マルコ11:12-26 <いちじくの木の呪いと神殿商人に対する攻撃>

 並行マタイ21:12-22、ルカ19:45-48 参照マタイ6:14-16、ヨハネ2:13-22

 

マルコ11 (田川訳)

12そして翌日、彼らがベタニアから出て来た時、彼は腹が減っていた13そして葉をつけたいちじくの木を遠くから見て、何かその木に見つかるかと来てみた。そして木のところに来ると、葉っぱ以外には何も見つからなかった。いちじくの季節ではなかったからである。14そして答えて木に言った、「以後永遠に、誰もお前から実を食べる者はいないだろう」。そして彼の弟子たちは聞いていた。

15そしてエルサレムに来る。そして神殿に入り神殿で売り買いする者たちを追い出しはじめた。そして両替人の机や鳩を売る者の椅子をひっくり返した。16そして、人が器物を持って神殿を通るのを許さなかった17そして教えて、彼ら言った、「我が家はすべての民族のための祈りの家と呼ばれるべきである、と書いてあるではないかあなた達はそれを強盗の巣にしてしまった」。18そして祭司長律法学者がこれを聞いて、どのようにして彼を滅ぼそうかと探った。彼のことを恐れたからである。群衆がみな彼の教えに驚嘆していたからである19そして夕方になった時、町の外に出て行った

20そして通りすがりに、いちじくの木が根から枯れているのを見た。21そしてペテロが思い出して、彼に言う、「ラビ、ごらんなさい、あなたが呪われたいちじくが枯れています」。22答えてイエスが彼らに言う、「神の信を持て23アメーン、あなた方に言う。もしも誰かがこの山に、動いて海の中にとびこめ、と言って、心で疑わず、自分が言うことは実現するのだと信じるならば、その者にはそのようになるであろう。24この故にあなた方に言う、あなた方が祈り、願うものはすべてすでに得たと信ぜよ。そうすればあなた方にはそのようになるであろう。25そして、立って祈る時は、もしも誰かに対して何かがあれば、許すがよい。そうすれば天にいますあなた方の父もまたあなた方の過誤をあなた方に対して許して下さるだろう」。26―――

 

マタイ21

12そしてイエスは神殿に入った。そして神殿で売り買いする者たちをみな追い出した。そして両替人の机をひっくり返し、また鳩を売る者の椅子もひっくり返した。13そして彼らに言う、「我が家は祈りの家と呼ばれるべきである、と書かれてある。あなた達はそれを強盗の巣にしている」。14そして神殿で、彼のもとに盲人や足なえが進み出た。そして彼らを癒した15た祭司長や律法学者が彼のなした驚異を見て、また神殿で「ダヴィデの子にホサナ」。と叫んで言っている子どもたちを見て、憤り、16彼に言った、「この者たちが何と言っているか、聞いておいでか」。イエスは彼らに言う、「ええ。汝は幼児や乳飲み子の口から讃美の言葉を整えさせるであろうとあるのをお読みになったことがないのですか」。17そして彼らを残して町から外に出、ベタニアに行って、そこに泊まった。

18町に帰る時に、彼は腹が減った。19そして道に一本のいちじくの木を見つけて、そこに来てみた。そしてその木には葉っぱがあっただけで、ほかには何も見つからなかった。そしてその木に言う、「以後永遠にお前から実が生じることがないように」。そしてそのちじくの木は即座に枯れた

20そして弟子たちが見て、驚き、言った、「どうしていちじくが即座に枯れたのですか」。21答えてイエスが彼らに言った、「アメーン、あなた方に言う。もしもあなた方がを持ち、疑わなければ、このいちじくのことができるだけでなく、この山に、動いて海の中にとびこめ、と言えば、そのようになるだろう。22また祈りにおいてあなた方が信じて願うことはすべて、与えられるであろう」。

 

ルカ19

45そして神殿に入り、ものを売っている者たちを追い出しはじめて、46彼らに言った、「我が家は祈りの家である、と書いてあるではないか。あなた達はそれを強盗の巣にしてしまった」。47そして彼は毎日神殿で教えた。だが、祭司長、律法学者が彼を滅ぼそうと探っていた。また民の第一の者たちも。48そして、どうしていいか、わからなかった。すべての民が好ん彼の話を聞いていたからである。

 

参マタイ6

14もしも汝らが人々に対して過ちを赦すならば、天なる汝らの父も汝らの過ちを赦し給うだろう。15もしも汝らが人々に対して赦さなければ、汝らの父もまた汝らの過ちを赦し給わないであろう

 

参ヨハネ2

13そしてユダヤ人の過越(祭)が近かった。そしてイエスはエルサレムに上った。14そして神殿牛や羊や鳩を売る者、また両替する者が座っているのを見た。15そして縄で鞭を作り、みな神殿から追い出したまた羊や牛もそして両替人の小銭をぶちまけ、机をひっくり返した。16そして鳩を売る者に言った、「こんなものはここから持って出ろ。我が父の家を商売の家にするな」。17彼の弟子たちは、「汝の家の熱心が私を食いつくす」と書かれてあるのを思い出した18それでユダヤ人が答えて、彼に言った、「こういうことをやるからには、お前は我々にいったいどういう徴を見せることができるのか」。イエスが答えて彼らに言った、「この神殿を壊すがよいそうすれば三日でそれを建ててさしあげよう」。20それでユダヤ人が言った、「この神殿は四十六年かかって建てられたのだ。それをお前は三日で建てると?」。21彼は自分の身体の神殿のことを言ったのである。22それで、彼が死人のうちより甦った時に、彼の弟子たちは彼がこのことを言ったのを思い出した。そして書物とイエスが言った言葉とを信じた。

 

 

 

マルコ11 (NWT)

12 次の日,彼らがベタニヤから出て来た時,[イエス]は飢えを覚えられた。13 そして,遠くから,葉をつけたいちじくの木を見つけ,もしやそれに何か見いだせないかと見に行かれた。しかし,そこに来てみると,葉のほかには何も見あたらなかった。いちじくの季節ではなかったのである。14 そこで[イエス]はそれに応じて,「もうお前からはだれも永久に実を食べないように」とその[木]に言われた。それを弟子たちは聴いていた。

15 さて,彼らはエルサレムに来た。そこで[イエス]は神殿の中に入り,神殿で売り買いしていた者たちを追い出し始め,両替屋の台と,はとを売っている者たちの腰掛けを倒された。16 そして,神殿の中を通って器物を運ぶことをだれにも許そうとせず,17 「『わたしの家はあらゆる国民のための祈りの家と呼ばれるであろう』と書いてあるではありませんか。それなのに,あなた方はそれを強盗の洞くつとしました」と言って教えてゆかれた。18 すると,祭司長と書士たちがそれを聞いた。そして,どうしたら彼を滅ぼせるかを探り求めるようになった。彼を恐れていたのである。それは,群衆がみな彼の教えに終始驚き入っていたからである。

19 こうして日暮れになると,彼らは市から出て行くのであった20 しかし,朝早くそばを通っていた時,彼らはあのいちじくの木がすでに根もとから枯れているのを見た。21 それでペテロが,思い出して彼に言った,「ラビ,ご覧ください,あなたがのろわれたいちじくの木は枯れてしまいました」。22 すると,イエスは答えて彼らに言われた,「に信仰を持ちなさい23 あなた方に真実に言いますが,だれでも,この山に向かって,『持ち上がって海に入れ』と言って,心の中で疑わず,自分の言うことは起きるのだという信仰があるなら,その人にはその通りになるのです。24 このゆえにあなた方に言いますが,あなた方が祈りまた求めることすべては,それをすでに受けたのだという信仰を持ちなさい。そうすれば,あなた方はそれを持つことになります。25 そして,あなた方が立って祈るときには,どんなことでも人に対するうらみごとを許しなさい。天におられるあなた方のもあなた方の罪過を許してくださるようにするためです」。26 ――

 

マタイ21

12 それからイエスは神殿の中に入り,神殿で売り買いしていた者たちをみな追い出し,両替屋の台と,はとを売っていた者たちの腰掛けを倒された。13 そしてこう言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれるであろう』と書いてあるのに,あなた方はそれを強盗の洞くつとしている」。14 また,神殿の中で,盲人や足なえの人たちがやって来たので,その人たちをお治しになった。

15 祭司長と書士たちは,彼の行なった驚嘆すべき事柄,そして,神殿の中で,「救いたまえ,ダビデのを!」と叫んでいる少年たちを見て憤慨し,16 「これらの者たちの言っていることが聞こえるか」と彼に言った。イエスは彼らに言われた,「はい。あなた方は,『みどりごや乳飲み子の口から,あなたは賛美を備えられた』とあるのを読んだことがないのですか」。17 そうして,彼らをあとに残したまま,市の外に出てベタニヤに行きそこでその夜を過ごされた。

18 朝早く市に戻って行く途中,[イエス]は飢えを覚えられた。19 そして,道路のそばにある一本のいちじくの木を見つけて,そのもとに行かれたが,それにはただ葉のほかには何も見あたらなかった。それで,「もうお前からは永久に実が出ないように」と言われた。すると,そのいちじくの木はたちどころに枯れてしまった。20 しかし,弟子たちはこれを見て不思議に思い,「いちじくの木がたちどころに枯れたのはどうしてですか」と言った。21 イエスは答えて言われた,「あなた方に真実に言いますが,ただ信仰を抱いて疑うことさえないなら,あなた方は,わたしがこのいちじくの木に行なったようなことができるだけでなく,この山に,『持ち上がって海に落ちよ』と言ったとしても,そのこともまた起きるのです。22 そしてあなた方は,信仰を抱いて祈り求めるものすべてを受けるのです」。

 

ルカ19

45 それから[イエス]は神殿の中に入り,物を売っている人たちを追い出し始め,46 彼らにこう言われた。「『そしてわたしの家は祈りの家となるであろう』と書いてあるのに,あなた方はそれを強盗の洞くつとした」。

47 さらにまた,[イエス]は神殿で毎日教えるようになった。しかし,祭司長と書士たち,および民の主立った者たちは,彼を滅ぼそうとうかがっていた。48 それでも彼らは,なすべきうまい策を見いだせないでいた。民はみな,彼[の語ること]を聞こうとして,ずっと付きまとっていたからである

 

参マタイ6

14 「あなた方が人の罪過を許すなら,あなた方の天のもあなた方を許してくださるのです。15 けれども,あなた方が人の罪過を許さないなら,あなた方のもあなた方の罪過を許されないでしょう。

 

参ヨハネ2

13 さて,ユダヤ人の過ぎ越しが近かったので,イエスはエルサレムに上って行かれた。14 そして,神殿で,牛や羊やはとを売る者たちと,席に着いている両替人たちをご覧になった。15 それで,縄でむちを作ると,それらの者をみな羊や牛もろとも神殿から追い出し,両替屋の硬貨をまき散らし,彼らの台を倒された。16 そして,はとを売っている者たちに言われた,「これらの物をここから持って行きなさい! わたしのの家を売り買いの家とするのはやめなさい!」17 弟子たちは,「あなたの家に対する熱心がわたしを食い尽くすであろう」と書いてあるのを思い出した。

18 そのため,これに答えてユダヤ人たちは彼に言った,「こうした事をするからには,わたしたちにどんなしるしを見せるというのか」。19 イエスは答えて彼らに言われた,「この神殿を壊してみなさい。そうしたら,わたしは三日でそれを立てます」。20 それで,ユダヤ人たちは言った,「この神殿は四十六年もかけて建てられたのに,それを三日で立てるというのか」。21 しかし,[イエス]はご自分の体の神殿について語っておられたのであった。22 だが,彼が死人の中からよみがえらされた時になって,弟子たちは,彼が常々こう言っておられたのを思い出した。そして,聖書と,イエスの言われたことばとを信じたのである。

 

 

 

マルコの物語は、いわゆるサンドイッチ構造となっている。

 

「いちじくの木」に関する預言と成就の間に通称「宮潔め」と題される「神殿商人たちに対する攻撃」伝承を挟んで一つの物語を構成している。

それに本来この物語とは無関係のロギアが「祈る」を鍵言葉として25節に結合されている。

 

マタイは、マルコのサンドイッチ構造を無視し、「宮潔め」を最初に持って来て、「いちじくの木の呪い」を一つの物語にまとめている。

マルコが鍵言葉を介して用いた伝承は、主の祈りの中組み込んでいる。

 

「ベトパゲ」という名前にはヘブライ語で「いちじくの家」という意味であり、「いちじくの木の呪い」の元伝承はベトパゲ地方に伝わる民間伝承だったものだろう。

それにキリストの奇跡話が組み込まれ、キリスト伝承として流布されたものだろう。

 

ただし、いわゆる「宮潔め」を中心とするサンドイッチ構造に仕立てたのはマルコであり、「いちじくの木の呪い」と「宮潔め」との間に本来の関係性はなかったものと思われる。

 

ルカは、「いちじくの木の呪い」話を削除し、「宮潔め」だけを採用した。

 

ヨハネにも「いちじくの木の呪い」伝承は登場しないが、マルコとは異なる「宮潔め」伝承を登場させている。

 

 

「いちじくの木の呪い」伝承の前半となる予言部を検討してみる。

 

マルコ11

12そして翌日、彼らがベタニアから出て来た時、彼は腹が減っていた13そして葉をつけたいちじくの木を遠くから見て、何かその木に見つかるかと来てみた。そして木のところに来ると、葉っぱ以外には何も見つからなかった。いちじくの季節ではなかったからである。14そして答えて木に言った、「以後永遠に、誰もお前から実を食べる者はいないだろう」。そして彼の弟子たちは聞いていた。

 

マタイ21

17そして彼らを残して町から外に出、ベタニアに行って、そこに泊まった。18町に帰る時に、彼は腹が減った。19して道に一本のいちじくの木を見つけて、そこに来てみた。そしてその木には葉っぱがあっただけで、ほかには何も見つからなかった。そしてその木に言う、「以後永遠にお前から実が生じることがないように」。そしてそのちじくの木は即座に枯れた

 

 

マルコの「そして翌日」とは、昨日の「エルサレム入城」の翌日、ということであるが、これ以後のマルコの話も、順に次の日の出来事という設定に構成されているわけではない。

 

前段でも説明したが、入場の日から始めて「受難節の一週間」とみなすのは、ヨハネ12:1の「過越の六日前」という表現に合わせて、マルコの文章に適合させようとするものである。

 

後世のキリスト教では常識の読み方とされているが、四福音書はイエスに関する同じ出来事をそれぞれの著者の見方で補うように構成されている神の言葉であるという聖書霊感説信仰に基づくものである。

 

マルコ自身は、聖なる「受難週」の出来事として描いているのではなく、エルサレムにおけるイエス伝承をすべて11章以降にまとめて編集しているだけである。

 

 

マルコの「そして翌日、ベタニアから出て来た時に」に対して、マタイは「朝、町に帰る時に」。

「朝」(prOias)の字義的な意味は、「早くに」の意。

 

NWT「朝早く」と訳している。

字義的には、「時間が早い」という意味。

一日のうちの早い時間、という意味であるから、単に「朝」という意味になるだけで、この語自体に、「早朝」という意味があるわけではない。

 

マタイは、「宮潔め」の話を先に持って来て、マルコのサンドイッチ構造を無視し、「いちじくの呪い」伝承を一つの物語にまとめた。

 

マタイの「朝」は、マルコの後半部にある「呪いの成就」となる導入句が、「朝」(prOi)であるものを、マタイは一つの物語に構成する都合上、文法的に手直して、前半部の「呪いの予言」の導入句に流用したもの。

 

その結果、マルコではイエスが「いちじくを呪う」日と、実際に「枯れている」のを目撃するのが別の日の出来事であるのだが、マタイでは、一日の出来事となった。

 

マタイにおける「いちじくの呪い」は「即座に」、イエスの言葉が発せられると同時に、その場で成就し、枯れることとなった。

 

マタイによるイエスの奇跡能力のパワーアップ構造。

 

マルコではイエス一行が「ベタニアから出て来て」エルサレムに向かう途中での出来事という設定である。

 

それに対しマタイでは、イエスが十二使徒たちをエルサレムに残し、一人でベタニアに泊り、イエス一人が「朝、町に帰る時に」、つまり、翌朝、弟子たちの居るエルサレムに帰る時の出来事という設定となっている。

 

イエスがラザロの家があるベタニアを拠点としているのであれば、マタイのエルサレムに「帰る」という表現は奇妙である。

 

エルサレムに「行く」もしくは「出かける」というのでなければ、ベタニアを拠点とはみなしていないことになる。

 

つまり、マルコはベタニアを拠点としてエルサレム伝承を展開しているのに対し、マタイは「弟子たち」が拠点としていたエルサレムを拠点としてイエスが活動しているという設定で物語を展開させている。

 

マタイの「帰る」(epanagO)という動詞は、他動詞で「(元の状態に)もどす」という意味で使われる語。

しかしながら、事柄の状態を元に戻すという意味であり、人間が元いた場所に戻る、という意味ではない。

 

あくまでも他動詞であり、自動詞で「帰る」という意味はない。

ただし、七十人訳第二マカバイ9:2では「帰る」という意味で使われている。

最近の翻訳ではすべて「帰る」と訳されているが、本当は微妙。

 

ルター時代は「再び町に行った」と訳されており、現代でもクロスターマンは継承している。

 

ルカは、「宮潔め」伝承に「毎日神殿で教えた」という句を付加しており、イエスのエルサレム重視の姿勢とイエスの説教師、宣教者という役割を強調している。

 

 

マルコによれば、イエスは「腹が減っていた」のでいちじくの木に実がなっていないか探したのであるが、見つからなかったので、お前なんか枯れてしまえ、と言ったというのである。

 

季節外れに実を探し、結局見つからなかったから、枯れてしまえ、と言うのは、聖人であるキリストらしからぬ態度であるから、聖書から削除しようとする神学者までいるという。

 

 

マルコはイエスのエルサレム滞在を過越祭の時期とみなしているのだから、春分に近い時期となる。

その時期のいちじくの木に実がなっていないのは当然であろう。

 

本当のところは、腹が減ったから、葉の生い茂ったいちじくの木に行ってみたが、実が見つからなかった。

一つも生っていないとはけしからん、と洒落で怒って見せただけだったのかもしれない。

 

そんな逸話が、イエスを聖者として祭り上げるようになると、神の子がけしからんと言った木は枯れてしまった、という奇跡伝説に仕立てられたものかもしれない。

 

もっとも「いちじくの木の呪い」伝承は、もともとはイエスとは無関係の「ベトパゲ」という地名に由来する伝承であると思われる。

 

それを春の時期に設定したのはマルコであり、実際にはどの季節の話だったのかは不明。

 

ルカは、マルコの「いちじくの木の呪い」伝承は削除しており、「宮潔め」伝承だけを採用している。

 

そのため、ルカのイエスは「エルサレム入城」後、すぐに神殿に入り、物売りたちを追い出すという設定になった。

 

その「宮潔め」に関しても、三者三様である。

 

マルコ11

15そしてエルサレムに来る。そして神殿に入り神殿で売り買いする者たちを追い出しはじめた。そして両替人の机や鳩を売る者の椅子をひっくり返した。16そして、人が器物を持って神殿を通るのを許さなかった17そして教えて、彼ら言った、「我が家はすべての民族のための祈りの家と呼ばれるべきである、と書いてあるではないかあなた達はそれを強盗の巣にしてしまった」。18そして祭司長律法学者がこれを聞いて、どのようにして彼を滅ぼそうかと探った。彼のことを恐れたからである。群衆がみな彼の教えに驚嘆していたからである19そして夕方になった時、町の外に出て行った

 

マタイ21

12そしてイエスは神殿に入った。そして神殿で売り買いする者たちをみな追い出した。そして両替人の机をひっくり返し、また鳩を売る者の椅子もひっくり返した。13そして彼らに言う、「我が家は祈りの家と呼ばれるべきである、と書かれてある。あなた達はそれを強盗の巣にしている」。14そして神殿で、彼のもとに盲人や足なえが進み出た。そして彼らを癒した15た祭司長や律法学者が彼のなした驚異を見て、また神殿で「ダヴィデの子にホサナ」。と叫んで言っている子どもたちを見て、憤り、16彼に言った、「この者たちが何と言っているか、聞いておいでか」。イエスは彼らに言う、「ええ。汝は幼児や乳飲み子の口から讃美の言葉を整えさせるであろうとあるのをお読みになったことがないのですか」。17そして彼らを残して町から外に出、ベタニアに行って、そこに泊まった。

 

ルカ19

45そして神殿に入り、ものを売っている者たちを追い出しはじめて、46彼らに言った、「我が家は祈りの家である、と書いてあるではないか。あなた達はそれを強盗の巣にしてしまった」。47そして彼は毎日神殿で教えた。だが、祭司長、律法学者が彼を滅ぼそうと探っていた。また民の第一の者たちも。48そして、どうしていいか、わからなかった。すべての民が好ん彼の話を聞いていたからである。

 

 

マルコとマタイの「売り買いする者たち」(tous pOlountas kai agorazontas)に対して、ルカは「売る者たち」。

「買う者たち」(agorazontas)を削除している。

 

おそらくルカは、悪いのは「ものを売っている者たち」だけで、「買う者たち」には責任がないと思ったので、省いたのであろう。

 

「両替人」もマルコとマタイには登場するが、ルカには登場しない。

 

エルサレム神殿に献納する「硬貨」は、通常流通しているローマ帝国内の貨幣を用いることは許されていなかった。

 

ローマ帝国の貨幣は帝国の許可を得た都市が鋳造しており、皇帝の肖像が刻印されていた。

偶像を忌み嫌うユダヤ人は、ローマ帝国の貨幣を汚れたものとみなし、神殿に奉納することを許さなかったのである。

 

 

それで、神殿献納用には肖像の刻印のない特別貨幣を用意する必要があり、古代テュロスで鋳造された「シケル」と呼ばれる古いフェニキア地方の硬貨が用いられた。

 

「両替人」はローマ貨幣を神殿奉納用の「シケル」硬貨に交換した。

法外な手数料を取るのであるが、両替した神殿用のフェニキア貨幣は当然すべて神殿に献納されることになる。

 

「シケル」はまるまる神殿貴族のもとに戻るのであるから、坊主丸儲けどころか、祭司倍儲けである。

 

為替の差益で儲けるならまだしも、非流通硬貨を神殿域だけに流通する硬貨として独占販売して儲けて、売った硬貨も寄付として丸ごと回収するのであるから、「強盗の巣」と呼ばれても仕方あるまい。

 

エルサレム神殿に犠牲として捧げられる鳩や動物も律法の規定に従がう必要がある。

神殿に犠牲として捧げられる動物を各地から参詣するユダヤ人たちが全部自分たちで用意することは不可能であり、エルサレム市内で調達することになる。

 

それで、参詣者は必然的に神殿で必要とされるあらゆるものを用意できるエルサレムの神殿商人から買うことになり、その許認可権を有している神殿貴族の祭司たちの懐が潤うことになる。

 

イエスが神殿を「強盗の巣」と批判したのも、庶民感覚からすればまさしく的を射ている表現だったのであろう。

 

マルコは「器物を持って神殿を通るのを許さなかった」という慣習を指摘しているが、マタイもルカも削除している。

 

この句はミシュナの規定に対応しており、「神殿の山に入るのに、杖や履物や財布を持って行ってはいけない。また足にほこりをつけてもいけない。また近道するために利用してもいけない。もちろん唾などを吐いてはいけない」(ベラコート9:5)とある。

 

ヨセフスも「律法に定められたもの以外は、いかなる器物も神殿に持って入ることは許されない」と指摘している。(『アピオン駁論』2:106)

 

それゆえ、イエスは神殿を聖なる場所として保つために、両替人たちや神殿商人たちを追い出したのだ、と解説され、この物語は通常「宮潔め」と題される。

 

しかし、マルコよりもユダヤ教の伝統に忠実なはずのマタイは削除している

 

マルコの描くいわゆる「宮潔め」は、神殿の神聖さを維持する目的でなされたのではなさそうである。

 

器物を持って神殿境内を通るのを禁じたのも、神殿の世俗化を禁止し、神聖さを保つためと説明されるが、神殿境内を、近道として利用するのは、近隣の住民であるよりも、神殿商人やその関係者のはずである。

 

とすれば、イエスは神殿商人たちの机や台をひっくり返しただけでなく、器物にものを入れて運んでいた人たちも、同じ穴も狢であるとして神殿から追い出した、と考えるのが自然のように思われる。

 

WTもこの話を、イエスが世俗化した神殿を「聖域」として保とうする熱心さ故の行動であると解説する。

 

*** 洞‐1 682ページ 器具,器物 ***

イエスは地上におられた間に,二度にわたって神殿を商業主義の汚から清めた時に示したように,エホバの神殿の神聖さを維持しようとする熱心さを表明されました。(ヨハ 2:13‐25; マタ 21:12,13; マル 11:15‐17; ルカ 19:45,46)マルコは,二度目の神殿の清めに関して,イエスが「神殿の中を通って器物を運ぶことをだれにも許そうと」されなかったことを伝えています。(マル 11:16)これは,品物をエルサレムの他の場所へ運ぶ際の単なる近道として神殿の中庭を通ることにより,その中庭の神聖さを損なうといったことをイエスがだれにもお許しにならなかったということのようです。

 

WTが「二度目」と解説しているのは、ヨハネ2章の「宮潔め」伝承との整合性を図るための方便であり、マルコにおける「宮潔め」は一度しか登場しない。

 

マルコのイエスが「宮潔め」の行動に至った動機は何か。

 

WTは「商業主義の汚れ」と「神殿の神聖さの維持」を動機としているが、そうではなさそうである。

 

マルコはイエスが「強盗の巣」と批判しただけでなく、旧約を引用して、「我が家はすべての民族のために祈りの家と呼ばれるべきである」と答えたとしている。

 

イザヤ56:7の七十人訳そのままの引用。

 

エルサレム神殿は「すべての民族」のために「祈りの家」と呼ばれるべきであり、エルサレム神殿を「我が家」であると考えていたイエスにとってふさわしくない、というのである。

 

すべての「民族」(ethnos)は複数形であり、ユダヤ人以外の世界の諸民族をも念頭に置いている。

 

つまり、マルコのイエスは「神殿」をユダヤ教の神を崇拝するユダヤ人だけの聖域とするのはおかしい、と考えていたことになる。

 

イエス自身が実際にこの句を引用したかのかどうかはともかく、マルコとしては本当にユダヤ教の神殿が「神の家」であるというのであれば、神は全世界の神であるのだから、エルサレム神殿をユダヤ人だけの民族主義の拠点として保持するというのはおかしい、と考えていることになる。

 

これは、祭司を中心に政治経済宗教と密接に結びついていたエルサレム神殿を基盤としているユダヤ教の宗教体制に対する批判であり、ユダヤ人社会に対する批判である。

 

マルコのイエスに、ユダヤ教を前提に「エルサレム神殿」の「神聖さ」を維持しようとする意識はないものと思われる。

 

つまりマルコのイエスは「神殿の清め」のためではなく、イエスは神殿の経営を中心とする祭儀体制そのものに対して批判したのであり、その利権に安住している神殿貴族に対して攻撃したのであろう。

 

ただし、実際のイエスが神殿においてマルコが描くような行動をとったとは考え難い。

神殿には武装した神殿警察が常駐していた。神殿商人お抱えの用心棒もいたであろう。

 

何の用意もなく、神殿に入って行き、いきなり神殿商人や両替人を追い出し、机や台をひっくり返しはじめたら、すぐに神殿警察が飛んできたことであろう。

 

これだけの狼藉を働いた後で、「お前らは神の家を強盗の巣にしてしまった」などと大見栄を切ったとしたら、無傷で引き上げて来ることなど、不可能であろう。

 

すぐにつかまって、リンチに遭うか、神殿警察に逮捕されローマ当局に引き渡されるか、どちらかであろう。

 

いかにイエスが屈強な肉体を有していたとしても、一人でこれだけの商人相手に喧嘩できたはずもないし、弟子たちが事件に関与した形跡もない。

 

しかも、神殿の一切が破壊されることを望んでいたはずのイエスが、神殿の神聖さを保全するために行動するというのも、実際のイエスらしくない。

 

イエスがエルサレム神殿を「我が家」と呼び、ユダヤ教の祭儀体制を擁護する発言をしているのもイエスらしくない。

 

元は、イエスの神殿に対する批判的で拒否的な発言の伝承だったのであろう。

 

それを、初期キリスト教徒が旧約との統合を図るために敬虔主義の方向に修正し、流布させた伝承であると思われる。

 

イエスの発言が、「祭司長や律法学者」の神殿体制の中核をなす人たちから反感を買うのも理解できる。

自分たちが依存する基盤そのものを揺るがそうとするものであるから、イエスを恐れて、殺そうとするのも無理もない話であろう。

 

しかし、「群衆はイエスの教えに驚嘆していた」という。

「驚嘆していた」(ekplEssomai)の原義はek(外に)+plEsso(叩く)+mai(他動詞語尾)で「中から外に叩き出す」という意味。

 

比喩的な意味に転じられると、特に受身では、「中の感情が外に叩き出される」という趣旨で「驚かされる」、自動詞的に「驚く」という意味に使われる。

 

マルコは非人称的三人称で奇跡物語の結末にこの語を用いることが多く、主語が誰であるかを特定せず、「誰かが驚いた」というよりも、これは「驚くべきことだった」という趣旨になる。

 

この個所では、「祭司長、律法学者」と「群衆」が対比されており、一方はイエスを「滅ぼそう」としているのに対し、群衆はイエスを「驚くべきことである」として歓迎したという対比をなしている。

 

イエスは、敵である神殿主義信奉者たちとは一線を画すように、夕方になると、弟子たちをエルサレムに残し、立ち去り、「町の外に出て行く」のである。

 

「出て行った」にも三人称複数の読み(BAほかネストレ、NWT、KI)と三人称単数(カイサリア系西方系、シナイ、C)の読みがある。

 

複数形の読みを取ると、「弟子たち」も一緒にエルサレムを出てベタニアに泊った、ということになるが、単数形の読みを取ると、「弟子たち」はエルサレムに残り、イエス一人でエルサレムを出てベタニアに泊った、という趣旨になる。

 

単数形の読みの方が原文であろう。

 

マタイはマルコの並行個所に「彼らを残して」という句を付加しており、マルコの文が単数形の読みであったことを示唆している。

 

NWTとKIはマルコを三人称複数の読みと取り、「彼らは市から出て行くのであった」と訳しているが、マタイは「彼らをあとに残したまま、市から出て…」と訳している。

 

おかげで、マルコでは「弟子たち」はイエスと一緒にエルサレムを出て行くのであるから、エルサレムにいなかったのであるが、聖書霊感説を支持しながら、マタイでは「弟子たち」はエルサレムにいるという矛盾が生じることになった。

 

マタイがマルコに付加しているのは、それだけではない。14神殿で、彼のもとに盲人や足なえが進み出た。そして彼らを癒した」という奇跡的病気治癒話を付加している。

 

マタイはマルコの奇跡話は短く縮めたがるくせに、奇跡効果を増大させたり、マルコにはない奇跡的治療話を付加したがる。

 

マルコでは祭司長や律法学者は、イエスの神殿体制に対する批判発言を聞いて、イエスを殺そうとするのであるが、マタイでは彼らがイエスのなした「驚異」を見、子供たちが神殿でイエスに対する賛美を聞いて、憤るという設定に変更した。

 

そして神殿における子どもたちの賛美を旧約預言の成就という形式とした。

ここは七十人訳詩篇8:3そのままの引用。

 

マタイ特有のいわゆる定型引用は、単純に七十人訳からの引用とはせず、ヘブライ語本文との合成引用であったり、他の旧約との混成引用であることが多い。

 

とすればこの個所は、マタイ学派の仕事ではなく、マタイ個人の引用とも考えられる。

 

ルカでは、イエスを滅ぼそうとしていたのが、祭司長や律法学者だけでなく、「民の第一の者たち」も同様であったことを付加している。

 

「民の第一の者たち」(prOtosの複数形prOtoi)とは、政治的に最高の地位にあるものを呼ぶ語。たとえば、市の行政などの最高責任者が「市の第一者」と呼ばれた。

ここでは複数であるから、ルカとしてはエルサレム議会の構成員である「長老たち」を指すものとして使っているのだろう。

 

マルコでは、祭司長と律法学者しか登場しないので、ルカとしては、ユダヤ教体制の最高評議会であるサンヘドリンの構成員には「長老たち」も含まれているということを付け加えたかったのであろう。

 

マルコでは、祭司長や律法学者たちが「彼のことを恐れた」から「彼を滅ぼそう」と探るのであるが、ルカは「すべての民が好んで彼の話を聞いていた」から、「滅ぼそう」とするのを躊躇したとわかりやすく修正してくれている。

 

マルコの「彼のことを」(auton)の直訳は「彼を」。

「彼を恐れた」という意味。

hotiで繋がる名詞節が続いているので、群衆が彼の教えに驚愕しているところの「彼」を恐れたという趣旨。

 

ルカはマルコの「群衆」(ho ochlos)を「民」(ho laos)に変え、「彼の教えに驚愕した」のではなくエルサレムの民が「好んで彼の話を聞いた」ので「滅ぼそう」としたという設定に書き変えた。

 

つまり、マルコではユダヤ教の支配者たちが「イエスの教え」に危機感を覚えてイエスを殺そうとするのであるが、ルカでは「エルサレムでのイエス人気」を妬んで滅ぼそうとしたという設定となっている。

 

 

マルコでは、「神殿商人に対する攻撃」伝承をサンドイッチの具として、「いちじくの呪い」伝承の成就部分が続く。

 

マルコ11

20そして通りすがりに、いちじくの木が根から枯れているのを見た。21そしてペテロが思い出して、彼に言う、「ラビ、ごらんなさい、あなたが呪われたいちじくが枯れています」。22答えてイエスが彼らに言う、「神の信を持て23アメーン、あなた方に言う。もしも誰かがこの山に、動いて海の中にとびこめ、と言って、心で疑わず、自分が言うことは実現するのだと信じるならば、その者にはそのようになるであろう。24この故にあなた方に言う、あなた方が祈り、願うものはすべてすでに得たと信ぜよ。そうすればあなた方にはそのようになるであろう。25そして、立って祈る時は、もしも誰かに対して何かがあれば、許すがよい。そうすれば天にいますあなた方の父もまたあなた方の過誤をあなた方に対して許して下さるだろう」。26―――

 

マタイ21

20そして弟子たちが見て、驚き、言った、「どうしていちじくが即座に枯れたのですか」。21答えてイエスが彼らに言った、「アメーン、あなた方に言う。もしもあなた方がを持ち、疑わなければ、このいちじくのことができるだけでなく、この山に、動いて海の中にとびこめ、と言えば、そのようになるだろう。22また祈りにおいてあなた方が信じて願うことはすべて、与えられるであろう」。

 

マルコでは、「いちじくの木の呪い」の預言時に、「弟子たちは聞いていた」とあり、成就にも「ペテロ」をはじめとする「彼らに」、「神の信を持て」と告げる。

 

サンドイッチの具となる「神殿商人たちに対する攻撃」に「弟子たち」は登場しない。

「弟子たち」は「神殿商人」たちと同じくエルサレムで過ごし、イエスだけがエルサレムから出て行き、「弟子たち」とともに過ごさない。

 

連続した物語であるなら、「弟子たち」はエルサレムにいて、イエスと一緒に行動を共にしていないのであるから、翌日の朝、「いちじくの木の呪い」の成就時に「弟子たち」がイエスと一緒にいるのはおかしい、ということになる。

 

つまり、「通りすがりに、朝…見た」というのは、マルコの編集上の設定であり、神殿で狼藉を働いた「翌日の朝」という趣旨ではないのだろう。

 

むしろ、前半部に「弟子たち」が登場するのであるから、「後半部」にも「弟子たち」が登場するという設定にして、予言時にも成就時にも「弟子たち」も関係しているサンドイッチ構造という構成にしたかったのだろう

 

具の「神殿商人たちに対する攻撃」には「弟子たち」は登場しないのであるが、イエスは「弟子たち」を残してエルサレムを出て行くのであるから、マルコとしては、「神殿商人たち」に対する批判の骨子を「弟子たち」にも重ねて批判しているものと思われる。

 

イエスの神殿批判は「我が家はすべての民族のための祈りの家と呼ばれるべきである」という点と「あなた方はそれを強盗の巣にしてしまった」というもの。

 

マルコとしては、その批判をそのまま「ペテロたち十二弟子」を中心とするエルサレムの初期キリスト教会にも当てはまると考えているのだろう。

 

イエスを「我が家」とするキリスト信者であるなら、ユダヤ教と同じようにエルサレムに執着し、ユダヤ教キリスト信者だけの「我が家」とすべきではなく、「すべての民族」を受け入れ、まず「すべての民族」ために「福音」が宣べ伝えられなけばならないはずである。(13:10参照)

 

ペテロをはじめとする十二使徒集団のキリスト教会は、キリスト信者となれば聖霊を受けると称して、信者の承認権を一手に支配して、多額の寄付を集めている。

 

マルコとしては、エルサレムの初期キリスト教団の姿は、「強盗の巣」としている「神殿商人たち」と何ら変わることがない、と言いたいのだろう。

 

マルコとしては、「いちじくの木の呪い」物語は、ユダヤ教の神殿体制だけに対するアレゴリーなのではなく、エルサレムの初期キリスト教団にも同じく予言されているのであり、成就するものである、と考えているのであろう。

 

それゆえ、後半の成就部分でマルコのイエスは「弟子たち」に対して「神の信を持て」(NWT「神に対して信仰を持ちなさい」)と言うのであろう。

 

「弟子たち」が「神の信」(pistin theou)を持っているのであれば、「神の信」(pistin theou)を持てとは言わないはずである。

 

「神殿商人」たちがマルコの言うところの「神の信」を持っていないことは明らかである。

マルコのイエスは、「弟子たち」に対して「神の信を持て」と言っているのであるから、「弟子たち」と「神殿商人たち」を同一視していることになるであろう。

 

 

では、マルコのイエスの言うところの「神の信」(pistin theou)とは何を指すのか。

原文の「神の」(theou)は、対格ではなく属格

 

NWTは「神に対して信仰を持ちなさい」と対格の意味に訳しているが、和訳聖書のすべてが対格の意味に訳している。

 

共同訳 「神を信じなさい」

フラ会訳 「神を信じなさい」

岩波訳 「神[へ]の信仰を持て」

新共同訳 「神を信じなさい」

前田訳 「神を信ぜよ」

塚本訳 「神(の力)を信ぜよ」

口語訳 「神を信じなさい」

文語訳 「神を信ぜよ」

 

原文の直訳は「神の信を持ちなさい」であり、「信じる」(pisteuO)という動詞は使われていない。

 

つまり、「神の信」とは、「神を信じる」という意味でも、「神に対する信仰、信頼」という意味でもない。

 

「信」(pistis)に属格を付けて信じる対象を指す、ということは「信じる」(pisteuO)というギリシャ語が自動詞であることからして考えられない。

 

他動詞由来の名詞に属格の代名詞を付けると対格的属格の意味になることはあるとしても、自動詞由来の名詞に属格の代名詞が付いても対格的属格の意味になることはありえないものである。

 

文法的には、主格的属格と解して「神が持つ信頼、信実」という意味に解するのが常識であろう。

 

「神がみずから持つ信頼」という意味であるから、「信」とは「確信」という趣旨になる。

 

つまり、「神がみずから持つほどの確信を持て」ば、「いちじくを枯らす」ほどの「確信を持つ」ことも出来よう、山を動かすほどの「強い確信を持つ」ならば、願ったことは必ず得るという「確信を持つ」こともできよう、という趣旨になる。

 

「いちじくの木の呪い」の前半の予言部でも、イエスは「神に対する信仰」を持つならば、「いちじくの木を枯らす」ことも可能だ、などとは一言も言っていない。

 

「誰もお前から実を食べる者はいないだろう」というイエスの「神の信」、つまりイエスが持っている「神が持つような確信」を言い表わしているに過ぎない。

 

マタイはマルコの「神の信」(pistin theou)の「神の」(theou)を削り、単に「信」(pistin)としている。

 

つまり、マタイはマルコの「神の信」を「神に対する信仰」の意味には読まず、単に「信、信頼、確信」の意味に解したので、「神の」を削ったのである。

 

もしマタイが「神を信ぜよ」という意味に解したのであれば、マタイは「神の」(theou)という語を「主」(kuriou)に変えるかもしれないが、「神の」(theou)という語を削ることはなかったであろう。

 

マルコの25節は、前段までのサンドイッチ構造の物語とは全く無関係。

「祈る」という語を鉤言葉にして、イエスに関する単独伝承をここに結合させたもの。

 

内容は、マタイ6:12-14やルカ11:2-4の「主の祈り」伝承に出て来る句と同趣旨である。

ただし、マタイ・ルカとマルコでは微妙に文言が異なっているが、「祈り」に関するイエスのロギアであったことは共通している。

 

マタイ・ルカは共通伝承に由来するが、マタイは再編集しており、マルコは単独伝承として届いたイエスのロギアをこの個所に組み込んだのだろう。

 

 

マルコの26節は欠けている。

ここにはいわゆるビザンチン系ほかの多くの写本が「もしもあなた方が許さなければ、天にいますあなた方の父もまたあなた方の過誤を許し給わないであろう」という句が付加されている。

 

もちろんこれは、マタイ6:14、15をマルコに読み込んだもので、後世の付加である。

 

マルコはこの物語を通して、ユダヤ教の神殿主義体制とそれに巣食う経済体制を批判しつつ、「弟子たち」が創設したエルサレムの初期キリスト教団も重ねて批判し、イエスに従う者であるなら「神の信」を持てと言いたかったのであろう。