マルコ7:3-5 <穢れについての論争>3

 

マルコ7

―――つまりパリサイ派や、ユダヤ人はみな、こぶしで手を洗わなければ食べることをしない。これは長老たちの伝承に固執しているのである。4そして広場からだと、身を洗わなければ食べることをしない。ほかにも多くのことを受け継いで、固執している。杯やコップや銅鉢を洗うことなどである。―――

 

マタイ15

2「何故あなたのお弟子さんたちは長老たちの伝承を踏みはずすか。パンを食べる時に、手を洗わないではないか」。

 

 

マルコは「ユダヤ人」の清めの習慣について詳しく説明してくれている。

マタイはマルコの清めに関する解説文(7:3,4)を全部削除してくれた。

 

マルコの「長老たちの伝承」をNWT「昔の人たちからの伝統」と訳している。

口語訳・新共同訳は「昔の人の言い伝え」。

 

「長老」(presbuteros)とは単に「昔の人」を指す語ではない。

旧約律法だけでなく、施行規約等をめぐるさまざまに加える解釈を決定する、自分たち以前のラビ、律法学者を指す。

 

単なる「言い伝え」でもなく、単に多数の人々の指示によって継承されている「伝統」を指すのではなく、権威あるものとして継承されてきた「伝承」(paradosin)を指している。

 

マルコは「ユダヤ人はみな」と書いているが、あらゆるユダヤ人が一人残らず、パリサイ派の清めの手順に従って生活していた、というわけではない。

 

「ユダヤの」(hoi ioudaoi)は、定冠詞付き「ユダヤ」の形容詞男性複数形であり、狭義の意味で使っている。

 

一般的に意味での「ユダヤ人」という意味ではなく、「ガリラヤ」や「サマリア」ではなく、あの「ユダヤ」という趣旨。

 

エルサレムを中心とした「パリサイ派」を含めて「ユダヤのあの連中は」という趣旨であろう。

 

ガリラヤ人から見れば、自分たちを経済的にも社会的にも宗教的にも支配している勢力の連中ということになる。

 

 

「こぶしで手を洗う」に対して、NWT「手をひじまで洗う」。

原文は「こぶし」(pygmE)という語の与格。前置詞は付いていない。

「こぶしで手を洗う」とはどういう意味か不明。

 

「丁寧に」(pykna)と書き変えている写本がある。(シナイ、Wほか)

 

「こぶし」では意味がわからないので写本家が書き変えたものであろう。

 

「こぶし一杯の水で」、あるいは「こぶし状に握ってこすりあわせる」、あるいは「こぶしほどの大きさの器に水を入れて」、「手首の関節のところまで洗う」等の説があるそうだ。

 

 

NWTは、「こぶしで」(KI:pygmE=to-fist)という読みを採用している。

 

「こぶしで」を「手首のところまで」と解釈した上で、「丁寧に」という読みを加味し、手首により丁寧に洗うのだから医者の手術時における手洗いのように「ひじまで」であろうと解釈を発展させてくれたものだろう。

 

原文に「手をひじまで洗う」と書いてあるわけではない。

 

和訳聖書の訳は以下の通り。シナイ写本等の読み「丁寧に」を支持している。

共同訳  「念入りに」

フランシスコ会訳  「念入りに」

岩波訳  「念入りに」

新共同訳 「念入りに」

前田訳  「よく」

新改訳  「よく」

塚本訳  「(きまった方式で)」

口語訳  「念入りに」

文語訳  「懇ろに」」

 

 

重要なのは、マルコが「長老たちの伝承に固執している」ことを主要な問題にしているのに対し、マタイは「手を洗わない」ことを主要な問題としている点。

 

 

マルコの「広場から」は言葉足らずの文。

NWTは言葉を補って「市場から戻ってきたときには」。

 

「市場」(agora)は、町の中心広場のこと。

その広場では、市が立ち、町の住民は民族の区別なく自由に出店も出入りも出来た。

西欧諸国の各所にある「マーケット」のような場所。

 

つまり、「agoraから」とは、「市で買物をして帰って来たら」、という意味。

 

 

「身を洗わなければ」の読みは、baptisOntaiの訳で、カイサリア系西方系、AWほか。ネストレ新版が支持。

「身に水を振りかける」の読みは、rantisOntaiの訳で、シナイ、Bほかのごく少数。ネストレ旧版が支持。

どちらも中動相の動詞で、baptisOntaiは、「自らに浸礼を施す、沐浴する」の意。

 

rantisOntaiを、「自らに(清めの)水を振りかける」の意と解する学者がいる。(クロスターマン)

 

ところがこの語を「市場で買ってきたものに水を振りかける」の意に解そうとする学者もいる。(ラグランジュ、ベシュ)

 

しかし、その意味に読むためには、原文の中動相を「買ってきたもの」を目的語とする他動詞の意味に読む必要がある。

 

もちろん、ここの中動相には目的語はなく、「自分自身に対して」という意味にしか読めない。

 

NWT「水を振りかけて身を清めなければ」の訳は、KI=rantisOntaiの読みを採用したもの。

 

NWT84版は、ネストレ旧版の読みを支持しているので、「水を振りかける」と訳すのも理解できる。

 

しかし、銀色のNWT09版は、ネストレ新版を元に改定しているにもかかわらず、「体に水をかけなければ」と訳している。

 

しかも、WTは「バプテスマ」に関しては、全身浸礼を支持している。

 

ここでも原文では同じbaptizoという動詞が使われている。

 

写本の理解の進歩によって、改訂するのであれば「自らに浸礼を施す」とするのが妥当であろう。

 

これでは、浸礼は「全身を水の中に浸す」必要はなく、単に「体に水を振りかける」だけでも「浸礼」と呼べる、ということになるのではなかろうか。

 

WTは新版の聖書が刊行される意義は原文の解明が進んでいることを一つの根拠としている。

*** 塔01 11/15 7ページ 「新世界訳」― 世界の多くの人が高く評価 ***

なぜ新しい聖書翻訳?

新世界訳聖書翻訳委員会は,仕事に着手しました。原文に忠実で,新たに発見された聖書写本による最新の学問的発見を取り入れ,現代の読者が容易に理解できる言葉を用いた翻訳を作ることです。

 

WTは「さまざまなバプテスマについての教え」は初歩の教理であるとして、全身浸礼こそバプテスマであり、水を身に振りかけるバプテスマは無効としている。

 

しかし、最新の学問的発見によれば、「水を身に振りかけるバプテスマ」も有効となるはずである。

 

原文の解明が進んでも、WT教理に都合の悪い学問的発見は、根拠も無く無視したり、無効と判断しても問題ないようである。