マルコ1:2-8 <洗礼者ヨハネ> 並行マタイ3:1-6,11-12。ルカ3:1-6,15-17。
2預言者イザヤに、「見よ、我、わが使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう。3荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ、と」。2と書いてあるように、4洗礼者ヨハネが荒野に居て、そして罪の赦しにいたる悔改めの洗礼を宣べ伝えていた。5そして彼のもとに全ユダヤ地方と、エルサレム人もみな出て来て、自分の罪を告白し、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた。6そしてヨハネは駱駝の毛を着て、皮の帯を腰のまわりにしめ、蝗と野蜜を食べていた。7そして宣ベ伝えて、言った、「私の後から私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。8私はあなた方に水で洗礼をほどこしたが、その方はあなた方に聖霊で洗礼をほどこすであろう」。
マタイ3:1-6,11-12(田川訳)、3:7-12はQ資料
1その頃、洗礼者ヨハネがやって来て、ユダヤの荒野で宣べ伝えて、2言う、「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」。3この者こそ預言者イザヤによって、「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ、と」と言われていた者である。4ヨハネ自身はらくだの毛から(つくった)衣を着、革の帯を腰のまわりにしめ、食べ物は蝗と野蜜であった。5その時、エルサレムと全ユダヤと、ヨルダンのあたりの全地域が、彼のもとに出て来て、6自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7多くのパリサイ派やサドカイ派の者たちが彼の洗礼のために来るのを見て、ヨハネは彼らに言った、「蝮の裔よ、誰があなたたちに未来の怒りから逃れるようにと教えたのか。8それなら悔改めにふさわしい実を結ぶがよい。9そして、自分たちはアブラハムを父祖として持っている、などと自分たちの中で言おうと思うな。何故なら、あなた達に言う、神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになるのだ。10すでに斧が木々の根元に置かれている。良い実を結ばない木はすべて切られ、火の中に投げ入れられるであろう。
11私はあなた達が悔い改めるようにと水にて洗礼をほどこしたが、私より後からおいでになる方は私より力があり、私はその履物を脱がしてさしあげるほどの資格もない。その方は、あなた達に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。12その手には箕がある。そして脱穀場を掃き清め、自分の麦を集めて倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き捨てるのである」。
ルカ3:1-6,15-17(田川訳)、3:7-14はQ資料
1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの代官であった頃、そしてヘロデがガリラヤ四分領主で、その弟のフィリポスがイトゥライアとトラコニティス地方の四分領主で、リュサニアスがアピレーネー地方の四分領主だった時、2またアンナスとカヤパが大祭司だった時に。
神の言葉が荒野でゼカリヤの子ヨハネにあった。3そしてヨルダンのあたりの全地域へと行って、罪の赦しにいたる悔改めの洗礼を宣べ伝えた。4預言者イザヤの言葉の書物に書いてあるように、「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。 5あらゆる窪地は埋められ、あらゆる山と丘は低められる。そして曲がったところは真っ直ぐになり、悪路は平たんな道になる。6そしてすべての肉が神の救いの賜物を見るであろう」、と。
7それで、彼から洗礼を受けようとして出て来た群衆に対して、言った、「蝮の裔よ、誰があなた達に未来の怒りから逃れるようにと教えたのか。8それなら悔い改めにふさわしい実を結ぶがよい。そして、自分たちはアブラハムを父祖として持っている、などと心の中で言いはじめるな。何故なら、あなた達に言う、神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになるからだ。9すでに斧も木々の根元に置かれている。良い実を結ばない木はすべて切られて、火の中に投げ入れられるであろう」。
10そして群衆は彼にたずねて言った、「では私たちは何をしたらいいのでしょうか」。11答えて彼らに言った、「下着を二枚持っている者は、持っていない者に分け与えるがよい。また食べ物を持っている者も同様にせよ」。 12また収税人も洗礼を受けるために来て、彼に対し言った、「先生、私たちは何をしたらいいのでしょうか」。13彼らに対して言った、「自分に定められていること以上に取り立ててはならぬ」。14兵士たちもまた彼にたずねて言った、「では私たちは何をしたらいいのでしょうか」。そして彼らには言った、「いかなるものも強請ってはならぬ。また不当に告発してはならぬ。自分の俸給で満足するがよい」。
15民は待望しており、また多くの者が心の中でヨハネについて論じて、もしかして彼こそがキリストではないのか、と言っていたので、 16ヨハネが皆に答えて言った、「私はあなた達に水で洗礼をほどこすが、私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をほどくほどの資格もない。その方はあなた方に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。17その手には箕があり、脱穀場を掃き清め、麦を集めて自分の倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き捨てるのである」。
比較のために、NWTとRNWTも載せておこうかと、思ったが、突っ込みどころが多すぎて、必要な場合だけ言及するにとどめ、無視することにしました。原文に忠実な田川訳を中心に比較研究してみることにします。
マルコが預言者イザヤの言葉として、「(預言者イザヤに)書いてあるように、という導入句で始まり、旧約の「預言成就」という体裁で書いているのは、ここだけ。
引用文はすべてイザヤ書からのものとしているが、3節だけがイザヤ40:3の引用。「我らの大通り」が「彼(=主の)大通り」となっている以外は、七十人訳と一致。
2節の前半は出エジプト記23:20、後半はマラキ3:1の引用。出エジプト記は「七十人訳」と一致するが、後半はマラキ書「七十人訳」とは似ているが、まるで一致せず、ヘブライ語原文の直訳とも言えない。
それらを全部くっつけたすべてを、マルコはイザヤ書からの引用としている。
「彼について(旧約)に書いてあるように」という導入句が付いている箇所は、他に9:13、14:21にも登場するが、「エリヤ」と受難物語の中で「人の子」に関して、「彼について」とあるだけで、そのどちらも旧約文書を直接引用しているわけではない。
マルコが旧約に言及する箇所は、他にもいくつか存在するが、例示として(7:6-7他)、倫理規範として(12:6-8他)、あるいは単に表現として利用するため(4:32他)、であり、14:21の受難物語を除けば、預言成就という意味で旧約を引用するマルコ自身の導入句は他には、まったくない、と言える。
その点で14:21の受難物語における旧約預言成就の表現は、当時のキリスト教会で広く信じられていた受難物語伝承をマルコがそのまま記述したのであろう。
しかし、マタイには旧約預言成就の記述、いわゆる定型引用が11も登場する。イエスの活動をすべて旧約の預言成就という形態で解釈しようとするユダヤ教系キリスト教の試みがあったのであろう。
マタイでは、マルコにある「見よ、我、わが使者を汝の前に遣わす。この者が汝の道を整えるであろう」の文はなく、「荒野に呼ばわる者の声……」から始まる。
ルカもマタイと同じく、マルコにある「見よ、我、……」の文はなく、「荒野に呼ばわる者の声。……」から始まるが、マタイにはない文が付加されている。
ルカが付加した「あらゆる窪地は埋められ、あらゆる山と丘は低められる。そして曲がったところは真っ直ぐになり、悪路は平たんな道になる。そしてすべての肉が神の救いの賜物を見るであろう」という文は、マルコが引用した文の続きのイザヤ40:4-5で、七十人訳からの引用。ただし、七十人訳「平野」を「平坦な道」に書き変えている。「悪路」を修理するのだから「平野」になるのではなく「平坦な道」になると考えたのだろう、とは田川氏の弁。
マルコの混成引用は、マルコが資料とした伝承を形成した人物が、混成引用された文をもともとイザヤからの引用だと思い込んでおり、マルコは、その伝承を元に記述したのかもしれない。
この2-3節が、すべてイザヤからのものではないことは、オリゲネスやヒエロニムスなどの教会教父たちも気づいていた。
この混成引用された文はおそらく同じ主題に関する旧約の言葉を集めた語録集のようなものが、終末時成就すべき証言集(テスティモニア)として存在していたのであろう。
死海写本のクムラン第四洞窟で発見された断片には、エッセネ派のものと推定されているそのような終末預言集の存在が確認されている。
旧約の句を終末時の預言として引用するのは、すでに当時のユダヤ教の伝統となっていた、と思われる。
先駆者=洗礼者ヨハネに当てはめていることからして、洗礼者ヨハネの弟子たちがこの混成引用を採用していたのであれば、「主の道を備えよ」の「主」は「イエス」ではなく、「神」を指していたものであろう。
洗礼者ヨハネは、終末時に「神」が来臨する時の「先駆者」である、との信仰をキリスト教会においては、「神」ではなく「イエス・キリスト」の先駆者という意味に置き換えて、キリスト教化したのであろう。
イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けていたことは、確かであると思われるし、イエス自身もバプテスマを施していたと思われていたのであるから(ヨハネ4:1-2)、イエスの活動は、洗礼者ヨハネ集団から始まったのであろう。
その洗礼者ヨハネ教団の伝承に、1:7-8を加えて、「主」=「イエス」として、先駆者ヨハネ=キリストの先駆者とみなし、キリスト教化していったのであろう。
洗礼者ヨハネの宣教活動は、「荒野」で始まった、とマルコは紹介しているが、「荒野」とは「寂しい」(erEmos)という形容詞を単独で名詞化して用いたもの。
西洋語ではdesertと訳されるが、それだと日本語では「砂漠」のイメージになる。
むしろ、灌木などが生えている原野、というイメージの語。
1:35では、この形容詞に「場所」(topos)という名詞を付けて、用いている。この言い方は、導入句で使われており、マルコ自身の言葉遣い。
1:3,4,12,13は、伝承の言葉遣いをそのまま記したもの。
この語から派生した女性形の名詞erEmiaを8:4で用いている。
単独の名詞の場合は意味がきつくなるから、本当に人里離れた荒野のイメージ。形容詞は意味が広くなるから、erEmos toposと言うと、少し人里離れた場所、というイメージ。
マルコの引用では「その道筋」としているが、イザヤ書では「我らの神の道筋」。
つまりイザヤ書では、これは、「神が直接到来する(主=神)、その道筋を真っ直ぐにして準備せよ」という文。
それをこの引用文では、メシア到来の預言(主=メシア)として、微妙に書き変えている。
ヘブライ語原文では、この種の詩文は二行同義で書かれており、「主の道を備えよ」と「その道筋を真っ直ぐにせよ」とが同義反復の表現と解されるのが普通。
「道」と「道筋」は別々の語であるが、「小径」(岩波訳)ではなく、どちらかと言うと「大通り」。イザヤ書では、解放されたユダヤ人捕囚がバビロンからエルサレムまで帰還する街道を指している。
マルコのこの個所では、「神の子が彼岸から此の世にやって来る道」の比喩として用いている。
洗礼者ヨハネの宣教内容を、マルコは「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」と表している。
WT御用達の聖書は、「罪の許しのための悔い改めの[象徴としての]バプテスマ」(NWT)、RNWTに至っては、「罪の許しのための悔い改めを象徴するバプテスマ」と、「象徴する」という言葉を[ ]なしで表しているが、もちろん原文に「象徴する」という意味の語は存在しない。「意味を補う」、あるいは「言葉や句の正しい意味を伝える」と称して、堂々と自教団の解釈を聖書本文まで書き込んで改竄したもの。
「(罪の赦し)にいたる」「(罪の許しの)ための」と訳されている前置詞は、eisで、英語のintoにあたる。「洗礼を受けることが罪の赦しの中へといたる」ということであるのだから、洗礼が「悔い改めを象徴」しているわけではない。「罪の赦し」にいたるためには「洗礼」は不可欠の要素である、と洗礼者ヨハネは伝道していた、と思われる。
マタイの並行には、「罪の赦し」という句が、削除されている。マルコの文をそのまま読むと、洗礼者ヨハネ教団は、「罪の赦し」を与えることができる、と読めることになる。マタイは「罪の赦し」を与えられるのは、「キリスト教」においてだけであると考え、マルコから「罪の赦しにいたる」という句を削ったのだろう。
ルカは、「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」とマルコにぴったりと一致している。
マルコ「baptisma metanoias eis aphesin hamartiOn」
マタイ「metanoeite」
ルカ「baptisma metanoias eis aphesin hamartiOn」
マルコでは、洗礼者ヨハネの洗礼とイエスの洗礼とを、「水」と「聖霊」とに対比させているが、マタイは、ヨハネの「水」に対して、イエスの「聖霊と火」とマルコにはない「火」を付加している。ルカは、マタイと同じく、「水」と「聖霊と火」との対比である。
マタイとルカの「火」はどこから来たのだろうか。
マルコは、洗礼者ヨハネの伝道をイザヤ預言の成就としているが、「見よ、我、わが使者を汝の前に遣わす」は出エジプト記23:20からの引用で、「この者が汝の道を整えるであろう」はマラキ3:1からの引用である。「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」という句だけが、イザヤ40:3からの引用である。
マルコは、ヨハネをイエスの先駆者、であり、「ヨハネより力ある方」であり、「聖霊で洗礼をほどこす」方として紹介している。つまり、ヨハネは、「主の道を備える」存在である、というのだから、この「主」とは「イエス」を指して用いていることは明らかである。
それをNWT・RNWTは、「エホバ」と解して本文に書き加えている。旧約イザヤ書からの引用であるなら、ヘブライ語聖書の「主」は「エホバ」であるから、ギリシャ語聖書の原文にもテトラグラマトンが記述されているはずである、という主張に基づく訂正・改竄である。
その根拠を裏付ける七十人訳やギリシャ語写本は何一つ存在していない。神の名を口にすることも記述することもタブー視していた当時のユダヤ教からしてもありえない主張である。何の根拠もないのに信じたければ、信じればよいので、どうぞ自己責任でご自由になのですが、「聖句と自由の誤用は罪です」、と主張する方もいたような……
キリスト教においては、「汝」の前に遣わされる「我が使者」とは、あくまでも「メシア」ではなく「メシアの先駆者」にすぎない、という位置付けである。旧約預言の「我が使者」とは、メシアの先駆者である「洗礼者ヨハネ」であると。
しかし、マルコがイザヤ預言としているマラキ3:1では、「神の使者」とは「神の前に道を整える者」のであり、「神自身の顕現」の前に「道を整える使者」が「ユダヤ民族の救世者」であるというが、ユダヤ教のメシア信仰である。
洗礼者ヨハネ教団は、マラキの預言をイザヤ預言の成就として伝道していたのであるから、当然洗礼者ヨハネを「メシア」として信奉していた集団であろう。
WT信者やキリスト信者がここの「主」を「エホバ」と解釈するが、他のキリスト教のように「イエス」と解釈するか、私にはそれほど重要な問題には感じられない。
それでも、ユダヤ教信者である洗礼者ヨハネが、マルコの言うイザヤ預言の言葉を自分に適用して、「神」が遣わす「我が使者」として、「主の道を備えよ」と伝道していたのであれば、洗礼者ヨハネは、終末時に神自身が顕現し世を裁く前に現れる先駆者である、という信仰を伝道していたことになる。
当時のユダヤ教における終末信仰において、神が臨在する前に登場する神の使者=メシアは預言者エリヤの再来という形で登場すると信じられていた。
これはユダヤ教におけるメシア信仰の必要要素であり、4節の風貌は預言者エリヤを彷彿とさせている。洗礼者ヨハネはユダヤ教におけるメシア要素を満たしていた。
洗礼者ヨハネが「来たるべきエリヤである」とするイエスの言葉(マタイ11:14)も残されている。実際にイエスが語った言葉とは考えられないが、洗礼者ヨハネをメシアと信じる集団が存在していたことの傍証とはなる。
実際、マルコ6:15では、洗礼者ヨハネを「エリヤ」とする集団の存在を認めている。Q資料の一部であると推定されるが、並行個所のルカ3:15では、イエスの登場以前に、洗礼者ヨハネを指して、「彼こそが待望のキリスト」とする集団が存在していたことを示唆している。
しかしながら、福音書の中では、洗礼者ヨハネ教団が、実際に「ヨハネ」を「メシア」として伝道していた集団であるとは述べられていない。あくまでもキリストの先駆者という位置付けである。ヨハネ=メシアという信仰は否定されてはいないが、キリスト教信仰ではなく、ユダヤ教信仰の問題として、洗礼者ヨハネ教団によるヨハネ=メシア伝道に関しては巧みに隠しているように思える。
イエスがヨハネより多くの弟子を作って洗礼を施しているという話(ヨハネ4:1)は、イエスではなく実際には弟子たちが施していたことにしているが、イエスの活動が洗礼者ヨハネ教団を母体にしていたのは確かなことだろうと思う。
洗礼者ヨハネの弟子たちが、「あの方は増し加わってゆき、わたしは減ってゆかねばなりません」(ヨハネ3:30)という言葉を、ヨハネ自身の言葉として伝えているが、洗礼者ヨハネ自身が自分をイエスの先駆者として自覚していたから、という話ではおそらくないと思われる。
なぜなら、イエスは復活してキリストとされたのであるから、洗礼者ヨハネ教団が洗礼者ヨハネをメシアとして伝道していたのであれば、生前中のイエスやイエス集団が洗礼者ヨハネをキリストの先駆者と位置付けていたとは考えにくい。
悔い改めのためにヨハネの元に来て洗礼を受けた人物が、自分はメシアであると信じていたにもかかわらず、同時に自分はメシアの先駆者であると信じていたというのは、どう考えても自己矛盾である。
それらの言葉は、洗礼者ヨハネ教団を母体とするイエス集団が、メシア信仰を神から正統に継承し、キリスト教団に移行したことを印象付けるために、洗礼者ヨハネの言葉として意図的にキリスト教化させたものであろう。
福音書は、キリスト教の文書であるから、ユダヤ教の資料をキリスト教化して記している部分が少なからず紛れ込んでいる可能性が高いと思われる。
マルコ1:2,3がイザヤ預言の成就としている混成引用も、洗礼者ヨハネ集団は、「汝」=「洗礼者ヨハネ」としていた伝承を、「汝」=「イエス・キリスト」に置き換えて、キリスト教に取り込んだものと思われる。
ここで、マルコが預言者イザヤの言葉の成就としている旧約の文を、マタイとルカの並行と比較してみる。
マルコ
「見よ、我、我が使者を汝の前に遣わす」-出エ23:20
「この者が汝の道を整えるであろう」-マラキ3:1
「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」-イザヤ40:3
マタイ
「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」-イザヤ40:3
ルカ
「荒野に呼ばわる者の声。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。あらゆる窪地は埋められあらゆる山と丘は低められる。そして曲がったところは真っ直ぐになり、悪路は平たんな道になる。そしてすべての肉が神の救いの汚賜物を見るであろう」―イザヤ40:3-5
マタイは、マルコが混成引用をイザヤ書としている部分から、イザヤ書の部分だけを引用し、ルカは、イザヤ書の続きの部分を付加していることがわかる。
次に、洗礼者ヨハネの発言とされる部分を比較してみる。
マルコ
「私の後から私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。8私はあなた方に水で洗礼をほどこしたが、その方はあなた方に聖霊で洗礼をほどこすであろう」
マタイ
「蝮の裔よ、誰があなたたちに未来の怒りから逃れるようにと教えたのか。8それなら悔改めにふさわしい実を結ぶがよい。9そして、自分たちはアブラハムを父祖として持っている、などと自分たちの中で言おうと思うな。何故なら、あなた達に言う、神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになるのだ。10すでに斧が木々の根元に置かれている。良い実を結ばない木はすべて切られ、火の中に投げ入れられるであろう。
11私はあなた達が悔い改めるようにと水にて洗礼をほどこしたが、私より後からおいでになる方は私より力があり、私はその履物を脱がしてさしあげるほどの資格もない。その方は、あなた達に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。12その手には箕がある。そして脱穀場を掃き清め、自分の麦を集めて倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き捨てるのである」
ルカ
「蝮の裔よ、誰があなた達に未来の怒りから逃れるようにと教えたのか。8それなら悔い改めにふさわしい実を結ぶがよい。そして、自分たちはアブラハムを父祖として持っている、などと心の中で言いはじめるな。何故なら、あなた達に言う、神はこれらの石からでもアブラハムのために子孫を生ぜしめることがおできになるからだ。9すでに斧も木々の根元に置かれている。良い実を結ばない木はすべて切られて、火の中に投げ入れられるであろう」
「下着を二枚持っている者は、持っていない者に分け与えるがよい。また食べ物を持っている者も同様にせよ」
「自分に定められていること以上に取り立ててはならぬ」
「いかなるものも強請ってはならぬ。また不当に告発してはならぬ。自分の俸給で満足するがよい」
「私はあなた達に水で洗礼をほどこすが、私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をほどくほどの資格もない。その方はあなた方に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。 17その手には箕があり、脱穀場を掃き清め、麦を集めて自分の倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き捨てるのである」
黒字はマルコと共通箇所。青字はQ資料。赤字は検討箇所。
マタイとルカは、「悔い改めるように」という趣旨の発言を、洗礼者ヨハネ自身が語った言葉としているが、マルコが洗礼者ヨハネの言葉としている部分に「悔い改め」という表現は出て来ない。
マルコは、導入句の中で、「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた」と紹介しているが、1:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音において信ぜよ」という言葉はイエスの宣教開始の言葉として紹介している。
マタイは「悔い改めよ、天の国が近づいたのだから」という宣教開始の言葉をイエスではなく、洗礼者ヨハネの言葉としている。
ルカは、導入句で、ヨハネが「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼を宣ベ伝えた」とマルコの導入句をそのまま写している。
導入句は福音書筆者自身の言葉である。
洗礼者ヨハネ教団が「洗礼」を施していたことは確かであると思われるが、マルコがイエスの言葉としている「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音において信ぜよ」は、実際には洗礼者ヨハネの言葉であった可能性の方が高いように思われる。
洗礼者ヨハネ教団の言葉をキリスト教が拝借したのであろう。
マルコは、ヨハネが「水で洗礼」をほどこし、イエスは「聖霊で洗礼」をほどこす、としている。
マタイは、ヨハネが「悔い改めるようにと水にて洗礼」をほどこし、イエスは「聖霊と火にて洗礼」をほどこす、とマルコにはない「火」を加えている。
ルカは、マタイとまったく同じ表現であり、いわゆるQ資料に基づく表現であろう。
洗礼者ヨハネに関するQ資料は、マルコよりもずっと詳しく書かれていたことは、マタイ3:7-12とその並行であるルカ3:7-17を比較すれば明らかである。
マタイとルカはQ資料とマルコを資料として福音書を書いているが、マルコが資料とした文にも、「聖霊と火にて洗礼」とあったのかもしれない。
神の顕現における神の使者がヨハネ=メシアという信仰をヨハネ教団が悔い改めと一緒に宣教していたのであれば、終末の審判は、「水」ではなく「火」が象徴としてはふさわしい。
つまり「火の洗礼」とは、終末の審判時に火にさらされることを象徴した表現であり、ユダヤ教的終末の預言者エリヤ=洗礼者ヨハネに適切な表現である。
それに対し、「聖霊による洗礼」はいかにもキリスト教的である。
とすれば、「火による洗礼」は、もともとは洗礼者ヨハネが語ったものと思われる。
マルコがイエスの洗礼を「聖霊」だけにしてキリスト教化したのに、マタイとルカは、マルコを否定したいあまりにQ資料も重視したために、「火にて」という表現を付加して、ヨハネ伝承をそのまま福音書を書き込むことになってしまったのであろう。
以上を考慮すれば、ヨハネの洗礼もイエスの洗礼のどちらも同じで、「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」だったものではないかと思われる。
本来はヨハネの洗礼とキリストの洗礼を区別する必要はないのかもしれない。
ヨハネの洗礼の儀式をキリスト教がそのまま拝借し、更にキリスト教化し、「聖霊による洗礼」として普及させただけなのではなかろうか。
WTは、ヨハネのバプテスマは、「悔い改めの象徴」であり、イエスの水のバプテスマは、「神のご意思を行なうために自分を差し出すことの象徴」としてである。
今日のキリスト教のバプテスマは、復活したキリストに対する信仰に基づいて神に献身したことの象徴としてのものである、と教えている。
バプテスマが罪を取り除くのではないが、救いと神の是認の必要条件である、という。
しかし、キリスト教における洗礼が、ユダヤ教の終末信仰に由来する洗礼者ヨハネの洗礼をキリスト教化して、継承するためのものであるとすれば、救いと神の是認に、バプテスマというキリスト教の儀式は、どれほどの意味と価値があるのだろうか。
重要なのは、キリスト教がユダヤ教からの正統な継承宗教であることを証明するために必要とされた儀式であり、個人の救いとは無関係に組織を維持するために必要なキリスト教の洗礼儀式が洗礼であった、ということになるのではないだろうか。
ユダヤ教を否定しながら、ユダヤ教を継承する儀式を救いと神の是認のための必要条件とするキリスト教。
私にはよく理解できないが、それも信仰の自由なのであろう。
信じたい人はどうぞご自由に信じて、自由の民として生きて行くのがよろしいのではないかと思う。
これも個人的な信仰である。