●「兄弟愛」と「見知らぬ人に対する愛」について。(ヘブライ13:1-3より)

 

WTでは、四種類の「愛」について教えており、それぞれの「愛」を示すべき対象を限定している。(WT09/07/15.P13-14参照)

 

「アガペー」とは、「愛である」神を描写するのに用いられる語であり、「原則に支配され導かれた愛」と定義されている。「神の愛」は、「敵をも愛する愛」なのであるから、限定すべき対象は存在せず、基本的には全人類が「アガペー」愛の対象となっている。

 

「ストルゲー」とは、「家族内に存在する自然の情愛」指すのに用いられて来た語で、温かい緊密なきずなで結ばれた心と感情の伴なうものと説明されており、その愛は、基本的には家族関係が対象となっている。

 

「エーロス」とは、結婚の枠内における性的な結びつきを伴う男女の愛を指す、と説明されており、その愛の対象は、パートナー関係に限定されている。

 

「フィリア」とは、「兄弟より固く付く友人」である「真の友」との間に見られる「愛情」や「友情」を指す語であると説明されており、その愛は、友人関係が対象となっている。

 

対象範囲を小さい順に整理すると、

「エーロス」<「ストルゲー」<「フィリア」<「アガペー」

「夫婦」<「家族」<「友人」<「全人類」

という関係になり、

愛情の深さは、対象範囲が小さくなればなるほど深くなるという構図になる。

 

「兄弟愛」に関しては、「親切や同情を示し、助けを差し伸べる、情のこもった愛」のことである、と定義されている。さらに「兄弟愛」とは、「優しい愛情」と訳される「フィロス」と「ストルゲー」の合成語のようなものであり、「家族に対する愛」と「真の友」に対する愛情が組み合わさったものであるが、原則に基づく愛によって導かれているもの、と説明している。

 

対象関係においては、「フィリア」であるが、愛情の深さにおいては「ストルゲー」という構図のようだ。「アガペー」は「原則に支配されて導かれる愛」のことであるから、すべての「愛」に関しても共通に支配されていると解釈できる。

 

このことを前提に、ヘブライ書の著者は、「兄弟愛」と「見知らぬ人に対する愛」を対照させ、何を言いたかったのかを探ってみたい。

 

ヘブライ13:1-3

NWT「1あなた方の兄弟愛を保ちなさい。[人を]親切にもてなすことを忘れてはなりません。それによってある人々は、自分ではそれと知らないで、み使いたちを接待したのです。獄につながれている人たちのことをいつも思いなさい。自分も共につながれているかのように。また虐待されている人たちのことも[思いなさい]。あなた方自身まだ肉体でいるのですから」。

 

田川訳「兄弟愛が存在するようにせよ。よそ人に対する愛も忘れるな。この愛があるなら、気づかずに天使たちを客として受け入れた人もいたのだ。囚われている人たちのことを覚えなさい。自分もともに囚われているのだから。また悪を蒙っている人たちのことも。彼らまた肉体を持っているのである」。

 

原文のギリシャ語を見るとはっきりわかるが、1節と2節は対照関係にある。

1 he philadelphia menetO  KI: The brotherly-affection let-be-remaining

2 tEs philoxenias mE epilaathanesthe… KI: Of-the fondness-for-stragers not be-you-forgetting

 

「兄弟愛」と訳されているギリシャ語は、philadelphia(フィラデルフィア)という語で、philia-(愛)+adelphos(兄弟)の合成語である。

 

NWTが「[人を]親切にもてなすこと」と訳している語は、philoxenia(フィロキセニア)というギリシャ語で、philia(愛)+xenos(よそ者)の合成語で、字義的には「見知らぬ人に対する愛」という意味である。

 

WTでも良く取り上げられているので、「もてなし」=「見知らぬ人に対する愛」という意味を御存じの方も多いと思う。

 

「兄弟愛」も「もてなし」のどちらも、「愛」を意味するphiliaを語幹としている。しかしながら、KIの字義訳を見ると理解できると思うが、同じphiliaを「兄弟愛」では、affectionをあて、「もてなし」には、fondnessと別の語をあてている。

 

どちらも「愛情、愛着」の意味であるが、affctionの方が気持優先、fondnessの方は理屈抜きというイメージであろうか。

 

同じ語幹なのにわざわざ異なる語を字義訳にあてているのだから、何らかの意図があるのだろうと思う。

 

WTでは、xenosに関して、「見知らぬ人」「旅人」などの意味であると註解している。(WT09/07/15.P13-14他)

 

しかし、xenosは、strangerという語が、単に「旅行者」を意味するだけではなく、「奇妙な人間」、つまり「部外者」「異質な人間」という意味でもある。

自分たちの町の住民や同じ氏族や民族以外のよそ者、外の人、異国の人、自分たちとは異なる慣習を持つ人というのが原義である。

 

つまり、原義からすれば、聖書中で、「人をもてなす」人、と言えば、組織宗教の信者仲間だけに愛を示す人を指しているのではなく、字義的には、「信者外の人」にも愛を示すことを「もてなし」と表現しているのと考えるのが妥当であると思われる。

 

それを、「同じ教団の信者内」の「見知らぬ人」「旅行者」に限定して解釈するのは、いずれも教団の教理を読み込んだ理解である。

なぜなら、WT教義によれば、ヘブライ書が書かれたパウロの時代のキリスト教は分裂しておらず、統治体のもとで使徒を中心とした一つのキリスト教しか存在していないという前提での理解だからである。

 

もし、「兄弟愛」が「自分が属する教団内」での話であるなら、一世紀当時、教理の異なる種々のキリスト教が存在していたことを認めなければならない。

 

JWにとっての「兄弟」とは、同じ教団に属する仲間だけを指し、「兄弟」と呼んでいたことになる。しかし、イエスの時代からイエスの名を使い布教していた十二使徒たちとは共に行動しなかったキリスト信者集団が存在していたことをマルコ9:38-42(並行ルカ9:49-50)が示しており、イエスは彼らを「味方」と呼んでいるからである。

 

最低限、少し広げて宗派は異なるが、同じ「キリスト教信者内」の「見知らぬ人」「旅行者」と解するのでなければ、「兄弟愛」とは、「イエスが味方」と呼んだ者を愛すること」という意味にはならず、そのイエスの言葉との整合性は取れないことになる。

 

しかし、イエスは、弟子たちに「自分の敵をも愛する愛」を教えた(マタイ5:43-46並行ルカ6:27-28,32-36)とされており、「隣人を自分自身のように愛する」(マルコ12:31並行)ことを愛の戒めとして教え、隣人とは同じ氏族、民族、宗教に属する人間ではなく、その外にいる異国の人であるサマリア人であることをルカ10章で、(追記:投稿時、15章と記述してしまいましたが、10章の誤りです。読み返して、気が付きました。申し訳ありません。お詫びして訂正します。)示している。

 

つまり、「見知らぬ人に愛を示す」とは、「教団内の見知らぬ人」に限定されるわけではなく、「宗派の異なるキリスト教信仰者の見知らぬ人」に限定されるのでもなく、「宗教や人種の外にいる見知らぬ人」に愛を示すことを意味すると解する方が自然であると思われる。

 

 

ヘブライ書の著者は、ここで「兄弟愛」と「見知らぬ人に対する愛」を対照させ、「兄弟愛」が存在するようにせよ、しかし、否定語を使い、「見知らぬ人に対する愛」を忘れるな、と言っている。

 

つまり、「兄弟愛」よりも「見知らぬ人に対する愛」に重きを置いているのである。

 

「兄弟愛」の対象は、「兄弟関係」に限定されるが、「見知らぬ人に対する愛」は「兄弟関係」に限定されていないより大きな愛であり、原則に支配され導かれた対象を限定しない愛を忘れないことの方が重要だ、と言っているのである。

 

そのことは、「それによって」、つまり「兄弟愛」(philadephia)ではなく「見知らぬ人に対する愛」(philoxenias)によって、「自分ではそれと知らないで」、み使いたちを接待したのです、と続いていることからも明らかである。

 

もし、「見知らぬ人に対する愛」を示すべき対象が「兄弟関係」に限定されているのであれば、「見知らぬ関係」(xenos関係)ではないのであるから、「知らないで」もてなすことなどありえなないはずである。

 

 

ところが、WTでは「[人を]親切にもてなすこと」は、一方では、「兄弟愛」を超えて、あらゆる人を対象にして示すべきものとしながら(WT96/10/01,P9-他)、他方では、「兄弟関係」に限定すべきであると制限している(WT96/10/01,P16-他)。

 

一般の社会の人々に関しては、サタンの側の人間であるから、「兄弟の愛情」を示すべきではない、とさえ論じている(WT93/10/15,P14-他)

 

*** 塔96 10/1 9ページ 3–4節 「人をもてなすことに努めなさい」 ***

聖書中に例示されているもてなしは,親愛の情を寄せる人に対して表わされた親切心の場合もあれば,全く見ず知らずの人に対して差し伸べられたものである場合もあります。イエスはこう説明しました。「自分を愛してくれる者を愛したからといって,あなた方に何の報いがあるでしょうか。収税人たちも同じことをしているではありませんか。また,自分の兄弟たちにだけあいさつしたからといって,どんな格別なことをしているでしょうか。諸国の人々も同じことをしているではありませんか」。(マタイ 5:46,47)純粋なもてなしの精神は,偏見や恐れに根ざした分裂や差別を超越します。

 

 

*** 塔96 10/1 16–18ページ 10–14節 分裂した世におけるクリスチャンのもてなし ***

聖なる者たちと分け合いなさい

11 配慮ともてなしを受けるに真にふさわしい人々の中に,わたしたちの霊的な福祉のために骨折って働く円熟したクリスチャンたちがいます。エホバは古代イスラエルの祭司やレビ人のために特別な備えを設けました。(民数記 18:25‐29)1世紀のクリスチャンも,特別な立場で仲間に仕える人たちを顧みるよう勧められました。ヨハネ第三 5節から8節の記述は,初期クリスチャンの間にあった堅い愛のきずなをうかがわせています。

12 年老いた使徒ヨハネは,会衆を訪問するために遣わされた旅行する兄弟たちに対してガイオの示した親切心やもてなしの精神を高く評価しました。それまでガイオは,この書簡を携えて行ったと思われるデメテリオをはじめそれら兄弟たちとは会ったことがなく,知り合ってはいませんでした。しかし彼らは,「[神の]み名のために……出かけた」ゆえに,暖かく迎えられました。ヨハネはそのことをこう述べています。「したがって,わたしたちにはこのような人々を暖かく迎える務めがあります。それは,わたしたちが真理における同労者となるためです」。―ヨハネ第三 1,7,8。

13 今日,エホバの組織内には,仲間の兄弟全体のために精力的に努力している人たちが大勢います。例えば,旅行する監督は,来る週も来る週も諸会衆を築き上げるために時間と精力を費やしています。宣教者は,家族や友人を後にして異国の地で宣べ伝えています。ベテル・ホームや支部事務所で奉仕している人は,世界的な宣べ伝える業を支援するために自発的に奉仕しています。また,開拓奉仕に携わっている人は,自分の時間と精力の主な部分を野外宣教に費やしています。基本的に言って,それらの人は皆,自分の栄光や利得のためではなく,クリスチャンの兄弟仲間やエホバへの愛のゆえに骨折って働いているのです。これらは,魂のこもったその専心のゆえに見倣うに値する人々であり,「暖かく迎える」のがふさわしいと言えます。

 

 

*** 塔93 10/15 14–15ページ 兄弟の愛情を抱くためのかぎを見いだす ***

感謝と認識 ― 兄弟の愛情を抱くためのかぎ

12 確かに,兄弟の愛情を抱くためのかぎとなるのは感謝と認識です。エホバの献身した僕であればだれでも,わたしたちが高く評価でき,愛情を感じ,好感を抱くような特質を持っているのではないでしょうか。わたしたちは皆,神の王国と神の義を第一に求めています。そして,わたしたちに共通した三つの敵,つまりサタンと配下の悪霊たち,サタンの支配下にある邪悪な世,堕落した肉という受け継いだ利己的な傾向との闘いを勇敢に続けています。わたしたちは兄弟たちが状況に応じて最善を尽くしているという見方をいつも持つべきではないでしょうか。世界中の人は皆,エホバの側かサタンの側にいます。わたしたちの献身した兄弟姉妹たちはエホバの側に,そうです,わたしたちの側にいるのですから,兄弟の愛情を受けるに値するのです。

 

 

 

ヘブライ13:1-3の比較に戻るが、NWT「あなた方の兄弟愛を」に対して、田川訳では、「あなた方の」を削り、「兄弟愛が」となっている。

 

1節の原文は、主格の定冠詞(he)+主格の名詞「兄弟愛」(philadelphia)に三人称命令形の動詞「それが存在するようにせよ」(menetO)という3語で構成されている。

 

つまり、原文のどこにも「あなた方の」という語はなく、「兄弟愛」は目的語ではなく、主語として書かれた文である。

 

NWTは原文には存在しない「あなた方の」という表現入れたのである。もしかしたら、「兄弟愛」を示すべき対象は、「あなた方の」兄弟関係にある人々に限定されるべきである、と読ませたいのであろうか。

 

ここに「あなた方の」を入れて訳している和訳聖書は他にはない。

 

新共同訳「兄弟としていつも愛し合いなさい」。

口語訳「兄弟愛を続けなさい」。

新改訳「兄弟愛をいつも持っていなさい」。

岩波訳「兄弟愛が保たれるように」。

文語訳「兄弟の愛を常に保つべし」。

 

そして原文では、同じphil-(愛)を語幹に持つ語(phloxenias)が使われているにもかかわらず、「人を親切にもてなすこと」と訳し、「愛」という表現を意図的に避けているように思える。

 

これも、「兄弟愛」以上に「見知らぬ人に対する愛」の方をヘブライ書の著者が重要視してることを悟られないためなのだろうか。

 

 

 

WTは、3節の「獄につながれている人たち」や「虐待されている人たち」とは、キリスト教信者の中で、投獄されたり、虐待されている人たちのことを指している、と解し、JW内に適用している。(WT05/12/15,P12他)

 

*** 塔05 12/15 12ページ 『捕らわれ人に釈放を宣べ伝える』 ***

「獄につながれている人たちのことをいつも思いなさい」と,使徒パウロは仲間のクリスチャンに書き送りました。(ヘブライ 13:3)パウロが述べていたのは信仰のゆえに投獄されている人たちのことでした。

 

 

 

しかし、直前で「兄弟愛」以上に「よそ人への愛」を忘れるな、と訓戒しているのだから、キリスト教信仰のために投獄されたり、虐待されている人を指す、と解釈するには無理があるのではなかろうか。

 

むしろ、「兄弟愛」に限定しない「見知らぬ人に対する愛」をもって人々と接するからこそ、その時は自分では気づかなかったが、結果としてみ使いを接待していたことになることもある、と言っている。

 

それなら、「兄弟愛」の外にいる「獄につながれている人」や「虐待されている人」のことをいつも思っていなさい、と言っていると解するのが自然である。そうでなければ「知らないで」と言っている事と調和しない。

 

つまり、この「獄につながれている人たち」や「虐待されている人たち」とは、キリスト教弾圧の話ではなく、「何らかの仕方で権力によって囚われている人たち」や「世の力ある者から搾取され、悪を蒙っている人たち」のことを指していると思われる。

 

最後にもう一つ。

 

NWT「あなた方自身もまだ肉体でいるのですから」に対し、田川訳「彼らもまた肉体をもっているのである」と訳されている。

 

NWT「あなた方自身」と二人称であるのにに対し、田川訳「彼ら」と三人称。

NWTには「まだ」という限定を意味する副詞が付いているが、田川訳は「まだ」ではなく「また」と濁点はない。

 

 

原文のギリシャ語は、

hOs kai autoi ontes en sOmatiでKI:as also very(ones) being in bodyを字義訳にあてている。

 

英訳は、since you yourseloves also are still in a bodyとしている。

 

KIでも原文にはyou yourselvesに相当する語は見当たらず、それに、still(まだ)に相当する限定的な意味を持たせるギリシャ語も原文には見当たらないことが理解できるであろう。

 

hOsは、前の文を受けて理由や結論を導く関係代名詞で接続詞的役割。KIはsinceを当てている。

 

kai autoiのkaiはalsoの意味でautoi(も)という趣旨。autoiは、三人称男性複数代名詞であり、動詞(分詞)のontes(=being)も三人称男性複数形。二人称ではないから、you yourselvesという主語がどこから出て来たのか不明であるが、KJVの時代から英訳はyouもしくは yourselvesと二人称に訳している。

 

en=inの前置詞でsOmat=bodyという意味の与格単数名詞。

 

つまり、この文は、since they also are in the bodyという意味で、KIでも、hos kai autoi=as also very(ones)と字義訳しているように、「彼らも同じ(人たち)なので」という意味。

 

今風に言うなら、「彼らも我々と同じ人間なのだから」という趣旨。

 

NWT「あなた方自身もまだ肉体でいるのですから」。原文のautoiを「あなた方自身も」と二人称で訳しているのは、英訳の伝統に従っただけかもしれないが、おそらく原文通り「彼らも」と訳すと「獄につながれている人たち」や「虐待されている人たち」が、キリスト信者ではない「よそ人」を指すと解されるのを避けたかったからであろうか。

 

要するに、愛を示すべき対象を仲間の兄弟関係に限定したいからなのであろう

 

原文の動詞が中動相でもないのに、三人称代名詞の「彼らも」を再帰代名詞であるかのように、しかも二人称で「あなた方自身も」と訳しているのは、原文に忠実なのであろうか。

 

単にキリスト教世界の伝統に従っただけなのかも知れないが、それはそれで、キリスト教世界を「大いなるバビロン」の主要な部分と批判することはできないであろう。

 

むしろWTも「大いなるバビロン」の一部であると指摘されても仕方ないように思う。

 

もっとも「大いなるバビロン」の正体は、宗教とは無関係であると思うが……(笑)

 

 

さらに、「まだ肉体でいる」というのであれば、いずれは「肉体ではない存在になる」ということを示唆していることになる。とすれば、この「あなた方自身」とは、「油注がれた兄弟たち」を指し、「み使いのような体を持てる」という解釈を読み込んだものであろうか。

 

彼らは、地上で肉体を持っている間は、人を親切にもてなし、獄につながれている人たちや虐待されている人たちのことを深く思いやる真のクリスチャンである、と思い込ませたいのであろうか。

 

和訳で、「まだ」という意味を付加している訳はNWTだけである。

新共同訳「また、自分も体を持って生きているのですから」。

口語訳「また、自分も同じ肉体にあるものだから」。

新改訳「また、自分も肉体を持っているのですから」。

岩波訳「自分たちも(同じく)体においてあるのだから」。

文語訳「また己も肉體に在れば」。

 

 

 

NNWT「皆さんも同じ体を構成しているからです」。

新しいNWTの英訳は、stillを削って、since you yourselves also are in a bodyとしている。

 

英訳では、stillを削っただけであるが、和訳では「あなた方も」を「皆さんも」に、「まだ肉体でいる」を「同じ体を構成している」と大幅に表現を変えている。

 

脚注には、もしかすると「自分たちも一緒に苦しんでいるかのように」とある。

 

今度は、「会衆」を「体」に例えて、皆さん(地的クラス)も我々(天的クラス)と同じ体(会衆)を構成している成員であるから「皆さんも」「同じ体を構成している」者として、「我々」と一緒に苦しんでいるかのように、全世界のJWを覚えておいて下さい、と読ませたいのであろうか。

 

だから、地元の会衆の兄弟だけでなく、外国人の兄弟や見知らぬ巡回監督たち、なにより統治体の兄弟たちをもてなすことを絶対に忘れるな、と。

 

いぜれにしろ、WT信者のJWの中では、「見知らぬ人に対する愛」を示すよりも「兄弟愛」を示す方が、真のクリスチャンにとっては、はるかに重要事項のようだ。

 

しかし、少なくてもヘブライ13:1−3からすれば、「兄弟愛」に限定された愛を示すことよりも、「見知らぬ人」に対する愛にまで広げられた愛を示すことの方が、はるかに重要視していることが理解できる。

 

排斥によって、かつての兄弟たちや実の家族や友人たちを「もてなす」ことさえ否定し、愛を示す対象から締め出すことは、原則に支配されて導かれている愛さえ、否定していることになるのではないだろうか。

 

排斥者を忌避しているJWや世の中の人に対して愛を示すべきではないと考えているJWに「神の愛」を語る資格が本当にあるのだろうか。

 

私にははなはだ疑問である。