「小プリニウス書簡」について

 

  このプリニウス(Plinius Caecilius Secundus)は、「自然誌」(Naturalis Historia)の著者として有名なプリニウス(Gaius Plinius Secundus)の甥で養子のこと。61‐112年。ローマの文人、政治家。トラヤヌス帝の時代に、ビチュニア地方の代官に任命された人物である。通称、伯父は大プリニウス、甥は小プリニウスと呼ばれている。

 

  プリニウス書簡は、全十巻からなるが、1‐9巻は友人・知人あての書簡247通からなり、第十巻は、ビチュニア地方の長官時代にトラヤヌス帝と交わした121通の書簡で構成されている。トラヤヌス帝時代におけるキリスト教徒に対する処遇方法を知ることができる歴史的資料として有名である。

 

  このプリニウスは、皇帝の官僚として世渡りがうまかったらしく、本来ならビチュニア地方の長官はproconsulの肩書を持つ者でなければ就任できないのであったのだが、彼はその下のlegatusという肩書のまま、地方長官に就任している。

 

  田川先生は、就任時の確かな年代は確定できないが、110‐112年、WTは111‐112年のこととしているが、wikipedia等によると、103年就任とする説もある。資産家としても知られている。

 

 

  WTにおいて「小プリニウス書簡」は、キリストが実在したことの証拠だけでなく、1世紀におけるキリスト信者弾圧の歴史的証拠として扱われることが多い。

 

*** 塔03 6/15 5ページ イエス・キリストが地上に存在した証拠 ***

イエスの追随者たちについて注解しているもう一人の著述家は,ビチニアの総督小プリニウスです。プリニウスは西暦111年ごろトラヤヌス帝に書簡を送り,クリスチャンの扱いについて尋ねました。プリニウスによれば,クリスチャンであるという偽りの告発を受けた人々は,クリスチャンでないことを証明するために神々への祈りの言葉を復唱し,トラヤヌスの像を崇拝しました。プリニウスは,「真のクリスチャンには,これらの行為のどれ一つをも強制的に行なわせることはできないと聞いております」と述べました。この記述は,キリストが実在したことの確証となります。キリストの追随者たちはキリストに対する信仰のために命を懸ける覚悟でいたのです。

 

*** 徹 第3章 26ページ 『聖霊に満たされた』 ***

ローマの属州ビチニア・ポントスの総督であった小プリニウスとトラヤヌス帝とが交わした書簡から,ポントスのクリスチャンがさらに試みに直面したことが読み取れます。西暦112年ごろ,小プリニウスはポントスから手紙を書き,キリスト教という「悪疫」が性別・年齢・身分を問わず,あらゆる人を脅かしている,と報告しています。小プリニウスは,クリスチャンとして告発された人に否認の機会を与え,否認しない者を処刑しました。キリストをのろったり,神々あるいはトラヤヌスの像に祈りを唱えたりした人は,釈放されました。こうしたことを「本物のクリスチャンは強制されても行なわない」と小プリニウスも認めていたのです。

 

*** 目 12/9 14ページ 聖書 ― 正確な預言の書 第5回 ***

● 歴史家たちは,西暦64年の皇帝ネロによる迫害に始まって,ローマ皇帝による迫害の波がクリスチャンに幾度も押し寄せたことを認めています。トラヤヌス帝と小プリニウスが交わした書簡には,信仰を捨てようとしなかったクリスチャンに対する処罰のことが出てきます。

 

*** 洞‐1 809ページ クリスチャン ***

西暦111年か112年にビチニアの総督であった小プリニウスは,“クリスチャンの問題”に直面してトラヤヌス帝に手紙を書き,自分の用いていた方法のあらましを述べて助言を求めました。「私は彼らがクリスチャンかどうかを自分で尋ねました」と,プリニウスは書いています。そうであることを認めた人々は処罰されました。しかし,「自分はクリスチャンではない,あるいはクリスチャンになったことはないと言った」人々もいました。そうした人々は,試されると,異教の犠牲をささげただけでなく,「キリストの名をののし(ることさえし)ました。もちろん,本当のクリスチャンであればそのようなことをどれ一つとして行なわせることはできません」。トラヤヌスはこの手紙にこたえて,「あなたはクリスチャンであると訴えられた者たちの問題の調べ方の点で……正しい手順に従ってきた」と述べ,プリニウスの問題の扱い方をほめています。―「プリニウス書簡集」,X,XCVI,3,5; XCVII,1。

 

*** 塔10 5/15 3ページ 初期キリスト教とローマの神々 ***

ビチニアの総督であった小プリニウスは,ローマ皇帝トラヤヌスにあてた手紙の中で次のように述べました。「クリスチャンであるとしてわたしの前で告発された者に対して,わたしはこのように扱ってきました。クリスチャンであるかどうかを尋ね,そうであると告白した者には,刑罰を加えると脅しながらさらに一度か二度尋ねました。それでも考えを変えない者には,処刑を言い渡しました」。クリスチャンであることを否認する者,すなわちキリストをのろい,プリニウスが法廷に持ち込んでいた皇帝や神々の像を崇拝する者については,「釈放すべきだと考えました」と記しています。

初期クリスチャンは,皇帝および様々な神々の像に対する崇拝行為を拒否したために迫害されました。

 

*** 塔10 5/15 5–6ページ 初期キリスト教とローマの神々 ***

皇帝崇拝はアウグスツスの治世(西暦前27年‐西暦14年)の間に誕生しました。特にギリシャ語を話す東方の属州では,長年の内乱の後に繁栄と平和をもたらしたアウグスツスに深く感謝する人が大勢いました。人々は目に見える権力によって引き続き保護を得ることを望んでいました。そして,一つの制度によって,宗教上の相違が克服され,愛国心が高められ,国家がその救世主のもとで一つになることを求めました。その結果,皇帝は神とみなされるようになりました。

アウグスツスは生存中に自分を神とは呼ばせず,ローマを神格化した女神ロマ・デアが崇拝されるべきとしました。アウグスツスは死後に神格化されました。こうして各地の属州の宗教心や愛国心は,帝国の中心地とその支配者の両方に向けられます。この新しい皇帝崇拝は,間もなくすべての属州に広まり,国家への崇敬と忠誠を表明する方法となりました。

西暦81年から96年に在位した皇帝ドミティアヌスは,神として崇拝されることを要求したローマ最初の支配者でした。のころには,ローマ人はキリスト教をユダヤ教と区別し,新興宗教として反対していました。使徒ヨハネが「イエスについて証ししたために」パトモス島に流刑にされたのは,ドミティアヌスの治世中だったようです。―啓 1:9。

ヨハネは,流刑にされていた間に「啓示」の書を記しました。その中でアンテパスというクリスチャンについて述べています。アンテパスは皇帝崇拝の重要な中心地であったペルガモンで殺害されました。(啓 2:12,13)帝国政府がクリスチャンに,国家宗教の儀式を行なうよう要求し始めていたのかもしれません。いずれにしても,西暦112年には,冒頭に出てきたトラヤヌスの手紙に示されているように,プリニウスはビチニアのクリスチャンに,国家宗教の儀式を行なうよう要求していました。

トラヤヌスは,プリニウスの扱いを褒め,ローマの神々への崇拝を拒んだクリスチャンを処刑するよう命じました。そしてこう述べています。「ただし,その者がクリスチャンでないと主張し,我々の神々に祈りをささげることによってそれを証明するなら,(以前にどんな疑いをかけられていたにしても)その悔い改めゆえに許してもよい」。

ローマ人は信者に全き専心を要求する宗教というのは理解できませんでした。ローマの神々は全き専心を要求しないのに,どうしてクリスチャンの神がそれを求めるのか,と考えました。国家の神々への崇拝は政治体制を認めていることを示すものに過ぎないと感じていたのです。ですから,崇拝の拒否を反逆罪とみなしました。しかし,プリニウスが気づいたとおり,クリスチャンを強制的に従わせることはほとんどできませんでしたそうした崇拝はクリスチャンにとってエホバへの不忠実を意味したので,数多くの初期クリスチャンは皇帝崇拝という偶像崇拝をするよりも死を選びました。

 

 

  JWだけではなく、多くのキリスト信者は、キリスト教はその設立当時からユダヤ人やローマ帝国からの組織的な弾圧や迫害に直面しており、命をかけて「キリスト信仰」を守ってきた、と信じている人が多いのではないかと思う。64年の皇帝ネロの時代や303年の皇帝ディオクレティアヌスの迫害だけでなく、313年におけるコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって、キリスト教が公認されるまで、一貫して、組織的な弾圧がおこなわれていた、と信じているJWは非常に多い。

 

  WTの記事には、キリスト教に対する弾圧は、皇帝によって対応の仕方が異なっていたことを示す記述はなく、いつの時代も「真のキリスト教」は、一貫して迫害下にあるものだ、と信じさせようとしている意図があるように思える。

 

  その証拠として「小プリニウス書簡」も資料として提出されているのである。

 

 

 

 

  以下は、「訳と註」にある「小プリニウス書簡」に関する記述を抜粋したものである。(すべてを確認したい方は「訳と註」で全文をお読みください)

 

プリニウスがビチュニア地方に赴任していた期間を中心にトラヤヌス帝と交わした往復書簡も書簡集として公表した。その中に、キリスト教弾圧に関するものが一つ見つかった。こちらはキリスト教徒に皇帝礼拝を強要し、従わない者は弾圧すべし、と主張している代物であるとされている。皇帝礼拝といっても、神殿で神々と並べて建立されている像に崇拝を捧げるのではなく、プリニウスが尋問の時に小さな皇帝像を持っていて、それを拝礼させようとしたものである。

 

かなり以前からのキリスト教神学者の間では、人気の高い文書である。キリスト教徒を不当に弾圧するのはけしからん、と断じたハドリアヌス勅書など、全く読むこともない、ひどい奴になると、その存在すら知らないキリスト教神学者が、プリニウス書簡だけをやたらと嬉しがって引用、言及する。それもプリニウスが公表した他の大量の書簡には目もくれず、この書簡だけを嬉々として引用するのだから、嘘みたいな倒錯心理である。

 

要するに後世のキリスト教神学者にとっては、我らはローマ帝国(コンスタンティヌス以前)によって弾圧され、多くの殉教の死をとげたのだが、それを耐え抜いて勝利し、今日を築いたのです、というのがひどく御自慢なのである。

 

いわゆる「福音の勝利」というやつである。そしてそのためには、すでに新約聖書の時代から、ローマ帝国の権力が皇帝礼拝をキリスト信者に強要して弾圧しました、ということが事実であると「証明」する証拠が欲しい。それで神学者は猫の杓子も、ローマ史についてはほとんど何も自分では勉強しないくせに、このプリニウス書簡にだけは、大喜びでとびつくのである。」

 

 

 

  どうやら、「小プリニウス書簡」は護教主義のキリスト信者や神学者にとっては、自説のドグマを補強する証拠となりうるが、「ハドリアヌス勅書」の方は都合の悪い代物のようである。

 

  WTの資料にも、ハドリアヌスの業績に関する言及はあれど、「ハドリアヌス勅書」に関する言及は、一言も存在しない。ハドリアヌスは、小プリニウスが往復書簡をしたためたトラヤヌス帝の後の皇帝であるにもかかわらず、その「勅書」に関する言及はどこにもないのである。

 

  ネットでも125年の「ハドリアヌス勅書」がどのようなものであったのかは、実は簡単にはたどりつかない。

 

 

  「ハドリアヌス勅書」とは、小プリニウスと往復書簡を交わしたトラヤヌス帝の次の皇帝ハドリアヌスが125年に属州アシアの長官(proconsul)に宛てた書簡である。

 

  小プリニウスがアシアの一地方であるビチュニアの代官に任命された時の階級は、legatusであり、本来ならproconsulの肩書を持つ者が任命されるはずの地位であった。つまり、小プリニウスより上の肩書を待つ長官にローマ皇帝が与えた勅書である

 

  ちなみにハドリアヌスはトラヤヌスの従兄弟の子供であり、嫡男のいないトラヤヌスに皇帝となるために養子となった人物である。

 

  そのハドリアヌスの手紙は、二世紀半ばのキリスト教護教家ユスティノスの著書「護教論」の中で引用されている。ユスティノスの著作自体はギリシャ語で書かれているが、この手紙の引用部分だけは、原文のラテン語で引用されている。

 

 

  以下は「「訳と註」からの引用。

 

「この手紙で、皇帝は属州長官に対し、キリスト教徒弾圧の問題に触れて、この勅書の目的を、「無実の人々が煩わされることのないように、また偽りの告発者たちに悪行をなす機会が与えられたりすることがないように」と鮮明に言い切っている。そして、「その告発者たちが単に主張するだけ、ないし騒ぐのが目的であれば、余は許さない」と断言する。」

 

 

 

  トラヤヌス帝の時代だけでなく、ハドリアヌス帝の時代も、各地で新興宗教キリスト教に対する反発が多く、地方長官のところに告発が寄せられたのである。

 

  大抵の場合は、ユダヤ教徒、あるいはまた、それぞれの地元の伝統宗教を拠点として利益を得ていた連中が、ひがんでキリスト教徒を告発したのであるが、キリスト教徒に対して無実の罪を言い立ててローマ支配当局に告発した、ということである。

それに対して、皇帝は「偽りの告発者たちが弾圧することを許さない」とはっきり明言しているのである。

 

 

 

  続けて次のようにある。

 

通常の法律にてらして確かに犯罪を犯したということが証明されるのでなければ、そういった告発を受け取るべきではない、と。そして結論として、「ヘラクレスにかけて、もしも誰かが誹謗中傷する目的でこの者たち(キリスト教徒)に関する事実を訴え出るのであれば、訴え出た者たちをその悪質さに応じて、より厳しい罰を持って罰するがよい」と言って、勅書を結んでいる。」

 

 

 

  ハドリアヌス帝は、皇帝崇拝を積極的に推進し、各地に自分の像を設置させることに熱心であった人物であるが、キリスト教徒を弾圧する目的で一人一人に踏み絵的に皇帝礼拝を強要して、従わない者を罰した、ということは無理な想像でしかない、ということが理解できるだろう。

 

  仮に、「小プリニウス書簡」を根拠に、トラヤヌス帝の時代にローマ帝国によるキリスト教徒弾圧があったと解釈したとしても、次のハドリアヌス帝の時代には、「ハドリアヌス勅書」からして、ローマ帝国によるキリスト教弾圧なるものは存在しなかったことは明らかであろう。

 

  トラヤヌスに養子として迎えられ皇帝となったハドリアヌスが、先の皇帝の意向を無視して、「キリスト教徒弾圧」から「キリスト教徒擁護」へと政策転換したと考えるのは難しいように思う。

 

  また、皇帝崇拝を推進した皇帝が「キリスト教徒擁護」の政策を取ったのであるから、ネロやドミティアヌスにおける個別の地方における案件は別として、ローマ帝国全体の政策として、ローマ帝国内全土で、「すべてのキリスト教徒」に対する、「キリスト教弾圧」なるものが存在した、という歴史的証拠を探すことは、どうやら難しいようである。

 

 

  皇帝崇拝=キリスト教弾圧という構図を描くことができないので、「ハドリアヌス勅書」は、護教主義的キリスト教神学者の間では、無視されるのであろう。

 

 

 

 

  「小プリニウス書簡」が実際には、どのようなものであるからについて話を戻したいと思うが、彼の書簡集は15世紀に至るまで、第九巻までしか知られていなかったのである。そこには、もちろんキリスト教弾圧の件などには、全く言及されていない。

 

  キリスト教弾圧に関して言及されているのは、第十巻である。ヴェローナのドミニコ会修道士ユクンドゥス(Jucundus)という人物が、突如、15世紀末になって、プリニウスと皇帝トラヤヌスとの往復書簡集の写本を発見した、ということで、第十巻として発行されたものである。

 

 

 

 

  以下は「訳と註」からの引用。

 

「この発見と発行の事情が極めてうさんくさい。つまりこの写本そのものは、ユクンドゥス以外は、彼にこれを筆写することを依頼されたLeanderという人物しか見ていないのである。そしてその筆写を元にして全体の四分の三ほどが1502年に印刷屋から発行され、更に残りの四分の一も補って1508年に再発行された。

 

ところがまことに奇怪至極なことに、印刷本が発行された時には、元の写本はすでに消えてなくなっていた。従って以後誰も、印刷本がどこまで元の写本を忠実に再現したものか、確認できないのである。しかも、その写本がどういう事情で消えてなくなったのか、ユクンドゥス自身も口を閉ざして、まったく明らかにしていない。

 

このうさんくさい発見、出版事情からして、近代になって批判的な古典文献学が発達しはじめると、これは贋作(ユクンドゥス自身の作文)ではなかろうか、という意見が絶えなかった(最初に言い出したのはJ.S.Semler,1974だそうである)。発見事情がうさんくさかったのに加えて、この人自身何かとうさんくさいし、かつ、ドミニコ会の修道士である。十分にカトリック的な護教論精神を持ち合わせている。

 

 

 

  問題のキリスト教徒弾圧に関する往復書簡は、その第十巻で96,97番と番号を付けられているものである。96番がプリニウス自身の手紙、97番が皇帝トラヤヌスの返事である。WTでもその資料について典拠をあげて扱っているが、「訳と註」には次のようにある。

 

 

「ユクンドゥスが発行した代物によれば、96番ではプリニウスは属州全体の支配権力を与えられて有頂天になったらしく、ゴリゴリの権力者意識を発揮して、キリスト信者を何が何でも弾圧したい、と息巻いている。

 

すでに次々とキリスト信者を逮捕させ、自分が直接尋問にあたり、「刑罰の脅しをかけ」(3節)、信仰を棄てない者には容赦なく刑罰を与えた、という。尋問に際して彼は、自分が持参した伝統的なギリシャ、ローマの神々の小さな像と共に皇帝の小像を見せて、香と葡萄酒をもってこれを拝礼させ、またキリストを侮辱することを言わせた(5節)。

 

そしてその「手紙」の結びに、今やキリスト教徒の人数は増え続け、「町だけでなく、村も田舎も、この迷信が広がっております」、しかし今ならまだこれを食い止めることは可能である、と主張し、すでに自分がなした弾圧の結果その勢いは減退しつつあり、新興キリスト教のせいで「(伝統的な)神殿にはすでにほとんど人が来なくなっていたのですが」、今やこれらの神殿にも再び人が訪れはじめ、中止されていた神殿祭儀が再開されるようになっている(10節)と自慢して終わっている。

 

最もうさんくさいのは、この最後のくだりと皇帝の像を見せて礼拝を強いた、としている点。最後のくだりからすると、この時期(2世紀初め)、すでに伝統的なギリシャ・ローマの神殿は人が訪れることもなく、祭儀も中止されていた、というのであるが、いくらなんでも、これは事実に反する。

 

4世紀になって、コンスタンチヌスがキリスト教を実質的に帝国の宗教として定めた以降の話ならともかく、二世紀初めのキリスト教は、まだまだようやく世界に広まり始めた新興宗教であって、その時代のさまざまな文献からして、キリスト教のせいで伝統的な神殿を訪れる人がいなくなり、その祭儀も中止された、などという事態はとても考えられない。ましてやその状態がその地方全域にわたって認められた、などということは」。

 

つまり、プリニウスの96番の結びの部分は、ひどい時代錯誤をしており、4世紀のコンスタンチヌス以降のキリスト教の事情を知っている人物によって創作されたものと考えられるのである。96番のすべてがユクンドゥスによる創作である、というのではなく、部分文に創作的文書を書き加えて発行したようである。

 

実際、二世紀のはじめのこの時期までに、キリスト信者を弾圧する手段として皇帝の像に礼拝させるという踏み絵的な弾圧手法を取った、それもローマ帝国の国家権力が直接自ら推進する仕方でそれを行なった、などということは「プリニウス」のこの文章以外のいかなるところでも知られていない。

 

こと皇帝礼拝については、この時期まではまだまだ皇帝自身は非常に控えめであって、皇帝像を安置する神殿の建立とそれに伴うスポーツ競技会の開催は認め、また神殿境内その他に皇帝像を置くことまでは認めたものの、礼拝行為そのものを住民に強制するなどということは、考えられない事態である。ましてや、帝国の出先の役人(地方長官、代官、千卒長、等)がそれぞれ小さい皇帝像を所有していて、そこに引っ張ってこられた者に拝礼を強いた、なぞ。

 

とすれば、96番のこのくだりはむしろ、後の大弾圧(3世紀末~4世紀初め)の時期(及びその後)に書かれたキリスト教殉教伝説の文書などを知っている人物が、そのイメージを2世紀初めの「プリニウス」の文章にまで勝手に書き込んだ、とみなすのが妥当な意見だろう。

 

 

 

 

  これが、キリスト教徒弾圧の証拠とされる「小プリニウス書簡」の実態のようである。

 

「小プリニウス書簡」そのものは、全体が贋作というのではなく、第十巻の96,97番に関しての議論であるようだ。96,97番全体が贋作だとする意見や、この二つについても一応本物の文書は存在したのであるが、ユクンドゥスがそれに勝手に手を加えたのではないかという意見がある。十巻全体が贋作であるという意見は、それまで知られていた1‐9巻とラテン語の文体も文章の内容もかなり似ていると言われ、現在は退けられているようである。

 

  いずれにしても、第十巻の96,97番の書簡は、高度な批判的な検討を必要とする「資料」であり、歴史の事実を知るための文献資料として、無条件に信頼できるものではないようである。

 

 

 

  トラヤヌス帝からの返書とされる97番に関しても、「訳と註」には次のような記述がある。

 

「こちらは極めて穏当に、帝国の官憲が自らすすんでキリスト教徒の弾圧に乗り出す必要はない、と諭している。「彼らは探索さるべきものではない」。もしも訴えられて連れて来られたとしても、「神々に拝礼するのであれば、許されるべきである」とあり、「皇帝」にとは書いていないのである。

 

ここで前提とされている状況は、地元民の中の右翼的な連中がキリスト教徒をつかまえて官憲に突き出すことをしていた、それに対して帝国の官憲はどう対処すべきか、ということである。

帝国の官憲が自らの政策として積極的にキリスト教徒狩りをなす、ということはトラヤヌス帝の返書も認めていないのである。」

 

 

 

 

  以上のことを、考慮すると、使徒ヨハネがドミティアヌス帝時代に皇帝崇拝を拒否したためパトモス島に流刑にされた、とする広く信じられている信仰は、歴史的事実とは無関係の伝説的信仰のようである。

 

  この田川先生の指摘を、どう判断されるかは、各自が決めることであり、信仰は自己責任ですからご自由に……!

 

 

  「嘘から真」が出るのは、諺の世界には存在するようであるが、現実には、どんなに「嘘」が広く信じられているとしても、「嘘」は「嘘」のままであり、「嘘」が「真」に変化することなどありえないのが「真理」であろう。

 

  WTが「教理変更」を「新しい光」と称し、以前の教理も「光」であるかのように信じさせようとしているが、「新しい光」が「光」であるのならば、それ以前に「光」と称していた教理は、「光」ではなく、「闇」であったことになるのではなかろうか。

 

  「闇」を「光」と呼ぼうが何と呼ぼうが、「闇」は「闇」であり、「光」に変化することはないように思う。

 

  神は「闇」から「光」が出でよ、と言われた方とされているが、果たして、WTの「闇」から「光」が出ることはあるのだろうか?

 

  果たして、WTの「嘘」が「真」に変化することはあるのだろうか?

 

  甚だ疑問に思う今日この頃である。