マルコ10:1-12 <離婚問答> 並行マタイ19:1-12、参照マタイ5:31-32、ルカ16:18
マルコ10 (田川訳)
1そしてそこから立って、ユダヤの領域とヨルダン対岸へと来る。そしてまた、群衆が彼のもとにより集ってくる。そしていつものようにまた彼らを教えるのであった。
2そしてパリサイ派がやってきて、彼に、男は女を離縁することが許されているかどうか、と質問した。彼を試みたのである。3彼は答えて彼らに言った、「モーセはあなた方に何と命じたか」。4彼らは言った、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許可した」。5イエスは彼らに言った、「あなた方の心の頑なさのために、モーセはあなた方にそういう戒命を書いたのだ。6創造のはじめから、彼らを男性と女性とに造ったのである。7この故に人は自分の父と母を去り、自分の女と一緒になる。8そして二人は一つの肉になる。従ってもはや二人ではなく、一つの肉なのだ。9だから、神が一緒にくっつけたものを、人間が離してはいけない」。
10そして家に入ると、また弟子たちがこのことについて彼に質問した。11そして彼らに言う、「自分の女を離縁して、他の女と結婚する者は、彼女に対して姦淫を犯すことになる。12またもしも彼女が自分の男を離縁して他の男と結婚するなら、姦淫を犯すことになる」。
マタイ19
1イエスはこれらの言葉を終えた時に、ガリラヤをあとにし、ヨルダン対岸のユダヤの領域に来たのであった。2そして多くの群衆が彼に従った。そしてそこで彼らを癒した。
3そしてパリサイ派が彼のもとにやってきて、彼を試みて言った、「人はどんな理由であれその女を離縁することが許されているのか」。4彼は答えて言った、「創造者ははじめから彼らを男と女に作ったということを、あなた方は知らないのか」。5そして言った、「この故に人は父と母を去り、自分の女と一緒になる。そして二人は一つの肉になる。6従ってもはや二人ではなく、一つの肉なのだ。だから神が一緒にくっつけたものを、人間が離してはいけない」。7彼に言う、「では何故モーセは離縁状をわたして離縁すべしと命じたのか」。8彼らに言う、「モーセはあなた方の心の頑なさのために、自分の女を離縁することをあなた方に許したのだ。はじめからそうだった、というわけではない。9あなた方に言う、自分の女を淫行以外の理由で離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになる」。10彼の弟子たちが彼に言う、「人が女とともにあることの理由がそういうことであるのでしたら、結婚する意味はありますまい」。11彼は彼らに言った、「すべての人がこの言葉を受け入れられるわけではない。(そのような能力を)与えられている者だけが受け入れることができる。12すなわち、母親の胎内にいるうちから去勢者となった者もいるし、人によって去勢された去勢者もいるし、また、天の国のためにみずからを去勢した去勢者もいる。受け入れられる者は受け入れるがよい」。
参マタイ5
31自分の妻を離縁する者は、離縁状をわたせ、と言われている。32しかし私は汝らに言う、淫行の故ならで自分の妻を離縁する者は、彼女を姦淫の対象にさせるのである。また離縁された女をめとる者も、姦淫を犯すのである。
参ルカ16
18自分の妻を離縁して他の女をめとる者は、姦淫を犯すのである。また夫から離縁された女をめとる者も、姦淫を犯すのである。
マルコ10 (NWT)
1[イエス]はそこを立ってユダヤの国境地方に来て,ヨルダンを渡られた。するとまた群衆が彼のもとに集まった。それで,いつもしておられたように,彼らにまた教えはじめられた。2 そこへパリサイ人たちが近づいて来た。そして,彼を試すため,男が妻を離婚することが許されるかどうかについて質問しはじめた。3 [イエス]は答えて言われた,「モーセはあなた方に何と命じましたか」。4 彼らは言った,「モーセは,離縁証書を書いて[妻を]離婚することを許しました」。5 しかしイエスは彼らに言われた,「あなた方の心のかたくなさを考えて,彼はあなた方にこのおきてを書きました。6 しかし,創造の初めから,『[神]はこれを男性と女性に造られた。7 このゆえに,男は自分の父と母を離れ,8 二人は一体となる』とあるのです。そのため,彼らはもはや二つではなく,一体なのです。9 それゆえ,神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません」。10 再び家の中にいた時,弟子たちはこのことについて彼に質問しはじめた。11 すると[イエス]はこう言われた。「だれでも自分の妻を離婚して別の[女]と結婚する者は,彼女に対して姦淫を犯すのです。12 また,もしも女が,夫と離婚したのち,別の[男]と結婚するなら,彼女は姦淫を犯すのです」。
マタイ19
1さて,これらの言葉を[語り]終えてから,イエスはガリラヤを出発し,ヨルダンを越えてユダヤの国境地方に来られた。2 また,大群衆が彼のあとに従い,[イエス]はそこでその人々[の病]を治された。
3 すると,パリサイ人たちがそのもとにやって来て,何とか誘惑しようとして,こう言った。「人が自分の妻を離婚することは,どんな根拠による場合でも許されるのですか」。4 [イエス]は答えて言われた,「あなた方は読まなかったのですか。人を創造された方は,これを初めから男性と女性に造り,5 『このゆえに,人は父と母を離れて自分の妻に堅く付き,二人は一体となる』と言われたのです。6 したがって,彼らはもはや二つではなく,一体です。それゆえ,神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません」。7 彼らは言った,「では,なぜモーセは,離縁証書を与えて[妻を]離婚することを規定したのですか」。8 [イエス]は彼らに言われた,「モーセは,あなた方の心のかたくなさを考え,妻を離婚することであなた方に譲歩したのであり,初めからそうなっていたわけではありません。9 あなた方に言いますが,だれでも,淫行以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです」。
10 弟子たちが彼に言った,「妻に対して男の立場がそのようなものであれば,結婚することは勧められません」。11 [イエス]は彼らに言われた,「すべての人がそのことばを受け入れるわけではなく,ただその賜物を持つ人たちだけ[がそうします]。12 母の胎からそのように生まれついた閹人があり,人によって閹人にされた閹人があり,天の王国のゆえに自らを閹人とした閹人がいるのです。それを受け入れることのできる人は,受け入れなさい」。
参マタイ5
31 「さらに,『だれでも妻を離婚する者は,離婚証書をこれに与えなさい』と言われました。32 しかし,わたしはあなた方に言いますが,妻を離婚する者はみな,それが淫行のゆえでないならば,彼女を姦淫にさらすのであり,だれでも,離婚された女と結婚する者は姦淫を犯すことになるのです。
参ルカ16
18 「自分の妻を離婚して別の女をめとる者はみな姦淫を犯すのであり,夫から離婚された女をめとる者は姦淫を犯すことになります。
マルコの「離婚問答」は「パリサイ派」に対する批判に重ねた弟子批判である。
離婚に関するマルコのイエスの回答は非常に明確である。
本来、結婚関係は維持されるべきものであり、離婚すべきものではない、というのがマルコのイエスの結婚観である。
しかし、マルコの弟子たちは、イエスとの問答を聞いていたはずなのに、もう一度イエスに質問する。
この構造は、7:17で「穢れ」の問題をパリサイ派と論争した時と全く同じである。
弟子たちはイエスの説明を理解できず、再びイエスに質問し、イエスは同じ趣旨の説明を弟子たちにくり返すのである。
つまり、マルコはここでもパリサイ派と重ねながら、イエスに対して「無理解」な「弟子たち」を描いているのである。
マタイはマルコの離婚の是非に関する問題を、離婚の条件の問題にすり替えた。
律法に通じたマタイらしい句をマルコに付け加えて、仕立て直している。
マタイの10節以降のイエスのロギアは離婚問題とは無関係である。
そこに登場するイエスのロギアはマルコにも、ルカにも登場しない。
つまり、マタイによる付加。
マタイがイエスと弟子たちとの会話という形式で編集したものだろう。
ただし、マタイ個人の見解というより、マタイが属する教会の見解であろうと思われる。
マルコの「離婚問答」は、読み方によっては、ヨルダン対岸にやって来たパリサイ派との出来事であるかのようにして始まる。
マルコ10
1そしてそこから立って、ユダヤの領域とヨルダン対岸へと来る。そしてまた、群衆が彼のもとにより集ってくる。そしていつものようにまた彼らを教えるのであった。
2そしてパリサイ派がやってきて、彼に、男は女を離縁することが許されているかどうか、と質問した。彼を試みたのである。
マタイ19
1イエスはこれらの言葉を終えた時に、ガリラヤをあとにし、ヨルダン対岸のユダヤの領域に来たのであった。2そして多くの群衆が彼に従った。そしてそこで彼らを癒した。
3そしてパリサイ派が彼のもとにやってきて、彼を試みて言った、「人はどんな理由であれその女を離縁することが許されているのか」。
マルコの1「そこから立って」(kai ekeithEn anastas)という言い方は7:24の「そこから立って」と同じ言い方。(KI:7:24 ekeithEn de anastasの読みを採用)
「立つ」(anistEmi)は、「身を起こす、立ち上がる」という意味であり、「出発する」という意味はない。
マルコは、イエスが「立ち上がる」(anistEmi)ことによって、新たな段落を始める設定にしているようである。
必ずしも、文字通り、その場所を離れて出発したという意味ではない。
マタイはマルコの「立つ」を「あとにして」(NWT「出発して」metEren)と直してくれている。
しかし、マタイはマルコと同じ設定で物語を始めているのではなく、18章の「子どもを受け入れる」から始まる長い「説教」の結びの句として編集している。
「イエスは…終えた時に、…するのであった」(kai egeneto ote etelesen ho Iesous … )という言い方は、マタイ編集による「説教」の結びに用いる定型句。
(5-7章の結びの7:28、10章の結びの11:1、13章の結びの13:53、18章の結びの19:1、24-25章の結びの26:1)
マルコの「そこから立って」を、マタイは18章におけるの「説教」の舞台をカファルナウムに設定している(17:24)ので、「ガリラヤをあとにして」としている。
イエスは、どこに向かったのか。
「ユダヤの領域」か、それとも「ヨルダンの対岸」か。
「ヨルダンの対岸」は、行政区分上では「ユダヤの領域」には属さない。
三種類の読みがある。
アレクサンドリア系の読みは「ユダヤの領域」と「ヨルダン対岸」とをkaiで繋いでいる。
カイサリア系の読みは、間にkaiはなく、「ユダヤの領域」と「ヨルダン対岸」が並べられているだけ。
どのような意味の違いが生まれるのか。
間にkaiが入ると、「ユダヤの領域」と「ヨルダン対岸」は切り離されることになるので、「ユダヤの領域」と「ヨルダン対岸」のそれぞれの場所へ、という趣旨になる。
イエスはそれぞれの場所へ一定期間滞在した、ということになる。
kai がないと「ユダヤの領域のヨルダン対岸」へという趣旨になる。
このカイサリア系のkaiのない読みがマルコの原文であるとすれば、マルコは「ヨルダン対岸」を含めた地域も「ユダヤの領域」の一部とみなしていたことになる。
マルコのイエスにとって活動の中心は、「ガリラヤの領域」である。(1:21、2:1、4:1,6:1ほか)
デカポリスの領域やチュロスとシドンの地方などでも活動することはあるが、その都度ガリラヤに戻ってくる。(3:20、5:21、8:10ほか)
「第二回受難予告」後も、ガリラヤのカファルナウムの「家」に戻っている。(9:33)
マルコとしては、いつものようにガリラヤでの活動を終えて、この時から、いよいよガリラヤ地方を去って、受難予告が成就するユダヤでの対決の場所へと向かうという設定なのだろう。
「ユダヤの領域のヨルダン対岸」へと来た、と読むと、「ユダヤの領域」の中心部であるエルサレムを避けて、まず「ユダヤ領域のヨルダン対岸」へと迂回した、ということになる。
マルコのイエスは「ユダヤの領域」の周辺地域からエルサレムに近づくことにした、ということなのだろう。
マタイは「ユダヤの領域」と「ヨルダン対岸」の間にkaiを入れていない。
つまり、カイサリア系のマルコと同じ読みをしている。
ただし、マタイがkaiのついていないマルコの原文をそのまま写したのか、マルコの原文にはkaiが付いていたものをマタイが削除したのか、どちらの可能性もある。
マタイがkaiを削除した写本が、マルコのカイサリア系の写本に逆輸入された可能性もある。
どちらの可能性も五分五分であるようである。
田川訳は、シナイ写本とB写本の一致を重視して、一応アレクサンドリア系の読みを支持しているが、カイサリア写本の読みのほうが優勢と感じているようである。
マルコにおけるカイサリア系写本の重要性を考えると、kaiが付いていない読みが原文で、マタイはマルコをそのまま写しているだけ、と考えた方がよさそうである。
第三の読みはビザンチン系のもの。
数だけは圧倒的多数に指示されているが、「ユダヤの領域」と「ヨルダンの対岸」をkaiではなくdiaで繋いでいる。
「ヨルダンの対岸」を通って「ユダヤの領域」へと、という意味になる。
マルコやマタイの地理的矛盾を整えるためにkaiをdiaに書き変えたものだろう。
NWTマルコの「ユダヤの国境地方に来て、ヨルダンを渡られた」も、マタイの「ヨルダンを越えて、ユダヤの国境地方に来られた」も、ビザンチンの読みを意識したもの。
現代のような「国家」という領土区分がない時代に、「国境」という概念を持ち出すのもいかがかと思うが、「渡る」とか「越える」という動詞はどの読みにも存在しない。
ビザンチン系の読みが原文である可能性は、正文批判からしてゼロである。
しかしながら、ルター以来の伝統的な聖書訳は、ビザンチン系の読みを底本としていたので、その影響は色濃く残っている。
読みはアレクサンドリア系またはカイサリア系を採用していても、内容はビザンチン系の解釈をするものが多い。(WTもその一つ)
*** 塔89 7/15 8ページ 離婚と子供たちへの愛に関する教訓 ***
イエスと弟子たちは,西暦33年の過ぎ越しの祭りに出るためエルサレムに向かっています。一行はヨルダン川を渡り,ペレア地区を通って行きます。
*** 洞‐2 1056ページ ユダヤ ***
マタイ 19章1節では,イエスがガリラヤを出発し,「ヨルダンを越えてユダヤの国境地方」に来たと述べられていますが,これはイエスがガリラヤを出発し,ヨルダンを渡り,ペレアを経てユダヤに入られたという意味のようです。
いずれにしても、マルコ10:1は、kaiの有る無しのどちらの読みを取ろうとも、ヨルダンの対岸を通って、エルサレムに向かった、と言っているわけではない。
「ユダヤの領域」と「ヨルダンの対岸」で、いつものように群衆がイエスのもとに集って来たので、いつものようにイエスは群衆を「教えた」、と言っているだけである。
マタイはマルコの「教える」を「癒した」に変えている。
マタイにとって、イエスが「教える」対象は「弟子たち」であり、「群衆」は基本的には対象外。
それで、マルコの「教える」を「癒す」に変えたのだろう。
要するに、マルコは、イエスがヨルダンの対岸地方やユダヤ地方で一定期間とどまって活動をした、と言っているだけである。
マルコの2「そしてパリサイ派が…」の「そして」(kai)は、接続詞としての意味を持つ「そして」ではなく、ほぼ何の意味もない、文頭を示す記号のようなもの。
「その時、たまたまイエスが群衆を教えていた場面にパリサイ派が登場した」という意味ではない。
つまり、マルコの1節は2節と連続しているのではなく、それぞれの節が独立の場面であり、この地方でもイエスは他の場合と同様に、いつものように群衆を教えていたのであった、という趣旨の完結している文である。
それに対し、2節以下は別の場面であり、新たにパリサイ派との離婚問答が始まるというマルコの設定である。
マルコとしては、これからユダヤでの対決が待ち構えているのであり、エルサレムとの対決のプロローグとして、パリサイ派との離婚問答を「第二回受難予告」のすぐ後に置いたのであろう。
マルコは間接話法で、マタイは直接話法で、イエスとパリサイ派との離婚問答が始まる。
マルコ10
2そしてパリサイ派がやってきて、彼に、男は女を離縁することが許されているかどうか、と質問した。彼を試みたのである。
マタイ19
3そしてパリサイ派が彼のもとにやってきて、彼を試みて言った、「人はどんな理由であれその女を離縁することが許されているのか」。
マルコにおけるパリサイ派のイエスに対する質問は2「男は女を離縁することが許されているかどうか」
「離婚の是非」を問う質問となっている。
それをマタイは3「人はどんな理由であれその女を離縁することが許されているのか」に変えた。
「どんな理由であれ、許されているのか」、つまり離婚に関して、例外的な理由は存在するのか、という質問となったのである。
「離婚が許されている」ことを前提に、「離婚の条件」を問う質問に変えたのである。
マタイはマルコの「男」(andri)を「人」(anthrOpO)に変えた上で、マルコの「女」(gunaika)に関しては定冠詞をつけて「その女」(tEn gunaika)としている。
マタイの意図はどこにあるのか。
古代のことであるから、マルコもマタイも「離縁」に関して「男」優位を前提に論題を展開しているが、マルコは結婚という関係を「男」と「女」という語を並べておいており、男女双方の問題として考えていることが理解できる。
それに対し、マタイはマルコの「男」をわざわざ「人」に変えた。
つまり、マタイには「人」=「男」という意識があるのである。
「女」に関しては定冠詞をつけて「その女」とした。
NWTはマルコの「女」(gunaika)を「妻」、マタイの「その女」(tEn gunaika)を「自分の妻」と訳している。
ギリシャ語に限らず現代西洋語の多くでも、「女」という語を「妻」の意味に用いるから、「自分の女」とは「自分の妻」という意味である。
しかし、マタイの「その女」とは「男」を受けてのものではなく、「人」を受けての属格定冠詞である。直訳するなら、「人間の女」となる。
つまり、マタイには、「人」と呼べるのは「男」だけであり、「女」は「人」の範疇には入らない。
「人が所有する女」=「妻」は「夫の所有物」であるという意識が働いているのである。
「夫の所有物である女」の妻には離婚する権利などあろうはずもない。
離婚の是非の判断は「男」だけの権利であり、問題となるのは「男が主張する条件」次第で可能である、と考えているのである。
古代とは言え、マタイには「男性優位」というより「女性蔑視」の差別意識が強く働いていることが示唆されている。
マルコとマタイでは、イエスとパリサイ派の間で交わされた二つの問答の順が逆になっている。
マルコ10
3彼は答えて彼らに言った、「モーセはあなた方に何と命じたか」。4彼らは言った、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許可した」。5イエスは彼らに言った、「あなた方の心の頑なさのために、モーセはあなた方にそういう戒命を書いたのだ。6創造のはじめから、彼らを男性と女性とに造ったのである。7この故に人は自分の父と母を去り、自分の女と一緒になる。8そして二人は一つの肉になる。従ってもはや二人ではなく、一つの肉なのだ。9だから、神が一緒にくっつけたものを、人間が離してはいけない」。
マタイ19
3そしてパリサイ派が彼のもとにやってきて、彼を試みて言った、「人はどんな理由であれその女を離縁することが許されているのか」。4彼は答えて言った、「創造者ははじめから彼らを男と女に作ったということを、あなた方は知らないのか」。5そして言った、「この故に人は父と母を去り、自分の女と一緒になる。そして二人は一つの肉になる。6従ってもはや二人ではなく、一つの肉なのだ。だから神が一緒にくっつけたものを、人間が離してはいけない」。7彼に言う、「では何故モーセは離縁状をわたして離縁すべしと命じたのか」。8彼らに言う、「モーセはあなた方の心の頑なさのために、自分の女を離縁することをあなた方に許したのだ。はじめからそうだった、というわけではない。9あなた方に言う、自分の女を淫行以外の理由で離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになる」。
マルコは4「モーセは離縁状を書いて離縁することを許可した」というロジックをパリサイ派の言葉として、最初に置いている。
マタイは、マルコでは後半に置いている4「創造のはじめから…」というロジックを4「創造者ははじめから…」に変えて、最初に置いている。
そして、マルコではパリサイ派の発言とされている「モーセは離縁状を書いて…」というロジックをイエスの発言として、後半に置いている。
マタイは、なぜマルコの順番を入れ替え、パリサイ派の発言をイエスの言葉としたのだろう。
おそらく、マルコの「離婚の是非」問題を、「離婚の条件」問題に誘導するためであろう。
そのことは、マルコのイエスとパリサイ派の発言をマタイと比較してみると明らかになる。
マルコのイエスは、離婚の是非に関する論争であることを導入句にして、イエスを試みようとするパリサイ派に、逆質問する。
「モーセはあなた方に何と命じたか」と。
マルコのイエスは、パリサイ派が「離婚の是非」に関する旧約律法の解釈を知っており、イエスを試みるための質問であることを承知していた。
「是」と答えても「否」と答えても、イエスを律法違反に問う準備が出来ていたのであろう。
そうでなければ、「試み」にはならない。
イエスが「是」と答えても「否」と答えても、パリサイ派の質問に素直に答えるのであれば、イエスがパリサイ派の罠にはまるか、イエスがパリサイ派の教えを受ける、という構図になってしまう。
それでマルコのイエスはパリサイ派の意図を見抜き、逆質問するのである。
イエスの質問にパリサイ派が答えるという構図になり、立場が逆転する。
その上でパリサイ派が「モーセは離縁状を書いて…」というロジックをイエスに答える。
マタイはパリサイ派の「人はどんな理由であれその女を離縁することが許されているのか」という質問がイエスを試みるための発言であるという設定にした。
「許されていない」(否)というのであれば、なぜか。
「許されている」(是)というのであれば、なぜか。
どちらをも満足させる答えをイエスに答えさせることが、パリサイ派の「試み」であったことになる。
「許されている」(是)ことの理由を先に置くと、「許されていない」(否)ことの理由が結論となる。
つまり、パリサイ派は律法においては「許されている」(是)ことを承知しているのに、イエスに是非の質問をしていることになるので、パリサイ派の偽善と邪悪さ(心の頑なさ)が「試み」を生んだことになる。
律法を前提に「許されている」(是)の理由を探すこと自体が「否」であるという結論に導くことになる。
旧約律法の存在価値を疑問視する結論に導くものとなる。
これがマルコの論理展開である。
マタイはマルコとは逆に、「許されていない」(否)ことの理由を先に置いている。
パリサイ派は律法においては「許されている」(是)ことを承知しているので、なぜ「許されていない」(否)ものが「許されている」(是)ものとなっているのか、という疑問が生じさせることになる。
それでマタイは、パリサイ派に「では何故モーセは離縁状を…」と質問させる。
「許されていない」(否)ものが律法を前提に「許されている」(是)ものとなっている理由に焦点が当てられることになる。
マタイはその理由をマルコと同じく「心の頑なさ」としているが、「許されている」(是)ことが前提での論理展開であるから、「許されていない」(否)という結論に導くことは不可能である。
「許されている」(是)が前提であるから、その理由を知らないことが問題となる。
それでマタイのイエスは「自分の女を淫行以外の理由で離縁し、…」とマルコにはない条件を付加して、「許されている」(是)とする条件へと結論を誘導するのである。
これがマタイの論理展開である。
こうして、マルコの「離縁の是非」問題がマタイでは「離縁の条件」問題にすり替わったのである。
マルコの弟子たちは、マルコのイエスの「離縁問答」に関して無理解である。
マルコ10
10そして家に入ると、また弟子たちがこのことについて彼に質問した。11そして彼らに言う、「自分の女を離縁して、他の女と結婚する者は、彼女に対して姦淫を犯すことになる。12またもしも彼女が自分の男を離縁して他の男と結婚するなら、姦淫を犯すことになる」。
マタイ19
9あなた方に言う、自分の女を淫行以外の理由で離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになる」。
マルコでは、パリサイ派との「離婚問答」の後に、「弟子たち」が「このこと」についてイエスに質問する。
マルコの弟子たちは「離婚」の「是非」に関するイエスの考えを理解できず、もう一度質問するのである。
マルコでは、「弟子たち」がイエスの話を理解できず、繰り返し質問するという構図が繰り返し登場する。(7:17、9:28、10:10)
マルコのイエスは、「弟子たち」の質問に答えて、パリサイ派に答えた趣旨と同じ答えをくり返す。
「自分の女を離縁して…。彼女が自分の男を離縁して…姦淫を犯すことになる」と。
「離縁」は「姦淫」と同じである、と。
つまり、離縁は、「男」にも「女」にも「許されていない」(否)、という趣旨である。
マルコのイエスは、「男」も「女」も離縁の律法に関して同等の適用を受ける、と説明する。
マルコの弟子たちは、イエスに対して無理解であり、再説明を受けたままで終わる。
それに対し、マタイでは「弟子たち」はイエスに質問するのではない。
イエス自らが付加的な説明を加えるという設定である。
そのおかげで、弟子たちの無理解は消え、イエスの教えを請う、忠節な弟子たちへと変貌する。
マタイのイエスは、「弟子たち」に対しては、パリサイ派に対する答えに加えて、重要な情報を与える。
「自分の女を淫行以外の理由で離縁し、…姦淫を犯すことになる」と。
マルコには「淫行以外の理由で」という句はない。
マタイはマルコに「淫行以外の理由で」という句を付加し、「男」が「女」を離縁できる条件をイエスに提示させるのである。
律法を前提に条件に応じて適用を細分化する姿勢はいかにも律法学者的な議論の展開である。
ただし、あくまでも「男」が「自分の女」を離縁する条件であり、「女」が「自分の男」を離縁する条件には何も触れていない。
マタイは「女」を「人」とみなしておらず「男の所有物」とみなしているのであるから、初めから「女」が「男」に対して離縁する条件を提示することなどは想定外のことなのであろう。
マタイのイエスは、10節以降マルコにはない弟子たちの質問を受ける。
10彼の弟子たちが彼に言う、「人が女とともにあることの理由がそういうことであるのでしたら、結婚する意味はありますまい」。11彼は彼らに言った、「すべての人がこの言葉を受け入れられるわけではない。(そのような能力を)与えられている者だけが受け入れることができる。12すなわち、母親の胎内にいるうちから去勢者となった者もいるし、人によって去勢された去勢者もいるし、また、天の国のためにみずからを去勢した去勢者もいる。受け入れられる者は受け入れるがよい」。
マタイの「弟子たち」は、「男」をパリサイ派と同じく3,10「人」と呼び、「女とともにあることの理由」をイエスに問う。
「離縁の条件」に関する問答から「結婚する意味」に関する問答となっており、マタイのイエスは、「結婚しないでいることの意味」に関して答えている。
つまり、「弟子たち」の質問と「イエス」の回答は、呼応しておらず、ちぐはぐであり、前半の「離婚問答」とも繋がりが悪い。
「結婚」するから「離婚」の問題が生じ得るのに、結婚の是非を問う問題にすり替わっている。
いかにも後から取って付けたような構成である。
マタイは、結婚そのものを否定し、独身主義を推奨するセリフをイエスのロギアとしているが、これは実際にイエスが語ったイエスの言葉とは到底考え難い。
そもそもマルコもマタイも、創造者ははじめから人間を、「男と女とに造り」、「二人が一つの肉になる」ことは「神が一緒にくっつけた」ものである、としている。
イエスの論理は、結婚そのものを「是」としている前提での論議であり、結婚そのものを「否」とする論理が展開する余地はない論議である。
そこに、結婚そのものを「否」とする前提で論議を展開させているのであるから、イエスではない別の人間の論理を展開させていることになる。
とすれば、これはイエスに由来するロギアではなく、マタイもしくはマタイが属する教会の論理を展開させたものであろうと推測できる。
ルカには、マルコの「離婚問答」伝承の並行記事は存在しないが、マルコの11,12の離縁と姦淫に関するイエスのロギアは参ルカ16に収められている。
マタイにもその並行が参マタイ5に収められている。
比較してみるとマルコとは異なるマタイとルカの結婚観が見えて来る。
マルコ10
11「自分の女を離縁して、他の女と結婚する者は、彼女に対して姦淫を犯すことになる。12またもしも彼女が自分の男を離縁して他の男と結婚するなら、姦淫を犯すことになる」。
マタイ19
9「自分の女を淫行以外の理由で離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになる」。
参マタイ5
31自分の妻を離縁する者は、離縁状をわたせ、と言われている。32しかし私は汝らに言う、淫行の故ならで自分の妻を離縁する者は、彼女を姦淫の対象にさせるのである。また離縁された女をめとる者も、姦淫を犯すのである。
参ルカ16
18自分の妻を離縁して他の女をめとる者は、姦淫を犯すのである。また夫から離縁された女をめとる者も、姦淫を犯すのである。
マルコは、「男」を主語して、離縁する場合だけでなく、「女」を主語にして、離縁する場合も併記している。
正確に言うと、原文には「男」という主語があるわけではなく、「離縁させる」という三人称単数の他動詞があるだけであるが、「彼の女を」という目的語を置いているので、「男」が主語だと判断できる。
しかし、「女」に関してはわざわざ「女」という主語を置き、「彼女の男を」という目的語を置いた上で、「離縁させる」という三人称単数の動詞を置いている。
マルコでは、「女」も「男」と同様の扱いを受けるべきであるという意識が強く働いている。
おそらく、そこにはイエスの言い方が反映されているのかもしれない。
それに対し、マタイは「淫行以外の理由で」という条件を付加し、参マタイでも「淫行の故ならで」という条件を付与している。
マタイには、「女」を主語としている文がない。
「男」が「女」を離縁する権利を行使する場合の条件として述べているだけである。
参マタイの「彼女を姦淫の対象にさせる」という言い方にも、マタイの結婚観が示されている。
原文は一語の動詞で、「姦淫する」(moicheuO)の受身形。
NWTは「姦淫にさらす」。
RNWTは「妻は姦淫をすることになりかねません」。
しかし、「彼女に姦淫行為を行なわせる」という意味でも「彼女自らが姦淫行為を行なうことになる」という意味でもない。
原文の動詞は、単なる受身形であり、「~に…させる」という使役の意味ではない。
目的語の「彼女」はあくまでも姦淫がなされる対象であり、姦淫を行なう行為者ではない。
この動詞は、基本的には「男」を主語にしか用いない動詞である。
他動詞で用いる場合、姦淫行為の対象となる女を直接目的語に置いて「…を姦淫する」。
受身形を能動的自動詞として用いて「姦淫を犯す」。
つまり「姦淫」という行為は原則として「女の所有者」である「男」の行為であり、「女」は「姦淫」の対象にされるだけのものに過ぎない。
それゆえ、この動詞に関して「女」が主語になることは基本的にはない。
「女」を主語にして使う場合には必ず受身形で使われ、「男に姦淫された」という言い方になる。「女は、男の姦淫の対象となり、姦淫された」という趣旨である。
「男」を主語とした場合の受身形と同じく、「女が姦淫を犯した」という意味ではない。
マルコは「男」に関しても「女」に関しても「姦淫を犯す」に関して受身形の言い方をしている。
「男が離縁して、ほかの女と結婚した場合」、男は「彼女に対して」「姦淫を犯す」ことになる。
「彼女に対して」(ep autEn)とは、「離縁した妻」に対する姦淫なのか、「結婚したほかの女」に対する姦淫なのか、はっきりしない。
文法的には「姦淫する」という動詞の近くにある「ほかの女」であるが、「離縁した妻」を指す可能性も高い。
いずれにしても、姦淫を犯すのは「男」を想定している。
「女が離縁して、他の男と結婚した場合」は、女が「男に対して」「姦淫を犯す」ことになる、とは書かれていない。
「姦淫を犯す」は受身形であるが、「男」を主語として想定される動詞である。
「離縁した女」と結婚した「男」が、「姦淫を犯すことになる」という趣旨である。
離縁に関する「男」と「女」の権利に関しては、同等に扱われているが、姦淫に関しては、あくまでも男の側の行為として描かれている。
マタイは、「淫行」以外の理由でという条件付きであるが、「妻」を離縁して他の女と結婚する「夫」が「姦淫を犯すことになる」としている。
これは、「離縁した夫」が「結婚する他の女」と「姦淫を犯す」と言っているのではない。
「離縁された妻」が「結婚する男」と「姦淫を犯すことになる」と言っているのでもない。
「男」を主語として受身形で「姦淫を犯すことになる」と言っているのだから、「離縁された女」と結婚する「離縁した夫」以外のほかの「男」が「姦淫を犯すことになる」と言っているのである。
「姦淫する」(moicheuO)という動詞の使い方を分析すると、「女」はあくまでも「男」の性行為の対象でしかないから、受身でしか言われないのである。
「女」が主語となり、行為の主体となって「姦淫する」のではなく、「男」の姦淫という行為の対象とされる、ということである。
しかしながら、律法によれば、被害者である「女」には責任がない、のではない。
「姦淫する者も、姦淫される女も」死刑に処せられねばならない」(レヴィ20:10)のである。
参ルカ16も参マタイ5と同じく、マルコとは異なり、離縁に関して、「女」を主語においている文は存在しない。
マタイと同じように、男を主語とした文が並べられているだけで、「離縁」に関しても受身形で「男から離縁された女」であり、「姦淫」に関しても受身形で男が「姦淫を犯す」と言っている。
ルカも、マタイのような条件は付与していないだけで、マタイと同様に「女」を「男の所有物」であり「性の対象物」であるという見方を支持している。
WTはマタイに基づき、原則として姦淫(淫行)を根拠とする離婚だけを認め、罪のない側の男女双方に権利があるとしている。
ただし、姦淫(淫行)以外の理由による離婚には再婚の自由はないとしている。(WT12/05/15ほか)
「故意の扶養義務不履行」「身体的な極度の虐待」「霊性の甚だしい危険」の三点を「別居の根拠」としている。(WT88/11/01)
聖書を根拠としての解説としているが、そもそもマルコとマタイでは、異なる解釈をしており、我田引水的解釈に過ぎない。
マルコにもマタイやルカにも従がっていない聖書的根拠となっている。