マルコ9:38-50 <よそ者の奇跡行為者>
並行マタイ10:42、18:6-9、ルカ9:45-50
参照マタイ12:30=ルカ11:23、マタイ5:29-30、5:13、ルカ14:34-35
マルコ9 (田川訳)
38ヨハネが彼に言った、「先生、あなたの名前で悪霊を追い出している者がいるのを私たちは知っています。私たちに従って来なかったので、やめさせました」。39イエスは言った、「その者を妨げてはいけない。私の名前で力ある業を行なって、かつその直後に私のことを悪く言える者なぞいない。40我々に反対でない者は、我々に賛成するものなのだ。41あなた方がキリストの者であるという名前の故に、あなた方に水一杯でも飲ませてくれる者は、アメーン、あなた方に言う、その報酬を失うことはない。42また信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者は、むしろ、驢馬のひき臼を首にくっつけて海の中にでも放り込まれる方がましだろう。
43そして、もしもあなたの手があなたを躓かせるなら、それを切り捨てよ。片手で生命に入る方が両手をもってゲヘナに、消えぬ火の中に、行くよりもよい。44―――――45そして、もしもあなたの足があなたを躓かせるなら、それを切り捨てよ。片足で生命に入る方が両足を持ってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。46―――――
47そして、もしもあなたの目があなたを躓かせるなら、それを投げ捨てよ。片目で神の国に入る方が両目を持ってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。48そこでは彼らの蛆が絶えず、火も消えることがない。
49すなわち誰もが火によって塩づけされねばならない。50塩は良いものである。だがもしも塩が無塩になったら、それを何によって味つけられよう。あなた方自身の中に塩を持ち、互いに平和でありなさい」。
マタイ10
42そして、これらの小さい者の一人に、弟子であるという名前の故だけで、冷たいものを一杯飲ませてくれる者は、アメーン、あなた方に言う、その報酬を失うことはないであろう」。
マタイ18
6私を信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者は、驢馬のひき臼を首にぶら下げて海の深みで溺れさせてやるのが、その人にとっても良いだろう。
7躓きの故に、世に禍いあれ。躓きは来ざるをえないが、しかし、躓きを来たらせる人物には禍いあれ。8もしもあなたの手もしくはあなたの足があなたを躓かせるなら、それを切り離して、自分の外に投げ捨てよ。片手ないし片足で生命に入る方が両手ないし両足を持って永遠の火の中に投げ入れられるよりもよい。9そして、もしもあなたの目があなたを躓かせるなら、えぐり出して、自分の外に投げよ。あなたにとっては、片目で生命に入る方が両目を持って火のゲヘナに投げ入れられるよりもよい。
ルカ9
49ヨハネが答えて言った、「師よ、あなたの名前で悪霊を追い出している者がいるのを私たちは知っています。私たちと一緒に従って来ないので、やめさせました」。50イエスは彼に対して言った、「妨げてはいけない。あなた達に反対でない者は、あなた達に賛成する者なのだ」。
参マタイ12
30私とともにいるのでない者は、私に反対する者であり、私とともに集めない者は、散らす者である。
参ルカ11
23私とともにいるのでない者は私に反対する者であり、私とともに集めない者は散らす者である。
参マタイ5
29汝の右目が汝を躓かせるなら、その目を取り出して、捨てよ。肢体の一部を失っても、全身を保ってゲヘナに投げ込まれなければ、汝にとってその方が良いのである。30汝の右手が汝を躓かせるなら、それを切り取って、捨てよ。肢体の一部を失っても、全身をもってゲヘナに行くのでなければ、汝にとってその方が良いのである。
参マタイ5
13汝らは地の塩である。もしも塩が馬鹿になったら、何によって塩味をつけられよう。何の役にも立たず、外に投げ捨てられて、人々に踏みつけられるのみ。
参ルカ14
34塩は良いものである。だがもしも塩も馬鹿になったら、塩は何によって味つけられよう。35土にも堆肥にも適さない。外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳を持つ者は聞くがよい」
マルコ9 (NWT)
38 ヨハネが彼に言った,「師よ,わたしたちは,ある人があなたの名を使って悪霊たちを追い出しているのを見ましたので,それをとどめようとしました。彼はわたしたちと一緒に従って来ないからです」。39 しかしイエスは言われた,「彼をとどめようとしてはなりません。わたしの名によって強力な業を行ないながら,すぐさまわたしをののしることのできる者はいないからです。40 わたしたちに敵していない者は,わたしたちに味方しているのです41 あなた方がキリストのものであるという理由であなた方に一杯の飲み水を与える者がだれであっても,あなた方に真実に言いますが,その者は決して自分の報いを失わないでしょう。42 しかし,信じるこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者は,ろばの回すような臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまったとすれば,そのほうが良いのです。43 「そして,もしあなたの手があなたをつまずかせることがあるなら,それを切り捨てなさい。二つの手をつけてゲヘナに,すなわち消すことのできない火の中に行くよりは,不具の身で命に入るほうが,あなたにとって良いのです。44 ―― 45 また,もしあなたの足があなたをつまずかせるなら,それを切り捨てなさい。二つの足をつけてゲヘナに投げ込まれるよりは,足の不自由なまま命に入るほうが,あなたにとって良いのです。46 ―― 47 また,もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを捨て去りなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりは良いのです。48 そこでは,うじは死なず,火は消されないのです。
49 「というのは,だれもみな火で塩漬けされねばならないからです。50 塩は良いものです。しかし,もし塩がその効き目をなくすことがあるなら,あなた方は何をもってそれに味をつけるのですか。あなた方自身のうちに塩を持ちなさい。そして,互いの間で平和を保ちなさい」。
マタイ10
42 そして,弟子であるということでこれら小さな者の一人にほんの一杯の冷たい飲み水を与える者がだれであっても,あなた方に真実に言いますが,その者は自分の報いを決して失わないでしょう」。
マタイ18
6 しかし,わたしに信仰を置くこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者にとっては,ろばの回すような臼石を首にかけられて,広い大海に沈められるほうが益になります。
7 「つまずかせるもののゆえに,世は災いです! もとより,つまずかせるものが来ることはやむを得ませんが,つまずかせるものが来るその経路となる人は災いです! 8 そこで,もしあなたの手か足があなたをつまずかせているなら,それを切り離して捨て去りなさい。二つの手または二つの足をつけて永遠の火に投げ込まれるよりは,不具または足の不自由なまま命に入るほうが,あなたにとって良いのです。9 また,もしあなたの目があなたをつまずかせているなら,それをえぐり出して捨て去りなさい。二つの目をつけて火の燃えるゲヘナに投げ込まれるよりは,片目で命に入るほうが,あなたにとって良いのです。10 あなた方はこれら小さな者の一人をも侮ることがないようにしなさい。あなた方に言いますが,天にいる彼らのみ使いたちは,天におられるわたしの父のみ顔を常に見守っているのです。11 ――
ルカ9
49 ヨハネがそれにこたえて言った,「先生,わたしたちは,ある人があなたの名を使って悪霊たちを追い出しているのを見ましたので,それをとどめようとしました。彼はわたしたちと一緒に従って来ないからです」。50 しかしイエスは彼に言われた,「あなた方は[その人を]とどめようとしてはなりません。あなた方に敵していない者は,あなた方に味方しているのです」。
参マタイ12
30 わたしの側にいない者はわたしに敵しており,わたしと共に集めない者は散らすのです。
参ルカ11
23 わたしの側にいない者はわたしに敵しており,わたしと共に集めない者は散らすのです。
参マタイ5
29 そこで,もしあなたの右の目があなたをつまずかせているなら,それをえぐり出して捨て去りなさい。全身をゲヘナに投げ込まれるよりは,肢体の一つを失うほうがあなたにとって益になるのです。30 また,もしあなたの右の手があなたをつまずかせているなら,それを切り離して捨て去りなさい。全身がゲヘナに落ちるよりは,肢体の一つを失うほうがあなたにとって益になるのです。
参マタイ5
13 「あなた方は地の塩です。しかし,塩がその効き目を失うなら,どうしてその塩けを取り戻せるでしょうか。外に投げ出されて人に踏みつけられる以外に,もはや何にも使えません。
参ルカ14
34 「いかにも塩はすぐれたものです。しかし,塩でさえその効き目を失うなら,何をもってそれに味をつけるでしょうか。35 それは土にも肥やしにもふさわしくありません。人々はそれを外に捨てるのです。聴く耳のある人は聴きなさい」。
この伝承は、マルコにおいて「使徒ヨハネ」が単独で登場する唯一の箇所である。
本来の「よそ者の奇跡行為者」伝承は、41節までであろう。
その後のイエスのロギアは、共通する語を鍵言葉に次々にと連結されている。
そのおかげで、最後のほうは「よそ者の奇跡行為者」伝承とは無関係のロギアの羅列となっている。ただし、マルコとしては、「よそ者の奇跡行為者」に関する一つの物語として編集したつもりなのだろう。
マルコにおけるこの伝承は、前段の「子どもを受け入れる」伝承におけるイエスのロギアに、ヨハネが答える形で始まる。
つまり、「第二回受難物語」の続きであり、「子どもを受け入れる」伝承は「十二人」に対して語られたものであるが、「よそ者の奇跡行為者」伝承は、使徒ヨハネに焦点を当てている。
マルコ9
38ヨハネが彼に言った、「先生、あなたの名前で悪霊を追い出している者がいるのを私たちは知っています。私たちに従ってこなかったので、やめさせました」。39イエスは言った、「その者を妨げてはいけない。私の名前で力ある業を行なって、かつその直後に私のことを悪く言える者なぞいない。40我々に反対でない者は、我々に賛成するものなのだ。
ルカ9
49ヨハネが答えて言った、「師よ、あなたの名前で悪霊を追い出している者がいるのを私たちは知っています。私たちと一緒に従って来ないので、やめさせました」。50イエスは彼に対して言った、「妨げてはいけない。あなた達に反対でない者は、あなた達に賛成する者なのだ」。
「名前で悪霊を追い出す」という思考は、「名前」自体に力があり、「名前」を使うことで力が働くと信じられていた古代にはどこにでもある言霊信仰である。
イエスが病気治療者、悪霊祓いをする者として有名であれば、イエスの名前を使えば自分たちも同じことができるだろうと真似する者が出てくるのは当然のことだろう。
それに対して、ヨハネは「私たちに従がって来なかったのでやめさせました」と答える。
話の流れからすれば、「私たち」にではなく、「あなた」に従がって来ないので、となるべきところ。
それをヨハネはイエスの「弟子」という立場でありながら、「先生」(NWT「師」)を差し置いて、「弟子たち」に従がって来ないことは、けしからんというのである。
ヨハネが「私たちに」と言っていることからして、これはヨハネが弟子たちの代表として言っていることになる。
ここには使徒ヨハネの傲慢さが描かれている。
イエスの名前を利用するなら、「我々」使徒集団に従がって来なければならない、というのである。
つまりこの伝承は、イエスに由来するものではなく、イエス死後のキリスト教会によって流布されたものであろう。
「弟子たち」が中心となりエルサレムにキリスト教会を作り上げ、自分たちがイエスの名前を使う専売特許を持っている、と主張していたのであろう。
この伝承が「ヨハネ」によってなされているということは、マルコ創作による導入句というよりも、すでにマルコの手元に届いた時点で「ヨハネ」伝承として流布していたものだろう。
もちろんイエスとヨハネとの会話は、イエスが生きていた当時の実話ではありえない。
ただし、その背景には、実際にイエスと弟子たちの間に似たような会話があったのであろう。
田川訳「やめさせました」に対し、NWT「とどめようとしました」。
田川訳は、イエスの名前を使って病気治療や悪霊祓いをしていた者をヨハネたちが、実際に「やめさせていた」、という趣旨。
NWTは、「やめさせようとしていた」だけで、実際に「やめさせていた」のではない、という趣旨にしている。
この違いは、「やめさせる」の動詞の時制の違いに由来するのであるが、原文の判断が難しい。
原文の最初に出て来る理由を説明する接続詞(tina)が受ける句を「あなたの名前の故に悪霊を追い出している」と解するのか、「私たちに従がって来ない者」までを受けていると読むのか、の違いと「やめさせていた」と過去形にする読みと「やめさせている」と現在形にする読みの写本が混在している。
アレクサンドリア系の二大写本シナイとB、及びΔΘほか少数の読みが「あなたの名前で悪霊を追い出している者がいるのを私たちは知っています。私たちに従がって来なかったので、やめさせました」。
「従って来なかった」までを受けていると読み、未完了過去形。「やめさせました」も未完了過去形。
西方系、及びW、f1、f13は、「あなたの名前で悪霊を追い出しているくせに、私たちに従がって来ない者がいるのを私たちは知っています。それで、やめさせました」。
「悪霊を追い出している」までを受けていると読み、現在形。「やめさせした」と未完了過去形。
ただし西方系でもD写本は、「やめさせました」ではなく「やめさせます」と現在形。
いわゆるビザンチン系の大多数の写本とA写本は、「あなたの名前で悪霊を追い出しているくせに、私たちに従がって来ない者がいるのを私たちは知っています。私たちに従がって来なかったので、やめさせました」。
「従って来ない」を、最初は現在形、後半は未完了過去形で、二度繰り返し、理由を説明する接続詞が両方にかかるように読んでいる。
A写本及びビザンチン系写本はなぜ、「従って来ない」という句を二度繰り返しているのか。
原文にはもともと二つあったのを、無駄な重複とみなし、後の写本家が片方を削った、というのなら話は分かる。
原文に二つあったとすれば、もともとは「私たちに従がって来ない」という現在形の句にもtinaが付いており、「私たちに従がって来なかった」という未完了過去形の句にもtinaが付いていたとしていることになる。
シナイ写本やB写本は、原文に二つあった「我々に従がって来なかった」のうち未完了過去形の二つ目だけを残し、西方系などは現在形の一つ目だけを残した、と解すれば納得はいく。
しかしながら、現存する大文字写本の中にビザンチン系の読みを支持する大文字写本は存在していない。
存在しない読みを正文とすることは正文批判の原則を逸脱するものであり、それを始めたら古代のテクストの復元と称して、自説に都合の良い好き勝手な脚色を施すことが可能になる。
マルコ1:1を「神の子イエス・キリストについての良い知らせの始まり」としているWT監修のRNWTはその類の聖なる書物なのであろう。
確かにマルコに「神の子」と記されている大文字写本はシナイ写本を除くアレクサンドリア系、西方系など多数存在する。
しかし、マルコだけに存在する他の共感福音書とは別の流れに属するカイサリア系の写本には「神の子」なる記述はない。アレクサンドリア系で最重要写本のシナイ写本にも「神の子」なる記述はない。
正文批判上、「神の子」がある読みが原文である可能性はゼロである。
神の経路として聖霊を注がれた統治体にだけ原文には「神の子」が存在したと啓示されたのだろう。
また、原文の「やめさせました」という未完了過去形を「やめさせようとしました」といわゆるconativeに解して訳そうとするのは文法上無理である。
未完了過去形は、実際に行なわれた事実を表現しているのであり、意図したけれどもやらなかった、などという意味はない。
NWT「それをとどめようとしました」はconativeに解した露骨な改竄の部類。
実際に「やめさせた」のではなく、「やめさせようとした」だけであると読めるように訳している和訳聖書はNWTだけではない。
共同訳 「…私たちに従わないので、やめさせました」
フ会訳 「…その人はわたしたちの仲間ではないので、やめさせようとしました」
岩波訳 「…その者が私たちに従わないので、私たちは止めさせようとしました」
新共同訳 「…わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」
前田訳 「…しかしわれらについて来ないので、やめさせようとしました」
新改訳 「…私たちの仲間ではないので、やめさせました」
塚本訳 「…止めるように言いました。仲間にならないからです。(しかし言うことを聞きませんでした)」
口語訳 「…その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」
文語訳 「…我らに従はぬ故に、之を止めたり」
共同訳と文語訳以外は、「従わない」を「仲間ではない」「ついて来ない」と訳したり、「やめさせようとした」と訳しており、護教的精神を発揮している。
ヨハネたちは、実際に自分たちの指揮下に「従がって来ない」者たちに、イエスの名前を使うことを止めさせていたのであるが、それをイエスは42「信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者」であると叱っている。
実際に「とどめていた」とすれば、イエスはヨハネたちの行動を厳しく批判していたことになる。そんな奴は「ひき臼を首につけて海の中に放り込め」と言っていることになる。
弟子たちを擁護したい護教主義者は、実際に「とどめた」のではなく、「とどめようとした」だけで「とどめてはいない」と解釈したいために、conativeなる文法を持ちだし、マルコの弟子批判を消し去りたいのである。
(未完了過去と新約中のconativeに関する文法の適用について詳しく知りたい方は、「訳と註」p149-157を参照)
「よそ者の奇跡行為者」伝承は、ヨハネ伝承に基づき、使徒ヨハネたちに対する厳しい批判を意図してマルコによって編集されたものであろう。
マタイには「よそ者の奇跡行為者」は登場しない。
ルカは、マタイのように話自体を削除することはしていないが、マルコのヨハネ批判を消すための工夫を施している。
マルコの38「先生」を49「師」に変えるのはいつものことであるが、マルコの38「私たちに従がって来なかったので」(ouk akolouthei hEmin)を、ルカは49 「私たちと一緒に従がって来ないので」(ouk akolouthei meth hEmOn)とした。
ルカは、マルコの句に、前置詞(meth=with)一つを書き加えた。
それだけであるが、マルコの趣旨とは大きく異なることとなった。
どのような違いが生じるのか。
マルコのヨハネはイエスに対して「あなたに従がって来ないので」と報告すべきところを「私たちに従がって来ないので」と言っている。
イエスに依存して自分たちの権威を振りかざそうとするヨハネたちの傲慢さが描かれている。
それをルカは前置詞一つを加えることにより、イエスに忠節な弟子たちに変容させたのである。
「私たちと一緒に従がって来ないので」とすると、「私たちはイエスに従がっているのですが、彼らは私たちと一緒に来ることを拒んだので」という趣旨になる。
塚本訳はマルコにルカを読み込んでいるのであろう。
ルカの「あなたの名前で悪霊を追い出している者」とは、イエスに従がって来ることを拒否しながら、イエスの名前と権威を不当に利用している不埒な輩となったのである。
ルカはヨハネたちをイエスを無視する傲慢な弟子から、イエスに忠節な崇拝者に仕立て直したのである。
ルカはマルコの意図したヨハネ批判のイエスのロギアのほとんどを削除し、40「我々に反対でない者は我々に賛成する者なのだ」だけを採用した。
ただし、マルコの40「我々に」をルカは50「あなた方に」に変えている。
ルカはなぜ「あなた方」に変えたのであろうか。
マルコが「我々」とした意図は前後関係から明らかである。
39私の名前で力ある業を行なって、かつその直後に私のことを悪く言える者なぞいない。40我々に反対でない者は、我々に賛成するものなのだ。41あなた方がキリストの者であるという名前の故に、あなた方に水一杯でも飲ませてくれる者は、アメーン、あなた方に言う、その報酬を失うことはない。
マルコの趣旨は、自分たちに敢えて反対するのでない限りは、みんな自分たちの仲間である。だから、「妨げてはいけない」。
あなた方がキリストの者と言うので親切を示してくれる者もみんな仲間である、という寛容の精神を示すものである。
並行マタイ10:42も寛容の精神を示しているという点では、マルコと同趣旨である。
42「そして、これらの小さい者の一人に、弟子であるという名前の故だけで、冷たいものを一杯飲ませてくれる者は、アメーン、あなた方に言う、その報酬を失うことはないであろう」。
マタイがマルコの「キリストの者」から「弟子」に変えたのは、「弟子」の権威を高めたかったからであろう。
参マタイ12:30=参ルカ11:30もマルコ9:40と同じ趣旨のイエスのロギアだと説明されることが多い。
参マタイ12
30私とともにいるのでない者は、私に反対する者であり、私とともに集めない者は、散らす者である。
参ルカ11
23私とともにいるのでない者は私に反対する者であり、私とともに集めない者は散らす者である。
「私とともにいるのでない者」=「私に反対する者」であり、「私とともに集めない者」=「散らす者」とされている。
「ともにいない」だけで、「反対する者」とされてしまうのである。
実際に「散らして」いなくても、「ともに集めない」だけで、「散らす者」をされてしまうのである。
マタイとルカのイエスは、自分たちに賛成しない者は、誰であっても排除する、というのである。マルコのイエスの寛容の精神とは真逆の排除の精神を示すものとなっている。
ルカがマルコの「我々」を「あなた方」に変えた意図はどこにあるのか。
「我々」を「あなた方」に変えても同じようにも思えるが、「あなた方に反対でない者はあなた方に賛成する者なのだ」となり、賛成反対の基準がイエスを含めた「我々」基準から、イエスを除いた弟子主導の「あなた方」基準に移ることになる。
つまり、弟子たちの権威に反対する者は、イエスにも反対する者となるのだ、弟子たちの権威を支持しない限り、イエスに賛成する者ではない、という参ルカ11に示されている排除の意味を含むことになる。
弟子たちに賛成ではないが反対を表明しない限り、弟子たちに賛成であるとみなしても良い、というお墨付きをイエスが与えたことになった。
賛成ではないが反対でもないという中立の者を強引に賛成の者であるとみなせることになる。
つまり、反対する者を抑える、もしくは賛成ではないが反対でもない者とすることができれば、自分たちに賛成する者だ、として排除出来ることとなった。
マルコのイエスは寛容の精神を説くものであったのに、ルカのイエスは、弟子たちの権威主義と排除の精神を容認するものとなったのである。
マタイのイエスもルカのイエスと同様のイエスである。
マルコにおけるイエスのロギアの羅列は、ヨハネたちに対する批判を意図したものである。
42また信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者は、むしろ、驢馬のひき臼を首にくっつけて海の中にでも放り込まれる方がましだろう。
43そして、もしもあなたの手があなたを躓かせるなら、それを切り捨てよ。片手で生命に入る方が両手をもってゲヘナに、消えぬ火の中に、行くよりもよい。44―――――
45そして、もしもあなたの足があなたを躓かせるなら、それを切り捨てよ。片足で生命に入る方が両足を持ってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。46―――――
47そして、もしもあなたの目があなたを躓かせるなら、それを投げ捨てよ。片目で神の国に入る方が両目を持ってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。
48そこでは彼らの蛆が絶えず、火も消えることがない。
49すなわち誰もが火によって塩づけされねばならない。50塩は良いものである。だがもしも塩が無塩になったら、それを何によって味つけられよう。あなた方自身の中に塩を持ち、互いに平和でありなさい」。
マタイは「よそ者の奇跡行為者」伝承を削除し、イエスのロギアを「子どもを受け入れる」伝承に付加している。
6私を信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者は、驢馬のひき臼を首にぶら下げて海の深みで溺れさせてやるのが、その人にとっても良いだろう。
7躓きの故に、世に禍いあれ。躓きは来ざるをえないが、しかし、躓きを来たらせる人物には禍いあれ。
8もしもあなたの手もしくはあなたの足があなたを躓かせるなら、それを切り離して、自分の外に投げ捨てよ。片手ないし片足で生命に入る方が両手ないし両足を持って永遠の火の中に投げ入れられるよりもよい。
9そして、もしもあなたの目があなたを躓かせるなら、えぐり出して、自分の外に投げよ。あなたにとっては、片目で生命に入る方が両目を持って火のゲヘナに投げ入れられるよりもよい。
マルコの42「イエスを信じるこれらの小さい者の一人」とは「イエスの名前で悪霊を追い出している者」を指し、「彼らを躓かせるような者」とは使徒ヨハネたちを指している。
マタイの6「私を信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者」とは、「子どもを受け入れる」伝承に置かれているので、教会内の「子どもの信者」もしくは「子どものような信者」を「受け入れようとしないような信者」を指すことになる。
マタイにおける以降のイエスのロギアも、教団内の信者に対する教訓として語られたものとなる。
マルコのヨハネたちに対する批判は跡形もなく消え去ったのである。
マルコは、「躓かせる」と「ゲヘナ」を鍵言葉として、イエスのロギアを並べていく。
マルコとしては、「手」「足」「目」が「躓かせる」なら、それを「切り捨てよ」、「投げ捨てよ」、と「躓かせる者」であるヨハネたちに向けて語るのである。
「ゲヘナ」を「消えぬ火の中」と説明し、次にマルコは「火」と「塩」を鍵言葉としてイエスのロギアを並べている。
「消えぬ火」は「ゲヘナ」の別表現であり、「躓かせる者」は「蛆が絶えず、火も消えない」とされる「ゲヘナ」に「投げ込まれる」ことになる、と批判している。
次にマルコは「火」を鍵言葉にして、「塩」に関するロギアを並べる。
49節のロギアと50節のロギアとは鍵言葉で繋がっているだけで、互いには無関係のロギアのように見える。
「火によって塩づけされる」とはどういう意味か、推測による論議はあるようだが、全く意味不明のようである。
WTは次のように解説している。
*** 洞‐1 1043ページ 塩 ***
イエスは,「というのは,だれもみな火で塩漬けされねばならないからです」と言われました。ここの文脈からすると,この言葉はつまずいて罪の生活に入る人,または他の人々がつまずいてそうなる原因を作る人が,すべてゲヘナの火で塩漬けされることについて言っていることが分かります。―マル 9:42‐49。
マルコが「使徒ヨハネ」批判として述べている文脈なのだが、終わりの日における「ヨハネ」級と称する統治体が「他の人々がつまずく原因」を作り、「ゲヘナの火で塩づけされる」ことがなければ良いのですが…。
WT解釈はともかく、「塩づけされる」(halisthEsetai)は、「塩」(hals)に他動詞語尾をつけたもの(halizO)の受動形。他動詞の直訳は「塩的にする」。
「塩づけにする」とも「塩味をつける」という意味にもなる。
「塩」は何よりも腐敗防止の保存料であった。
前節との関係からすれば、マルコは「塩づけされる」という語を「試練にさらされる」という趣旨に使っているようであるが、ほかに用例は見当たらないようである。
マタイやルカにも、マルコと50節と同じような「塩」に関して言及されているイエスのロギアが登場する。
参マタイ5
13汝らは地の塩である。もしも塩が馬鹿になったら、何によって塩味をつけられよう。何の役にも立たず、外に投げ捨てられて、人々に踏みつけられるのみ。
参ルカ14
34塩は良いものである。だがもしも塩も馬鹿になったら、塩は何によって味つけられよう。35土にも堆肥にも適さない。外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳を持つ者は聞くがよい」
三人とも「もしも塩が塩味を失ったら、それにほかのものでもって塩味をつけることはできない」と言っている。
「塩は良いものである」という句は、マタイにはなく、マルコとルカには共通している。
マタイは、「塩」を弟子たちが持つべき特質を指して使っているようであるが、ルカは弟子たちとは無関係の単なる格言的ロギアである。
マルコは、「あなた方自身の中に塩を持つべし」と言っており、弟子たちが持つべき特質と関連付けているようであるが、「互いの平和」と結び付けている。
イエスがどういう趣旨でこの格言的な言葉を用いているのか、三者三様の解釈である。
この格言だけがイエスの言葉として断片伝承として伝えられていたことは確かであるが、誰を相手に、どういう状況でイエスが語ったのかわからない以上、どういう意味でイエスが語ったのかも不明である。
マルコにおいてはヨハネに対する批判の意図を持って語られている部分であるから、「塩」が「無塩」となっている状態とは、ヨハネたちの使徒集団の状態を比喩したものであろう。
彼らが、良いものであるはずの塩を持たず、互いに権力争いに執着し、互いに平和な状態にはなかったことを示唆しているのであろう。
なおマルコの44節と46節は、後代の付加として削除されている。
そこには48節と同じく「そこでは彼らの蛆が絶えず、火も消えることはない」という句が挿入されていた。(ADΘf13、ビザンチン系の多数)
写本重要性からして、原文である可能性はない。