マルコ10:32-45 <第三回受難予告と受難の意味> 並行マタイ20:17-28、ルカ18:31-34
参照ルカ22:24-27
マルコ10 (田川訳)
32彼らはエルサレムに上る途上にあった。イエスが彼らを先立ち導いた。そして彼らは驚いた。従う者たちは恐れた。そしてまた十二人を来させ、自分に生じるであろうことを言いはじめた、33「見よ、我々はエルサレムに上って行く。そして人の子は祭司長、律法学者らに引き渡され、彼らは人の子を死刑に断罪し、異邦人に引き渡すであろう。34そして彼らは彼を嘲弄し、つばを吐き、鞭打ち、殺すであろう。そして三日後に復活するであろう」。
35そして彼のもとにゼベダイの子ヤコブとヨハネがやって来て、言う、「先生、もしも私たちがお願いしたら、それを行ってください」。36彼は彼らに言った、「何をあなた達にしてくれというのか」37彼らは彼に言った、「あなたの栄光において、私たちの一人をあなたの右に、一人をあなたの左に座るようにさせて下さい」。38イエスは彼らに言った、「あなた達は自分が何を願っているのかわかっていない。私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるのか」。39彼らは彼に言った、「できます」。イエスは彼らに言った、「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けるがよい。40私の右や左に座らせるのは、私が与えることではない。備えられているほかの者たちに与えられることである」。
41そして十人の者がこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことについて憤りはじめた。42そしてイエスは彼らを呼びよせて、彼らに言う、「諸民族を支配しているとみなされている者たちが彼らに君臨し、彼らのうちの大きい者たちが彼らに対して支配権力をふるっている、ということをあなた達も知っていよう。43あなた達にあってはそうではない。あなた達にあって大きい者となりたい者はあなた達に仕える者となり、44あなた達にあって第一者となりたい者は万人の奴隷となるがよい。45というはまさに、人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、自分の生命を多くの者のために身代金として与えるためである」。
マタイ20
17そしてイエスはエルサレムに上って行く時、十二弟子だけを来させて、途上で彼らに言った、18「見よ、我々はエルサレムに上って行く、そして人の子は祭司長、律法学者たちに引き渡され、彼らは人の子を死刑に断罪し、19異邦人に引き渡し、異邦人が嘲弄し、鞭打ち、十字架につけるであろう。そして三日目に甦るであろう」。
24そして十人の者がこれを聞いて、この二人の兄弟のことについて憤った。25イエスは彼らを呼びよせて、言った、「あなた達も知っているように、諸民族を支配している者たちが彼らに対し君臨し、地位の高い者たちが彼らに対し支配権力をふるっている。26あなた達の間では、そうであってはならない。あなた達の間で大きい者となりたい者はあなた達に仕える者となり、27あなた達の間で第一者となりたい者はあなた達の奴隷となるがよい。28それは、人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、自分の生命を多く者のために身代金として与えるためであるのと同様である」。
24そして十人の者がこれを聞いて、この二人の兄弟のことについて憤った。25イエスは彼らを呼びよせて、言った、「あなた達も知っているように、諸民族を支配している者たちが彼らに対し君臨し、地位の高い者たちが彼らに対し支配権力をふるっている。26あなた達の間では、そうであってはならない。あなた達の間で大きい者となりたい者はあなた達に仕える者となり、27あなた達の間で第一者となりたい者はあなた達の奴隷となるがよい。28それは、人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、自分の生命を多く者のために身代金として与えるためであるのと同様である」。
ルカ18
31また十二人を来させて、彼らに対して言った、「見よ、我々はエルサレムに上って行く。そして人の子について預言者によって書かれたことはすべて完成するであろう。32すなわち彼は異邦人に引き渡され、嘲弄され、侮辱され、つばを吐かれる。33そして彼らは彼を鞭打ってから、殺すであろう。そして彼は三日目に復活するであろう」。
34そして十二人はこれらのことを何も理解しなかった。この言葉は彼らから隠されており、彼らは言われたことを認識しなかったのである。
参ルカ22
24そこでまた彼らの間で争い好みが生じた。彼らのうちで誰がより大きいと思えるか、というのである。25彼は彼らに言った、「諸民族の王は彼らに対し君臨し、彼らに対して権力をふるっている者たちは善を施す者と呼ばれているが、26あなた方はそうであってはならない。あなた方の中でより大きい者は若衆のようになり、指導者は奉仕者のようになれ。27食卓に座る者と給仕する者と、どちらがより大きいか。食卓に座る者ではないのか。だが私はあなた方の中で奉仕者のようになった。
マルコ10 (NWT)
32 さて,一行はエルサレムに上る道を進んでいたが,イエスがその先頭を進んで行かれるので,彼らは非常に驚いた。しかしそのあとに従う者たちは恐れを感じるようになった。[イエス]は十二人をもう一度わきに連れて行き,自分の身に降り懸かるはずの事柄についてこう言い始められた。33 「さあ,わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして,人の子は祭司長と書士たちのもとに引き渡され,彼らはこれを死罪に定めて諸国[の人々]に引き渡します。34 ついで彼らはこれを愚弄し,つばをかけ,むち打ち,そして殺します。しかし三日後に彼はよみがえるのです」。
35 すると,ゼベダイの二人の息子,ヤコブとヨハネが歩み寄って来て,こう言った。「師よ,わたしたちの求めるのがどのようなことでも,それをしていただきたいのですが」。36 [イエス]は彼らに言われた,「何をして欲しいのですか」。37 彼らは言った,「あなたの栄光のとき,わたしたちが,一人はあなたの右に,一人はあなたの左に座ることをお聞き入れください」。38 しかしイエスは彼らに言われた,「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は,わたしが飲んでいる杯を飲み,またわたしが受けているバプテスマを受けることができますか」。39 彼らは,「できます」と言った。するとイエスは言われた,「あなた方はわたしが飲んでいる杯を飲み,わたしが受けているバプテスマを受けるでしょう。40 しかしながら,わたしの右または左に座るこのことは,わたしの授けることではなく,それが備えられている人たちのものです」。
41 ところで,そのことを聞くと,ほかの十人はヤコブとヨハネに対して憤慨し始めた。42 しかしイエスは,彼らを自分のところに呼んでから,こう言われた。「あなた方は,諸国民を支配しているように見える者たちが人々に対して威張り,その偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。43 あなた方の間ではそうではありません。だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず,44 また,だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はみんなの奴隷でなければなりません。45 人の子でさえ,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,かつ自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのです」。
マタイ20
17 さて,エルサレムに上ろうとするにあたり,イエスは十二弟子だけを連れて行き,その途中で彼らにこう言われた。18 「ご覧なさい,わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして,人の子は祭司長や書士たちのもとに引き渡され,彼らはこれを死罪に定め,19 ついで,これを愚弄し,むち打ち,かつ杭につけるために諸国民[の者たち]に引き渡すでしょう。そして,三日目に彼はよみがえらされます」。
20 その時,ゼベダイの息子たちの母がその息子たちと共に近づき,敬意をささげながら何事かを彼に求めた。21 [イエス]は彼女に言われた,「あなたは何を望むのですか」。彼女は言った,「これらわたしの二人の息子が,あなたの王国で,一人はあなたの右に,一人はあなたの左に座るようお申しつけください」。22 イエスは答えて言われた,「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は,わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」。彼らは,「できます」と言った。23 [イエス]は彼らに言われた,「確かにあなた方はわたしの杯を飲むでしょう。しかし,わたしの右また左に座るこのことは,わたしの授けることではなく,わたしの父によってそれが備えられている人たちのものです」。
24 このことについて聞くと,ほかの十人はその二人の兄弟のことで憤慨した。25 しかしイエスは,彼らを自分のところに呼んでこう言われた。「あなた方は,諸国民の支配者たちが人々に対して威張り,偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。26 あなた方の間ではそうではありません。かえって,だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず,27 また,だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません。28 ちょうど人の子が,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」。
ルカ18
31 それから[イエス]は十二人をわきに連れて行って,こう言われた。「ご覧なさい,わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして,人の子に関し,預言者たちによって書かれたことはみな成し遂げられるでしょう。32 例えば,彼は諸国民[の者たち]のもとに引き渡され,愚弄され,不遜な扱いを受け,つばをかけられます。33 そして彼らは,[人の子]をむち打ってから殺しますが,三日目に彼はよみがえるのです」。34 しかし,彼らはこれらのことの意味を何一つ悟らなかった。このことばは彼らからは隠されていたのであり,彼らは言われた事柄が分かっていなかった。
参ルカ22
24 ところが,彼らの間では,自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうかということについても激しい論争が起こった。25 しかし[イエス]は彼らにこう言われた。「諸国民の王たちは人々に対して威張り,人々の上に権威を持つ者たちは恩人と呼ばれています。26 ですが,あなた方はそうであってはなりません。むしろ,あなた方の間で一番偉い者は一番若い者のように,長として行動している者は奉仕する者のようになりなさい。27 というのは,食卓について横になっている者と奉仕している者では,どちらが偉いのですか。それは,食卓について横になっている者ではありませんか。しかしわたしは,奉仕する者としてあなた方の中にいるのです。
マルコの受難予告は三回とも同じ構造となっている。
「受難予告」→「弟子たちの無理解」→「受難の意味」という三重構造がワンセットで一つの物語を構成している。
第一回(8:31)では、イエスの「受難予告」に対して、ペテロが無理解に真っ向から反対意見を述べる。それに対してイエスはペテロをサタンと呼び、自分の十字架を負ってイエスに従がうように、「受難の意味」を語る。
第二回(9:31)では、イエスの「受難予告」に対して、やはり弟子たちは理解せず、権力闘争を止め、「子どもを受け入れるよう」受難の意義を訓告される。それにもかかわらずヨハネが「イエスの名前を使うよそ者の奇跡行為者」を排除し、「妨げてはいけない」と戒告され、イエスの受難に関する無理解を示す。
第三回(10:32)では、イエスの「受難予告」に対して、弟子たちは無理解であるばかりか無関心で、ヤコブとヨハネがまたもや権力欲をむき出しにし、イエスに左右の座を求める。イエスは彼らの支配欲を戒め、「受難の意味」を説く。
三度とも、弟子たちの傲慢で威張りたがる性向とは真逆のことを要求し、「受難の意味」を訓告するのである。
マルコの「受難予告」には、イエスの直弟子集団に対する強い批判が描かれている。
「第三回受難予告」は、エルサレムに上る途上が舞台となる。
マルコ10
32彼らはエルサレムに上る途上にあった。イエスが彼らを先立ち導いた。そして彼らは驚いた。従う者たちは恐れた。そしてまた十二人を来させ、自分に生じるであろうことを言いはじめた、33「見よ、我々はエルサレムに上って行く。そして人の子は祭司長、律法学者らに引き渡され、彼らは人の子を死刑に断罪し、異邦人に引き渡すであろう。34そして彼らは彼を嘲弄し、つばを吐き、鞭打ち、殺すであろう。そして三日後に復活するであろう」。
マタイ20
17そしてイエスはエルサレムに上って行く時、十二弟子だけを来させて、途上で彼らに言った、18「見よ、我々はエルサレムに上って行く、そして人の子は祭司長、律法学者たちに引き渡され、彼らは人の子を死刑に断罪し、19異邦人に引き渡し、異邦人が嘲弄し、鞭打ち、十字架につけるであろう。そして三日目に甦るであろう」。
ルカ18
31また十二人を来させて、彼らに対して言った、「見よ、我々はエルサレムに上って行く。そして人の子について預言者によって書かれたことはすべて完成するであろう。32すなわち彼は異邦人に引き渡され、嘲弄され、侮辱され、つばを吐かれる。33そして彼らは彼を鞭打ってから、殺すであろう。そして彼は三日目に復活するであろう」。
マルコが、三人称複数の動詞で、「エルサレムに上る」(anabainontes eis ierosoluma)途上に最後の「受難予告」を設定したのは、「エルサレム」に行くのは「受難」を遂げるためであることを印象付けたかったからであろう。
「先立ち導いた」(proago)という動詞は、pro(前)+ago(導く、連れて行く)という他動詞であり、NWT「先頭を進んで行く」という趣旨の自動詞的な意味ではない。
「彼らを連れて行く」という趣旨。
マルコとしては、弟子たちは何も知らずにイエスに付いて行った、というのではなく、イエスと同じ受難の道を行くために連れて行った、ということ。
「彼らは驚いた」も非人称的三人称複数。
「驚く」とは文字通り「びっくり仰天驚いた」という意味ではなく、奇跡物語の常套句同様、「驚くべき事だった」という意味。
マルコとしては、イエスの決然とした様子を表現したのだろう。
マルコの「第三回受難予告」の内容は、14章以下の受難物語の叙述と密接に対応している。
「人の子は祭司長、律法学者らに引き渡され」→14:53
「彼らは人の子を死刑に断罪し」→14:55,64
「異邦人に引き渡す」→15:1
「彼らは彼を嘲弄し」→15:17-18
「つばを吐き」→15:19
「鞭打ち」→15:15
「殺す」→15:24
「三日後に復活する」→16:6
「鞭打ち」の順番が異なるだけで、受難の具体的な要素がすべて含まれている。
第一回→「人の子は多く受難し、長老、祭司長、律法学者によって破棄され、三日後に復活する」
第二回→「人の子は人々の手に引き渡され、人々は彼を殺し、…三日後に復活する」
と比べると、受難の具体的な出来事を念頭に置いていることが理解できる。
マタイの「第三回受難予告」と受難物語の関係は、
「人の子は祭司長、律法学者たちに引き渡され」→26:57
「異邦人に引き渡し」→27:1
「異邦人が嘲弄し」→cf26:68 (「つばをかけ」→27:30)
「鞭打ち」→27:26、30
「十字架につける」→27:35
「三日目に甦る」→28:6
マタイは「受難予告」では「異邦人が嘲弄した」とあるが、本編の「受難物語」ではイエスを嘲弄したのは大祭司の中庭に集っていた律法学者や長老たちのユダヤ人である。(26:58,68)
マタイは、マルコの「彼らを嘲弄し」をユダヤ人から「異邦人」に変えた。
マタイのユダヤ人贔屓が招いた「異邦人」変更であろう。
マタイの受難予告に「つばをかけ」はない。
マタイは受難予告ではマルコの「つばをかけ」を削除したが、受難物語には「つばをかけ」る場面を入れている。(27:30)
ルカの「第三回受難予告」と受難物語の関係は、
「人の子について預言者によって書かれたことはすべて完成する」
「彼は異邦人に引き渡され」→23:1
「嘲弄され」→cf.22:63,23:11
「侮辱され」→cf.22:64-65,23:11,39
「つばを吐かれる」→無し
「彼を鞭打って」→22:63
「殺す」→23:33
「三日目に復活する」→24:7-8
ルカは、ユダヤ人の祭司長や律法学者に引き渡されることは「受難予告」では削除し、旧約預言の成就とした。
ルカによる付加であるが、おそらく最初期の教会からイエスの受難を旧約成就と解釈しようとするキリスト教伝承が語り継がれていたのであろう。
マルコは単に「嘲弄され」だけであるが、ルカは「侮辱され」を付加した。
「侮辱する」(hybrizO)は、hybris「傲慢、思い上がり」から派生した動詞で、原義は「他人に対して傲慢に振舞う」という趣旨。
「嘲弄する」(empaichtheO)は、語幹となる「子ども」に(pais)接頭語enと動詞語尾をつけたもの。
原義は「相手を子ども扱いする」という意味。
「からかう、あしらう」という趣旨。
NWTは「愚弄され」。
ルカはマタイとは逆に受難予告に「つばを吐かれる」を入れているが、本編の受難物語に「つばを吐かれる」場面は登場しない。
マルコの「三日後」をマタイとルカが「三日目」としているのは、どの受難予告でも共通している。
以上が三者三様の「第三回受難予告」と「受難物語」との関係である。
マルコの「第三回受難予告」で、イエスに関する「無理解」の主役となるのは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネである。
マルコ10
35そして彼のもとにゼベダイの子ヤコブとヨハネがやって来て、言う、「先生、もしも私たちがお願いしたら、それを行ってください」。36彼は彼らに言った、「何をあなた達にしてくれというのか」37彼らは彼に言った、「あなたの栄光において、私たちの一人をあなたの右に、一人をあなたの左に座るようにさせて下さい」。38イエスは彼らに言った、「あなた達は自分が何を願っているのかわかっていない。私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるのか」。39彼らは彼に言った、「できます」。イエスは彼らに言った、「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けるがよい。40私の右や左に座らせるのは、私が与えることではない。備えられているほかの者たちに与えられることである」。
マタイ20
20その時彼らのもとにゼベダイの子らの母親が息子たちとともに進み出て拝礼し、頼みごとをした。21彼は彼女に言った、「何をしてほしいのか」。彼に言う、「私のこの二人の息子があなた様の御国において、一人があなたの様の右に、一人があなた様の左に座るように、とおっしゃって下さい」。22イエスは答えて言った、「あなた達は自分が何を願っているのかわかっていない。私が飲むであろう杯を飲むことができるのか」。彼に言う、「できます」。23彼らに言う、「私の杯を飲むがよい。しかし私の右と左に座らせることは、私が与えることではない。我が父によって備えられているほかの者たちに与えられる」。
ルカ18
34そして十二人はこれらのことを何も理解しなかった。この言葉は彼らから隠されており、彼らは言われたことを認識しなかったのである。
マルコでは、十二使徒のヤコブとヨハネが自ら直接イエスに近づき、権力の座を要請する。
田川訳「もしもお願いしたら、それを行ってください」。(NWT「わたしたちの求めることがどのようであっても、それをしていただきたいのですが」)
直訳は、「もしも私たちが望むことであれば、あなたが行うようにと我々は欲する」。
原文に「お願いする」とは書いていないが、「…するようにと、欲する」という言い方は、6:25のヘロデの娘の言い方と同じである。
日本語感覚からすると、「先生」(didaskale)と呼びかけながら、上位の人にものを頼むのに、自分の欲求を満たすよう求めることは、立場をわきまえていない者の言い方に感じる。
しかしながら、古代ギリシャでも日本人感覚と同じニュアンスであったかどうかは分からない。
もしかしたら、この言い方が丁寧なものの頼み方だったのかもしれない。
彼らの願いは、「あなたの栄光において、左右の権威の座に就かせてほしい」というもの。
「イエスの栄光において」とは、終末時に復活したキリストが万物を支配する「栄光」の座に就く時に、ということ。
十二使徒集団は、キリストの復活を信じた以降、キリストとともに高官の座に就き、権力をふるい、万物を支配することを希望していた、ということだろう。
つまり、「ヤコブとヨハネがイエスに権力の座への就任要請した」という会話はイエスの生前の実話ではなく、イエスの死後、弟子集団によって創作され、教会の権威を正当化するために語られていた伝承であろう。
その伝承をマルコが不愉快に思い、「あなた達は自分が何を願っているのかわかっていない」と彼らの「無理解」を強調する話に再構築させたのだろう。
すべてが、マルコの創作というのではなく、実際にイエスのロギアとして伝わっていた独立伝承も組み合わせて、物語を構成させているものと思われる。
マルコとしては、「備えられているほかの者たちに与えられる」ということを強調したかったのだろう。
「備えられているほかの者たち」(allois hEtoimastai)には二通りの読み方がある。
alloisを一単語として読むなら、単に「ほかの者たちに対して備えられている」となる。
つまり、イエスの左右の座に就くことは、神がそのように備えた人々に対して、与えられる、という趣旨になる。
ヤコブとヨハネにも、他の使徒たちにもその可能性はある。
文頭のallois(ほかの者たち)をall’oisと二つに区切って読めば、oisに気息音を補って、all’hoisとなる。
hoisは関係代名詞複数与格で、allは否定の意味の副詞もしくはhoisにかかる前置詞と読めば、「そうではなく、それが備えられているところの者たちに対して」となる。
こちらは、イエスの左右の座に就くことは、ヤコブやヨハネではなく、備えられているほかの者たちに与えられる、という趣旨になる。
ヤコブとヨハネにその可能性はないと読むことになる。
マルコは残りの使徒たちも彼らと同類とみなしているから、彼らにも可能性はないことになる。
イエスの「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」という言葉は、イエスと同じ受難の道を歩むことができるか、という趣旨である。
ヤコブとヨハネは「できます」と答えるが、イエスは「できる、と言うのであれば、同じ受難の道を歩めばよろしい」と彼らの野望を無視してそっけなく答える。
その上で、そんなことは「備えられているほかの者たちに与えられることだ」と答えるのである。
おそらく、マルコとしては、十二使徒集団はそもそもイエスの受難の意味を何も理解していない。
イエスとともに高位の座に就くことを求めるような、支配欲が強く、偉くなりたがるヤコブとヨハネなんぞの弟子集団に権力の座が与えられるはずもない、そもそも支配権力の座を求めようとすること自体が間違いだ、とでも言いたいのであろう。
マタイは、イエスの左右の座に就くことをイエスに求めたのは、ヤコブとヨハネではなく、彼らの母親であることにした。
マタイとしては、聖なる使徒ヤコブとヨハネが権力欲丸出しの欲望を自らイエスに願い出た事にはしたくなかった。
それで、聖人である使徒様の名前を出さずに、「ゼベダイの子らの母親」が息子たちとともに進み出て、就任要請した、という設定に変えたのであろう。
息子たちも母親に同行し、共にイエスに願い出ているのだから、同じことではあるが、母親の願いを叶えようとする十戒に服する親孝行な息子たちを演出したかったのであろうか。
権力欲丸出しの使徒様ではなく、批判を母親にすり替えたかったのだろうか。
どちらにしろ、マタイの使徒聖人信仰がマルコの設定変更を要求したのであろう。
この設定変更が、マタイの小細工であることは、22節のイエスの返答の言葉が証明している。
22「あなた達は自分が何を願っているのかわかっていない」とマタイはマルコをそのまま写している。
マタイは、母親が願い出たことに設定変更したことなど忘れたかのように、ヤコブとヨハネが自らの意思で直接イエスに近づき、野心丸出しで権力の座に就任要請したことを明らかにしている。
マタイは、マルコの「あなたの栄光において」(en tE doxE sou)という句を「あなた様の御国において」(en tE basileia sou)に変えた。
どちらも終末時におけるキリストの再臨時の支配を指しているが、マタイはマルコの「栄光」ではわかりにくいと思ったのか「御国」としてくれた。
マルコの「備えられているほかの者たち」の句に、マタイは「我が父によって」という句を付加している。
マルコにおける「ほかの者たち」(all hois)とは文脈からすれば、ヤコブとヨハネに限らず「十二使徒以外」のキリスト信者を指し、キリスト信者に限らず、誰であろうと「イエスと同じく受難の道を歩む者たち」を想定していると思われる。
しかし、マタイにおける「ほかの者たち」(allois)とは、マルコとは真逆で、ヤコブとヨハネに限らず、ほかの「使徒たち」も含めて、使徒たちの中で、「神のよって備えられている者たち」を想定しているように思われる。
NWTはマルコもマタイも「神のよってそれが備えられている者たち」という趣旨に読んでいる。
マルコにマタイを読み込んでいるのだろう。
ルカは、マルコのヤコブとヨハネを含む「十二使徒批判」の個所を全部削除し、彼らが「受難予告」を「何も理解しなかった」だけのことにした。
しかも、その理由は「彼らから隠されていた」からであるとしている。
つまり、弟子たちがイエスの受難の意味を理解できなかったのは、神による秘義として弟子たちには隠されていたからである、という論理にすり替えているのである。
いわゆる「メシアの秘密」ドグマであるが、これもペテロやヤコブやヨハネなどの実態を否認する「十二使徒聖人信仰」の産物であろう。
ルカが「第三回受難予告」の結びで「メシアの秘密」に設定した句は、マルコの「第二回受難予告」の結びの句(9:32)を元としている。
ただし、マルコでは「メシアの秘密」であるという趣旨ではなく、ただただ「十二弟子」たちのイエスに対する「無理解」を指摘しているだけの弟子批判の句である。
ルカとしては、マルコの文をよりよく修正してやろうと思い、最後の「受難予告」となる「第三回」に、ルカの言うところの「メシアの秘密」の句を結びとしたのだろう。
だが、そうすることによって、マルコの文を何も理解していないことが暴露される結果となっている。
マルコは「第三回」に弟子たちの無理解批判の句を置かなかったのは、すぐ続けて、ヤコブとヨハネだけでなく残りの十人の使徒たちも彼らと同じくイエスに関して無理解であることを批判する記事を置いているからである。
「第三回」の結びに、弟子批判の句を置く必要はなかったのである。
ルカは、マルコのヤコブとヨハネ批判だけでなく、残りの十人の使徒批判も丸ごと削除し、すべての「十二人はこれらのことを何も理解しなかった」ことが、「メシアの秘密」であるとするキリスト教ドグマに改竄したのである。
マルコはヤコブとヨハネ批判に続けて、残りの十人の使徒についても「受難の意味」について無理解であることを示す批判を展開する。
マルコ10
41そして十人の者がこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことについて憤りはじめた。42そしてイエスは彼らを呼びよせて、彼らに言う、「諸民族を支配しているとみなされている者たちが彼らに君臨し、彼らのうちの大きい者たちが彼らに対して支配権力をふるっている、ということをあなた達も知っていよう。43あなた達にあってはそうではない。あなた達にあって大きい者となりたい者はあなた達に仕える者となり、44あなた達にあって第一者となりたい者は万人の奴隷となるがよい。45というはまさに、人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、自分の生命を多くの者のために身代金として与えるためである」。
マタイ20
24そして十人の者がこれを聞いて、この二人の兄弟のことについて憤った。25イエスは彼らを呼びよせて、言った、「あなた達も知っているように、諸民族を支配している者たちが彼らに対し君臨し、地位の高い者たちが彼らに対し支配権力をふるっている。26あなた達の間では、そうであってはならない。あなた達の間で大きい者となりたい者はあなた達に仕える者となり、27あなた達の間で第一者となりたい者はあなた達の奴隷となるがよい。28それは、人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、自分の生命を多く者のために身代金として与えるためであるのと同様である」。
ヤコブとヨハネがイエスに高官への就任要請したことに、残りの使徒たち全員が憤った。
彼らも同じ権力を希求する野心的欲望を抱いていていたからであろう。
イエスが「彼ら」を呼び出して、説教するのであるが、「彼ら」とは文法的には「十人の者」を指す。
しかし、話の内容からすれば、ヤコブとヨハネと同じ動機を持っていたのであるから、マルコとしては「十二人」を想定しているのだろう。
マルコのイエスは「諸民族の支配者の在り方」と「十二使徒(キリスト信者)の在り方」を対比させている。
マルコは「諸民族を支配している者」ではなく「…とみなされている者たち」と皮肉的な言い方をしている。
原文のethnEという語を「諸民族」と解するか「異邦人」と解するかはともかく、「支配する」(archO)という動詞は、属格支配の動詞で、支配する相手を属格に置いて用いる。ethnEはachOの実質的な目的語である。
NWTは「諸国民を支配しているように見える者たち」と訳しているが、銀色のRNWTは「国々の支配者とみなされている人たち」と訳している。
和訳聖書の多くも、「諸民族の支配者」もしくは「異邦人の支配者」と訳している。
「諸国民を支配している者」「国々の支配者」とは、「自らが諸国民である支配者」という趣旨ではなく、実態として「諸国民を支配している支配者」という意味である。
支配者の出自とは無関係である。
RNWTの「国々の支配者」は「諸国民出身の支配者」という意味に読まれる可能性がある。
これでは改訂版ではなく改悪版である。
マルコとしては、「諸民族を支配している者」とは「ローマ帝国」を想定しているのであろう。
実際、マルコ当時の社会で、「諸民族の支配者」として君臨していたのは、ローマ帝国以外に存在していない。
「支配する」(archO)という動詞は直訳すると「はじめの者である、最初の者である」という意味である。
本来の意味からすると、「支配している者」(archOn)という言い方は、どちらかと言うと敬意を込めた言い方である。
マルコとしては、ローマ帝国の支配者を尊称で「最初である者」とは呼びたくない。
それで、世間ではそう思われているけれども、という思いを込めて、「みなされている」(dokountes)という分詞を加えて、「諸民族を支配しているとみなされている者」(hoi dokountes archein tOn ethnOn)と屈折した表現したのであろう。
「彼らのうちの大きい者たち」というのは、ローマ帝国の高官を指し、彼らが諸民族に対して支配権力をふるっている事を批判している。
マルコのイエスは「あなた達にあってはそうではない」(en humin all)と告げる。
マタイの原文もen humin allであり、マルコと全く同じである。
田川訳はマルコの原文のen huminを「あなた方にあって」と訳しているが、マルコと全く同じ表現であるマタイの方は、「あなた方の間では」と訳している。
和訳聖書は文語訳「汝らの中にては」以外すべて「あなた方の間では」と訳されている。実質的にはすべての和訳聖書が「あなた方の間では」という趣旨である。(NWT「あなた方の間では」)
田川訳が、同じ表現の原文をマルコとマタイで訳し分けているのは、ある意図があるからであろう。
多くのキリスト教の解説は、マルコの「あなた達にあってそうではない」という意味を、キリスト信者の支配者(指導者)は、異邦人の支配者のように、威張って権力を振るってはならない、と解している。
キリスト信者の支配者(指導者)は、誰に対して権力を振るうのか?
当然、「キリスト信者に対して」、と解している。
「諸国民の支配者が諸国民を支配権力振るって支配している」が、「キリスト教の支配者(指導者)はキリスト信者を支配(指導)するのに、彼らのようであってはならならない」と解している。
43「あなた達に仕える者」と44「万人の奴隷」を同義に解釈し、キリスト信者の支配者(指導者)は、「仲間の信者」に対して「奴隷」が「仕える者」であるように「仕える者」であれ、と解釈するのである。
WTも同様である。
*** 塔07 4/15 25ページ 3節 会衆は築き上げられる ***
イエスは言葉と行ないにより,会衆内の一部の人々が指導の任に当たるようになることを教えました。それらの人は,会衆内の他の人たちに仕えて働くことによってその務めを果たします。キリストはこう言いました。「あなた方は,諸国民を支配しているように見える者たちが人々に対して威張り,その偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。あなた方の間ではそうではありません。だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず,また,だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はみんなの奴隷でなければなりません」。(マルコ 10:42‐44)ですから,「神の会衆」が,ただ各地に散在して何のつながりも持たない人々の,漠然とした集合体となるのでないことは明らかです。会衆は組織立ったものとなり,そこに属する人々が交流し合う場となるのです。
しかしながら、マルコのイエスが弟子たちに対して「あなた達にあってはそうではない」と訓戒したのは、そのような意味ではない。
マルコのイエスは、はっきりと「万人の」(pantOn)と語っているのであるから、キリスト教内の人間たちに限定しているわけではない。
マルコは、「諸民族を支配する者の支配方法」と「キリスト信者に対するキリスト教の支配者(指導者)の支配方法」とを対比させているのではない。
マルコが生きていた当時の「ローマ帝国が支配する社会における人間の在り方」と「使徒たち(キリスト信者)としての人間の在り方」とを対比させているのである。
どういう意味の違いがあるのか。
ローマ帝国では、高官たちが諸民族に対して支配権力をふるっている社会であるが、キリスト信者である「あなた達にあってはそうではない」と言っている。
この「あなた達にあってはそうではない」というのは、「あなた達にあっては地位の高い者が支配権力を振るうことを是とする社会体制であってはならない」という意味であろう。
とすれば、十人の使徒であるキリスト教の指導者であるとみなされている者たちに対して語った言葉とは、「あなた達自身は、キリスト信者を支配している者、そういう者であってはならない」ということであろう。
つまり、キリスト教信者の支配者は「異邦人の支配者のようになるな、異邦人の支配者ように支配するな」というのではなく、キリスト信者たる者は「支配者という存在そのものになるな」という趣旨であろう。
マルコのイエスは、弟子たちに対して、大きい者やとく第一者なんぞになりたがるのではない。それは諸民族を支配したがる支配者と同じことだ。
キリスト信者というのであれば、支配者という立場なんぞになりたがるな、と言っているのであろう。
これは、「第二回受難予告」の後に「受難の意味」を説くために、「子どもを受け入れよ」説教(9:35-36)で「十二人を呼びつけて」訓戒したことと同じ趣旨である。
9:35「もしも誰かが第一者であろうと思うなら、万人の最後の者、万人に仕える者となるがよい」。
「第一者」(princeps)とは、普通は「政治的に最高の地位にある者」を指す。
「万人」(pantOn=all)とは、「すべての人々」という意味。
マルコのイエスが互いに「誰がより大きいか」と権力争いしていた「十二人」を呼びつけて、説教したのは、単に偉い人になりたいと思うなら、人様には先を譲りましょう、むしろ奴隷のように人様に仕えましょう、という謙遜の美徳を説いているわけではない。
「第一者であろうと思う」ということは、行政の長や皇帝となり、他人を支配して、儲けたり、威張りくさる事と同じである。
そんな輩になろうと思う奴は、「万人の奴隷」となれ。
むしろ「政治的な支配者や高官であろう」などと思うな、権威を振るって、自教団以外の者を排除するのではなく、「すべての人々に仕える者」となれと厳しく弟子たちの態度を批判しているのである。
マルコはイエスに関して無理解な弟子たちに対して「第三回受難予告」でも「受難の意味」を繰り返し、彼らを厳しく批判しているのだろう。
しかし、マタイのイエスが言う「あなた達の間ではそうであってはならない」という言葉はマルコと同じ意味ではない。
マルコの「そうであってはならない」(ouch houtOs de estin)は、現在形で「そうではない」と言い切っている。
「ローマ帝国」の現存と「使徒たち」の現存とを対比して、「そうであってはならない」と言っているのである。
しかし、マタイは「そうであってはならない」(ouch houtOs de estai)を命令の未来形に変えた。
現在のあなた達の状況はともかく、「将来においてあなた達は、諸民族を支配している者と同じようであってはならない」という趣旨になった。
さらにマタイは、マルコの「万人の奴隷となるがよい」を「あなた達の奴隷となるがよい」に変えた。
マタイは、キリスト信者が仕える者となる対象をキリスト教内に限定したのである。
その結果マタイでは、「諸民族の支配者における諸民族に対する支配の仕方」と「キリスト信者の支配者(大きい者)におけるキリスト信者に対する支配の仕方」の対比という構図にすり替わってしまった。
そのおかげで、マルコとマタイのイエスが結びで語る全く同じ言葉の「受難の意味」も異なる意味を持つものとなった。
マルコでは、「万人の奴隷」となるがよい、という文を、「というのは」(gar)という理由を説明する接続詞で受けて、イエスは「自分の生命を多くの者ために身代金として与えるためである」と「受難の意味」を語る。
マルコのイエスにおける「多くの者」とは「万人」つまり、キリスト信者に限らず、諸民族からなるあらゆる万人の多くの者のために、イエスは自分の生命を与えるのだ、と語る。
マタイでは、「あなた達の奴隷」となるがよい、という文を、「同様に」(hOsper)という強調の副詞で受けて、「自分の生命を多くの者ために身代金として与えるためである」とイエスは「受難の意味」を語るのである。
「あなた達の間では、そうであってはならない」と命令の未来形の文で語られているのだから、マタイのイエスにおける「多くの者」とは将来「キリスト信者」になるであろう「多くの者」に限定することになった。
つまり、マタイのイエスは将来「キリスト信者」となるであろう多く者のために、自分の生命を与えたのであり、キリスト信者以外のために自分の生命を与えたのではない、という趣旨になったのである。
田川訳が、マルコとマタイに出て来る原文の(en humin)を、マルコでは「あなた達にあっては」と訳し、マタイでは「あなた方の間では」と訳し分けた理由は、どちらも同じ意味に読まれてしまうことを避けたかったからであろう。
マルコのen huminをマタイと同じく、「あなた達の間では」と訳してしまうと、マルコの文も「あなた達キリスト教信者の間においては」というマタイと同じ趣旨に解されてしまうかも知れないからであろう。
マルコの「あなた達にとっては」の「あなた達」とは、「万人の奴隷」となれ、という言葉が示しているように、キリスト教会内部の人間関係に限定しているわけではない。
マルコのイエスの福音は「万人のあなた達」を対象としているのであり、イエスの受難は「多くの万人のために身代金として与えるため」であると語るのである。
マルコにおけるイエスの「受難」は、マタイのイエスのような、将来キリスト信者となるであろう多くの者たちのために限定されている「受難」ではない、と語るのである。
ルカには、ヤコブとヨハネによる高官就任要請の記述も、彼らに対する十人の使徒たちによる憤りの記述も存在しない。
その代わり、マルコとは別伝承の記事を「過越しの食事」物語の後に置いている。
参ルカ22
24そこでまた彼らの間で争い好みが生じた。彼らのうちで誰がより大きいと思えるか、というのである。25彼は彼らに言った、「諸民族の王は彼らに対し君臨し、彼らに対して権力をふるっている者たちは善を施す者と呼ばれているが、26あなた方はそうであってはならない。あなた方の中でより大きい者は若衆のようになり、指導者は奉仕者のようになれ。27食卓に座る者と給仕する者と、どちらがより大きいか。食卓に座る者ではないのか。だが私はあなた方の中で奉仕者のようになった。
マルコとは言葉遣いも異なり、別伝承である可能性が高い。
マルコの「諸民族を支配しているとみなされている者たち」(hoi dokountes archein tOn ethnOn)に対し、ルカは「諸民族の王」(hoi basileis tOn ethnOn)。
マルコにはルカの「善を施す者」(euergetEs)という語は出て来ない。
原義はeu(良い)+ergetEs(働く者)、つまり「良いことを働く者」「善行者」という意味。
政治的有力者に対する称号として使われるようになり、実際に良い貢献をした王や都市の有力者に対する尊称として使われた。
マルコの「支配している者」(archon)に対応するが、原義は異なっており「最初である者」の意。
異なる由来の言葉である。
「あなた方はそうではあってはならない」と言われているのだから、ルカも決して良い意味で使っているわけではない。
ルカがマルコの皮肉的表現をよりギリシャ語的な表現に変えてくれた可能性もある。
マルコの「あなた達にあって大きい者となりたい者はあなた達に仕える者となり」をルカは「あなた方の中でより大きい者は若衆のようになり」と述べている。
ルカの「若衆」(neOteros)は、「若い」(neos)の比較級。
新約でneosは「若い」というよりは「新しい」という意味で用いられるのが普通。(マルコ2:22ほか)
それに対し、比較級の方は、人間に対して「より若い」の意味で用いられる。(ルカ15:12ほか)
しかし教会用語としては、「長老」に対する「若衆」という意味で、「教会の指導者」に対する「未熟な信者」の意味で用いられている。(第一ペテロ5:5)
ルカの「指導者は奉仕者のようになれ」は、教会内の戒律を表現したもの。
「教会内の指導者」は「教会内の雑用係」のように謙虚に振舞わなければならない、というもの。
もちろんイエスの言葉ではありえない。
教会内の指導要綱であり、イエス死後、教会によって創作された伝承であろう。
ルカが「食卓に座る者」と「給仕する者」とを登場させ、どちらがより大きいかの論議を対比させたのは、最後の晩餐でイエスが弟子たちにパンを配ったからであろう。
ルカは、イエスが弟子たちに食卓でパンを配った行為を、イエスが「仕える者」として弟子たちに奉仕する行為だと勘違いしたのであろう。
ルカは「誰がより大きいか」という論議を、第二回受難予告(9:46)で扱っているが、「諸民族の王は…、あなた方は…奉仕者のようになれ」というイエスのロギアを採用したいので、その導入句としてもう一度くり返すことにしたのであろう。
その適用としてルカは「食卓に座る者」であるイエスが、「より大きい者」であるにもかかわらず、弟子たちに対して「給仕する者」となったのであるから、「弟子たち」も「新しい信者」や「教会の雑用係」に対しても「奉仕者のように」、謙虚でありなさい、という説教に結び付けたかったのであろう。
「第三回受難予告」と直接の関係はないが、マタイの写本の中には、28節の後に、付加されている文が付いているものがある。(『訳と註』p365参照)
D写本、及びそれと同じ流れのラテン語訳の多くとシリア語訳の一つに、以下の文が付加されている。
もちろん原文ではありえないが、D写本の系統にはこの種の付加が多い。
「あなた方は、小さいものらから大きくなっていくよう、また大きいものから小さいものが生じるよう、求めがよい。来て、晩餐に招待されたら、目立つ場所に座らぬがよい。あなたよりも上の立場の人が来たら、晩餐の主人があなたのもとに来て、下の方に移って下さい、と言われたりすることになりかねないから。そうしたら恥をかくことになろう。もしもより低い場所に座れば、あなたより低い立場の者が来たら、晩餐の主人があなたに言うだろう、もっと上の方にいらっしゃって下さい、と。それならあなたにとって役に立つだろう。」
この文と似た趣旨の伝承は、ルカ14:8-10にも置かれている。
ただし言葉遣いなどはだいぶ異なっているから、マタイの付加とは別伝承であろう。
この種の月並みな教訓がイエスの単独伝承として教会内にいろいろ流布していて、ルカのところにも、D写本の写本家のところにも届いており、それを写本家がマタイ福音書に組み込み、さらに各地に流布されていったことが想像できる。
ちょうどJWにおける著名人の講演内容や経験や譬話のエッセンスが語り手の脚色と適用を加えながら、まことしやかに本人の言として伝播していくのと同様であろう。
以上が、三者三様の「第三回受難予告と受難の意味」物語である。