マルコ10:46-52 <エリコの盲人の癒し> 並行マタイ20:29-34、ルカ18:35-43
マルコ10 (田川訳)
46そしてエリコに来る。そして彼と、また彼の弟子たちやかなりの群衆がエリコから出て行くと、ティマイオスの子バルティマイオスという盲人の物乞いが道ばたに座っていた。47そしてナザレ人イエスがいると聞いて、叫んで言いはじめた、「ダヴィデの子イエスよ、我に慈悲を与え給え」。48そして多くの者が彼を叱りつけて黙らせようとした。しかし彼はますますさかんに叫んだ、「ダヴィデの子よ、我に慈悲を与え給え」。49そしてイエスは立ちどまり、言った、「彼を呼びなさい」。そして彼らは盲人を呼んで、言う、「勇気を出せ。起て。お前を呼んでおられる」。50彼は衣を投げ捨て、跳び上がって、イエスのもとに来た。51そして彼に答えてイエスは言った、「何をしてほしいというのですか」。盲人は彼に言った、「ラブニ、再び見えるようになることです」。
52そしてイエスが彼に言った、「お行きなさい。あなたの信頼があなたを救った」。そしてすぐに、彼は再び見えるようになった。そして道で彼に従って行った。
マタイ20
29そして彼らがエリコから出て行くと、多くの群衆が彼に従った。30そして見よ、二人の盲人が道ばたに座っており、イエスが通り過ぎると聞き、叫んで言った、「我らに慈悲を与え給え、主よ、ダヴィデの子よ」。31群衆は彼らを叱りつけて黙らせようとした。しかし彼らはますます多く叫んで言った、「我らに慈悲を与え給え、主よ、ダヴィデの子よ」。32そしてイエスは立ち止まり、彼らを呼んで、言った、「何をしてほしいというのですか」。33彼らは彼に言う、「主よ、私たちの眼が開くことです」。34イエスは憐れんで、彼らの眼にさわった。そして直ちに彼らは再び見えるようになった。そして彼に従って行った。
ルカ18
35彼がエリコに近づいて来た時に、一人の盲人が道ばたに座って、物乞いをしている、ということがあった。36群衆が通って行くのを聞いて、これは何か、とたずねた。37それで、ナゾライ人のイエスが通り過ぎるところだと告げられた。38そして彼は叫んで言った、「イエスよ、ダヴィデの子よ、我に慈悲を与え給え」。39そしてイエスの前を進んで行く者たちが彼を叱りつけて黙らせようとした。しかし彼の方はますますさかんに叫んだ、「ダヴィデの子よ、我に慈悲を与え給え」。40イエスは立ちどまり、彼を自分のところに連れてくるように、と命じた。彼が近づくと、たずねた、 41「何をしてほしいというのですか」彼は言った、「主よ、再び見えるようになることです」。42そしてイエスは彼に言った、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。43そして即座に見えるようになった。そして神に栄光を帰しながら、彼に従って行った。そしてすべての民が見て、神に賛美をささげた。
マルコ10 (NWT)
46 それから彼らはエリコに入った。ところで,[イエス]とその弟子たちおよびかなりの群衆がエリコから出て行くと,盲目のこじきバルテマイ(テマイの子)が道路のわきに座っていた。47 彼は,それがナザレ人イエスだと聞くと,「ダビデの子イエスよ,わたしに憐れみをおかけください!」と大声で叫びだした。48 すると,多くの者は,黙っているようにと厳しく言いはじめた。しかし彼はそれだけよけいに,「ダビデの子よ,わたしに憐れみをおかけください!」と叫びたてた。49 それでイエスは立ち止まり,「彼を呼びなさい」と言われた。そこで彼らはその盲人を呼んで,「勇気を出して,立ち上がりなさい。あなたをお呼びなのだ」と言った。50 彼は外衣を脱ぎ捨て,躍り上がってイエスのもとに行った。51 すると,イエスは彼に答えて言われた,「わたしに何をして欲しいのですか」。盲人は言った,「ラボニ,視力を取り戻させてください」。52 そこでイエスは言われた,「行きなさい。あなたの信仰があなたをよくならせました」。すると,彼はすぐに視力を取り戻し,[イエス]に付いてその道を行くようになったのである。
マタイ20
29 さて,一行がエリコを出る時,大群衆が彼のあとに従った。30 すると,見よ,二人の盲人が道路のわきに座っていたが,イエスがそばを通っておられることを聞くと,「主よ,わたしたちに憐れみをおかけください,ダビデの子よ!」と叫んだ。31 ところが群衆は,黙っているようにと彼らに厳しく言った。けれども彼らはいよいよ大声で叫び,「主よ,わたしたちに憐れみをおかけください,ダビデの子よ!」と言った。32 それでイエスは止まり,彼らに呼びかけて言われた,「わたしに何をして欲しいのですか」。33 彼らは,「主よ,わたしたちの目が開くようにしてください」と言った。34 イエスは哀れに思い,彼らの目にお触れになった。すると,彼らはすぐに見えるようになり,[イエス]のあとに従った。
ルカ18
35 さて,[イエス]がエリコに近づいて行かれると,ある盲人が道路のわきに座って物ごいをしていた。36 彼は,群衆の進んで行く[物音]を聞いたので,これはどういうことなのかと尋ねはじめた。37 人々は,「ナザレ人のイエスが通って行くのだ!」と彼に知らせた。38 そこで,彼は叫んで言った,「ダビデの子,イエスよ,わたしに憐れみをおかけください!」39 すると,先を行く者たちが,静かにしているようにと彼に厳しく言いはじめた。しかし,彼はそれだけよけいに,「ダビデの子よ,わたしに憐れみをおかけください」と叫びたてるのであった。40 そこでイエスは立ち止まり,その[人]を連れて来るようにと命令された。彼が近くに来てから,[イエス]はこうお尋ねになった。41 「わたしに何をして欲しいのですか」。彼は言った,「主よ,視力を取り戻させてください」。42 そこでイエスは彼に言われた,「視力を取り戻しなさい。あなたの信仰があなたをよくならせました」。43 すると,彼はたちどころに視力を取り戻したのである。そして,神の栄光をたたえつつ[イエス]のあとに従うようになった。また,民すべても,[これを]見て神に賛美をささげた。
マルコ福音書の後半(「第一回受難予告」以後)に二つ登場する奇跡治癒物語の二つ目である。(もう一つは9:14-24「癲癇の息子の癒し」)
この盲人の治癒物語の元伝承は、ユダヤ地方に位置するエリコに伝わっていた民間伝承だったものと考えられる。
エリコは地理的にガリラヤからサマリヤを経由してエルサレムに入城する途上にあるユダヤ地方に属する町。
最後の奇跡物語の舞台となった「枯れたイチジクの木」物語のベタニアは、エルサレムのすぐ手前の町。
「第一回受難予告」以降、イエスはエルサレムへとまっすぐに受難の旅に向かう、というマルコの設定上、エリコの民間伝承はベタニアの民間伝承より前に置いたのであろう。
マルコの福音書構成は単純に時間軸で配置されているわけではなく、イエスの人物像を立体的に浮き彫りにするためにいくつかの伝承を組み合わせたり、物語と物語を関連付けたりして、多角的に描こうとしているようである。
「エリコ」(IerichO)は、ヘブライ語の地名(Ieriho)をそのままギリシャ語綴りにしたもの。
ヘブライ語のhをギリシャ語の人たちはchの音に聞こえたのであろう。(『訳と註』p349)
エルサレムから北東約37キロ、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約14キロに位置するヨルダン川に近いオアシスに造られた町。
旧約時代のエリコとはヨルダン河口方向南東に4キロほどずれており、ヘロデの時代に新しくローマ風の町に建築し直した。
この奇跡物語の主役は、ティマイオスの子バルティマイオス(ho huiOs timaiou bartimaios)という盲人。
この盲人がイエスに対して「ダヴィデの子イエスよ」と呼びかける。
イエスを「ダヴィデの子」と呼んでいることからして、ユダヤ教におけるメシア信仰者であると思われる。
「バルティマイオス」という名前は「バル」(bar)がアラム語の「子」の意味であるから、「ティマイオスの子」という意味。
「ティマイオス」はギリシャ語男性名であるから、アラム語の「バル」をつけて、「バルティマイオス」という混成言語を固有名とするのも奇妙。
この時代には、パウロがサウロという別名でも呼ばれていたように、ユダヤ名もギリシャ名も両方持つユダヤ人が多くいたという。
とすれば、この盲人は通称「バルティマイオス」と呼ばれていたユダヤ人だった可能性もある。
この伝承は、この人物がイエスをユダヤ教的メシアとみなして、「ダヴィデの子」と叫んで奇跡治癒がなされたエリコでの伝承を元としているのかもしれない。
あるいは、キリスト教団がエリコに伝わるバルティマイオス伝承に、「ダヴィデの子=キリスト」というキリスト教ドグマを組み入れて、伝承化した可能性もある。
イエスが一種のメシアであるという噂は、イエスが生きていた当時から流布していたことは確かであろう。(6:14~、8:27~参照)
だが、「我に慈悲を与え給え」という祈願文はキリスト教の常套句であり、イエスの死後、エリコの民間伝承にキリスト教ドグマを組み込んだ可能性が高いように思われる。
「エリコの盲人の癒し」伝承において、注目したい主な点は二つ。
一つは盲人のイエスに対する認識。
もう一つは、奇跡的治癒が生じる要因。
マルコにおいてイエスに対する盲人の認識は、「ナザレ人イエス」であり、「ダヴィデの子」であるというもの。
マルコに登場する盲人バルティマイオスはイエスに対して「主」という認識は持っていない。
「ラブニ」(rabbouni)という認識は持っていた。
「ラブニ」(rabbouni)は「ラビ」(rabbi)の丁寧語。
親しみと敬意を込めた言い方であるという。
新約ではこことヨハネ20:16にしか出て来ない。
ヨハネでは、すなわち「先生」(didaskale)という意味である、とギリシャ語で訳してくれている。
この盲人はイエスを律法学者の先生という認識を持っていたことを示しており、ユダヤ教の強い影響下にあったことが理解できる。
マルコの盲人に、ナザレ人イエスを「主キリスト」として信仰の対象として信仰告白している様子はない。
マルコでは、イエスが盲人に「あなたの信頼(pistis)があなたを救った」と告げる。
盲人を救った、つまり盲人の癒しを可能にしたものは「あなたの信頼」という。
この盲人は、何に対して「信頼」していたのか。
マルコの盲人は、イエスを「主」とは呼んでいない。
イエスを「主キリスト」として「信頼」しているというのではないようである。
どうもマルコにおける奇跡的治癒物語での治癒過程には、マタイやルカとは異なる「力」の働きが関係しているようである。
マルコの病気治癒物語もしくは悪霊祓いの奇跡物語には、一般に「奇跡」(thauma)を意味する語も「驚くべき出来事」(paradoxos)という語も使われていない。
その代わり「力」を意味するデュナミス(dunamis)という語が使われている。(NWT:「強力な業」)
もちろん、マタイもルカもマルコを写しているのだから、「力」(dunamis)という語は使われている。
しかし、マルコはこの「力」(dunamis)を神からイエスや使徒たちだけに授けられた「特別な能力」という扱いをしていないようである。
「よそ者の悪霊祓い」(9:39)では、イエスや弟子たちとは無関係の者がイエスの名前で「治療」を行なうことが可能であることを示している。
これは「イエスの名前」に呪術的な力があり、病気治癒や悪霊祓いを可能にしているという呪術信仰を示しているのではないようである。
むしろ、治療行為者と被治療者との間に「力」の移動が行われることによって「治癒の力」が作用することを示しているものと思われる。
「長血を患っている女」の治癒物語(5:25-34)でも、イエスの衣をさわって癒されるのであるが、イエスがこの女性に対して「治癒能力」を行使したわけではない。
イエスの意思で直接なされた治癒ではなく、イエスの知らないところで間接的に生じた奇跡的治癒であった。
イエスはこの女性が治癒した時に、自分から「力」(dunamin)が出て行ったことに気付く。(5:30)
イエスの有していた「力」(dumamin)からこの女性へと「力」(dunamin)の移動が行われたのである。
この「力」(dunamin)の移動によって治癒がなされるとマルコは認識しているようである。
この「力」(dunamin)の移動を可能にしたものは何か。
イエスは「あなたの信頼(pistis)があなたを救った」とこの女性に告げる。(5:34)
この女性は常々「彼の衣にでもさわれれば自分は癒されるだろう」と言っていた。(5:28)
この女性は、イエスを「主」と呼ぶことも、「ダヴィデの子」と呼ぶこともしない。
この女性はイエスを「キリスト」もしくは「主」としてキリスト教信仰の対象としていたわけではない。
しかしイエスはこの女性に対して、「娘よ、あなたの信頼があなたを救った」と告げるのである。
この女性はイエスが彼女の病気を癒す力を持っていることに対して全幅の「信頼」を抱いていた。
イエスはその「信頼」が、病気の回復を可能にした、という趣旨で「あなたの信頼があなたを救った」と告げたのであろう。
マルコはイエスを通して働く「力」(dunamin)を、イエス自身の「治癒能力」と考えているのか、それともイエスを通して働く神の「力」(dunamin)と考えているのか。
マルコにはイエスの名前を使っても治癒行為が失敗した事例が登場する。(9:14-28)
マルコの後半に登場するもう一つの奇跡的治癒物語である「癲癇の息子の癒し」物語である。
弟子たちがイエスの名前を使って治療行為をしても「力」の移動が生じなかったのである。
なぜか。
「神からの治癒能力」が弟子たちに付与されていたのであれば、弟子たちは自分たちには治療可能だと信じていたにもかかわらず、失敗したのであるから、「神からの治癒能力」に対する弟子たちの「信頼」が不足していたわけではない。
イエスや使徒たちとは無関係のイエスの名前を使う治療者たちも治癒行為が可能だった事例もある。(9:36)
「よそ者の悪霊祓い」伝承である。(9:38-41)
イエスや弟子たちを通してだけ、神に属する「力」(dunamin)の移動が生じるものでもないようである。
つまり、イエスの「神」信仰や弟子たちの「神」信仰や「キリスト」信仰と被治癒者への「力」の移動とは無関係のようである。
とすれば、マルコにおいては、治癒行為者の治癒能力に対する被治癒者の「信頼」が「力」(dunamin)の移動を可能にするのであろう。
イエスや使徒たちとは無関係のイエスの名前を使う治療者たちも治癒行為が可能だったのは、被治癒者がイエスの名前を使う治癒行為者の治癒能力に対して全幅の「信頼」を示していたので、「力」(dunamin)の移動が行われ、治癒に至った、ということであろう。
治癒行為者の治癒能力に対する全幅の「信頼」が「力」の移動を生じさせ、治癒を可能にする、という視点から見ると、弟子たちの治癒失敗の事例も弟子たちの「治癒能力」不足が招いた結果を示そうとしたのではなさそうである。
治癒行為者の治癒能力に対する被治癒者の「信頼」(pistis)の不足が「力」(dunamin)の移動を阻んだ結果、治癒失敗に至ったというのだろう。
弟子たちの不徳が招いた治療失敗であるが、それも弟子たちの能力不足と同じと言ってしまえばそれまでであるが…。
「癲癇の息子の癒し」伝承の場合、父親が息子の病気治癒を願い「弟子たち」に依頼するが、治癒失敗に至る。
「先生」のもとに連れて来たのであるが、「弟子たち」は出来なかった、というのである。
イエスが「信じる者には一切が可能だ」と告げ、治癒依頼者の治癒行為者の治癒能力に対する「信頼」(pistis)の不足を解消すると、「力」(dunamin)の移動が生じ、被治療者は治癒するに至ったのである。(9:20-27)
「神からの治癒能力」に対する治癒依頼者の「信頼」不足が治療失敗に至ったというのではないことは、治療依頼を弟子たちに依頼していることからも明らかであろう。
「弟子たち」は失敗しているのに、「イエス」は成功した、というのであるから、「神からの治癒能力」に問題があったわけではなく、「弟子たち」に対する「信頼」と「イエス」に対する「信頼」の違いが、「力」の移動を阻んでいたことになる。
「神からの治癒能力」もしくはWT解釈的には「聖霊の力」対する「信頼不足」が治療失敗を招いたのでないとすれば、何が治療失敗を招いたのか。
「癲癇の息子の癒し」伝承の場合、癒された息子がイエスに治療を依頼したのではない。
つまり被治癒者の「信頼」が癒しを可能にする、つまり「力」の移動を生じさせるのではないことになる。
癒しを依頼したのは、父親であり、患者ではなく治癒依頼者である父親の治癒行為者の治癒能力に対する「信頼」の不足が「力」の移動を阻んだことになる。
そこでもイエスは「あなたの信頼があなたを救った」と述べて、治癒依頼者の「信頼」(pistis)が治癒を可能にした、と説明するのである。
マルコは弟子たちがイエスの名前を使っても失敗に至ったことに関して、「弟子たち」は救い(治癒)を求める者たちにとって「信頼」に価する存在ではない、イエスの後継者としては不適格であると言いたかったのであろう。
この個所におけるマルコの盲人の癒しに関しても、治癒を可能にしたのは、イエスを主キリストと認める「キリスト信仰」の所産ではない。
マルコでは、「主キリスト」信仰や「神の治癒能力」信仰が「救い」を可能にするのではなく、治癒行為者の治癒能力に対する被治癒者の「信頼」(pistis)が「力」(dunamin)の移動を可能にするのであろう。
マルコにとって「イエスの弟子」であるということは、イエスと同じように「信頼」(pistis)に価する者である必要があり、イエスと同じ生き方をする事が必要なのであろう。
マルコは「キリストの者」(9:41)の中で「使徒」あるいは「弟子」と呼ばれる者たちが、実際には「信頼」に価する者ではない、ということを手を変え品を変え読者に訴えているのであろう。
マタイの「エリコの盲人の癒し」物語では、マルコの一人であった盲人を二人の盲人の治癒物語として、キリストの奇跡性を増幅させている。
一人より二人の治癒の方が、証人効果が高く、キリストの奇跡能力の信憑性も高くなると思ったのだろうか。
マルコでは、イエスが「エリコに来た」から「エリコから出て行く」のであり、「出て行く」と盲人に出会うのであるが、マタイではイエスがエリコに来てもいないのに、「エリコから出て行く」と二人の盲人と出会い、奇跡的治癒を行ったこととなっている。
マタイのイエスはいつ「エリコに来た」のだろうか。
マタイがマルコの奇跡物語をできるだけ短くしようとして削った結果であろう。
マルコにはない余計なキリスト信仰強化の表現はすぐに付加するくせに…。
盲人たちは二人とも「我らに慈悲を与え給え、主よ、ダヴィデの子よ」とイエスに向かって叫び、イエスを「主」と認めるキリスト教の信仰告白をする。
マルコでは「多くの者」が盲人を叱りつけて黙らせようとするのであるが、イエスとともにいた「弟子たちと群衆」とを区別していない。
しかし、マタイでは「群衆」が盲人たちを叱りつけ黙らせようとするのである。
マタイは、「弟子たち」を除外して、群衆の盲人に対する冷たさとは一線を画した存在にしたかったのだろう。
「群衆」はキリストの慈悲を望んでいないが、「弟子たち」は慈悲を望んでいるという演出にしたかったものと思われる。
マタイの弟子聖人信仰の姿勢が、盲人の癒しに反対する声を「群衆」に限定させたのであろう。
二人の盲人は、再び「主よ」とイエスに呼びかけ、キリスト教の信仰告白をする。
その結果、盲人に奇跡的治癒が生じる。
マタイにおいてイエスの奇跡治癒を可能にする要素は二つ。
「キリスト教の信仰告白」と「イエスの憐れみ」。
マタイではイエスの「憐れみ」の手段として、「イエスが患者に触れる」。
キリスト信者の上に、この二つの要素が揃うと、奇跡的治癒を生じさせる「力」がキリストを通して、「直ちに」キリスト信者の上に働くようである。
マタイは「あなたの信頼があなたを救った」というイエスの言葉を削除した。
イエスに対する「信頼」、イエスの治癒能力に対する「信頼」ではなく、「キリストに対する信仰」に「キリストの憐れみ」が加わる時、マタイのイエスの奇跡的治癒は生じるようである。
ルカはマルコをほぼそのまま写しているが、微妙に変えている箇所がある。
マルコの盲人はエリコから「出て行く」時にイエスに出会うのであるが、ルカではイエスがエリコに「近づいてきた」時に、盲人に出会う。
ルカでは、エリコに「来る前」に、盲人と出会うことに設定を変えている。
ルカの次段である「収税人頭ザッカイ」伝承は、マルコにもマタイにも登場しないルカの知り得た単独伝承である。
マルコではイエスが「エリコに来る」としているが、エリコでの話は何もなく「エリコを出て行く」と盲人の奇跡物語が始まる。
「ザッカイ伝承」には、「罪人(収税人)の悔い改め」というルカの大好きな説教話が組み込まれている。
イエスはザッカイの家に泊まる(19:5)というのであるから、ザッカイはエリコに住んでいたのだろう。
「ザッカイ伝承」がエリコに伝わる伝承であったのか、それを元にルカが「罪人の悔い改め」というキリスト教ドグマを組み込んで仕立て直したのか不明。
だが、ルカとしては受難物語が始まる前にキリストの「十字架の意義」を印象付ける「悔い改め」伝承を直前に置いておきたかったのだろう。
ルカは「収税人頭ザッカイ」の話をエリコの町での設定にする都合上、「エリコの盲人の癒し」伝承はエリコに入る前の設定に変えたのであろう。
「ザッカイの悔い改め」伝承の舞台はエリコの町である。
ルカの構成上、「エリコの盲人の癒し」物語は、イエスがエリコに入る前に置かざるを得なかったのだろう。
WTはこの矛盾を次のように説明している。
*** 洞‐2 573ページ バルテマイ ***
マタイはキリストが立ち去ったユダヤ人の都市のことを述べているのに対し,ルカはキリストがまだ到着していなかったローマ人の都市のことを述べている可能性がある。したがって,キリストは旧都市から新都市に向かう途中で盲目のバルテマイに会い,彼をいやしたのである
聖書霊感説信仰に基づき、福音書間に矛盾がないという前提での解釈。
ただし旧約時代のエリコはイエスの時代には廃墟の町となっていた。
マタイもルカも新都市とも旧都市とも言っていない。
当時においてエリコと言えばヘロデが再建した新都市を指すと考えるのが普通。
ちなみに現代のエリコは旧約時代とも新約時代とも異なり、その中間に位置し、十字軍時代に建設された第三の町の跡に造られたもの。
マルコの「ナザレ人」(NazarEnos)イエスに対して、ルカは「ナゾライ人」(NazOraios)のイエス。
ルカ福音書には「ナザレ人」を意味する語は三回出て来るが、二回(4:13,24:19)は、NazarEnosと綴り、ここだけNazOraiosと綴っている。
4:13はマルコを写しているだけであるが、24:19はルカの作文。なぜ18:37だけ綴りを変えたのか、理由は不明。
使徒では、七回登場するがすべて「ナゾライ人」(NazOraios)と綴っている。
マルコでは、「多くの者」が盲人を叱りつけ黙らせようとするが、マタイでは「群衆」が、ルカでは「イエスの前を進んで行く者たち」が黙らせようとする。
マルコでは盲人を黙らせようとした「多くの者」に対して「彼を呼びなさい」とイエスは言っている。
ルカはイエスから「彼を呼びなさい」と言われた「彼ら」を「弟子たち」と読んだのであろう。
それでマルコの「多くの者」を「イエスの前を進んでいく者たち」と表現を変え、「弟子たち」対する批判を和らげたのだろう。
マルコでは、盲人を呼んで、言う言葉は、直接話法。
ルカは間接話法にし、「言った」を「命じた」に変えた。
ルカにとって、イエスが「言う」ことは「命令」と同じなのであろう。
マルコの「ラブニ」を、ルカは「主よ」に変えた。
マルコの「そしてすぐに」という表現は文頭を示すだけの口癖であまり意味のない「すぐに」。
ルカはマルコの口癖表現を理解せず、「即座に」と文字通りの時間的な意味で「その瞬間に」という意味に解した。
マタイと同じく、奇跡の奇跡的効果を高めようとしたのだろう。
ルカは、結びの句に、「神に栄光を帰しながら」という句と、「そしてすべての民が見て、神に賛美をささげた」という文を付加した。
イエスの奇跡後、群衆が「神に栄光を帰したり、賛美をささげる」のはルカの常套手段。(5:26、7:16、13:17、18:43他)
イエスの奇跡は、群衆を悔い改めに導くための神からの「力」という設定なのだろう。(10:13参照)
盲人が癒えるまでの過程が三者三様でそれぞれのキリスト教観が見えて面白い。
マルコの場合、イエスが盲人の治癒行為者に対する「信頼」を確認し、「行きなさい」と言うと、治癒行為者に属する治癒能力に対する「信頼」が「力」の移動を生じさせ、盲人は再び見えるようになる。
マタイの場合、盲人がイエスを「主」と認めた上で、イエスの「憐れみ」と「目にさわる」行為によって、盲人は「直ちに」再び見えるようになる。
ルカの場合は、イエスをキリストとする「信仰」により、イエスが「見えるようになれ」という言葉を発するだけで、盲人は「即座に」見えるようになる。
ルカのイエスは患者に触れることもなく、言葉だけで遠隔治療が可能である。
マルコの「信頼」もルカの「信仰」もどちらも原文のギリシャ語は同じpistisである。
しかし、マルコのpistisには「キリスト信仰」や「キリスト教信仰」の意味はなく、治癒行為者としてのイエスに対する「信頼」を意味している。
ルカの場合には、イエスに対する「信頼」というよりも、キリスト教を前提とした「主キリスト」に対する「信仰」を意味している。
それゆえ、田川訳ではマルコを「信頼」、ルカを「信仰」と同じギリシャ語を訳し分けているのだろう。
「信頼」「信仰」(pistis)は、形容詞pistos(「誠実である」「信頼に値する」「信実である」)を名詞化したもの。
多くの聖書で「信じる」(pisteuO)と訳されているギリシャ語の動詞は与格支配の自動詞であり、他動詞ではない。
日本語で「○○を信じる」というように信仰の対象を目的語とするのではなく、信頼の対象を与格で置くか、epiあるいはeisというような前置詞をつけて用いる。
基本は「○○に対して信頼する」「○○に対して信頼の態度を保つ」という意味。
「信仰する」となると、特定の宗教ドクマに対する信仰が関係してくるが、もともとの動詞pisteuOには特定の宗教信条を信仰することは無関係である。
特定の教理、たとえば「イエスはキリストである」というドグマに対する「信頼の態度を保つ」というのであれば、イエスをキリストと信じる、という意味にはなる。
ただし、必ずしも特定のキリスト教を信仰するという意味と同じではない。
あくまでも、「イエスをキリスト」として「信頼する」という意味に過ぎない。
新約中のpistisをすべて一律に「信仰」という意味に解してしまうのは間違いであり、無意識のうちに「キリスト信仰」を前提に新約物語を読むことに繋がる。
「信頼」「信仰」(pistis)という名詞や「信実の」「信頼できる」(pistos)という形容詞、「信頼する」「信じる」(pisteuO)という動詞の基本的な意味を前提に共観福音書を読むと、イエスの奇跡的治癒能力が、マルコ→マタイ→ルカと徐々に信仰治療的にパワーアップされていく。
イエスに対するキリストとして神格化が強化されていくのである。
福音書が書かれた順に「キリスト信仰」「キリスト教信仰」が強化されていくのが理解できる。
マルコのバルティマイオスという盲人は、癒されてから、イエスの後に従がい、キリスト信者となった、とキリスト教会では解されることが多い。
WTもイエスの信者となったという解釈。
*** 洞‐2 572ページ バルテマイ ***
イエスはこの人に信仰があることを認めると共に,哀れみに動かされ,バルテマイをおいやしになりました。バルテマイはすぐに神の栄光をたたえつつイエスのあとに従いました。―マル 10:46‐52; マタ 20:29‐34; ルカ 18:35‐43。
マルコには「すぐに神の栄光をたたえた」とは書いていない。
ルカが付加した部分である。
マルコでは単に「道で彼に従がって行った」(Ekolouthei auto en tE hodO)とあるだけである。
WTの解釈はこの「道」をキリスト教の「道」と解釈して、読ませようとしているのだが、マタイにもルカにも「道で」という句は付いていない。
マタイは、マルコの「道」をキリスト教の「道」などとは読まずに、単にイエスの後に付いて行った、と読んでいたことになる。
マルコでは、イエスや弟子たちが「道に」いた時の出来事に付いて度々描写している。(8:27,9:33,10:32)
キリスト教の「道」というのではなく、文字通りの「道」「道路」という意味である。
「その道を進むイエスに従がった」(新共同訳)のではなく、「道でイエスに従がった」のである。おそらく、イエス一行の後について、道中をしばらくついていった、ということだろう。
「神に栄光を帰しながら、彼に従がって行った」とし、キリスト信者となったとも読めば読めるのはルカだけである。
ルカもマルコの「道で」という句を削除しており、代わりに「神に栄光を帰しながら」という句を付加している。
WTはマルコにルカのキリスト教信仰を読み込ませようとしているのである。
WTはマタイ→ルカ→マルコの順で福音書が書かれたと主張している。
キリスト教信仰は、マルコ→マタイ→ルカの順に深度とイエスの神格化が増している。
WTはこの「キリスト教信仰とイエスの神格化の深度」の矛盾をどう説明するのだろうか。
歴史的に教祖の神格化の深度が逆行することなどありえるのだろうか。
「統治体」信仰のWTキリスト教信者さんにとって「あなたの信仰があなたをよくならせる」ようなのでお好きに御信心下さいませ。