マルコ4:1-20  <種まく者の譬とその解説> 並行マタイ13:1-23、ルカ8:4-15,10:23-24

 

 

マルコ4:1-9(田川訳) <種まく者の譬>

そして再び海辺で教えはじめた。そして彼のもとに非常に多くの群衆が集って来る。そこで舟に乗り、海の中に座りそして群衆はみな海に向かって陸に居たそして彼らを譬話でいろいろと教えるのであった。そしてその教えの中で彼らに言った、「聞くがよい。見よ、種まく者が蒔くために出て来た。そして蒔いている時に、あるものが道に落ちるということがあった。そして鳥が来て食べてしまった。そしてほかのものはあまり土のない石地に落ちた。そしてすぐに、土が深くないので、芽が出た。そして太陽が出ると、焼けて、根がないので枯れた。そしてかのものは茨の中に落ちた。そして茨が伸び、窒息させ実を結ぶことがなかった。そしてほかの多くのものは良い地に落ちた。そして伸び成長して実を結び三十倍六十倍百倍もなった」。そして言った、「聞く耳を持つ者は聞くがよい」。

 

10-12 <いわゆる譬話論>

10そして自分たちだけになった時、十二人と一緒に彼のまわりに居た人たちが譬えのことをたずねた。11そして彼らに言った、「あなた方には神の国の秘儀が与えられているが、かの外の者たち対しては、一切が譬えでなされる。12彼らが眺めることは眺めるが見ず、聞くことは聞くが理解しないため、また彼らたちもどって来て赦されることがないためである」。

 

13-20 <種まく者の譬の解説>

13そして彼らに言う、「あなた方はこの譬えを理解しないのか。それでどうしてすべての譬えを知ることができよう。14蒔く者は言葉を蒔くのである。15道のところの者とは次の者たちである言葉がその者たちのところに蒔かれ、聞くのであるが、すぐにサタンが来て、彼らの中に蒔かれた言葉を奪う。16そして、石地に蒔かれる者とは次の者たちである。言葉を聞き、すぐに喜んで受け入れるが、17自分の中に根を持たず、一時的であるので、言葉の故に患難か迫害が生じると、すぐに躓く。18そして、茨の中に蒔かれる他の者とは、次のような者たちである。言葉を聞くが、19世間的な気遣いやら、富の惑わしやら、その他のことについての欲望やらが入ってきて、言葉を窒息させ、実を結ぶことがない。20そして良い地に蒔かれた者とは、次のような者たちである。言葉を聞き、受け入れ、三十倍六十倍百倍に実を結ぶのである」。

 

 

 

マタイ13:1-9

1その日にイエスは家から出て来て、海辺に座った。2そして彼のもとに多くの群衆が集まって来たので、彼は舟に乗って座り群衆はみな波打ち際に立った3そして彼らに譬えで多くのことを語って、言った、「見よ、種まく者が蒔くために出て来た。4そして彼が蒔いている時に、いくつかの種は道のところに落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかのいくつかはあまり土のない石地に落ちた。そして、土が深くないので、直ちに芽が出た。6だが太陽が出ると、焼けて、根がないので枯れた。7ほかのいくつかは茨の上に落ちた。そして茨が伸びて、ふさいだ8しかしほかのいくつかは良い地に落ちた。そして実を結び、あるものは百個の、あるものは六十個の、あるものは三十個になった。9耳ある者は聞くべし」。

 

マタイ13:10-17 <いわゆる譬話論>

10そして弟子たちが進み出て、彼に言った、「何故彼らには譬えでお話になるのですか」。11彼は答えて彼らに言った、「あなた方には天の国の秘義を知ることが与えられているからだ。かの者たちには与えられない。12持っている者には、与えられて、ますます多くなり、持っていない者からは、その持っているものも取り去られる、ということだ。13この故に私は彼らに譬えで語る。彼らは眺めるけれども眺めず、聞くけれども聞かず、理解しないのである。14彼らに対しては、次のように言っているイザヤの預言が成就するあなた方は聞くには聞くが理解せず、眺めるには眺めるが見ない。15この民の心はぶよぶよ太り、耳では重くしか聞かず、自分の眼をふさいだのだ。それは彼らが眼で見ることがなく、耳で聞くことがなく、心で理解しないため、彼らがたちもどって来て私が彼らを癒したりすることがないためである、と。

16あなた方の眼は見ているから幸いである。耳は聞いているから幸いである。17何故なら、アメーン、あなた方に言う多くの預言者や義人が今あなた方が見ていることを見たいと欲したが、見れず、あなた方が聞いていることを聞きたいと欲したが、聞けなかったのだ。

 

マタイ13:18-23 <種まく者の譬の解説>

18そこであなた方は、種まく者の譬えを聞くがよい。19御国の言葉を聞いて理解しない者は誰でも、悪者が来て、その者の心に蒔かれたものを奪い取る。道のところに蒔かれた者とは、こういう者のことである。20石地に蒔かれた者とは、言葉を聞き、すぐに喜んで受け入れる者のことである。21しかし自分の中に根を持たず、一時的であるので、言葉の故に患難か迫害が生じると、すぐに躓く。22茨の中に蒔かれた者とは、言葉を聞く者であるが、世間的な気遣いやら、富の惑わしやらが言葉を窒息させ、実を結ぶことがない。

23良い地に蒔かれた者とは、言葉を聞き理解する者のことである。その者は実を結ぶ。あるものは百個の、あるものは六十個の、あるものは三十個実を結ぶ

 

 

 

ルカ8:4-8

多くの群衆が集って来た。また街ごとに彼のもとに人が出て来た。それで譬話で語った、「種まく者が自分の種を蒔くために出て来た。そして蒔いている時に、あるものは道のところに落ちて、踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかのもの岩の上落ち、生えたが、水気がないので枯れた。ほかのものは茨の真んに落ちた。そして茨も一緒に生えて、ふさいだ。そしてほかのものは善い地に落ち、生えて、百倍にも実を結んだ」。こう言って彼は声をあげた、「聞く耳ある者は聞くべし」。

 

ルカ8:9-15 <いわゆる譬話論と種まく者の解説>

彼の弟子たちが、これはどういう譬えであるか、と彼にたずねた。10彼は言った、「あなた方には神の国の秘儀を知ることが与えられているが、ほかの者たちには譬えで与えられる。彼らが眺めるけれども眺めず、聞くけれども理解しないためである。11この譬えはこういうものである。すなわち種とは神の言葉である。12道のところの者とは、聞くけれども、その後悪魔がやって来て、その者たちの心から御言葉を奪い、その者たちは信じて救われることがない。13石地の上の者とは、聞くと喜んで御言葉を受け入れるのであるが、根を持たず、一時的に信じるだけで、試練の時には落伍する。14茨の中に落ちたものとは、聞くけれども、気遣いやら、富やら、生活の楽しみやらによって、歩んでいる途中で窒息し、最後まで実を結ぶことをしない者のことである。15良い地の中のものとは、良くかつ善なる心で御言葉を聞き、それを保って、忍耐をもって実を結ぶ者のことである

 

ルカ10:23-24

23そして、自分たちだけの間で弟子たちの方をふり向いて、言った、「あなた方が見ていることを見る眼は幸いである。24故なら、あなた方に言う、多くの預言者や王が今あなた方が見ていることを見たいと欲したが、見れず、あなた方が聞いていることを聞きたいと欲したが、聞けなかったのだ」。

 

 

マルコ4:1-20 <種まく者の譬とその解説>1

マルコにおける「種まく者の譬」と「その解説」も前段の「イエスの家族とベエルゼブル論争」と似た構造となっている。

 

つまり、「種まく者の譬」と「その解説」の間に「いわゆる譬話論」がサンドイッチされている構造となっている。イエスが「譬話をする」。弟子たちは「その譬話を理解できないので、イエスが彼らの無理解さを叱る」。イエスが「譬話の解説をする」という構図である。

 

「譬話論」では、12人とイエスのまわりにいた人たちには、秘義が与えられているが、「かの外の者たち」に対しては、一切が譬でなされる、とマルコのイエスは語る。

 

しかしながら、「譬の解説」では、十二人が「譬」の無理解により、イエスからの解説を受ける、という構図となっている。

 

「譬話論」と「譬の解説」との間には矛盾している考えが混在している。

 

「譬話」そのものが示すイエスの精神と「譬の解説」が示すイエスの精神との間にも、乖離が生じている。

 

本来なら、「譬話」と「その解説」における矛盾、と「譬話論」と「譬の解説」における矛盾の二重の矛盾構造で一つの話が構成されていることになる。

 

この矛盾を解くカギとなるのが、二つの矛盾を繋いでいる、10-12の「譬話論」にあるように思う。

 

 

まず、テーマとしてイエスの「譬話」が語られる。

 

次にイエスは「十二人」に「秘義が与えられている」存在であるが、「外の者」は「譬が理解できない存在であり、赦されることがないためである、と語る。

 

しかし、「彼ら」(=十二人)は「譬を理解しない」「すべての譬を知る」事の出来ない存在、として解説するのである。

 

 

4:1,2はマルコの編集句。

3-8は、イエス伝承。

9は、譬とは別伝承をマルコが付加したもの。

 

1-8は「非常に多くの群衆」が対象であり、9で「聞く耳を持つ者」に対象を広げている。

マルコのイエスは、話の聞き手をなるべく大勢に広げようとしていることが理解できる

 

それに対し、10-12の伝承は、それとは逆にイエスの教えを秘義的に狭い範囲にとどめようとしている。1-9の「群衆」ではなく、「十二人とイエスのまわりにいた人たち」に対象を限定している。

 

10-12のイエスは、「神の国の秘義を与えられている」者が対象で「外の者」たちは対象外であるという。

しかも、宗教的な「赦し」を与える権威の存在を前提にしたイエスの言葉である。

 

つまり、この伝承は実際のイエス伝承ではなく、「秘義的教え」を持つと主張している「弟子たち教団」による創作であると考えられる。

 

「十二人」だけでなく、「十二人と一緒にイエスのまわりにいた人たち」という言い方からすると、「十二人」の「使徒集団」というよりも、実際には「十二人」という権威を継承していると主張している「正統権威主義集団」が創作したものであると思われる。

 

イエス伝承に関する解釈を独善的に独占し、異議を赦さないという権威主義は、「外の者たち」が「たちもどる」ことを「赦さない」という姿勢からも明らかである。

 

その集団をマルコは批判の対象としているのであろう。

 

内容的には「種に関する譬」とは無関係であり、イエスのロギアとして伝えられていた個別伝承であると思われる。

 

3-8の譬では「多くのもの」は「良い地」に落ち、何十倍にも、成長し、実を結んだ、という。

成長しなかった「ほかのもの」(原文の4,5,7の「もの」は単数形)はむしろわずかであり、「多くのもの」(原文の8は複数形)は「良い地」に落ち、成長したのである。

単数形の「種」と複数形の「種」との違いを強調するなら、駄目になった「種」(道に落ちた種、石地に落ちた種、茨の中に落ちた種)は、たまたま一粒づつ悪い地に落ちたのだが、他の多くの種は良い地に落ちて、多くの収穫をあげた、という趣旨になる。

 

 

「聞くがよい」という言葉から始まるイエスの言葉は、「聞く耳を持つ者は聞きなさい」という言葉で結ばれている。

 

「聞く耳を持つ」なら、誰でも、何十倍にも成長し、実を結ぶことができるというイエスの精神と11-12の「秘義」主義を擁護するイエスの精神とは真逆であり、明らかに対立する構図にある。

 

 

「譬話論」(11-12)における弟子たちには特別な「秘義」が与えられていると保証するイエスに対し、「譬の解説」(13-20)における13のイエスは、「彼ら」に対して「あなた方はこの譬を理解しないのか。それでどうしてすべての譬を知ることができようか」と詰め寄るのである。

 

「聞くことは聞くが理解しない」のは「外の者たち」ではなく、「十二人と彼のまわりにいた人たち」こそが、譬を理解できない存在として描かれているのである。

 

この13は、「譬話論」(10-12)と対立する関係にあり、「譬」(1-9)とも対立している。

むしろ13のイエスの言葉は、「譬話論」(11-12)に対する反論を開始するイエスの言葉となっており、「譬の解説」(15-20)における導入句の役割を果たしている。

 

おそらくこの13は、14-20の「譬の解説」の元伝承にマルコが付加させた編集句であると思われる。

 

「十二人権威継承教団」は、3-8の「イエス伝承」について、14-20の「解釈」を付加して「イエスの言葉伝承」として流布させていたのであろう。

 

別のイエス伝承としての「譬話論」11-12が「弟子教団」によって創作され、流布されていたものを、マルコがここに組み込んだのであろう。

 

大きく三つの部分から成るこの譬とその解説の話は、イエスのロギアを分析すると、実際にはいくつかの伝承を組み合わせて、再編集したものであることが理解できる。

 

この構造でマルコは何を言おうとしているのだろうか。

 

イエスは民衆一般(1-2)に「聞くがよい」(3)と呼びかける。そして「聞く耳を持つ者は聞くがよい」と結ぶ。

 

つまり、マルコのイエスは「理解させなくするため」(12)ではなく、民衆一般に理解を呼びかけるものである。

 

それにも関わらず、弟子たちは自分たちだけが「神の国の秘義」を与えられている特別な権威だと自負し、(11)「外の者」たちには排他的である。(11-12)

 

しかし、当の弟子たちはイエスの明らかな言葉すら理解しない。(13)

 

弟子集団が自分たちの秘義的権威主義を擁護する言葉を「イエスの言葉の伝承」として創作して、自分たちの権威付けに利用している。

 

それに対してイエスから見れば、「聞くことは聞くが理解しない」のは、彼らが排除している「外の者」ではなく、あなた達「弟子継承集団」ではないか…

 

マルコはそう言いたいのだろう。

 

 

 

マタイとルカにおける「種まく者の譬」と「いわゆる譬話論」との関係は、マルコとは異なった扱いとなっている。

マタイにおけるそれぞれの「種」はすべて複数形である。

つまり、かなりの分量の「種」がそれぞれの土の上に落ちた、という趣旨になる。マルコの場合は、農業としての収穫のことが念頭にあるが、マタイの場合は信者の信仰生活のことしか頭にない。農業とは無関係に信者の信仰生活に焦点を当てて、「種まく者の譬」を解釈している。

 

それで、マルコは、全体として「三十倍、六十倍、百倍」になったとしているのに対し、マタイは個々の種が、ある種は百個、ある種は六十個、ある種は三十個となった、言い換えている。

マタイは個々の信者の能力の差を念頭に置いているからであろう。

マルコの30.60,100という順番をマタイは逆にして多い方から、100,60,30としたのもすぐれている方から順に並べ変えたのであろう。

 

 

それに対しルカは、実を結んだ「ほかのもの」を含め、すべての「種」を単数形にした。

マルコは、一つ、二つの種はよそに落ちて実を結ばないこともあるが、ほぼすべての種はちゃんと実を結ぶ、と言っているのに対し、ルカは実を結ぶ良い種は一つしかないと言っていることになる。

 

ルカもマタイと同じく信者の信仰生活の念頭に置いているが、数ある「種」の中で「善い」種は一つだけ、ルカ教団の信仰生活だけが「実」を結ぶ、という趣旨にした。

 

マルコが、「一、三十。一、六十。一、百」と数字を対比させて、多少の無駄を気にするよりも、全体として多くの収穫があることを喜ぼうとしているのに対し、ルカは「百倍」だけを「良」かつ「善」なる「実」として取りあげている。

 

実際の種まきと収穫を考えているのではなく、自教団とは異なるキリスト教団の信仰生活の比喩として解釈しているからであろう。三十倍や六十倍を削ったのは、他教団の信仰生活も「善い」実を結ぶ教団であることを認めたくなかったからではないかと思われる。

 

 

 

 

 

マタイとルカは、マルコから弟子たちに対する批判的精神を消し去り、弟子集団を擁護するイエス像を作り上げている。

 

マルコの表現を変えたり、独自の解釈を加味しながら、マルコを換骨奪胎させているのである。マルコをベースにしながら別のQ資料伝承を組み込んだり、自教団のキリスト信仰やキリスト教ドグマを織り込みながら、彼らの好みに合わせて福音書を再編集しているのである。