マルコ9:30-37 <第二回受難予告、及び子どもを受け入れる> 

並行マタイ17:22-23,18:1-6、ルカ9:43b-48

 

マルコ9 (田川訳)

30またそこから出て、彼らはガリラヤを通って行った。そして彼は、誰かが知るのを好まなかった。31というのも彼の弟子たちを教えて、人の子は人々の手に引き渡され、人々は彼を殺し、殺された後彼は三日に復活するであろうと言っていたからである。32彼らは言われたことを理解せず、また恐れて彼にたずねることもしなかった。

33そしてカファルナウムに来た。そして家に居た時、彼らにたずねた、「道で何を議論していたのか」。34彼らは黙っていた。道では、誰がより大きいのかと言い合っていたからである35そして座って、十二人を呼びつけた。そして彼らに言う、「もしも誰かが第一者であろうと思うなら、万人最後の者万人仕える者となるがよい」。36そして一人の子どもを取り皆の真ん中に立たせ、そして抱きあげて、彼らに言った、37これらの子どもたちの一人を私の名前の故に受け入れる者が、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、わたしではなく、私を遣わし給うた方を受け入れるのである」。

 

マタイ17

22彼らがガリラヤで集結していた時に、イエスが彼らに言った、「人の子は人々の手に引き渡されるであろう23そして彼らは人の子を殺し、人の子は三日甦るであろう」。彼らは非常に悩んだ。

 

マタイ18

1そのころ弟子たちがイエスのもとに進み出て、言った、「天の国ではいったい誰が大きいのでしょうか」。2そして一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、3言った、「アメーン、あなた方に言う、たちもどって、子どものようにならなければの国に入ることはできない。4この子どものように自分自身を低くする者天の国において大きい者なのである。5そしてこういう子どもの一人を私の名前において受け入れる者が、私を受け入れるのである。6私を信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者は、驢馬のひき臼を首にぶら下げて海の深みで溺れさせてやるのが、その人にとっても良いだろう。

 

ルカ9

43…すべての者が彼のなしてきたすべてのことに驚いていると、弟子たちに対して言った、44あなた方はこの言葉を耳に入れておきなさい、人の子は人々の手に引き渡されるのである」。45らはこの言葉を理解しなかった。それは彼らには隠されていたからである。だから納得できなかった。そしてこの言葉について彼にたずねるのを恐れた

46彼らの間で、自分たちのうちで誰がより大きいかという議論が生じた。47イエスは彼らの心の議論を知って、子どもを一人つかまえ、自分のかたわらに立たせて、48彼らに言った、「この子どもを私の名前の故に受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、私を遣わし給うた方を受け入れるのである。何故なら、あなた方みんなの間で一番小さい者が大きいのである」。

 

 

マルコ9 (NWT)

30 彼らはそこを出発してガリラヤを通ったが,[イエス]はそのことをだれにも知られないようにと望まれた。31 弟子たちに教えて,こう話しておられたからである。「人のは人々の手に引き渡されます。そして人々は彼を殺しますが,殺されても,三日後に彼はよみがえるでしょう」。32 しかしながら,彼らはそのことばを理解せず,また彼に質問するのを恐れていた。

33 それから彼らはカペルナウムに入った。さて,家の中におられた時,[イエス]は彼らにこう質問された。「あなた方は途中で何を議論していたのですか」。34 彼らは黙っていた。途中で彼らは,だれのほうが偉いかと,互いに議論したからであった。35 そこで[イエス]は腰を下ろし,十二人を呼んでこう言われた。「第一でありたいと思うなら,その人はみんなの最後となり,すべての者の奉仕者とならなければなりません」。36 そして,ひとりの幼子を連れて来て彼らの真ん中に立たせ,両腕をその[子]にかけて,彼らにこう言われた。37 「だれでも,わたしの名によってこのような幼子一人を迎える者はわたしを迎えるのです。そして,だれでもわたしを迎える者は,わたしだけでなく,わたしを遣わした方をも迎えるのです」。

 

マタイ17

22 彼らがガリラヤに集まっていた時のことであったが,イエスは彼らにこう言われた。「人のは裏切られて人々の手に渡されるように定められています。23 そして人々は彼を殺し,三日目に彼はよみがえらされるでしょう」。このため,彼らは非常に悲しんだ。

 

 

マタイ18

その時,弟子たちがイエスの近くに来て,「天の王国ではいったいだれが一番偉いのですか」と言った。2 そこで[イエス]は,ひとりの幼子を自分のもとに呼び,彼らの真ん中に立たせて,3 こう言われた。「あなた方に真実に言いますが,身を転じて幼子のようにならなければ,あなた方は決して天の王国に入れません4 それゆえ,だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです。5 そして,だれでも,わたしの名によってこのような幼子一人を迎える者は,わたしを[も]迎えるのです。6 しかし,わたしに信仰を置くこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者にとっては,ろばの回すような臼石を首にかけられて,広い大海に沈められるほうが益になります。

 

ルカ9

43…さて,[イエス]の行なうすべての事柄にみんなの者が驚嘆していると,[イエス]は弟子たちにこう言われた。44 「この言葉をあなた方の耳にしっかり収めておきなさい。人のは人々の手に引き渡されるように定められているのです」。45 しかし彼らは,このことばについて依然として理解していなかった。事実,彼らがその意味を見抜くことがないよう,それは彼らから秘められていたのであり,また彼らはこのことばについて[イエス]に質問するのを恐れていた。

46 その後,自分たちの中でだれが一番偉いだろうかという論議が彼らの間に持ち上がった。47 イエスは彼らの心の中の論議を知り,ひとりの幼子を連れて来て自分のわきに立たせ,48 それから彼らにこう言われた。「だれでもわたしの名によってこの幼子を迎える者はわたしを[も]迎えるのであり,だれでもわたしを迎える者はわたしを遣わした方を[もまた]迎えるのです。あなた方すべての間でより小さい者として行動する人こそ偉いのです」。

 

 

 

 

マルコでは、「第二回受難予告」と「子どもを受け入れる」伝承とは互いに関連する連続した話となっている。

 

マタイはそれを切り離し、間に「神殿税」伝承を挿入し、関連性のない別々の話にしている。

 

マルコでは、二つの伝承を通して、イエスが受難の意味を弟子たちに教えようとするのであるが、イエスのように「仕える者」となって生きることであることを理解せず、逆に自分たちの間で誰が大きいか、という俗物的な権力争いに執着している、という批判が展開されている。

 

マタイは、二つを完全に切り離すことにより、弟子たちに対するイエスの批判を消し去り、「子どもを受け入れる」伝承を単なる宗教的説教に仕立て直した。

 

ルカの「第二回受難予告」は前段の奇跡的病気治療の結びの句に続いており、結びの編集句の中心となる伝承として扱われている。

 

ルカは、イエスの奇跡より受難のほうを重要視しており、神のキリストにおける受難による救済という理念を、キリスト復活の時までは弟子たちを含め、誰にも理解できない「隠された秘義」として描こうとしている。

 

マルコでは、受難の意味を理解しない弟子たちを批判しているのであり、「キリストの秘密」などという「秘義」なる理念は描かれていない。

 

これはルカが持ち込んだキリスト教神学的ドグマである。

 

マルコの「第二回受難予告」では「弟子たちが何も理解しなかった」ことが、ルカでは「彼らから隠されている」秘義として扱われることとなった。

 

ルカは「第三回受難予告」(18:24)でも、弟子たちの「無理解」が、「隠されている」秘義という理念にすり替えられている。

 

 

マルコの「第二回受難予告」はガリラヤを舞台にして語られる。

 

マルコ9

30またそこから出て、彼らはガリラヤを通って行った。そして彼は、誰かが知るのを好まなかった。31というのも彼の弟子たちを教えて、人の子は人々の手に引き渡され、人々は彼を殺し、殺された後彼は三日に復活するであろうと言っていたからである。32彼らは言われたことを理解せず、また恐れて彼にたずねることもしなかった。

 

マタイ17

22彼らがガリラヤで集結していた時に、イエスが彼らに言った、「人の子は人々の手に引き渡されるであろう23そして彼らは人の子を殺し、人の子は三日甦るであろう」。彼らは非常に悩んだ。

 

ルカ9

43…すべての者が彼のなしてきたすべてのことに驚いていると、弟子たちに対して言った、44あなた方はこの言葉を耳に入れておきなさい、人の子は人々の手に引き渡されるのである」。45彼らはこの言葉を理解しなかったそれは彼らには隠されていたからである。だから納得できなかった。そしてこの言葉について彼にたずねるのを恐れた

 

 

マルコの30「そこから出て」(kai kakeithen exelthontes)という言い方は、マルコが新しい段落を始める時の口癖のようなもの。(6:1,7:24、10:1)

どこから出て来たのか、などと確かめようとしても意味がない。本文とは無関係。

 

マルコの30「ガリラヤを通って行った」に対し、マタイは22ガリラヤに集結していた」。

マタイの「集う」(anastrephO)は普通の「集まる」(sunagO)という動詞ではなく、さまざまな場所からひとつの場所に戻って集合する、という趣旨の動詞。

 

軍隊用語としても使われ、「(ベース・キャンプに)集合させる」、あるいは「(赴任地に)集結させる」、という趣旨で使われる。ここは、その他動詞の男性複数受身形分詞。

 

マタイとしては、弟子たちがそれぞれ宣教活動でさまざまな場所に赴いており、この時、一時的にガララヤに集結した、という設定なのであろう。

 

 

マルコにおける「第一回受難予告」は、ガリラヤ北部の「フィリポスのカイサリア」(8:22)でなされ、エルサレムへと向かう受難の旅を始める宣言である。

 

マルコにおける「ガリラヤ」は、イエスの活動の中心地であり、「カファルナウム」にはイエスの「家」があったとも読める場所である。(2:1、9:33参照)

 

マルコとしては、イエスの「受難の旅」は、「第一回受難予告」舞台となったイスラエルの最北から始まり、イエスの活動の中心地である「ガリラヤ」の「カファルナウム」への道中で「第二回受難予告」をするという設定にしたのであろう。

 

ルカは、「癲癇患者の癒し」伝承における結びの編集句の中心をなす伝承として、「第二回受難予告」を設定している。

 

 

マルコのイエスは30「誰かが知るのを好まなかった」とあるが、それはなぜか。

 

マルコは前文を受けてその理由を説明する接続詞(gar)で、「というのも…」と次文を始めている。

 

garがかかるのは、「弟子たちを教える」までの句とする解釈と、全文の「弟子たちを教えて、受難予告を言っていた」までの句にかかるとする解釈がある。

 

「弟子たちを教える」までをその理由と解釈すると、「弟子たちを教えるので」となる。

つまり、マルコのイエスは弟子たちだけに対して教えることにしたので、「第二回受難予告」をほかのだれにも知られないようにした、という趣旨になる。

 

NWT「弟子たちに教えて、こう話しておられたからである」はこの解釈。

 

しかし、この解釈は「第一回受難予告」(8:31-33)におけるマルコのイエスの態度と矛盾する。

 

「ペテロ告白」を受けてなされた「第一回受難予告」(8:27-33)で、マルコのイエスはペテロを「叱りつけた」(8:30)上で、弟子たちだけに「第一回受難予告」を告げたのではない。

「群衆」に対しても「公然と語って」(8:32)いるからである。

 

さらに、マルコのイエスは「群衆を自分の弟子たちとともに呼び寄せた」(8:34)上で、「十字架の死」の意義を教えている。

 

マルコのイエスは「群衆」が「受難予告」を知ることを妨げていない。

重要な教えを「弟子たち」だけのものともしていない。

 

「受難の死」に関する教えを、「第一回受難予告」では、「弟子たち」にも「群衆」に対しても公然と教えたにもかかわらず、「第二回受難予告」に関しては「弟子たち」だけに教えるために、30「誰かが知るのを好まなかった」、つまり弟子たち以外の「群衆」には知られたくなかった、と解釈するのは矛盾である。

 

garを全文にかかると解して、その理由と読むと、マルコのイエスは、弟子たちが31「受難予告」に関して、人々に対して31「言っていた」ので、これ以上30誰かが知るのを好まなかった」という趣旨になる。

 

しかしながら、弟子たちは「受難予告」に関して32言われたことを理解しなかった」のであるから、「受難予告」を人々に吹聴していたとは考え難い。

 

弟子たちが人々に「言っていた」のは、メシアはイエスであるというユダヤ教救済信仰に基づく解釈であった。(8:29参照)

 

とすれば、ここは「受難予告」について人々に知られることを望まなかった、というより、イエス自身に関して、人々に知られることを好まなかった、という趣旨であろうか。(「訳と註」より)

 

人々にイエスの居所を知られてしまえば、いつまでたっても、人々は次から次へと病人を連れて来て、治療を頼むであろう。

 

エルサレムへの受難の旅を始めたマルコのイエスは、今やすべてを捨ててエルサレムで受難の死を迎える覚悟でいた。

 

マルコのイエスは「ガリラヤ」の治療活動を積極的にやるべきだと思っていたのだろう。

しかし、受難は必然なので、今やエルサレムに向かって行かねばならぬ。

それゆえ30「彼は誰かが知るのを好まなかった」というのであろう。

 

もちろんこれは実際のイエスがそう考えていたというのではなく、マルコがそう考えているものとして描いているのだろうということである。

 

 

マルコの「受難予告」における言葉遣いが第一回と第二回では微妙に異なっている。

「第一回」:「そして、人の子は多く受難し、長老、祭司長、律法学者によって廃棄され、殺され、三日後に復活することになっている」(8:31)

「第二回」:「人の子は人々の手に引き渡され、人々は彼を殺し殺された後彼は三日後に復活するであろう」(9:30)

 

「第一回」の「多く受難する」「廃棄される」「復活する」(anastEmi)はすべてユダヤ教的キリスト教のドグマ用語。

 

「第二回」では、「人々の手に引き渡される」「人々は彼を殺す」「復活する」(anastEmi)とドグマ用語だけでなく、普通の言葉でイエスの受難復活を表現している。

 

「第二回受難予告」は、イエスのロギア伝承を写しているのではなく、マルコの編集句となっている。

マルコのイエス観が言葉遣いに反映されているのだろう。

 

 

マタイは、マルコの32「三日」を「第一回受難予告」と同じく23「三日」と訂正している。

 

さらに、マルコでは現在形の31「引き渡される」に未来の助動詞(mellO)を付けて22引き渡されるであろう」と文法上の不備を訂正して、写してくれている。

 

もっとも、現在形でも未来を意味しうるので、完全な文法ミスとも言えないようである。

 

 

ルカは単に44「人の子は人々の手に引き渡されるのである」。

「受難予告」における「復活」に関する部分を削除して、マルコの一部だけを採用した。

 

「引き渡される」に関しては、マタイと同じく未来形の助動詞(mellO)を付けて、マルコの現在形を修正してくれている。

 

 

マルコでは、「第二回受難予告」に関しても、弟子たちは、32言われたことを理解せずまた恐れて彼にたずねることもしなかった」のである。

 

マルコの弟子たちは、相変わらずイエスに関して「無理解」であることを示すのである。

しかも、イエスを「恐れて」、「たずねることもしない」のである。

 

マルコの「群衆」は自由にイエスに近づくのであるが、マルコの「弟子たち」は、イエスを「恐れて」いて、質問もできないようである。

 

ルカは、弟子たちが「イエスを恐れてたずねなかった」のではなく、「たずねるのを恐れた」ことにした。

 

「受難予告」は神に属する秘義であるから、イエスにたずねること自体が恐ろしいことだった、ということにしたのだろう。

 

 

マタイでは、「第一回受難予告」は「弟子たち」だけに与えられた特別な予告であるという設定。

 

その際、ペテロはイエスを連れ出して「主よ、あなたにそんなことが起こってはなりませぬ」(16:22)と叱りつけるが、逆にイエスに背を向けられ、ほかの弟子たちとともに「サタンよ。人間にかかわることを考えている」(16:23)と拒絶されることになる。

 

その後、「十字架を負って」の説教で「イエスに従がってくる」(16:24)よう励まされ、イエスの受難の意味を理解する。

 

ペテロをはじめとする弟子たちは、ちょっと出来は悪いが人間味あふれる模範的な追随者として描かれている。

 

マタイでは、「第二回受難予告」も「第一回受難予告」に引き続き、「弟子たち」だけが受けるのであるが、22彼らは非常に悩んだ」とあるだけである。

 

マルコの弟子たちにおけるイエスに対する「無理解」と「恐怖心」は綺麗に取り除かれ、「第一回受難予告」に引き続き、イエスの安否を気にかける人情味にあふれる弟子たちを演じるのである。

 

 

ルカの「第一回受難予告」(9:21-22)は、イエスが「神のキリスト」(9:20)であるというキリスト教ドグマに対して緘口令が布かれた上で、「弟子たち」だけに語られたという設定である。

 

「第二回受難予告」は、奇跡物語の結びに、「弟子たち」だけに対して、重要な予告をするという設定であるが、45彼らには隠されて」いるという設定にした。

 

マルコにおける32「言われたことを理解しない」ことは、イエスに関する「無理解」であったものが、ルカにおける45この言葉を理解しなかった」ことは、45彼らには隠されている」秘義であることになった。

 

誰によって「隠されて」いたのか。

 

ルカのイエスは「弟子たち」には「受難予告」を繰り返し説明しているのであるから、「イエス」には「隠す」意図はないものと思われる。

 

つまり、ルカは「受難予告」が「神」によって「隠されている」秘義であった、と考えていることになる。

 

ルカは、「弟子たち」が「受難予告」を「理解しなかった」のは、イエスに関して「無理解」でも「無能」でもなく、「神」によって「隠されていた」からである。

だから弟子たちが「納得出来なかった」のは当然である、という設定とした。

 

ルカはマルコにおける弟子たちに対する「無理解」批判を消しただけでなく、「神の秘義」へと昇華させたのである。

 

 

 

マルコの弟子たちは、「受難予告」を理解せず、「恐れて、たずねることもせず」、カファルナウムに向かう。

 

マルコ9

33そしてカファルナウムに来た。そして家に居た時、彼らにたずねた、「道で何を議論していたのか」。34彼らは黙っていた。道では、誰がより大きいのかと言い合っていたからである35そして座って、十二人を呼びつけた。そして彼らに言う、「もしも誰かが第一者であろうと思うなら、万人の最後の者、万人に仕える者となるがよい」。36そして一人の子どもを取り、皆の真ん中に立たせ、そして抱きあげて、彼らに言った、37これらの子どもたちの一人を私の名前の故に受け入れる者が、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、私ではなく、私を遣わし給うた方を受け入れるのである」。

 

マタイ18

1そのころ弟子たちがイエスのもとに進み出て、言った、「天の国ではいったい誰が大きいのでしょうか」。2そして人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、3言った、「アメーン、あなた方に言う、たちもどって子どものようにならなければ、天の国に入ることはできない。4この子どものように自分自身を低くする者が天の国において大きい者なのである。5そしてこういう子どもの一人を私の名前において受け入れる者が、私を受け入れるのである。6私を信じるこれらの小さい者の一人躓かせるような者は、驢馬のひき臼を首にぶら下げて海の深みで溺れさせてやるのが、その人にとっても良いだろう。

 

ルカ9

46彼らの間で、自分たちのうちで誰がより大きいか、という議論が生じた。47イエスは彼らの心の議論を知って、子どもを一人つかまえ、自分のかたわらに立たせて、48彼らに言った、「この子どもを私の名前の故に受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、私を遣わし給うた方を受け入れるのである。何故なら、あなた方みんなの間で一番小さい者大きいのである」。

 

 

マルコの「第二回受難予告」と「子どもを受け入れる」伝承は、対となって連続している物語である。

 

30「彼らはガリラヤを通って行き」、イエスが活動の拠点としていた都市である33「カファルナウム」に到着し、「家」に入る。

 

 

この「家」とは「誰の家」か。

 

マルコでは、イエスを主語として「家」にいることを示している句がいくつか登場する。

 

2:1「彼が家にいる」(eis oikon estin=into house he-is)「家」対格単数男性形)男性形「家」は動詞の主語に合わせただけで「ある家」とも「彼の家」=「イエスの家」とも読める。

 

WTは、イエスがカペルナウムに「住んでいた」ことを認めていながら、「ペテロとアンデレの家」という解釈。

 

*** 塔76 3/1 134ページ イエスがご自身の都市で行なった奇跡 ***

イエスがカペルナウムに住んでおられた時,恐らくペテロとアンデレの家に滞在したことでしょう。もしそうだとすれば,その先で聖書が述べている通り,「何日かのち,イエスは再びカペルナウムに入られ,彼が家におられることが伝わった」のは,イエスが彼らの家にいた時のことでした。―マルコ 2:1。

 

9:33「家にいた時」(en tE oikia genomenos=in the house having-come-to-be)「家」(定冠詞付き与格単数女性形)女性形「家」は「カペルナウム」という都市を受けた女性形であり、「カペルナウムにある家」という意味。「ある女性の家」という意味ではない。

定冠詞が付いているので、「カペルナウムの例のいつもの家」という趣旨。

「イエスの家」ともイエスがカペルナウムで良く使っていたある家)とも読める。

 

WTはこの「家」は「カペルナウム」の比喩表現と解釈している。

 

*** 洞‐1 599ページ カペルナウム ***

イエスはカペルナウムの近辺から召した4人の弟子たちを伴ってガリラヤを伝道して回った後,カペルナウムに戻られました。そのころには,カペルナウムはイエス「ご自身の都市」と呼ばれるほどで,イエスが『にいる』と言われる場所になっていました。(マタ 9:1; マル 2:1)

 

どちらの個所も、物語を始めるにあたりマルコが設定した導入句である。

マルコとしては、イエスはガリラヤ地方、特にカファルナウムを中心に活動していたことを示すために「家にいる」という設定にしたのであろう。

 

 

マルコの「第二回受難予告」は、ガリラヤ地方に入り、カファルナウムに向かっている旅路の途中の出来事という設定である。

 

マルコの「子どもを受け入れる」説教は、その後の旅路の途中における弟子たちの議論が導入となっている。

 

マルコの弟子たちは、「受難予告」を32「理解せず」、イエスとエルサレムへの旅を続けながら、何を議論していたのか。

 

弟子たちの中で34「誰がより大きいのかと互いに議論していた」というのである。

 

彼らはイエスの質問に、34「黙っていた」のであるから、自分たちの議論は、イエスに認められるような振る舞いではないことは自覚していた、ということであろう。

 

田川訳の「より大きい」をNWTは「誰のほうが偉い」と訳している。

口語訳・新共同訳等も「一番偉い」と訳しているが、原文は比較級で、「偉い」ではなく「大きい」が直訳。

 

「弟子たち」が、互いに「大物」ぶりを比較しあっていた、ということだから、誰が一番偉いのか、という言い争いをしていたという趣旨である。

 

マルコは「弟子たち」という表現を「ペテロ・ヤコブ・ヨハネ」の三人を指して用いる傾向があるが、ここでは35「十二人」であることを示している。

 

つまり、「十二使徒」たちは、それぞれ「大物ぶり」を自己主張し、互いに譲らなかった、ということである。

しかしながら、これは初めからイエスのロギアに組み込まれていた導入句というより、おそらくマルコが持ち込んだ編集の導入句であろう。

 

とすれば、マルコとしては、イエスの「使徒」継承を語る当時のキリスト教会(ペテロ派、ヤコブ派、ペテロ派等)における権力闘争の状況を織り込んでいるものと考えられる。

 

 

マルコのイエスは「十二人」を呼びつけ、彼らの論議が互いに「第一者であろう」とする争いであることを示唆して、説教をする。

 

二つのイエスのロギア伝承を編集句が繋いでいる。

 

35「もしも誰かが第一者であろうと思うなら、万人の最後の者万人に仕える者となるがよい」。

 

37「これらの子供たちの一人を私の名前の故に受け入れる者が、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、私ではなく、私を遣わし給うた方を受け入れるのである」。

 

35節のイエスのロギアと37節のイエスのロギアは、もともとは別々のロギアだったのであろう。35節はイエスの発言と直接結び付くが、37節には「イエスの名前の故に受け入れる」とする教会ドグマが織り込まれている。

 

それを並列させ、同じ趣旨のイエスのロギアとして結び合わせているのは、36節の編集句である。

 

とすれば、二つのイエスのロギアを繋いでいる36一人の子どもを取り、十二人の真ん中に立たせ、抱きあげて、言う」という導入句も、マルコ創作の編集句であろう。

 

マルコは、元来は別々の場面で語られたイエスのロギア伝承を同じ場面で並列させ、結合させることにより、一つの物語として編集したのであろう。

 

 

「第一者」(prOtos)は、「第一」(primus)という序数詞の形容詞をそのまま名詞として用いたもの。

 

「第一者」とは普通は「政治的に最高の地位にある者」を指す語である。

たとえば、市の行政などの最高責任者が「市(市民)の第一者」と呼ばれた。

 

ローマ帝国の皇帝は「第一者」(princeps)と呼ばれ、初期皇帝の公式称号であった。

こちらは同根のpri-ではあるが、序数詞(primus)ではない。

 

だが字義としては「第一の位置を取る者」という意。

princeは普通「皇太子」「王子」と訳されるが、皇位継承権「第一位の者」を指す。

 

「第一者」と対比されている「最後の者」(eschatos)とは、社会的身分の「最後」にある者を指す。

「仕える者」(diakonos)と同義に言い変えられている。

この語は、社会身分として最下層である「奴隷」「召使」などを指す語である。

 

つまり、マルコのイエスが互いに「誰がより大きいか」と権力争いしていた「十二人」を呼びつけて、説教したのは、単に偉い人になりたいと思うなら、人様には先を譲りましょう、むしろ奴隷のように人様に仕えましょう、という謙遜の美徳を述べているわけではない。

 

「第一者であろうと思う」ということは、行政の長や皇帝となり、他人を支配して、儲けたり、威張りくさる事と同じである。

 

そんな輩になろうと思う奴は、「万人の奴隷」となれ、むしろ「第一者であろう」などと思うな、と厳しく弟子たちの態度を批判しているのである。

 

「万人」の原語はpantOn=allで「すべての人々」という意味。

 

「万人の最後の者」もしくは「万人に仕える者」となれ、という実例を示すために、マルコのイエスは一人の子どもを「十二人」の真ん中に立たせて、抱き上げて、弟子たちに示すのである。

 

37「これらの子どもたちの一人を私の名前の故に受け入れる者が私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、私ではなく、私を遣わし給うた方を受け入れるのである」。

 

この句の解釈に関して、理解が分かれるのは、前半の句である。

 

後半の句は、イエスを受け入れる者は、イエスを遣わした「神」を受け入れるのである、と読む以外に、ほかの意味に読める要素はない。

 

 

前半の句の「私(イエス)を受け入れる」者とは、「キリスト信者」のことであり、「私の名前のゆえに受け入れる者」も、「キリスト信者」のことである。

イエスが「弟子たち」に向かって語った言葉である。

 

つまり、「弟子たち」が「イエスを受け入れる者である」というのであれば、「これらの子どもたちの一人を受け入れる」のでなければ、「キリスト信者」たる者ではない、と言っていることになる。

 

「これらの子どもたちの一人を私の名前の故に受け入れる者」とは、どんな者を指すか、という問題である。

 

マルコの原文は、「誰でも(関係代名詞)」「もし」「ひとりを」「これらの」「子供の」「受け入れる」「私の名のゆえに」の順。

それに「私を」「受け入れる」という順で文が続いている。

 

「私の名前のゆえに」という句をどこにかけて読むかで意味が変わってくる。

 

「私の名のゆえに」という句は、動詞「受け入れる」のすぐ後に置かれている。

 

 

大多数の註解書(テイラー、クロスターマン、グルニカ、リュールマンほか)は、37「私の名前の故に」の句を、動詞を飛び越えて、その前にある、「子ども」にかかる修飾句と解説している。

 

田川訳と同じく、この句をすぐ前にある「受け入れる」という動詞にかかる修飾句と解説しているのは、比較的最近の註解書ではトロクメさんだけであるという。

 

 

どういう意味の違いが生じるのか。

 

「私の名前の故に」を「子ども」にかけて読むと、「私の名前のゆえに子どもを受け入れる」となり、「私の名前を信じる子どもの一人を受け入れる」という意味に解せることになる。

 

つまり、「子ども」とはキリスト信者の比喩であり、教会内のどんな小さな信者であろうと受け入れなければならない、という趣旨に読むことが可能になる。

 

 

「私の名前の故に」を「受け入れる」にかけて読むと、「子どもを受け入れるのは私の名前の故にである」と同義になる。

「私の名前の故に」、つまり「キリスト信者」というのであれば、「子どもの一人を受け入れる」べきであるという趣旨になる。

 

「子ども」とはキリスト信者の比喩ではなく、「イエスを受け入れる」ことはキリスト教とは無関係に、文字通りにそこにいる「子ども」を受け入れることである、という意味になる。

 

マルコの37これらの子どもたちの一人を私の名前の故に受け入れる者が、私を受け入れるのである」の言葉は、35もしも誰かが第一者であろうと思うなら、万人の最後の者、万人に仕える者となるがよい」の後に置かれており、同じ意味の教訓を具体的に示すために「子どものひとりを抱き上げて」、語られたものである。

 

つまり、マルコでは「最後の者」「仕える者」「子ども」は同じ立場に属する人々を指している。

 

「子ども」を「キリスト信者」の比喩と解すると、「万人の最後の者」「万人に仕える者」となれ、と言っている事と矛盾する。

 

マルコのイエスは、「弟子たち」が「最後の者」「仕える者」になるのは、「万人」に対してであり、キリスト信者の範囲内に限定しているわけではないからである。

 

「第一者」になろうなどと思うな、「すべての人々」に対して「最後の者」「仕える者」となれ、と説教しているのである。

 

 

マタイにもマルコと同じく、5こういう子どものひとりを私の名前において受け入れる者が、私を受け入れるのである」とある。

 

しかし、マタイはそのイエスのロギアの前に、3たちもどって子どものようにならなければ、天の王国に入ることはできない。4この子どものように自分自身を低くする者が天の国において大きい者なのである」というマルコにはない文を置いている。

 

マルコの37「子どもを受け入れる」を、マタイは3子どものようになる」に変え、4「自分自身を低くする」ことが3「子どものように」なることであるとしたのである。

 

つまり、マルコでは「子どもを受け入れる」ことが「イエスを受け入れる」ことである、という意味の文が、マタイでは「子どものように自分自身を低くする」ことが「イエスを受け入れる」ことであるという意味にすり替わったのである。

 

さらに、マタイは6私を信じるこれらの小さい者の一人を躓かせるような者は、驢馬のひき臼を首にぶら下げて海の深みで溺れさせてやるのが、その人にとっても良いだろう」というイエスのロギアをマルコと同じロギアの後に置いている。

 

マルコではこのイエスのロギアは次段の「よそ者の奇跡行為」伝承の中(9:42)に出て来る。

 

マタイはマルコの「よそ者の奇跡行為」伝承を全部削除したが、この句だけを「子どもを受け入れる」説教の最後に付加したのである。

 

マタイの意図はどこにあるのか。

 

マルコでは、「(私を)信じるこれらの小さい者の一人」とは、弟子集団とは行動を共にしないが、イエスの名前を使って奇跡的行為で悪霊を追い出している者たちを指して使われている。

 

弟子集団の仲間にはならなくても、イエスを信じて治療活動をなす者たちを排除してはならない、という趣旨で語られたイエスのロギアとなっている。

 

マタイは5「こういう子どもの一人を私の名前において受け入れるが私を受け入れるのである」にこのイエスのロギアを続けた。

 

その結果、マタイでは6「私を信じるこれらの小さい者の一人」とは、5「私の名前において受け入れる子どもの一人」と同じ者を指すことになった。

 

マタイにおける「子どもの一人」とは「信者の子ども」もしくは「信者の中の小さい者」を指す比喩となったのである。

 

マタイの意図は明らかであろう。

 

マタイは、「弟子たち」と共に行動しないキリスト信者を認めたくないのである。

むしろ、キリスト信者であるなら「弟子たち」に従がうべきである、と考えているのだろう。

 

 

マルコとマタイでは同じイエスのロギアであっても、状況の設定や前後に置かれているロギアの違いによって、全く異なる意味となっている。

 

 

くり返すが、マルコのイエスが言う「もしも誰かが第一者であろうと思うなら」とは、謙遜の美徳の心得として、単に「自分が偉い人になりたいと思うなら」という趣旨で述べているのではない。

 

「第一者」(支配者)なることを望むようなものは、まず「最後の者」「仕える者」(奴隷・召使)になれ、と言っているのであり、「第一者」であろうなどと思うな、人々に仕える者となるがよい、という趣旨である。

 

このマルコのイエスと同じ精神は、10:42「あなた方は支配者になるな」という説教でも登場する。

 

マルコが単なる比喩としての説教として「子ども」を抱き上げた、つまり「子どものように」という教訓としてではなく、現実社会の「仕える者」(奴隷・召使)の実例として「子ども」を抱き上げたという設定にしたのは使っている語からも推察できる

 

ここに出て来る「子ども」(paidion)という語は、「子ども」(pais)に「小さい」を意味する指小辞-ionを付けたもの。

 

それでNWTを含め「幼子」と訳されているものも多い。

 

しかしながら、マルコにおいて指小辞はほとんど意味をもたない。

だが、指小辞を付けずに単にpaisと言うと「子ども」以外にも「奴隷」「召使」の意味にも使われる。

 

それで、「奴隷」「召使」と読ませないために、マルコはあえて指小辞を付けた「子ども」(paidion)という語を使ったのだろう。

 

35「万人の最後の者」「万人に仕える者」とは、37子どもを受け入れる者」に対応している。

 

「万人の最後の者」「万人に仕える者」となれ、とはキリスト教会内の人々に対して、「奴隷」「召使」のように謙遜に仕える者になって、「子どものような信者たち」を受け入れよ、と言っているのではい。

 

文字通り「奴隷」や「召使」が、文字通り「最後の者」「仕える者」となって「主人を受け入れる」ように、文字通りイエスが抱いている「子ども」を「受け入れる者」なれ、と言っているのである。

 

「子どものような特質を持つ者となれ」と言っているのではない。

「子どものような者を受け入れよ」と言っているのでもない。

 

イエスを受け入れ、イエスを遣わした方を受け入れると言うのであれば、社会的弱者である「子ども」「奴隷」「召使」を、文字通り受け入れよ、と言っているのである。

 

「イエスを受け入れる者」でありたいと願うのであれば、「第一者」(支配者)になりたいなどと思わず、同じキリスト教会内の人間関係に限定せず、「万人」に対して「最後の者」「仕える者」であれ、と言っているのである。

 

これが、実際に「子ども」を抱いてマルコのイエスが「十二人」に示した「子どもを受け入れよ」説教である。

 

 

しかし、多くの場合、マルコにマタイを読み込んで、マルコの個所も「子ども」とは「子どものような人」、つまり「子どものように謙遜な特質を持つ者」と解説されることが多い。

 

WTも然り。

*** 塔07 2/1 8–9ページ 子どもたちからどんなことを学べますか ***

イエスがなぜそう述べたのかについて考えてみましょう。長旅のあとカペルナウムに到着したイエスは,弟子たちに,「あなた方は途中で何を議論していたのですか」と尋ねました。弟子たちは,だれのほうが偉いかと互いに議論していたため,きまり悪く思って黙っていましたが,ついに勇気を出して「天の王国ではいったいだれが一番偉いのですか」と質問しました。―マルコ 9:33,34。マタイ 18:1。

3年近くもイエスと共に過ごした弟子たちが地位や階級のことで議論していたとは,意外に思えるかもしれません。しかし弟子たちは,地位や階級を非常に重んじる,ユダヤ人の宗教のもとで育ちました。そうした宗教的背景が,人間的不完全さと相まって,弟子たちの考え方に影響を及ぼしていたものと思われます。

イエスは腰を下ろし,弟子たちを呼び寄せて,「第一でありたいと思うなら,その人はみんなの最後となり,すべての者の奉仕者とならなければなりません」と言いました。(マルコ 9:35)弟子たちは,ものも言えないほど驚いたことでしょう。イエスの教えは,偉さに関するユダヤ人の考え方をきっぱり否定するものだったのです。次いでイエスは,一人の幼子を自分のもとに呼び,優しく抱きしめてから,弟子たちに要点を銘記させるためにこう言いました。「あなた方に真実に言いますが,身を転じて幼子のようにならなけれ,あなた方は決して天の王国に入れません。それゆえ,だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです」。―マタイ 18:3,4。

謙遜さを具体的なもので教える,なんと意義深い教育法なのでしょう。その場面を思い描いてみてください。一人の小さな子どもを,いかにもまじめな顔つきの大人たちが取り囲んで,じっと見ています。その子は,おずおずしながらも,大人を信頼しています。対抗心や敵対心などはなく,柔順で,気取ることもありません。そうです,その幼子は,謙遜という敬虔な特質のいわば見事な典型だったのです。

イエスの言いたかったことは明らかです。わたしたちは皆,神の王国を受け継ぐためには,子どもの持つような謙遜さを培わなければならない,ということです。

 

 

WTの解説は、マルコを解説しているように見せかけて、実は聖書霊感説信仰を前提にマタイを読み込んで、解説している。

 

マルコの弟子たちは「神の王国で誰が一番偉いか議論していた」のではない。

実際に、「自分たちの間で、誰が一番偉いのか」支配者争いしていたのである。

 

「誰がより大きいか」という論争を、「実際の社会」での話から、「神の国」での話にすり替えたのはマタイである。

 

「受難予告」を受けたにもかかわらず、何も理解せず、同じ道中で自分たちの中で、今現在「第一者」は誰かと論争していたのを、マタイは具体的状況には無関係の、「神の国」における「第一者」の宗教説教にすり替えたのである。

 

その結果、マルコでは、イエスが、文字通りの「子ども」と文字通りの「奴隷」「召使」を重ねて「受け入れろ」と説教したはずなのに、マタイでは「奴隷」のような特質、「召使」のような特質、を培うべきであり、「子ども」のような謙遜さという特質を培うべきである、という説教にすり替わっているのである。

 

マタイは、「第二回受難予告」と「子どもを受け入れる」説教の間に「神殿税」の話を挿入し、現実に行なわれていた「弟子たち」の権力争いと関係性を切り離し、単なる宣教壇からの謙遜さを培う宗教説教に仕立て直したのである

 

 

「子どもを受け入れる」説教に示されているマタイがマルコを改竄する手法を明らかにしてみる。

 

第一の改竄。

マルコでは、弟子たちがイエスに隠れて、自分たちの間で誰が第一で、偉いのか、と議論していたのに、イエスが気付いて弟子たちに質問する。

答えられない弟子たちにそんな議論はするな、と厳しく叱りつける。

 

それをマタイは、弟子たちが謙虚にイエスに進み出て、「天の国では誰が大きいのか」と質問する、という設定に書き変えたのである。

 

この設定変更のおかげで、マルコの「権威主義に凝り固まっている弟子たち」という姿から、マタイの「現実の欲望を神の国のために昇華させようとする人間的であるが、謙遜で服従的な弟子たち」という姿に衣替えさせたのである。

 

第二の改竄。

マルコの「第一者」になるのではなく、「最後の者」「仕える者」になれ、というイエスの言葉をマタイは全部削除している。

 

そのため、マルコでは「第一者」になりたがっている「弟子たち」に対する批判が明確であるのだが、マタイではまったく消えてしまうこととなった。

 

「大きい」者になろうとすることは、人間的な自然の欲求であり、弟子であるならどうすべきであるかの信者が持つべき特質の問題にすり替わることとなった。

 

第三の改竄点。

マルコの「子どもを受け入れよ」をマタイは「子どものようになれ」と書き変えた。

 

マルコは、「天の国」に関して論議しているのでもないし、どうしたら「天の国」に入れるか、ということを問題にしているのではない。

 

「第一者」であろうとするな、という弟子たちに対する批判である。

 

「子どもを受け入れよ」という弟子たちに対する説教もその練り直しであり、自分が「大きい者」あるいは「第一者」となって、威張りくさり、支配者のように権力にものを言わせるのではなく、社会的弱者である「子ども」を受け入れるような生き方をしなさい、と言っている。

 

それをマタイは現実の「子ども」のことなどは全く関係ないかのように、「神の国」に入る資格条件の説教に仕立て直したのである。

 

そのおかげで、マタイの「子どものようになる」とは、「神の国」に入る条件となり、神に対して従順である、また神に対して謙虚である、という趣旨にすり替わったのである。

 

マルコの現実社会に生きる姿勢の説教が、マタイでは宗教的救済を得るための資格に関する説教にすり替わったのである。

 

 

マタイが「第二回受難予告」と「子どもを受け入れる」説教を切り離した意図もマルコとは別の意図でイエスのロギアを付加した理由も明らかであろう。

 

マタイはマルコにおけるイエスの弟子批判の要素を消し去り、弟子たちのキリスト信仰を擁護し、イエスに忠実な弟子たちとして描き、イエスを「天の国」の説教師として描こうとしているのである。

 

 

 

マルコの37「私の名前の故に」という句のかかり方を見極めることにより、マルコにマタイを読み込んで解釈しようとしているかどうかが判断できる。

 

主な和訳聖書の一覧。

共同訳 「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れる者である」

フ会訳 「わたしの名の故に、このような幼子の一人を受け入れる者は、…

岩波訳 「これらの子どもたちの一人を私の名のゆえに受け入れる者は、…

新共同訳 「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、…」

前田訳 「わが名のゆえにこのような子のひとりを迎えるものは…」

新改訳 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、…」

塚本訳 「わたしの名を信ずる一人のこんな子供を迎える者は、…」

口語訳 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえにけ入れる者は、…」

文語訳 「おほよそ我が名のために斯かる幼児の一人を受くる者は、…」

田川訳 「これらの子どもたちの一人を私の名前の故に受け入れる者、…

NWT 「だれでも、わたしの名によってこのような幼子一人を迎える者は…」

 

 

和訳聖書でも「私の名前の故に」という句を「受け入れる」のすぐ前に置いているものもあるが、ほとんどは、「このような子ども」の前に置いている。

 

口語訳は、「受け入れる」の前に置いているが、「このような幼子のひとりを」の句を読点で区切り、倒置的に読ませているので、実質的には前に置いているのと同じに読める。

 

和訳では、岩波訳を除いて、「子ども」という名詞にかかるとも読めるものがほぼすべてである。

 

「子どものような者の一人をイエスの名前の故に受け入れる者は…」という趣旨に読めるものがほとんどである。

 

その理由は、原文の「これらの」(toioutOn)を「このような」と比喩表現にし、「受け入れる者」と、主語を一般化していることにある。

 

 

原文の「これらの」(toioutOn)という語は、基本的に目の前にあるものを指して使われる指示代名詞。

 

「これらの」は「子どもたちの」にかかり、イエスが一人の子どもを抱きかかえた時に目の前にいた子どもたちを指している。

 

今イエスが抱きかかえているこの「子どもたちの一人」を「受け入れる」者は、…という趣旨である。

 

多くの和訳が、原文の「これら」を「このような」と抽象化し、主語を「受け入れる者」と一般化することにより、「受け入れる者」とは、「子どもような一人を受け入れる者」という意味に読ませたいのだろう。

 

 

つまり、マタイをマルコに読み込みたいのである。

聖書霊感説信仰に基づく護教主義のなせる業である。

 

田川訳は、「子ども」が比喩表現ではないことを示すために「これら」と訳し、文字通りにそこにいる「子どもたち」を指し、「受け入れる者」と主語に強調と限定的な意味を持たせて訳し、「私の名前の故に」という句が明確に「受け入れる」にかかると読めるようにしたのであろう。

 

 

 

ルカは、46弟子たちの間で起きた誰がより大きいかという議論」が、実際の現場で起きた議論ではなく、47「弟子たちの心の議論であることにした。

その上で、それを察知したイエスが前もって弟子たちに対して教訓を与える、という設定に変えた。

 

ルカのイエスは、47「子どもを一人つかまえ、立たせて」、マルコと同じイエスの言葉を弟子たちに伝える。

 

48「この子どもを私の名前の故に受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は私を遣わし給うた方を受け入れるのである」と。

 

しかし、48「何故なら、あなた方みんなの間で一番小さい者が大きいのである」というマルコにはない文を付加してくれた。

 

その結果、「一番小さい者」とは「子ども」を指すことになるが、「あなた方みんなの間で」とあることから、「キリスト信者の子ども」もしくは「小さいとみなされている信者」を指すことになった。

 

マルコにおける社会的弱者の「子ども」を受け入れる話から、ルカではマタイと同じく、自教会の宗教枠内における「子どものような信者」もしくは「弱者の信者」を受け入れる話に矮小化されることとなったのである。

 

マルコでは、誰がより「大きい」か、という論争は、弟子たちの間の権力闘争の問題であったのであるが、ルカは弟子たちの「心の論議」とすることで、誰が「大きい」かの論争が、「心の大小」の問題、つまり「心の特質」の問題であり、「心の寛容さ」の問題にすり替わったのである。

 

ルカは、「みんなの間で一番小さい者」を受け入れる心の寛容な者が、イエスを受け入れる者であり、神を受け入れる者である。

 

信者の中で「一番小さい者」として行動する者が、イエスと神の目からは「大きい」のだ、というイエスの説教に仕立て直したのである。

 

 

同じ言葉を使っているようでも、三者三様の意図を持ってイエスのロギアを解釈しているのである。

 

 

それぞれの解釈は、それぞれのイエス観であり、それぞれのキリスト教観である。

 

 

 

 

 

 

実際のイエスが、どのような意図で三者に共通する言葉を語ったのか、確かな状況がはっきりしない以上、今となっては不明である。

 

マルコのイエスが意図する言葉が、もっともイエスらしいと思えるが、いかにもキリスト教らしいのはマタイとルカのイエスであろう。

 

人類皆兄弟とする唯一の創造神を信仰しながら、マタイやルカのように、兄弟を同じ信者集団の枠内に限定させるのはいかがかと思うが、それもキリスト教であり、一神教らしい適用であるのだろう。

 

 

共観福音書著者でも、三者三様。

ヨハネやパウロ、その他の新約著者のキリスト教観まで含めると多種多様なキリスト教の姿が浮かび上がってくる。

 

 

クリスチャンと称するのであれば、各々各自がそれぞれのイエス観やキリスト教観を持って生き方の教訓とすれば良いのではないかと思う最近である。



信仰の自由は憲法で保証されているのですから、どうぞご自由に。