マルコ1:21-28 <カファルナウムの会堂での活動> 並行ルカ4:31-37

 

マルコ1:21-28

21そしてカファルナウムにやって来る。そしてすぐに安息日に会堂にはいり、教えるのであった22そして彼の教え人々は驚嘆した。律法学者のようではなく、権威ある者のようにらを教えたからである。23そしてすぐに、彼らの会堂に汚れた霊に憑かれた人がいて、叫んで、24言った、俺たちとあんたの間にどういう関係がある、ナザレ人のイエスさんよ。俺たちを滅ぼすためにお出になったってわけか。あんたが誰だか、知ってるぞ。神の聖者だろ」。25そしてイエスは彼を叱りつけ、言った、「黙れ、この人から出ていけ」。26そして汚れた霊は彼をひき裂き、大声をあげて、彼から出て行った。27そしてみんな驚き、互いに議論して言った、「これはいったい何だ。権威ある新しい教えだ。汚れた霊にさえ命令すると、霊どもはこの人に聞き従う」。28そして彼についてのうわさが、すぐにどこでも、ガリラヤの周辺地帯全域に、広まった。

 

NWT

21 そして彼らはカペルナウムに入った。

安息日になるとすぐ,[イエス]は会堂に入って教えはじめられた22 すると,人々はその教え方すっかり驚いた。彼は権威を持つ者のように教えておられ,書士たちのようではなかったからである。23 また,ちょうどその時,彼らの会堂には,汚れた霊に支配された人がいて,その人がどなって 24 こう言った。「ナザレ人イエスよ,わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか。わたしたちを滅ぼそうとしてやって来たのですか。わたしはあなたがだれだかはっきり知っています,聖なる者」。25 しかしイエスはそれを叱りつけ,「黙っていなさい。そして彼から出て来なさい!」と言われた。26 すると汚れた霊は,彼にけいれんを起こさせ,声かぎりにわめき立ててから,彼から出て来た。27 そこで,人々はみな非常に驚き互いに論じ合って,こう言った。「これはどういうことなのか。しい教えだ! 彼は汚れた霊たちにさえ権威をもって命じる。すると彼らはこの人に従うのだ」。28 こうして彼の評判は周辺のいたるところ,ガリラヤ全土にすぐに広まった。

 

ルカ4:31-37

31そしてガリラヤの都市カファルナウムに下って来た。そして安息日に彼らを教えるのであった。32そして彼らはその驚嘆した。その言葉には権威があったからである。33そして会堂で汚れた悪魔の霊に憑かれた人が居て、大きな声で叫んだ、えああ、俺たちとあんたの間にどういう関係があるのか、ナザレ人イエスさんよ。俺たちを滅ぼすためにお出になったってわけか。あんたが誰だか、知っているぞ。神の聖者だろ」。35そしてイエスは、彼を叱りつけ、言った、「黙れ、この人から出て行け」。そして悪霊は彼を(人々の)真ん中へと叩きつけて、彼から出て行ったが、彼を傷つけることはなかった36そしてすべての人々に驚きが生じ、互いに語りあって言った、「この言葉は何だ、権威と力を持って汚れた霊どもに命じると、霊どもが出て行くとは」。 37そしてその周辺のすべての場所に彼についての噂が広まった。

 

NWT

31 それから[イエス]はガリラヤの都市カペルナウムに下って行かれた。そして,安息日に人々を教えておられた。32 すると彼らはその教え方にすっかり驚くのであった。彼の話すことには権威があったからである。33 さて,会堂には,霊つまり汚れた霊につかれた人がいて,大声でこうどなった。34 「ああナザレ人イエスよ,わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか。わたしたちを滅ぼそうとしてやって来たのですか。わたしはあなたがだれかをはっきり知っています,聖なる者」。35 しかし,イエスはそれを叱りつけてこう言われた。「黙っていなさい。そして,彼から出て来なさい」。そこで,悪霊は,その人を人々の真ん中に投げ倒してから出て来たが,彼を傷つけてはいなかった36 すると,非常な驚きがすべての者に臨み,彼らは互いに語り合ってこう言った。「これは何という話なのだろう。彼が権威と力とをもって命じると,汚れた霊たちは出て来るのだ」。37 こうして,彼に関するたよりは周囲の地方のすみずみに伝わっていった。

 

緑字は悪霊の言葉

青字はイエスの言葉

マーカーはマルコとルカの違い

赤字は注目したい言葉

 

 

<カペルナウム>について

  伝統的に「カペルナウム」(Capernaoum)という表記は、ビザンチン系の写本やACLに出て来る綴りに基づくもの。他の大文字重要写本は、「カファルナウム」(Capharnaoum)という表記。ヴルガータでは、まだCapharnoumと表記されていたが、ルターがビザンチン系小文字写本のテキストに基づき、Capernaoumと表記した以降、「カペルナウム」という表記が定番化された。

 

  ルカは「都市」(polin)と書いているが、法的には「都市」(polis)の指定は受けていない。実際には、漁村であったようである。ヘブライ語で「ケファル・ナフム」(慰めの村)をギリシャ語綴りにしたものであるが、WTが解説するような「ガリラヤ」を代表するような「都市」というイメージではなかったようである。

 

  ガリラヤには、ティベリアス、セッフォリス、マグダラ等の重要な「都市」(polis)がいくつもあり、それらに比すればごく小さい町、むしろ村に過ぎなかった。イエスの時代には、ヘロデ・アンティパスとフィリポスとの支配領域の境界に位置していたので、収税所(2:14)や百卒長(マタイ8:5)が常駐していたのであり、WTが解説するように、多くの人口を抱える大都市だったから、というわけではない。

 

  当時の歴史家である「ヨセフス」の著作を読むと、カペルナウムが多少の「物資の集散地」であったのは確かであるが、ガリラヤで指折りの繁栄都市ではなかったことが理解できる。

 

*** 洞‐1 598ページ カペルナウム ***

(Capernaum)[「ナホムの村」または「慰めの村」を意味するヘブライ語に由来]

ガリラヤ湖の北西岸にあった,イエスの地上での宣教において重要な役割を果たした都市。そこには収税所がありました。イエスはその収税所にいたマタイをご自分の弟子となるよう召されました。(マタ 9:9)また,軍の駐屯地もあったと思われます。というのは,ある百人隊長がそこに住んでいたからです。(マタ 8:5)それらの点に加えて,そこには奴隷たちを所有するほど裕福な,王の従者が住んでいたこと(ヨハ 4:46‐53)も考えると,カペルナウムはかなり大きくて重要な,それゆえに「ガリラヤの都市」と呼ばれるに値する都市であったように思われます。―ルカ 4:31。

二つの主要な遺跡が,カペルナウムのあった場所として指摘されてきました。カーン・ミンエー(ホルバト・ミンニーム)の廃墟は,ガリラヤ湖に面し,ゲネサレの平原の北東の隅に位置しており,多くの人からカペルナウムがあった場所とみなされました。しかし,そこでの発掘調査は,その廃墟が元はアラブ人のものであったことを示しています。それで残るのは,カーン・ミンエーから湖岸に沿って北東へさらに約4㌔,ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込む地点から南西にそれとほぼ同じ距離の所にある広大な廃墟,テル・フーム(ケファル・ナフーム)だけです。この辺りの湖岸の平原はかなり狭くなっていますが,古代にはヨルダン川からカペルナウムを経てゲネサレの平原を通る道路があり,メソポタミアやダマスカスからパレスチナを通ってエジプトにまで至る大通商路につながっていました。この地域は,幾つかの泉の水がゲネサレの平原を流れてガリラヤ湖の青い湖水に注ぎ込んでおり,それらの泉の水が運ぶ大量の植物性の物質に多くの魚が引き寄せられるため,漁師にとって非常に好都合な場所となっています。

 

 

 

  WTだけではないが、多くの註解書は「カペルナウム」をイエスの時代の歴史的に重要な都市、交通の要所となる、「かなり大きく重要な都市」と位置付けている。

  「広大」と言いながら「平原はかなり狭く」と言っていたり、「大通商路」に面しているのかと思いきや「つながっている道路」があるだけであったり、何とか「大きく重要な都市」に仕立てようとする思惑が交錯している。

 

  実際にイエスが「奇跡活動」を開始した場所がカペルナウムであったのかどうか定かではないがイエスの奇跡伝承や聖者物語がカペルナウムに多く残されていたのは事実であろう。マルコからすれば、エルサレム教会よりも重要なキリスト教会が存在していたのかもしれない。いずれにしても、マルコはイエスの活動の拠点をカペルナウムに設定したのである。

 

  マタイとルカには、カペルナウムに関して、「裁きの日」に、不信仰のゆえ「滅び」をイエスが呪詛したという伝承が伝えられている。(マタイ11:23、ルカ10:15)マルコに、この話はない。

 

  この伝承においてマタイとルカでは導入句が異なっているが、内容に大きな違いはなく、どちらもQ資料に基づく伝承である。

 

  マタイは、カペルナウムを「強力な業が数多くなされながらも、悔い改め」なかった都市と並べて、「汝は天にまで上ったとでもいうのか、むしろ地獄へ」とイエスが呪詛したとしている。

 

  ここから見えて来るのは、カペルナウムの庶民に対して、イエスが強力な業を数多く実施した。そこには、イエスを信奉する人々が大勢いた、ということ。しかし、マタイ派の流れのキリスト教会(エルサレム教会を母教会とするユダヤ人系キリスト教)の宣教師をカペルナウムは受け入れなかった、ということであろう。

 

  ルカでもカペルナウムが、「悔い改めなかった」ゆえに、「天に高められず地獄に下る」としている。マタイにおいてもルカにおいても、「悔い改める」とはキリスト信者になることを意味している。少なくてもペテロたちが形成したエルサレムのキリスト教会の宣教師たちが自分たちの教会権威に服すべきものとして統一しようとしたが、失敗した。その腹いせに、イエスの口に呪詛の言葉を置き、伝承化され、Q資料として残されていたのであろう。

 

  おそらくキリスト信者間では有名な伝承であったであろうから、マルコも当然知っていたものと思われる。とすれば、マルコはカペルナウムに関するイエスの呪詛の伝承を外したのは意図的である。「悔い改め」ないから「呪詛する」権威主義的なイエスをマタイとルカは、採用したが、マルコは、実際のイエスにはそぐわないと判断し、不採用にしたのだろう。

 

 

  この物語でも、ルカは、マルコが明記している「ガリラヤの」という地名を削除し、単に「その周辺のすべての地域」と書き換えている。

 

 

 

 

  カペルナウムに関して、キリスト教に関係すると思われる4世紀ごろのラビが伝える興味深い伝承がある。カペルナウムの一般住民が異端に走って罪人となった、というのである。二世紀初めころのラビ・ハナニヤがこの異端に反対したが、彼らは聞き入れなかった、という。(G.Dalman,Orte und Wege.Jesu,3,Aufl,Gutersloh,1924)

 

     カペルナウムはユダヤ人を源とする町であり、「罪人」とはユダヤ教から見た「罪人」である。つまり、ユダヤ教を離れて、「異端」とされる別の宗教に宗旨変えする庶民が大勢いた、ということである。

  この「異端」がキリスト教を意味するのであれば、カペルナウムには、エルサレム教会を母体とする正統派キリスト教とも異なる別のキリスト教会が存在しており、イエスの活動と生き方を継承しようとしていた集団が存在していたことになる。

  少なくても、カペルナウムという町(村)は、伝統的かつ戒律的なユダヤ教に固着している風土の町ではなく、かなり自由な気質の住民が多く存在していたことは確かなようである。

 

  パリサイ派の律法学者の教えよりもイエスの教えを愛した自由な人間が福音書の当時もカペルナウムの民衆に根付いていたのであろうエルサレム教会系の宣教師が失敗するのも無理がなかったのかもしれない。

 

 

 

  マルコは、イエスをナザレ出身者であることをはっきりと指摘している(1:9,24)。それにもかかわらず、マルコはガリラヤ湖畔の村カペルナウムをイエスの最初の活動の場と設定した。

 

  しかし、マタイは、イエスが本格的に活動をカペルナウムで始める前に、出生地であるナザレに帰している。(マタイ4:13)一方、ルカは、イエスの活動の開始場所を出身地であるナザレの会堂に設定している。(ルカ4:16~)

 

  二人とも、イエスが出身地でもない地方都市で宗教活動を始めたとするマルコの記述に違和感を覚えたのであろう。

 

 

 

  常識的に考えるなら、宗教的なあるいは聖人的な活動をどこから最初に始めるかは、重要な問題である。教祖の聖地になりうるからである。マタイもルカもまず出身地であるナザレから活動を開始するのが自然だと考えたのであろう。

 

  しかし、マルコは、1:9,24でナザレに言及した以降は、まるで無視するかのように6章まで登場しない。しかも、<ナザレ物語>(6:1-6)は、イエスが故郷で退けられた、という話である。マルコにとってのナザレとは、イエスを退けた「親族」の出身地なのである。(3:20-21)

 

  後にエルサレム教会の重鎮となったイエスの親族たちに対するマルコの拒否感情がここにも見られるのである。マタイやルカとは異なる否定的な感情がエルサレムやイエスの親族に向けられているのである。

 

 

 

<イエスの教え>について

  この物語では、「カペルナウムの会堂におけるイエスの教え」(1:21-22)と「汚れた霊につかれた者の癒し」(1:23-26)の二つの要素が結合されている。1:27-28は二つの要素の話を結びつける「結びの編集句」である。

 

  「安息日に会堂に入り、教えるのであった」の、「安息日」は複数形で、「教えるのであった」は、未完了過去形。

  複数形の「安息日」でも単数の「安息日」を意味する場合も多く、この個所も「ある安息日に」と単数の意味に解されることが多い。しかし、「教えるものであった」の動詞が未完了過去であり、過去における動作の反復を意味している。

 

  つまり、「ある一つの安息日に」という意味ではなく、「安息日ごとに」「安息日になると」イエスが会堂に出かけて行って話をして、「教えることがよくあった」、という趣旨である。反復ゆえに「安息日」が複数形なのである。

 

 

  NWTは、原文のギリシャ語未完了過去を「~しはじめた」と訳している。多くの和訳聖書も同じであるが、これは未完了過去を英語の過去進行形で表現する習慣をそのまま和訳したもの。未完了過去が出てくれば、何でも「~しはじめた」と訳せばよいとした英語訳の伝統に従っただけのものであるようだ。原文の意味も、実際にその時から「~しはじめた」という趣旨ではない。

 

  「安息日になるとすぐ、イエスは会堂に入って教えはじめられた」というと、イエスは安息日をまだかまだかと心待ちにしており、安息日になると一目散に会堂に入り、大勢の人々を前に教えはじめた、というイメージになる。「すると、人々はその教え方にすっかり驚いた」と続くので、奇跡的なイエスの教え方や話をイメージすることになる。

 

  また、NWTでは、「イエスの教え」について「すっかり驚いた」のではなく、「教え方」に「すっかり驚いた」と訳している。

  それで、「教え」の本質ではなく、「教え方」の技術的な側面に注目することになる。原文の「教え」(didachE)は、「教える」(didaskO)の名詞であり、「教え方」という意味ではない。

      KIは原文の「教え」(didachE)を、teachingと字義訳しているのであるが、NWTは、his way of teachingと「訳」している。

 

  ちなみにこの箇所の「教え」を「教え方」と訳している和訳聖書は他に存在しない。英訳でも、wayの意味を付加しているのは、調べた限りGNT:the way he taughtだけであり、他はhis teachingと訳している。his wayとイエスの独自の教え方に驚いたという趣旨に訳している聖書は他にはなさそうである。

 

 

  1:21の「そしてすぐに」も1:23の「そしてすぐに」も、時間的な意味で「すぐに」「直ちに」という意味ではなく、文の区切りを示すマルコの口癖の表現である。

 

  1:21-22のイエスの教えに関する描写は、マルコがまとめた編集句であるが、もともとはもっと具体的なイエスの伝承が残されていたのであろう

  そのイエス伝承をマルコは「律法学者のようではなく、権威ある者のよう」なので、人々は驚いた、とまとめたのであろう。

 

 

 

  では、「律法学者のようではなく、権威ある者のよう」なイエスの教えとは、どのようなものだったのだろうか。

 

WTは次のように説明する。

*** 追 第10章 101ページ 7節 『こう書いてあります』 ***

イエスが神の言葉を引用した時のことを考えると,み言葉に深い畏敬の念を抱いておられたことが分かります。聴衆は『その教え方にすっかり驚き』ました。『イエスが権威を持つ者のように教えておられ,書士たちのようではなかったから』です。(マルコ 1:22)書士たちは教える際,いわゆる口伝律法に言及したり,昔の博学なラビを引き合いに出したりすることを好みました。イエスは,口伝律法やラビをただの一度も権威として持ち出しませんでした。むしろ,神の言葉を究極の権威とみなし,『こう書いてあります』と幾度も述べました。こうした表現を繰り返し用いて,追随者たちを教え,間違った考えを正しました。

 

 

 

  WTの解釈によると、「書士たちの教え=口伝律法やラビを権威とする教え」であり、「イエスの教え=神の言葉を究極の権威とする教え」という理解である。

 

  一見、もっともであると思われるかもしれないが、「書士」と「イエス」の「教え方」の違いに着目しているだけである。どちらも「旧約」という権威に依存している点では、同じことを主張しているだけである。

 

  当然ながら、書士やラビたちは、旧約を無視して、口伝律法やラビを権威としていたわけではない。「書士」「律法学者」(grammateis)の直訳は、「書物の人たち」であり、「書物」(grammata)とは「旧約聖書」を指し、主として「律法」を指す言葉である。

  律法を研究し、人々に教え、ユダヤ教の指導者になった人たちを「書物の人たち」と呼んだのである。口伝律法(トーラー)は、「旧約」の施行細目を定めたものであるし、博識なラビたちの考え(ミドラッシュ)は「旧約」の解釈であり、むしろ「旧約」を「神の言葉」として究極の権威を持つものと考えていた。

 

  イエスが「こう書いてあります」と「究極の権威」として言及した「神の言葉」とは、「新約」は存在していないのであるから、当然「旧約」のことである。

  とすれば、イエスが権威を持つ者のように教えていたという「~と書いてある」という言い方は、イエスではなく、むしろ律法学者の物言いであったということになる。

 

 

  皮肉的な見方をすれば、あるいはそうではなくても、当時の「口伝律法」は現代の「ものみの塔誌」に相当し、「博識なラビを権威とする教え」とは、「統治体の教え」や「著名な巡回や長老の教え」に相当すると考えることができるかもしれない。

 

  WTの解釈に従えば、WTや博識な統治体を権威とする教えは、「イエスの教え方」ではなく、「書士たちの教え方」に属することになる。

 

  「イエスの教え方」に従うのなら、聖書を独自に解釈したWTや博識な統治体の成員を「ただの一度も権威として持ち出し」てはならないはずである。

  むしろ「神の言葉(=聖書)だけを究極の権威」とみなして、「こう書いてあります」というのが、「イエスの教え方」に従った「正しい教え」であるということになるのではないだろうか。

 

 

 

  WTの自己矛盾的解釈を「仮にそれが事細かに記されるとすれば、世界そのものといえども、その書かれた巻物を納めることはできないであろうと思う」(ヨハネ21:25)。

 

  これは皮肉である。

 

 

 

閑話休題。

 

 

 

  では、イエスは、どのように「権威ある者のように」教えたのであろうか。

 

  マルコは、「こう書いてあります」とイエスが教え、それが「権威ある者のような教え方」だったと言っているのではない。イエス自身が「権威ある者」のように教えていた、と述べている。

 

  確かにWTが指摘するように、律法学者は伝承の言葉の権威に依存しており、「ラビ○○は、……と言ったラビ○○が言っている」という形式をとるのが特色であった。

  先達のラビの名をあげて系譜の正当性を主張したのである。それらのラビの系譜はモーセの律法にさかのぼることが重要なのであり、旧約に書かれていることが正しく権威ある証拠とされたのである。

 

  それに対して、イエスはそのような伝統としての権威を引き合いに出して語ったのではなく、自分自身が「権威」を持っている者として語った、とマルコは述べている。

 

  しかし、イエスが旧約預言者のように直接的に神の声を伝えた、というのではない。旧約預言者は、自分の言葉を語ろうとしたのではなく、常に神の言葉を伝えようとした。だから預言者は常に「エホバはこのように言った」という導入句で民に語りかける。

 

  律法学者がラビ的伝統と律法の権威に依存していたのに対し、預言者は直接に神の権威に依存していた。

 

  しかし、イエスは預言者とも異なり、自らの言葉で、自らの権威で語るのである。イエスは律法学者のように「ラビ○○は言ったと伝えられている」と教えたのでもなく、預言者のように「神はこのように言った」と教えたのでもなく、「我、汝らに告ぐ」という言い方で教えたのである。

 

 

  山上の垂訓に残されているイエスの言葉を思い出すなら、イエスの教え方がどのようなものだったか理解できるであろう。

 

  繰り返し、「あなた方は……と言われていることを聞いている。しかしわたしはあなた方に言う……であろうと」(マタイ5:21-、27-、33-、38-、43-他)と教えたのである。

 

  あるいは、「アーメン、我汝らに告ぐ」(「あなた方に真実に言いますが」NWT)という言い方で(マタイ5:17‐、6:1‐、6:5‐、6:16‐他)、旧約にも神の権威にも依存せずに、自らの理解と判断をそのまま、人々に伝えたのである。

 

 

  これはイエスが自分を神の位置に置き、自分の判断を神の判断として教えていた、というのではない。他者の権威に依存するのではなく、しかし、自分の主張を絶対化するのでもなく、事実を事実としてありのままに見て、当然に言うべきことと判断したなら、確信を持って言う。

 

  「はいははい。いいえはいいえ。それ以上のものは悪から生じる」(マタイ5:37)そのようなイエスの確信が、「律法学者のようではなく、権威ある者のように教える」イエスの姿であったように思う。

 

  人々が驚嘆した「イエスの教え」を、マタイは山上の垂訓の結びの句としてマルコ1:22をそのまま写している。(マタイ7:29)

 

  NWTはそちらも「イエスの教え方」と訳しているが、人々は「イエスの教え」に驚嘆したのであり、「イエスの教え方」に驚嘆したのではない。

 

 

 

 

<悪霊祓い>について

  この物語のマルコのもう一つの要素である、悪霊祓いの話(1:23‐26)であるが、これは典型的な奇跡物語の型に沿っており、ほぼ伝承の言葉遣いをそのまま採用したものと思われる。

 

  1:23の「そしてすぐに」にも、時間的な意味はなく、前述の出来事が起きて「直ちに」という意味ではなく、文の移行を示すもの。

 

  悪霊がイエスの名を呼ぶことによってイエスの力から身を守ろうとしたり、イエスが悪霊に「黙れ」と命令を下し、呪縛を解かせたり、悪霊が出て行く時に、ひきつけや大声をあげさせ出て行くことの証拠とする、という表現は悪霊祓い物語の典型的な特色である。人々が「驚いた」という言葉で結ぶのも奇跡物語の定型である。

 

 ローマ時代や地方に限ったことではないが、イエス当時において、あらゆる種類の精神疾患の病気は、悪霊もしくは「汚れた霊」が憑り付いていると信じられていた。他の病気も同様に考えられていた。

  たとえば「癩病」になるのは、「癩病」なるものが人間に憑り付くから発症するのであり、悪霊が出て行けば病気が治るのと同様に、「癩病」が去れば、癩病は癒された。(マルコ1:42ほか)

 

 

  現代の世界においても、アマビエや祈祷に悪霊退散やコロナ治癒を託す発想は、似たようなものであるように思う。

 

 

  イエスが自ら「悪霊につかれた人」から「悪霊」を追い出そうと試みたことが何度もあったことは事実であると思われる。(ルカ11:20,10:18参照)

  少なくてもイエスを含めて当時の人々は、イエスの治療行為、あるいは奇跡的行為に関して、本当に「悪霊」を追い出したのだろう。そしてそのような行為が伝説化され、物語化され、大袈裟に盛られて、巷間に流布していくことになる。

 

  JWの経験談が実際とはかけ離れた壮大な話に盛られていくのと同じであろう。

 

  伝説的要素を外してこの話を読み返すと、「ナザレ人イエス」が「神の聖者」という表現と結び付けられていることに気付く。

 

  「神の聖者」という表現は、マルコにおいてはここにしか登場しない。新約の他の文書やユダヤ教の文献でも、「神の聖者」という表現が「メシア的称号」としては出て来ない。

  ただしヨハネ6:69で「神の聖者」という表現が用いられているが、マルコにおいて悪霊が「神の聖者」と発言していることを意識して、皮肉的に十二使徒批判するために借用している。

 

 

  旧約に出て来る「主の聖者」(詩篇106(105):16)という称号は、祭司アロンを呼ぶ称号であり、「祭司」と同義。民数記16:5‐7の「聖者」も同様に「祭司」を指す。

  士師記13:7,16:17の七十人訳B写本はヘブライ語原文の「神のナジル人」を「神の聖者」と訳している。他の写本は、「神のnaziraios」とヘブライ語の単語をそのままギリシャ語に音写している。

 

  ナジル人というのはnazar(特別に選別する、神に捧げる)という動詞から派生した語で、神に捧げられた特別な人間、つまり神に対して特別に誓いを立てている人間を指している。(民数記6章参照)WTは「開拓者」を「ナジル人」に比喩しているのでご存知の方も多いと思う。

 

  旧約偽典外典でも「聖者」という語は「天使」を指したり、「預言者」を指したりする用い方はあるし、新約でもルカ1:70、使徒行伝3:21の「聖なる(者)」は、「神の聖者」ではないし、「預言者」を指している。

 

  結局、メシア的な意味で「神の聖者」という表現を用いている箇所は、ほかには見当たらないのである。

 

  この伝承はヘブライ語原文の士師記16:17「神のナザレ人」という表現を意識して、「神の聖者」という表現と「ナザレ人イエス」という表現とを意図的に結びつけているであろう。

 

  つまり、一方では「ナジル人」を意訳して「神の聖者」としているのであり、他方では「ナジル人」と「ナザレ人」とを語呂合わせして「イエス」にかけているのである。

 

  イエスが「ナジル人」であるというわけではないが、イエスの信者が旧約のナジル人に付いての箇所とを結びつけて、イエスの活動を解釈し、伝説化されたのであろう。

  実際にイエスはお酒も飲んでいたようであるし、ナジル人の誓約を立てていたはずもないのであるが、その伝承をマルコが採用したのである。

 

 

 

 

  悪霊が証言した「神の聖者」という表現とそれに対してイエスが「黙れ」と命令したということから、いわゆる「メシアの秘密」なる理論が提出されている。

 

  悪霊がイエスを「神の聖者」と呼んだのは、イエスが「メシア」であることを知っていたからであり、イエスが悪霊に「黙れ」と命令したのは、イエスが生きている間は人間には「メシア」であることが秘密であったから、というもの。

 

  WTだけではないが、多くのキリスト教がこの説を受け入れている。

 

  しかし、悪霊を追い出す時に悪霊に「黙れ」と沈黙の命令を下すのは、典型的な悪魔払いの型であることは、多くの宗教に共通する特色である。(E.Rhode,Pschyche,Bd.ll.S,427)

 

 

  マルコにおいても、「黙れ」と命令するのは、悪霊に対してだけではなく、嵐を鎮める物語においても、イエスは「黙れ」と命令している。(マルコ4:35‐41)

しかも、どちらにも「黙れ」(pephimOso)と命令する際の動詞に「叱りつける」(epetimEsen)が使われている。

 

  つまり、「黙れ」と悪霊を「叱りつける」のは、メシアの秘密を守ることを意図した命令ではなく、嵐のような形をとって活動する霊を鎮圧する際にも、「黙れ」と「叱りつける」のは、目に見えない「霊」の作用と信じられていた症状を鎮静化する時の定型作業だった、ということである。

 

  従がって、「ナザレ人イエス」=「神の聖者」という悪霊の呼びかけも、メシアの秘密を守るというキリスト教ドグマからではなく、古代の宗教観から理解されるべきものだろう。

  つまり、古代において名前とは単なる呼称ではなく、相手の名前を知り、名前を呼ぶ、ということは相手に対して支配力を持つということを意味した。

 

  現代でも、ファース・トネームで呼び合う関係はかなり親しい間柄でないと違和感を覚えるものである。仕事関係でも、肩書で呼び合うのが常識的であり、天皇を名前で呼ぶ人はいないのと似た感覚である。

 

  悪霊が自分たちの敵を前にして、「イエス」の名を呼んで抵抗したのは、自分の身を守るために「イエス」の名を口にすることにより、イエスを支配して、逆にイエスを無力にしようとしたからであろう。

 

  しかしながら、イエスの「黙れ」という沈黙命令の力の方が強かったので、悪霊は追い出されてしまったのである。

そして、悪霊は追い出されていく時の証拠として、最後の抵抗を試み、沈黙が訪れた時、悪霊祓いの成功となり、人々は「驚嘆した」というのが、奇跡物語の流れである。

 

  古代の宗教観に照らして考えるなら、「神」の名を用いることを信者に強く勧めることは、「神」を支配する力を持ちたいという「悪霊」と同じ精神的欲求を持つ構造をしているのではないかと思う。

 

  確かにユダヤ教におけるいたずらに「神の名」を唱えてならない、という律法解釈の行き過ぎはあるのかもしれない。しかしながら、当時の宗教観を無視して、いたずらに「神の名」を唱えて、自分の願望を遂げようとすることは「イエスの教え」とは違うように思う。むしろ、「神の名」を呼んで、神を支配しようとする「悪霊」の精神構造と同じであるように私には思われるのである。

 

  神の名を唱えることが、身を守る助けと信じるのであれば、信仰の自由ですから、どうぞご自由に、ということです。

 

  またまた、余計なことを言いました。

 

閑話休題。

 

 

 

  「イエスの教え」と「悪霊祓い伝承」の二つの要素を一つの物語として融合させたマルコの編集には、他の共観福音書にはない、特徴的な表現が見られる。

 

  「イエスの教え」に人々は「驚嘆した」とあるが、「驚嘆する」とは通常奇跡物語の結論で使う表現であり、「教え」に「驚く」という語を用いるのは違和感のある表現である。

 

  一方、「悪魔払いの奇跡物語」に関しては、「権威ある新しい教え」と評価している。奇跡伝承に人々が「驚く」のは当然であるが、それを「教え」と表現するのはやはり違和感がある。

 

  ルカは、イエスが行なった奇跡を「権威ある新しい教え」と表現するのは奇妙であると思ったであろう。「権威と力を持って命じる」と「新しい教え」という語を削って書き換えている。

 

  つまり、マルコは「イエスの教え」も「イエスの奇跡物語」もどちらも同じく「驚嘆すべき出来事」であり「権威ある新しい教え」という相互に互換可能な評価をしているのである。

 

 

  どのような意図でマルコは、「教え」と「奇跡」を同義の評価を持つ出来事として、イエスの最初の活動の一つの物語として融合させたのであろうか。

 

 

  もしも、「イエスの教え」の面だけが強調されるなら、どうしてもイエスの生き方の実像が薄くなる。「教え」だけが抽象化され、普遍化されてしまい、格言的教訓話として、実像としてのイエスを離れて、独り歩きしてしまう。

 

  他方、「イエスの奇跡物語」だけが強調されてしまうなら、聖人化され神格化された「超人」としてのイエスが独り歩きしてしまい、語られた状況での「教え」の実体が隠されてしまう。

 

  1:27の結びの句でマルコが「権威ある新しい教え」という評価を、奇跡物語に適用することによって、「イエスの教え」と「イエスの奇跡物語」の双方を分離不可分の「イエスの実体」として位置づけようとしたのではないかと思う。

 

  「権威ある者のように教える」イエスの姿と、「民衆の中で癒しを行なう」イエスの姿を一人の人間の生き方として描写しようとしたのではないかと思われる。

 

  そして、そのようなイエスの姿が、「すぐにどこにでも、ガリラヤの周辺地帯全域に、広まった」、とマルコはイエスの活動のオープニングを結ぶのである。

 

 

  マタイやルカのように、ユダヤ教やユダヤ政治の中心地であるエルサレムからイエスの活動が始まるのではなく、地方の庶民の村であるガリラヤの村から、マルコのイエスの活動はオープニングするのである。

 

 

  ガリラヤの民衆の中で生きて語ったイエスをマルコは語りたかったのであろう。