マルコ4:21-25 <燈火と測り> 並行 ルカ8:16-18、

参照 マタイ13:12、マタイ5:15=ルカ11:33、マタイ10:20=ルカ12:2、

マタイ7:2=ルカ6:37-38、マタイ25:29=ルカ19:26

 

マルコ4:21-25(田川訳)

21そして彼らに言った、「燈火は升の下に、あるいは寝台の下におくために持って来られるのであろうか。燭台の上に置かれるためではないのか。22隠れているもので現れるためでないものはなく、隠されたもので明るみにもたらされるためでないものはない。23もしも聞く耳を持つ者がいるなら、聞くがよい」。24そして彼らに言った、「あなた方が聞くことについて、注意せよ。あなた方が測るその測りによって、あなた方自身も測られることになろう。あなた方に対しては更につけ加えられることにもなろう。25持っている者には、与えられる。持っていない者からは、その持っているものも取り去られるのだ」。

 

並行 ルカ8:16-18

16誰も燈火をともして、器で隠したり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置く。入って来る者が光を見えるようにするためである。17隠れているもので現れないものはなく、隠されたもので知られないもの、明るみにもたらされないものはない。18あなた方がどう聞いているか、注意しなさい。持っている者には、与えられる。持っていない者からは、自分が持っていると思っているものも取り去られるのだ」。

 

参照 マタイ13:12

12持っている者には、与えられて、ますます多くなり、持っていない者からは、その持っているものも取り去られる、ということだ。

 

 

 

 

 

マルコにおけるこの部分には、節ごとに数多くの対応するQ資料(マタイとルカ共通する伝承資料)が存在する。

 

マルコ4:21→マタイ5:15=ルカ11:33

 

マルコ4:21 「燈火は升の下に、あるいは寝台の下におくために持って来られるのであろうか。燭台の上に置かれるためではないのか。」

 

マタイ5:15 「あるいは、燈火をともして升の下に置くことはしない。燭台の上に置く。すると家にいるすべての人を照らす。」

 

ルカ11:33  「燈火をともして地下に置く人はいない。燭台の上に置く。入って来る人が光を見るためである。」

 

 

マルコ4:22→マタイ10:26=ルカ12:2

 

マルコ4:22 「隠れているもので現れるためでないものはなく、隠されたもので明るみにもたらされるためでないものはない。」

 

マタイ10:26 「隠されたもので顕されないものはなく、隠れているもので知られないものはない。

 

ルカ12:2  「隠されたもので顕わされないものはなく、隠れているもので知られないものはない。」

 

 

マルコ4:23 「もしも聞く耳を持つ者がいるなら、聞くがよい」。

 

このロギア自体は、マタイやルカにも登場する。

 

ルカの並行は基本的にマルコを踏襲しているが、マタイには並行となる伝承は記述されていない。

 

この節はマルコがイエスの言葉として編集句的に付加したものと思われる。

 

 

マルコ4:24→マタイ7:2=ルカ6:38

 

マルコ4:24 「そして彼らに言った、「あなた方が聞くことについて、注意せよ。あなた方が測るその測りによって、あなた方自身も測られることになろう。あなた方に対しては更につけ加えられることにもなろう。」

 

マタイ7:2  「自分が裁くその裁きによって自分も裁かれる。また自分が測るその測りによって、自分も測られる。」

 

ルカ6:38  「与えよ、そうすれば汝らに与えられ、良い量りを、しっかりつめて、ゆすって、あふれるほどに量ったものを、汝らの懐に入れてくれよう。自分が量るその量りによって、自分も量られるのである。」

 

 

マルコ4:25→マタイ25:29=ルカ19:26

 

マルコ4:25 「持っている者には、与えられる。持っていない者からは、その持っているものも取り去られるのだ。」

 

マタイ25:29 「すなわち、持っている者には誰でも与えられ、ますます豊かになる。持っていない者からは、その持っているものまで取り去られるのである。」

 

ルカ19:26  「(彼は言った)、汝らに言う、持っている者には誰にでも与えられ、持っていない者からはその持っているものまで取り去られるのである。」

 

 

 

 

マルコでは、4:21-25までがまとまった一つの伝承として伝えられているが、マタイやルカでは、同じ趣旨のイエスの言葉であっても、マルコの趣旨とは異なる展開で、別々の箇所に登場する。

 

つまり、21,22,24,25はそれぞれ別伝承のイエスのロギアとして伝えられていたものだったということになる。

 

マタイとルカ(Q資料)では別々の時に語られたロギアが、マルコでは一つの伝承としてまとめられているということは、マルコが意図的にそれらを組み合わせて一つの伝承として編集したということだろう。

 

別々に語られていたものを一つの物語に組み上げたのであるから、当然そこには編集者の意図が働いていることになる。

 

 

前段の<種蒔く者の譬とその解説>の中で、<いわゆる譬話論>が挟まれたサンドイッチ構造で話が展開されていた。

 

その意図は、弟子継承教団の閉鎖的独善的権威主義を批判するために、イエスの譬を理解できていない存在として描いていた。(4:13

 

 

 

マルコのイエスは、この段の前半(21-22)で、「21燈火は升の下に、あるいは寝台の下におくために持って来られるのであろうか。燭台の上に置かれるためではないのか。22隠れているもので現れるためでないものはなく、隠されたもので明るみにもたらされるためでないものはない。」と語る。

 

 

21節で、燈火は家族の中で特定の人間のために隠されている場所を照らすために存在しているのではなく、「燭台の上」つまり家族全員を照らすために燈火は存在するのだ、という主張である。

 

 

この主張は、前段の<いわゆる譬話論>で弟子継承教団だけがイエスの譬を理解できる存在であり、民衆には神の国の秘義が隠されている、という主張に対する批判(13)に呼応する理念である。

 

 

22節はそれを受けて展開されているのであるから、隠されていることに権威と正統性を主張することを批判する意味で使われている。

そもそも隠すなどということは無駄なことであり、明るみにもたらされるために特定の人間に隠されているなどと主張すること自体がおかしいという批判である。

 

 

マルコは、その批判に対して、「もしも聞く耳を持つ者がいるなら、聞くがよい」と彼らに語る(21)イエスの言葉を置いているのである。

 

 

「彼ら」(21)とは、前段13節の「彼ら」と同じであり、10節の「自分たちだけになった時の十二人と一緒に彼のまわりにいた人たち」を指している。使徒集団由来のキリスト教団を意識していることは明らかであろう

 

つまり、マルコのイエスはここでも、「彼ら」の秘密主義や権威主義に対する批判を語るのである。

 

 

その批判を受けて、23節のイエスは前段の4:9のように単に「聞く耳をもつ者は聞きなさい」と呼びかける。

 

 

しかし、9節のように関係代名詞(hos)を使う言い方(ho eschOn Ota)をしているのではなく、不定代名詞(tis)を用いた仮定文で呼びかける。

 

「もしも誰か聞く耳を持っていれば、聞きなさい」と。

 

意味としては両者に大した違いはないが、仮定法で表現すると、いささか皮肉的で嫌味な含みを持つことになる。

 

9節の関係代名詞を用いた「聞く耳をもつ者は聞くがよい」という表現は、同じ批判でも、直弟子たちだけに秘義が与えられていると主張しているが、彼らだけではなく「聞く耳を持つ人なら、誰であっても、聞き、理解できるのだ、という含みを持っている。

 

それに対して、23節の仮定法を用いた表現は、あなた方は隠された秘密を明るみもたらすことができるのは自分たちだけだ、と主張しますが、もしも本当にあなた方が聞く耳をもっているならば、の話ですよね、それならほかの人に聞きなさいというだけではなく、あなたが自身も聞くがよい、という含みを持つことになる。

 

それに対して、24節でマルコのイエスは「彼ら」再び語る。

 

「あなた方は聞くことについて注意せよ」と。

 

これも、マルコがイエスの口においた言葉であろう。

 

 

 

マルコ(とその並行)は、「注意せよ」(blepete)というギリシャ語を、編集上の言葉として良く用いている。

ここ以外にも、8:15「パリサイ派のパン種とヘロデのパン種に注意せよ」。

13:5「人々があなた方を惑わすことのないよう注意せよ」。

13:9「あなた方は自分自身のことに注意せよ」。

13:23「あなた方自身で注意せよ。一切をあなた方に前もって言っておく」。

 

 

いずれも、弟子たちに対して警告の意味を込めて告げるイエスの言葉としてマルコは使っている。

 

マルコが教団伝承対して批判的な意図をもっている時にイエスの口において使う言葉のようである。

 

ここでも、仮定法で弟子たちに皮肉的な意味を込めて、「あなた方がもしも聞く耳をもっているのであれば…」と告げ、さらに「あなた方が聞くことに注意せよ」と促している。

 

 

ここには二重、三重の意味で「注意」を促しているように思える。一つは、弟子継承教団に対して、「あなた方は本当にイエスの言葉を聞いている存在ですか」という注意勧告。

 

もう一つは、「あなた方の耳にも入って来るあなた方に対する批判的言葉を聞くことに注意しているか」という批判。

 

さらにもう一つ、マルコを読む読者に関しても、「語られているイエスの伝承とされていることを聞くことについても、読者自身が注意して、聞くように」と警告しているのかもしれない。

 

 

というのは、イエスのロギアが「あなた方が測るその測りによって、あなた方自身も測られることになろう。あなた方に対してはさらにつけ加えられることにもなろう」と続いているからである。

 

 

ここで「測り」(metoron)と訳されている語は、「メートル」の語源となった語であるが、「長さ」だけではなく、「容積」を測る尺度にも用いられる語である。

 

NWT(だけではないが)は、この句を「あなた方が量りだしているその量りであなた方は自分に対して量り出されるのです。そうです、あなた方はそれにさらに付けくわえられるのです」と訳し、憐れみの量りを大きくする弟子たちに対する神の祝福が更に増し加わるかのようなイメージで訳している。

 

共同訳 「あなたがたは、自分の量る秤で量られ、さらに加えて与えられる」

 

フランシスコ会訳 「あなた方が量るその升で、あなた方も量り与えられ、しかも、 さらに増し加えられる」

 

岩波訳 「あなたたちが量るその秤で「、あなたたちに量られるだろうし、またあなたたちにつけ加えられるであろう」

 

新共同訳 「あなた方は自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」

 

前田訳 「自らはかる量りであなた方ははかられ、つけ加えられる」

 

新改訳 「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます」

 

塚本訳 「(わたしの言葉を)量る量りで、あなた達も(神に)量られる。そして(よく聞く人は、持っている上になお)つけたして与えられる」

 

口語訳 「あなた方の量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上なお増し加えられるであろう」

 

文語訳 「汝らが量る量にて量られ、さらに増し加へられるべし」

 

 

「量る」という語を「裁きの量り」と「憐れみの量り」との天秤にかけ、自分自身がどちらの量りで他の人を量るかによって自分も神により量られる。

 

それゆえ、神に倣い、憐れみの量りによって、量るキリスト信者はさらに神からの大いなる憐れみの量りにより量られることになる、という趣旨に解釈して訳しているものがすべてである。

 

 

NWT(だけではないがこれら)の解釈は、24節の「あなた方にはさらにつけ加えられることにもなろう」という表現を、25節の「持っているものには、与えられる」という表現と同義にとらえて解釈したものである。

 

しかも、参照のマタイ13:12をマルコ4:25と同義に解釈し、読み込んだものであろう。

 

確かに、マタイ13:12はマルコ4:25を写したものであるが、適用している趣旨は全く異なっている。

 

それぞれの文脈からマタイとマルコの言葉を理解するなら、明らかである。

 

 

マタイ13:10-13

10そして弟子たちが進み出て、彼に言った、「何故彼らには譬えでお話になるのですか」。11彼は答えて彼らに言った、「あなた方には天の国の秘義を知ることが与えられているからだ。かの者たちには与えられない。12持っている者には、与えられて、ますます多くなり、持っていない者からは、その持っているものも取り去られる、ということだ。13この故に私は彼らに譬えで語る。彼らは眺めるけれども眺めず、聞くけれども聞かず、理解しないのである。

 

マタイはマルコ4:25の言葉を教団の独善的な権威主義を保持する言葉として、「持っているものには与えられてますます多くなり、持っていない者からは、その持っているものも取り去られる」と適用している。

 

「持っている者」=「弟子集団」、「持っていない者」=「彼ら」=「弟子たち以外の民衆」という構図である・

 

「天の国の秘義」の解釈と支配権を独善的な支配を正当化するために、マタイはイエスの口にこのロギアを置いている。

 

 

しかし、マルコが言っているのは、マタイとは全く異なっている。マタイのように、「天の国の秘義」が弟子集団に独占的に与えられていることを前提にしているわけではない。

 

むしろ、そのような教団の権威主義には極めて批判的である。

 

マルコのイエスはマタイとは逆にむしろ民衆と共にある。

 

マタイは「持っている者には与えられて多くなる」を受けて「ますます多くなる」と受けているが、マルコは逆である。

 

マルコ4:24「あなた方に対しては更につけ加えられることにもなろう」という言葉は、25を受けて語られているのではない。

 

24を受けて「持っている者には、与えられる。持っていない者からはその持っている者も取り去られるのだ」と言っているのである。

 

 

では、マルコの言う「更につけ加えられる」ものとは何か?

 

「あなた方が測るその測りによって、あなた方自身も測られることになろう」とあるのだから、「更につけ加えられる」ものとは、「測り」を指していることが理解できる。しかもその「測り」は「あなた方が測る測りによって、同じ尺度で自分自身が測られた」ものである。

 

 

マルコのイエスは「測る」という事を通して何を言いたかったのか?

 

 

Q資料における参照聖句であるマタイ7:2「自分が裁くその裁きによって自分も裁かれる。また自分が測るその測りによって、自分も測られる」とあり、「測る」とは「裁く」ことの比喩として使われている。

 

マタイと並行のルカも6:38「与えよ、そうすれば汝らに与えられ、良い量りを、しっかりつめて、ゆすって、あふれるほどに量ったものを、汝らの懐に入れてくれよう。自分が量るその量りによって、自分も量られるのである」。

 

「量る」=「裁く」という意味で用いられおり、「裁くな」という説教となっている。

 

つまり、Q資料において「あなた方が測るその測りによって、あなた方自身も測られることになろう」というロギアは、「他人をはかるその同じ尺度で、自分自身もはかり返されることになる、だから裁くな」という趣旨で用いられていたものと思われる。

 

 

とすればマルコが集めた伝承の資料でもQ資料と同じく、「測る」とは「裁く」ことの比喩として用いられていたものと思われる。

 

 

マルコのこの個所は「あなた方は注意せよ」という警告の言葉から始まっており、この節の原文が言っていることは、「あなた方が他人を測るその尺度があなた方自身に対しても裁きとして適用される」と言っているに過ぎない。

 

 

神から憐れみの尺度で量られ、さらに恵みと祝福が与えられることになるなどと24節は述べているのではない。

 

 

「更につけ加えられる」という表現は、神の憐れみや祝福とは無関係であり、「測り」が「更につけ加えられる」という趣旨の言葉である。

 

 

マルコ2:24の「測り」が「裁き」を意味しているのであれば、「さらにつけ加えられる」のは、神の憐れみや祝福ではなく、「神の裁き」である。

 

 

つまり、あなた方に対しては「裁き」という「測り」が「更につけ加えられることになる、とマルコのイエスは言っているのである。

 

 

マルコのイエスが対象としている「あなた方」とは、当然24の「彼ら」であり、21の「彼ら」であり、弟子継承を主張する教団を示唆しているのだろう。

 

「神の裁きが更につけ加えられることになろう」という予告を受けて、「持っている者には与えられ、持っていない者からは、その持っているものも取り去られるのだ」とマルコのイエスは宣言する。

 

 

ルカは「持っていない者」がものを「持っている」はずがないと考え、「自分が持っていると思っているもの」(8:18)と丁寧に書き換えているが、24-25のマルコの意図は明らかであろう。

 

 

 

弟子教団は、ご自分たちが「持っている」とご自慢なさっていますが、もしも、聞く耳をお持ちなら、注意して、お聞きになった方がよろしいのではないですか。

 

あなた方が測るその測りで、いずれあなた方も測られることになるのです。

 

その時には、あなた方に対しては神の裁きが更につけ加えられることになるのでしょう。

 

持っていると思っていても実際にはあなた方は持っていないのですから、その持っているものも取り去られ、イエスの言葉を実践し、本当に持っている者たちに与えられることになりますよ。

 

 

 

マルコは、弟子継承教団の秘密主義と権威主義に対する批判を展開するためにばらばらに伝承されていたロギアを一つの物語として再編集したのである。

 

 

しかし、マタイはマルコの「持っている者には与えられる」というイエスのロギアを弟子継承教団の権威擁護のためロギアにすり替えて、仕立て直したのである。

 

 

 

 

 

WTに置き換えるなら、「統治体」は「イエスの兄弟」であり、使徒集団の正統な継承者であると自認していますが、本当に「持っている者」なのでしょうか?

 

あなた方が量り出している量りであなた方は自分に対して量り出されるでしょう。そうです、あなた方はそれにさらにつけ加えられるのです」(NWTマルコ)から、「自分が聞いている事柄に注意を払いなさい」というイエスの言葉を真剣に考慮されたらいかがでしょうか?

 

「注意深く秘められているもので知られずに終わり、あらわにならずに済むものは決してないのです。ですからあなた方は、どのように聴くかに注意を払いなさい」(NWTルカ)

 

このままだと「持っていると思うものまで取り去られる」(NWTルカ)ことになるかもしれませんので……

 

 

マルコのイエスなら、そう語るのではなかろうか。

 

 

 

 

 

マルコ4:21-25 (NWT)

21 そして[イエス]は続けてこう言われた。「ともしびは量りかごの下や寝床の下に置くために持って来たりはしないではありませんか。それは燭台の上に置くために持って来るのではありませんか。22 暴かれるためでないのに隠されているものはなく,あらわになるためでないのに注意深く秘められているものはありません。23 だれでも聴く耳のある人は聴きなさい」。

24 [イエス]はさらにこう言われた。「自分が聞いている事柄に注意を払いなさい。あなた方が量り出しているその量りであなた方は自分に対して量り出されるでしょう。そうです,あなた方はそれにさらに付け加えられるのです。25 持っている者にはさらに与えられますが,持っていない者は持っているものまで取り去られるからです」。

 

ルカ8:16-18 (NWT)

16 「ともしびをともしたのち,それを器で覆ったり,寝床の下に置いたりする人はいません。むしろそれを燭台の上に置き,入って来る人にその光が見えるようにします。17 隠されているもので明らかにならないものはなく,また,注意深く秘められているもので知られずに終わり,あらわにならずに済むものは決してないのです。18 ですからあなた方は,どのように聴くかに注意を払いなさい。だれでも持っている者,その者にはさらに与えられますが,持っていない者,その者からは,持っていると思うものまで取り去られるのです」。

 

マタイ13:12 (NWT)

12 だれでも持っている人,その人はさらに与えられて満ちあふれるほどにされます。しかし,だれでも持っていない人,その人は持っているものさえ取り去られるのです。