マルコ10:13-16 <子どもを受け入れる> 並行マタイ19:13-15,18:3、ルカ18:15-17
マルコ10 (田川訳)
13そして彼にさわってもらおうと、子どもたちが彼のもとに連れて来られる。だが弟子たちは子どもたちを叱りつけた。14イエスは見て、憤り、彼らを叱りつけて言った、「子どもたちが私のもとに来るがままにせよ。妨げてはいけない。神の国はこのような者たちのものだからだ。15アーメン、あなた方に言う、神の国を子どもを受け入れるようにして受け入れるのでない者は、そこに入ることはできない」。16そして子どもたちを腕でだきあげ、その上に手を置いて祝福した。
マタイ19
13その時、彼に手を置いて祈ってもらおうと、彼のもとに子どもたちが連れて来られた。だが弟子たちは彼らを叱りつけた。14イエスは言った、「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のもとに来るのを妨げてはいけない。天の国はこのような者たちのものだからだ」。15そして彼らに手を置いてから、そこを去った。
マタイ18
3言った、「アメーン、あなた方に言う、たちもどって、子どものようにならなければ、天の国に入ることはできない。
ルカ18
15彼にさわってもらおうと、赤ん坊が彼のもとに連れて来られる。だが弟子たちはこれを見て、彼らを叱りつけた。16しかしイエスは赤ん坊を呼び寄せ、言った、「子どもたちが私のもとに来るがままにせよ。妨げてはいけない。神の国はこのような者たちのものだからだ。17アメーン、あなた方に言う、神の国を子どもを受け入れるようにして受け入れるのでない者は、そこに入ることはできない」。
マルコ10 (NWT) [RNWT]
13 さて,彼に触っていただこうとして,人々が幼子たち[paidia幼い子供たち]をそのもとに連れて来るのであった。ところが,弟子たちは彼ら[autois人々]をたしなめた[叱りつけた]。14 これを見て,イエスは憤然として彼らに言われた,「幼子たち[paidia子供たち]をわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなりません。神の王国はこのような者たち[toioutOnこの子供たちのような人]のものだからです。15 あなた方に真実に言いますが,だれでも,幼子[paidion幼い子供]のように神の王国を受け入れる者でなければ,決してそれに入れないのです」。16 それから,子供たち[auta子供たち]を自分の両腕に抱き寄せ,その上に[auta]両手を置いて祝福しはじめられた[祝福があるようにと願い始めた]。
マタイ19
13 その時,幼子たち[paidia幼い子供たち]が彼のところに連れて来られた。手をその上に置いて祈りをしていただくためであった。ところが弟子たちは彼ら[autoisその人たち]をたしなめた。14 しかしイエスはこう言われた。「幼子たち[paidia子供たち]を構わずにおき,わたしのところに来ることを妨げるのをやめなさい。天の王国はこのような者たち[toioutOnこの子供たちのような人]のものだからです」。15 こうして,手をその上に[autois子供たちに]置いてから,そこを去って行かれた。
マタイ18
3 こう言われた。「あなた方に真実に言いますが,身を転じて[straphete心を入れ替えて]幼子[paidia幼い子供]のようにならなければ,あなた方は決して天の王国に入れません。
ルカ18
15 さて,人々は,[イエス]に触っていただこうとして,自分の幼児たち[brephE幼児たち]をもそのもとに連れて来るようになった。ところが,弟子たちはそれを見て,彼ら[autois人々]をたしなめるのであった[叱りつけ始めた]。16 しかし,イエスは[幼児]たち[brephE幼児たち]を自分のもとに呼んで,こう言われた。「幼子たち[paidia子供たち]をわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなりません。神の王国はこのような者たち[toioutOnこの子供たちのような人]のものだからです。17 あなた方に真実に言いますが,だれでも,幼子[paidion幼い子供たち]のように神の王国を受け入れる者でなければ,決してそれに入れないのです」。
マルコのこの話は、「よそ者の奇跡行為者」と同じ構造の弟子批判である。
イエスにさわってもらうために子どもが連れて来られる。
だが、弟子たちはイエスに近づくことを妨げ、叱りつける。
イエスは弟子たちのその態度に憤り、逆に弟子たちを叱りつける。
そして実際に「子ども」を抱き上げ、教訓を与える。
弟子たちの排他的な態度に対する批判である。
弟子たちは「よそ者の奇跡行為者」でも、イエスの名前を使って病気治療をしている者たちに対しても排他的に行動していた。
マルコのイエスは、「我々に反対でない者は、我々に賛成する者である」と受容の精神を示し、ヨハネをはじめとする弟子たちに対して、「イエスを信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者」は、ゲヘナに投げ込まれるがよい、という趣旨の排除の精神を厳しく戒めた。
だが、弟子たちはイエスの言葉から何も学ばなかったようである。
マルコでは、子どもたちがイエスのもとに連れて来られる場面から物語が始まる。
マルコ10
13そして彼にさわってもらおうと、子どもたちが彼のもとに連れて来られる。だが弟子たちは子どもたちを叱りつけた。14イエスは見て、憤り、彼らを叱りつけて言った、「子どもたちが私のもとに来るがままにせよ。妨げてはいけない。神の国はこのような者たちのものだからだ。
マタイ19
13その時、彼に手を置いて祈ってもらおうと、彼のもとに子どもたちが連れて来られた。だが弟子たちは彼らを叱りつけた。14イエスは言った、「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のもとに来るのを妨げてはいけない。天の国はこのような者たちのものだからだ」。
ルカ18
15彼にさわってもらおうと、赤ん坊が彼のもとに連れて来られる。だが弟子たちはこれを見て、彼らを叱りつけた。16しかしイエスは赤ん坊を呼び寄せ、言った、「子どもたちが私のもとに来るがままにせよ。妨げてはいけない。神の国はこのような者たちのものだからだ。
マルコでは、子どもたちは、単に「さわってもらおう」としてイエスのもとに連れて来られた、という設定である。
マタイはそれを「手を置いて祈ってもらおう」として連れて来られた、という設定に変えた。
「手を置く」行為はユダヤ教の祝福の動作である。
「手を置く」ことを望むのは、宗教的聖者に「祈ってもらう」ことにより何らかの御利益を期待してのことである。
マタイのイエスは宗教的聖者となって、子どもたちとその親に祝福を与える存在なのである。
マルコの13「だが」(de)は、一応逆接の接続詞であるが、最も軽い接続小辞の一つ。
マタイやルカは主語の交代を指示する接続小辞として用いることも多い。
マルコは接続小辞としてほぼkaiだけを用いており、他の新約著者に比べるとdeが登場することは非常に少ない。
つまり、マルコにおいてdeが登場する箇所は、非常に強く逆接の意味を強調していることになる。
「子どもたちが連れて来られた」という文と「弟子たちは子どもたちを叱りつけた」をdeで繋いでいる。
つまり、マルコは「弟子たち」の子どもたちに対する態度に、非常に反感を持っている、ということを示している。
「連れて来られる」(NWT「人々が連れて来る」)の原文は、非人称的三人称複数の動詞があるだけで、直訳は「彼らは連れて来た」である。
しかし、特定の「人々」を想定しているのではなく、この文の主役は連れて来られた「子ども」である。
それで、田川訳は「子どもが連れて来られた」と受身形に訳している。
その主役である「子どもたち」に対して、「弟子たち」は「叱りつけた」(epetimOn)。
その様子を見たマルコのイエスは、「憤り」、逆に「弟子たち」を「叱りつけた」(epetimOn)。
NWTは「憤然として彼らに言われた」と「叱りつける」という語を省いている。
省いているのはNWTだけではない。
主な和訳聖書(共同訳から文語訳まで)は全部省いている。
アレクサンドリア系や西方系の写本は、「叱りつける」を省いており、その読みに従がったもの。「叱りつける」を入れているのはカイサリア系の写本のみ。
カイサリア系以外の写本は、「憤り」と「叱りつける」は重複すると考え、省いたのであろう。
しかし、マルコにおいてはカイサリア系の読みはアレクサンドリア系や西方系以上に重要であり、正文批判からしても、カイサリア系の読みが原文である可能性が高い。
マルコは「憤り」と「叱りつける」という同趣旨の動詞をくり返し、「弟子たち」を主語にして「叱りつけた」とする動詞を、すぐにイエスを主語にして「弟子たち」に対して同じ動詞を繰り返し用いているのである。
マルコとしては、「いくらなんでも弟子さんたちよ、子どもたちに対するその扱いと態度はひどいんじゃないの」という感情があるのだろう。
マタイは、マルコの「憤り」を削除しただけでなく、弟子たちを「叱りつけた」ことも削除した。
弟子たちに対するイエスの否定的な感情を消した上で、弟子たちの態度を見たイエスが、弟子たちを教えるために「言った」という設定にした。
ルカは、マタイと同じくマルコの「憤り」と「弟子たちを叱りつけた」ことを削除し、イエスの感情を消しただけでなく、イエスが「赤ん坊」を呼び寄せて、弟子たちを教えるという設定に変えた。
マルコでは、子どもを「腕で抱き上げる」のは、弟子たちを教えた後の出来事である。
マタイはマルコの13「子どもたち」(paidia)をそのまま13「子どもたち」(paidia)と写しているが、ルカは15「赤ん坊」(brephE)に変えた。
ところがルカはイエスのセリフに関しては、「赤ん坊」(brephE)ではなく、16「子どもたち」(paidia)としている。
そのままマルコを写してしまったのであろう。
「子どもたち」には「赤ん坊」も含まれると言ってしまえばそれまである。
だが、ルカとしては弟子たちを教える前に、「赤ん坊」を「呼び寄せる」方が、愛情深いキリスト様を演出させる効果が高いと考えたのだろうか。
それなら、イエスのセリフの「子どもたち」も「赤ん坊」に変えれば良かったのに…。
もしかしたら、導入の設定変更に満足して、マルコの「子どもたち」を「赤ん坊」に変えたのを忘れて、イエスのセリフに関してはそのままマルコを写してしまったのかもしれない。
話はちょいと横道に逸れるが、WTはルカ2章に出て来るbrephos,paidion,paisを訳し分けることは重要であり、新世界訳が古典ギリシャ語学者に感銘を与えていると自画自賛している。
*** 塔95 4/15 32ページ 「新世界訳」が学者に感銘を与える ***
古典ギリシャ語学者ラケル・テン・ケイト博士によると,オランダ語訳聖書には,正確に訳出されていない言葉がいくらかあります。例えば,ルカ 2章の中には,イエスの一連の成長段階を表わすのに,三つの異なったギリシャ語(ブレフォス,パイディオン,パイス)が使われています。これらの言葉には,それぞれの意味に微妙なニュアンスの違いがあります。ところが,多くの聖書では,これらの言葉の二つが,あるいは三つとも,あいまいに「子供」と訳されています。正確なのはどのような訳でしょうか。
テン・ケイト博士は,12節に出てくるギリシャ語のブレフォスは「新生児,あるいは赤子」,27節で使われているパイディオンは「幼い少年,あるいは子供」を意味しており,43節に出てくるパイスは「少年」と訳されなければならない,と説明しています。「ベイベル・エン・ヴェイテンシャプ(聖書と科学)」誌,1993年3月号の中で,テン・ケイト博士は次のように書きました。「私の知る限りでは,これらの言葉が正確に訳出されている,言い換えるならば完全に原本と一致しているオランダ語訳聖書は一つもない」。
その後,テン・ケイト博士は「新世界訳聖書」を見せられました。この聖書は,オランダ語を含む12の言語で入手できます。博士はどんな反応を示したでしょうか。「用法の異なる三つのギリシャ語,ブレフォス,パイディオン,パイスが正しく考慮されているオランダ語訳聖書が実際に存在するとは,非常に驚きました」と述べました。「新世界訳」は,それらの節を元のギリシャ語本文に即して訳しているでしょうか。「完全に一致しています」と,テン・ケイト博士は答えています
NWT英訳は、「子どもたち」(paidionの複数形)をyoung children(KI:the little children)、と訳し、ルカの「赤ん坊」(brephosの複数形)を(KI:the infants)と訳し分けている。
NWT和訳は「子どもたち」(paidionの複数形)を「幼子」と訳し、ルカの「赤ん坊」(brephosの複数形)を「幼児」と字面上は一応訳し分けている。
「子」と「児」と漢字が異なるので、「児」の方がより幼いと読ませたいのであろう。
しかしながら発音上はどちらも「おさなご」となる。
ルカの「子どもたち」(NWT「幼子」)は「赤ん坊」(NWT「幼児」を指していることは明らかである。
オランダ語NWTが「子どもたち」と「赤ん坊」を明確に区別していることを誇るのであれば、なぜ日本語ではわざわざ「同じ発音」の語を当てたのであろうか。
英語のyoung childrenとinfantsの訳でも区別していることは明らかである。
どちらも同じ年頃の「子ども」とは思う人はいないであろう。
マルコ・マタイの「幼子」とルカの「幼児」との違いを指摘されたくなかったのだろうか。
聖書霊感説信仰のJWのために、聖書無謬説を擁護し、護教精神を発揮させ、両方の単語が出て来るルカの不備を悟らせないように、どちらも同じと言えば同じ意味に読めるように配慮してくれたのだろうか。
違う意味の語であるなら、違いがわかるように訳すか、違いをわからなくしたいのなら、訳し分けていることを誇らなければ良いのに…。
残念!
一応、ギリシャ語のカテゴリーからすると、brephosは「新生児」や「乳飲み子」が想定されるが、paidionは学童以下の保育児程度が想定される。
paisは指小辞が付いておらず、「子ども」だけでなく、召使、奴隷も意味するから、「子ども」であっても大人ではなく、大人の仕事の手伝いができる程度の年齢が想定される。
日本語感覚的には、丁稚奉公、現代ならアルバイト出来る以上の「子ども」ということだろう。
銀色のRNWTは原文無視の護教精神にあふれたさらにひどい改竄訳となっている。
NWT訳文に、原文に出て来るbrephosとpaidionに[ ]でRNWT表記を足しておいた。
違いはbrephosとpaidionの違いだけではなく、さらに表現を変えている箇所もあり、WT解釈が本文に織り込まれている。
NWTは、「弟子たち」は子供たちがイエスに近づくのを、実際に「妨げた」のではなく、「妨げようとした」だけで、実際には「妨げてはいない」と読ませようとしている。
原文の「妨げた」(NWT「止めようとした」)は未完了過去形で、実際に行なわれた事実を表現している。
意図したけれどもやらなかった、などという意味はない。
「よそ者の奇跡行為者」の9:39「やめさせた」と同じく、NWTはconative に訳そうとするのは、原文を無視した護教主義的改竄である。
それだけでなく、弟子たちが「叱りつけた」(NWT「たしなめた」)のは、「子どもたち」ではなく、「子どもたちを連れて来た人々」であるように読ませようとしている。
それで原文には「人々」という主語があるわけでもないのに、[ ]も付けずに「人々」という主語を置いたのだろう。
NWTでは、弟子たちは「彼らをたしなめた」とまだ原文の人称代名詞autoisを「彼ら」と訳している。
一応連れて来られた「子どもたち」を指すと読める。
autoisは男性形複数与格であるが、その前に出て来る複数形の名詞は「子どもたち」と「弟子たち」だけであるから、原文では「子どもたち」を指しているのが明らかである。
ところがRNWTでは、「彼らをたしなめた」ではなく、「人々を叱りつけた」と改訂(改竄)した。
これでは、弟子たちが叱りつけたのは「子どもたち」ではなく、子どもたちを連れて来た「人々」を指すと読むことになる。
ルカもマルコと同様である。
「彼らをたしなめた」ではなく、「人々を叱りつけ始めた」と改訂(改竄)している。
マタイにおいては、autoisを「その人たちを叱りつけた」と改訂(改竄)し、「幼い子どもたちを連れて来た親たち」を指すと読ませようとしている。
原文を無視してまで、弟子たちに対する批判を排除し、すり替え、聖書に弟子たちを批判する個所などあろうはずがないという聖書霊感信仰を守ろうとしているのだろう。
同じようにマタイやルカにも原文を無視して、誤読に誘導しようとする意図が感じられる表現が特にRNWTにはいろいろ見られる。
どこが原文に忠実な字義訳聖書なのか、翻訳した方々にお聞きしたいものです。
そう言えば、NWTの和訳に携わった三浦 勉BはRNWTの和訳に関して誤訳箇所を指摘して、康子Sともども排斥処分とされ、妻の死亡後に復帰し、亡くなられましたが、誤訳であることは、最後まで覆さなかったと話していた。
誤訳を指摘されたので、排斥処分とするWT組織もいかがなものか…、ですが、排斥された者が排斥の原因となった誤訳を覆したわけではなく、誤訳として指摘したままで、復帰させたWT組織もいかがなものか…、です。
排斥は、聖書とは無関係に、神の名のもとに行なわれる組織崇拝に対する服従を強要するための脅しであり、組織崇拝に異議を唱える者に対する見せしめ処分でしかないのでしょう。
聖書の正確な知識を教えるつもりもない組織からのエセ聖書研究で聖書を正しく理解していると信じているWT信仰のJWが気の毒に思えてきます。
彼らにとっては、大きなお世話でしょうが…。
信仰の自由ですから、どうぞご自由に。
閑話休題。
ルカは、9:50までマルコを写してきたのであるが、9:51-18:14まで、マルコ以外の資料からの物語を編集している。
いわゆるルカの中間部分。
マルコでは、8-10章までは一連の問題を扱いつつ相互に結びつきながら弟子批判を展開させている。
だが、ルカは間に「中間部分」を挟むことにより、繋がりは消え、マルコの弟子批判も消えてしまうこととなった。
ルカは、中間部分を、イエスがガリラヤを去ってからエルサレムに行く途中の出来事という設定にして、物語を構成している。
ルカが集めたマルコ以外のQ資料を全部押し込んでいる。
あくまでもルカの構想による設定であり、実際のイエスがルカの設定通りに行動したというのではない。
ルカが集めた伝承を編集したのであり、イエスの実際の活動とは別物である。
ルカは18:15以降、再びマルコを写す作業に戻るのであるが、中間部分以前よりもかなり雑な編集になる。
比較的僅かな語句を書き変えるだけで、ほとんどマルコの文をそのまま写すことにしたようである。
マルコのイエスは、弟子たちに憤り、叱りつけた上で、弟子たちに言う。
マルコ10
14イエスは見て、憤り、彼らを叱りつけて言った、「子どもたちが私のもとに来るがままにせよ。妨げてはいけない。神の国はこのような者たちのものだからだ。15アーメン、あなた方に言う、神の国を子どもを受け入れるようにして受け入れるのでない者は、そこに入ることはできない」。16そして子どもたちを腕でだきあげ、その上に手を置いて祝福した。
マタイ19
14イエスは言った、「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のもとに来るのを妨げてはいけない。天の国はこのような者たちのものだからだ」。15そして彼らに手を置いてから、そこを去った。
ルカ19
16しかしイエスは赤ん坊を呼び寄せ、言った、「子どもたちが私のもとに来るがままにせよ。妨げてはいけない。神の国はこのような者たちのものだからだ。17アメーン、あなた方に言う、神の国を子どもを受け入れるようにして受け入れるのでない者は、そこに入ることはできない」。
参マタイ18
3言った、「アメーン、あなた方に言う、たちもどって、子どものようにならなければ、天の国に入ることはできない。
マルコの、神の国を15「子どもを受け入れるようにして受け入れる」の直訳は、「子どもとして」(hOs paidon)、「神の国を受け入れる」。
「弟子たち」は「子ども」ではないのだから、文字通りの意味で「子どもとして」受け入れることは不可能。
では「子どもとして受け入れる」とはどういう意味か。
「として」」(hOs)は、ほぼ英語のasに対応する接続詞。
「子ども」(paidon)は中性名詞であるから、主格と対格が同じ形。
主格と取れば、「子どもが神の国を受け入れるようにして」「神の国を受け入れる」という趣旨になる。
NWT「幼子のように神の王国を受け入れる」はこちらの解釈。
対格と取れば、「子どもを受け入れるようにして」「神の国を受け入れる」という趣旨になる。
田川訳「神の国を子どもを受け入れるようにして受け入れる」はこちらの解釈。
単純文法的には、どちらの可能性もあるが、文脈からすると、対格の意味であろう。
というのは、マルコのイエスは、子どもたちを排除しようとした、弟子たちに憤り、「妨げてはいけない」と、弟子たちを叱りつけている。
マルコのイエスは、弟子たちに単に「子どものようになれ」と言っているのではない。
「妨げて」排除するのではなく、文字通り「子どもを受け入れよ」と言っている。
とすれば、当然「子どもとして」「受け入れよ」とは、文字通りに「子どもを受け入れる」者でなければならない、と言っているのであり、「子どものような」特質を問題にしているのではない。「子どもを受け入れない」態度を問題にしていることになる。
弟子たちのように「子どもを妨げて」、「受け入れず」、排除する者は、「子どもを受け入れない者」であるのだから、「神の国を受け入れる者」ではない。
「子どもを受け入れる者」でなければ、神の国に入ることはできない、と告げるのである。
マルコのイエスは、「アメーン、あなた方に言う」と「弟子たち」に対して言う。
あなた方のように「子どもを妨げて」「受け入れない者」は、神の国に入ることはできない、という批判を告げるのである。
そして、「弟子たち」が「受け入れなかった」「子どもたち」をイエスは腕で抱き上げ、祝福するのである。
マルコのイエスは、「弟子たち」に対して「神の国に入ることはできない」と告げ、彼らが退けた「子どもたち」を腕に抱き、祝福して、物語を終えるのである。
WTだけではなく、多くの解説者がマルコの「子どもを受け入れる」伝承を「子どもが神の国を受け入れるように、受け入れる」、つまり「子どものように素朴に、謙虚に」あるいは「子どものように素直に、従順に」神の国を受け入れる、という趣旨に読んでいる。
マルコ10:15
NWT 「だれでも、幼子のように神の王国を受け入れる者でなければ…」
共同訳 「子どものように神の国を受け入れる人でなければ…」
フ会訳 「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ…」
岩波訳 「神の国を子ども[が受け取る]ように受け取らない者は…」
新共同訳 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ…」
前田訳 「神の国を子どものように受け入れねば…」
新改訳 「子どものように神の国を受け入れる者でなければ…」
塚本訳 「子どものように(すなおに)神の国(の福音)を受け入れる者でなければ…」
口語訳 「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ…」
文語訳 「凡そその幼児の如くに神の国をうくる者ならずば…」
和訳聖書のすべてが「子どものように受け入れる」という趣旨に解している。
この原文直訳「子どもとして」の句を主格的な意味で、「子どもが神の国を受け入れるように」という意味に解したがるのは、マタイの文をマルコに読み込むからである。
マタイは、マルコ10:15の文を「子どもを受け入れる」伝承から切り離し、マルコの第二回受難伝承に続く、伝承(9:33-37)の並行である18:3に組み込んだ。
しかも、マルコの「子どもを受け入れよ」を、マタイは「たちもどって、子どものようにならなければ、天の国に入ることはできない」と改竄し、組み込んでいる。
(マタイの改竄手法に関しては、マルコ9:30-37「第二回受難予告、及び子どもを受け入れる」で詳述した)
キリスト信者に「子どものようになれ」と言っているのは、マタイであり、マルコではない。
マルコ9章では「イエスを受け入れる」というのであれば、「子どもを受け入れよ」と現実社会の弱者の代表である「子ども」を受け入れるようにと弟子たちに告げている。
そして、マルコ10章では「神の国を受け入れる」というのであれば、「子どもを受け入れよ」と9章と同じ趣旨のことをくり返し、弟子たち批判を繰り返しているのである。
イエスのお「弟子たち」さんたちは「神の国」に入ることにひどくご執心のようですが、そんなに「神の国」にお入りになりたいのでしたら、まず現実に苦しんでいる社会的弱者や子どもたちを排除しないで、受け入れる者とおなりになることの方が先なのではございませんか、と言っているのである。
「神の王国に入る」=「楽園に入る」ことを可能にする条件として、「伝道」・「集会」・「長老への服従」・「寄付」を要求するWTはマルコのイエスの弟子批判をどう受け取るのだろうか。
マルコにマタイを読み込んで解釈しているから、「馬の耳に念仏」、「念仏」はバビロン用語ですから、「馬耳東風」、聖書的には「豚に真珠」なのでしょう…。
お好きにどうぞ、信じる者は救われるのでしょう。
マタイはマルコの「子どもを受け入れる」伝承から、弟子たちに対するイエスの憤りを削除しながら、マルコ10:15を改竄して18:3に移動させた。
その上で、マタイはマルコの「神の国」を「天の国」に変え、「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のもとに来るのを妨げてはいけない。天の国はこのような者たちのものだからだ」というイエスの言葉はそのまま残した。
マルコでは「神の国」に入るには、「子どもたちを受け入れる」者であらねばならなかったのであるが、マタイでは「天の国」に入るには、「子どものような者」であらねばならなくなったのである。
マタイはイエスをキリストにふさわしい宗教説教師、宗教的聖者として活動させたいのである。
「天の国」を説教する伝道者に仕立てたいのである。
「弟子たち」に関しては、あまりできは良くないが、常にイエスに忠節で、イエスに愛されたキリスト信者として描きたいのである。
マルコが描く「弟子たち」を批判するイエスは、マタイが描くイエスを信奉するキリスト信者にとっては、受け入れ難いのであろう。
新約聖書は、マタイから始まるので、他の共観福音書も無意識のうちにマタイに合わせて読むことになる。
共観福音書間での相違に気付いた場合、たちもどって、マタイを基準に解釈しようとする。
それで、マタイの「たちもどって、子どものようになって受け入れる」という言葉とこの個所のマルコの「子どもとして神の国を受け入れる」も同じ趣旨に解して、読み込むのであろう。
その結果、NWTのような訳になるのである。
マルコが最古の福音書ではなく、マタイを歴史上最初に書かれた福音書であると教えているWTは意図的にマタイに合わせてマルコやルカを読ませようとしているのだろう。
マルコでは結びの句をルカは導入句に設定し、「赤ん坊を呼び寄せ」、弟子たちを教えたという設定に変えた。
ただし、マルコの「神の国を子どもを受け入れるようにして受け入れるのでない者は、そこに入ることはできない」という句はそのまま写している。
マルコと同じく、実際に「子どもを受け入れる者」であらねば、神の国に入ることとはできない」という趣旨である。
しかし、マルコでは8章から10章まで連続した弟子批判を意図した物語の構成をルカは分断させた構成としている。
その結果、マルコの弟子批判は、消え、ルカの文もマタイと同じ趣旨に解して読まれるようになる。
ルカの「子どもとして」「神の国を受け入れる」というマルコと同じ句に、マタイを読み込み、「子どもたちが神の国を受け入れるように神の国を受け入れる者が神の国に入る」という趣旨に読むことになる。
ルカ18:17
NWT 「だれでも、幼子のように神の王国を受け入れる者でなければ…」
共同訳 「子どものように神の国を受け入れる人でなければ…」
フ会訳 「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ…」
岩波訳 「神の国を子ども[が受け取る]ように受け取らない者は…」
新共同訳 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ…」
前田訳 「神の国を子どものように受け入れねば…」
新改訳 「子どものように神の国を受け入れる者でなければ…」
塚本訳 「子どものように(すなおに)神の国(の福音)を受け入れる者でなければ…」
口語訳 「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ…」
文語訳 「おほよそその幼児の如くに神の国をうくる者ならずば…」
マルコにマタイを読み込んだように、ルカにもマタイを読み込み、マルコとまったく同じ訳となっている。
(文語訳:マルコ「凡そ」、ルカ「おほよそ」と表記の違いだけ)
WTのマルコ10:15に解説は取り上げるまでもないが、一応載せておく。
*** 塔07 2/1 10–11ページ 子どもたちからどんなことを学べますか ***
素直に受け入れ,信頼する
イエスは次に,大人が子どもから学べる,さらに別の教訓を際立たせ,「だれでも,幼子のように神の王国を受け入れる者でなければ,決してそれに入れない」と述べています。(マルコ 10:15)子どもは謙遜であるだけでなく,素直に受け入れるという特質も備えています。「子どもたちは情報をスポンジのように吸収します」と,ある母親は述べています。
ですから,神の王国を受け継ぐには,王国の音信を受け入れ,それに従わなければなりません。(テサロニケ第一 2:13)生まれたばかりの幼児のように,「み言葉に属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い,それによって成長して救いに至るように」しなければならないのです。(ペテロ第一 2:2)では,聖書の教えが理解しにくく思える場合,どうすべきでしょうか。ある保育師は,「子どもたちは疑問に対する納得のいく答えが得られるまで,『どうして』と尋ね続けます」と述べています。わたしたちも,子どものその態度に倣うのはよいことです。ですから,学び続けましょう。経験豊かなクリスチャンに質問してみてください。エホバに知恵を求めてください。(ヤコブ 1:5)祈りつつ粘り強く求めれば,いずれ必ず報われます。―マタイ 7:7‐11。
しかし,『素直に受け入れる人はだまされやすい,ということはないだろうか』と思う人もいるでしょう。確かな導きを求める限り,そのようなことはありません。例えば子どもは,導きを求めて本能的に親に頼ります。「親は,日々子どもを保護して必要なものを備えることにより,信頼されるに足ることを実証します」と,ある父親は述べています。確かにわたしたちも,それと同じ理由で天の父エホバを信頼すべきです。(ヤコブ 1:17。ヨハネ第一 4:9,10)エホバは,書き記されたご自分の言葉を通して,確かな導きを与えてくださっています。神の聖霊と組織からは,慰めや支えが得られます。(マタイ 24:45‐47。ヨハネ 14:26)それらの備えを活用するなら,霊的な害を被らないように守られるのです。―詩編 91:1‐16。
子どもが親を信頼するようにわたしたちが神を信頼するようになれば,思いの平安も得られます。ある聖書学者はこう述べています。「子どもであれば,旅行に出かけるとき,交通費を持たず,目的地までの行き方も知らない。それでも親が無事に連れて行ってくれることを疑ったりはしない」。では,わたしたちも,人生の旅を続けている今,エホバをそのように信頼しているでしょうか。―イザヤ 41:10。
マルコにマタイを読み込んだ聖書とその理解を提供して神の名のもとに、組織崇拝に誘導しようとしていることは明明白白である。