マルコ2:23-28 <安息日問題> 並行マタイ12:1-8、ルカ6:1-5

 

マルコ2:23-28

23そして、安息日に彼が麦畑を通る、ということがあった。そして彼の弟子たちが穂をつみながら道を進んで行った。24そしパリサイ派が彼に言った、「見よ、なぜ安息日に赦されていないことをするのか」。25そして彼らに言う、「ダヴィデが困って飢えた時に何をしたか、読んだことがないのか。ダヴィデ自身とその仲間が。26アビアタルが大祭司だった時に、神の家にはいって、祭司しか食べることが許されていない供えのパンを食べ、また一緒に居た者たちにも与えた、ということを」。27そして彼らに言った、「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない。28だから人の子は安息日の主でもある」。

 

 

マタイ12:1-8

1その頃、イエスは安息日に麦畑を通った。彼の弟子たちは空腹で麦の穂をつんで食べはじめた。2パリサイ派が見て、彼に言った、「見よ、あなたのお弟子さんたちが安息日にしてはならないことをやっておいでだ。」。3彼は彼らに言った、「ダヴィデとその仲間が空腹だった時、何をしたか、お読みになったことがないのか。4神の家にはいって、祭司以外には誰も、ダヴィデもその仲間も、食べてはいけなかった供え物のパンを食べたということを。5あるいは、安息日に神殿にいる祭司は、安息日を無効にし、咎められることがない、ということを律法でお読みになったことがないのか。6なた方に言う、ここには神殿よりも大きなものがある。7もしもあなた方が、我、慈悲を望む。犠牲(の供え物)ではない、というのがどういうことかわかっていたら、咎められるところのない者たちを告発したりはしなかっただろう。8何故なら人の子が安息日の主であるのだから」。

 

 

ルカ6:1-5

ある安息日に彼が麦畑を通る、ということがあった。そして弟子たちが穂をつんで、手で揉みながら食べた。そこで人かのパリサイ派が言った、「なぜあなた方は安息日に許されていないことをするのか」。イエスは答えて彼らに言った、「ダヴィデとその仲間が空腹だった時にしたことを読んだことがないのか。彼は神の家にはいって、祭司以外は食べることを赦されていない供えのパンを取って食べ、仲間にも与えた、ということを」。そして彼らに言った、「人の子は安息日の主である」。

 

 

 

 

マルコ2:23-28(NWT)

23 さて,[イエス]はたまたま安息日に穀物畑の中を通っておられたが,弟子たちは道を進みながら穀物の穂をむしり始めた。24 それでパリサイ人たちは,「それ,ご覧なさい,なぜ彼らは安息日にしてはいけないことをしているのか」と彼に言いだした。25 しかし[イエス]は彼らにこう言われた。「ダビデが,つまり彼および共にいた人たちが窮乏して飢えた時に,彼が何をしたか,あなた方はかつて読んだことがないのですか。26 すなわち,祭司長アビヤタルに関する記述の中で,彼がの家の中に入って供え物のパンを食べたことを。それは,祭司たちのほかはだれも食べることを許されないものですが,彼はそれを自分と共にいた者たちにも与えたのです」。27 それから[イエス]はさらにこう言われた。「安息日は人のために存在するようになったのであり,人が安息日のために[存在するようになった]のではありません。28 ゆえに人のは安息日のでもあるのです」。

 

 

マタイ12:1-8(NWT)

1その季節のこと,イエスは安息日に穀物畑の中を通られた。その弟子たちは飢えを覚え,穀物の穂をむしって食べ始めた。2 これを見てパリサイ人たちは彼に言った,「ご覧なさい,あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをしています」。3 [イエス]は彼らに言われた,「あなた方は,ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時に[ダビデ]が何をしたかを読まなかったのですか。4 すなわち,彼がの家の中に入り,みんなで供え物のパンを食べたことを。それは,彼も,また共にいた者たちも食べることを許されず,ただ祭司たちだけに[許された]ものだったのです。5 またあなた方は,安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを,律法の中で読んだことがないのですか6 ところが,あなた方に言いますが,神殿より偉大なものがここにいるのです。7 しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう8 人のは安息日のなのです」。

 

 

ルカ6:1-5(NWT)

さてある安息日のこと,[イエス]はちょうど穀物畑の中を通っておられ,弟子たちは穀物の穂をむしり,それを手でこすって食べたりしていた。2 すると,パリサイ人のある者たちが,「なぜあなた方は安息日にしてはいけないことをしているのか」と言った。3 しかしイエスは彼らに答えて言われた,「ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時に彼が行なった事柄について,あなた方は読んだことがないのですか。4 すなわち,彼がの家の中に入り,供え物のパンを受け取って食べ,自分と共にいた者たちにも分け与えたことを。それは,ただ祭司たちのほかは,だれも食べることを許されないものなのです」。5 そして,続けて彼らにこう言われた。「人のは安息日のなのです」。

 

 

 

赤字は注目したい言葉。

緑字はイエスの言葉。

マーカーアンダーラインは各福音書間における相違。

 

 

 

マルコにおける論争物語の四番目である。論争物語は、イエスと律法学者、もしくはパリサイ派やヨハネの弟子たちとの間の対決という設定である。第一の<身体障害者の癒し>と第二の<収税人との食事>におけるテーマは「罪」「赦し」「罪人」という宗教的理念の是非に対する批判であった。

 

第三の<断食問答>と第四の<安息日問題>では、その宗教理念の批判を受け、「罪」「赦し」「罪人」という概念を生み出す本質に対する批判を展開させている。

 

第四の論争物語では、その源泉が「律法主義」にあることを「安息日」に関する規定を念頭に展開し、第五の論争物語である<安息日の治癒行為>でユダヤ教的律法主義との完全訣別を決定づけている。

 

 

 

<断食問答>では、イエスvsヨハネの弟子たち+パリサイ派という設定であったが、この<安息日問題>では、イエスvsパリサイ派という設定である。

 

書き出しのkai egenetoという表現は、1:9<イエスの洗礼>物語でも使われているが、厳密に出来事が生じた特定の日時を規定するような表現ではない。

 

非人称の中動相であり、「そのような出来事があった」という趣旨。「安息日に」とあるが、安息日にイエスと弟子たちとパリサイ派と麦畑の中の道で出会った時の出来事というような厳密な意味ではないようである。

 

NWTは「たまたま通っておられた」と訳し、ある安息日に実際にイエスと弟子たちがパリサイ派と麦畑で実際に遭遇した時の出来事であるかのように特定している。

 

パリサイ派の律法学者が安息日に麦畑を通ることが実際にあるのか、という論議があるようだ。

 

しかし、律法学者だけがパリサイ派ではないし、パリサイ派指向の農夫をパリサイ派に設定しているのかもしれない。<断食物語>のように後日パリサイ派によって持ち込まれた問題だったのかもしれない。

 

いずれにしても、瑣末な問題であり、マルコはイエスvsパリサイ派という構図でこの伝承を仕立てているだけであろう。

 

 

何が言いたいのかというと、常日ごろから、イエスとパリサイ派の間には、行動規範に関する論争が存在していた。それをマルコが「安息日」の出来事として仕立て直したのだろうということを冒頭の書き出しから、推察できるのである。

 

おそらくマルコが採用した元伝承の段階では、「安息日」の問題、というのではなく、「穂をつむ」ことは安息日に赦されるか否かに関するイエスの言葉を記録した伝承だったのであろうと思われる。

 

 

そのことは、この<安息日問題>の構造を分析することから理解できる。

 

 

この<安息日問題>も構造的には二つの伝承が合成されたものと考えられる。25-26節の旧約のダビデに関する話(サムエル上21:1‐6)は、神殿に備えられたパンを祭司以外の者が食することの是非に関するものであり、「安息日」に食することの是非とは本来無関係である。

 

「安息日」に赦されていないことの是非というテーマで見ると、23‐24節の導入部と27‐28節の結論とが一つの話として構成されている。

 

それに、ダビデの話があるので、「飢えた時」という危急の場合には「安息日」に関する規定を破ることは赦される、という趣旨の物語が成立するのである。

 

おそらく元来の伝承に25‐26節の旧約物語を差し込み、一つの物語に仕立てたのは、エルサレムの初期キリスト教団であろうと思われる。

 

このダヴィデ物語がなければ、<安息日問題>は、「安息日」というユダヤ教的宗教規定そのものの是非、という問題ではなく、「安息日」の存在を前提とした上で、その「施行細目」の是非、という問題にすり変わらないからである。

 

ダヴィデの話がなければ、「空腹時」という危急的状況においては、「安息日」の施行細目は限定的に正当化され得る、という結論には誘導できないことになる。

 

しかし、マルコの文には、弟子たちが「飢えていた」時に「穂をつんで」食べた、とは記されていない。ダビデが「困って飢えた時」の出来事については記されているが、弟子たちが「空腹で」とは書かれていない。

 

弟子たちが「空腹で食べた」と記述しているのはマタイであり、マルコではない。

 

マタイは、マルコの文を読み、この伝承を「空腹時」なら「安息日の規定」を無効にできる、という解釈を自分の福音書に織り込んだのである。

 

ルカは、「手で揉みながら食べた」と付加している。麦を「手で揉み」、殻を取ることが「脱穀」に該当し、安息日違反として告発するパリサイ派の姿勢かを織り込もうとしたのであろう。

 

 

しかしながら、マタイもルカも<安息日問題>におけるマルコのもっとも重要なイエスの発言に関しては、二人とも綺麗に削除しているのである。

 

マルコにおける<安息日問題>は「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない」というイエスの結論の言葉に導くことにある。

 

マルコの時点で、元伝承に原始教団が付加した伝承が流布していたのだろうが、元伝承では、「安息日」そのものを否定していることからして、「安息日に穂を摘む」ことが許されるかどうかを問題にしているのではなかったのであろう。

 

というのは、マルコおけるパリサイ派の異議は「安息日に穂を摘む」ことが赦されているか否かという問題であった。それに対するイエスの答えは、明白であった。「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない。だから、人の子は安息日の主でもある」というのがその答えである。

 

人間は無用に人間を縛りつける「安息日」のような宗教的規範の奴隷となるべきではない。宗教的規範を守るために人間が存在しているのではない。それなら、人間は「安息日」の主人でもあるのだから、人間が作った宗教規範や制度に縛られる必要はないではないか、というのがイエスの発言の趣旨である。

 

キリスト教はユダヤ教から引き継いだ正統な宗教であると自負していた初期キリスト教団は、ユダヤ教との融合を図っていた。それで、元伝承に旧約物語を付加して、イエス伝承として流布させたのであろう。「安息日」そのものの存在否定、ではなく、「安息日」存続前提での条件付き否定にすり替えたものと推測される。

 

ちなみにマルコのダヴィデ物語で「アビアタルが大祭司だった時に」とあるが、サムエル記上21:1‐6によれば、その時点での大祭司は、アビアタルではなく、父のアヒメレクであった。この種の誤謬は、旧約に精通したユダヤ主義的キリスト教徒では考えにくい。アビアタルはダヴィデがサウルからの迫害を避けるために逃亡生活をしていた時に共に行動した祭司である。(サムエル上22:20‐23参照)

 

原始教団が作成したイエス伝承ではアヒメレクであったものをマルコがアビアタルと勘違いしたのかもしれない。

 

おそらく、マタイとルカはマルコのこの間違いに気付いたのであろう。二人とも「アビアタルが大祭司だった時に」という句を削っている。

 

さらにマタイでは、マルコにはない句を挿入している。12:5で、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日を無効にし、咎められることがない」、ということを律法で読んだことがないのか、とイエスが問うのである。

 

もちろん反ユダヤ主義であるイエスが「律法」を根拠に論駁することなどありえない。偉大な律法教師的イエスを描くのはマタイである。マタイあるいはマタイが属する教団のユダヤ主義的キリスト教指導者による付加であろう。

 

だが、旧約律法にはそのような安息日に関する祭司の特権事項は規定されている箇所は存在しない。

 

とはいえ、民数記28:9‐10には、安息日に祭司が神殿でなさればならない供え物の規定が記されている。安息日を無効にする権限が祭司にあるわけではないが、安息日の規定を実施するためには、当然祭司は祭司の仕事をする必要がある。

 

こういう記述に解釈的要素を盛り込み、エルサレム崩壊後のラビ的ユダヤ教の段階では、「神殿に仕える仕事は安息日の規定を押しやる」ということが一般的に言われるようになったそうだ。

マタイは、祭司が安息日を無効にする権限を持つことに言及した後、イエスが「神殿より大きなもの」であることを宣言する。イエスがユダヤ教の祭司より大いなる祭司である、と読める文言をマルコに付加した。

 

その上で、すでに9:13に一度引用しているホセア6:6を引用し、何より神が「慈悲」を望んでいることを指摘し、<安息日問題>を「慈悲」の有無によって計るべきことを説教している。

 

マルコでは<安息日問題>が宗教規定の是非という問題であったのであるが、マタイでは宗教規定の違反における「慈悲」の是非という問題にすり替えられてしまったのである。

 

そして、マルコでは当然の帰結として、「だから、人の子はまた安息日の主でもある」とわざわざ「また…でも」(kai)という接続詞を「人の子」と「安息日」の間に入れているのであるが、マタイもルカもこの(kai)を削っている。

 

マルコがわざわざ「も」(kai)という語を入れたのは、「人の子が安息日の主である」ことの理由を述べるためではなく、前文に論理における当然の帰結として述べるためである。

 

分かりやすく言うと、「安息日は人間のためにあるのであり、逆ではない」。つまり、人間は安息日に支配されるべきではなく、人間が安息日を支配すべきである。だから、当然の帰結として、人の子(人間)は、「安息日」をはじめとする他の宗教規定においても、奴隷ではなく、主人でもあるのだ、というのがイエスの発言の骨子である。

 

このイエスの発言は、パリサイ派の非難に対する反論である。「安息日に穂を摘むという律法上では赦されない行為をしていた」とする「イエスと弟子たち」に対する反論である。

 

従がってこの反論の中で「人の子」と呼んでいるのは、「イエスと弟子たち」を指すことになる。

イエス個人が「人の子」という特別な称号で呼ばれる存在であるから、「人の子」だけが「安息日の主」という権限を持つ存在であると言っているのではない。

「イエスも弟子たち」も含めて、我々人間は誰でも「安息日の主人でもある」という存在なのだ、ということを「でも」(kai)という語で示しているのである。

 

 

ところが、マタイとルカは、マルコのイエスが主張したもっとも重要なイエスの主張を削っただけでなく、この「でも」(kai)まで削ってしまったのである。

 

マタイは、マルコの「だから」(hOste)という前文を受けて結論に導く接続詞を、「なぜなら」(gar)という前文の理由を導く接続詞に変えてしまった。

これでは、「人の子が安息日の主である」のだから、5‐6節のことが赦される存在なのだ、と主張していることになる。

 

マルコのイエスが述べた「人の子」という意味も「安息日の主」という意味も、「イエス」という特別な存在を示唆するイエスの発言に変わってしまったのである。

 

ルカはマタイとは異なり、マルコの文に余計な挿入は施してはいない。しかし、マルコがなぜその結論に至ったのかを示すイエスの言葉を省き、単に前文の続きとして「人の子は安息日の主である」という文だけを採用した。

 

そのおかげでマタイと同じく「人の子」と「安息日の主」という呼称が特別な意味を帯びたものとなってしまっている。

 

 

 

マタイ12:5のNWT「神聖でないもののように扱う」、田川訳「無効にする」と訳している原文のギリシャ語(anaitoi)の原義は、「踏みつける」の意。宗教的法的な語法としては、法を破って犯罪を犯すという意味ではなく、「法の規定そのものを無効にする」という趣旨。

 

NWTのように「神聖でないもののように扱う」と訳すと、「安息日」に代表されるような一般には「神聖」とされている律法規定であって、祭司には「神聖ではないもののように扱う」権限が付与されており、しかも「罪にはならない」ことが「律法」の中に書かれている、と読めることになる。

 

WT流に拡大解釈すると、ユダヤ教はキリスト教によって廃されたのであるから、現在の祭司である「統治体」がWT教以外の宗教を神聖なものとして扱わなくても、聖書の中に書かれているのだから、「罪にならない」ということが神から保証されている、「統治体」を支持するJWにも同様の保証がある、と読むWT教信者もいるのではなかろうか。

 

 

 

WT82/10/15の「読者からの質問」では、WT読者の中には、「命を救うためであれば(宣教活動も含む)、神の律法を破ってもよい、という根拠をマタイ12:1‐8に求める者の存在を認めている。

わざわざ統治体に質問を寄せる読者であるのだから、その多くはJW信者であろう。注意深く考察せず、間違った結論を出す者なのであれば、推して知るべし、であろう。

 

*** 塔82 10/15 30ページ 読者からの質問 ***

■ マタイ 12章1‐8節を根拠に時々言われることですが,命を救うためであれば神の律法を破ってもよいのでしょうか。

ある人々はそのような考えを持っていて,その裏付けとしてマタイ 12章1‐8節を引き合いに出しますが,聖書を注意深く考察するなら,それは間違った結論であることが分かります。

イエスの弟子たちは,穀物畑の中を通った際,律法で許されているように,畑に残されていた穀物の穂を少し集めました。(レビ記 19:9,10。申命記 24:19‐21)パリサイ人は,安息日にこれを行なったとしてイエスの弟子たちを非難しました。これらの宗教指導者は律法に数々の解釈,それも特に安息日にしてはならない不法な「仕事」に関する様々な解釈を加えていました。これらの人間の規則およびその背後にある律法偏重の精神からすれば,弟子たちの行なった事柄は二つの形態の仕事,つまり収穫(『むしること』)と脱穀(穀物を『こすること』)に当たり,罪を犯していたことになったのです。(マタイ 12:1。ルカ 6:1)しかし,イエスは次のように言われました。

「あなた方は,ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時にダビデが何をしたかを読まなかったのですか。すなわち,[彼ら]が……供え物のパンを食べたことを。それは,彼も,また共にいた者たちも食べることを許されず,ただ祭司たちだけに許されたものだったのです。またあなた方は,安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを,律法の中で読んだことがないのですか。ところが,あなた方に言いますが,神殿より偉大なものがここにいるのです。しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。人の子は安息日の主なのです」― マタイ 12:3‐8。

 

以下に注意深い考察と称するものが長々と述べられているが、「神の律法」が「安息日問題」から「血の問題」にすり替えられ、論理の体をなしていないのが残念です。

 

 

WTでは、「イエス」は「安息日の主」であるのだから、イエスは「千年王国」の「王」でもあるという根拠をこの<安息日問題>の伝承に求めている。

 

「人の子」という称号は、終わりの日におけるイエスの称号の一つであり、「六日」にわたるサタンの支配が終わらせ、「七日目」となる「安息日」は人類に「安息」をもたらす「楽園」である。その「千年王国」である「安息日」の「主」は「イエス」である、というのである。

 

*** 塔08 2/15 28ページ 7節 マルコによる書の目立った点 ***

2:28 ― イエスが「安息日の主」と呼ばれているのはなぜですか。律法は来たるべき良い事柄の影を備えている』と使徒パウロは記しています。(ヘブ 10:1)律法の規定によれば,安息日は労働の六日間の後に来ました。イエスはその日に多くのいやしを行ないました。このことは,サタンの圧政が終わった後にキリストの千年統治のもとで人類が経験する平安な休息やその他の祝福を予表していました。ですから,その王国の王は「安息日の主」でもあります。―マタ 12:8。ルカ 6:5。

 

 

<安息日問題>におけるイエスの「人の子は安息日の主である」という言葉を取りあげ、「人の子」という称号は特定の権威ある存在を指し、「人の子」だけが安息日の規定を超える存在である。この「人の子」とは「イエスとその弟子たち」で構成されており、それは「神の国」の実現のために奉仕する存在である。そして「神の国に奉仕するために必要な要求は、安息日の規定に縛られるものではない。イエスと弟子たちの活動は、宗教的な意味からすれば、神殿祭司の仕事に匹敵するのであるから、彼らは安息日の規定を超える存在である。イエスと弟子たちの「神の国宣教」の仕事は、ユダヤ教の神殿での仕事よりも大いなるものだ。

 

 

 

しかし、マルコの記述を並行と照らし合わせながら読むと、マルコには、そのようなキリスト信仰を読みとれる部分は全く見られないのである。マタイをマルコに読み込まない限り、特別な意味を持つ「人の子」や「安息日」の存在は読みとれないのである。

 

 

 

さらに、安息日は選民イスラエルのために、作られた制度であり、「神の創造的行為」である。イエスは弟子たちと主に「人の子集団」を形成しようとしていたのであり、「神の創造的行為」は選ばれた民であるイスラエルの真の後継者である「教会」のためにこそなされるのである。

 

WTは、聖霊によって油注がれた144,000人は、「会衆」を構成する「神の新たな創造物」であり、イエスと共に「神の国を構成する集団」となる、と教えている。

 

 

しかしながら、マタイとルカがマルコを写している以上、「安息日」=「千年王国」という解釈をマルコにまで求めるのは、イエスの言葉の真意を捏造したキリスト信仰の産物であるように思う。

 

しかも、上の解釈は、「統治体」が聖霊によって導かれて啓示されたオリジナルの解釈ではない。この解釈は、キリスト教の聖書学者であるT.W.Mansonの学説よるものである。Mark II,27f,in Conjectanea Neotestamentica XI,1947で出された見解である。

 

しかし、彼自身も認めているように、この解釈はマタイをマルコに読み込まない限り成立しない解釈である。

 

 

WTは彼の解釈をJW用語で書き変えながら、神からの啓示と称して自教理に採用したのであろう。高等批評を批判しながら、教理の核は批判する学者の解釈を拝借する。しかもそれを、神による啓示であり、聖霊によって任命されている証拠であると主張するのであるから、何と申しましょうか…。

 

 

最初に書かれた福音書がマルコではなく、マタイであると、頑なに主張するはずである。

 

とんだ「真理の探究者」集団である。

 

 

 

調べたついでの瑣末な話である。「穂をつんで、手で揉む」行為は、脱穀に相当する仕事とみなされるので、「安息日」には赦されていなかった、という註解される。

WTも先にあげた「読者からの質問」でそう解釈している。

 

 

ところが、どうもそうではないらしい。

 

 

ミシュナの中の「安息日」7:1以下に「安息日にしてはいけないこと」の表が載っている。そこに「種をまくこと、耕すこと、取り入れをすること……」というのが出て来る。しかし、「穂をつむこと」という条項はない。

 

「耕作と刈り入れ」を安息日に休むことについては、出エジプト記34:21に記されている。他人の所有する畑であっても、鎌を入れて刈り取ることは赦されないが、通りすがりに麦の穂を手で摘んで食べることは赦されるという規定は、申命記23:25に出て来る。

 

他人の畑に鎌を入れて刈れば、他人の所有物を盗むことになるが、空腹時に通りすがりに麦の穂をつんで食べることぐらいは、寛容を持って許される、というのである。旧約律法の「人道主義的」特色の一部である。マタイがマルコに「慈悲深さ」の要素を付加したのは、こうした律法規定を熟知していたからであろう。

 

パリサイ派が問題にしたのは、「手でつんで食べる」ことが安息日律法の「刈り入れ」に該当するかどうか、という問題である。

イエスが申命記23:25を引き合いに出せば、彼らの論理に従って、律法から論破出たはずである。

鎌を入れたわけではなく、手でつんで食べただけであるから、申命記23:25からすれば、安息日の律法規定に赦されていないことをしているわけではない、と完全論破出来たはずである。

 

しかし、マルコのイエスは、律法を引き合いに出し、同じ土俵でパリサイ派をやりこめる優れた律法学者のイエスを描こうとはしていない。

 

むしろパリサイ派的発想そのものを否定し、麦の穂をつむことを「刈り入れ」とみなすかどうかということを問う姿勢そのものを批判しているのである。

 

「安息日は人のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない」と……。

 

「安息日」という宗教規定によって、人を支配しようとするその姿勢そのものが間違っている」と……。

 

「人間は安息日などという宗教規定に支配されるべきではなく、自分の生活規範を支配する主人は自分自身であるべきだ」と……

 

 

 

そこには、パリサイ派と同じ水準で対抗しようとするのではなく、その基準を支えている規範そのものに批判の目を向けている自由なイエスの姿が見えるのである。