マルコ7:1-4 <穢れについての論争>2
1-13は、複数の伝承を組み合わせて、一つの論争物語に仕立てているものと思われる。
これから順にマルコとマタイを比較しながら分析してみる。
まず、論争話の前半から。
マルコ7
1そして彼のもとにパリサイ派と、エルサレムから来た何人かの律法学者とが、集って来る。2そして彼の弟子たちの何人かが穢れた手でパンを食べているということを知って、というのは洗わない手ということだが―――3つまりパリサイ派や、ユダヤ人はみな、こぶしで手を洗わなければ食べることをしない。これは長老たちの伝承に固執しているのである。4そして広場からだと、身を洗わなければ食べることをしない。ほかにも多くのことを受け継いで、固執している。杯やコップや銅鉢を洗うことなどである。―――
マタイ15
1その時、イエスのもとにエルサレムからパリサイ派と律法学者がやって来て、言う、2「何故あなたのお弟子さんたちは長老たちの伝承を踏みはずすのか。パンを食べる時に、手を洗わないではないか」。
「エルサレムから来た」のは律法学者だけか、それとも「パリサイ派」も一緒に来たのか。
マルコの「エルサレムから来た」という句を田川訳は「何人かの律法学者」だけにかかると読んでいる。
NWTは両方にかけている。
マタイも両方にかけている。
文法的には「パリサイ派」と「何人かの律法学者」の両方にかかると読むことも可能である。
しかし、語順からしても、歴史的状況の実態からしても、「エルサレムから来た」のは「律法学者」だけだったと読むものだろう。
マタイは、マルコの「エルサレムから来た」の句を両方にかかると読んだのだろう。
マルコの語順は、「そして集って来る」「彼の方に」「パリサイ派」「kai」「何人かの律法学者」「エルサレムから来た」。
「エルサレムから来た」という句は最後にある。
つまり、「エルサレムから来た」という句は、その直前にある「何人かの律法学者」だけにかかる、と読むものだろう。
マタイの語順は、「その時イエスのもとにやって来た」「エルサレムから」「パリサイ派」「kai」「律法学者」。
「エルサレムから」という句は、「パリサイ派」「kai」「律法学者」という句の前に置かれている。
こちらは、明らかに両方にかかると読むことになる。
NWTは、マルコでもマタイでも、どちらも「パリサイ人」と「書士」は「エルサレムから」来た人々であったとしている。
マタイをマルコに読み込もうとしているのだろう。
パリサイ派とは元来は祭司に対する敬虔主義を推進する在家の信者たちのことである。
原則的には誰でもなれるので、ガリラヤ地方にもパリサイ派は多数いたと思われる。
宗教的敬虔心の復興と倫理的厳格主義を目指して活動しており、常日頃のイエスの信奉者たちの所作に憤懣を抱いていたのであろう。
それに対して律法学者は、ユダヤ教律法の専門職であり、多くの専門的修練を必要とする。
敬虔主義運動の理念に賛同するだけでなれるようなものではなかった。
一世紀末のガリラヤ地方には何人かの律法学者の定住が確認されている。(A・ビュヒラー)
しかしながら、一世紀初期のイエスの時代に定住律法学者は確認されていない。
そもそも、パリサイ派の運動そのものが、エルサレムの都市有産階級を中心に成立、発展してきたものである。
パリサイ主義の普及は、ユダヤ教の中流指向が高い金持ち階級の宗教倫理を全国的に展開しようとする運動でもあった。
地方の在家パリサイ派の者たちは、巡回して来る律法学者から理論的指導を受け、土地全体のパリサイ化を促進させて行ったというのが歴史的実相である。
エルサレムから下って来る律法学者がその運動の中核を担って、地方の在住パリサイ派を指導し、全国的に拡散させていたのである。
WTにおける巡回訪問や地帯訪問などにより、長老団の中央集権思想強化が計られて、各会衆の宣教活動に反映されて行くのと同じような構造である。
この<穢れに関する論争>は、そもそもガリラヤ地方の農村や漁村出身の比較的貧しい暮らしをしていた「弟子たち」と、都市型中産階級の金持ちユダヤ教信者の倫理観の対立だったのであろう。
マタイは後半で、ペテロが関係しているように描いているが、実際に、ペテロをはじめとする、いわゆる十二「弟子たち」、「使徒たち」が直接関係していた論争であるかどうかは定かでない。
しかし、後の時代のキリスト信者とパリサイ派との間に価値観の対立があったのは確かであろう。
「弟子」という言葉自体、「ラビ」(師)に対応する言葉であり、パリサイ的律法主義を前提とした表現である。
イエスは「弟子たち」に「ラビ」と呼ばれることを拒否するように指導したという伝承が残されている。(マタイ23:7)
そのイエスが、パリサイ派用語である「ラビ」という語を自分に適用させるはずがない。
当然、「ラビ」に対応する語である「弟子」という律法学者用語を自分の仲間に対して使うはずもない。
とすれば、実際に論争が起きたのは、マルコでは、「弟子たち」とされているが、いわゆる十二弟子だけに限定されているわけではなく、イエスの活動開始時にイエスと一緒に行動を共にした信奉者を含むものと思われる。
いわゆる「弟子たち」伝承やペテロ伝承は、イエスの関する伝承をユダヤ教からキリスト教に宗旨変えした初期キリスト教団によりキリスト教化され伝承されたものであろう。
田川訳は「知って」、NWTは「見て」としている。
ガリラヤの初期イエス信奉者の行動現場に直接パリサイ派や律法学者が居あわせて論議が始まったのか。
それとも普段から地元のパリサイ派が「弟子たち」を苦々しく思っており、エルサレムから律法学者が来ていた時に、水を得た魚のように、この時とばかり、一緒になって、イエスに文句を言ったのか。
目撃現場での出来事だったのか、パリサイ派たちの認識だったのか、今となっては、実際のところは定かではない。
事実として解ることは、律法学者を中心とするパリサイ派は、自分たちの倫理観を基準にイエスの仲間の日常生活に関する行動を非難していたということ。
おそらくその非難は、イエスの活動に対する大きな圧力ともなっていたのであろう。
また、イエスの仲間に対するだけではなく、ガリラヤ地方全体の住民に対する圧力でもあったのだろう。
律法学者を中心とするパリサイ派は、敬虔主義に基づいて、律法の解釈に従うよう住民生活に介入し、支配しようとしていたことから生じた対立論争である。
穢れについての論争話の前半部分は、律法学者を後ろ盾とするパリサイ派たちに対するイエスの言葉が元となっていると思われる。
彼らに対するイエスの反論の言葉がイエスのロギアとしてガリラヤ地方に残っていた。
それをいわゆる「弟子たち」がキリスト教化し、伝承化していった。
この<穢れについての論争>物語は、論理的に繋がらない部分があり、マルコが他のイエス伝承と組み合わせて、再編集し、一つの物語に再構成させたものだろう。
「汚れた手でパンを食べているということを知って」の「知って」(idontes)はアレクサンドリア系の読み。
カイサリア系諸写本、西方系の一部は、「見て」の読みであるが、この個所は文法的に混乱しており、lectio difficiliorの原則からすれば、アレクサンドリア系の読みを採用すべきものであろう。
NWTは「見た時」。
弟子が洗っていない手で食事をするのを、文字通りの意味で直接「見た」時に、とイエスと書士たちとの間で論争が始まったと解釈している。
またアレクサンドリア系の読みである「知って」(idontes)の直訳は「見て」であるが、この「見る」は「知る」と同義。
英語のseeと同じ。
その現場を「直接目撃して」、という意味ではなく、「~という事実を知って」、という意味に解釈している。
当時のパリサイ派と律法学者との実態を考慮するなら、現場での出来事ではなく、弟子たちの行状がそのようなものであったと認識されていたということだろう。
ちなみに和訳聖書は、すべて「見た」。
つまり、直接目撃した、という趣旨に訳している。
英訳は、saw(BSB,KJV,NKJ,NIV,ARA,GWT,KJP,NET,NHE,WEB,WBT)
had seen(AMP,ASV,DRB,ERV,)
seeing(DBT,ISR,)
noticed(NLT,CEV,GNT,ISV)
observed(CSB,HCS)
had observed(OJB)等、分かれている。
ただし、原文のギリシャ語idontes<eidOの字義に、perceiveを当てているものが多い。
直接、現場を目撃した、というよりも、そのように認識していた、という趣旨に解せるものが多い。
「穢れた手」とは、土や埃などの汚れが付着していて、文字通りの意味で、汚れている手、という趣旨ではない。
また、悪霊を意味して「汚れた霊」と表現する時の「汚れた」という語とも異なる語を使っている。
「汚れた霊」の「汚れた」は「清い」(katharos)に否定の接頭語付けたakatharosという形容詞が使われている。
字義的には「清くない」という意味。
「穢れた手」の「穢れた」は、koinosという形容詞が使われている。
字義的には、「共通の」「普通の」という意味である。
それが、ここではなぜ「穢れた」という意味になるのか。
この語が普通のギリシャ語としては、祭儀的あるいは宗教的な意味で「穢れた」の意味で用いられることはない、という。
七十人訳でも、いわゆる旧約正典部分の訳では、宗教的な意味で「穢れた」という意味で用いられている箇所はないそうだ。
ところが、前一世紀以後のユダヤ教ギリシャ語になると、この語が祭儀的あるいは宗教的な「穢れ」の意味でkoinosを用いるようになる。(第一マカバイ1:47,62)
ヨセフスも同様の使い方をしている。(「古代史」3・181、12・320)
つまり、「共通の」あるいは「普通の」という意味のkoinosを「穢れた」という意味で用いることには、ユダヤ教の宗教観、倫理観が反映されているということである。
「普通の」という意味が、「月並みな」「通俗の」という低い評価の意味を帯びても使われるようになる。
それが、ユダヤ教的優越意識のフィルターを通すと、「普通の」とは宗教的に「穢れた」という劣った意味で使われるようになったのである。
ユダヤ教の唯一神を崇拝するユダヤ人は、「通俗の」低い評価の者たちとは異なる存在である。彼らは、ユダヤ人以外の「普通の」あるいは「通俗の」koinosであるものは、みな「穢れ」を持っているとみなしたのである。
ヨセフスも「古代史」13・4では、ユダヤ人がユダヤ教的な生活習慣を離れて異邦人的に暮らすことを「koinosの生活」と呼んでいる。
前一世紀初めごろとされる「アリステアス書簡」でも、同様に「koinosの人間」という表現を「異邦人」の意味に用いている。
ユダヤ教的律法主義生活に従わない、普通の生活をすることは、穢れた生活をすることである、という意識や、ユダヤ人以外の「異邦人」は「穢れている人間」であるという意識が働いているのである。
WTやJWが信者以外の人間を「世の人」と見下す表現をするのと同じ感覚である。
信者であっても「霊性が低い」と判断されると、「世的な人」と低評価されることもある。
マルコはここで、ユダヤ教的あるいはパリサイ派的な言い方で「koinosな手」であるけれども、その意味するところは、「洗わない手」という趣旨である、と言い直している。
マルコはユダヤ人であり、ユダヤ教の言葉遣いをよく知っていたはずである。
「穢れた手」とは、単に「汚れが付いている手」という意味ではなく、パリサイ人から見れば、宗教的に「穢れている手」のことである、とユダヤ教に詳しくないギリシャ人のために注釈を加えてくれたのである。
具体的にはパリサイ派式の食前の手洗い儀式に従わずに、食事をする手のことである、
NWTは「汚れた手」つまり「洗っていない手」と文字通りに「汚れが付着している手」と解し、食事の前に手を洗うことに関する宗教的儀式の是非の論争であるかのように解している。
*** 洞‐2 287–288ページ 手を洗う ***
西暦1世紀の書士やパリサイ人は,手を洗うことを大変重視し,食事をしようとする時に手を洗わないイエスの弟子たちは昔の人々からの伝統を踏み越えていると言って,イエス・キリストに異議を唱えました。これには,衛生上の目的で普通に手を洗うことではなく,仰々しい儀式が関係していました。『パリサイ人とすべてのユダヤ人は,手をひじまで洗わなければ食事をしません』。(マル 7:2‐5; マタ 15:2)
しかし、マルコにおけるイエスの批判は、律法学者あるいはパリサイ派の唱えるユダヤ教的儀式の是非に対する批判を中心には置いていない。
何を「穢れ」とカテゴライズするのか、というユダヤ教の本質に対する批判である。
言い換えると、手を洗うことに関するさまざまな儀式や伝統や基準の是非を批判しているのではなく、神の名のもとに伝統を絶対化すること、ユダヤ教律法を絶対正義とすることの是非を批判しているのである。
そのことは、15からも明らかである。
マルコの主張もそこにあるのであろう。
この論争話の本質を理解する鍵は、15のイエスの言葉にあるように思える。
田舎育ちのガリラヤ人出身であるイエスの信奉者にとって、外から帰ってそのまま手を洗わず食事をするなど、いちいちパリサイ派的儀式に従った食事をしないということは、日常的なことだったであろう。
泥だらけでも無いかぎり、彼らにとっては平気なことであったのだろう。
ところが、パリサイ派にとってはそれが気にくわない。
外から帰ってくれば、異邦人との接触や律法上の「穢れ」とされるものに触れている可能性もある。
手を洗わずに食事をするなどということは、衛生上の問題以上に、宗教的な「穢れ」を身にまとう恐れのある問題だったのである。
エルサレムから巡回に来ていた律法学者に指導を受けたパリサイ派が、この時とばかりに徒党を汲んで、イエスが居る時に論争を挑んだのであろう。
その時のイエスの反論がイエスのロギアとして残っていた。
それを弟子集団がキリスト教化した上で伝承した。それを、マルコが穢れに関する論争物語として、編集したものと思われる。