マルコ12:18-27 <死人からの復活> 並行マタイ22:23-33、ルカ20:27-40
マルコ12 (田川訳)
18そして復活はないと言っているサドカイ派が彼のもとに来る。そして彼に問うて言った、19「先生、モーセが我々のために書いているのですが、もしもある人の兄弟が死に、妻を残して、子をもうけなかったなら、その兄弟がその女を取り、自分の兄弟のために種を起こすように、とあります。20七人の兄弟がいました。長男がある女を取った。そして死に、種をもうけませんでした。21そして次男が彼女を取り、死んで、種を残しませんでした。そして三男も同様です。22そして七人とも種をもうけませんでした。みんなの最後に女も死にました。23復活の時に、もしも復活したら、彼らのうちの誰の女になるのでしょうか。というのも、七人とも彼女を女として持ったのですから」。24イエスは彼らに言った、「だからあなた方は間違うんじゃないのですか。書物も御存じないし、神の力も御存じない。25死人の中から復活する時は、めとったりめとられたりしないものです。そうではなく、天にいる天使のようになる。26死人が甦るということについては、あなた方はモーセの書で、柴についての個所で、神が彼にどのように言っているのか、お読みになっていないのですか、我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、とあるのを。27神は死人の神ではなく、生ける者の神なのです。あなた方はひどく間違っておいでだ」。
マタイ22
23その同じ日に、復活はないと言っているサドカイ派が彼のもとに進み出て、彼に問うて、24言う、「先生、モーセが言ったのですが、もしも誰かが子どもなくして死んだら、その兄弟が彼の妻と姻戚関係になり、その兄弟のために種を起こすように、とあります。25ところが我々のところに七人の兄弟がいまして、その長男が結婚してから亡くなったのですが、種を残さず、妻を自分の兄弟にゆだねました。26次男も三男も、結局七人とも同様でした。27みんなの後で、その女も死にました。28では、復活に際して彼女はこの七人の誰の女になるのでしょうか。みんなが彼女を持ったのですから」。29イエスは答えて彼らに言った、「あなた方は間違っておいでだ。書物も御存じないし、神の力も御存じない。30復活においては、めとったりめとられたりしないものです。そうではなく天にいる天使のようになる。31死人たちの復活については、あなた方は、神によって言われていることをお読みになっていないのですか。32我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、とあるのを。神は死人の神ではなく、生ける者の神なのです」。33そして群衆は彼の教えに驚愕した。
ルカ20
27復活はないと言っている何人かのサドカイ派が進み出て、彼に問うて28言った、「先生、モーセが我々のために書いているのですが、もしもある人の兄弟が妻を持っていて、子どもがないのに死んだら、その兄弟がその女を取り、自分の兄弟のために種を起こすように、とあります。29ところで、七人の兄弟がいました。長男がある女を取り、子供なしに死にましまた。30そして次男も、31また三男も彼女を取り、七人とも同様にして、子どもを残さず死にした。32後に女もまた死にました。33ではこの女は、復活の時に、彼らのうちの誰の女になるのでしょうか。七人とも彼女を女として持ったのですから」。34そしてイエスは彼らに言った、「この世の子らはめとったり、めとられたりするけれども、35かの世と死人からの復活とにふさわしいとされた者は、めとったりめとられたりしないものです。36また彼らは天使と等しい者となるので、もはやそれ以上死ぬことはありえません。復活の子なのですから、神の子となるのです。37死人が甦るということは、モーセもまた柴についての個所で、明らかにしています。すなわち主を、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、と呼んでいます。38神は死人の神ではなく、生ける者の神なのです。誰もがみな神によって生きているのですから」。39何人かの律法学者が答えて言った、「先生、よくおっしゃいました」。 40こうして、彼らはもはや彼に何も敢えて問うことはしなくなった。
マルコ12 (NWT)
8 さて,サドカイ人たちが彼のところにやって来た。復活などはないと言う人々である。そして彼にこう質問した。19 「師よ,モーセはわたしたちに,もしだれかの兄弟が死んで妻をあとに残し,子供を残さないなら,彼の兄弟はその妻を迎え,自分の兄弟のために彼女から子孫を起こすべきであると書きました。20 七人の兄弟がいました。一番目の者は妻を迎えましたが,死んだとき,子孫をひとりも残しませんでした。21 そして二番目の者が彼女を迎えましたが,子孫を残さずに死に,また三番目の者も同様でした。22 そして,その七人はひとりも子孫を残さなかったのです。みんなの最後にその女も死にました。23 復活の際,彼女はこのうちだれの妻なのでしょうか。七人の者が彼女を妻として得たのですから」。24 イエスは彼らに言われた,「あなた方が聖書も神の力も知らないこと,これがあなた方の間違っている理由ではありませんか。25 死人の中からよみがえるとき,男はめとらず,女も嫁ぎません。天にいるみ使いたちのようになるのです。26 しかし,死んだ者たち,すなわち彼らがよみがえらされることに関しては,モーセの書の中,いばらの茂みに関する記述の中で,神が彼にどのように言われたかを,あなた方は読まなかったのですか。『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と[言われたのです]。27 この方は,死んだ者の神ではなく,生きている者の[神]なのです。あなた方は大いに間違っています」。
マタイ22
23 その日,復活などはないと言うサドカイ人たちがやって来て,こう尋ねた。24 「師よ,モーセは,『人が子供を持たずに死ぬならば,その兄弟が彼の妻をめとって,自分の兄弟のために子孫を起こさねばならない』と言いました。25 さて,わたしたちのところに七人兄弟がいました。そして一番目の者は結婚して死亡し,子孫がなかったので,妻を自分の兄弟に残しました。26 二番目,三番目の者も,ついには七人全部が同じようになりました。27 みんなの最後にその女も死にました。28 そうすると,復活の際,彼女はその七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんなが彼女を得たのですから」。
29 イエスは答えて言われた,「あなた方は間違っています。聖書も神の力も知らないからです。30 復活のさい,男はめとらず,女も嫁ぎません。天にいるみ使いたちのようになるのです。31 死者の復活については,神によってあなた方に語られた事柄を読まなかったのですか。こう言われました。32 『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』。この方は死んだ者の神ではなく,生きている者の[神]なのです」。33 [これを]聞いて,群衆は彼の教えに驚き入った。
ルカ20
27 しかしながら,復活などはないと言うサドカイ人が何人かやって来て,彼に質問して,28 こう言った。「師よ,モーセはわたしたちに,『ある人の兄弟が妻を持ちながら死に,その者に子供がなかったなら,彼の兄弟はその妻をめとり,自分の兄弟のために彼女から子孫を起こすべきである』と書きました。29 さてここに,七人の兄弟がいました。一番目の者は妻をめとりましたが,子供のないまま死にました。30 こうして二番目,31 ついで三番目の者が彼女をめとりました。七人までが同様でした。彼らは子供を残さずにみな死んだのです。32 最後に,その女も死にました。33 この結果,復活の際,彼女は彼らのうちだれの妻となるのですか。その七人が彼女を妻として得たのですから」。
34 イエスは彼らに言われた,「この事物の体制の子らはめとったり嫁いだりしますが,35 かの事物の体制と死人の中からの復活をかち得るにふさわしいとみなされた者たちは,めとることも嫁ぐこともありません。36 実際,彼らはもう死ぬこともないのです。彼らはみ使いたちのようなのであり,また,復活の子であることによって神の子たちなのです。37 しかし,死人がよみがえらされることについては,モーセでさえ,いばらの茂みに関する記述の中で[それを]明らかにしました。そのさい彼は,エホバを,『アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神』と呼んでいます。38 この方は死んだ者の神ではなく,生きている者の[神]です。彼らは皆,[神]にとっては生きているのです」。39 書士の幾人かがそれにこたえて言った,「師よ,よくぞ言われました」。40 もはや彼らは,[イエス]に何一つ質問する勇気もなかったのである。
マルコはパリサイ派とヘロデ派との「税金」論争に続いて、サドカイ派との「復活」論争を取り上げている。
この「死人からの復活」伝承は、18-25節までの「復活はないと言っているサドカイ派」に関する元伝承に、26-27節の「死人が甦る」ということについての付加伝承を組み合わせて構成されているものと思われる。
元伝承は、イエス自身にまでさかのぼるものかもしれないが、付加伝承の方は初期教団による付加であると思われる。
26-27節は、いかにも律法学者的な論議の仕方であるし、既に「復活」(anistEmi)の論議をしているにもかかわらず、導入句で、改めて「甦る」(egeiromai)ことについて、モーセの書に言及させている。
新約上「復活」を意味するギリシャ語は二つある。
この伝承では元伝承が「復活する」(amistEmi)ことについての伝承であり、付加伝承の方は「甦る」(egeiromai)についての伝承に変わっている。
元伝承における25節のイエスの返答は、旧約を意識したものではなく、自分の意見をズバリと述べただけである。
それに対して、付加伝承の方のイエスの返答は、「復活」を旧約の文言から立証しようとするものであり、元伝承のイエスの返答とは異なる質の返答である。
つまり、付加伝承のイエスの言葉はイエス自身のものではなく、律法学者が自分たちの律法学者的な論議をイエスの口に置き、組み込んだものと思われる。
現在マルコに見られる形での伝承は元伝承と付加伝承を合成した形で初期教会が伝承化させ、「死人の復活」伝承として流布されたものと考えられる。
サドカイ派はイエスに近づき質問する。
マルコ12
18そして復活はないと言っているサドカイ派が彼のもとに来る。そして彼に問うて言った、19「先生、モーセが我々のために書いているのですが、もしもある人の兄弟が死に、妻を残して、子をもうけなかったなら、その兄弟がその女を取り、自分の兄弟のために種を起こすように、とあります。20七人の兄弟がいました。長男がある女を取った。そして死に、種をもうけませんでした。21そして次男が彼女を取り、死んで、種を残しませんでした。そして三男も同様です。22そして七人とも種をもうけませんでした。みんなの最後に女も死にました。23復活の時に、もしも復活したら、彼らのうちの誰の女になるのでしょうか。というのも、七人とも彼女を女として持ったのですから」。
マタイ22
23その同じ日に、復活はないと言っているサドカイ派が彼のもとに進み出て、彼に問うて、24言う、「先生、モーセが言ったのですが、もしも誰かが子どもなくして死んだら、その兄弟が彼の妻と姻戚関係になり、その兄弟のために種を起こすように、とあります。25ところが我々のところに七人の兄弟がいまして、その長男が結婚してから亡くなったのですが、種を残さず、妻を自分の兄弟にゆだねました。26次男も三男も、結局七人とも同様でした。27みんなの後で、その女も死にました。28では、復活に際して彼女はこの七人の誰の女になるのでしょうか。みんなが彼女を持ったのですから」。
ルカ20
27復活はないと言っている何人かのサドカイ派が進み出て、彼に問うて28言った、「先生、モーセが我々のために書いているのですが、もしもある人の兄弟が妻を持っていて、子どもがないのに死んだら、その兄弟がその女を取り、自分の兄弟のために種を起こすように、とあります。29ところで、七人の兄弟がいました。長男がある女を取り、子供なしに死にましまた。30そして次男も、31また三男も彼女を取り、七人とも同様にして、子どもを残さず死にした。32後に女もまた死にました。33ではこの女は、復活の時に、彼らのうちの誰の女になるのでしょうか。七人とも彼女を女として持ったのですから」。
サドカイ派が「復活はない」と主張していたことは、マルコだけではなく、ヨセフスも指摘している。「サドカイ派は、生命の持続、ゲヘナにおける賞罰を否定している」(『古代史』2・165)。
ただし、「復活」とは「死人の甦り」の意味なのか「死後の生命の持続」を意味しているのかはっきりしない。
イエスの時代より少し下がるが、エルサレム・タルムッドのサンヘドリン90bには、「パリサイ派のラビ・ガマリエル二世にサドカイ派の人物が質問して、死人の復活と言うことが聖書のどの個所から証明されるか、と質問したことが記録されているそうだ。(「訳と註」p383参照)
マタイもルカもマルコの「復活」論争をほぼそのまま写していることからしても、当時のサドカイ派が死者の復活に対して、マルコにあるような仕方で論陣を張っていたことも確かなことであろう。
マルコの「彼の元に来る」をマタイとルカは、「進み出て」としている。
敵対するはずのサドカイ派ですらイエスに近づくには、キリスト様にふさわしく「進み出て」行く必要がある、というのだろう。
イエスの神格化が進んでいる。
マルコが「モーセが書いている」としている旧約とは、申命記25:5-6の「義兄弟結婚」に関する律法のこと。ただし、ヘブライ語原文とも七十人訳とも一致しない。
マルコの文は、その趣旨を自分の言い方で表現したもの。
マタイは、マルコの「モーセが書いている」を「モーセが言った」と書き変えている。
田川先生は「もしかしたらマタイはモーセ五書はモーセが書いたのではなく、モーセが伝えたことをほかの人たちが書いた、と思っている?まさか当時のユダヤ人がそんなことは考えない?」と註解している。(『訳と註』p384)
「書いている」と言うより、「言っている」と言う方が、対象に対する個人的思い入れが強く、客観性が弱くなる。
「聖書に書いてある」として言及するよりも、「イエスが言っている」として言及する方がイエスに対する神格化が強い人の発言のように思える。
マタイは後半の付加伝承に関しても、旧約に言及する際、「神によって言われている」と表現しており、マルコは「モーセの書で…読んでいないのか」とある。
マルコよりもマタイの方が旧約に対する絶対的信仰が強いように思える。
ただしマルコは元伝承では「我々のために」という句を付加しているし、付加伝承では「神が彼(モーセ)にどのように言っているか」という句も付加しているので、少なくてもトーラー(モーセ五書)が神からの書物であるとする信仰に関しては大差ないのかもしれない。
あるいはマルコにおけるイエスのロギアは単に伝承の言葉をそのまま写しているだけなのかもしれない。
マルコの19「その兄弟がその女を取り」(labE ho adelphos autou tEn gunaika)をマタイは24「その兄弟が彼の妻と姻戚関係になり」(epigambreusei ho adelphos autou tEn gunaika autou)と動詞を変えている。
マルコの「その女を取る」という表現は単に「結婚する」「めとる」という意味ではない。
「自分の兄弟のために種を起こす」とあるように「義兄弟結婚」律法を意識して、後継ぎの子孫を設けるという趣旨。
その意味では、次節の20「長男がある女を取った」「次男が彼女を取り」という表現は単に「結婚する」「妻にする」という意味であり、同じ表現であるが、前節の19「その女を取り」とは微妙に異なる意味を持っている。
マタイがマルコの「その女を取る」という表現を「その女と姻戚関係になり」と書き変えたのは、「義兄弟結婚」のユダヤ教律法を意識してのことだろう。
「女を取る」と表現すると「結婚する」「妻にする」という意味に解されるが、「義兄弟結婚」は社会的な意味で「その男の妻という身分になる」という意味ではない。
単に「性関係を持って、その女に兄弟のために子孫を残す」という意味であるから、「姻戚関係になる」という動詞を用いたのであろう。
マタイは七十人訳創世記38:8に出て来る「姻戚関係になる」(gmbreuO)という動詞に、接頭語epi-を付けて強調し、旧約に由来するユダヤ人独特の術語表現であることを示してくれた。
ルカはマルコをそのまま写し、「その兄弟がその女を取り」としている。
ギリシャ語人間のルカは、マタイとは異なり、ユダヤ教独自の表現には拘らなかったのだろう。
「長男」に関してマルコの20「死んだ」(apothnEskO=die off)をマタイは25「亡くなった」(teleutaO=come to a finishing)と上品な表現に書き変えてくれている。
ところが、「女」に関してはマルコと同じく「死んだ」(apothnEskO)としている。
マタイにとって「男」は「亡くなる」存在であるが、「女」は「死ぬ」だけの存在のようだ。
ルカはマルコをそのまま写し、「長男」に関しても「女」に関しても、「死んだ」(apothnEskO=die off)としている。
マルコは23「復活の時に、もしも復活したら…」(en tE oun anastasei hotan anastOsin)と無駄な重複表現をしているが、カイサリア系の読み。
シナイ、Bほか多数の写本は、後半の「もしも復活したら」(hotan anastOsin)を削除している。
正文批判上、入れる読みが原文であるのは明らか。
削る読みを採用しているのは、マタイが削っているので、マルコにマタイを読み込んだものだろう。
ルカも「もしも復活したら」を削除している。
NWTも削除している読みを採用している。
マルコは何故無駄と思える重複表現にしたのだろうか。
「復活の時に」(en tE oun anastasei)直訳「復活する時において」とすると「復活」を事実とする前提での表現になるので、復活はないとしているサドカイ派の発言としてはふさわしくない。
それで「もしも復活したら」(hotan anastOsin)という句を付加して、復活を前提としているわけではない、という表現を付加したのだろう。
現実には起こり得ない想定のサドカイ派の形而上学的復活論議に対して、イエスは次のように答える。
マルコ12
24イエスは彼らに言った、「だからあなた方は間違うんじゃないのですか。書物も御存じないし、神の力も御存じない。25死人の中から復活する時は、めとったりめとられたりしないものです。そうではなく、天にいる天使のようになる。
マタイ22
29イエスは答えて彼らに言った、「あなた方は間違っておいでだ。書物も御存じないし、神の力も御存じない。30復活においては、めとったりめとられたりしないものです。そうではなく天にいる天使のようになる。
ルカ20
34そしてイエスは彼らに言った、「この世の子らはめとったり、めとられたりするけれども、35かの世と死人からの復活とにふさわしいとされた者は、めとったりめとられたりしないものです。36また彼らは天使と等しい者となるので、もはやそれ以上死ぬことはありえません。復活の子なのですから、神の子となるのです。
マルコの「だからあなた方は間違うんじゃないですか」の「だから」(dia touto)を後に続く分詞句の「書物も知らないし、神も知らない」にかかると説明する学者がいる。(”The Gospel According to St. Mark”, by Vincent Taylor)
NWTはその説に従がったのだろうか、「あなた方が聖書も神の力も知らないこと、これがあなた方が間違っている理由ではありませんか」と訳している。
単に聖書霊感説に従がって、マタイとの整合性を取るために、後の句にかけただけなのかもしれない。
しかし、「だから」(dia touto)という表現はdia(~を通して)以下に続く名詞節(touto)は、という構造であり、前の文を受けて、その論理的帰結を述べる構文である。
文脈からは、サドカイ派の論議を受けているので、そのような屁理屈の論議をする、だからあなた方は間違うんじゃないですか、という趣旨になる。
マタイはマルコの「だから」(dia touto)を削除した。
「だから」では文の繋がりが悪いと思ったのか、deという指小辞で主語の交代を示し、別の文として始めている。
ルカは、マルコの「だからあなた方は間違うんじゃないですか。書物も御存じないし、神の力も御存じない」という文そのものを削除した。
マルコの「死人の中から復活する時」(hotan gar ek nekrOn anastOsin)に対してマタイは「復活においては」(peri de tEs anastaseOs)と「死人の中から」(ek nekrOn)という句を削除している。
新約では「復活する」を意味する動詞が二つある。
一つは(anistEmi)という動詞で「(寝ている、横たわっている、座っているのを)起こす、立ち上がらせる」という意味。あるいは、自動詞で「起きる」という意味にも用いられた。
受動態では「復活する」という意味では用いられず、「復活する」という意味で使う時は常に自動詞で用いる。
もう一つは、(egeirO)という「眠っているのを目覚めさせる」という意味の他動詞で、「復活する」という意味でも用いられた。
anistEmiという動詞を「復活する」という意味で用いたとしても、自動詞であるから、原則として自らの力で「起きる」「立ち上がる」という自身に内在する力、エネルギーの働きにより復活が可能となる、というイメージが伴なう。
一方egeirOの方は他動詞であるから、能動で用いるなら「復活する」と言っても、「神が甦らせる」という意味になるし、受動にして自動詞的に「甦る」という趣旨で用いても、外部からの力(force)、つまり「神によって甦らされる」というイメージになる。
この二つの動詞は、混同されて使われており、意味の区別なくどちらも「復活する」という意味で同義に用いられるようになっていた。
マルコは、egeirOを「世の人々の終末における復活」や「イエス以外の人物(洗礼者ヨハネ)の復活」に関しては用いるが、イエスに関して原則として自分の編集句では用いない。
マルコは4:39でイエスに関してegeirOを用いているが、「復活する」という意味ではなく、「起き上がる」という意味であることを示そうとしたのだろう。
単にegeirOではなく、接頭語を付けdiaegeirOとして区別している。
接頭語付きのdiaegeirOは新約全体でもマルコのこの個所だけ。
イエスの復活に関してマルコは、自動詞のanistEmiを用いている。(8:31、9:10、9:31、10:34、12:25)
ただし、受難復活物語の個所で伝承をそのまま写している場合には、他動詞のegeirOを受動で用いている。(14:28,16:6)
逆に14章以後でanistEmiが復活の意味で使われている箇所はない。(14:57,60)
14章以前と同じく「立つ」「起きる」「立ち上がる」という意味で用いている。(1:35、2:14、3:26、5:42、7:24、9:9、9:27、10:1,)
マルコがanistEmiとegeirOを対象により、使い分けていることを考慮すると、「復活(anastasei)の時に、もしも復活したら(anastEsetai)、彼らのうちの誰の女になるのでしょうか」というサドカイ派の質問に対してイエスが「だからあなた方は間違うんじゃないですか。書物も神の力も知らない」と言った意味が理解できる。
この「復活」(anastasis)とは、一般の人たちの「甦り」(egersis)のことではなく、イエス自身の「復活」(anastasis)に対する答えとして述べているというのであろう。
マルコとしては、イエスの復活(anastasis)と一般の人たちの「甦り」(egersis)とは異なるものであると考えている。それにもかかわらず、サドカイ派は「復活」を「甦り」と同列に置いている。
「だから」、あなた方は間違うのであり、トーラー(モーセ五書)も神の力も知らない、と言いたいのであろう。
とすれば、「死人の中から復活する(anastasei)時は、めとったりめとられたりしないものです。そうではなく、天にいる天使のようになる」というイエスの言葉の意味もはっきりする。
この「復活」(anastasis)の時とは、一般の人たちの「甦り」(egersis)の時のことを指しているのではなく、イエスが「死人の中から復活する時」のことを言っているのであろう。
つまり、マルコとしてはイエスが「復活」する時には、「天にいる天使のようになるのであるから、一般の人たちの「甦り」の時とは異なり、「めとったりめとられたり」しないものだ、と言いたいのであろう。
それに対してパウロは「復活」の意味では、他動詞のegeirOだけを用いており、自動詞のanistEmiを用いることはない。
パウロとしては、「復活」はイエスの場合でも、「神が復活させる」ものであり、受動形を自動詞的な意味で用いるとしても、「神のよって復活させられる」ものであり、自らの内在する力で復活が可能になることはない、と考えているからであろう。
マタイは、マルコがイエスの復活に関して使っている自動詞のanistEmiを並行個所でも用いることはせず、すべて他動詞のegeirOを受身にして用いている。(8:31→17:23egeirthesetai、9:31→17:9egerthE、10:34→20:19egerthEstai)
この「復活」論争に関してマタイは、マルコの「復活」(anistEmi)伝承に関しても、「甦り」(egeirO)伝承に関しても、どちらもanistEmiという動詞から派生した抽象名詞の「復活」(anastasis)という語を用いている。
マタイはイエスの「復活」と一般の人々の「甦り」とを区別しておらず、キリスト信者はイエスと同じようにすべて神よって復活させられ、「復活においては」誰でもめとったりめとられたりせず、誰もが「天にいる天使のようになる」と考えているのであろう。
ルカもマタイと同じくイエスの「復活」と一般の人々「甦り」を区別していない。
しかし、マルコの「めとったりめとられたりしない」という文の中から「死人の中から復活する時には」という句を削り、「かの世と死人からの復活とにふさわしいとされた者は」という句を付加している。
その結果、「めとったりめとられたりしない」者は、「かの世」と「復活」にふさわしいとされた者だけであり、「めとったりめとられたりする」この世の子らは、「かの世」にも「復活」にもふさわしくない者となってしまった。
さらにマルコの「天の天使のようになる」を「天使と等しい者となる」に変えただけでなく、自分の注釈をも付加している。
「かの世」と「死人の中からの復活」にふさわしいとされた者は、「天使と等しい者」とされるので、復活の権利を得て死んだ者は復活したら二度と死ぬことはない、とルカのキリスト教を展開しているのである。
さらに「復活」の子はイエスと同じように「神の子」となるというルカのキリスト教をイエスが語ったことになってしまっている。
複数の夫と結婚した妻が「復活」したら誰の妻となるのかというサドカイ派の質問に対して、マルコのイエスは、「死人の中から復活する時」には、めとったりめとられたりしない、天にいる天使のようになる」と言っているだけである。
マタイもルカも、マルコの文を削ったり、余計な文を付加することにより、「復活」に関する自分たちのキリスト教を展開させているのである。
マルコでは「復活」の元伝承に続いて、「甦り」の付加伝承が続いており、これまでの「復活」伝承と赴きを異としている。
マルコ12
26死人が甦るということについては、あなた方はモーセの書で、柴についての個所で、神が彼にどのように言っているのか、お読みになっていないのですか、我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、とあるのを。27神は死人の神ではなく、生ける者の神なのです。あなた方はひどく間違っておいでだ」。
マタイ22
31死人たちの復活については、あなた方は、神によって言われていることをお読みになっていないのですか。32我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、とあるのを。神は死人の神ではなく、生ける者の神なのです」。33そして群衆は彼の教えに驚愕した。
ルカ20
37死人が甦るということは、モーセもまた柴についての個所で、明らかにしています。すなわち主を、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、と呼んでいます。38神は死人の神ではなく、生ける者の神なのです。誰もがみな神によって生きているのですから」。39何人かの律法学者が答えて言った、「先生、よくおっしゃいました」。 40こうして、彼らはもはや彼に何も敢えて問うことはしなくなった。
それまでのサドカイ派に対する自分の言葉による直接的な返答とは異なり、イエスは旧約の文言から「死人が甦る」(tOn nekrOn hoti egeirontai直訳は「甦るところの死人」)ことに関する正当性を示そうとする。
この付加伝承は、旧約から「復活」の正当性を見出し得る文言を探して、弁証しようとするものであり、律法学者による屁理屈的手法である。
おそらく律法学者のユダヤ人キリスト信者の手により創作され、初期キリスト教会により伝承化されたものであると思われる。
おそらく元伝承と付加伝承が合成されて一つの伝承として、マルコのところに届いたのだろう。
マタイもルカも、付加伝承を含めて一つの伝承として扱っている。
二人には付加伝承が単独伝承であることを示す要素はなく、マルコを写しているのだから、26-27節はかなり早い時期に付加されたものと思われる。
マルコの「死人が甦る」(tOn nekrOn hoti egeirontai)ことについてに対し、マタイは「死人たちの復活」(peri de tEs anastaseOs tOn nekrOn)についてと変えている。マタイにとっては「甦る」ことも「復活」することも同義なのだろう。
ルカはマルコの表現を踏襲しつつ、「死人が甦る」(hoti de egeirontai hoi nekrOn)というこという表現にしているが、「復活」と「甦り」を区別している様子はない。
むしろ、後半に余計な付加をしていることにより、「復活」に関するルカのキリスト教を展開させている。
マルコの「モーセの書で、柴についての箇所で、神が彼にどのように言っているか、お読みになっていないのですか」をマタイは単に「神によって言われていることをお読みになっていないのですか」に省略した。
ルカは「モーセもまた柴についての個所で、明らかにしています」とマルコの文を踏襲しつつ、簡潔な表現に直している。
「柴についての箇所」とは出エジプト記三章のはじめの個所を指し、引用は、3:6。
一応七十人訳と一致しているが、マルコは三度繰り返される「神」に定冠詞を付けている。
七十人訳は写本によっては付けていないものもある。
死んだ過去の高祖の名前を出して「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だから、神は死者の神ではなく、生ける者の神だ、というのは論理としては成立していない。
律法学者の屁理屈に過ぎないが、神がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と今でも「彼らの神」と言われているのだから、彼らは神の下で生きているはずだ、という理屈。
この理屈は、初期キリスト教の発明ではなく、すでにユダヤ教内部で流布していたものと思われる。
例えば、第四マカバイ書16:25「神のゆえに死ぬ者は、アブラハム、イサク、ヤコブ及びすべての族長たちのように神にあって生きる(zEn tOi theOi)ということを知っていたのである」とあり、イエスの時代のユダヤ人では常識的なことだったのだろう。
マルコでは「あなた方はひどく間違っておいでだ」とサドカイ派に告げ、「復活」伝承は終わっている。
マタイは、マルコのその句を削除し、「そして群衆は彼の教えに驚愕した」という結びの編集句を付加している。
ルカは、マタイと同じくマルコの結びの文を削除し、「誰もがみな神によって生きるのですから」(pantes gar auto zOsin)というルカのキリスト教理を付加した。
「神によって」は主語の「神」(theos)を受けた男性単数与格の代名詞(autO)。
NWTは「彼らは皆、[神]にとっては生きているのですから」と訳しているが、前置詞がついているわけではなく、直訳は「みな神に生きる」という意味のはっきりしない表現。
「神に対して生きる」あるいは、「神によって生きる」とも、「神において生きる」とも訳せるが、「神にとっては生きている」という訳はWTの解釈を読み込んだもの。
田川訳の「神によって生きる」は与格を受身の行為者と解し、「神によって生かされる」という趣旨に解したもの。
「主に対して生きる」と解するのはパウロの与格表現との共通を意識したもの。
ローマ6:10「神に生きる」(zE tO theO)、14:8「主に生きる」(zOmen tO kuriO)、ガラ2:19「神に生きる」(theO zEsO )などの「生きる」という動詞と単なる与格を組み合わせて曖昧な意味で用いている。
パウロと一時期行動を共にしたのだから、パウロの口癖表現を真似したのだろうという解釈であるが、「神に対して生きるのであるから、神は死人の神ではなく生ける者の神である」というのは論理の整合性に乏しい。
ルカのキリスト教によれば、神に生きている者とされた者(=ルカのキリスト教信者となる者)は「生ける者の神」を持つことになり、死んでも復活の子として甦り、天使と等しい者となり、もはや死ぬことがない者となるようである。
マタイのイエスの復活論議を聞いた「群衆」はイエスの教えに驚愕するのであるが、ルカのイエス復活擁護論を聞いた「律法学者たち」は、「先生、よくおっしゃいました」と賛美する。
ルカにとって、律法学者はすべてパリサイ派である。当時のパリサイ派はサドカイ派と異なり「復活」を支持し、熱心に信仰していた。
ルカもそのことは知っていたらしく、使徒23:6-8でパリサイ派とサドカイ派の教理の違いを指摘している。
ここでも、知っているところを見せようとして、マルコにはない一言書き加えたのであろう。
そのおかげで、サドカイ派との「復活」論争であったのに、「復活」擁護の律法学者の幾人かがイエス擁護に回ったという構図になった。
そして「復活」論争における結びの編集句として「そしてもはや誰も敢えて彼に問うことはしなくなった」という句を置いている。
この句は、マルコでは次段の「愛の戒めについて」の結びの句である。
マルコとマタイでは、この後に「愛の戒めについて」の律法学者との問答が続いている。
ルカは、10章で「良きサマリア人の譬え」とともに「愛の戒めについて」の問答を既に扱っている。
それで、「復活」論争の結びとして採用することにしたのであろう。
ルカが前節で律法学者を登場させたのも、「愛の戒めについて」の問答が律法学者たちと交わされた問答だったことに影響されたのかもしれない。
マタイやルカがマルコの文の一部を削除したり、一部に付加したしながら、それぞれのキリスト教を展開させていることがよく理解できる「復活」論争物語に仕上がっている。
マルコを中心に福音書を分析していくなら、それぞれの構造が理解できるが、マタイを中心に据えるなら、共観福音書の全体像はまるで見えなくなる。
WTは、マタイ→ルカ→マルコ→ヨハネの順で福音書が書かれたと教えている。
マタイを最初に書かれた福音書と教えるキリスト教には聖書も真のイエスの姿も見えて来ないのではないかと思える。