マルコ4:30-32 <からし粒の譬え> 並行マタイ13:31-32、参照ルカ13:18-19

 

マルコ4:30-32

30そして言った、「神の国をどのようになぞらえようか。どういう譬えで表現しようか。31からし粒に譬えように蒔かれる時は地にあるどの種よりも小さい32しかし蒔かれると成長して、いかなる野菜よりも大きくなり、大きな枝を出し、空の鳥がその陰に宿ることができるほどになる」。

 

 

マタイ13:31-32

31また他の譬えを彼らに提供して言った、「天の国はからし粒に似ている人はそれをとって自分のまいた。32ほかのどの種よりも小さいが、成長すると野菜などよりも大きくなり木になって、空の鳥が来てその枝に宿るほどになる」。

 

 

ルカ13:18-19

18そこで言った、「神の国は何に似ているか。何になぞらえようか。19からし粒に似ている人がそれをとって自分の庭にまいた。そして成長して、木になったそして空の鳥がその枝に宿った」。

 

 

 

 

 

マタイとルカは、マルコとは異なる点の多くの個所で一致している。

 

マルコ4:31 「(からし粒)に譬えよう」(原文:pOs homoiOsOmen)が、マタイとルカでは、共に「からし粒」に似ている(原文:homoia estin)になっている。

 

マルコ4:31では、単に「まかれる時は」(原文:hos hotan aparE)とあるだけであるが、マタイとルカでは、共にその前に、「人がそれをとって」(原文:hon labOn anthrOpos)という句が入っている。

 

マルコ4:32 の「成長して」(原文:anabainei)という動詞は、マタイとルカでは、意味は同じであるが、共に別の動詞(原文:auxEthE)を用いている。

 

マルコ4:32には「木になった」という表現は登場しないが、マタイとルカには、前置詞の有無の違いはあるものの、共に原文にginetai (eis) dendronという句が付いている。(マタイにはeis=toという前置詞が付いていない)

 

 

 

 

マタイはマルコと並行の位置に置いているが、ルカはマルコとの並行の位置ではなく、13章に置いている。

 

ルカ福音書の構造は、序論を除くと大まかに分類すると大きく分けて3つの部分で構成されている。

 

序論部分は、1-2章で、序文と誕生物語で構成されている。

 

第一部は3:1-9:50までで、基本的にはマルコ1:1-6:44までを踏襲している。

 

第二部は、9:51-18:14までで、マルコ資料以外の話を編纂している。

 

第三部は、18:15-24:53までで、マルコ10:13以降の受難物語までの話を踏襲している。

 

 

 

ルカ13章に登場する<からし粒の譬え>伝承は、第二部の位置に属している。

 

マルコでは、この<からし粒の譬え>伝承は、単独の伝承として登場するが、マタイとルカでは、どちらも<パン種の譬え>(マタイ13:33、ルカ13:20-21)と対になって登場する。

 

つまり、この譬話は、マルコが用いた資料とは別に、Q資料にも伝えられており、Q資料の方には<パン種の譬え>と対になって伝承されていたものと考えられる。

 

そして、ルカはマルコではなくQ資料からそのまま写し、マタイはQ資料とマルコを合成した形で編集したものと考えられるのである。

 

 

 

 

Q資料のギリシャ語をアラム語に戻してみると、かなりきれいな語呂合わせがなされているという。(M.Black An Aramaic to the Gospels and Ads,3rd ed. 1967, p165)

 

「まく」(zera’)と「より小さい」(zeer)、「成長する」(rebbi)と「より大きい」(rabba)となるそうである。

 

 

つまり、この譬は、<パン種の譬え>と対で、アラム語で伝承化されていたものを、ギリシャ語に訳されて、Q資料に納められたものと想像できる。

 

 

マルコの伝承にしても、Q資料と大差なく、単独の伝承として取り上げられており、マルコ自身の編集の跡も特に見られない。

 

 

 

マルコ自身がこの伝承をどのように解釈したのかは、前後関係から判断する以外にない。

 

マタイは「彼らに」とイエスが語った対象を「弟子たち」に想定しているが、マルコでは話された具体的な状況とどのような人物を対象にして語られたのかが書かれていない。

 

ルカにおいても、誰に対して語られた譬えなのかは具体的には明記していないが、文脈からすれば、「群衆」に対して語ったものと想定している。

 

 

しかしながら、ルカはイエスの発言が誰に対してかられたものかを単純に3つに分類している。実際にイエスが歴史的現実として語った対象を正確に記そうというのではなく、自分が考えているキリスト教のドグマを念頭に置き、対象を3つに分類しているのである。

 

第一は、キリスト教の説教とみなし得るイエスの言葉は、その対象を「弟子たち」語ったものと分類している。

 

第二は、イエスの言葉が対象に対して、幾分かでもマイナスのイメージを含んでいたり、話を聞いても理解しない者たちが対象となっている場合には、「群衆」に対して語ったものに分類している。

ルカにとって、「群衆」とは話を聞いても理解しない「烏合の衆」の代名詞的存在である。

 

実際には、ルカはここに自分たちのキリスト教会がやっている宣教説教、あるいはイエスの奇跡話を聞くことは聞いても信者にはならなかった人々を読み込んでいるのだろう。

それは同時に、イエスを排斥し、キリスト教を拒絶した「ユダヤ人」をも投影しているのだろう。

 

第三は、イエスの言葉に敵対的な反応を示す場合には、パリサイ派、律法学者たちを対象とした話に区分している。ルカは彼らをいわば「呪いの対象」とみなすことにしたのである。

 

ちなみにルカが、ユダヤ教の宗派の中でも「パリサイ派」をイエスとの敵対関係にある宗派として描いていることからしてもルカ福音書は70年のエルサレム崩壊以降の成立であることと推定できる。70年以降に、ユダヤ教の主流は「パリサイ派」になったからである。

 

 

閑話休題。

 

 

Q資料伝承においては、<パン種の譬え>と対で、ごく小さなパン種がパン全体を醗酵させることの比喩として神の国が語られていることからして、この譬も同様の趣旨で語られたものと想定可能できる。

 

 

つまり、神の国とは、はじめは非常に小さなものに過ぎない存在であるかもしれないが、やがては全体に影響を与えるような驚異的な大きな存在になることの比喩として語られたのであろう。

 

ただし、イエス自身が、神の国における何を想定して、大きさの対比を比喩したものであるのか、具体的な事象、あるいは何かの「もの」に関しての比喩であるのかは推定不能である。

 

 

カトリックの学者は、はじめの小ささに比べて、最後の大きさが驚異的である、という対象が語られているが、その小さなものから大きなものにいたるまでの過程の成長が無視されているわけではない、と強調する。

 

神の国もまた自然的に成長、発展するものである、とこの譬を解釈する。(O.Kuss Zum Sinngehalt des Doppelgleichnisses vom Senfkorn und Saueerteig, Roma,1959,II,S,73-85)

 

一方、ブルトマンは神の国は人間の想像を拒絶するほど教的な大きさの彼岸的絶対的存在であると強調する。(R.Bultmann,Jesus,S34f,邦訳「イエス」未来社 P39~)

 

 

結果としての神の国を脅威的な大きさとみなし、その対照となる小さな出発点を何に想定するかによって、この譬を解釈しようとするのが一般的である。

 

①小さい出発点=イエスもしくは神による派遣と想定し、大きいもの=神の国、と解釈するもの。(J.Jeremias Die Gleishnisse Jesu, 5, AUFL.,s.130)

 

②小さい出発点=イエスの集団→大きいもの=神の国。

(W.Michaelis, Die Gleichnise Jesu, Hamburg, 1956, S.57f.の解釈)

 

③小さい出発点=神の国についての言葉→大きいもの=神の国自体。

 

③の解釈は、<種まきの譬えの解釈 4:14-20>で、種=言葉となっているからである。

 

しかしながら、14-20節はあるキリスト教派の伝統的解釈の伝承をイエスの口に置いたものであるが、この譬えはイエス自身による言葉である。

 

 

イエスと伝統的正統派のキリスト教とでは、思想的に対立関係にある。

 

「種」という言葉をイエスと伝統的キリスト教の指導者が必ずしも同じ趣旨のアレゴリーとして語っているとは考えにくい。

 

最初の二つの解釈はイエスを実際のイエス自身ではなくキリスト化した上での人格、もしくはキリスト化されたイエスと共に常に行動したとされる弟子集団がこの譬話において比喩されているという前提での解釈である

 

 

キリスト教成立以前に生きていたイエスが、弟子集団により構築された「キリスト像」とおなじ「キリスト像」を関心の中心としていた、と無条件で解釈するには無理があるように思う。

 

イエス自身はキリスト教徒のキリスト信仰とは無関係であり、単に自分が生きていた状況に向き合い自分の信仰あるいは信念に従って生きていただけであろう。

 

ユダヤ教の世界で生きていたことは間違いないが、自分自身が何者であるかを示そうとして生きていたわけではない。

 

自分がメシア、あるいはキリストであることを示そうなどという意識は微塵もなかったはずである。

 

 

キリスト教におけるキリスト論は、イエス自身から生じたものではなく、イエスの死後にメシア信仰のユダヤ教徒がイエスをキリストに仕立てて成立させたものであると思われる。

 

とすれば、この譬はイエスを神の国を唱道する救済者あるいは神の国へ導く指導者、人間と神との仲介者というようなキリスト教ドグマの概念とは無関係にイエスが話した譬えと考えた方がよい良いように思える。

 

 

具体的には、大きいもの=「神の国」という表現を「神の国」を待望するようにというキリスト教的希望あるいは信仰を求めて話したのではないように思えるのである。

 

 

マルコにおけるこの譬えは確かに「神の国」に関する譬えである。しかし、「小さいもの」=「からし粒」の比喩であるが、「大きいもの」=「大きな木」=「神の国」とは比喩されているわけではない。

 

「大きな木」=「神の国」としているのはマタイとルカでありマルコではない。マルコにおいては、この「譬全体」が「神の国」の比喩だ、という趣旨である。

 

 

前段の譬え(26-29<おのずと成長する種の譬え>)が、「神の国」に関する譬えでありながら、キリスト教ドグマ的に「神の国」を信仰のうちに待望すべしという理念とは調和しなかったように、この譬もキリスト教的に「神の国」信仰を教化させる話ではなかったのではなかろうか。

 

もし、実際にイエスが語った譬えであるとすれば、当時のユダヤ教宗教家が唱道するようなメシアによる神の国の到来を待望する宗教理念と同調するような趣旨で「神の国」という言葉を使用するはずがない。

 

イエスとユダヤ教宗教家とはあくまでも対立関係にあり、彼らによってイエスは殺害されたのである。

 

前段の「種の譬え」で、種は大地の恵みによっておのずと成長するのであり、農夫の不断の努力の賜物として収穫するのではない。

 

「神の国」というものが実体として存在するのであれば、農夫が種をまいた後は、自然の恵みに感謝しながら成長を待ちつつ収穫を喜ぶことができる社会ではないか、というのがイエスの主張であった。

 

この譬において、イエスが具体的には何を比喩して「神の国」としているのかは不明であるが、もしも「神の国」という実体があるのであれば…、という趣旨で、ご立派なユダヤ教宗教家の唱える宗教理念を批判したものであろうと考えられる。

 

彼らは「神の国」「神の国」大仰に騒ぎ立てるが、もしも「神の国」が実体としてあるのであれば、ごく小さい「からし粒の種」の存在を無視して、「神の国」など存在するはずもなかろうではないか…、という意図で発言された言葉のように思えるのである。

 

イエス自身のユダヤ教に対する批判的精神からすれば、「神の国」を理想社会とする宗教理念を前提に「神の国」という言葉を使用したのではないように思える。

 

むしろ、もしも「神の国」というようなものがあるとすれば、「神の国」というような大層な宗教理念を廃棄し、からし種一粒のような現実に存在する極小さな問題から出発すべきではなかろうか…、と言いたかったように思えるのである。

 

 

イエスの活動拠点がガリラヤであったことを考えると、エルサレム中心のユダヤ主義に圧政的に支配されていたガリラヤの民衆に対して共通意識をもって語ったものと想像される。

 

支配者側から威圧的高圧的に押し付けられる「神の国」イデオロギーに対して、矮小なものとしか受け入れられないガリラヤの民衆に対して常に密着しつつ、慰めと怨嗟を吐露させたのが、この譬の本質にあるように思えるのである。

 

 

マルコが、前段の<おのずと成長する種の譬え>とこの<からし粒の譬え>とを並べて置いたのは、「神の国」礼賛信仰に批判的なイエスの精神をこの二つの譬えに見出したからではなかろうか。

 

「大地がおのずと実を結ぶ」というモチーフと「小さな一粒のからし種が巨大に成長する」というモチーフは威圧的で支配的な民衆を委縮させるイメージとは逆行している。

 

むしろ、抑圧的な閉鎖的なイメージから脱却して、無限に広がっていく可能性を思えるイメージである。

 

マルコ当時のキリスト教は、イエスをキリスト化し「神の国」の盟主として祭り上げ、指導者たちは信者たちに対しては威圧的、支配的であったことは使徒行伝の記録からも明らかである。

 

そこに「神の国」という支配者意識が内包された宗教観念に対して批判的なイメージを内包するイエスのロギアをマルコはここに見出したのであろう。

 

つまり、マルコは4:1-20で展開した弟子集団における閉鎖的な権威主義に対する批判をこれらの「神の国」に関するイエスの譬えに認めたのであろう。

 

弟子集団が「神の国」「神の国」と言って「神の国」信仰を唱道し、キリスト教の主流であるかのように支配的に振舞っているが、イエスはむしろそのような「神の国」信仰を前提とした待望論には批判的である。

 

むしろ、被支配者が被っている矮小化されている現実と闘わずして、「神の国」待望信仰になんぞに支配されるべきではない。

 

「神の国」信仰が重要だというのであれば、まず「神の国」信仰を前提とせずに、現実社会の弱きものの実態を直視した上で、「神の国」を語るべきであろう、という主張がイエスの主張であり、マルコの主張のように思えるのである。

 

「神の国」信仰を展開させていたユダヤ教を当時のイエスが「神の国」という表現を批判的に用いていたのだから、キリスト教においてイエスに批判されるべきなのは、当然エルサレムを中心とした「弟子集団」のキリスト教であろう。

 

なぜなら、「神の国」信仰のお先棒を担いでおり、他のキリスト教の宗派に対して支配的権威を主張しているのは彼らのキリスト教集団であるのだから、というマルコの意図が、隠されているのであろう。

 

 

 

 

 

マルコ4:30-32 NWT

30 そして[イエス]は続けてこう言われた。「わたしたちはの王国を何にたとえたらよいでしょうか。あるいは,どんな例えでそれを説明しましょうか。31 からしの種粒のようです。地面にまかれたとき,それは地上のあらゆる種の中で一番小さなものでした― 32 しかしいったんまかれると,生え出て来て,ほかのすべての野菜より大きくなり,大きな枝を出して,天の鳥たちがその陰に宿り場を見いだせるほどになるのです」。

 

 

マタイ13:31-32

31 [イエス]は彼らに別の例えを示してこう言われた。「天の王国はからしの種粒のようです。人がそれを取って自分の畑に植えました。32 実際それはあらゆる種の中で一番小さなものですが,成長したときには野菜のうちで一番大きくて木のようになり,天の鳥たちが来て,その枝の間に宿り場を見つけます」。

 

 

ルカ13:18-19

18 それで[イエス]はさらにこう言われた。「の王国は何に似ているでしょうか。それを何になぞらえましょうか。19 それは,人が取って庭にまいたからしの種粒のようです。それは成長して木となり,天の鳥たちはその枝を宿り場としたのです」。

 

 

 

 

 

原文には書かれていない表現を字義訳と称して「訳」している箇所がいくつもあるが、大きな問題ではないのでここの箇所は割愛することとし、WTの解釈に関してのみ取り上げる。

 

 

 

 

WTの解釈も、基本的にはキリスト教の伝統的解釈における③小さい出発点=神の国についての言葉→大きいもの=神の国自体という解釈を踏襲したものである。

 

基本的には「小さいもの」=「王国の音信」、「大きいもの」=「神の王国」という解釈である。

 

WTはマタイを最初に書かれた福音書としているので、聖書霊感説に従って読むと、この譬話は一世紀の「弟子たち」に真理を証しするために書かれた譬話として読むことになる。

 

 

ところが、驚異的な成長に関する解釈が2014年以降では、一世紀の「弟子たち」を無視した解釈に変更されている。それまでの解釈を根本的に否定する解釈に変更されているのである

 

*** 国 9章 90ページ 11–12節 宣べ伝える業の結果 ― 畑は「収穫を待って白く色づいて」いる ***

11 からしの種粒のたとえ話。人がからしの種粒を植えると,それは成長して木になり,鳥たちがそこに宿ります。(マタイ 13:31,32を読む。)このたとえ話では,種の成長に関するどんな側面が強調されていますか。(1)成長の規模は目覚ましいものです。「あらゆる種の中で一番小さなもの」が,「大きな枝」のある木になります。(マル 4:31,32)(2)成長は保証されています。種は「いったんまかれると,生え出て来」る,つまり成長します。「生え出て来」る,とイエスは言い切っており,その成長を止めることはできません。(3)成長する木は鳥たちを引き寄せ,その宿り場となります。「天の鳥たちが来て」,「その陰に宿り場を見いだ」す,とあるとおりです。この3つの側面は,現代の霊的収穫にどのように当てはまるでしょうか。

12 (1)成長の規模: このたとえ話は,王国の音信の成長とクリスチャン会衆の成長を際立たせています。1919年以来,収穫の熱心な働き人たちは,回復されたクリスチャン会衆に集め入れられてきました。当初,働き人の数は少数でしたが,急速に増えました。実際,1900年代初めから現在に至るまでのその成長は驚異的なものです。(イザ 60:22)(2)保証: クリスチャン会衆の成長を止めることはできませんでした。神の敵対者たちは,小さな種粒の上に反対という岩を積み上げてきましたが,種はあらゆる障害を物ともせずに成長し続けました。(イザ 54:17)(3)宿り場: 木に宿り場を見いだす「天の鳥たち」は,240ほどの国や地域から来た,心の正直な幾百万もの人々を表わしています。その人々は,王国の音信にこたえ応じてクリスチャン会衆の一員となりました。(エゼ 17:23)そして会衆で霊的な食物,さわやかさ,保護を得ています。―イザ 32:1,2; 54:13。

 

 

2014年発行の「神の国は支配している」の書籍では、1919年以降に適用して、JW組織の拡大に解釈しているが、それ以前の解釈は全く異なっていた。

 

 

*** 救 12章 206–208ページ 4–9節 今や荒廃に直面するキリスト教世界とユダヤ教 ***

4 「天の王国はからしの種粒に似ています。人がそれを取って自分の畑に植えました。実にそれはすべての種の中でいちばん小さいものですが,成長したときには野菜のうちでいちばん大きくて木のようになり,天の鳥たちが来て,その枝の間に宿り場を見つけるのです」― マタイ 13:31,32。マルコ 4:30‐32。

5 この例え話の中でイエス・キリストは「天の王国」を引き合いに出しながら,その偽造物のことを考えておられました。これは不思議なことではありません。このすぐ前の例え話の中で,偽クリスチャンがおびただしく生み出されることを示しておられるからです。イエスは立派な小麦の種を畑にまく人のように,比喩的な「りっぱな種」,「王国の子たち」をまいていました。ところが,例え話の中で人びとが眠っている間に夜敵がやって来て,同じ畑に雑草の種,のぎのある毒麦の種をまいたように,後日,バプテスマを受けて信仰を表明したクリスチャンが目をさまして誤信や詐称者が入り込まないよう警戒するのを怠った時,サタン悪魔は真の「王国の子たち」の中に偽クリスチャンをまきました。そのために神の予定の時,つまり今日わたしたちが生を享けている「事物の体制の終結」の時期に真のクリスチャンを偽のそれから分けることが必要になりました。―マタイ 13:24‐30,36‐43。同47‐50と比べてください。

6 主イエス・キリストは世界が真のキリスト教に改宗されることを期待も予言もなさいませんでした。人類世界全体がいつの日か実際に「王国の子たち」になるとは予言しませんでした。「王国の子たち」になる見込みのある者たちに対して彼はこう言われました。「あなたがたの父は,あなたがたにこれらのものが必要なことを知っておられるのです。でもやはり,絶えず神の王国を求めてゆきなさい。そうすれば,これらのものはあなたがたに加えられるのです。恐れてはなりません,小さな群れよ。あなたがたの父は,あなたがたに王国を与えることをよしとされたからです」。(ルカ 12:30‐32)からし種の例え話を述べてから約65年後,復活して栄光を受けたイエス・キリストは使徒ヨハネに啓示を伝えて,「王国の子たち」である霊的なイスラエル人の数は一万二千の十二倍であることを明らかにしました。これと現代のキリスト教世界の会員数を,つまり14万4,000人と9億6,779万3,450人とを比べてみてください。―啓示 7:4‐8。

7 それでイエス・キリストは,真のキリスト教,「天の王国」は鳥が枝々に宿ったり,その下に十分の木陰を見いだせるような比喩的な「木」になるのではないことを十分承知しておられました。「王国のことば」を表わす立派な種がまかれる四種類の土について前に述べた例え話の中で,イエスは鳥のことを述べました。その「鳥」はだれのようなものであると説明されましたか。「邪悪な者」「悪魔」です。つまり,邪悪な悪魔の地上の手先です。(マタイ 13:1‐8,18‐23。ルカ 8:4‐8,11‐15)マルコ 4章15節はそれをサタンと呼んでいます。それで,同様の一連の例え話の同じ文脈の中で指摘されている鳥は,同様のものを表わしていると考えるのはもっともなことでしょう。ゆえに,からしの木に宿り場を見いだす鳥は,「邪悪な者」「悪魔サタン」の手先を表わしていますそれは小麦と雑草の例え話の中の「雑草」である偽の小麦に相当します。「邪悪な者の子たち」なのです。

8 それは偽造物である偽物の「天の王国」すなわちキリスト教世界す。同世界はそれら象徴的な鳥,「邪悪な者の子たち」で満ちています。今日,それは彼らすべてを収容できるほど大きなものです。例え話の中でからしの種粒をまいた「人」は,「人の子」イエス・キリストを表わしていました。しかし,それを異常に成育させるため,悪魔サタンは徐々に真のキリスト教にとっては異質的な分子,偽クリスチャンを侵入させました。西暦4世紀にはサタンはローマ帝国の主要な政治家すなわちコンスタンチヌス大帝によって徹底的な措置を講じました。西暦312年,この血に汚れた軍人はキリスト教に,とは言え実際には将兵たちが奉じた当時の背教したキリスト教に改宗した旨公言しました。この野心的な人物は,政治上の対抗者たちを征服して,ローマ帝国の皇帝の地位を獲得しました。そして,そのような資格で異教ローマの宗教の最高僧院長もしくは大祭司を勤めました。彼はクリスチャンと称したにもかかわらず,この異教の宗教上の称号や地位や権威を固守したのです。

9 最高僧院長であるコンスタンチヌス皇帝はあたかもクリスチャン会衆の見える頭でもあるかのように振る舞い,西暦325年,小アジアのニケアでいわゆる「司教たち」,自称クリスチャンの諸会衆の主宰監督たちの宗教会議を召集しました。その宗教会議で最高僧院長コンスタンチヌスは三位一体論の側を支持して,神は三位の神,三つの見えない位格を有する神,すなわち父なる神,子なる神また聖霊なる神であることを定め,神とはだれでどんな方かをめぐって争われた監督たちの論争に結着をつけました。“三位一体”というこの非聖書的な教理は今日に至るまで,キリスト教世界の教会諸派の基本的な教理となっています。多くの世俗的な「鳥」は,この異常に成育したからしの「木」に群がって宿っています。彼らは皆,「王国の子たち」のように天に行って,説明し難いこの神秘的な三位の神にまみえることを期待しているのです。確かに,「からしの種粒」に関する例え話は見せかけの「神の王国」であるキリスト教世界のうちに成就しています

 

 

 

 

それまでは、曲がりなりにも、1世紀に語られたこの譬話を当時の弟子たちに語られた譬と解釈しており、歴史的視点から「キリスト教世界」という偽の「神の王国」に成就しており、成長した木に宿り場を見出す「鳥」とは「邪悪な者、サタンの手先」と解釈していた。

 

ところが、「からしの種粒」=「神の音信」という解釈は変えずに、一世紀に語られたイエスの言葉をキリスト教宣教の歴史を無視し、1919年以降のWT組織に成就する言葉として解釈することにしたのである。

 

 

その結果、この「神の国」とは「偽の神の王国」という解釈から「真の神の王国」に、「鳥」とは「サタンの手先」から「クリスチャン会衆」に成就する預言として真逆に解釈変更することにしたのである。

 

聖霊(現在では「聖なる力」と呼ぶようであるが…)を神から注がれているはずの唯一の組織であるはずの統治体の解釈によれば、「偽の神の王国」が「真の神の王国」に成長したというのだ。「サタンの支配下にあった王国」が「神の支配下にある王国」に様変わりしたというのである。

 

統治体はイエスの弟子の正統な継承者であると唱えながら、原始キリスト教の宣教や歴史を無視し、聖書とされる書物の言葉と二十世紀の自教団にとって都合の良いところだけを点と点で結び、それまでの解釈とは真逆の解釈を真理としたのである。

 

手前味噌、我田引、水厚顔無恥、にも程があると言いたい。それにもかかわらず神の言葉を唯一正しく解釈できる組織であり、「真」理の擁護者を標榜するとはいかがなものかと思うのですが…

 

 

むしろ、それまでの解釈との連続性で解釈すると、「真の神の王国」に成就しているというWT組織は、「偽の神の王国」もしくは「見せかけの神の王国」の仲間入りした、ということになるのではなかろうか。

 

 

自らの教理変更により、2014年以降、「キリスト教世界の一部」、つまり自らの教理による「大いなるバビロン」の主要な部分を担っていることを宣言し、自らが「サタンの手先」であることを告白したように思えるのである。

 

 

 

 

もっとも、キリスト教の始まり自体が、現実に生きていたイエスの教えや生き方とは似ても似つかないものであったのではあるが…

 

 

そういう意味では、WTはキリスト教の正統な継承者であると言えるのかもしれない…

 

ただし、イエスの忠実な弟子、あるいは神により任命された地上における唯一の組織という看板を掲げるのはいかがなものかと思うのであります…w