「汝のすべての力から」の三項目であるが、マルコでは「心」「生命」「思い」「力」の四項目となっている。

 

また、七十人訳の「力」はdynamisであるが、マルコの「力」はiscysという同義語を使っている。

 

ヘブライ語本文も七十人訳同様に三項目であり、マルコの引用は七十人訳との一致も多く、何故「思い」が加わって、四項目としているのか不明。

 

マルコの写本の中には「思い」の項目を削除し、旧約に合わせて三項目にしているものもある(BDほか)が、lectio difficiliorの原則からして、原文は四項目。

 

マタイは、「汝のすべての心において」「汝のすべての生命において」「汝のすべての思いにおいて」の三項目。マルコの四番目である「力」の項目を削除している。

 

なおかつマルコの前置詞「…から」(ek)を「…において」(en)に変えている。

 

ルカは「汝のすべての心をもって」「汝のすべての生命において」「汝のすべての力において」「汝のすべての思いにおいて」とマルコと同じく四項目。

 

ただし、「力」と「思い」の順番がマルコとは逆で、「力」が三番目。

 

前置詞も「心」に関しては「…もって」(ek)とマルコと同じであるが、ほかの三項目については「…おいて」(en)とマタイと同じになっている。

 

七十人訳における三項目の前置詞はマルコと同じくすべて「…から」(ek)となっている。

 

このセリフはユダヤ教の中で最も重要なセリフの一つであり、旧約に書いてあるのと違う仕方で四項目に拡張するということが律法に忠実なユダヤ人によってなされたとは考え難い。

マルコと同じ四項目はユダヤ教諸文献には一切出て来ないという。

 

とすれば、マルコの四項目はキリスト教の伝承の中で作られ、マルコの元に届いたものとも考えられる。

 

律法に詳しいマタイが四項目ではなく、三項目なのは、申命記では三項目であったことを覚えていたからであろう。

 

ただし、旧約に従がうのであれば、「力」ではなく「思い」を削るべきであるが、マルコを見て、四番目の「力」の項目を削除したのかもしれない。

 

あるいは、マタイが参照している非マルコ資料が三項目であったのかもしれない。

 

ただし、前置詞をマルコのekからenに変えたのは、非マルコ資料がルカの非マルコ資料と同じくenとなっていたからであると思われる。

 

ルカの「愛の戒めについて」伝承は、ルカが非マルコ資料を扱っている10章に置かれている。

 

ルカがマルコと同じく四項目であるが、「力」が三番目であるのは、参照した非マルコ資料には七十人訳と同様に「心」「生命」「力」の三項目が扱われていたからであろう。

 

ルカはまず非マルコ資料の三項目を順に採用し、マルコが四項目であることを確認し、四番目の項目として「思い」付け加えることにしたものと考えられる。

 

ルカにおける前置詞は、マタイにならって、四項目ともenにしている写本やマルコにならって四項目ともekにしている写本も存在する。

 

しかしながら、それらはマタイやマルコとの一致を意図した後代の修正であろう。

 

写本の重要性からして、ek…en…en…en…が原文であろう。

 

ルカは最初の「心」の項目に関してのみ「…から」(ek)という前置詞にしている。

 

ルカは「思い」を四項目目に置いたのであるが、マルコの四項目目は「力」であり、非マルコ資料ではenであったのだろう。

 

ルカはマルコの「…から」(ek)も頭にあり、「思い」と「心」がごっちゃになり、「心」に関しては「…から」(ek)とさせてしまったのかもしれない。

 

マタイとルカが参照した非マルコ資料の前置詞が共に「…において」(en)であったとすると、マタイでも「法学者」がイエスを「試みた」としていることからしても、マタイが参照した非マルコ資料はルカの非マルコ資料と同じく「法学者」(nomikos)主体の「愛の戒めについて」伝承であったと考えられる。

 

しかしながら、マタイは、イエスが主体的に「愛の戒めについて」説教を展開する方を好ましく思い、マルコの設定を採用したことになる。

 

つまり、マタイは話の構造としてはマルコを基本としながら、非マルコ資料の言葉遣いも採用しながら、合成して、一つの伝承として編集したものと考えられる。

 

 

「第二の戒め」である「隣人への愛」に関しても、三者三様で微妙に異なっている。

 

マルコ12

31第二はこれです。おのれの如く汝の隣人を愛すべし。ほかのどの戒めもこの二つの戒めより大きくはありません」。

 

マタイ22

39第二もこれと同じです。おのれの如く隣人を愛すべし。40の二つの戒めに全律法と預言者とがかかっているのです」。

 

ルカ20

27…また、おのれの如く汝の隣人を愛すべし、と」。28その者に言った、「正確にお答えになりましたね。それを実行なさったら、生きることがおできになりましょう」。

 

 

マルコの「第二はこれです」(kai deutera homoia autE)に対し、マタイは「第二はこれと同じです」(deutera de homoia autE)。

 

原文では、文頭に置かれる接続小辞が異なるだけで、ほかは全く同じ文。

マタイはマルコを写しているのだろう。

 

ルカはこの句を削除している。

マルコを削除したわけではなく、ルカの参照した非マルコ資料にはこの句がなかったのだろう。

 

レヴィ記19:18の引用である「おのれの如く汝の隣人を愛すべし」は三者とも七十人訳とぴったり一致している。

 

「第二の戒め」に関しても、決してイエスの独創的な考えから生まれた、キリスト様らしい発想ではなかったようである。

 

イエスより2、30年前のラビに関してこのような話が伝えられているそうだ。

 

「ある異邦人がラビ・シャンマイのところに来て、自分が一本足で立っている間に律法全部を述べてくれたらユダヤ教に改宗してもいい、とからかい半分に言ったので、シャンマイは怒って、棒の先でこれを追い返した。そこでこの異邦人はシャンマイと対立するもう一人のラビ・ヒレルのところに来て、同じことを尋ねた。ヒレルは答えて言う、「自分にとっていやなことは、隣人に対してもなさぬがよい。これが律法のすべてであり、ほかはすべてその解釈にすぎぬ。行って、このことを学ぶがよい」。(「イエスという男」p36)

 

「第二の戒め」とされる「隣人への愛」も、当時のユダヤ教で、シェマの祈りの「第一の戒め」と並んで、律法の中で最も大切な戒めだとされていたのである。

 

決して、イエスがキリスト様であるからユダヤ教の律法を二つの「愛」の戒めに体系化させることが出来たわけではなさそうである。

 

 

マルコのイエスは「ほかのどの戒めもこの二つの戒めより大きくはありません」と律法学者に説教しているが、マタイのイエスは「この二つの戒めに全律法と預言者とがかかっているのです」と説教して、この伝承は終わる。

 

マタイのイエスの言い方は、律法の戒めの中でどれがもっとも大事かの議論における律法学者の結論の言い方である。

 

マタイはマルコのイエスの言い方を、律法学者好みの言い方に書き変えてくれたのであろう。

 

 

ルカのイエスは自らこのような説教を語ることはなく、「第一の戒め」と「第二の戒め」を答えた「永遠の生命を受け継ぐ」ことを期待しているユダヤ教の「法学者」に対して、「正確にお答えになりましたね。それを実行なさったら、生きることがおできになりましょう」と答えるだけである。

 

ルカでは、「愛についての戒め」伝承を導入として、この後に本論となる有名な「良きサマリア人の譬え」が続いている。

 

 

マルコのイエスと律法学者の間には、もう一問答が続いている。

 

マルコ12

32そして彼に律法学者が言った、「結構です、先生。(主なる神は)唯一であって、ほかに主はいない、とおっしゃるのは真実のことです。33そして、すべてのから、すべての理性から、すべてのから神を愛し、おのれの如く隣人を愛するのは、いかなる燔祭や犠牲よりもまさることです」。34そしてイエスは彼が賢く答えたのを見て、彼に言った、「あなたは神の国から遠くない」。そしてもはや誰も敢えて彼に問うことはしなくなった。

 

このイエスと律法学者との問答は、マタイにもルカにも出て来ない。

つまり、マタイとルカが参照した非マルコ資料にもなかったのであろう。

 

とすれば、マルコに届いた時点で、元伝承に付加されていた伝承だったと考えられる。

 

マルコにおける元伝承の「第一の戒め」では、「心」「生命」「思い」「力」からという四項目であったが、こちらでは、「心」「理性」「力」からという三項目となっている。

 

旧約七十人訳の「心」「生命」「力」から、とも一致せず、「生命」(psychE)が「理性」(synesis)となっている。

 

マルコが何故こちらを「理性」(synesis)に変えたのかは不明。

 

「生命」から神を愛するとは、「生命」をかけて神を愛するという意味なのか、意味不鮮明だったからなのか…。

 

「理性」から神を愛する、の方が確かにマルコらしいが…

 

「理性」(synesis)の原義は「まとめること」で、ばらばらな物事を頭の中でうまくまとめること。「理解」、もしくは理解する能力の意味で「理性」。

 

NWTは「理解力」。ぜひとも「理解力」をこめ、神と隣人を愛してほしいものだ。

 

「燔祭」(holokautOma)は七十人訳ではholokaustonとも表記されている。

そこから「ホロコースト」(無差別大量殺戮)という語が派生したが、原義は「すべてを焼くもの」(holoskaiO)という動詞の抽象名詞、分詞。

 

ユダヤ教における「燔祭」は、犠牲の獣を祭壇で焼いて、その匂いのする煙を立ち上らせ、その煙を神に捧げ、すべてを祭壇で焼きつくさなければならなかった。(出エジプト記29:18)

 

「犠牲」(thusia)という語は意味が広く、単に獣を犠牲として神に捧げるものを指す。

普通は、祭壇で首を切って殺し、その生血を祭壇に流して神に捧げた。

 

 

神と隣人への愛を実践する方が神殿祭儀よりも勝る、という倫理観もキリスト教の専売特許ではなく、旧約の伝統にもなっていた。

 

第一サムエル15:22「燔祭や犠牲」よりも「主に聞き従う」ことの方が重要だ、という倫理観がはっきり示されている。

 

神殿祭儀の犠牲よりも倫理的な行動の方が重要であるとする主張は、預言者の伝統でもあった。

 

マタイが「愛の戒めについて」伝承の最後に「律法」だけでなく「預言者」も含めているのはそうした伝統的な解釈を織り込んだものであろう

 

マタイが好んで引用するホセア6:6やイザヤ1:10-11、特にエレミヤ7:22-23では、倫理的行動に勝るものとする神殿祭儀について強く否定的である。

 

箴言21:3や伝道の書4:17などの知恵文学にも、同様の倫理観は出て来る。

ラビ的ユダヤ教でも同種の発言は多く出て来るようである。(ビラーベック第一巻p499-500)

 

しかしながら、倫理的行動は重要であるが、神殿祭儀もおろそかにしてはいけない、というのと、倫理的行動こそが重要なのであり、神殿祭儀は重要ではない、というのでは、似てて非なるものであり、本質的に異なっている。

 

ユダヤ教の律法学者の論理は、神殿祭儀も重要とする倫理観であるが、預言者の伝統は、どちらかと言うと神殿祭儀は重要ではないとする倫理観である。

 

マルコにおける律法学者の発言は、預言者の倫理観に属する。

ユダヤ教から分離していく時期の初期キリスト教においては、このような預言者的伝統を強調して、キリスト教の倫理観を構築しようとする傾向が強かったのだろう。

 

この伝承を付加したのは、ユダヤ教が要求している「燔祭」や「犠牲」の律法を遵守することよりも、「第一の戒め」と「第二の戒め」を守ることの方が重要であるとする預言者的伝統を継承する律法学者の倫理観を取り上げて、キリスト教がユダヤ教を正当に継承していることを示そうとするためだったのだろう。

 

しかし、そのおかげで、ルカの非マルコ伝承に見られるユダヤ主義に対するイエスの否定的な倫理観は消えてしまい、イエスのキリスト化が進んでしまうこととなっている。

 

この付加伝承は、マタイとルカの非マルコ資料にも、単独伝承としてもないことからして、初期キリスト教会のユダヤ人キリスト信者により、かなり早い時期に付加されて伝承され、マルコの元ところに届いたものと考えられる。

 

マルコは「そしてもはや誰も敢えて彼に問うことはしなくなった」とイエスの「理性」を高く評価する編集句で、「愛の戒めについて」伝承を結んでいる。