マルコ6:7-13 <十二人の派遣> 並行マタイ10:1,5-16、ルカ9:1-6、参照ルカ10:1-16
マルコ6:7-13 <十二人の派遣>
7そして十二人を呼びよせる。そして彼らを二人ずつ派遣することにした。そして彼らに汚れた霊に対する権威を与えた。8また、道中に杖以外はパンも袋も持って行かず、また帯の中に銅貨を入れることもないように、と告げた。9「ただ履物をはき、下着も二枚は着ないこと」と。10そして彼らに言った、「どこでも、ある家にはいったら、そこから出るまではその家にとどまりなさい。11そしてあなた方を受け入れず、聞くこともしない土地があれば、そこから出て行く時に、彼らに対する証のために、足の裏の土をはたき落としなさい。12そして出て行き、悔い改めるようにと宣ベ伝えた。13そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病弱な人を癒した。
マタイ10:1、5-16
1そして十二弟子を呼びよせ、汚れた霊に対する権威を与えて、これを追い出すことができるようにし、またすべての病気や患いも癒すことができるようにした。
2-4(十二使徒の名簿) 並行マルコ3:13-19、ルカ6:12-16
5これらの十二人をイエスは遣わし、彼らに告げて言った、「異邦人の道に行くな、またサマリア人の町に入るな。6むしろイスラエルの家の失われた羊の群のもとに行け。7行って、宣教し、天の国が近づいた、と言え。8弱っている者を癒し、死人を甦らせ、癩病人を清め、悪霊を追い出せ。あなた方はただで受けたのだ。ただで与えよ。9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も持つな。10道中袋も、二枚の下着も、履物も、杖も持つな。何故なら、働き人はその食物にふさわしいからである。11町か村に入ったら、その中で誰がふさわしいか調べよ。そして、出て行くまでそのもとに留まれ。12その家に入ったら、家に挨拶せよ。13もしもその家がふさわしければ、あなた方の(挨拶の)平安がその家へと行くようにせよ。もしもふさわしくなければ、あなた方の平安をあなた方自身に戻って来させるがよい。14またあなた方を迎え入れず、あなた方の言葉を聞くこともしない者がいれば、その家や町から出る時に、あなた方の足の埃をはたき落としなさい。15アメーン、あなた方に言う、裁きの日には、その町よりもまだソドムとゴモラの地の方が耐え易いだろう。
ルカ9:1-6
1十二人を呼び集めて、彼らにすべての悪霊に対する、また病気を癒す力と権威を与えた。2そして神の国を宣べ伝え、病人を直すために、彼らを派遣した。3そして彼らに対し言った、「道中に何も持って行くな。杖も、袋も、パンも、銀貨も。また下着も二枚は持つな。4そしてどこかの家に入ったら、そこにとどまり、そこから出かけるようにせよ。5そしてあなた方を受け入れない者がいれば、その町から出かける時に、彼らに対する証のために、あなた方の足から埃をはたき落とせ。6彼らは出て行って、村ごとに通って行き、いたるところで福音を伝え、治療をなした。
参照ルカ10:1-16
1その後主はほかの七十二人を定めて、二人ずつ、自分がこれから行こうとしているすべての町や場所に自分よりも前に派遣した。2それで彼らに対して言った、「収穫は多いが、働き手は少ない。収穫の主に、主の収穫のために働き手を送り出して下さるよう、祈りなさい。3行け、見よ、あなた方を狼の中に子羊を送るように送り出す。4財布や道中袋や履物は持って行くな。また道中で誰にも挨拶するな。5家に入ったらまず、この家に平安あれ、と言え。6もしもそこに平安の子がいれば、あなた方の平安がその者の上にとどまるであろう。さもなければ、その平安はあなた方の上にもどって来る。7その家に滞在して、出されたものを飲み食いせよ。何故なら働き人はその報酬にふさわしいからである。家から家へと移るな。8また一つの町に入って、人々があなた方を受け入れたら、あなた方に出されるものを食べよ。9またその町にいる病人を癒し、彼らに、あなた方のところに神の国が近づいた、と言え。10もしも一つの町に入って、人々があなた方を受け入れなかったら、その町の大通りに出て、言え、11我々の足にくっついた汝らの町の埃を、汝らに向けて払い落す。むしろ、神の国は近づいた、ということを認識せよ、と。12あなた方に言う、かの日にはソドム人の方がその町よりも耐え易いだろう。13汝に禍あれ、コラジンよ、汝に禍あれ、ベツサイダよ。汝らの中でなされた力ある業がテュロスやシドンでなされたならば、彼らはとっくに荒布と灰の中に座って悔改めていただろう。14むしろテュロスやシドンの方が、裁きにおいては汝らよりも耐えやすいだろう。15また汝カファルナウムよ、汝は天まで上ったとでもいうのか。(むしろ)地獄に落ちるだろう。16あなた方に聞く者は、私に聞くのである。そしてあなた方を否定する者は私を否定するのである。私を否定する者は私を遣わされた方を否定するのである」。
参照マタイ11:20-24、10:40
20その時、彼の力ある業の多くがなされた町々のことを非難しはじめた。その町々は悔い改めなかったからである。21「汝に禍いあれ、コラジンよ。汝に禍いあれ、ベツサイダよ。汝らの中でなされた力ある業がテュロスやシドンでなされたならば、彼らはとっくに荒布と灰をまとって悔い改めていただろう。22むしろ、汝らに言う、裁きの日には、テュロスやシドンの方が汝らよりも耐えやすいだろう。23また汝カフェルナウムよ、汝は天にまで上ったとでもいうのか。(むしろ)地獄に落ちるだろう。汝の中でなされた力ある業がソドムでなされたのなら、ソドムは今日まで残っていただろう。24むしろ汝らに言う、裁きの日は、ソドムの地の方が汝よりも耐えやすいだろう。
参照マタイ10:40
40あなた方を受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は私を遣わし給うた方を受け入れるのである。
マルコ6:7-13 (NWT)
7 さて[イエス]は十二人を呼び寄せ,彼らを二人ずつ遣わすことに取りかかり,汚れた霊たちを制する権威を彼らに与えはじめられた。8 また,旅のために,ただ杖のほかには何も,つまりパンも,食物袋も,腰帯の財布の中に銅銭も携えて行かず,9 サンダルを履いても,二枚の下着を着けて行かないようにとお命じになった。10 さらに,彼らにこう言われた。「どこででも家の中に入ったなら,その場所から出るまではそこにとどまりなさい。11 そして,どこでも[人々が]あなた方を迎えず,あなた方[のことば]を聞かない場所では,彼らへの証しのため,そこから出る際に足の裏の汚れを振り払いなさい」。12 それで彼らは出かけて行き,人々が悔い改めるように伝道した。13 そして多くの悪霊を追い出し,また大勢の病身の人に油を塗ってその人々を治すのであった。
マタイ10:1、5-15
10 それから[イエス]はご自分の十二弟子を呼び寄せ,汚れた霊たちを制する権威をお与えになった。それを追い出し,あらゆる疾患とあらゆる病を治すためであった。
2-4(十二使徒の名簿) 並行マルコ3:13-19、ルカ6:12-16
5 イエスはこれら十二人を遣わして,この命令をお与えになった。「諸国民の道に行ってはならず,またサマリア人の都市に入ってはなりません。6 そうではなく,いつもイスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。7 行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8 病気の人を治し,死んだ者をよみがえらせ,らい病人を清め,悪霊を追い出しなさい。あなた方はただで受けたのです,ただで与えなさい。9 あなた方の腰帯の財布のために金や銀や銅を手に入れてはならず,10 また,旅のための食物袋も,二枚の下着も,またサンダルや杖も[手に入れては]なりません。働き人は自分の食物を受けるに価するのです。
11 「どんな都市または村に入っても,そこにいるふさわしい人を捜し出し,去るまではそこにとどまりなさい。12 その家の中に入るときには,家の者たちにあいさつをしなさい。13 そして,その家がふさわしいなら,あなた方の願う平安をそこに臨ませなさい。しかし,もしふさわしくないなら,あなた方からの平安をあなた方のもとに帰らせなさい。14 どこでも,人があなた方を迎え入れず,またあなた方の言葉を聴かない所では,その家またはその都市から出る際に,あなた方の足の塵を振り払いなさい。15 あなた方に真実に言いますが,裁きの日には,その都市よりもソドムとゴモラの地のほうが耐えやすいでしょう。
ルカ9:1-6
1それから,[イエス]は十二人を呼び集め,すべての悪霊を制し,さまざまな病気を治す力と権威をお与えになった。2 そして,神の王国を宣べ伝え,また[病気を]いやさせるために彼らを遣わして,3 こう言われた。「旅のために何も,杖も食物袋も,パンも銀子も携えて行ってはなりません。また,二枚の下着を持ってもなりません。4 しかし,どこでも家の中に入ったなら,そこにとどまり,その後そこを去りなさい。5 そして,どこでも,人々があなた方を迎えない所では,彼らへの不利な証しとして,その都市から出る際にあなた方の足の塵を振り払いなさい」。6 そこで彼らは出かけて行き,村から村へと区域を回り,いたるところで良いたよりを宣明し,また治療を行なった。
参照ルカ10:1-16
1これらの事ののち,主はほかの七十人を指名し,行こうとしておられたすべての都市と場所へ,自分に先立って二人ずつお遣わしになった。2 その際,彼らにこう言いはじめられた。「確かに,収穫は大きいですが,働き人は少ないのです。それゆえ,収穫に働き人を遣わしてくださるよう収穫の主人にお願いしなさい。3 出かけて行きなさい。ご覧なさい,わたしはあなた方をおおかみの中にいる子羊のように遣わすのです。4 財布も,食物袋も,サンダルも携えて行ってはなりません。また,道中では,だれともあいさつの抱擁をしてはなりません。5 どこでも家の中に入ったなら,まず,『この家に平和がありますように』と言いなさい。6 そして,平和の友がそこにいるなら,あなた方の平和はその人の上にとどまるでしょう。しかし,いないなら,それはあなた方のもとに戻って来るでしょう。7 それで,そこの家にとどまって,人々が備える物を食べたり飲んだりしなさい。働き人は自分の報酬を受けるに値するからです。家から家へと移って行ってはなりません。
8 「また,どこであれ,あなた方が都市に入り,人々があなた方を迎えてくれるところでは,あなた方の前に出される物を食べ,9 そこにいる病気の者たちを治し,『神の王国はあなた方の近くに来ました』と告げて行きなさい。10 しかし,どこであれ,あなた方が都市に入り,人々があなた方を迎えないところでは,そこの大通りに出て行って,こう言いなさい。11 『あなた方の都市からわたしたちの足に付いた塵をさえ,わたしたちはあなた方に向かってぬぐい捨てる。けれども,神の王国が近くに来たということは覚えておきなさい』。12 あなた方に言いますが,その日には,その都市よりソドムのほうが耐えやすいでしょう。
13 「コラジンよ,あなたは災いです! ベツサイダよ,あなたは災いです! あなた方の中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたなら,彼らは粗布と灰の中に座ってずっと以前に悔い改めていたからです。14 したがって,裁きの際には,あなた方よりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。15 そしてカペルナウムよ,あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。あなたはハデスにまで下るのです!
16 「あなた方[のことば]を聴く者は,わたし[のことば]を[も]聴くのです。そして,あなた方を無視する者は,わたしを[も]無視するのです。さらに,わたしを無視する者は,わたしを遣わした方を[もまた]無視するのです」。
マルコ
7そして十二人を呼びよせる。そして彼らを二人ずつ派遣することにした。そして彼らに汚れた霊に対する権威を与えた。
…
12そして出て行き、悔い改めるようにと宣ベ伝えた。13そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病弱な人を癒した。
マタイ
1そして十二弟子を呼びよせ、汚れた霊に対する権威を与えて、これを追い出すことができるようにし、またすべての病気や患いも癒すことができるようにした。
ルカ9
1十二人を呼び集めて、彼らにすべての悪霊に対する、また病気を癒す力と権威を与えた。2そして神の国を宣べ伝え、病人を直すために、彼らを派遣した。
参ルカ10
1その後主はほかの七十二人を定めて、二人ずつ、自分がこれから行こうとしているすべての町や場所に自分よりも前に派遣した。
マルコでは、3:14-15で「十二人を定めた。自分と共に居らせ、また宣ベ伝えるために派遣し、悪霊どもを追い出す権威を持たせるためである」とあり、続いて十二人の名簿が載せられている。
しかし、そこでは「定めた」とあるだけで、権威ある立場として十二人を選び、「使徒」という立場に「任命した」わけではない。
ここ6:7~では、改めて十二人を「呼び寄せ」、二人ずつ派遣し、汚れた霊に対する権威を与えた、とある。
それに対してマタイでは、すでに選ばれている「十二人」を、ここでは改めて「使徒」として、病気治療のために派遣した、という設定になっている。
しかし、マタイにはその「十二人」をいつ定めたのかは、どこにも書かれていない。
マタイでは、10:1に続いて、マルコ3:16-19の「十二人」、マタイの言うところの「十二使徒」の表が続いている。
おそらく、マルコを読んでいて、すでに「定めた」という前提で、マルコ6:12-16に3:13-14の名簿を組み込んで採用したからであろう。
ただしマタイは「二人ずつ」派遣された、とは書いていない。「二人ずつ」としているのは、マルコと参照のルカ10章。
マルコ並行のマタイとルカ9章には「二人ずつ」とは書かれていないので、こちら単独では、「十二人」に権威が与えられ、一人ずつ派遣された、と読める。
マタイの導入句には、マルコには出て来ない「すべての病気や患いを癒すことができるようにした」という記述がある。
ルカ9の導入句にも、マタイと同じく「病気を癒す力と権威を与え」、「病人を直すために」派遣した、とある。
マルコでは、「多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒した」という表現は、派遣の結びの編集句に出て来る。
ルカ9にはマルコにはない、「神の国を宣べ伝え」とある。
ルカは、「神の国」宣教が弟子たちの基本活動であり、派遣目的という認識である。
ルカ10でも「神の国は近づいた」と言え、という指示を与えている。
マタイも同様に「天の国が近づいた」(10:7)と宣教することが「弟子たち」の基本活動、という設定である。
しかしながら、マルコのイエスの言葉には、「神の国」宣教のために「十二人」を派遣したとは一切語られておらず、単に「悪霊を追い出す権威を与えた」とあるだけ。
結びの編集句でも、「多くの悪霊を追い出す」こと=「多くの病人を癒すこと」だったことを示している。
マルコにとって、イエス自身もイエスが派遣した弟子たちも、「神の国」宣教を主たる」目的とはしておらず、「病気治療」が弟子派遣の主な目的であったのだろう。
「宣ベ伝えた」のは「悔い改め」であり、「神の国」ではないというのがマルコにおける宣教内容である。
マルコ1:14では、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」とイエスの宣教の開始を宣言しているが、「神の国が近づいたので、悔い改めよ」と宣教した、と言っているのではない。
「神の国が近づいた」という句と「悔い改めよ」という句がkaiで並列されており、「神の国が近づいた」という「福音」と「悔い改めよ」という「福音」が同列の価値を持って、宣ベ伝えられた、という趣旨である。
「悔い改め」を福音として宣ベ伝えることは、バプテストのヨハネから始まっている。
イエスが「神の国が近づいた」ことを理由に「悔い改めよ」と宣教したことにしたのは、マタイである。
マタイはマルコ1:14のkaiをgarに変えて、4:17「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」とその到来を根拠として、イエスが呼びかけたことにしたのである。
マルコの「神の国」を「天の国」に変えて、マルコの「悔い改め」宣教を無視し、「天の国」宣教の動機としたのである。
「神の国」あるいは「天の国」が近づいた」という福音を宣ベ伝えるキリスト教と「悔い改めよ」という福音を宣ベ伝えるキリスト教が存在しており、それぞれがイエスの言葉として伝承していた、ということであろう。
ユダヤ教のメシア思想から来る「神の国」信奉と実際のイエスが「神の国」に対して抱いていた認識とは根本的に異なる価値観である。
イエスが「神の国」待望信仰を福音として、宣教していたとは考え難い。むしろ、「神の国」待望信者は、イエスをキリストに担ぎあげた弟子たちである。
マルコにおけるイエスは「神の国」に関する説教や到来を予告する預言者でもなく、イエスを「神の国」の王として認めることがキリスト教の本質ではなかったのだろう。
イエスを「主」と認めて生きることとはイエスの生き方に倣うことであり、教条主義を否定し、支配層の不条理に迎合しない生き方をすることが、「悔い改め」であり、「福音」であり、マルコのキリスト教だったのであろう。
イエスは病気治療者であり、思想家であり、過激な手段を取らない革命家であったのであろう。
マルコ
8また、道中に杖以外はパンも袋も持って行かず、また帯の中に銅貨を入れることもないように、と告げた。9「ただ履物をはき、下着も二枚は着ないこと」と。
マタイ
5これらの十二人をイエスは遣わし、彼らに告げて言った、「異邦人の道に行くな、またサマリア人の町に入るな。6むしろイスラエルの家の失われた羊の群のもとに行け。7行って、宣教し、天の国が近づいた、と言え。8弱っている者を癒し、死人を甦らせ、癩病人を清め、悪霊を追い出せ。あなた方はただで受けたのだ。ただで与えよ。9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も持つな。10道中袋も、二枚の下着も、履物も、杖も持つな。何故なら、働き人はその食物にふさわしいからである。
ルカ9
2そして神の国を宣べ伝え、病人を直すために、彼らを派遣した。3そして彼らに対し言った、「道中に何も持って行くな。杖も、袋も、パンも、銀貨も。また下着も二枚は持つな。
参ルカ10
2それで彼らに対して言った、「収穫は多いが、働き手は少ない。収穫の主に、主の収穫のために働き手を送り出して下さるよう、祈りなさい。3行け、見よ、あなた方を狼の中に子羊を送るように送り出す。4財布や道中袋や履物は持って行くな。また道中で誰にも挨拶するな。
マルコの「十二人」派遣に対する指示は、身につけている「杖」と「履物」と「下着」は」持つことは可であるが、「パン」と「袋」と「銅貨」と「替えの下着」を持つことは不可、という内容である。
それに対し、マタイには、マルコには登場しない更なる細かい指示が加えられている。
マルコの「帯の中に銅貨(chalkon字義「銅」)を持つな」に対し、マタイは、「金貨」(chruson字義「金」)も「銀貨」(arguron字義「銀」)も「銅貨」(chalkon字義「銅」)も持つな、と「金貨」と「銀貨」を付加してくれた。
当時の地中海世界で、ギリシャ、ペルシャ、フェニキア人たちが金貨・銀貨・銅貨を使っていたが、基軸となったのは「銀貨」。デナリウス銀貨は、領土拡大のために必須であったローマ兵の給料にも使用された。
ローマにおける金貨の発行は散発的で、前87年、当時の権力者スッラによるもの。ユリウス・カエサルがガリアを征服以降、金貨の発行も頻繁に行われるようになるが、庶民の流通のため基本通貨は「銅貨」を中心とした「銅本位制度」。
「パン」も「二枚の下着」も持たずに宣教する者が、宣教に「金貨」を持って行くことなど、イエスやイエスの弟子たちには考えられないことだったであろう。
「金貨」を流通硬貨として実際に手にしたことのない庶民が多かったのは現代と同じであろう。
マルコの「銅貨」(chalkon)も字義は「銅」。「銅」粒、いわゆる「小銭」の意。
並行のルカ9では、「銀貨」(argurion)。マタイの「銀貨」(arguron字義「銀」)と異なり、指小辞付き。明確に「銀貨」の意。ルカに「金貨」と「銅貨」の表記はない。
参ルカ10では「財布」(ballantion)と別の表現。「投げる」(ballO)から派生した指小辞付き抽象名詞。原義「投げ入れる小さいもの」で、貨幣を投げ入れる小さな巾着袋、今で言うなら「財布」、「ガマ口」の意。新約ではルカにしか出て来ない。他に12:33と22:35,36であるが、22章は、10章の指示の思い出語り。
マタイの原義が金・銀・銅で、ルカしか用いていない「財布」の原義が直接的には「貨幣」とは無関係であり、金・銀・銅の粒を投げ入れておく小袋のことである。
マタイの「金貨」「銀貨」は、マルコの「銅貨」に付加したのではなく、Q資料に「金・銀・銅」と書かれていた表現をそのまま採用した可能性もある。
ルカが、Q資料の文を「財布」という表現にまとめた可能性もある。
しかし、並ルカ9にも参ルカ10にも、「金」は出て来ない。「銀」だけである。
つまり、「金貨」を追加したのはマタイである、ということになる。
とすれば、マタイはQ資料に「銀」、マルコに「銅」と書いてあるのを知っており、二つを合成して一つの物語に仕上げる時に「金」も付加した、ということになる。
マタイの金持ち重視の指向が表われているのだろう。
ルカもマルコ資料とQ資料を読んでいた。マルコ並行のルカ9章が指小辞付き「銀貨」であることからすると、マルコの「銅貨」(原義「銅」)をQ資料の「銀」ではなく、「銀」に丁寧に指小辞を付けて、地中海貿易の基軸であった「銀貨」と直してくれたのだろう。
あるいは、ルカがQ資料の「銀」に指小辞を付けて「銀貨」に変えたのは、マルコの「銅」に指小辞が付いていないことに対する対抗意識から丁寧に修正してくれたのか。
真相は、本人に聞いてみなければわからないが、あくまでも、可能性の問題である。
資料から分析できるのはここまでである。
瑣末な問題であるが、それぞれの金銭感覚が垣間見える。
何を信じるかは、ご自由に…
マルコの「道中に袋を持たず」(airOsin eis hodon mE pEran:直訳「道中において袋無しで行け」)に対し、マタイは「道中袋…も持たず」(mE pEran eis hodon:直訳「道中における袋無しで」)。
マルコにおける「道中における」は「行け」にかかる副詞句であるが、マタイは「袋」にかかる形容詞句として名詞表現に変更。
マタイは「二枚の下着、履物、杖」の順。マルコの順番を変えているが「パン」は削除。
ただし「パン」に関しては、「何故なら、働き人はその食物にふさわしいから」と付加。
当時の食事はパンとぶどう酒が基本。
この「何故なら」(gar)は、前文を受けてその理由を導く接続詞。
しかし、マタイのこの前文に「食物」や「食事」に関する記述はない。
ということは、マルコの「パン」を持つな、という指示が念頭にあり、その理由としてこの句を付加してくれたのだろう。
マタイがマルコより先に書かれた福音書であると主張するWTは、マタイが「何故なら」とこの文を書き始めた理由をどう説明するのだろうか…。
NWTは、garをfor「…のです」と軽く訳している。
前文を受けている句ではなく、この句を格言もしくは一般論として扱い、原文の持つ違和感を消したかったのだろう。
マタイの「異邦人の道に行くな、またサマリア人の町に入るな」というイエスの指示は、マルコにも、並行ルカ9にも、Q資料に基づくルカ10章にも出て来ない。
続けて同趣旨の指示を「イスラエルの家の失われた羊のもとへ行け」と言い直している。
マタイは、15:24でも、「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスに発言させている。
これらも、マタイ自身による付加であろう。
マタイはユダヤ教に対して批判的であるが、同時にユダヤ人的優越意識は非常に高い。
マタイにとってのキリスト教は、異邦人やサマリア人のものであってはならないのである。
まず、ユダヤ人を救済するのがマタイにとってのキリスト教の本質なのであろう。
マタイの「イスラエルの家の失われた羊」という表現は、マルコ6:34を意識したものだろう。
マタイは、この話の直前の9:36で、「群衆を見て、憐れんだ。羊飼いのいない羊の群のように…だったからである」と記述している。
この「羊飼いのいない羊の群」という表現はマルコ6:34「多くの群衆を見、憐れんだ。羊飼いのいない羊の群のようだったからである」に出て来る「羊飼いのいない羊の群」と全く同じである。
しかし、ここでは、マルコの「羊飼いのいない群の羊」をマタイは、「失われた羊の群」と言い換えている。こちらの表現の方が旧約的に伝統的な表現である、という。
マタイのユダヤ人優越意識が伝統的旧約表現に変えさせたのだろう。
それに、「異邦人」と「サマリア人の町」を同列に置き、禁教区とし、「イスラエル」に関しては自分の「家」」という意識で、この句を付加したのである。
マタイのサマリア蔑視、イスラエル重視の差別感情が露骨に表われている。
カトリックに批判的で対抗意識が非常に強いのに、どのキリスト教よりも選民意識が強いWTがマタイを重視するのは当然と言えば当然なのかもしれない。
マタイ大好き教団は、マタイの金満精神や差別感情も受け継いでいるのだろう。
並行であるルカの9章では、「履物」に対する指示は削除されているが、ほぼマルコと共通の指示。
ただし、先にも触れたが、マルコの「銅貨」がルカでは「銀貨」。
地中海の各地をパウロの宣教旅行で共にしたルカにとっては、「銅貨」よりも貿易の基軸硬貨であった「銀貨」の方が流通硬貨としてなじみがあったのだろうか。
パウロのスポンサーであり、市民権や免税特権が付与されていた医者でもあったのだから、庶民の「銅貨」よりも、高額な「銀貨」を持ち歩く方が利便性も高く、常だったのだろう。
いずれにしてもルカ9がマルコの「銅貨」を「銀貨」に変えた確かな意味は不明。
参ルカ10では、「財布」「道中袋」「履物」のみの無携帯指示と「挨拶」禁止指示。
「挨拶」禁止指示をマタイの「異邦人の道」「サマリア人の町」の禁教区指示に通じる、と考えるなら、マタイがQ資料の「挨拶禁止」指示をマタイ教信仰に合わせて、書き換えたのかもしれない。
マタイがQ資料の「金」「銀」「銅」を「財布」とまとめたと解しても、「杖」「パン」「下着」に関する指示は削除されており、参ルカ10はマルコとは別資料であることがわかる。
参ルカ10全体をマタイのマルコ以外の伝承と比較すると、共通点も多く、Q資料に基づく伝承であることが分かる。
参ルカ10の「収穫は多いが、働き手は少ない。収穫の主に、主の収穫のために働き手を送り出して下さるよう、祈りなさい」は、マタイ9:37-38とほぼ同じ。「働き手を」と「送り出す」の語順が逆だが、どちらも意味は全く同じ。
マタイは、この句を続く10:1~の「使徒派遣物語」の導入部分に置いている。参ルカ10と同じ構成となっている。
参ルカ10の「あなた方を狼の中に子羊を送るように送り出す」はマタイ10:16と一致。使徒派遣の説教の続きの説教の中にある。
ただし、その後に続く説教のマタイの順番は、ルカの順番とは一致しない。
マタイとルカのマルコ以外の共通資料(Q)を比較すると、ルカは、マルコ資料を9章に、Q資料を10章に編集したものと考えられる。
おそらく弟子派遣物語伝承のQ資料の原型は参ルカ10だったのであろう。
ルカは、9章の十二人の派遣と10章は七十二人の派遣としている。
マタイは、マルコ3:13-19<十二人の選び>とマルコ6:8-13<十二人の派遣>を合成して、<十二人の派遣および説教>としている。
つまり、「十二人」としているのは、マルコだけであり、Q資料には「十二人」とは書かれていなかった可能性が高い。
マタイもルカもマルコとQ資料を持っていた。
ルカは、マルコに基づく「十二弟子派遣伝承」とQ資料に基づく「弟子派遣伝承」を別々の物語と考え、ルカ9を「十二使徒派遣」、参ルカ10をその他の「弟子派遣」と考え、二重に編集したのである。
それで参ルカ10を、「ほかの七十二人」という書き出しにしたのであろう。
「ほかの」とは、「十二使徒」以外の「七十二人」という趣旨であろう。
とすれば、参ルカ10の「七十二人」という数字は、実際のものではなく、ルカの創作という可能性が高い。
「七十二」ではなく「七十」としている重要写本(シナイ、A他)も一定数存在する。(NWTは「七十」を採用)
通称「七十人訳」(セプトアギンタ)が実際には12x6=72のチームで編纂された「七十二人訳」であった、という例もある。「七十」という数字は、キリが良いだけでなく、縁起の良いものとされていたのであろう。(バビロン御用達の写本に従い、「縁起」の良い数字を採用するのは偶像崇拝には該当しないのだろうか。)
それに対し、マタイはマルコ資料とQ資料を同じ物語と考え、二つを合成して一つの「十二使徒派遣物語」に編集したのである。
繰り返しになるが、マタイでは「宣教し」(kErussette)、「天の国が近づいた」と言え、とあるが、マルコにはこのイエスの宣教命令はない。
マルコでも、宣教派遣の話のはずであるが、マルコのイエスの言葉の中には、何を「宣教」するかは、一切言われていない。
導入では、単に「悪霊を追い出す権威を与えた」とあるだけ。
ただし、マルコの結びの句(6:12)には、出かけた弟子たちは「悔い改めるように宣ベ伝えた」とある。「天の国」ではなく「悔い改め」の宣教だったことをマルコは示している。
マタイは、それをQ資料に基づき、「天の国」の宣教に変えたのである。
ルカもマルコの並行である参ルカ9:2で、マルコでは言われていない「神の国」を宣ベ伝えることが派遣目的の一つに変更させた。
それに加え、Q資料の参ルカ10:9,11でも「神の国が近づいた」、言うことが、弟子派遣の目的であることとしている。
つまり、「神の国」理念を中心にイエスと弟子たちの活動を描くのは「Q資料」を編纂したユダヤ人キリスト信者を中心としたグループであり、マルコは彼らとは一線を画していた。
むしろ、彼らとは別の流れの「悔い改め」宣教グループであったことが分かる。
マタイは「天の国」重視をキリスト教の中心に据えて、福音書を展開していくが、ルカは、Q資料に書かれている場合に限りそのまま採用する、という感覚である。
ヨハネには、マタイのような「天の国」、ルカの「神の国」信奉の記述は、登場しない。
とすれば、当然ながら、イエスが「天の国」あるいは「神の国」の宣教を目的に弟子派遣をした、という信憑性は甚だしく疑わしいものとなる。
ただし、最初期の弟子集団の中に「神の国」もしくは「天の国」信奉者集団が存在したことは確かであろう。
それでも、すべてのキリスト信者が「神の国」信奉者ではないことは、マルコの「悔い改め」宣教集団の存在からして、明らかであろう。
マタイの「弱っている者を癒し、死人を甦らせ、癩病人を清め、悪霊を追い出せ」は、マルコ6:13の「多くの悪霊を追い出して、油を塗って多くの病弱な人を癒した」を強調させたものだろう。
マタイの「死人を甦らせ、癩病人を清め」という句はマルコにはない。
マタイはマルコの病気治療物語を極力縮めて掲載する傾向にあるのに、奇跡話や噂話の一覧表を並べる時には、盛り盛りにしてくれる。
マタイの「あなた方はただで受けたのだ。ただで与えよ」というイエスのロギオンがどこから来たのか、ルカにも登場しないので不明。
マタイが単独で知り得たロギオンであろうか、あるいはマタイが参照したQ資料にはこのロギオンが組み込まれていたのか。
権力者や為政者にとって都合の良い論理にしか思えないが、仮にイエス自身のロギオンだとしても、どのような状況で誰に対して語られたのか状況が不明なので、真意は不明。
マタイでは、宣教に対する指示説教の中の一文とされているので、WTは「宣教」に対する無償の奉仕の根拠としている。
*** 目 10/6 22–23ページ 宗教は有料であるべきですか ***
イエスは,良いたよりを宣べ伝え,病気の人を治し,死人をよみがえらせるよう使徒たちに命じた際,「あなた方はただで受けたのです,ただで与えなさい」と言いました。(マタイ 10:7,8)イエスの真の追随者は,報酬を求めるべきではなかったのです。イエスご自身,無償で人々のために奉仕することによって模範を示しました。
使徒パウロは,イエスの型に倣い,「価なしに」奉仕を行ないました。(コリント第一 9:18)資金が必要な時には,天幕作りの仕事をしました。(使徒 18:1‐3)それゆえ,自分や仲間の宣教者について,『わたしたちは多くの人のように神の言葉を売り歩く者ではない』と言うことができました。
*** 塔03 8/1 20ページ 「ただで受けたのです,ただで与えなさい」 ***
残念ながら,キリストの追随者であると唱える多くの人は,同じような,進んで『ただで与える』態度を示してきませんでした。それどころか,キリスト教世界の宗教指導者の多くは,「ただ代価のために教え」ています。(ミカ 3:11)信徒たちから集めたお金で裕福になった宗教指導者さえいます。1989年には,米国の福音伝道師が45年の刑を言い渡されました。なぜでしょうか。「支持者たちから何百万ドルもだましとり,その一部で,家や車を幾つも購入し,旅行に出かけ,エアコン付きの犬小屋まで買った」のです。―ピープルズ・デーリー・グラフィック紙(英語),1989年10月7日付。
現代のテレビ伝道師のようなWT統治体のメンバー様は、「ただで与える」態度を示しているのだろうか…(笑)
残念ながら、キリストの追随者であると唱える多くの人は、同じような、進んで『ただで与える』態度を示してきませんでした。
「支持者たちから何百万ドルもだましとり、その一部で…」金無垢やプラチナにダイヤを散りばめたロレックスのデイトナ「…まで買った」のです。
信徒たちには無償で奉仕をさせている中に、隠れるようにマッカランの12年物や18年物もしかしたら25年物まで箱買いしている「宗教指導者さえいます」。
どの口が言う。コントにしか、思えない強大なブーメラン記事ですね。
「ただで与える」のは「指導者」や「統治体」ではなく、だまされている「信徒」の側のようですが…
マルコ
10そして彼らに言った、「どこでも、ある家にはいったら、そこから出るまではその家にとどまりなさい。11そしてあなた方を受け入れず、聞くこともしない土地があれば、そこから出て行く時に、彼らに対する証のために、足の裏の土をはたき落としなさい。
マタイ
10道中袋も、二枚の下着も、履物も、杖も持つな。何故なら、働き人はその食物にふさわしいからである。11町か村に入ったら、その中で誰がふさわしいか調べよ。そして、出て行くまでそのもとに留まれ。12その家に入ったら、家に挨拶せよ。13もしもその家がふさわしければ、あなた方の(挨拶の)平安がその家へと行くようにせよ。もしもふさわしくなければ、あなた方の平安をあなた方自身に戻って来させるがよい。14またあなた方を迎え入れず、あなた方の言葉を聞くこともしない者がいれば、その家や町から出る時に、あなた方の足の埃をはたき落としなさい。
ルカ9
4そしてどこかの家に入ったら、そこにとどまり、そこから出かけるようにせよ。5そしてあなた方を受け入れない者がいれば、その町から出かける時に、彼らに対する証のために、あなた方の足から埃をはたき落とせ。
参ルカ10
5家に入ったらまず、この家に平安あれ、と言え。6もしもそこに平安の子がいれば、あなた方の平安がその者の上にとどまるであろう。さもなければ、その平安はあなた方の上にもどって来る。7その家に滞在して、出されたものを飲み食いせよ。何故なら働き人はその報酬にふさわしいからである。家から家へと移るな。8また一つの町に入って、人々があなた方を受け入れたら、あなた方に出されるものを食べよ。9またその町にいる病人を癒し、彼らに、あなた方のところに神の国が近づいた、と言え。10もしも一つの町に入って、人々があなた方を受け入れなかったら、その町の大通りに出て、言え、11我々の足にくっついた汝らの町の埃を、汝らに向けて払い落す。むしろ、神の国は近づいた、ということを認識せよ、と。
マルコは「どこでも、ある家にはいったら、そこから出るまではその家にとどまりなさい」。
マタイは、「町か村に入ったら、その中で誰がふさわしいか調べよ。そして、出て行くまでそのもとに留まれ」。
ルカ9は、「そしてどこかの家に入ったら、そこにとどまり、そこから出かけるようにせよ」。
ルカ9は、マルコのぎこちない語順を修正しながら写していることがわかる。
それに対して、マタイは、マルコの「家」に対して「町」か「村」に入ったら、とある。
参ルカ10は、「家」に入ったら、とあり、マタイとは異なる。
しかし、8節以降は、「家」ではなく、「町」という語に変わる。
Q資料の時点で、「家」とする伝承と「町」とする伝承が組み合わされていたのだろう。
マタイ10:12「その家に入ったら、家に挨拶せよ」は、参ルカ10の「家に入ったらまず、この家に平安あれ、と言え」を言い換えたものである。
マルコの「どこでも、ある家に入ったら、そこから出るまではその家にとどまりなさい」とは異なる内容である。
つまり、マタイのこの部分はマルコではなく、参ルカ10のQ資料と同じ資料を採用したものと推定できる。
マルコの「そしてあなた方を受け入れず、聞くこともしない土地があれば、そこから出て行く時に、彼らに対する証のために、足の裏の土をはたき落としなさい」。
マタイは「またあなた方を迎え入れず、あなた方の言葉を聞くこともしない者がいれば、その家や町から出る時に、あなた方の足の埃をはたき落としなさい」。
マタイは「その家に入ったら、家に挨拶せよ。もしもその家がふさわしければ、あなた方の(挨拶の)平安がその家へと行くようにせよ。もしもふさわしくなければ、あなた方の平安をあなた方自身に戻って来させるがよい」、という句を付加しているが、マルコには登場しない。
並行のルカ9は、「そしてあなた方を受け入れない者がいれば、その町から出かける時に、彼らに対する証のために、あなた方の足から埃をはたき落とせ」。
ルカ9には、「彼らに対する証のために」という句が付加されているが、マルコには登場しないマタイの句は登場しない。
しかしながら、参ルカ10には、マルコにはないマタイの句と同じ趣旨の句が登場する。
「家に入ったらまず、この家に平安あれ、と言え。もしもそこに平安の子がいれば、あなた方の平安がその者の上にとどまるであろう。さもなければ、その平安はあなた方の上にもどって来る」。
マタイの「挨拶せよ」(aspasasthe)に対してルカは「平安あれ」(eirEnE)であるが、マタイもルカも、ユダヤ人の挨拶の習慣を前提にしている。
当時のユダヤ人の挨拶が出会った時も別れる時も「シャーローム(平安、平和)」というものであり、その習慣を知っていれば同じことを言っていることが理解できる。
言霊信仰と同様に、言葉が事柄そのものを運ぶ、という発想から語られている。
つまり、「平安あれ」と挨拶すれば、その言葉にのって、「平安」そのものが相手のもとに届く、という発想である。
しかし、相手がその「挨拶」にふさわしくない人間であるなら、自分が発した「言葉」にのった「平安」は相手には届かないことになる。
ルカは「言葉」にのって行った「平安」そのものが、自ら「戻って来る」というが、マタイは「平安」を自分のもとに「戻って来させる」ようにせよ、と言う。
「来させよう」としているのはマタイであり、マタイの偏狭さが滲み出ている。
ここでも、マタイはQ資料とマルコ資料を組み合わせて、十二使徒派遣物語を編集していることがわかる。
NWTはマタイ41年ころ、ルカ56-58年ころ、マルコは60-65年ころ書き終えられた、としている。
マタイやルカがマルコなしでどのように福音書を書き上げたのか、納得のいく説明して欲しいものだ。
「聖書全体は神の霊感を受けたもの」であるのだから、聖霊がマタイやルカを動かして、書かせたものなのでしょうが…
マルコ
10そして彼らに言った、「どこでも、ある家にはいったら、そこから出るまではその家にとどまりなさい。
マタイ
10道中袋も、二枚の下着も、履物も、杖も持つな。何故なら、働き人はその食物にふさわしいからである。11「町か村に入ったら、その中で誰がふさわしいか調べよ。そして、出て行くまでそのもとに留まれ」。
参ルカ10
7その家に滞在して、出されたものを飲み食いせよ。何故なら働き人はその報酬にふさわしいからである。家から家へと移るな。8また一つの町に入って、人々があなた方を受け入れたら、あなた方に出されるものを食べよ」。
マタイの「何故なら働き人はその食物にふさわしいからである」という趣旨のロギオンはマタイと共通している。ただし、マタイの「報酬」に対して、ルカは「食物」。
しかしながら、マタイとルカでは置いている位置が違う。
マタイでは「道中袋…持つな」という指示の後に置かれているが、ルカでは「その家に滞在して、出されたものを飲み食いせよ」という指示の後に置かれている。
マタイとルカで同じロギオンが双方で置かれている位置が違うということはどちらかがQ資料に出て来るロギオンの順番変えて、編集しなおした、とは考え難い。
おそらく、マタイが参照したQ資料にはマタイの順番に書かれており、ルカが参照したQ資料にはルカの順番に書かれていたのであろう。
つまり、Q資料と言っても、すべてが同じ文言だったわけではなく、それぞれ口伝段階で異なる表現の伝承記録が複数あったということなのであろう。
マタイ・ルカの共通資料=Q資料とされているが、二人とも同じ辞書を使っていたかのように同じ文言のQ資料を使っていたのではなく、口伝段階で異なる表現や異なる編集の伝承資料を参照していたものと考えられる。
ルカでは「一つの町に入って」とあるが、マタイでは「町か村に入ったら」。「村」が付加されている。
マルコは「どこでもある家に入ったら」であり、「町」や「村」ではない。
マタイのQ資料には「村」が入っていたのかもしれない。
マタイの「その中で誰がふさわしいか調べよ」は、マルコにもルカにも出て来ない。
おそらく、マタイの付加。
参ルカ10「またその町にいる病人を癒し、彼らに、あなた方のところに神の国が近づいた、と言え」。
参ルカ10もしも一つの町に入って、人々があなた方を受け入れなかったら、その町の大通りに出て、言え、「我々の足にくっついた汝らの町の埃を、汝らに向けて払い落す。むしろ、神の国は近づいた、ということを認識せよ」、と。
参ルカ10には「町」という語が繰り返し出て来ることが理解できる。
マルコには「町」という語ではなく「家」という語が使われている」。
ルカ9では「家」とある。
つまり、並ルカ9ではマルコに基づき、「家」としたのであるが、参ルカ10ではQ資料に基づき「町」としたのであろう。
マタイは、マルコの「家」ではなく、Q資料の「町」であるが、「村」も付加されている。
マタイによる付加の可能性もあるが、ルカとは異なるQ資料を参照し、そこには「村」が付加されていた可能性もある。
マタイが参照したQ資料とルカが参照したQ資料が全く同じものではなかったことは確かであるが、参ルカ10のQ資料が「弟子派遣物語」のオリジナル伝承に近いのであろう。
マルコ
11そしてあなた方を受け入れず、聞くこともしない土地があれば、そこから出て行く時に、彼らに対する証のために、足の裏の土をはたき落としなさい。」。
マタイ
14またあなた方を迎え入れず、あなた方の言葉を聞くこともしない者がいれば、その家や町から出る時に、あなた方の足の埃をはたき落としなさい」。
ルカ9
5そしてあなた方を受け入れない者がいれば、その町から出かける時に、彼らに対する証のために、あなた方の足から埃をはたき落とせ」。
参ルカ10
10もしも一つの町に入って、人々があなた方を受け入れなかったら、その町の大通りに出て、言え、11我々の足にくっついた汝らの町の埃を、汝らに向けて払い落す。むしろ、神の国は近づいた、ということを認識せよ、と」。
マルコの「あなた方を受け入れず」に対し、マタイは「あなた方を迎え入れず」。
ルカ9は「あなた方を受け入れない者がいれば」。参ルカ10は「人々があなた方を受け入れなかったら」。
マルコでは、「受け入れる」かどうかは、個人の判断に委ねられている。
ルカも同じ趣旨で、「者」という語を付加している。「者」もいれば、「者」もいない、という前提。
しかし、マタイは、「受け入れる」か否かではなく、「迎え入れる」か否かが前提。
マタイ派のキリスト宣教者の言葉を、歓迎して「迎え入れる」か否かが、救済基準だったのであろう。
マルコの「聞くこともしない土地」に対し、マタイは「あなた方の言葉を聞くこともしない者」。
マルコの「土地」という語を省略している写本がある。(Cの第一写記他)その場合、「受け入れず、聴くこともしない人々」という趣旨になる。
同じく「土地」を省略して、関係代名詞を複数にしている写本(AD他)がある。
原文ではマルコ「受け入れず」が単数で、「聞くこともしない」が複数。
しかしながら、「受け入れず」を「土地」という単数で受けないことにより、一つの土地全体を福音を受け入れなかった土地として断罪するのを避け、複数の「聞くこともしない」人たちを対象にしていることになる。
つまり、「土地」全体ではなく、もし「聞く人々」がいるのであれば、救済は生じるという趣旨になる。
それでもこの文は「その土地を去る時に足の裏の土をはたけ」というのだから、その土地全体に対する象徴的な行為である。
その土地で耳を傾ける人が誰一人居なかったら、という意味なら、「受け入れる」人が一人でも居るなら、その土地を断罪すべきではない、という趣旨になる。
マルコの「足の裏の土」(chous)に対して、マタイは、「あなた方の足の埃」(koniorotos)。並行ルカ9も「あなた方の足から埃」(koniorotos)。
参ルカ10も「埃」(koniorotos)であるが、「汝らの町の埃」であり、マルコの並行とは異なる表現。
マタイもルカ9も「埃」で、参ルカ10も「埃」であるから、Q資料に「埃」とあった可能性もある。しかし、Q資料は「町の埃」でマルコは「足の裏の土」。
マタイの「足の埃」、ルカ9の「足から埃」は、Q資料ではなく、マルコの「土」を「埃」に変えて採用したのだろう。
マルコの「そこから出て行く時に」に対し、マタイは「その家や町から出る時に」。
ルカ9は「その町から出かける時に」。参ルカ10は「その町の大通りに出て、」。
参ルカ10は別表現であり、マタイとルカは、マルコを言い換えたもの。
マルコの「彼らに対する証のために」を、マタイは削除。
ルカ9は「彼らに対する証のために」。参ルカ10は単に「言え」。
マルコの「彼らに対する」(autois)は与格表現であるが、ルカは前置詞を付けて(epi autous)と対象をはっきりさせた。
結びの句。
マルコ
12そして出て行き、悔い改めるようにと宣ベ伝えた。13そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病弱な人を癒した。
マタイ
15アメーン、あなた方に言う、裁きの日には、その町よりもまだソドムとゴモラの地の方が耐え易いだろう。
ルカ9
6彼らは出て行って、村ごとに通って行き、いたるところで福音を伝え、治療をなした。
参ルカ10
11我々の足にくっついた汝らの町の埃を、汝らに向けて払い落す。むしろ、神の国は近づいた、ということを認識せよ、と」。
12あなた方に言う、かの日にはソドム人の方がその町よりも耐え易いだろう。13汝に禍あれ、コラジンよ、汝に禍あれ、ベツサイダよ。汝らの中でなされた力ある業がテュロスやシドンでなされたならば、彼らはとっくに荒布と灰の中に座って悔改めていただろう。14むしろテュロスやシドンの方が、裁きにおいては汝らよりも耐えやすいだろう。15また汝カファルナウムよ、汝は天まで上ったとでもいうのか。(むしろ)地獄に落ちるだろう。16あなた方に聞く者は、私に聞くのである。そしてあなた方を否定する者は私を否定するのである。私を否定する者は私を遣わされた方を否定するのである」。
マルコの「悔い改め」を宣ベ伝えを、マタイは前半で「天の国」宣教に変えた。
ルカ9も「神の国」宣教を主目的にしたが、結びでも「福音を伝えた」(euangelizomai)という一語の動詞が主目的で、「病気治療」は副次目的としている。。
マタイの裁きの宣言に、「アーメン」が付いているが、参ルカには付いていないだけで、内容は同じ。
ルカは、Q資料にヘブライ語等の外国語が出て来ると削除するか、ギリシャ語に訳しがちである。
参ルカ10の「コラジン」「ベツサイダ」に対する宣告は、マタイ11:20-24と細かい違いはあるがほぼ共通。
ユダヤ教キリスト信者の宣教を受け入れなかった町への腹いせをイエスの口に置いたQ資料の伝承記録。
マタイは「ソドム」と「ゴモラ」をセットにしているが、ルカは「ソドム」単独。
「ソドムとゴモラ」は神によって滅ぼされた都市の代名詞として用いられていた。(創世記18: 26-19:28)
旧約では基本的には対で用いられるのが常道。
逆にユダヤ贔屓のマタイがQ資料に「ソドム」とだけあったものを、「ゴモラ」をセットにして付加した可能性もある。
しかしながら、「最後の審判の日」を指し、マタイは「裁きの日」、ルカは「かの日」とユダヤ人的表現を使っている。
おそらくQ資料には「かの日」とあったのを、マタイが「裁きの日」と変えたのであろう。
とすれば、Q資料にはユダヤ的表現でソドムとゴモラはセットで書かれていたことになり、旧約にそれほど造詣が深くないルカが、「ソドム」だけを「滅びの町」の代名詞として用い、「ゴモラ」の方は削除したのだろう。
参照マタイ11:20-24、10:40
20その時、彼の力ある業の多くがなされた町々のことを非難しはじめた。その町々は悔い改めなかったからである。21「汝に禍いあれ、コラジンよ。汝に禍いあれ、ベツサイダよ。汝らの中でなされた力ある業がテュロスやシドンでなされたならば、彼らはとっくに荒布と灰をまとって悔い改めていただろう。22むしろ、汝らに言う、裁きの日には、テュロスやシドンの方が汝らよりも耐えやすいだろう。23また汝カフェルナウムよ、汝は天にまで上ったとでもいうのか。(むしろ)地獄に落ちるだろう。汝の中でなされた力ある業がソドムでなされたのなら、ソドムは今日まで残っていただろう。24むしろ汝らに言う、裁きの日は、ソドムの地の方が汝よりも耐えやすいだろう。
参照マタイ10:40
40あなた方を受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は私を遣わし給うた方を受け入れるのである。
参ルカ10
16の「あなた方に聞く者は私に聞くのである。…」と並行の参マタイ1040「あなた方を受け入れる者は私を受け入れるのである」とは同じ趣旨ではない。
ルカは「聞く者は」と言っているのであり、「聞き従う者は」と言っているのではない。
ルカが言っているのは、あなた方が語っている言葉はあなた方自身の言葉ではなく、あなた方を遣わした者(イエス)が託した言葉である。
それゆえ、あなた方の言葉を聞くということは、イエスの言葉を聞いたことになる、という趣旨。
マタイの方は、明らかにイエスの権威を傘に、宣教師の権威を認めさせようとする意図がありありの文言。
イエスの言葉を宣教する我々を受け入れる者がイエスを受け入れる者であるのだから、イエス様に受け入れてもらいたいのであれば、我々を受け入れろ、という強迫しているのである。
キリスト教会の権威者として振舞っていたイエスの弟子たちが発していた言葉がイエス伝承としてQ資料に収められていたものであろう。
ルカもマタイも弟子派遣物語の結びに、自分たちがイエスの正当な継承者であることを保証するようなこの発言をイエスの口に置いている。
面白いのは、その並行マルコ9:37のイエスの発言。
35そして座って、十二人を呼びつけた。そして彼らに言う、「もしも誰かが第一者であろうと思うなら、万人の最後の者、万人に仕える者となるがよい」。36そして一人の子どもを取り、皆の真ん中に立たせ、そして抱きあげて、彼らに言った、37これらの子どもたちの一人を私の名前の故に受け入れる者が、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、わたしではなく、私を遣わし給うた方を受け入れるのである」。
権威を誇示して、支配欲が強い「十二人」を批判するために、このイエスの発言を用いているのである。