マルコ1:12-13 <荒野の試練> 参照マタイ4:1-11、ルカ4:1-13

 

マルコ1:12-13

12そしてすぐに、霊が彼を荒野にほうり出す

13そして四十日の間荒野に居てサタンによって試みられた。そして野獣とともにいた。そして天使たちが彼に仕えた

 

 

マタイ4:1-11

1その時イエスは、悪魔に試みられるために、霊によって荒野へと連れて行かれた2そして、四十日四十夜断食し、その後、飢えた。3そして試みる者が進み出て、彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、この石ころがパンになるようにじてみろ4彼は答えて言った、「人間はパンだけで生きるわけではない、神の口から出るすべての言葉によって生きる、と書いてある」。5その時、悪魔は彼を聖なるへと連れて行き、神殿の翼に立たせた。6そして彼に言う、「もしもお前が神の子であるなら、この下に身を投げてみろ。(神は)汝のために天使たちに命令する、すると、天使たちはその手で汝を支え、汝の足が石に打ちつけられないようにするだろう、と書いてある」7彼は悪魔に言った、「主なる汝の神を試みてはならない、とも書いてある」。8また悪魔は彼を非常に高い山に連れて行く。そして世界のすべての国々とその栄光を見せ、9彼に言った、「お前がひれふして俺を拝んだら、これを全部やるよ」。10その時イエスは悪魔に言う、「サタンよ、退け。主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ、と書いてある。11その時悪魔は彼を去り、見よ、天使たちが進み出て彼に仕えるのであった。

 

 

ルカ4:1-13

イエスは聖霊に満ちてヨルダン(川)からもどって来た。そして霊において荒野の中を導かれ四十日の間悪魔によって試みられた。そしてその間何も食べなかった。そしてこの日々が終わると、飢えた。そこで悪魔が彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、この石ころにパンになるように、と言ってみろ」。イエスは悪魔に対して答えた、「人間はパンだけで生きているわけではない、と書いてある」また悪魔は彼を上の方へと連れて行き、一瞬の間に世界の国々を見せて、言った、「この国々に対する支配権をみんな、それにその栄光も、お前にやろうか。これは俺にまかされているんだから、俺がやりたい奴にやることができるもしもお前が俺の前で拝んだら、これはみんなお前のものになるぞ」。そこでイエスは答えて彼に言った、「主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ、と書いてある」。そこで悪魔は彼をエルサレムに連れて行き、殿のてっぺんに立たせた。そして彼に言った、「もしもお前が神の子であるなら、ここから下に身を投げてみろ。(神は)汝のために天使たちに、汝を守るようにと命令し、11そうすると、天使たちはその手で汝を支え、汝の足が石に打ちつけられないようにするだろう、と書いてある」12そしてイエスは答えて悪魔に言った、「主なる汝の神を試みてはならない、と言われている」。 13そして悪魔は一切の試みを終えて、時が来るまで彼から離れた

 

 

青字は、マルコとQ資料の違い

緑字は、マタイとルカの違い

マーカーは、マルコ、マタイ、ルカ独自の表現

 

 マルコには、イエスとサタンとの聖句問答は登場しないので、すべてが導入文というか、編集句であり、次の段落への橋渡しの文であるとも言えるかもしれない。

 マルコ、マタイ、ルカのそれぞれの話を、一つの同じ物語として理解しようとすると、その違いがあまり見えて来ないかもしれない。

 その違いをはっきりさせるために、各福音書の導入文、悪魔の言葉、イエスの言葉を抜き出して整理してみる。

 各福音書筆者がこの物語をイエスの宣教の前に置いていることの意図を探るのが目的である。

 

 

マルコの導入文

  そしてすぐに霊が彼を荒野に放り出す。そして四十日の間荒野に居て、サタンによって試みられた。そして野獣とともにいた。そして天使たちが彼に仕えた。

 

対応するマタイの導入文

  その時イエスは、悪魔に試みられるために、霊によって荒野へと連れて行かれた。そして、四十日四十夜断食し、その後、飢えた。そして試みる者が進み出て、彼に言った

結びの句

  その時悪魔は彼を去り、見よ、天使たちが進み出て彼に仕えるのであった

 

対応するルカの導入文

  イエスは聖霊に満ちてヨルダン(川)からもどって来た。そして霊において荒野の中を導かれ、四十日の間悪魔によって試みられた。そしてその間何も食べなかった。そしてこの日々が終わると、飢えた。そこで悪魔が彼に言った、

結びの句

  そして悪魔は一切の試みを終えて、時が来るまで彼から離れた

 

 

各福音書の導入文と結びの句の違い

  マルコでは、イエスが四十日間、荒野で野獣とともにいて、サタンに試されたとあるが、天使たちが仕えていた、とあり、野獣からもサタンからも害を蒙った形跡はない。荒野に放り出した「霊」が「神の霊」か「サタンの霊」か「イエスの霊」かはっきりしない。

 

  マタイは、マルコの「霊が彼を荒野に放り出す」という表現を「霊によって荒野へと連れて行かれた」と受身に言い換えている。「神の霊」か「悪魔の霊」かはっきりしないが、受身であるから「イエスの霊」、つまり自発的にイエスが荒野に行ったという趣旨ではない。

 

  マタイの結びの句からすれば、イエスが悪魔の誘惑を受けている時には、天使たちはまだイエスに仕えてはおらず、悪魔が離れてから、天使たちが仕えた始めたことになる。

 

  ルカは、イエスが荒野に向かう前に、「聖霊に満ちてヨルダン(川)からもどって来た」と前の段落を受けてから、「霊において荒野の中を導かれた」、つまりあちこちと荒野の中を霊において導かれながら移動していった、という趣旨にしている。

「聖霊に満ちて」「霊において導かれた」というのだから、明らかに「神の霊」によってサタンの誘惑に直面した、という趣旨になる。

 

  ルカの結びの句からは、荒野の誘惑中も誘惑後も、天使たちがイエスに仕えたという記述はない。

  悪魔はイエスから離れるのは「時が来るまで」の一時的な期間に過ぎず、「時が来る」と、再びイエスを試みることになる、という趣旨になっている。

 

 

この違いはどこから生じたのだろうか。

 

  マルコは、「そしてすぐに」(kai euthus)という接続小辞でこの物語を始めているが、これはマルコの口癖。1:10にも出て来る。マルコには24回登場する。マタイには一度も出て来ない。ルカには一度だけ。

  マルコにおいてこの言い方が出て来た時の、「すぐに」という語は、ほとんど意味を持たず、単に前の文に対して新しい文を始めるよ、という程度の軽い意味である。

  つまり、この場合、「洗礼を受けて、天の声を聞いた、すぐその後に」いう意味ではない。次の伝承に移りますよ、という趣旨である。

 

  それに対し、マタイは「その時」(tote)という副詞を接続小辞として使用し、この物語を始めている。このtoteで文を繋げて行くのは、マタイの口癖である。

  はっきりとした何かの出来事があった「その時に」という意味ではなく、単に口調を整えるためについ使ってしまう口癖のようなもの。マルコには6回だけ。いずれも文字通りに「その時に」という意味。マタイには全部で90回。そのうちの23回は段落の初めに登場。段落の途中で主語を変えるような場合にもこの語を使って、話を展開させている。

 

  ルカは、<イエスの洗礼>において、マルコの「ヨルダンでヨハネから」という句を外したので、<荒野の誘惑>の導入文として、「イエスは聖霊に満ちてヨルダン(川)からもどって来た。そして…」という文を付加したのであろう。

  ルカが「…もどって来た。そして…」という表現で繋いでいるのは、マルコの「そしてすぐ」という表現を、口癖とは思わずに、文字通りに「そして、その後すぐに」という意味に解したからであろう。

  ルカは<イエスの洗礼>におけるマルコの「そしてすぐに」においても、「洗礼を受け祈っていた時に、天が開け…」と続けているので、文字通りに「祈っていた。そして、その後すぐに、…」という意味に解していたと思われる。

 

 

  マタイとルカに共通して登場する悪魔との質疑応答伝承は、エルサレムの神殿が舞台として登場して来ることからして、エルサレムのキリスト教団の伝承が元となっているのであろう。

  旧約の言葉に旧約の言葉で返答するという体裁はラビ的問答を想起させており、ユダヤ人キリスト教徒の影響が強く感じられる。

  イエスとサタンの問答が実際の場面であったと考えるかどうかは個々人の信仰が関係してくるので触れないが、三回の誘惑問答が一つのまとまった物語として完成していたものと思われる。

  マタイとルカでは悪魔の発言とイエスの発言が多くの表現で一致しており、それぞれの導入句にも多くの共通点が見られる。マタイもルカも同じ資料(Q資料)を用いて編集したものと思われる。

 

  マルコには、サタンとイエスの問答が出て来ない。それで、もともとはQ資料のような長い物語だったのであるが、マルコが筋書きだけにしたものであるという説が出て来る。WTでも、マルコはキリスト教の音信のダイジェスト版という位置付けである

 

*** 塔82 4/15 28ページ マルコ,活動に満ちた福音書の筆記者 ***

キリスト教の音信のいわばダイジェスト版をお望みですか。そのような方は聖書を開いて,「マルコによる書」をお読みください。

 

  しかし、マルコにはQ資料には出て来ない要素がいくつか登場する。むしろ、内容上Q資料と共通しているのは、イエスがサタンに荒野で誘惑された、という話の骨格だけである。「野獣とともにいた」という話はQ資料にはない。荒野で「天使たちがイエスに仕えていた」という話はマタイとは明らかに矛盾している。ルカには登場しない。

 

  Q資料における荒野でのイエスは、天使の保護を拒否し、たった一人でサタンの誘惑に立ち向かう神の子というイメージである。

  それに対し、マルコの荒野でのイエスは、野獣や天使たちと共に平和に過ごすイエスというイメージである。

 

 マルコには、イエスとサタンとの言論対決がないので、「誘惑」のイメージが希薄である。それで、マタイとルカの<荒野の誘惑>に対して、マルコには<荒野の試練>という副題を田川訳が付けたのだろう。

 

  一般に、誘惑物語における「荒野」は、サタンとの戦いが行われる寂しく恐い場所、というイメージである。

  しかし、後期ユダヤ教やキリスト教最初期では、終末論的メシア待望信仰と荒野は結び付けられていたようである。

  二世紀初頭のラビ・アキバは「メシアはイスラエル人を荒野に連れて行く」という言葉を残している。

 

  「ユダヤ戦記」や「古代誌」でおなじみの一世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスは、ネロの時代にローマ独立運動のメシア的指導者が何人も「神の霊感を受けたと装って革命的な変革をつくりだそうとし、大衆を説き伏せて神がかりのようにさせて荒野に連れ出した。荒野で神が彼らに解放のしるしを示してくださる、というのである」と伝えている。(「ユダヤ戦記」2:259)

 

 

  正典以外は参考資料に過ぎず、正典と矛盾する思想は「聖書的な真実」ではないと判断する純粋な聖書信仰の方のために新約からの証拠も二つ取り上げておく。

 

  使徒行伝21:38では、パウロが「荒野に連れ出した」反ローマ主義のメシア的指導者と勘違いされたことが書かれている

  「終わりの日」の預言の一部とされているマタイ24:26では、偽キリストや偽預言者が、メシアが「荒野にいる」と言われても、ついて行くな、と警告されている。

 

  「荒野」にメシアや預言者がいるのは、当然のことであり、当時の常識的な信仰だったことが理解できる。洗礼者ヨハネも荒野の預言者であり、正典では、メシアではないかと噂されていただけであるとされているが、実際にはメシアとして活動していたものと推定される。

 

  つまり、「荒野」とは、決して悪い場所ではなく、「神に近い場所」であり、「神的存在と出会う」場所が、イエスの時代の「荒野」なのである。

 

  終末のイスラエルが、野獣によって危害が加えられるのではなく、むしろ「野獣とともにいて、天使たちに守られている」というマルコの構図は、旧約文書にも見られる。

  「十二族長の遺言」ナフタリ8:4では終末時にイスラエルに救いが生じる時には「悪魔は汝らから逃げ出し、獣は汝らを恐れ、天使が汝らの仲間となろう」とある。

  マルコにおける荒野のイエスと調和しているだけでなく、Q資料の原型を見ることもできる。

 

  マルコは「サタンによって試みられた」と記しておきながら、その内容には触れない。しかし、Q資料には無い情報を提供している。

  ということは、マルコが原資料とした伝承にも、おそらくQ資料のようなサタンとイエスの問答が記録されていたのであろう。もっとも、Q資料とは異なる伝承であった可能性が高い。

  マルコはそれを物語の形で詳述せず、単に「試みられた」という出来事を指摘するだけにとどめたのであろう。

 

  マタイの「四十日四十夜」は「断食」というユダヤ教慣習の励行を擁護する意図が見える。

  ルカの「四十日の間」は、霊において荒野の中を導かれることと結び付けられており、モーセにおける荒野の彷徨を想起させている。

 

  イエスと悪魔の質疑応答には奇跡信仰やラビ的問答に見られるような説教話の教訓的要素が含まれている。

 

マルコはそれらの奇跡話やラビ的説教に賛成できなかったのか、興味がなかったのか。いずれにしても福音書に登場させる必要はないと判断したのである

  マルコのイエスは、Q資料のようなサタンと旧約問答するイエスとは調和しなかったのであろう。

 

  マルコは、「サタンの試み」を指摘するだけにとどめ、イエスが「荒野」に「野獣」や「天使」たちとともにいた、という表象を描く。一体何を示したかったのだろうか。

 

  「荒野」の表象は、一種のパラダイスの実現であり、終末の時に実現する至福の状態をイエスが持っていたことを示していた。

  古今東西の偉人や聖人は、断固誘惑を拒否する超然とした人物でなければならない。人間的な欲望に屈してしまうのでは、偉人はともかく聖人の資格はないとされる。ましてやメシアや神の子には適合しない。

  マルコが「サタンの試み」を指摘するだけにとどめたのは、あらゆる聖者や偉人物語に共通する誘惑克服者としてのイエスを登場させたかっただけなのだろうか。

 

  マルコでは、「洗礼者ヨハネの活動」から始まり、「イエスの洗礼」に続き、「荒野の誘惑」を経て、本格的に「イエスの宣教活動」へと入っていく。

 

  これからイエスの宣教活動が始まる序曲として、「荒野」という「神に近い場所」で「神的存在に出会い」、誘惑を克服した聖者の中の聖者として、活動を開始する。その序曲の舞台が、「荒野」であり、そこで「野獣」や「天使たち」とともにいて、平和な状態を享受している。そしていよいよ、イエスの宣教活動の幕が上がるのである。

 

  「荒野」とは、神的存在に出会う、神に近い場所である。一種の理想郷、パラダイスの象徴であった。洗礼者ヨハネは、荒野の預言者であり、人々をその理想郷に導く存在である。

  イエスはその洗礼を受け、ヨハネの捕縛後、ヨハネが導いた「荒野」を出て、人々の間でキリストとして活動する姿がマルコのイエスである。

 

  マルコのイエスは、荒野の預言者ではなく、人々の間の預言者、メシアである。マルコは、「ユダヤ教信仰における理想郷に導くメシア」という姿ではなく、「人々の間で民衆と共に生きるメシア」という姿を描きたかったのではなかろうか。

 

  説教壇の上からの偉大な律法教師としてのイエスという姿は、ペテロ派やパウロ派などのユダヤ教的キリスト教団が作り上げたイエス像であろう。

 

  マルコの描くイエスは、社会の中で支配者に搾取されながらも懸命に生きる農民や季節労働者、病人や障害者、生活困窮者を救う民衆とともにいるイエス・キリストである。支配者や権力者と闘うイエス・キリストである。

 

  彼らが創り上げたQ資料に登場するような超然としたイエス像や説教壇にいる権力者然としたイエス像とはなじまないように思う。マルコが原資料からイエスとサタンの問答を削除した理由はそのあたりあるのかもしれない。

 

  マルコにおいては、ここまでが序曲、イエス・キリスト物語のオープニングである。これから本格的なイエス・キリスト物語の幕が上がるのである。

 

 

 

マルコとマタイ、ルカとの表現の違いをもう少し指摘しておく。

 

  マルコは、霊が彼を荒野に「ほうり出す」(ekballo)とek(外に)+ballo(投げる)という趣旨の語を使っているのを、マタイは、霊によって「連れて行かれた」(anagO: ana(上に)+agO(連れて行く)の受身)に書き変えてくれた。

  マタイとしては、主なるキリスト様を「ほうり出す」のは失礼だと思ったのだろう。

  ルカは、霊において荒野の中を「導かれ」(agO)としている。マタイのanagOの接頭語を外したもので、二人はどちらもマルコの「ほうり出す」に対応して、同じ箇所で用いている。

  つまり、マタイの接頭語は単なる強めで、(上に)という意味は消えているものと思われる。

 

  マルコの「サタン」(satana)に対して、Q資料のマタイとルカは「悪魔」(diabolos)。

  マルコは「悪魔」という語を用いない。(マタイ6回、ルカ5回)パウロも「悪魔」という語は用いていない。

  「悪魔」という表現は、疑似パウロ書簡、公同書簡、黙示録などの新約後期に属する文書の特色。

 

  マタイ4:11に「サタン」と出て来るのは、マルコに影響されたものだろう。後で詳しく説明する。

 

  マタイは、マルコとQ資料に同じ話が出てきたら、両方をミックスして一つの話に仕立てる編集方針。ルカは、マルコかQ資料のどちらか一方を採用する編集方針で福音書を書き上げている。基本的に二人とも、発言に関しては資料をそのまま写す方針。特にイエスの発言に関しては、資料そのままであることが多い。導入句や結びの句は、それぞれが自分の言葉で編集している。

 

 

 

  続いて、Q資料に登場するサタンとイエスの質疑応答の言葉を抜き書きしてみる。第一の誘惑はマタイとルカは同じであるが、第二と第三は、マタイとルカでは逆になっている。

 

(第一の誘惑)

マタイにおけるサタンの発言

  「もしもお前が神の子であるなら、この石ころがパンになるように命じてみろ

ルカ

「もしもお前が神の子であるなら、この石ころにパンになるように、と言ってみろ

 

マタイにおけるイエスの発言

  「人間はパンだけで生きるわけではない、神の口から出るすべての言葉によって生きる、と書いてある」

ルカ

「人間はパンだけで生きているわけではない、と書いてある」

 

  サタンの発言は、マタイの「石」が複数主格(lithoi)で、ルカが単数与格(lithO)という違いがあるだけで、語順も含めてほとんど一致している。

  マタイの「命じる」とルカの「言う」も原文の動詞は同じ(eipe)である。マタイは律法主義的なので「命じる」、ルカはそうでもないので一般的な意味で「言う」と互いの思想的な違いを考慮して田川訳は訳し分けただけだろう。

 

  それに対するマタイのイエスの発言は、七十人訳申命記8:3と語順にいたるまで、完全に一致している。

  ヘブライ語本文は、後半の、神の口から出る「すべての言葉」が、神の口から出る「すべてのもの」となっている。

  つまり、この誘惑物語は、ヘブライ語本文ではなく、七十人訳の引用で書かれたものということになる。

 

  ルカのイエスの発言には、マタイの後半の句はない。しかし、マタイと同じく七十人訳申命記8:3と完全に一致している。

  Q資料にあったものをルカが削ったとは考えにくい。なぜなら、ルカは、マルコとQ資料に同じ伝承がある場合、どちらか一方を採用し、他方は切り捨てる編集方針で福音書を書いているからである。

  マタイは、同じ伝承が両方に登場した場合、それを一つの物語に創り直して編集する方針で福音書を仕立てている。

  つまり、後半の句は、マタイが自分で付加している可能性が高いということになる。

 

  もし、そうであるなら、マタイは旧約をヘブライ語本文ではなく七十人訳でしか読んでいないことになる。

  つまりWTが主張するようなマタイ福音書の著者がヘブライ語ヘブライ人で、もともとはヘブライ語で書かれていたという可能性はなくなる。その他の背景を加味して考慮すると、使徒マタイがマタイ福音書の著者である可能性はまったくないことになる。

 

  第二の誘惑、第三の誘惑におけるイエスの発言も、第一の誘惑と同じく、マタイもルカも七十人訳と一致している。Q資料の原著者自身が七十人訳を引用して書いたものであろう。

  つまりこの誘惑物語はギリシャ語を第一言語とするギリシャ語ヘブライ人のキリスト教徒の間で作られたものということになる。

 

  ちなみに、NWTは、申命記8:3「人はパンだけによって生きるのではなく、エホバの口から出るすべての言葉によって人は生きるのである」となっている。旧約ヘブライ語本文では「すべてのもの」であるのに、「すべての言葉」と七十人訳にあわせて改竄している。もちろんRNWTも「すべての言葉」。

 

  NWTやRNWTだけではなく、新共同訳や口語訳等も同じく「すべての言葉」。

  「すべてのもの」としてあるのは、関根訳と新改訳だけ。

 

  残念ながら、原文に忠実を謳いながら、正典信仰と整合させることには余念がない編集者や翻訳者が多いようである。

 

 

 

(第二の誘惑)

マタイにおけるサタンの発言

  「もしもお前が神の子であるなら、この下に身を投げてみろ。(神は)汝のために天使たちに命令する、すると、天使たちはその手で汝を支え、汝の足が石に打ちつけられないようにするだろう、と書いてある」

ルカ(第三)

  「もしもお前が神の子であるなら、ここから下に身を投げてみろ。(神は)汝のために天使たちに、汝を守るようにと命令し、そうすると、天使たちはその手で汝を支え、汝の足が石に打ちつけられないようにするだろう、と書いてある」

 

マタイのイエスの発言(第二)

  「主なる汝の神を試みてはならない、とも書いてある

ルカ(第三)

  「主なる汝の神を試みてはならない、と言われている」。

 

 

  マタイでは第二、ルカでは第三の誘惑となっているだけで、悪魔の発言もイエスの発言もほぼ一致している。

  マタイの「この下に」(katO)という前置詞が、ルカでは「ここから下に」(enteuthen katO)と「ここから」という副詞を加えてわかりやすい表現になっている。

  もう一つ、ルカでは「汝を守るようにと」(tou diaphulaxai se)という三語の句が追加されている。

  この句は、七十人訳詩編90:11からの引用である。もともと「汝を守るように」という言葉が付いているのがその句の原文である。

  この句がQ資料の原文にあったのか、なかったのか。あったものをマタイが削ったのか。あるいはルカがQ資料に足したのか。二人の編集方針からして、おそらく、七十人訳をルカが確認して補ったものであろう。

 

  イエスの発言は、七十人訳申命記6:16の引用。マタイもルカも語順までぴたりと一致する。

  マタイが「書いてある」(gegraptai)、ルカが「言われている」(eirEtai)とあるが、当時の社会では、「書いたもの」も「言ったこと」もどちらも同じ重きを持っていた。

  「書いたもの」は保証になるが、「言った」だけの口約束は保証とはならない、というのは、司法制度が発達し、法律が明文化された以降の話である。

  古代においては、口伝も書面も同等の価値を持っていただけのことである。

 

  第二の誘惑の導入句でマタイは、「聖なる町」の「神殿の翼」に立たせた、と述べているが、ルカは、「エルサレム」の「神殿のてっぺん」に立たせた、と述べている。

  Q資料の「エルサレム」をマタイが「聖なる町」と書き換えたのか、ルカが「聖なる町」とあったのを「エルサレム」と書き換えたのか。

  ユダヤ人意識が強いマタイが、ユダヤ教の都を「聖なる町」と呼んだとしても不思議ではないが、地中海資本主義で生計を立てていたルカが「エルサレム」を「聖なる町」と呼ぶことは考えにくい。

  おそらく、Q資料に「エルサレム」とあったのを、マタイが「聖なる町」と書き換えたのであろう。

 

  マタイの、神殿の「翼」(pterugion)は、「翼」(pteryx)+指小辞(-ion)で、「翼的なもの」という趣旨。

  「翼みたいな形のもの」という意味だから、切妻型の屋根の端を指すのか、てっぺんを指すのか、それとも、神殿を囲む城壁の上を指すのか、諸説あるが、はっきりした意味は不明。

  ルカでは、神殿の「てっぺん」は異読によるものと思われるが、田川訳がどの写本の読みを採用したのかは、記述なしなので不明。KIもネストレもpterugionとマタイにあわせている。

 

  WTは、具体的な場所は分からない、としながらも「神殿域の南東の角」か「神殿の建物群の別の角」と想定している。神殿の「胸壁」とは「最も高いところの上」と解釈している。(WB2018/6)

 

  おそらく、ルカの異読の「てっぺん」との整合性を図ったものと思われる。

 

 

 

 

(第三の誘惑)

マタイにおけるサタンの質疑

  「お前がひれふして俺を拝んだら、これを全部やるよ」

ルカ(第二)

  「この国々に対する支配権をみんな、それにその栄光も、お前にやろうか。これは俺にまかされているんだから、俺がやりたい奴にやることができる。もしもお前が俺の前で拝んだら、これはみんなお前のものになるぞ」。

 

マタイのイエスの応答(第三)

 「サタンよ、退け。主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ、と書いてある」

ルカ(第二)

  「主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ、と書いてある」

 

 

  第三の誘惑における悪魔の発言は、マタイとルカでは意味は同じであるが、表現は大きく異なっている。ルカの「この国々対する支配権をみんな……やることができる」という悪魔の発言は、マタイでは、悪魔の発言ではなく、導入文として述べられている。

  それゆえ、ルカの悪魔の言葉には、マタイにはない生々しい臨場感がある。しかしながら、ルカの具体的な表現がどこから来ているのかは不明。

 

  イエスの発言は、第二の誘惑と同じく、七十人訳申命記6:16の引用で、マタイもルカもぴたりと一致する。

  ただし、マタイには、ルカにはない「サタンよ、退け」(hupage satana)という二語からなる命令文が加わっている。

  「サタン」という語は、新約後期のマタイに属する語ではなく、新約前期のマルコやパウロに属する表現である。

  同じ意味のイエスの発言が、マルコ8:33に登場する。「退け、わたしの後ろに、サタンよ」(hupage opisO mou satana)。

  「わたしの後ろに」(opisO mou)という二語を外すと、まったく同じ命令文である。イエスが十二弟子の筆頭であるペテロに向かって発した言葉である

 

  マタイは、結びの句ではその時「悪魔」が彼を去り……と述べていることからして、マルコ8:33が頭にあり、「サタンよ、退け」という命令文を付加したのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

  マタイの第二の誘惑における詩篇91:11−12とマルコとの関係やマタイの第三の誘惑における「非常に高い山」とルカにおける「上の方」の違いなどの、多少の積み残しは、あるが、以上が、今回のマルコから見た共観福音書<誘惑物語>の全容である。