マルコ7:3-13 <穢れについての論争>4
マルコ7
―――3つまりパリサイ派や、ユダヤ人はみな、こぶしで手を洗わなければ食べることをしない。これは長老たちの伝承に固執しているのである。4そして広場からだと、身を洗わなければ食べることをしない。ほかにも多くのことを受け継いで、固執している。杯やコップや銅鉢を洗うことなどである。―――
5そしてパリサイ派と律法学者はイエスに問う、「何故あなたのお弟子さんたちは長老の伝承に従って歩まず、穢れた手でパンを食べるのか」。
6彼は彼らに言った、「イザヤはあなたたち偽善者についてうまいことを預言して言っている。この民はくちびるで私を敬うが、その心は遠く私から離れている、7いたずらに私を礼拝し、人間の戒めを教えとして教えている、と書かれているように。8あなた達は自分たちの伝承に固執しているのだ」。
9そして彼らに言った、「あなた達は自分たちの伝承を確立するために、よくも神の戒めを捨ててくれたものだ。10すなわちモーセは、汝の父と汝の母を敬え、また、父や母を悪く言う者は死をもって終わらねばならぬ、と言っているのに、11あなた達は、誰かが父や母に、あなたが私(の持っている物)の中から使おうとしていらっしゃるこの物はコルバーン、すなわち献納物なんです、と言えば、12その者は父や母にもはや何もしなくてよろしい、としている。13こうしてあなた達は自分達が伝承した自分達の伝承でもって神の言葉を無効にしているのだ。またほかにも似たようなことを多くやっておいでだ」。
マタイ15
2「何故あなたのお弟子さんたちは長老たちの伝承を踏みはずすのか。パンを食べる時に、手を洗わないではないか」。
3彼は答えて彼らに言った、「あなた達もまた何故、あなた達の伝承によって、神の戒命を踏みはずすのか。4神は言っている、父と母を敬え、また父や母を悪く言う者は死をもって終わらねばならぬ、と。5あなた達は、父か母に、あなたが私(の持っている物)の中から使おうとしていらっしゃるこの物は献納物なのです、と言う者は、6自分の父を敬わなくてもいい、としている。こうしてあなた達はあなた達の伝承でもって神の言葉を無効にしている。(3-6はマルコ7:9-13に対応)
7偽善者よ、イザヤはあなた達についてうまいこと預言して言っている。8この民はくちびるで私を敬うが、その心は遠く私から離れている、9いたずらに私を礼拝し、人間の戒めを教えとして教えている、と」。
マルコとマタイでは、イザヤからの引用と十戒から引用の順番が逆になっている。
マタイは、マルコ7:3-4の「ユダヤ人」の清めの習慣についての解説を全部削除した。
マルコもマタイもユダヤ教に馴染みがあるが、マルコはパリサイ派の律法的権威主義に対して批判的である。
それに対し、マタイはユダヤ主義に親和的であり、パリサイ派出身の可能性もある。
マルコの「穢れと清め」に関する解説は、ユダヤ教を知らない読者のためのものであるが、マタイが削除したのは、ユダヤ人にとっては周知の事柄だったからであろうか。
そうであるなら、マタイはギリシャ語で書きながら、非ユダヤ人の読者を無視して、ユダヤ人あるいはユダヤ人に親和性を持っている読者だけを対象にしていることになる。
マタイとしては、パリサイ派が民衆の生活支配に求める「穢れと清め」に関する伝承に深入りしたくなかったのかもしれない。
マタイがマルコの「穢れと清め」に関する解説を削除した上で、イザヤからの引用と十戒からの引用を逆にしたことで、互いの主張することが異なることになった。
マルコでは、パリサイ派に対する「あなた達は自分たちの伝承に固執しているのだ」というイエスの言葉は、食前の穢れと清めの儀式に対する批判として語られている。
それに対して、マタイの「あなた達の伝承によって、神の戒命を踏みはずすのか」というパリサイ派に対する批判は、「父と母を敬え」という道徳律の解釈に対する批判となってしまった。
マルコの方では、「穢れと清め」のパリサイ派伝承とコルバン伝承は、どちらも「穢れと清め」に関する問題であり、どちらも「自分たちの伝承でもって神の言葉を無効にしている」問題として並列されている。
マタイの方では、食事の前に手を洗わないという行為が「穢れと清め」に関する問題から離れ、コルバン伝承の道徳的偽善という問題にすり替わってしまったのである。
これは、マタイがマルコの文を省略したり、文の順番を変えたりしたことにより、論点の重きがずれてしまったことにより、生じたもの。
コルバーンに関しても、マタイはマルコの説明を大幅に削除し、「献納物」(dorOn)と「コルバーン」の訳語として、単にギリシャ語に直しているだけである。
ユダヤ教の慣習をよく知っている者なら、話が十分通じるかもしれないが、ユダヤ教を知らない者たちにとっては、イエスが何を批判しているのか理解に苦しむことになる。
マルコのイザヤ29:13からの引用は、ほぼ七十人訳と一致。
ヘブライ語本文とはかなり異なっている。
七十人訳「いたずらに私を礼拝し、人間の戒めと教えとを教えている」。
ヘブライ語本文「それゆえ彼らが私を畏れるのは、人間の戒めを教えられてのことに過ぎない」。
マルコにおける多少の違いは、記憶による引用から来る違いであろう。
イエスはアラム語でしか読み書き出来なかったから、旧約聖書をギリシャ語で読むはずはない。
とすれば、このイザヤ書を七十人訳で引用している伝承は、イエス自身に由来するものではないことになる。
しかしながら、パリサイ派の律法に根ざした権威主義に対する批判精神は、いかにもイエスらしい。
実際に、イエスが記憶によるイザヤを引用して、パリサイ派をやり込めた伝承を、マルコが七十人訳に合わせて整えてくれた可能性もある。
田川訳「伝統を確立するために」に対して、NWT「伝統を保とうとして」。
「確立するために」(stEsEte)の直訳は「建てるために」。(カイサリア系西方系、ネストレ新版)
「保とうとして」(athetEite)は異読。アレクサンドリア系、ネストレ旧版が採用。
可能性としては、五分五分という。
NWTは反カトリックを標榜するものの、原文の読みはカトリックの「伝統を保とうとして」いる。
マルコにはヘブライ語の「コルバーン」(korbAn)に関して、詳しく説明してある。
マタイにはギリシャ語で「献納物」(dOron)と訳しただけ。マルコの説明文を削除した。
当時のユダヤ教では、本当に神殿に献納するわけではなく、単に相手に使わせないための手段として、これは神に献納することになっているものです、と宣言した。
見せかけの敬虔さで利己的な動機を隠蔽する手段として「神に献納されたものである」という言い方が流行していた。
ギリシャ語を話すユダヤ人の間でも、ヘブライ語のまま「コルバーン」という語がおまじないのように用いられていた。
ヨセフス『古代史』4・73、『アピオン駁論』1・167でも、ヘブライ語の単語のままkorbAnと記されており、「(神に捧げる)捧げ物」とギリシャ語で註を付けている。
ミシュナの中の「誓い」(Nedarim)という表題の文書がこの実例を大量に扱っている。
イエス当時のユダヤ教が非常に堕落していたことがわかる。
WTが会衆の信者の寄付で建設した王国会館や大会ホールを「神に献堂されたもの」と称して、企業やバビロンに売却するのも似たようなもの。
献堂式は統治体の「コルバン」宣言である。
マルコのイエスのパリサイ派に対する批判の骨子。
3「長老たちの伝承に固執している」
4「ほかにも多くのことを受け継いで固執している」
6「くちびるで敬うが心は遠く離れている」
7「人間の戒めを教えとして教えている」
8「自分たちの伝承に固執している」
9「自分たちの伝承を確立するために、神の戒めを捨てている」
10「モーセは…言う」
13「自分たちの伝承で神の言葉を無効にしている」
13「ほかにも似たようなことを多くやっている」
対応するマタイのイエスの批判の骨子」。
2「長老たちの伝承を踏みはずす」
8「くちびるで敬うが心は遠く離れている」…マルコ7:6に対応
9「人間の戒めを教えとして教えている」…マルコ7:7に対応
3「あなた達の伝承によって神の戒命を踏みはずす」…マルコ7:8,9に対応
4「神は言っている」…マルコ7:10に対応
6「あなた達の伝承でもって神の言葉を無効にしている」…マルコ7:13に対応
マルコの「固執している」に対して、マタイは「踏みはずす」。
「固執する」(krateO)はkratos=storengthという名詞から派生した他動詞で、完全にさせる、完璧に遂行させる、という趣旨。そこには強い意志が働いている。
「踏みはずす」(parabainO)はpara=beside+bainO=goの自動詞で、字義的には「脇にそれる」。
自発的な強い意志でというのではなく、知らずにあるいは仕方なく本筋から外れてしまっている、という感じになる。
マルコは長老たちの伝承に批判的であるのに対し、マタイは擁護しようとする姿勢が窺える言葉使いとなっている。
マルコ7:8の「自分たちの伝承」に対応する、マタイ7:3は「あなた達の伝承」。
「自分たちの伝承」の直訳は「人間の伝承」。
マタイはマルコの「人間の」(tOn anthrOpOn)を、定冠詞を外して、単に「あなた方の」(humOn)という与格代名詞だけにした。
マルコでは、「長老たちの伝承」は、単なる「人間の戒め」に過ぎない、つまり「神の心」とは無関係の「偽善者の伝承」であるという意識が働いている。
マタイは、「長老たちの伝承」が「人間の戒め」ではなく、「パリサイ派」の作った伝承に過ぎない、という趣旨に変えたが、旧約が「神の戒命」であることは否定していない。
つまり、「ユダヤ教律法」自体は、「神の戒命」あることは否定できない真理であるが、間違いなのはパリサイ派による解釈である、という意識がマタイには働いているのである。
マルコの「モーセ」に対して、マタイは「神」。
十戒に関しても、マルコには「モーセ」という人間が、神の戒命として民に語ったものである、という意識が働いているが、マタイは、モーセという人間ではなく、「神」が民に語ったものである、という意識が働いている。
マタイにはユダヤ教の伝統をキリスト教の中で護りたいという護教意識が強く働いているのである。
マルコの4「ほかにも多くのことを受け継いで固執している」、13「ほかにも似たようなことを多くやっている」をマタイは削除している。
ユダヤ教の伝統には、「固執しているほかにも多くの」穢れと清めに関する長老伝承や神の名を使って行われる「人間の戒めを教えとして教えている」多くのことがある、というマルコの主張をマタイは無視したのである。
ここでも、ユダヤ教との融合を図りたい、というマタイの意識が働いたのであろう。