ローマ帝国における「皇帝崇拝」の実態について

 

「黙示録」の著者は、使徒ヨハネであり、ローマ帝国による皇帝崇拝を拒絶したため、弾圧され、パトモス島に流刑に処された、とする通説は歴史的事実を厳密に考証した結果得られた解釈ではなさそうであることを先回は総合的に述べた。

 

  では、ローマ帝国における「皇帝崇拝」の実態とは、一体どのようなものであったのだろうか?

 

  黙示録は、ペルガモンやエフェソスなどの小アシアを中心に展開されており、皇帝崇拝が推進されていた最も代表的な地方も小アジアである。小アジアにおけるローマ皇帝礼拝について詳しく紹介している、Thomas Witulski,Kaiserkult in Kleinasien,2007,Gottingenという研究文献がある。

 

 

  以下は、ところどころに雑感を挟んでいるが、田川著「訳と註」からの抜粋的引用である。(原著のドイツ語から読む力はないので、孫引きです。)

 

 

「皇帝崇拝のための神殿は、その中に皇帝の像が安置されたが、大抵の場合、皇帝自身は自分が神格化されて、崇拝の対象とされることには消極的であった。なぜなら、そのような崇拝を強要するなら、ローマの貴族や市民からは、皇帝が思い上がっていると厳しく非難されることになり、暗殺される危険を身に招くことになりかねないからである。

 

  彼らはその気になればいつでも皇帝を暗殺できるだけの力は持っていたし、皇帝が必要以上に権力を持つことを警戒していたのである。それゆえ、皇帝側も、自分が程度以上に思い上がっているなどという印象を与えないように、極度に警戒していたのである。

 

  従って、皇帝崇拝を帝国支配下の全住民に強制するなどということは、ありえない話であり、特定の住民に対して強要するという程度でも、ありえないことであった」。

 

 

 

 

  WTでも解説しているように、確かにアウグストゥス帝の時代(前27-後14年)に、ペルガモンに神殿が立てられている。しかし、神殿建立がアウグストゥス帝の発動により、建立されたわけではなく、むしろ彼は神殿建立には消極的であったようである。

 

 

 

  「ティベリウス(14-37年)についてはアウグストゥスよりもはっきりした資料が残っており、スミュルナに神殿が建立されている。しかし、彼も自分が神格化されることに対しては非常に消極的で、自分のための神殿が立てられることについても、自分は本当は嫌なのであるが、と言い訳している。

 

  アウグストゥス以来、これらの神殿はローマ市民の象徴である「女神ローマ」の像を祭るのが主たる目的であり、それに添えて皇帝の像が置かれるのであれば、置かれても良い、という言い訳で皇帝たちは譲歩したのである。

 

  三代目のカリグラ(ガイユス、37-41年)になって初めて、皇帝自身が、非常に積極的に、神殿建立を「命令した」と言われている。彼は、ミレトスに神殿を建立し、自分が「神」と呼ばれることを要求している。

 

  しかし、それまでの皇帝は、「神の子」と呼ばれることは許容したが、「神」と呼ばれることに関しては、決して積極的だったわけではない。

 

  ローマ皇帝が皇帝崇拝を積極的に推進したと言えるのはカリグラの時だけであるが、結局その思い上がりのせいで、皇帝在位僅か4年で暗殺されてしまったのである。

 

  暗殺後は、神殿にあった像だけでなく、神殿以外にあった多くのカリグラ像も新政権の命令によりすべて破壊され、碑文に記されたカリグラの名もすべて削られた。

 

  つまり、カリグラ自身は自分が神格化され、崇拝されることを期待したのであるが、ローマの支配層の貴族や市民も、属州の支配層の者たちも、皇帝崇拝を受け入れなかったのである。

 

  皇帝崇拝がローマ帝国の政策として推進された、ということは事実とは程遠い状態であった。

 

  そして、次の二代、クラウディウス(41-54年)とネロ(54―68年)の時は、少なくても属州全体の都市連合事業として、皇帝の神殿が作られることはなかったのである。カリグラの件で懲りたのである」。

 

  「この時期は、パウロほか多くのキリスト教活動家によってキリスト教が地中海世界に広く普及した時期であり、マルコが福音書を書いた時期でもある。

 

  ネロはカリグラと並んで暴君として知られた人物であるが、そのネロでさえも、皇帝崇拝のための神殿は公的には造らせなかったのである。しかし、そのネロも暗殺されている。

 

  くり返し強調しておくが、皇帝崇拝の神殿は、カリグラは別として、皇帝の方から率先して建築を命令したわけではなく、アシア各地の都市の市民が、アシア地方全体を代表して、建てさせてくれ、と皇帝に嘆願した結果、建立されたものである。

 

  それゆえ、経費は地元負担であるが、属州の支配層は、自分たちの地位を守り、ローマ帝国にぶら下がることによって利を得るために、ローマ権力に対してへつらったのである。

 

  皇帝の神殿を建てることは、同時にその町で四年に一度のオリンピック競技に匹敵する協議会を開催する権利を与えられることをも意味した。

 

  皇帝崇拝の神殿建立の本当の目的は、この種の競技会から得られる経済活動の利益を得ることにある。中心の神殿と競技場だけでなく、その他のさまざまな建築物を立て、土木工事をなす大きな機会でもあった。

 

  要するに、皇帝の像を置く神殿を建てるということは、地元の有力者、経済上層部、そしてそれに群がる多数の地元民の大きな経済利益の機会と考えられていたのである」。

 

 

 

 

  現代のオリンピック誘致による大規模な土木建設事業やインバウンド需要を見込んだホテル観光事業に群がる体質と基本的には同じ構造が、古代ローマでも行われていたのである。現代のIOCに限らず、公共事業と称して経済的利益を貪ろうとする支配者層の構造は、いつの時代も変わらないもののようである。

 

 

 

 

  「ネロの暗殺によって、ユリウス・カエサルにつながるユリウス朝は終焉したが、次にフラヴィウス朝の皇帝が三代続く。ヴェスパシアヌス(69―69年)、ティトゥス(79―81年)、ドミティアヌス(81―96年)であるが、最初の二人の時代には、皇帝崇拝のための神殿は建立されてはいない。

 

  ドミティアヌスの時代になって、再び皇帝崇拝のための神殿がエフェソスに建立された。ただし、文献資料は残っておらず、エフェソスに皇帝の像の13個の台座が遺跡として残っているだけである。

 

  一つの町に13もの皇帝の像が安置されていたというと、皇帝崇拝が興隆していたと考えるかもしれないが、これは、エフェソスとその周辺の小さな12の町が一緒になって、神殿を建立し、その境内に13都市が一つづつドミティアヌスの像を建立したのだろう、と言われている。

 

  そのドミティアヌスも、暗殺された後、各地でその記憶を抹殺することが行われたので、皇帝の像が破壊されただけでなく、台座に刻まれていた皇帝の名前も削られているが、その時のアシアの属州長官(proconsul)の名前も刻まれているので、ドミティアヌスの像だろうと判断されたのである。

 

  ドミティアヌスは歴代皇帝の中でも特に不人気な皇帝であった。暗殺されただけでなく、像や銘まで破壊されていることからして、エフェソスなどの町々が一致して自分たちからすすんで神殿の建立を願い出たという可能性は低いと考えられている。

 

  とすれば、ドミティアヌス帝時代の神殿は、カリグラと同じく、皇帝の方からの要求で建立させた例外的な例ということになる。

 

  ただし、他の12の都市はしぶしぶであったのかもしれないが、エフェソスの町だけは、そこで新たに開催される競技会(オリンピア)の儲けの故に、非常に積極的であったようである。

 

  現にこれを機会に、町の中心近くに大きな競技場を造り直し、湊地区には体育館や浴場を立て、コロシアムも大改築し、経済的利益をむさぼろうとする時の権力者たちとそれに群がる支配層の構造が透けて見えて来るのである。

 

  ドミティアヌス暗殺後、ネルヴァ(96-98年)が皇位を継いだが、短期間で死んだため、皇帝崇拝のための神殿は建立されていない。

 

  次のトラヤヌス帝(98―117年)の代になり、今度はペルガモンが皇帝崇拝の神殿建築を願い出ている。ペルガモンにはすでにアウグストゥスの神殿があり、それに伴なう競技会も開催されていたが、ドミティアヌス帝時のエフェソスに対抗するために、神殿建立と競技会開催を申請したのである。

 

  アシア地方の二大都市は、エフェソスとペルガモンであり、この二つの都市は常にライバル関係にあった。

 

  この時の神殿も、皇帝単独の神殿ではなく、基本はゼウス神殿であり、そこに皇帝の像も置く、という形態であった。またトラヤヌス帝自身も、自分が神殿で崇められることに関して積極的ではなかった」。

 

 

 

  ローマ時代の「皇帝崇拝」の実態とは、以上のようなものである。

 

  神殿の建物の中に「神」と並ぶ「像」として皇帝の像を安置するのでなければ、「崇拝」の対象とは決してなり得ない。自分の像を神殿の境内のあちこちに置かせた、という程度では、皇帝崇拝を住民に強要することにはなり得なかったのである。

 

  皇帝の像が神殿に存在するからといって、皇帝崇拝も等しく強要されていた、とは決して言えないのである。ペルガモンに関しても、皇帝崇拝の中心地であるから、キリスト信者に皇帝崇拝が強要されていたと解釈することはあまりにも短絡的であると言わざるを得ない。

 

  「皇帝崇拝」の実態を詳しく調べてみると、必ずしも、WTが解説するようなものではなかったことが理解できる。

 

「アウグスツスは死後に神格化されました。こうして各地の属州の宗教心や愛国心は,帝国の中心地とその支配者の両方に向けられます。この新しい皇帝崇拝は,間もなくすべての属州に広まり,国家への崇敬と忠誠を表明する方法となりました。

西暦81年から96年に在位した皇帝ドミティアヌスは,神として崇拝されることを要求したローマ最初の支配者でした。そのころには,ローマ人はキリスト教をユダヤ教と区別し,新興宗教として反対していました。使徒ヨハネが「イエスについて証ししたために」パトモス島に流刑にされたのは,ドミティアヌスの治世中だったようです。―啓 1:9」。(WT10/5/15,P5-6)

 

 

 

  従がって、ドミティアヌス帝の時代に、「使徒ヨハネがイエスについて証ししたためにパトモス島に流刑にされた」というのは、「だったようである」だけの、歴史的根拠のない伝説に基づく信仰の類であると言えるのかもしれない「ようです」。

 

  私個人としては、「信じたい人は、どうぞご自由に!」である…。

 

 

 

  次に、キリスト教徒弾圧の証拠として取り上げられる、「小プリニウス書簡」についてである。

 

  この「プリニウス」と「トラヤヌス帝」との往復書簡に関しても、詳しく調べてみると、贋作説もあり、かなり疑わしいものであることがわかった。

 

  この書簡をローマ帝国の権力が皇帝崇拝をキリスト教徒に今日して弾圧した、とする証拠とするためには、護教的信仰が要求される代物のようである。

 

  この点に関しては、またまた、長くなりそうなので、次回に。