マルコ9:2-13 <山上の変身> 並行マタイ17:1-13、ルカ9:23-36 

 参照第二ペテロ1;17-18

 

マルコ9 (田川訳)

そして六日後にイエスはペテロとヤコブとヨハネをともない、高い山に彼らだけを連れて上る。そして彼らの前で変身した。して彼の衣は非常に白く輝いたそれは地上のいかなる布晒し人もこれほどに白くすることができないほどであった。そしてエリヤがモーセをともなって彼らに顕れた。そしてイエスと語り合っていた。そしてペテロが答えてイエスに言う、「ラビ、私たちがここに居るのは良いことです幕屋を三つ、あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ作りましょう」。彼は何と答えてよいかわからなかったのだ。恐ろしくなっていたからである。そして雲が生じて、彼ら覆った。そして雲の中から声がした、「これは我が愛する子。これに聞け」。そして彼らがあわててまわりを見まわすと、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らとともに居るのであった。

9そして山から下りて来る時に、彼らに対して、人の子が死人の中から復活する時までは、見たことを誰にも話さないように、と指示した10そして彼らは自分たちでこの言葉を持して死人の中から復活するとはどういうことかと互いに論じあった11そして彼にたずねて言った、「律法学者たちが、まず初にエリヤが来るべきだ、と言っているのはどういうことですか」12彼は彼らに言った、「エリヤが最初に来て万物を立て直すいうけれども、そして人の子についてはどう書いてあるか多く受難しないがしろにされる、と。13だがあなた方に言う、エリヤもまたすでに来たのだ。そして彼について書いてあるように、人々は彼のことも好きなようにあしらった」。

 

マタイ17

1そして六日の後にイエスはペテロとヤコブとその兄弟のヨハネともない、高い山に彼らだけを連れて上る。2そして彼らの前でした。そして顔が太陽のように輝いた。また衣は光のように白くなった。3そして見よ、彼らにモーセとエリヤが顕れて、彼と語り合っていた。4それでペテロが答えてイエスに言った、「主よ、私たちがここに居るのは良いことですよろしかったら幕屋を三つ、あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ作りましょう」。5彼がまだ話しているうちに、見よ、輝く雲が彼らを覆った。そして見よ、雲の中から声が言った、「これはわが愛する子我、この者を喜ぶ。これに聞け」。6弟子たちは聞いて、ひれ伏し非常に恐れた7そしてイエスが近寄り、彼らにさわって、言った、「起きよ、恐れるな」。8彼らが眼を上にあげてみると、イエス一人のほかは誰も見えなかった。

9そして彼らが山から下りてくる時に、イエスは彼らに命令してった、「人の子が死人の中から甦るまではこの出来事を誰にも言ってはならない」。10そして弟子たちは彼にたずねて言った、「では律法学者たちは何故エリヤがまず最初に来るべきだ、と言っているのですか」。11は答えて言った、「エリヤが来て、万物を立て直すであろう。12だが私はあなた方に言う、エリヤはすでに来たのだ。そして人々は彼を認めず、彼のことを好きなようにあしらった。同様に人の子もまた彼らから苦難を受けるであろう」。13その時弟子たちは、彼が洗礼者ヨハネのことについて言ったのだ、と了解した

 

ルカ9

28これらの言葉の後およそ八日後に、そしてペテロとヨハネとヤコブをともなって祈るために山に上る、ということがあった。29そして彼が祈っていると、顔の様子が違うものとなり、衣服が白く光り輝いたのであった。30そして見よ、二人の人が彼とともに語り合っていた。これはモーセとエリヤであった。31彼らは栄光のうちに顕れて、エルサレムで成就することになっている彼の終局について話していたのだ。32ペテロとその仲間はすっかり眠りこけていたのだが、眼をさますと、彼の栄光と、彼とともに二人の人物が立っているのが見えた。33そしてその二人が彼から離れ去ろうとした時、ペテロがイエスに対して言うのであった、「師よ私たちがここに居るのは良いことです。幕屋を三つ、一つをあなたのために、一つをモーセのために、一つをエリヤのために作りましょう」。自分の言っていることもわからなかったのだ34彼がこう言っていると、雲が生じて、彼らを覆った。彼ら雲の中に入ったので、恐れた。35そして雲の中から声がして、言った、「これは我が選びの子、これに聞け」36そしてこの声がした時、イエスだけが顕れた。そして彼らは黙っていて、見たことをその当時は誰にも何も告げなかった

 

参第二ペテロ1:17-18

17すなわち彼が父なる神から栄誉と栄光を受けた時に、偉大なる栄光によって彼に次のような声がもたらされたのであった、「我が愛する我が子、これは我が喜ぶ者なり」。18そして我々も聖なる山で彼と一緒にいて、天からもたらされたこの声を聞いたのだ。

 

 

マルコ9 (NWT)

2 そこで,六日後に,イエスはペテロとヤコブとヨハネを伴い,彼らを高大な山の中に連れて来て,自分たちだけになられた。そして[イエス]は彼らの前で変ぼうされ,3 その外衣はきらきら輝き,地上のどんな布さらし人もできないほどに白くなった。4 また,エリヤがモーセと共に彼らに現われ,イエスと語り合っていた。5 そこでペテロがこたえてイエスに言った,「ラビよ,わたしたちがここにいるのは良いことです。それで,わたしたちに三つの天幕を立てさせてください。一つはあなたのため,一つはモーセのため,一つはエリヤのためです」。6 実のところ,彼はどう応ずるべきか分からなかったのである。彼らはすっかり恐れていたからである。7 すると雲ができて彼らを影で覆い,その雲の中から声が出て,「これはわたしの,[わたしの]愛する者である。この者に聴き従いなさい」と[言った]。8 しかし突然,彼らがあたりを見回しても,ただイエス一人のほかは,もうだれも自分たちのもとには見えなかった。

9 彼らが山から下っていた時のこと,[イエス]は,人のが死人の中からよみがえった後になるまでは,見た事柄をだれにも話してはならないと彼らにはっきりお命じになった。10 それで彼らはその言葉を心に留めたが,この,死人の中からよみがえるということがどういう意味なのかを互いに論じ合った。11 そして彼に質問しはじめ,「なぜ書士たちは,まずエリヤが来なければならないと言うのですか」と言った。12 [イエス]は彼らに言われた,「確かにエリヤがまず来て,すべてのものを回復します。しかし,人のに関して,彼が必ず多くの苦しみに遭い,取るに足りない者のように扱われる,と書いてあるのはどうしてですか。13 それでも,あなた方に言いますが,エリヤは現に来たのです。そして人々は自分のしたい限りのことを彼に対して行ないました。彼について書かれているとおりです」。

 

マタイ17

六日後,イエスはペテロとヤコブおよびその兄弟ヨハネを伴い,彼らだけを高大な山の中に連れて来られた。2 そして彼らの前で変ぼうされ,その顔は太陽のように輝き,その外衣は光のようにまばゆくなった。3 そして,見よ,モーセとエリヤが彼らに現われ,[イエス]と語り合っていた。4 ペテロはそれにこたえてイエスに言った,「よ,わたしたちがここにいるのは良いことです。お望みでしたら,わたしはここに三つの天幕を立てます。一つはあなたのため,一つはモーセのため,一つはエリヤのためです」。5 彼がまだ話しているうちに,見よ,明るい雲が彼らを影で覆った。そして,見よ,その雲の中から声があって,「これはわたしの,[わたしの]愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい」と言った。6 これを聞くと,弟子たちはうつ伏して非常に恐れた。7 その時イエスが近くに来て,彼らに触りながら,「起き上がりなさい。恐れることはありません」と言われた。8 彼らが目を上げると,イエス一人のほかはだれも見えなかった。9 そして,彼らがその山を下っていた時,イエスは彼らに命令してこう言われた。「人のが死人の中からよみがえらされるまでは,この幻についてだれにも語ってはなりません」。

10 しかし弟子たちは,「では,なぜ書士たちは,エリヤがまず来なければならないと言うのですか」と質問した。11 [イエス]は答えて言われた,「確かにエリヤが来て,すべてのものを回復します。12 しかし,あなた方に言いますが,エリヤはすでに来たのですが,人々はそれを見分けず,自分たちの望むことを彼に対して行なったのです。このように,人のも彼らの手で苦しみを受けるように定められているのです」13 このとき弟子たちは,[イエス]がバプテストのヨハネについて話されたのだということに気づいた

 

ルカ9

28 実際に起きたことであるが,これらのことが話されてから約八日後,[イエス]はペテロとヨハネとヤコブを伴い,祈りをするため山の中に登って行かれた。29 そして,祈りをしておられるうちに,その顔は異なったさまになり,その着衣はきらめくほど白くなった。30 また,見よ,二人の人が彼と語り合っており,それはモーセとエリヤであった。31 これらの者が栄光をもって現われ,彼がエルサレムで遂げるように定まっている出立について語りはじめたのである。32 ところで,ペテロおよび共にいた者たちは気に押しひしがれていた。しかし,すっかり目が覚めた時に彼の栄光,またその二人が彼と共に立っているのが見えたのである。33 そして,これらの者が彼から離れて行く時に,ペテロはイエスに言った,「先生,わたしたちがここにいるのは良いことです。それで,わたしたちに三つの天幕を立てさせてください。一つはあなたのため,一つはモーセのため,一つはエリヤのためです」。彼は自分が何を言っているのかよく分かっていなかった。34 しかし,彼がこうしたことを言っているうちに,雲ができて彼らを影で覆いはじめた。雲の中に入って行くにつれ,彼らは恐ろしくなった。35 すると雲の中から声が出て,「これはわたしの,選ばれた者である。この者に聴き従いなさい」と言った。36 そして,その声があった時には,イエスひとりのほかには見えなかった。それでも,彼らは沈黙を守り,そのころには,自分たちの見た事柄についてだれにも何も知らせなかった。

 

参第二ペテロ1:17-18

17 というのは,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたし自らこの者を是認した」という言葉が荘厳な栄光によってもたらされた時,[イエス]はなるから誉れと栄光をお受けになったからです。18 そうです,わたしたちは彼と共に聖なる山にいた時,この言葉が天からもたらされるのを聞きました。

 

 

 

マルコにおける前段の<受難予告>と<十字架を負って>伝承では、ペテロをはじめとする弟子たちにおけるイエスの受難に関する無理解について批判されていた。

 

マルコはイエスの受難とイエスに従がう者の受難とを対応させており、イエスに従がう者は、受難の死をも恐れずにイエスと同じ道を進むべきだ、と考えている。

 

しかし、弟子たちはイエスと同じ道を歩もうとしていないと、マルコはまたも批判していた。

 

マルコの「人の子」伝承に関しても、マタイやルカのように終末預言におけるキリスト再臨を待望させるものではなく、ユダヤ教的神学論に基づくキリスト論を展開しようとしている「弟子たち」に対する皮肉として逆接的に表現したものであった。

 

 

そして<山上の変身>へと場面は展開する。

 

 

マルコ9

そして六日後にイエスはペテロとヤコブとヨハネをともない、高い山に彼らだけを連れて上る。そして彼らの前で変身した。して彼の衣は非常に白く輝いたそれは地上のいかなる布晒し人もこれほどに白くすることができないほどであった。そしてエリヤがモーセをともなって彼らに顕れた。そしてイエスと語り合っていた。

 

マタイ17

1そして六日の後にイエスはペテロとヤコブとその兄弟のヨハネともない、高い山に彼らだけを連れて上る。2そして彼らの前でした。そして顔が太陽のように輝いた。また衣は光のように白くなった。3そして見よ、彼らにモーセとエリヤが顕れて、彼と語り合っていた。

 

ルカ9

28これらの言葉の後およそ八日後に、そしてペテロとヨハネとヤコブをともなって祈るために山に上る、ということがあった。29そして彼が祈っていると、顔の様子が違うものとなり、衣服が白く光り輝いたのであった。30そして見よ、二人の人が彼とともに語り合っていた。これはモーセとエリヤであった。

 

 

マルコとマタイは、「六日」であるが、ルカは「八日」としている。

 

マタイは、マルコをそのまま写したのであろうが、ルカはちょうど切り良く「一週間」つまり、足かけ「七日目」の後という意味で「八日後」としたのであろう。

 

WTはこの違いを次のように説明している。

 

*** 洞‐2 806ページ 変ぼう ***

弟子の中に,「人の子が自分の王国をもって到来する」,または「神の王国が力をもってすでに来ている」のをまず見るまでは「決して死を味わわない」者たちがいるとも約束されました。(マタ 16:28; マル 9:1)この約束は「六日後」(または,ルカによると「八日後。ルカは約束した日成就した日を含めているものと思われる)に成就しました。

 

マルコとマタイの「六日後」とルカの「八日後」は「同じ日」であり、約束が「成就した日」であるという説明。

この説明だけでは何ともわかりにくい。

 

「六日後」と「八日後」が同じ日であり、約束が「成就した日」であるなら、聖書に矛盾はないはずなのに、「約束した日」が同じ日になるとはこれ如何に…という疑問が生じる。

 

WTは9:1を「山上の変身」の導入句と解しているので、預言成就の型で説明しようとしたのであろう。

 

矛盾があるわけではないが、安易に「六」に前後一日づつ足したら「八」になるから、「預言日」と「成就日」として、帳尻を合わせようとしているとしか思えない。

 

一応、WT説明を補足すると、マルコ・マタイの「六日後」とは「約束した日」と「成就した日」を含めず、正味「六日」を経過した「日」という意味であり、ルカは、「約束した日」と「成就した日」を含めているので、「八日後」とは、「約束した日」から数えて正味「六日」を経過した次の日、つまり「八日目」に成就したので「八日後」とした、という趣旨。

 

真理の所有者を標榜するのであれば、もう少し読者に寄り添った説明が欲しいものです。

 

 

閑話休題。

 

 

マルコもマタイも、「彼らだけ」とあるが、原文は異なる表現。

 

マルコは、kat’ idian monous=according-to private only。

マタイは、kat’ idian。

 

マタイは、マルコの「だけ」を意味する形容詞monous(monosの複数形)を削って、「自分たちだけで」という副詞句だけにしている。

 

マタイは、マルコの「だけ」を無駄な重複表現だと思い、削ってくれたのであろう。

 

ルカは、マルコの強調表現を全部削っている。

 

マルコとしては、「ペテロ」「ヤコブ」「ヨハネ」の三人の「弟子たち」をことさらに強調したかったのだろう。

 

ただし、マルコとしてはイエスに忠実で信仰の厚くイエスに愛された弟子たちとして彼らを強調したかったのではない。

 

イエスに関して「無理解な弟子たちとして三人を強調したかったのだろう。

 

 

マルコとマタイは、ペテロ・ヤコブ・ヨハネの順であるが、ルカではヤコブとヨハネの順が入れ替わり、ペテロ・ヨハネ・ヤコブの順。

 

ルカの<ヤイロの娘>伝承でも同順で登場している。

既にペテロは十二使徒の筆頭として伝説的存在であり、最初。

ヤコブは44年のアグリッパ一世の弾圧時に殺されていた(使徒12:1-2)。

しかし、弟のヨハネの方はその後も生きて活動しており、ルカの時代にはヤコブよりもヨハネの方がよく知られていたから、ヨハネ・ヤコブの順に入れ替えたのであろう。

 

 

<山上の変身>は、一般には「山上の変貌」もしくは「山上の変容」と呼ばれているが、原文では「容貌」だけが変わったと言っているわけではなく、全身が変身した、と言っている。

 

「変身」の原語は、metamonorphooという他動詞の受身形で、morphEがmeta=with,afterに変わらされるという趣旨。

morphEは「顔」だけではなく、「姿、形」という意味。

 

マタイは、マルコと同じく「変身した」と言っているだけでなく、「顔が輝いた」と付け加えている。

 

つまり、マタイは、マルコのmetamorphOtheという語を単に顔や容貌だけが変わったのではなく、全身が変身した、と解していたことになる。

 

 

ルカは山に行った理由を「祈るために」としているが、マルコとマタイにはない。

ルカによる付加。

 

ルカは、イエスが「荒野」に行ったり、「山」に上ったり、あるいは「一人で居る」のは「祈る」ためであるということにしている。(5:16、6:12、9:18,28、11:1)

 

マルコの並行個所にはイエスが祈っていたとは書いていないし、ルカ11:1はマルコに並行記事そのものが存在しない。

つまりルカ11:1はルカ創作の導入句。

 

 

変身したイエスと話し合う場面に、エリヤとモーセが登場する。

 

マルコでは「エリヤにモーセが伴なう」形であるが、マタイでは「モーセとエリヤが顕れて」、変身したイエスと話し合う。

 

マタイでは、モーセとエリヤが同格に置かれており、モーセが先に登場する。

 

マタイにとって、旧約を代表する人物は「モーセ」であり、「エリヤ」に伴なわれるわけにはいかないのであろう。

 

ルカも「モーセ」・「エリヤ」の順に並べており、「モーセ」を先に置いている。

 

 

マルコがエリヤとモーセを登場させたのは、エリヤが預言者の代表で、モーセが律法の代表だからであろう。

 

二人とも、ユダヤ教においては死なずに昇天したと信じられている人物である

 

エリヤについては、はっきり、「風あらしに乗って天に上って行った」(列王下2:11)とあるが、モーセについてははっきり天に上って行った、とする記述があるわけではない。

 

モーセは旧約では死んだことになっている。(ヨシュア1:1-2

 

しかし、「モーセの墓を知る者はいない」(申命記34:6)とあることから、後のユダヤ教ではモーセは死なずに天に上ったのだと信じられるようになった。

 

再臨するためには、「天」に存在していなければならないから、モーセもエリヤもイエスと一緒にいて、話し合う場面が必要だったのであろう。

 

マルコが「エリヤがモーセを伴なう」形で登場させたのは、ユダヤ教の終末再臨信仰においては「モーセ」とする説よりも「エリヤ」とする説の方が主流だったからであろう。

 

イエスも再臨するためには「天」に存在していなければならないので、生きたまま「昇天」する必要が生じたのであろう。(使徒1:9)

 

 

つまり、マルコにおけるエリヤとモーセの登場は、ユダヤ教信仰を前提としたマルコの「弟子たち」のキリスト教観を描いているものであると思われる。

 

 

 

マルコでは、「弟子たち」のキリスト教観とイエスの価値観とは一致しておらず、弟子たちは相変わらずイエスについて無理解な存在として描かれている。

 

マルコ9

そしてペテロが答えてイエスに言う、「ラビ私たちがここに居るのは良いことです。幕屋を三つ、あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ作りましょう」。彼は何と答えてよいかわからなかったのだ。恐ろしくなっていたからである。そして雲が生じて、彼ら覆った。そして雲の中から声がした、「これは我が愛する子。これに聞け」。そして彼らがあわててまわりを見まわすと、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らとともに居るのであった。

 

マタイ17

4それでペテロが答えてイエスに言った、「主よ私たちがここに居るのは良いことです。よろしかったら幕屋を三つ、あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ作りましょう」。5彼がまだ話しているうちに、見よ、輝く雲が彼らを覆った。そして見よ、雲の中から声が言った、「これはわが愛する子我、この者を喜ぶ。これに聞け」。6弟子たちは聞いて、ひれ伏し非常に恐れた7そしてイエスが近寄り、彼らにさわって、言った、「起きよ、恐れるな」。8彼らが眼を上にあげてみると、イエス一人のほかは誰も見えなかった。

 

ルカ9

31彼らは栄光のうちに顕れて、エルサレムで成就することになっている彼の終局について話していたのだ。32ペテロとその仲間はすっかり眠りこけていたのだが、眼をさますと、彼の栄光と、彼とともに二人の人物が立っているのが見えた。33そしてその二人が彼から離れ去ろうとした時、ペテロがイエスに対して言うのであった、「師よ私たちがここに居るのは良いことです。幕屋を三つ、一つをあなたのために、一つをモーセのために、一つをエリヤのために作りましょう」。自分の言っていることもわからなかったのだ34彼がこう言っていると、雲が生じて、彼らを覆った。彼ら雲の中に入ったので、恐れた35そして雲の中から声がして、言った、「これは我が選びの子、これに聞け」36そしてこの声がした時、イエスだけが顕れた。そして彼らは黙っていて、見たことをその当時は誰にも何も告げなかった。

 

参第二ペテロ1:17-18

17すなわち彼が父なる神から栄誉と栄光を受けた時に、偉大なる栄光によって彼に次のような声がもたらされたのであった、「我が愛する我が子、これは我が喜ぶ者なり」。18そして我々も聖なる山で彼と一緒にいて、天からもたらされたこの声を聞いたのだ。

 

 

 

マルコの「ラビ」に対して、マタイのペテロは「主よ」とイエスに呼びかける。

 

マルコが「ラビ」(rabbei)を呼称として用いる時には、通常はギリシャ語に訳し「先生」(didaskale)を用いている。(4:38,9:17,38、10:17,20,35、12:14,19,32、13:1)

 

しかし、ここはギリシャ語化せず、「ラビ」のままのアラム語表記となっている。(他に11:21、14:45)

 

理由は不明。

おそらく、マルコは表記の統一にはこだわらないのであろうか。

 

 

マタイでは、イエスに対して「ラビ」と呼びかけるのは、イエスを裏切ったユダだけである。(26:25,49)

 

マタイにとって、イエスはそんじょそこらのユダヤ教律法学者なんぞとは格が違うのだから、「ラビ」と呼びかけるのは失礼なのであろう。

 

マタイにとってのイエスは「天の国」の「支配者」である「主」(kurie)なのである。

 

 

ルカはルカらしく、弟子たちは「師よ」とイエスに呼びかける。

 

ルカにおいてイエスに対して「ラビ」と呼びかけるのは、「弟子」以外の人々である。(3:12、9:38、12:13、18:18、21:7ほか)

 

ルカではパリサイ派や律法学者などのイエスの論敵とされている者たちがイエスに対して「先生」(rabbei)と呼びかける。(7:40、10:25、11:45、19:39、20:21,28,39)

 

「ラビ」という呼びかけは律法学者的表現であるから、ルカは嫌ったのであろう。

 

ルカの「師」(epistatEs)の原意は「上に立つ者」の意で、さまざまな場合に用いられる。

 

戦争の指揮者、議会の議長、監督、仕事上の主人、等々。

俗的に言えば、仕事の「ボス」、組織や地域の「親分」、というニュアンスの呼びかけである。

 

「師」という語を尊称の呼びかけとして用いる例は、他のキリスト教文書には登場せず、ルカ福音書以外では知られていないそうである。

 

イエスに対して「親分」と呼びかけるのがルカの「弟子たち」であり、ルカの「兄弟」たちである。

 

 

マルコでは「彼は何と答えてよいかわからなかったのだ」とあり、ペテロがイエスの変身に関してもまたも無理解であったことを指摘している。

 

マタイは、マルコのこの句を削り、「よろしかったら」(直訳:もしもあなたが欲するなら)という句を付加した。

 

ペテロ崇拝者のマタイとしては、ペテロの無理解を示すマルコの文を残しておくことは出来なかったのだろう。

 

マルコのイエスの発言をマタイの意図を汲んだ発言に変えてくれた

 

 

ルカは、イエスとモーセとエリヤとの会話の場面だけでなく、会話の内容まで付加している。

 

それはエルサレムで成就するイエスの「終曲」(NWT「出立」)についての話し合いだったとしている。

 

これは、ルカの創作であろう。

 

「終曲」(NWT「出立」)の原語は、exodosというギリシャ語で、七十人訳の「出エジプト記」の表題としても知られている語。

 

exodosという語は古典ギリシャ語の演劇用語として、劇の「終曲」、今で言えばドラマのクライマックスで流れる「エンディング・テーマ」曲を指して使われた語。

 

演劇用語で使っているとすれば、「イエスの終曲」とは「イエスの人生の最期」という意味ではなく、「イエスの物語の終曲」という趣旨になる。

 

ルカにとっては、エルサレムで生じた「イエスの十字架」(=死)だけが「終曲」になるのではなく、「イエスの復活と昇天」までも含めて「終曲」となるのであろう。

 

NWTがexodosを「出立」と訳したのは、イエスの死と復活をモーセの「出エジプト」(exodos)に重ねたのだろう。

 

*** 洞‐2 806ページ 変ぼう ***

変ぼうの間,イエスとモーセとエリヤは,キリストが「エルサレムで遂げるように定まっている出立[ギリシャ語エクソドスの一語形]」について話しました。(ルカ 9:31)このエクソドスつまり出国または出立には,キリストの死およびその後の霊の命への復活が関係していたようです。

 

モーセが「エジプト」(=この世)から出国して、約束の地(=天の王国)へ向けて「出エジプト」した、というイメージをイエスの死と復活と重ねたかったので、「出国」をイメージさせ、なおかつイエスのキリストとしての「出発」をイメージさせる「出立」としたのだろう。

 

これはこれでなかなか興味深い表現である。

しかし、新しいNWT和訳では、英訳はそのまま(departure)なのに、「出立」から「旅立ち」と改訳。

和訳RNWTでは、原文の持つイメージが消えてしまっている。

 

 

閑話休題。

 

 

続く弟子たちが眠りこけている間にエリヤとモーセがやって来た、という話もルカの創作であろう。

 

いきなり、モーセとエリヤが山の上に顕れたというのはありえないと思ったのか、夢の中の幻とすることでルカは合理化したのだろう。

 

どちらにしろ、聖者の奇跡伝承であるのだから、大差ないと思われるが、ルカにとってはこの種の信憑性を加味させることは重要なことだったのだろう。

 

 

 

ペテロたちが「恐れ」を感じる理由が、三者三様に異なっている。

 

マルコでは、ペテロが5「幕屋を三つ作ろう」と口走るのは、イエスが変身し、エリヤとモーセを伴って顕れたことに6恐ろしくなっていたから」であり、イエスに起きた事柄に関して6「彼は何と答えてよいかわからなかった」からである。

 

マルコのペテロが5「ここに居るのは良いこと」であると口走るのも、イエスに6何と答えてよいかわからなかっ」ためであり、6恐ろしかった」からである。

 

「恐ろしく」なっていたからである(ekphoboi gar egenento)というマルコの言い方は、奇跡物語の常套句。

「恐ろしい」(ekphobos、ekphobeO)という語を非人称的三人称複数で用いて、これがいかに驚くべき、恐るべき出来事であったかを示している。(4:41、5:15ほか)

 

マルコのペテロは、「イエスの変身」を「恐ろしく」(ありえない出来事だと)思っているだけで、「イエスの変身」の意味に関しては何も理解していないことを示している。

 

それに対しマルコのイエスは何も答えず、雲の中から7これは我が愛する子、これに聞け」という声が聞こえるが、ペテロたちは相も変わらず騒然とするだけで何も理解せず、8イエスだけがそこに居た」、という設定である。

 

 

マタイではマルコと異なり、ペテロは、「何と答えてよいかわから」、イエスに「幕屋を三つ作ろう」と口走るのではない。

 

「イエスの変身」に立ち会えたことは4良いことであると評価した上で、4「幕屋を三つ作ろう」とイエスに幕屋の建立を提言するのである。

 

ペテロが提言している時に、輝く雲に覆われ、雲の中から5これはわが愛する子、我、この者を喜ぶ。これに聞け」という声を聞き、ペテロたちは6「非常に恐れて」ひれ伏し、イエスがそれを取りなす、という設定である。

 

マタイにある5「我、この者を喜ぶ」という句はマルコにはない。

ルカにも登場しない。

マタイによる付加。

 

ただし、マルコ1:11のイエスの洗礼の場面やマルコとは別伝承の第二ペテロ1:17には、同様の台詞が出て来る。

 

参第二ペテロ伝承には、イエスの変身に関する記述はなく、聖者伝説化した要素が少ない。

この部分はペテロの名前と結びつけられた伝承としてマルコ伝承より古くから残されており、そのままの形態で保存されたのかもしれない。

 

マタイはそれらの伝承を加味して、マルコの台詞に「我、この者を喜ぶ」という句を付加したのかもしれない。

 

話が横道にそれたが、マタイのペテロたちが6「非常に恐れた」のは、5雲の中からの声」を聞いたからである。

 

マルコのペテロたちのように「イエスの変身」に遭遇し、「何と答えてよいかわからなくなって」おり、「恐れた」からではない。

 

マタイのペテロたちは、神的顕現に遭遇し、6「ひれふして、非常に恐れた」のである。

 

その「恐れ」を、マタイのイエスはペテロたちに7「近寄り、さわって」、7「恐れるな」と慰めるのである。

 

 

ルカのペテロたちは、マタイのペテロたちのように、「雲の中から」の神的顕現に遭遇し、「恐れた」のではない。

 

マルコのペテロたちのようにイエスの変身に遭遇して、「恐ろしくなっていた」から「何と答えてよいかわからなくなって」いたのでもない。

 

雲が生じ、彼らを覆い、34「彼らは雲の中に入ったので、恐れた」のである。

 

この「彼ら」が、「ペテロたち」を指すのであれば、自分たちが雲に包まれてしまって、何も見えなくなり、恐ろしくなったのだが、雲の中から、「イエス」の姿が顕れた、という意味になる。

 

もし、この「彼ら」が、「イエスとモーセとエリヤ」の三人だけを指すのであれば、この三人が雲に包まれたので、「ペテロたち」は恐ろしくなったのだが、その雲の中から声がして、イエスだけが顕れた、ということになる。

 

声の主は「イエス」か、あるいはイエス以外の「神」的存在か、という違いが生じることになる。

 

JWにとっては重要な問題かもしれないが、キリスト教的にはどちらでも大差ないようにも思える神学的解釈であろう。

 

むしろ重要なのは、ルカでは「雲の中に入った」のでペテロたちが「恐れた」ことである。

 

マルコでは、「恐れた」のは、雲が生じる前の出来事であることである。

 

つまり、マルコにおいて弟子たちは、イエスの変身とモーセとエリヤの出現という超自然的出来事そのものに驚愕したのである。

 

それに対し、ルカにおける弟子たちは、「雲に覆われる」前にイエスの変身とモーセとエリヤの出現に遭遇しており、超自然的出来事そのものに「恐れた」のではない。

 

その後、単に「雲に覆われた」ことに不安を抱き、「恐れた」ということにしてしまったのである。

 

マルコの描くイエスの奇跡に遭遇したした際の人間の持つ「恐れ」ではなく、心理的不安を抱かせる出来事に遭遇した時に人間が抱く「恐れ」にルカはすり替えたのである。

 

 

次にイエスが山を下る時に、弟子たちに緘口令を敷くのであるが、これも三者三様である。

 

 

マルコ9

9そして山から下りて来る時に、彼らに対して、人の子が死人の中から復活する時までは、見たことを誰にも話さないように、と指示した10そして彼らは自分たちでこの言葉を保持して、死人の中から復活するとはどういうことかと互いに論じあった

 

マタイ17

9そして彼らが山から下りてくる時に、イエスは彼らに命令してった、「人の子が死人の中から甦るまでは、この出来事を誰にも言ってはならない」。

 

ルカ9

36そしてこの声がした時、イエスだけが顕れた。そして彼らは黙っていて、見たことをその当時は誰にも何も告げなかった

 

マルコの奇跡物語で「見たことを誰にも話さないように」告げるのは、マルコ以前から存在しているヌミノーゼ感情(宗教的恐れ)によるものであると考えられる。

 

ここでは、「人の子が死人の中から復活するまで」という限定条件が付与されているが、「指示した」(diastellomai)という動詞は、マルコの奇跡物語における緘口令に共通して用いられている動詞である。(5:43,7:36,8:26)

 

「山上の変身」も奇跡物語であり、奇跡が行われる場面も、奇跡の結果もごく限られた人の前で行なわれ、多くの人々からは隠されてなされる奇跡現象である。

 

マタイやルカは「メシアの秘密」と位置付けているが、マルコにとっては奇跡の場面が隠されるのは、「メシアの秘密」とは無関係であろう。

 

奇跡的現象は、誰でも遭遇可能な事柄とは無縁であり、特別な少数の人間だけが経験しうる事柄でなければ、奇跡には価しないものである。

 

不可能な事柄であればある程、恐れと有難さは増し加わるものである。

 

マルコは人間の持つヌミノーゼ感情をキリスト物語と共に受け継いでいるのであろう。

 

 

マルコにおいて9:10は、「復活」と「弟子たちの無理解」が関係づけられている唯一の箇所である。

 

しかし、マタイのように復活体験によって真の理解が得られるというのではなく、そもそも「復活」のなんたるかを何も理解しない「弟子たち」として描かれている。

 

マルコのイエスが「人の子」の復活に言及したのに対して、マルコのペテロたちは10「死人からの復活」とは何であるかを理解しない。

 

彼らは10「自分たちで言葉を保持する」だけで、10死人の中から復活するとはどういうことか」と10「論じ合う」だけである。

 

「保持する」(krateO)の原意は、「力をふるう」「つかまえる」であるが、マルコはパリサイ派の律法学者が「父祖たちの伝承」に「固執する」という意味でも用いている。(7:3,4,8)

 

「論じあった」(syzEteO)という語は、穏やかに話し合うというのではなく、対立する争いの場合に用いられることが多く、マルコはイエスに反対するパリサイ派や律法学者に対して用いる傾向がある。(8:11、9:14、12:28)

 

つまり、「弟子たち」は9「人の子が死人の中から復活する」というイエスの話を理解できず、イエスの敵であるパリサイ派や律法学者のように「弟子たち」同士で互いに言い争い、パリサイ派が父祖の伝承に固執しているように、「イエスの復活」に「固執している」と揶揄している存在として描こうとしているのである。

 

 

マタイやルカでは、マルコの「弟子たち」に対する皮肉は全く消されている。

 

マルコの9「指示する」(diastEllomai)をマタイは9「命令する」(entellomai)という「きつく命令を下す」という趣旨の語に変えた。

 

マルコの奇跡体験に関する「恐れ」から生じる緘口令の「指示」が、主イエスからの「人の子が死人の中から甦る」までの絶対厳守の口外禁止「命令」となった。

 

そのおかげで、マルコでは「死人の中からの復活」に関する「ペテロたち」の無理解が、マタイでは「人の子が死人の中からの甦る」ことに関し、「ペテロたち」は「イエスの変身」を体験して、十分理解しているので、「互いに論じあっている」必要はなく、時が来るまでの秘密保持の絶対厳守「命令」となった。

 

ルカは、マルコの沈黙命令以下の文を全部削除して、単に36彼らは黙っていて、見たことをその当時は誰にも告げなかった」と結んでいる。

 

 

そのおかげで、マルコやマタイでは「山上の変身」が「死人の中からの復活」や「エリヤが最初に来る」とするユダヤ教信仰とは無関係の「イエスの終曲」に関係する奇跡物語という設定となった。

 

ルカの言う「その当時」とは「イエスの終曲」、つまり「イエスの十字架」と「復活」だけでなく「昇天」までを指しているのだろう。

 

ルカが弟子たちの教理問答を削除したのは、おそらくユダヤ教のドグマ的解釈に関する議論には興味がなかったのだろう。

 

 

 

マルコとマタイには、イエスと弟子たちとのエリヤに関する問答が取り上げられているが、これもマルコとマタイでは「弟子たち」に対するイエスの評価が異なるものとなっている。

 

マルコ9

11そして彼にたずねて言った、「律法学者たちが、まず最初にエリヤが来るべきだ、と言っているのはどういうことですか」。12彼は彼らに言った、「エリヤが最初に来て万物を立て直すというけれども、そして人の子についてはどう書いてあるか多く受難し、ないがしろにされる、と。13だがあなた方に言う、エリヤもまたすでに来たのだ。そして彼について書いてあるように人々は彼のことも好きなようにあしらった」。

 

マタイ17

10そして弟子たちは彼にたずねて言った、「では律法学者たちは何故、エリヤがまず最初に来るべきだ、と言っているのですか」。11彼は答えて言った、「エリヤが来て、万物を立て直すであろう12だが私はあなた方に言う、エリヤはすでに来たのだ。そして人々は彼を認めず、彼のことを好きなようにあしらった。様に人の子もまた彼らから苦難を受けるであろう」。13その時弟子たちは、彼が洗礼者ヨハネのことについて言ったのだ、と了解した。

 

 

マルコでは、前節の「保持する」「互いに論じあった」という語から、パリサイ派や律法学者と同様に、「弟子たち」は「人の子の復活」を理解せず、「復活」ドグマに関して固執し、喧々諤々と互いに議論している状態にあることを皮肉的に示唆していた。

 

それを受けて、弟子たちはイエスにまず最初にエリヤが来るべきだとするユダヤ教の終末信仰について尋ねる。

 

マルコの11「たずねる」は三人称複数形の不定詞で主語が付いているわけではない。

マタイは、10「弟子たち」という主語をきちんと置いてくれた。

 

マルコの文は文法的に破綻している部分があり、句のかかり方が曖昧な箇所がある。

マタイは、マルコの曖昧さを整えて、マルコにはない解釈も付与してくれている。

 

マルコの12「エリヤが最初に来て…、そして人の子については…」の文は、対句になっているのだが、対句を導入する小辞(men)に対応する小辞(de)ではなく、kaiとなっている。

kaiは順接の接続小辞であるから、deの代わりにはならない。

 

それで13「だが(alla)あなた方に言う…」の句を12エリヤが最初に来て…」の対句と解釈する説がある。

しかし、これにもdeではないので無理がある。

 

 

最初に11「弟子たち」がイエスに「律法学者たちが、まず最初にエリヤが来るべきなのはどういうことですか」と尋ねるが、弟子たちはイエスに関して無理解であり、「復活」に関するキリスト教ドグマに関して互いに議論するだけの状態で尋ねられている。

 

弟子たちはイエスに関して無理解のまま、律法学者たちが説くユダヤ教神学的解釈についてたずねるのである

 

それに対して、マルコのイエスは、弟子たちの質問をオウム返しにして、対句構文で答える。

 

あなた方は11エリヤがまず最初に来て万物を立て直すのでなければならないはずだ」などと律法学者と同じように議論しているけれども、では、人の子(イエス)については何と書いてあるのか、と。

 

相変わらず、弟子たちはイエスに関して無理解のまま、ユダヤ教の神学的解釈に拘泥したままなのである。

 

マルコとしては、人の子は受難するとはっきり書いてある。

その事実をまず考えなさいよ、と言いたいのであろう。

 

マルコのすっきりしない対句構文をマタイは対句構文を使わずにきちんと整えてくれており、「エリヤ」と「人の子」とを対比させて描いてくれている。

 

マルコでは、来るべき「エリヤ」が洗礼者ヨハネであることをイエスは示唆するのであるが、弟子たちは最後まで理解しない、という場面で終わっている。

 

 

それに対し、マタイでは、弟子たちがイエスの示唆を理解し、了解した、ものわかりの良い弟子という設定となっている。

 

マルコでは12「人の子について多く受難しないがしろにされる」ことが旧約に12「書いてある」とされている。

だが、実は旧約にはぴったり当てはまる文は見当たらない。

 

マタイでは旧約に「書かれている」のではなく、12「エリヤ」と12「同様に人の子もまた彼らから苦難を受けるであろう」というイエス自身の予告となっている。

 

マルコの12「多く受難し、ないがしろにされる」は詩篇117(118):22を念頭に置いた句で、「受難する」(paschO)には「多く」(polla)を付けて用いるのがユダヤ人の決まり文句であった。

ここでも8:31の第一回受難予告と同じ言い方をしている。

 

ここの12「ないがしろにされる」(exoudenoO)に関しては8:31の第一回受難予告では「廃棄される」(apodokimazO)と異なるギリシャ語であるが、元のヘブライ語は「無用の者として捨てる、軽蔑する」を意味するma’asを訳したもの。

 

このギリシャ語の訳語の違いは、初期キリスト教の受難伝承に関して二種類の言い方で伝承されていたことを示している。

 

 

12「エリヤが最初に来て万物を立てなおす」という再臨のエリヤ信仰はマラキ3:23(4:5)に由来する。

 

23「見よ、私は君たちのために預言者エリヤを遣わす、ヤヴェの大いなる恐るべき日の来る前に。彼は父たちの心を子らに、子らの心をその父たちに向かわせる。わたしが来て、地を呪いをもって打つことのないためである」(ヘブライ語本文:関根正雄訳)

 

5「見よ、主の大いなる目もくらむような日が来る前に、私はおまえたちの元にテスビテースびと(預言者)エリヤを遣わす。彼は父の心を子に、そして人の心をその隣人に向けさせる。わたしが来て、この地を撃ち尽くさないためである」(七十人訳:秦剛平訳)

 

マラキ書は前五世紀前半の著作とされているが、実際はそのかなりの部分が後代のものとされている。

 

この個所は申命記史家的用語が目立ち、直接マラキによらない後代の編集者による付加と考えられている。

 

一世紀には、マラキ書の他の箇所についてもエリヤの再臨に関する預言として解釈されていた。

 

例えば、マルコ1:2ではマラキ3:1の台詞が洗礼者ヨハネに当てはめられている。

 

これは、洗礼者ヨハネをエリヤの再臨と信じていた洗礼者ヨハネ集団によって流布させられていたものだろう。

 

マルコ6:15のヘロデの言葉からも、エリヤの再臨が待望されていたことが理解できる。

 

旧約正典以外にも、「ベン・シラの知恵」48章で預言者エリヤについて預言されており、10節以降ではその再臨にも言及されている。

 

「ベン・シラの知恵」(新共同訳:「シラ書」)は、一応前二世紀初めの著作とされているが、マラキ3:23(4:5)を念頭に書かれている。

 

10「(エリヤは)ときに至れば再来して、爆発する前に(神の)怒りを抑え、子に対する父の情を元に戻し、ヤコブの支族を建て直すと書かれている」(聖書外典偽典:村岡崇光訳)

 

マラキでは、一応、人々の道徳心の回復を語っているが、シラ書では「万物を建て直す」というのではなく、イスラエル民族の復興という民族主義的願望と結び付けている。

 

マルコにおける「万物の立て直し」は、イスラエル民族に限定した待望ではなく、「万物」つまり「宇宙万物の秩序の再建」を意味している。

 

このキリスト教観は、ペンテコステのペテロ説教(使徒3:21)にも反映されており、「神が昔からその聖なる預言者の口を通して語ってきたところの万物の立て直しの時」に関する待望に言及している。

 

 

しかし、この個所のマルコのペテロたちは、13エリヤもまたすでに来たのだ」と言うだけで、相変わらず、ユダヤ教のエリヤ再臨信仰について語るだけなのである。

 

マルコのペテロたちは「万物の再建」と「人の子の受難」に関しても無理解のままであり、13「彼のことないがしろにし、好きなようにあしらった」とマルコのイエスから評価されているのである。

 

 

ただしペンテコステのペテロ説教で言及されている「聖なる預言者」とはマルコとは異なり、エリヤではなくモーセである。

 

おそらく、ユダヤ教の一部ではエリヤの再臨と結び付けて「万物の再建」を待望する信仰とモーセの再臨と結び付けて「万物の再建」を待望する信仰が存在していたのであろう。

 

それが最初期のキリスト教にも輸入され、キリスト教においてもいろいろユダヤ教的に神学論議が交わされていたのであろう。

 

 

以上を考察すると、「山上の変身」で、エリヤとモーセが登場する理由が洞察できるであろう。

 

マルコのペテロたちは、イエスの幕屋(教会)だけでなく、エリヤとモーセの幕屋(神殿)も建立しようと進言するのである。

 

しかし、イエスは何も答えず、雲の中から「これは我が愛する子。これに聞け」との声があるだけある。

 

「弟子たち」は「万物の再建」に関して、「エリヤ」だ、「モーセ」だ、「イエス」だ、「復活」だ、「再臨」だ、「多く受難」するとは、「ないがしろにされる」とは、等々、キリスト教内でユダヤ教伝来のドグマ的議論に喧々諤々だったのであろう。

 

マルコとしては、そんな神学的議論をしていないで、「人の子」(イエス)がどのようにして死んだのか、その事実に目を向けた生き方をしなさいよ、と批判しているのであろう。

 

 

マタイはそのようなマルコのペテロたち批判は綺麗に消してくれている。

むしろ聖者イエス・キリスト崇拝の模範のようにペテロたちを描いている。

 

マタイのペテロたちは「イエスの変身」奇跡に遭遇し、3「主よ、わたしたちがここに居るのは良いことです。よろしかったら…」とキリスト崇拝者として臨席出来た特権を高く評価した上で、丁重に幕屋(教会・神殿)建立の許可を求める。

 

マタイのイエスは単なる「雲」に覆われるのではなく、5輝く雲」に覆われ、雲からの声を聞くと、マタイのペテロたちは、6「ひれ伏し、非常に恐れた」のである。

 

マタイのイエスは、4「主」の威厳をもち、ペテロたちに9命令」する。

マタイのペテロたちは、イエスの9「命令」に、マルコのペテロたちのように10「互いに論じあう」のではなく、すぐにイエスにたずねる。

10では律法学者たちは何故…」と。

 

律法学者たちも弟子たちも、エリヤの再臨預言に対する正しい答えを持っていない、という設定である。

 

マタイのイエスは、ペテロたちの素直な疑問に対して、真理の解明を示唆するかのように12「だが私はあなた方に言う…」と答える。

 

そしてマタイのペテロたちは、イエスのヒントを手掛かりに、「イエスの変身」に遭遇した体験を通して、エリヤの再臨預言に関する正しい解明として13洗礼者ヨハネについて言ったのだ」という答えにたどり着く。

 

 

マタイのイエスは、キリスト信仰の模範者であるペテロたちに旧約預言の解明を与え、奇跡体験を通して、正しい答えに辿り着くように導くのである。

 

 

 

以上が、田川訳聖書から紐解く、「山上の変身」における共観福音書からの目立った点でした。

 

 

 

 

 

参考までのWTにおける<山上の変身>の解釈に関して。

 

*** 洞‐2 806–807ページ 変ぼう ***

この変ぼうにはどんな意味がありますか

イエスの変ぼうの間,モーセとエリヤも「栄光をもって」現われました。(ルカ 9:30,31; マタ 17:3; マル 9:4)エホバはモーセのような預言者を起こされると予告されていましたが,その約束はキリストにおいて成就しました。(申 18:15‐19; 使徒 3:19‐23)モーセとイエスの間には多くの類似点があります。例えば,その誕生時に赤子たちが殺されたが本人は死を免れたこと(出 1:20–2:10; マタ 2:7‐23),どちらも40日間の断食を経験したこと(出 24:18; 34:28; 申 9:18,25; マタ 4:1,2),どちらも真の崇拝のため,また救出をもたらすために神によって起こされたこと(出 3:1‐10; 使徒 7:30‐37; 3:19‐23),それぞれ神の民との契約を仲介するという特権を神から与えられたこと(出 24:3‐8; ヘブ 8:3‐6; 9:15),どちらもエホバのみ名を大いなるものとするためにエホバによって用いられたこと(出 9:13‐16; ヨハ 12:28‐30; 17:5,6,25,26)などがそれです。

エホバが預言者エリヤを遣わすことも予告されていましたが,エリヤの業の中には,イスラエルの人々を真の悔い改めに至らせることが含まれていました。イエスが地上にいた間,バプテスマを施す人ヨハネはそうした種類の業を行ない,メシアの前駆者として仕えてマラキ 4章5,6節を成就しました。(マタ 11:11‐15; ルカ 1:11‐17)しかし,この変ぼうはバプテスマを施す人ヨハネの死後に起きたので,エリヤがその中に現われたことは,真の崇拝を回復させ,エホバこそ唯一まことの神であることを立証する業が,キリストの手中にある神の王国の設立と関係することを示唆しています。

変ぼうの間,イエスとモーセとエリヤは,キリストが「エルサレムで遂げるように定まっている出立[ギリシャ語エクソドスの一語形]」について話しました。(ルカ 9:31)このエクソドスつまり出国または出立には,キリストの死およびその後の霊の命への復活が関係していたようです。

批評家の中には,この変ぼうを単なる夢として片づけようとする人もいます。しかし,ペテロとヤコブとヨハネがみな全く同じ夢を見たとは論理的に考えられません。イエスご自身,起きた事柄を単なる幻想とではなく「幻」と呼びました。(マタ 17:9)すでに死んでいたモーセとエリヤは文字通りそこにいたのではありませんが,キリストは実際にそこにいました。モーセとエリヤは幻の中で描き出されていたのです。マタイ 17章9節で「幻」を表わすのに用いられているギリシャ語はホラマで,この語は「光景」とも訳されています。(使徒 7:31)それは,観察者が思い違いをしているかのように,非現実のことを暗示しているわけではありません。また,彼らは起きた事柄に対して無感覚だったのでもありません。その変ぼうを目撃した時には彼らは十分に目覚めていたからです。彼らは文字通りの目と耳で,その時に起きた事柄を実際に見,また聞いたのです。―ルカ 9:32。

モーセとエリヤがイエスから離れて行く時,ペテロは「自分が何を言っているのかよく分か(らずに)」,三つの天幕をイエスとモーセとエリヤのために一つずつ立てることを提案しました。(ルカ 9:33)しかし,同使徒が話している時(ルカ 9:34),一つの雲ができました。これは,変ぼうの起きた山にエホバが臨在されたことを象徴していた(荒野にあった会見の天幕の場合と同様に)のでしょう。(出 40:34‐38)その雲の中からエホバの声がして,こう言いました。「これはわたしの子,選ばれた者である。この者に聴き従いなさい」。(ルカ 9:35)何年も後,ペテロは変ぼうに言及し,天からのその声が「父なる神」のものであることを明らかにしました。(ペテ二 1:17,18)変ぼうの中で,モーセとエリヤは明らかに律法と預言者たちを表わしており,どちらもキリストに注意を向け,キリストにおいて成就しました。過去に神は預言者たちを通して語られましたが,いまやご自分のみ子を通してそうされることを示唆されました。―ガラ 3:24; ヘブ 1:1‐3。

使徒ペテロはこの変ぼうを預言の言葉の驚くべき確証とみなしました。またキリストの威光の目撃証人となることによって,彼は自分の手紙を読む人々に「わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在について」知らせました。(ペテ二 1:16,19)同使徒は,キリストの追随者たちの中に「神の王国が力をもってすでに来ているのをまず見るまでは決して死を味わわない」者がいる,というキリストの約束の成就を経験していました。(マル 9:1)使徒ヨハネもヨハネ 1章14節でこの変ぼうに言及していたのかもしれません。

イエスはご自分の3人の使徒たちに,「人の子が死人の中からよみがえらされるまでは,この幻についてだれにも語ってはなりません」と言われました。(マタ 17:9)確かに彼らはその時には,自分たちの見た事柄をだれにも伝えませんでした。恐らく他の使徒たちにさえ伝えなかったものと思われます。(ルカ 9:36)山を下る間,3人の使徒たちは,イエスが「この,死人の中からよみがえるということ」について述べることによって何を言おうとしておられたのか論じ合いました。(マル 9:10)当時一般に受け入れられていたユダヤ人の宗教上の教えは,メシアの治世の始まりを告げる死者の復活の前にエリヤが現われなければならない,というものでした。それで使徒たちは,「では,なぜ書士たちは,エリヤがまず来なければならないと言うのですか」と尋ねました。イエスはエリヤがすでに来たと保証されたので,彼らはイエスがバプテスマを施す人ヨハネについて話していることに気づきました。―マタ 17:10‐13。

この変ぼうは苦しみや死に備えてキリストを強めるものとなったようです。一方,それはイエスの追随者たちを元気づけ,彼らの信仰を強めるものともなりました。それはイエスが神の是認を得ていることを示し,イエスが将来持つことになる栄光と王国の力とをあらかじめ見させるものともなりました。それはキリストの臨在の際にその王権が完全なものになることの前兆となりました。

 

 

WTでは、<山上の変身>に関して、イエスがキリストとなって終末時に再臨する保証であり、預言成就と真の崇拝の回復を保証する予告編と解釈されている。