マルコ8:34-9:1 <自分の十字架を負って> 並行マタイ16:24-28、ルカ9:23-27
マルコ8 (田川訳)
34そして群衆を自分の弟子たちとともに呼び寄せ、彼らに言う、「もしも誰かが私の後に従ってきたいと思うならば、自分を否定し、自分の十字架を負って、私に従ってくるがよい。35すなわち自分の生命を救おうと欲する者はそれを失い、自分の生命を私と福音との故に失う者は、それを救うであろう。36すなわち全世界を手に入れても、自分の生命を損するなら、それがその人にとって何の役に立とう。37すなわちまた、自分の生命の代償として、人は何を与えることができるか。38この淫蕩で罪深い世にあって私と私の言葉とを恥じるような者は、人の子もまた聖なる天使たちをともなって、父の栄光のうちに来る時に、その者のことを恥じるであろう」。1そして彼らに言った、「アメーン、あなたに言う。ここに立っている者のうちには、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは死を味わわない者がいるだろう」。
マタイ16
24その時イエスは彼の弟子たちに言った、「もしも誰かが私の後について来たいと思うならば、自分を否定し、自分の十字架を負って、私に従って来るがよい。25すなわち自分の生命を救おうと欲する者はそれを失い、自分の生命を私の故に失う者は、それを見出すであろう。26もしも全世界を手に入れても、自分の生命を損するなら、その人にとって何の役に立とう。あるいは自分の生命の代償として、人は何を与えることができるか。27人の子はその天使たちをともなって、御父の栄光のうちに来たるであろう。そしてその時それぞれにその行為に応じて報いるであろう。28アメーン、あなた方に言う、ここに立っている者のうちには、人の子がその国において来るのを見るまでは、死を味わわない者がいる」。
ルカ9
23だが、すべての者たちに対して言った、「もしも誰かが私の後について来たいと思うならば、自分を否定し、日々自分の十字架を負って、私に従って来るがよい。24すなわち自分の生命を救おうと欲する者はそれを失い、自分の生命を私の故に失う者は、それを救うであろう。25すなわち全世界を手に入れても、自分自身を失う、ないし損するなら、その人にとって何の役に立とう。26私と私の言葉を恥じるような者は、人の子もまた、自らの、また御父の栄光を、また聖なる天使たちの栄光をともなって来たる時に、その者のことを恥じるであろう。27まことにあなた方に言う。ここに立っている者のうちには、神の国を見るまでは死を味わわない者がいる」。
参マタイ10
38また、自分の十字架を取って私のあとに従って来ない者は、私にふさわしくない。39自分の生命を見出す者はそれを失い、自分の生命を私の故に失う者はそれを見出すであろう。
参ルカ14:27
27自分の十字架を担って私のあとから来るのでない者は、私の弟子になることはできない。
参ルカ17
33自分の生命を保全しようと求める者は、それを失い、生命を失う者は、生命を生み出す。
参マタイ10
32人間たちの前で私のことを告白する者は皆、私もまた天にいます我が父の前でその者のことを告白するであろう。33人間たちの前で私を拒む者は誰でも、私もまた天にいます我が父の前でその者を拒むであろう。
参ルカ12
8あなた方に言う、人間たちの前で私のことを告白する者は皆、人の子もまた神の天使たちの前でその者のことを告白するであろう。9人間たちの面前で否む者は、神の天使たちの面前で否まれるであろう。10また人の子に向かって言葉を言う者は皆、赦される。しかし聖霊に向かって冒涜する者は赦されない。
マルコ8 (NWT)
34 次いで[イエス]は群衆を弟子たちと一緒に自分のもとに呼んで,こう言われた。「わたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。35 だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです。しかし,だれでもわたしと良いたよりのために自分の魂を失う者はそれを救うのです。36 人が全世界をかち得ても,それによって自分の魂を失うなら,いったい何の益があるでしょうか。37 人は自分の魂と引き換えにいったい何を与えるのでしょうか。38 だれでも,この罪深い姦淫の世代にあってわたしとわたしの言葉を恥じるようになる者は,人の子も,聖なるみ使いたちと共に自分の父の栄光のうちに到来する時,その者を恥じるのです」。
1イエスはさらに続けてこう言われた。「あなた方に真実に言いますが,ここに立っている者の中には,神の王国が力をもってすでに来ているのをまず見るまでは決して死を味わわない者たちがいます」。
マタイ16
24 それからイエスは弟子たちに言われた,「だれでもわたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。25 だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです。しかし,だれでもわたしのために自分の魂を失う者はそれを見いだすのです。26 というのは,全世界をかち得ても,それによって自分の魂を失うなら,その人にとって何の益になるでしょうか。また,人は自分の魂と引き換えに何を与えるのでしょうか。27 人の子は,自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており,その時,各々にその振る舞いに応じて返報するのです。28 あなた方に真実に言いますが,ここに立っている者の中には,人の子が自分の王国をもって到来するのをまず見るまでは決して死を味わわない者たちがいます」。
ルカ9
23 それから,すべての者にさらにこう言われた。「だれでもわたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,日々自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。24 だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです。しかし,だれでもわたしのために自分の魂を失う者はそれを救う者となるのです。25 全世界をかち得たとしても,自らを失い,あるいは損傷を被るなら,その人にとっていったい何の益するところがあるでしょうか。26 だれでもわたしとわたしの言葉を恥じるようになる者は,人の子も,自分の栄光および父と聖なるみ使いたちの[栄光]のうちに到来する時,その者を恥じるのです。27 しかし真実をこめてあなた方に言いますが,ここに立っている者の中には,まず神の王国を見るまでは決して死を味わわない者たちがいます」。
前段の<第一回受難予告>と<自分の十字架を負って>との三者三様のつながりに関して、前段の最後で触れたが、もう一度、確認しておく。
論点は、「受難予告」と「十字架を負って」において、それぞれの共観福音書著者は、イエスが「誰に」対して語った伝承として描いているのか。
マルコ8
31そして、人の子は多く受難し、長老、祭司長、律法学者によって廃棄され、殺され、三日後に復活することになっている、と彼らを教えはじめた。32そしてこの言葉を公然と語った。そしてペテロが彼を連れだし、叱りつけはじめた。33彼はふり向いて、自分の弟子たちを見、ペテロを叱りつけた。そして言う、「私の後ろにひっこんでいろ、サタンよ。お前は神にかかわることを考えず、人間にかかわることを考えている」。
34そして群衆を自分の弟子たちとともに呼び寄せ、彼らに言う、「もしも誰かが私の後に従ってきたいと思うならば、自分を否定し、自分の十字架を負って、私に従ってくるがよい。…
マタイ16
21その時からイエスは弟子たちに、自分はエルサレムへと行き、長老、祭司長、律法学者から多く受難し、殺され、三日目に甦ることになっている、と示しはじめた。22そしてペテロが彼を連れ出し、叱りつけはじめて言った、「とんでもない、主よ、あなたにそんなことが起こってはなりませぬ」。23彼はふり向き、ペテロに言った、「私の後ろにひっこんでいろ、サタンよ。お前は私にとって躓きとなる。神にかかわることを考えず、人間にかかわることを考えているからだ」。
24その時イエスは彼の弟子たちに言った、「もしも誰かが私の後について来たいと思うならば、自分を否定し、自分の十字架を負って、私に従って来るがよい。…
ルカ9
21彼は彼らを叱りつけ、このことを誰にも言うなと告げて、22言った、「人の子は多く受難し、長老、祭司長、律法学者によって廃棄され、殺され、三日目に甦ることになっている」。
23だが、すべての者たちに対して言った、「もしも誰かが私の後について来たいと思うならば、自分を否定し、日々自分の十字架を負って、私に従って来るがよい。…
マルコの31「彼らに」(autous: 代名詞の男性対格複数)とは、前段とのつながりを連続、あるいは独立、と解釈することにより、「弟子たち」だけを指すとも、「弟子たち+群衆」と解することもできる。
しかしながら、32「公然と語った」とあり、マルコの「群衆」重視の思想からすれば、「群衆」を含むものと想定していたと思われる。
つまり、マルコの「十字架を負って」の冒頭に出て来る34「群衆を自分の弟子たちとともに呼び寄せ、彼らに言う」とは、マタイとは異なり、「受難予告」を「弟子たち」だけに語った後に、改めて「群衆」を呼び寄せて、「十字架を負って」という説教をはじめた、というのではない。
間に「ペテロはイエスを連れ出し、叱るが、逆にイエスから厳しく叱られる」という場面がサンドイッチされており、ペテロのイエスに対する無理解が強調されている。
その後で、「群衆」を「弟子たち」に含めて、呼び寄せて、すべての人々に関わる重要な説教なので、「群衆」と無理解な「弟子たち」を共にして語る、という構図である。
「十字架を負って」でも、弟子たちの無理解が継承されている。
つまり、マルコでは「受難予告」も「十字架を負って」も、「弟子たち」だけではなく「群衆」も含めて、予告し、イエスの言葉に対して無理解な弟子たちにも重要な説教を行なった、という設定である。
マタイは「受難予告」をはっきり21「弟子たちに…示しはじめた」としており、「群衆」は除外している。
マタイは「十字架を負って」もはっきり24「彼の弟子たちに言った」という設定であり、マタイの言うところの「イエスの弟子たち」、つまり、「ペテロをはじめとする十二使徒」に限定して語ったイエスの特別な教え、としている。
マタイでは、「受難予告」も「十字架を負って」も共に「弟子たち」のみを対象に限定した設定である。
ルカにおいては、「ペテロ告白」にも「受難予告」にも「群衆」は登場せず、もっぱら「イエス+弟子たち」という構図で書かれていた。
「十字架を負って」とのつながりに関して、前の記事では説明不足の点があるので、もう一度詳しく説明する。
「十字架を負って」をマルコと同じく連続した物語として読むと、「すべての者」とは、イエスと弟子たちだけの登場人物であるから、「すべての者」とは「弟子たちのすべての者」と読むことになる。
しかし、別段落として読むと、文字通りの「すべての者」、つまり「群衆+弟子たち」を指すと読むことになる。
だがその場合は「十字架を負って」の文頭の接続小辞をマルコと同じようにkaiで始めるか、ルカのdeの接続小辞を順接の意味に解することが必要である。
確かに、deは逆接の接続詞としてだけではなく、文頭を示すだけの軽い接続小辞としても使われる。
しかし、ルカはマルコとは異なり、「十字架を負って」を「受難告白」の追加情報という位置付けではなく、「受難告白」とは別の段落として位置付けていると読める。
ルカは、前段の「ペテロ告白と受難予告」はマルコと同じくkaiで始めているのに、「十字架を負って」では、マルコのkaiをdeに変えている。
さらにルカは、マルコの「群衆を自分の弟子たちとともに呼び寄せ」の「自分の弟子たちと共に」を削り、マルコの「群衆」を「すべての者たち」に変えている。
ルカは「ペテロ告白」と「受難予告」を一つの物語と描き、話の中に登場するのはイエスと「弟子たち」だけであり「群衆」は登場しない。
ルカは、「十字架を負って」では、主語の対象を交代させており、マルコの「群衆」を「すべての者たち」という表現に変えて、意図的に「弟子たち」を登場させない設定にしている。
つまり、ルカのdeは単に文頭を示すだけの軽い接続小辞ではなく、前段とは逆接につながる接続詞として使っていると考えるが自然である。
ルカにおいては、「ペテロ告白」と「受難予告」は一つの物語として描かれており、「受難予告」はマタイと同じくイエスを「神のキリスト」と認めた「弟子たち」に対して、緘口令を敷いた上で告げた「メシアの秘密」という扱いである。
ルカにおける「十字架を負って」は、「すべての者たち」を対象としており、字面だけを追うと、「弟子たち」だけを対象とした「受難予告」と連続した物語というより、「弟子たち」を含めた「すべての者」たちを対象とした説教という位置付けに見える。
しかし、ルカはマルコから「弟子たちとともに」という句を削っている。
ルカは「群衆」と「弟子たち」を同一の場面には登場させたくないのである。
あくまでも、ルカにとって「弟子たち」とはイエスから特別な恩寵を受ける立場なのである。
つまりルカからすると、この「すべての者たち」とは、イエスから特別な「受難予告」を受けた「弟子たち」以外の者たちという意識なのであろう。
ルカとしては、これから「すべての者たち」に語るイエスの説教は、すでにキリスト信者となっている「弟子たち」にとっては、重々承知の事柄であり、キリスト信者の基本的心得という設定である。
しかし、まだキリスト信者ではない「すべての者たち」にとっては、キリスト信者の基本的心得として重要な話であるから、よく聞け、という設定にしたのであろう。
その意識が、deという語で「十字架を負って」伝承をはじめたことに示されている。
「弟子たち」様と「群衆」どもとは立場が違うという意識が、冒頭の逆接のdeに示されているのであろう。
ルカの「群衆」蔑視、「弟子たち」重視指向が、マルコのkai をdeと逆接の構図にし、「弟子たちとともに」の句を削除し、「群衆」という語を「すべての者」と書き変えたことに露見されたのである。
まとめると、ルカのイエスは「受難予告」は「弟子たち」に限定して語り、「十字架を負って」は、「弟子たち」を除外した「すべての者」=「非キリスト信者」を対象として語ったという設定にしたのである。
当然ながら、イエスが存命中にキリスト教はまだ存在していない。
それにもかかわらず、ルカのイエスは弟子たち以外の「すべての者」を「キリスト教を信仰しない輩」と見下しているのである。
マルコ・マタイ・ルカのイエスは、三者三様の対象に対して、三者三様の「受難予告」と「十字架を負って」説教を語るのである。
「十字架を負う」のイエスの説教も、語る対象が異なる故、同じ言葉を語っているように見えても、三者三様の意味を持つことになる。
マルコが語るイエスの対象は、「弟子たちを含めた群衆」であり、「すべての人」が対象。
マタイの対象は、「弟子たちだけ」。すなわち「十二使徒」。
ルカの対象は、「弟子たちを除外したすべての者」。すなわち「非キリスト信者」。
イエスが語った相手を念頭にして、順に検討してみる。
マルコ8
34「もしも誰かが私の後に従ってきたいと思うならば、自分を否定し、自分の十字架を負って、私に従ってくるがよい」。
マタイ16
24「もしも誰かが私の後について来たいと思うならば、自分を否定し、自分の十字架を負って、私に従って来るがよい」。
ルカ9
24「もしも誰かが私の後について来たいと思うならば、自分を否定し、日々自分の十字架を負って、私に従って来るがよい」。
マタイは語る対象は異なるが、マルコをそのまま写しているのが理解できる。
しかしながら、前段の「人間に関わること」の内容がマルコとマタイでは異なっているので、この言葉も当然異なる意味となる。
ルカは、語る対象が異なるだけではなく、マルコに「日々」という句を付加している。
この「日々」という句が入ることにより、「自分を否定し」や「自分の十字架を負う」ということの意味が大きく異なることになる。
「自分を否定し、イエスに従がう」とはどのような意味か
キリスト教的に文字通りに考えると、「自己犠牲の精神を示す」という趣旨になるが、単にそれだけの意味ではないように読める。
マルコのイエスが、「イエスに従いたいと思うならば、自分を否定し、自分の十字架を負う」がよいと言っているのは、前段の「ペテロ告白」と「ペテロ発言」を受けてのことである。
イエスの筆頭弟子とされるペテロをイエスが「サタン」と呼んでいることや、ペテロたちはイエスに従がっていると主張していながら、人間に関わることを考えていることからして、マルコにはペテロをはじめとする「弟子たち」に対する批判がある。
マルコには、イエスの「弟子」であるというのであれば、前段の「ペテロたちのような弟子」であってはならない、という批判的意識がある。
彼らはイエスの「弟子」であると言いながら、イエスに関しては無理解であり、ユダヤ教終末論のメシア信仰と同じく、「キリスト」待望論を展開していた。
マルコのイエス言うところの「人間に関わること」とは、ペテロたちのユダヤ教終末論に基づく救済論を展開することを意識していたものと考えられる。
とすれば、マルコのイエスが言うところの「自分を否定する」とは、単に「自己犠牲」という意味だけでなく、ペテロたちのようにイエスをキリストとして待望するような神学的解釈をして自分の救いを求めることを否定することを意味していると解せるのである。
マルコのイエスが、「群衆を自分の弟子たちとともに呼び寄せ」、言っていることからすると、「群衆」に対して「ペテロたちのようなイエスの弟子になってはならない」と提唱しているようにも読める。
「キリストの十字架」ではなく、「自分の十字架を負って」と言っていることも、「ペテロたちの説くキリスト論的救済信仰」に従がうのではなく、各自が「自分に生じ得る受難を受け止めて、イエスを信頼して、イエスに従がう、という趣旨に読めるのである。
マタイのイエスが言うところの「人間に関わること」とは、たとえ善意や人間味のある同情心であろうと、神の使命を果たすことの決意を弱めさせるすべてのことを指していると思われる。
マタイのイエスにはマルコのイエスとは異なり、ペテロたちのユダヤ教的宗教観を批判する意識はない。
むしろ神の啓示として高く評価している。
マタイにおける「十字架を負って」は、「弟子たち」に対する説教であり、ペテロの失敗である「人間に関わることを考えた」ことに対する教訓という位置付けである。
つまり、マタイのイエスが言うところの「自分を否定する」とは、たとえ善意や人間味ある同情心からであろうと、神の使命を果たすことを妨げることにつながる一切の感情や行動に対しては自分の気持ちを犠牲にしてでも、神の使命を果たすことが「自分を否定する」ことであるという趣旨になる。
ルカにおける「自分を否定する」とは、「日々自分の十字架を負って」、「イエスに従がう」ことと同義に扱われている。
ルカは、マルコの「十字架を負って」に「日々」(kath hEmeran=according-to day)という句を付加した。
前置詞を除けば、「日」という一語をマルコに付加することで、ルカとマルコでは、向いている方向が全く異なるものとなっている。
マルコのイエスにとって「十字架」とは生涯でただ一度の出来事であり、自分の生死に関わる、文字通り命をかけた出来事である。
マルコは、「イエスの十字架」を文字通りに生じた現実に想定しており、我々がイエスと同様の弾圧や受難を蒙ったとしても、イエスと同じように「受難」を覚悟して生きる、という趣旨である。
生死がかかる事柄であるマルコのイエスの「十字架を負う」という言葉に、ルカは「日々」という句を付加えたのである。
マルコにとっては、生涯でただ一度だけの命をかける出来事であるはずの「十字架を負う」という行為が、ルカにとっての「十字架を負う」とは「日々」での経験で生じる出来事となってしまったのである。
現実的に生きている人間が毎日「自分の十字架の死」を経験することなど、ゾンビでもあるまいし、ありえない。
つまり、ルカは人間が生きていれば、「日々」経験する精神的、肉体的苦痛を伴う程度の出来事を「十字架を負う」出来事としたのである。
ルカにとって「自分を否定し、十字架を負う」とは、毎日実践できる程度の宗教的な自己犠牲を伴う精神的行為としか考えていないのである。
ルカは説教対象を、「弟子たち」を除外した「非キリスト信者」に設定している。
ルカは、我々「キリスト信者」は常日頃から、「自分を否定」する出来事に直面しており、イエスと同じ宗教的精神態度を抱いて「自分の十字架を負う」日々を実践している。
「神のキリスト」による「救い」を欲するのであれば、「非信者」である皆さんも、「我々弟子たち」と同じように、「日々」の生活で自己犠牲が求められる場面に直面したなら、「日々」そのような「自分を否定」する宗教的精神で「自分の十字架を負う」という覚悟で実践すべき、という日常生活における精神論の説教に変えたのである。
このイエスのロギオン伝承には、マタイとルカに類似の別伝承がある。
マタイ10
38また、自分の十字架を取って私のあとに従って来ない者は、私にふさわしくない。
ルカ14
27自分の十字架を担って私のあとから来るのでない者は、私の弟子になることはできない。
マルコの「十字架を負って」を「十字架を取って」とするマタイの伝承と「十字架を担って」とするルカの伝承である。
マルコの「負う」(airO)の直訳は「取り上げる」。
マタイはマルコの並行個所では「負う」を使っているが、参マタイでは「取って」(lambanO)。
ルカもマルコの並行個所では「負う」であるが、参ルカでは「担う」(bastazO)。
マルコとその並行では単に「自分の十字架を負って、私に従ってくるがよい」とあるだけである。参マタイや参ルカには、「従って来ない者」に対する対比文が付加されている。
イエスをキリスト化した上での教会的価値観に基づく言葉が織り込まれている。
マルコの「十字架を負う」という表現は厳しい現実した際の死を覚悟した自己否定の比喩として使われているが、同趣旨の伝承がそれぞれ別の動詞を使っている。
「十字架を取り上げて、イエスに従う」という表現はまだ、マタイやルカの時代でもキリスト教的に定文化されておらず、別々の言い方の伝承が存在していたということだろう。
参マタイと参ルカには、キリスト教化された付加文が付いていることからして、マルコのイエスの言葉の方が古く、元伝承の可能性が高い。
マルコの伝承にキリスト教会が付加文を付けて伝承したものがマタイとルカの元に届いていたということだろう。
マルコにおける「自分の十字架を負う」とは、「自分の生命」が関係する非常に重い意味を持つ言葉である。
ユダヤ教的終末論の神学的解釈による選民主義の救済論やペテロ等の弟子たちが唱えるキリストの十字架による弟子限定の救済論に自分の救い求めることは、「自分を否定」することでも、「自分の十字架を負う」ことでもない。
イエスと同じように、自分の行くべき道に「受難」が待ち受けていたとしても、弟子と称する者だけではなく、誰でもが自分の負うべき十字架を負って、しっかりと現実に立ち向かいながら「命をかけて」歩んでいくことが「イエスに従がってくる」ということであり、「自分の十字架を負う」ということだ、という趣旨であろう。
マルコのイエスは「もしも誰かが私の後に従って来たいと思うならば、…私に従ってくるがよい」とすべての者に語るのである。
マルコのイエスは、「自分を否定し、自分の十字架を負って、イエスに従う」とはどういうことかに関してさらに説明を加える。
マルコ8
35すなわち自分の生命を救おうと欲する者はそれを失い、自分の生命を私と福音との故に失う者は、それを救うであろう。36すなわち全世界を手に入れても、自分の生命を損するなら、それがその人にとって何の役に立とう。37すなわちまた、自分の生命の代償として、人は何を与えることができるか。38この淫蕩で罪深い世にあって私と私の言葉とを恥じるような者は、人の子もまた聖なる天使たちをともなって、父の栄光のうちに来る時に、その者のことを恥じるであろう」。
マタイ16
25すなわち自分の生命を救おうと欲する者はそれを失い、自分の生命を私の故に失う者は、それを見出すであろう。26もしも全世界を手に入れても、自分の生命を損するなら、その人にとって何の役に立とう。あるいは自分の生命の代償として、人は何を与えることができるか。27人の子はその天使たちをともなって、御父の栄光のうちに来たるであろう。そしてその時それぞれにその行為に応じて報いるであろう。
ルカ9
24すなわち自分の生命を救おうと欲する者はそれを失い、自分の生命を私の故に失う者は、それを救うであろう。25すなわち全世界を手に入れても、自分自身を失う、ないし損するなら、その人にとって何の役に立とう。26私と私の言葉を恥じるような者は、人の子もまた、自らの、また御父の栄光を、また聖なる天使たちの栄光をともなって来たる時に、その者のことを恥じるであろう。
マルコは、「イエスに従がう者」と「従わない者」とを対比させながら、四つのイエスのロギオン伝承を置く。
35「すなわち…」(gar)、36「すなわち…」(gar)、37「すなわちまた…」(gar)、38「…であろう」(gar)と続く節の原文は、すべて接続小辞garを文頭に置いている。
マタイもルカもほぼそのままマルコを写しており、各節の文頭には、すべてgarが接続小辞として置かれている。
田川訳もNWTも一部は訳に入れていないが、「すなわち」が対応し、NWTは「ので」がgarに対応する。
NWTは強意に解しているが、前文を受けて、理由を示す接続小辞であるから、マルコの原文は、前文の「自分を否定し、自分の十字架を負って、イエスに従がう」ことを、四度並列に並べて説明しているのである。
イエスに従がう者→(マルコのイエスに従がう者)
自分の生命をイエスと福音の故に失う者→生命を救う
イエスに従わない者→(ペテロをはじめとする弟子たち)
自分の生命を救おうと欲する者→生命を失う
全世界を手に入れようとする者→生命を損する→生命を代償
→何の役に立つ→人に何を与える
イエスとイエスの言葉を恥じる者→終末時に恥じる
(イエスと福音の言い換え)→自分の生命を救おうとしてイエスと福音を捨てた者
→生命を失う
これらを総合して考えると、マルコがいう「自分を否定し」、「自分の十字架を負う」とは、ペテロたちが語るようなユダヤ教神学的なキリスト論による救済を求めて「自分の生命を救おう」とするのではなく、受難に遭って、自分の生命を失うとしても、「イエス」と「イエスの生き方全体」を全面的に信頼して、イエスに従がって、生命を全うするような生き様をすべし、という趣旨と解せる。
逆に、ペテロをはじめとする弟子たちは、自分の生命を救おうと保身する者たちであり、彼らが説くようなユダヤ教終末論に基づく神学的解釈によるキリスト教の救済論によって自分の生命を救おうとするなら、彼らと同じく、生命を失うことになるであろう。
ペテロのような弟子たちは全世界を手に入れようとする傲慢な者たちであり、最終的には生命を代償として支払うことになろう。
マルコのイエスは「私と福音」という表現を「私と私の言葉」と言い換えて、同義に使い、自分の生命を救おうとして「私と福音」を捨てた者のことを、終末時に恥じるであろう、つまり生命を失うであろう、と言い換えている。
彼らは「イエスと福音」を捨てた者であり、「イエスとイエスの言葉」恥じる者たちである。
最後の審判の際に彼らは生命を代償として支払わなければならないのに、そんな彼らが人々に何を与えることができると言うのか。
それが一体何の役に立つというのだ、とマルコのイエスは「群衆にもペテロたち」にも言うのである。
イエスに従がってきたいと思うならば、「自分を否定し、自分の十字架を負って」、「イエスと福音、すなわちイエスの言葉」に従って来るがよい、マルコのイエスは言うのである。
マルコの「私と福音との故に」(heneken emou kai tou euaggeliou)に対して、マタイとルカは、マルコの「福音」(kai tou euggeliou)を削除し、単に「私の故に」(heneken emou)。
「福音」(euangelion)という語が、「キリスト教」と同義語として用いられるようになったのは、当然イエスの死後、キリスト教が成立した後のことである。
ゆえに、この句は、少なくても、マルコに記載されている形でイエスが語ったものではありえない。
しかし、イエス自身が同じような趣旨でこのようなことを言っていた、ということは十分に考えられることである。
イエス自身は単に「私の故に」と言っていたものが、「福音」を付加してキリスト教化され、伝承されたものか、マルコ自身が元伝承に「福音の故に」を付加したのかもしれない。
ルカにはこの句の別伝承が保存されている。
参ルカ17
33自分の生命を保全しようと求める者は、それを失い、生命を失う者は、生命を生み出す。
参ルカの別伝承では、「私の故に」という句も「私と福音の故に」という句も付いておらず、単に「生命を失う者は、生命を生み出す」とあるだけ。
つまり、イエスのロギオンの元伝承には「福音の故に」という句は初めからなかったものと考えられる。
しかし、マタイとルカに「福音の故に」という句がないのは、マルコの付加を元伝承に戻してくれたのではない。
参ルカの別伝承には「私の故に」という句もないのであるから、ルカもマタイもマルコから「福音」を削除したということなる。
つまり、マタイとルカの削除は偶然の一致。
とすれば、マルコの「福音の故に」が付いているのは、初期キリスト教団による付加伝承ではなく、マルコ自身の付加によるものと考えられる。
マタイがマルコの「福音」を削ったのは、「福音」(tou euaggeliou)という語を定冠詞付きの絶対用法で、単独に用いるのはギリシャ語感覚からすれば違和感があったからであろう。
「福音」(euanngelion)という語は、angel-「知らせを知らせる」という意味の他動詞語幹から派生した抽象名詞である。
他動詞である以上目的語がないと落ち着かない。
「知らせる」と言っても「何を?」「その中身は?」という疑問が生じる。
しかも接頭語には「良い」というeu-が付き、語尾は抽象名詞を作る-ionが付く。
「知らせ」の中身は「良い抽象的概念の知らせ」であるというのであるから、単に定冠詞をつけて、「The 福音」と言われても、「良い」ことの中身は曖昧模糊である。
それで、ギリシャ語人間であるマタイはマルコのように単に「福音」とは言わず、「御国の福音」(to euangelion tEs basileias)という言い方をする。
他動詞の目的語に相当する「福音」の中身を示す「御国の」という形容語を付けるのである。
ルカもギリシャ語人間であり、マルコの定冠詞付き「福音」という語の使い方には違和感があるのだろう。
同様にルカもマルコの定冠詞付き「福音」という言い方はしない。
ただしマタイとは異なり、ルカは、「福音」を動詞化して一語で「福音を伝える」(euangelizomai)という他動詞にして使う。
目的語を伴わない箇所もいくつかあるが、やはり、他動詞であるから「誰に」あるいは「何を」を目的語に置くのが普通である。
マルコとマタイでは、マタイがマルコの「福音の故に」を削除しただけで、ほぼそのまま写している。
それに対し、ルカはマルコの「自分の生命を損する」を「自分自身を失う、ないし損する」に書き変えた。
マルコが文字通りに「生死」に関わる重要な問題としているのに対し、ルカは「日々の十字架」と同じく、日常生活における精神論的な意味で損失となると言っているのだろう。
マルコが「生命を損する」(zEmiOthE tEn psuchEn autou)は「損害を与える、害する」(zEmioO)という他動詞の不定詞形受身形であるが、「生命」という目的語が対格に置かれている。
受身であるから普通は直接目的を持たない。
しかし、この動詞は裁判用語として、「罰金を課する」という意味で用いる場合、罰金の額を与格で置くが、対格で置かれることもあるという。
マルコが「損する」という語を裁判用語の意味で用いているとすれば、「自分の生命を罰金として取られる」という意味に使っていることになる。
つまり「全世界を手に入れる」などという人間として極めて不遜な行為に関しては、「その者の生命そのものが罰金として取られる」、という趣旨になる。
ローマ帝国のユリウス朝は、初代のオクタヴィアヌスを別にすると、次々と精神の異常をきたしたり、暗殺されたりした。
イエスならそのような趣旨のことを言いそうであるし、マルコとしても実感できる言葉だったのだろう。
マタイの場合は対象が「弟子たち」に限定されており、ペテロ批判ではなくペテロ讃美であるから、「自分を否定し、自分の十字架を負って、イエスに従がう」とは、人間味のある失敗やイエスに従がうことで苦しみに遭遇するとしても、「キリスト教信者」として生きることに命をかけて全うすべし、という教訓と捉えているのだろう。
「受難」に遭遇し「自分の生命を救おう」として、キリストに従うことを捨てるなら、生命を捨てることになるが、逆にキリストの故に生命を失うとしても、キリスト信者であり続けるならば、生命を見出すことが可能であるとマタイのイエスは「弟子たちに」約束するのである。
結びの句に相当する「人の子」の到来に関する記述も、マルコには「ペテロ批判」が内在されていることを考慮して読むと、単純に「人の子」の到来時の預言とは異なる意味を持つ。
マタイには「ペテロ讃美」が内在しているので、マルコと同じ言葉でも異なる意味を持つことになる。
それに、微妙にマルコの言葉遣いを変えているので、マルコの意図とは微妙に異なるものとなる。
ルカはルカでマルコの言葉遣いを変えているので、マルコの趣旨とは異なる意味を持つことになる。
マルコ8
38この淫蕩で罪深い世にあって私と私の言葉とを恥じるような者は、人の子もまた聖なる天使たちをともなって、父の栄光のうちに来る時に、その者のことを恥じるであろう」。1そして彼らに言った、「アメーン、あなたに言う。ここに立っている者のうちには、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは死を味わわない者がいるだろう」。
マタイ16
27人の子はその天使たちをともなって、御父の栄光のうちに来たるであろう。そしてその時それぞれにその行為に応じて報いるであろう。28アメーン、あなた方に言う、ここに立っている者のうちには、人の子がその国において来るのを見るまでは、死を味わわない者がいる」。
ルカ9
26私と私の言葉を恥じるような者は、人の子もまた、自らの、また御父の栄光を、また聖なる天使たちの栄光をともなって来たる時に、その者のことを恥じるであろう。27まことにあなた方に言う。ここに立っている者のうちには、神の国を見るまでは死を味わわない者がいる」。
マルコの「私と私の言葉とを恥じるような者は…」にはマタイとルカに類似の別伝承がある。
マルコ8
38この淫蕩で罪深い世にあって私と私の言葉とを恥じるような者は、人の子もまた聖なる天使たちをともなって、父の栄光のうちに来る時に、その者のことを恥じるであろう」。
参マタイ10
32人間たちの前で私のことを告白する者は皆、私もまた天にいます我が父の前でその者のことを告白するであろう。33人間たちの前で私を拒む者は誰でも、私もまた天にいます我が父の前でその者を拒むであろう。
参ルカ12
8あなた方に言う、人間たちの前で私のことを告白する者は皆、人の子もまた神の天使たちの前でその者のことを告白するであろう。9人間たちの面前で否む者は、神の天使たちの面前で否まれるであろう。
マタイとルカでは多少の言葉遣いの違いがあるが、文の構成が同じであり、Q資料に由来する。違いはそれぞれの宗教観に合わせて言い変えたものだろう。
マルコとの違いは、大きく二つ。
マルコでは恥じる対象が「私と私の言葉」であるが、マタイとルカでは告白するにしても、拒むにしても、否むにしても、対象に「私の言葉」は含められておらず、単に「私」=イエスだけが対象となっている点。
もう一つは、マルコでは「人の子」が終末時にこの世を裁くために到来する、となっているのに、マタイとルカのQ資料(参マタイ10=参ルカ12)には、終末時の要素はない点。
マタイの「天にいます我が父の前」であっても、ルカの「神の天使の面前」であろうと、「天」における出来事であり、「人の子」の再臨が関係している出来事ではない。
田川訳はマルコ9:1を<十字架を負って>の結びの句に入れており、NWTは旧版も新版も9:1は<山上の変身>の導入句として扱っている。
現代の学者も聖書等々も9:1を8:34‐38につなげて印刷している。
和訳聖書は、NWTと文語訳以外のすべてが、田川訳と同じ段落の構成である。。
並行のマタイ・ルカからしても、9:1は8:34‐38に繋がるものであろう。
NWTが頑なに<山上の変身>の導入句に編入したがるのは、変貌を再臨の保証と解するからであろう。
マルコのイエスは、「人の子」が終末に再臨し、裁きを行なう時、「アメーン、あなたに言う。ここに立っている者のうちには、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは死を味わわない者がいるだろう」と言う。
マルコのイエスは、
ここに立っている者→群衆+ペテロ他の弟子たち、と比定し、
死を味わわない者→生命を救おうと欲する者→ペテロを筆頭とする弟子たちと比定し、
神の国が力をもって到来しているのを見るまでは→ペテロたちのように終末時のキリスト再臨信仰が実現していると信じている者たちの信仰が現実となるのを実際に体験するまでは、と比定し、
「この淫蕩で罪深い世にあって私と私の言葉とを恥じるような者は、人の子もまた聖なる天使たちをともなって、父の栄光のうちに来る時に、その者のことを恥じるであろう
と「彼らに」告げるのである。
マルコのイエスは、「ペテロを筆頭とする弟子たち」をパリサイ派やヘロデ派と同じく「淫蕩で罪深い世代」と比定し、「イエスとイエスの言葉を恥じる者」と評価した上で、あなた方は自分の生命を救おうと欲して、「死を味わわない者」たちなのでしょうから…と言っておられるのでしょう。
単に「死なない」とは言わず、マルコのイエスはなぜ「死を味わわない」と表現したのか。
「決して死なない」というのではなく「死を味わわない」という言い方は、旧約には出て来ない。だが、後の旧約文書には出て来る。
第四エズラ6:26「(エノクやエリヤのように)生れてから死を味わうことのない人間」という表現で、マルコのこの個所と同じく、否定辞を付けて「死ぬことがなく」、永遠に生きる、という意味として使っている。
ペテロをはじめとする弟子たちが、ユダヤ教の終末論におけるメシア信仰と同じようにイエスをキリスト認定し、再臨信仰をキリスト教として宣教し、キリスト信者もエリヤやエノクと同じように「生きたまま天に引き上げられた」ので、「死を味わわない」と主張していたことを批判しているのであろう。
要するに、この個所におけるマルコの「人の子」の再臨と「神の国」の到来時における「不死」の描写は、マルコのイエスによる「神の国」待望の預言ではなく、ペテロたちをはじめとする「弟子たち」によるキリスト論信仰に対する皮肉として語っているのである。
終末における神の国が実現する時まで生きていることのできる信仰の厚い素晴らしい人たちが何人か存在する、と誉めているのではなく、むしろそのような待望論に依存して生き残ろうとするペテロをはじめとする弟子たちに対する皮肉である。
おそらく、マルコの時代キリスト教は、ステファノをはじめとして、ヘレニストのキリスト信者に対する弾圧下にあり、何人もの信者たちが生命を落としたり、殺されないまでも、受難のあげく死んでいく、という状況が見られたのであろう。
そのような状況下で、自分たちだけは生きたまま終末を迎えられるのだ、という信仰にしがみついて長生きしたがるキリスト信者がいることだろうよ・・・
パウロ派・ペテロ派・ヤコブ派キリスト信者のキリスト教終末信仰を盾にした逆接的な皮肉であろう。
彼らは、マルコにとって、自らの保身のためにイエスを殺そうとしたパリサイ派やヘロデ派と同じく、「イエスと福音」、「イエスとイエスの言葉」を捨てて、「自分の生命を救おうと欲する者」たちなのであろう。
マタイのイエスは、ペテロをはじめとする弟子たちの終末の「人の子」信仰と再臨信仰を積極的に預言し、「その時のそれぞれにその行為に応じて報いる」ことを約束する。
マタイ神学の根本は、最後の審判に際して、人は生前の行為に応じて報われる、という因果応報思想である。
マルコが「私と私の言葉とを恥じるような者は、人の子もまた…その者のことを恥じるであろう」と相身互いに「恥じる」と対応させているのに、マタイは、終末信仰における自分の神学論を織り込んだのである。
マタイはマルコの終末論も、マタイ神学による終末論に変えている。
マルコでは、終末=最後の審判であり、「神の国が力をもって到来している」=「神の国の到来」であるが、マタイは「人の子の到来」に変えている。
マタイ神学における終末論の中心は、「神」や「神の国」ではなく、「人の子=キリスト」による審判が終末時の焦点だからである。
マタイのイエスは、「弟子たち」に対し、終末時における「人の子=キリスト」の審判を待望させ、キリスト信者それぞれの行為に応じる報いを教示するのである。
マタイのイエスは、キリストの再臨の際には「死を味わわない者がいる」という預言とともに、「弟子たち」だけに語るのである。
マルコの「弟子たちに対する皮肉」が、マタイでは「弟子たちが享受する希望」にすり替わったのである。
ルカのイエスは、マルコのイエスが、「自分の生命を損する」と言っているのを、「自分自身を失う、ないし損する」と言い換えている。
ルカはマルコの「自分の生命を損する」=「死ぬ」という言い方を、「自分自身を失う」という言い方に直してくれたとも読める。
しかし、「生命」を削り、「自分自身」を「失う」と言い変えることにより、マルコにおける「自分の生命を失う」=「死ぬ」だけではなく、「自分自身を失う」=「自己喪失感を味わう」という意味にも読めることとなった。
ルカは「損する」という他動詞の受身形と「失う」という他動詞のどちらにも直接目的語を置いている。
原文では、対格の「自分自身」を「失う」という他動詞の目的語としておきながら、「失う」という他動詞と「損する」という自動詞的他動詞受動形を接続詞(E)で並列につないでいる。
(原文:heauton de apolesas E zEmiOtheis=himself but having-lost or having-been-damaged)
ギリシャ語人間であるはずのルカとしては、文法的に違和感のある使い方である。
「損する」(zEmiOtheis)は裁判用語で罰金を支払うという意味の受身形であり、直訳すると目的語が対格あるいは与格で置かれているなら、「自分の生命を支払わされる」という趣旨に解することも可能。
「失う」(apolesas)は他動詞であるから、「自分自身」を直接目的語として置くことは可能。
ただし、「損する」という自動詞的受身形と「失う」という他動詞能動形が、同時に「自分自身」という語を直接目的語として持つことはギリシャ語文法的には不可能。
つまり、ルカは単にマルコの「自分の生命を損する」を「自分自身を失う」と言い換えているのではなく、マルコの意図とは別の意図を含んだ言い変えとなっているように思えるのである。
ルカは、マルコの「自分の十字架を負って」ということを「日々自分の十字架を負って」と言い変え、「十字架を負う」ことを日常の生活苦に遭遇する時の心構えという精神論の説教にすり替えている。
とすれば、ここにもマルコの「生命を損する」を文字通りに「生命を失う」という意味ではなく、「その人にとって何の役に立とう」というような、「自分自身の存在意義を失う」あるいは「自己喪失感を味わう」、「無益なことと感じる」、という趣旨の精神論にすり替えているようにも読めるのである。
「人の子」に関するキリスト教的終末論に関しても、ルカは弟子たちを除いた「非キリスト信者」に対して語っているので、「弟子たち」には既知の事柄である。
「イエスとイエスの言葉を恥じるような者は、人の子の再臨の時、キリストはその者のことを恥じるであろう」。
しかし、終末の時には、「弟子たち」と同じように、そうではない者の中には、「神の国を見るまでは死を味わわない者がいる」という「非キリスト信者」に対する再臨時における希望の預言として、ルカのイエスは語るのである。
マルコにおける「弟子たち」のキリスト教的終末論信仰に対する皮肉が、ルカでは、イエスの後について来たいと思う者たち、すなわち「非キリスト信者」に対するキリスト信者の持つ同じ祝福の享受を可能とする預言にすり替わったのである。
聖書霊感説に毒されると、すべてイエスが同じ趣旨の希望を差し伸べている、と読むことになるが、同じような言葉を述べているはずのイエスが、三者三様の視点で分析すると、それぞれのイエスはそれぞれの相手に対してそれぞれ別々のことを言っていることに気付くのである。
ちなみに「自分を否定し」「自分の十字架を負う」ことに関するWTの見解。
NWTは「自分を捨て、自分の苦しみの杭を取り上げる」と訳している。
*** 塔08 2/15 29ページ 6節 マルコによる書の目立った点 ***
8:32‐34。他の人から示されるどんな間違った親切も素早く見分けて退けるべきです。キリストの追随者は,『自分を捨てる』,すなわち自分を否定して利己的な願望や大望を放棄する心構えでいなければなりません。また,進んで『自分の苦しみの杭を取り上げる』べきです。つまり必要とあらば,つらい経験をすることも,クリスチャンであるがために侮辱されたり,迫害されたり,場合によっては殺されたりすることもいとわないのです。そして,「絶えず[イエス]のあとに従い」,イエスの生活の型に倣わなければなりません。弟子として歩むには,キリスト・イエスのような自己犠牲の精神を培い,保つことが求められます。―マタ 16:21‐25。ルカ 9:22,23。
*** 塔93 6/1 9ページ 6節 自己犠牲の精神を抱いてエホバに仕える ***
6 自分を捨てるとはどういう意味でしょうか。それは,自分を完全に否定しなければならないこと,自己に対する一種の死を意味します。『捨てる』と訳されているギリシャ語の基本的な意味は,「“いいえ”と言うこと」であり,それは,「全く否定すること」を意味しています。ですから,クリスチャンの生活に伴う大きな課題に取り組むならば,自分自身の大志,安楽,欲望,幸福,楽しみを進んで放棄することになります。要するに,自分の生活全体とそれに伴うすべてのものをいつもエホバ神にささげるのです。自分を捨てるというのは,自分のある種の楽しみを時々あきらめるというだけのことではありません。むしろ,自分自身の所有権をエホバに差し出さなければならないという意味です。(コリント第一 6:19,20)自分を捨てた人は,自分ではなく神を喜ばせるために生きます。(ローマ 14:8; 15:3)生涯を通じて,いつ何時でも,利己的な欲望を否定し,エホバを肯定することを意味しているのです。
聖書霊感説信仰者には、何の矛盾も感じないであろう、マタイ・ルカを中心にマルコを解釈した混合解釈になっている。
「エホバを肯定すること」とは「エホバの利己的な欲望のために生きる」ことであるにもかかわらず、「自分自身の欲望は利己的であるから否定し、放棄する」ことが、自己犠牲の精神であり、自分を捨てる、という意味であるという解説。
「捨てる」とは、「いいえ」と言うことであり、「全く否定すること」を意味すると説明しておきながら、自分を「捨てる」とは自分に対して「いいえ」言うことであり、自分自身を「全く否定すること」、すなわち自分自身の存在に関して「全く否定すること」=「死」を意味すると説明しておきながら、それは「死」ではなく、「一種の死」という解説。
「自分を捨てる」とは、「自分の意志」に基づく自発的な決定行為であるにもかかわらず、自分の意思を放棄することこそが「自分を捨てる」という意味と解説する矛盾。
「自分の意志」を一切放棄し、エホバ・ロボット、統治体・ロボットになり、生きることを放棄し、「死ぬ」ことが自己犠牲の生き方であり、神を喜ばせる生き方であるという洗脳解説となっている。