マルコ4:1-20<種まく者の譬とその解説>3
<種まく者の譬>における「種」とは何か?
この譬話の解説部分を理解する鍵は、マルコで「種」とされている「言葉」という概念をどう理解するかにかかっているように思う。
はじめに<種まく者の譬>の各福音書著者における譬におけるイエスの言葉に対応するイエスの解説を確認しておく。
マルコ4:3 その教えの中で彼らに言った。「聞くがよい。見よ、種まく者が蒔くために出てきた」
マルコ4:14 あなた方はどうしてこの譬を理解しないのか。それでどうしてすべての譬を知ることができよう。「蒔く者は言葉を蒔くのである」
マルコ4:15 「道のところの者」とは…。言葉がその者たちのところに蒔かれ、聞くのであるが、すぐにサタンが来て、彼らの中に蒔かれた言葉を奪う」
マルコ4:16-17 「石地に蒔かれる者とは…。言葉を聞き…、言葉の故に…」
マルコ4:18-19 「茨の中に蒔かれる者とは…。言葉を聞くが…言葉を窒息させ…」
マルコ4:20 「良い地に蒔かれた者とは…。言葉を聞き、受け入れ…」
マタイ13:3 「見よ、種まく者が蒔くために出てきた」
マタイ13:18-19 「あなた方は、種まく者の譬を聞くがよい。御国の言葉を聞いて理解しない者は誰でも、悪者が来て、その者の心に蒔かれたものを奪い取る」
マタイ13:19-20 「石地に蒔かれた者とは、言葉を聞き、…、言葉の故に…」
マタイ13:22 「茨の中に蒔かれた者とは、言葉を聞く者であるが…言葉を窒息させ…」
マタイ13:23 「良い地に蒔かれた者とは、言葉を聞き、理解する者…」
ルカ8:5 「種まく者が自分の種を蒔くために出てきた」
ルカ8:11 「種とは神の言葉である」
ルカ8:12 「道のところのものとは、聞くけれども、その後悪魔が…その者たちの心から御言葉を奪い、その者たちは信じて救われることがない」
ルカ8:13 「石地の上のものとは…聞くと喜んで御言葉を受け入れるのであるが…歩んでいる途中で窒息し、最後まで実を結ぶことをしない者…」
ルカ8:15 「良い地の中のものとは…実を結ぶ者…」
マルコおける譬の「種」とは、4:14では、「言葉を蒔く」とあり、「言葉」を「種」に譬えていることが理解できる。この「言葉」とは原文では、ton logonと定冠詞付きの絶対用法で表現されており、特定の意味が込められている表現となっている。
ただし、単に「言葉」あるいは「言っていること」と言われても、具体的に何を指しているのか、定冠詞付きの表現だけでは意味がはっきりしない。
この個所(14)では、イエスの発言となっているが、マルコの地の文で、logos(言葉)が絶対用法で用いられている箇所は、これまでも1:45、2:2でも登場しており、4:33にも登場する。
マルコ以外の新約書簡の中にもlogosが絶対用法で用いられている箇所が登場する。たとえば、第一テサロニケ1:6、使徒8:4,17,11、第二テモテ4:2ほか多数。
特に、第一テサロニケ1:6は「あなた方は、ton logon(言葉)を多くの迫害の中で喜んで受け入れた」とあり、この「種まく者の譬」の解説における「良い地に落ちた種」と同じ趣旨の表現となっている。
そこでは、絶対用法の「言葉」とは「キリスト教の福音」あるいは「キリスト教の宣教」とほぼ同じ意味で用いられていることがわかる。
マルコ(4:13-20)における<種まく者の譬の解説>において、13節はイエスの発言となっているが、これはマルコが弟子批判のためにイエスの口においたマルコの編集であろう。
しかしながら、14-20も、実際にイエスが語った解説ではありえないことは明白である。
<種まく者の譬>そのもの(4:3-9)はイエスが語った言葉の伝承であると思われるが、<いわゆる譬話論>(10-12)と<種まく者の譬の解説>は、キリスト教団による解釈的伝承であろうと思われる。
その理由として、この譬の解説では、すでにキリスト教に対する弾圧や迫害が前提で解釈されている(17)が、イエスはローマおよびユダヤ教支配体制の反逆者として処刑されたのであり、キリスト教の宣教の故に迫害や弾圧を受けたのではない。
キリスト教宣教の故に、迫害や弾圧が生じることを前提に譬を解釈している以上、キリスト教がユダヤ教によって実際に迫害や弾圧を経験していた時代を反映させていることになる。
イエスの手によるとされるこの譬の解説は、ユダヤ教から迫害対象となっていたヘレニストのキリスト教団が、イエスの言葉として伝承化させたものであるように思える。
マタイ13:36-43<毒麦の譬の解説>には同じようにイエスによるアレゴリー的解釈が施されているが、マルコにおいては、自分で自分の譬話をアレゴリー的に解説している箇所はほかにはない。
マタイにおける譬の解説では、「収穫は世の終焉(事物の体制の終結NWT)である」(13:39)と説明されている。
この「世の終焉」(synteleia tou aionos)という表現のsynteleia という語は、「共に」を意味する接頭語synに「終わり」を意味するtelosを抽象名詞化した語である。
しかし、普通のギリシャ語ではこの語を「終わり」の意味には用いない語であり、「終わり」や「終末」の意味で用いる場合は、接頭語を付けずにtelosを用いるのが普通であるという。
tel-という語幹は「完成、終わり」を意味するが、syn-(共に)という接頭語を付けると、「終わり」ではなく「完成」の意味から「仕上げる」の意味になり、「一緒に仕上げる、貢献する」という意味になるという。
その抽象名詞であるから、共同事業や公共の事柄への「貢献、出資」を意味する語として使われるのが普通である。
しかしながら、マタイでは「世の終末」を意味する語として、synteleiaが使われている。
この語は「世の」(tou aionos: 属格定冠詞+属格の世)という言葉という語と共に用いて「この世の終末」を意味するユダヤ教ギリシャ語として広く用いられるようになったものである。
ダニエル12:13の七十人訳とテオドシティアン訳でも「日々のsynteleia」と言い方で、「世の終末」を意味する術語として登場し、後のユダヤ教啓示文学などで「世のsynteleia」という言い方が定着した。
マタイにおける<毒麦の譬の解説>は、イエス自身による解説ではなく、ユダヤ教ギリシャ語に造詣のあるマタイ教団による伝承であるということになる。
つまり、マルコにおけるイエスの譬のこの種のアレゴリー的解説も、イエス自身による解説ではあり得ず、キリスト教団による解釈を伝承化したものであるということだろう。
マタイの<毒麦の譬の解説>が、イエス=キリストの信仰を前提に解釈されているのだから、イエス・キリスト信仰が定着した以降の伝承であり、再臨信仰も前提とされているのだから、エルサレム神殿崩壊後以降に作成された伝承であるということになる。
ちなみに、マタイにおける<毒麦の譬の解説>は他の福音書には登場せず、マタイ福音書だけに登場する。
このことからも、マタイ福音書の成立をエルサレム崩壊前とする解説は、歴史的事実とは無関係にイエス=キリスト信仰を反映させた信仰的解釈であることが理解できる。
問題を「言葉」という語の解釈に戻すが、マルコの定冠詞付「言葉」(ton logon)をマタイは属格で「御国の」という語を付加し、「御国の言葉」(ton logon tEs basileias)と変えている。
マタイは、マルコの定冠詞付き「言葉」という意味のはっきりしない表現を「神の国」あるいは「天国」に関する信仰をもたらす音信という趣旨に理解したのであろう。
マルコの「言葉を蒔く」という表現は、マタイを通すと「御国の言葉を蒔く」ことと同意になる。すなわち、「言葉を蒔く」とは「王国に関するイエスの言葉を宣教する」ことである、と理解されることになる。
ルカは、「譬」そのもので蒔く「種」が「自分の種」(5)であることにし、マルコの「言葉」に属格で「神の」という語を付加し、「神の言葉」(ho logos tou theou)に変えた(11)。
マルコでも「神の言葉」(ton logon tou theou)という表現が7:13で使われているが、そこでは「旧約聖書の言葉」の意味で使っているのであり、「イエスの言葉」や「キリスト教の宣教」を指している表現ではない。
マルコの「言葉」という表現に、マタイを読み込み、さらにルカを通して理解しようとすると、「王国に関するイエスの言葉」は「神からの言葉」であり、王国を宣教することが神の言葉を蒔くことである、という理解が成立することになる。
しかし、これらの理解は正典福音書が神の意志を伝える矛盾のない神の言葉であるという聖書霊感説を前提にしなければ成立しない解釈でもある。
マルコはあくまでも定冠詞付きの「言葉」を蒔く、と解説しているのであり、「御国の言葉」や「神の言葉」を蒔く、と言っているのではない。
NWT(だけではないが)は、マルコの定冠詞付き「言葉」を「み言葉」と訳している。「み」を付けることにより、定冠詞付きの「言葉」とは「神の言葉」と同義になってしまう。
これは、マルコにルカを読み込んだ表現である。
マルコ4:14
共同訳 「『種を蒔く人』は、神の言葉を蒔くのである」
フランシスコ訳 「種まく人はみ言葉を蒔くのである」
岩波訳 「『種を蒔く人』は、御言葉を蒔くのだ」
新共同訳 「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」
前田訳 「種まきはことばをまく」
新改訳 「種蒔く人は、み言葉を蒔くのです」
塚本訳 「種蒔く人は(神の)御言葉をまく」
口語訳 「種まきは御言をまくのである」
文語訳 「播く者は御言を播く」
マルコの原文には、もちろん「神の」という表現は付いていない。定冠詞付きの「言葉」である。
定冠詞付きであるから、あえて単に「言葉」ではなく、「み言葉」「御言葉」と訳しているのであろうが、前田訳以外のすべての和訳聖書が、マルコにルカを読み込み、マルコの「言葉」=「神の言葉」と読ませようとしているのが理解できる。
しかしながら、マルコにとっての定冠詞付きの「言葉」とは、マタイやルカのように、特定の宗派や特定のキリスト教信仰のドグマだけを指しているのではないように思える。
むしろ、「イエスの語ったこと」、「イエスの生き方が語りかけて来ること」、の全体がマルコにとって定冠詞付き「言葉」(ton logon)なのであろう。
マルコとしては、1:1の「イエスの福音」と同義に使っているものと思われる。
その理解に立って、<譬の解説>を読むとすれば、「道のところの者」(15)とは、イエスの生き方が「語りかけて来ること」(ton logon=言葉)にはまったく呼応せず、無縁のままに終わってしまう者を指しているのだろう。
イエスの「言葉」が蒔かれても、「聞くのであるが」、自分には無関係の事として破棄され、忘れ去られてしまう。それを「サタンが来て、…蒔かれた言葉を奪う」と表現したのであろう。
「石地に蒔かれる者」(16)は「言葉を聞き、すぐに喜んで受け入れる」とある。
イエスの生き方を評価するものの、それを単なる表面上の言葉だけとするだけで、聞く人自身の生き方自体には影響を及ぼすことがなかったので、「自分の中に根を持たず、一時的である」(17)と表現されているのだろう。
聞く人自身の生き方自体には根を張らないから、「語りかけ」(ton logon=言葉、言っていること)の意味を貫こうとする時に、周囲の支配力から圧力や障害が生じると、簡単に「言葉」を放棄し、圧力に屈してしまう。
「躓き」、イエスの生き方が「語りかけて来ること」を放棄してしまうのである。
「茨の中に蒔かれる者」(18)とは、「言葉を聞くが、…言葉を窒息させ、実を結ぶことがない」者のことである、と説明されている。
「言葉を窒息させる」原因は、「世間的な気遣い」、「富の惑わし」、「その他についての欲望」が入って来るからであると説明されている。
面白いのは「言葉」を「窒息させ」るので、「実を結ぶことがない」と説明されている点。
「言葉」を捨てているのではない。障害のある存在として排除しようとしているのでもない。自分自身が「実を結ばない」ように「窒息させている」という説明である。
つまり、イエスの生き方に示されている「言葉」、イエスの生き方全体から示される教えを単に教条的なものとして形骸化させ、自分自身の生き方に反映させていかない者を指しているのであろう。
この譬の解説は、「あなた方はこの譬を理解してないのか。それでどうしてすべての譬を知ることができよう」(13)という十二弟子たちに対するイエスの批判から始まっている。
マルコとしては、イエスの「言葉」を窒息させ、実を結ばない者となっているのは、イエスの継承者を自認しながら、イエスの言葉を教条主義的に形骸化させている十二使徒継承教団そのものではないか、と批判したいのであろう。
そのキリスト教団こそ、世間的な気遣いや富の惑わしによって、「言葉」を窒息させたのだ、実を結ぶことはない、とマルコは主張したいのであろう。
つまり、「言葉」が「実を結ぶ」ということは、単に「言葉」を「聞き」、「受け入れる」ことを意味しているのではなく、「言葉」を自分自身の中で展開していき、自らもイエスの生き方が「語りかけること」に呼応することが「言葉を聞く」ことであり、他の人にも働きかけることが、「受け入れる」ことである、という意味であるように思える。
自分自身だけではなく、他の人にも働きかけるからこそ、「良い地に蒔かれた者」はすべて「実を結ぶ」のであろう。
マルコは、マタイのように「御国の言葉」を受け入れたキリスト信者になることが「実を結ぶ」「良い地に蒔かれた者」であると言っているわけではない。
また、ルカのように、キリストの言葉を「神の言葉」として受け入れキリスト教に入信する者が良い地の中の種であり、「実を結ぶ者」であると限定しているわけでもない。
マルコの表現する定冠詞付きの「言葉」とは、マタイやルカとは異なり、特定の宗教宗派としてのキリスト教の信仰を意識しているのではないように思える。
マルコもキリスト信仰生活を意識してはいるものの、宗派的信条というよりは、むしろ、イエスの生き方全体から学べる生き様、影響力を定冠詞付き「言葉」(ton logon字義:語りかけ)と表現しているものと思われる。
マルコとしては、イエスの生き方に影響を受けた生き方を実践し、イエスのことを語ることが宣教であり、キリスト教を実践することなのであろう。
マルコにとっては、イエスの生き方全体が「福音」であり、その生き方が及ぼす影響力が、定冠詞付き「言葉」であるように思える。
マルコ福音書には、奇跡的な誕生に関するキリスト物語も復活後のキリスト物語も登場しない。生前の宣教と癒しの奇跡を施すイエスの物語を中心に構成されている。
おそらく、マルコの時代にもイエスの誕生に関する伝承物語も復活後のキリスト物語も多数、語られていたものと思われる。
マタイやルカはマルコとQ資料を底本にして、キリストの誕生物語や復活物語を付加しているのだから、マルコが福音書を作成するにあたり、資料として集められた伝承の中には、キリストの誕生と復活物語の伝承も含まれていたはずである。
それにもかかわらず、マルコ福音書がそれを省いているとすれば、それは意図的であるということになる。
マルコの考えるキリスト教と当時一般に認知され普及していたキリスト教との間には乖離があったのであろう。
イエスの生前の生き方を無視し、復活後のキリストのみを信仰の対象として構築されたパウロに由来するキリスト教やエルサレムを中心としたユダヤ教的キリスト教、ヘレニストを中心に地中海全体に流布していたヘレニズム的キリスト教など、さまざまな地域にさまざまに異なる信条を持ったキリスト教団が自治的組織として活動していたものと思われる。
WTが説くエルサレムの統治体による中央集権的キリスト教なるものの存在は、幻想に過ぎないように思われる。WT信仰のJWは、世の歴史はサタンの支配下あり、信用できないと主張するが、1世紀のエルサレムに「統治体」が存在していたことは証明できていない。
その事実は聖書そのものからも明らかであり、初期のキリスト教史をちょっと調べるだけでも明らかである。
少なくても、WTが蒔く「種」が、マルコの定冠詞付き「言葉」とは異なるものであることは確かなようだ。むしろ「毒麦(雑草)の種」のようにさえ思えるのである。