「使徒ヨハネがパトモス島に流刑になった」という話は本当の話なのだろうか?

 

  黙示録の著者は、ローマ帝国の弾圧に耐えて、流刑に逢いながらも、キリスト教の信仰を守った立派なキリスト教徒の物語である、と信じられている。キリスト信者がキリスト教信仰を盾にとって、ローマ皇帝の像に拝礼しないのは許せないとして、ローマ帝国はキリスト教徒を徹底的に弾圧する政策を取ることにした。黙示録が書かれたドミティアヌス帝の時代にその記録が残っている、と註解する解説本も少なくない。

 

 WTでも「啓示」と「ドミティアヌス帝」との関係について次のように解説している。

*** 洞‐2 1126ページ ヨハネ ***

ヨハネはパトモスにいた間に,驚くべき「啓示」の書の幻を恵みとして与えられ,それを忠実に書き記しました。(啓 1:1,2)ヨハネはドミティアヌス帝によって流刑にされ,ドミティアヌスの後継者であるネルウァ帝(西暦96‐98年)によって釈放された,と一般に考えられています。伝承によれば,ヨハネはエフェソスに行き,西暦98年ごろにそこで福音書と,ヨハネの第一,第二,および第三の3通の手紙を書きました。伝承では,彼はトラヤヌス帝の治世中の西暦100年ごろにエフェソスで死んだと考えられています。

 

 

「啓示」と「皇帝崇拝」の関係については、次のように解説している。

*** 啓 9章 42ページ 4節 イエスの名を固守する ***

「それでもあなたはわたしの名をしっかり守りつづけており,あなた方の傍ら,サタンの住むところで殺された,わたしの証人,また忠実な者であるアンテパスの日にも,わたしに対する信仰を否定しなかった」。啓示 2:13[後半]何と魂を鼓舞する褒め言葉でしょう。アンテパスが殉教の死を遂げたのは,悪霊崇拝と関係のある慣行やローマの皇帝崇拝に同調するのを拒んだためであることは疑問の余地がありません。ヨハネがこの預言を受け取って間もなく,ローマ皇帝トラヤヌスの個人的な補佐官だった小プリニウスは,トラヤヌス帝に手紙を送り,クリスチャンとして訴えられる人々を扱う手順を説明し,皇帝はその手順を認めました。クリスチャンであることを否認した人々は,プリニウスの言葉によれば,「私のあとについて神々への祈願の言葉を復唱し,あなた[トラヤヌス]の像に向かって香やぶどう酒を捧げ……その上,キリストを呪った」なら,釈放されました。クリスチャンであることが分かった者は皆,処刑されました。ペルガモンのクリスチャンは,たとえこのような危険に直面しても,自分たちの信仰を否定しませんでした。彼らは引き続き,エホバの正しさを立証する方で,その任命された裁き主としてのイエスの高い地位に敬意を表して,『イエスの名を固守しました』。彼らは王国の証人としてイエスの足跡に忠節に従いました。

 

 

  この個所の原文は、「我、汝がどこに住んでいるかを知っている。そこにはサタンの座がある。そして汝はわが名をしっかりと保っており、我が信仰を否むことはしないだろう。[そして]その日々において、我が証人、我が忠実な者であるアンティパスは、彼は汝らのところで殺されたのだが、そこにはサタンが住んでいる」(田川訳)である。

 

 

  「彼は彼らのところで殺されたのだが」は、関係代名詞句であり、「アンティパス」を修飾している。しかし、「アンティパス」を主語とする主文が存在していないので、「アンティパス」が「信仰を否定しなかったので殺された」、つまり「殉教死した」、と素直に読めるわけではない。前後の文のつながりがぎくしゃくして、うまく構文が取れていない表現となっている。

 

  この文は編集者Sの文であり、ユダヤ主義的キリスト教の集団がペルガモンで彼らとは敵対するサタンの勢力から弾圧された時に文字通り「殺された」、「殉教死した」と読めないわけでもない。

 

  しかし、象徴的な意味で「汝らのところで殺された」という意味に読めば、アンティパスは以前は編集者Sの仲間だったのだが、ユダヤ主義的な選民的排斥主義が嫌になり、編集者Sの嫌いなもっと自由な「異邦人」キリスト信者の多い教会に宗旨変えした。それをこの編集者Sが正統派意識を発揮し、アンティパスはサタン(=「異邦人」を受け入れる者たち)の勢力の強いペルガモンで「殺された」(=編集者Sの教会を離れた)と言いたてた、とも読めるのである。

 

 

  WTは「アンティパスの死」を黙示録時代の疑問の余地のない殉教死と解しているが、「皇帝崇拝」に関しても、次のように解説している。

*** 塔10 5/15 5–6ページ 初期キリスト教とローマの神々 ***

皇帝崇拝はアウグスツスの治世(西暦前27年‐西暦14年)の間に誕生しました。特にギリシャ語を話す東方の属州では,長年の内乱の後に繁栄と平和をもたらしたアウグスツスに深く感謝する人が大勢いました。人々は目に見える権力によって引き続き保護を得ることを望んでいました。そして,一つの制度によって,宗教上の相違が克服され,愛国心が高められ,国家がその救世主のもとで一つになることを求めました。その結果,皇帝は神とみなされるようになりました。

 

アウグスツスは生存中に自分を神とは呼ばせず,ローマを神格化した女神ロマ・デアが崇拝されるべきとしました。アウグスツスは死後に神格化されました。こうして各地の属州の宗教心や愛国心は,帝国の中心地とその支配者の両方に向けられます。この新しい皇帝崇拝は,間もなくすべての属州に広まり,国家への崇敬と忠誠を表明する方法となりました。

 

西暦81年から96年に在位した皇帝ドミティアヌスは,神として崇拝されることを要求したローマ最初の支配者でした。そのころには,ローマ人はキリスト教をユダヤ教と区別し,新興宗教として反対していました。使徒ヨハネが「イエスについて証ししたために」パトモス島に流刑にされたのは,ドミティアヌスの治世中だったようです。―啓 1:9。

 

ヨハネは,流刑にされていた間に「啓示」の書を記しました。その中でアンテパスというクリスチャンについて述べています。アンテパスは皇帝崇拝の重要な中心地であったペルガモンで殺害されました。(啓 2:12,13)帝国政府がクリスチャンに,国家宗教の儀式を行なうよう要求し始めていたのかもしれません。いずれにしても,西暦112年には,冒頭に出てきたトラヤヌスの手紙に示されているように,プリニウスはビチニアのクリスチャンに,国家宗教の儀式を行なうよう要求していました。

トラヤヌスは,プリニウスの扱いを褒め,ローマの神々への崇拝を拒んだクリスチャンを処刑するよう命じました。そしてこう述べています。「ただし,その者がクリスチャンでないと主張し,我々の神々に祈りをささげることによってそれを証明するなら,(以前にどんな疑いをかけられていたにしても)その悔い改めゆえに許してもよい」。

 

ローマ人は信者に全き専心を要求する宗教というのは理解できませんでした。ローマの神々は全き専心を要求しないのに,どうしてクリスチャンの神がそれを求めるのか,と考えました。国家の神々への崇拝は政治体制を認めていることを示すものに過ぎないと感じていたのです。ですから,崇拝の拒否を反逆罪とみなしました。しかし,プリニウスが気づいたとおり,クリスチャンを強制的に従わせることはほとんどできませんでしたそうした崇拝はクリスチャンにとってエホバへの不忠実を意味したので,数多くの初期クリスチャンは皇帝崇拝という偶像崇拝をするよりも死を選びました。

 

 

 

 

  「アンティパス」が殉教したのは、「皇帝崇拝」に同調するのを拒んだためであり、小プリニウスの書簡を「皇帝崇拝」の根拠としている。

 

  また「皇帝崇拝」に関するWTの説明は、相互に矛盾した箇所が多く、正確な意味をつかみにくいが、イエス時の「アウグスツス帝」の時代から、「黙示録」の著者である使徒ヨハネが流刑から解放された後の「トラヤヌス帝」の時代のまで、ローマ帝国下では、皇帝は神格化され、皇帝崇拝が常態化していたと読ませたいのだろう。

 

 

「ペルガモン」の皇帝崇拝に関しては次のように解説している。

*** 洞‐2 778ページ ペルガモン ***

ペルガモンの宗教の特に注目に値する面は,政治上の支配者が崇拝されたことです。同市の人々はカエサル・アウグスツスを崇拝するための荘厳な神殿を建てました。このようにして,ペルガモンは皇帝崇拝のためにささげられた神殿のある都市として最初のものとなりました。トラヤヌス帝とセウェルス帝の時代に,同様の神殿がさらに二つその地に建設されました。それで,ブリタニカ百科事典はペルガモンを「初期の帝国の支配下での皇帝崇拝の主要な中心地」と呼んでいます。(1959年版,第17巻,507ページ)そのようにしてローマ皇帝を崇拝することは,同帝国の様々な被征服国すべてを共通の神のもとに政治的に一つに融合させるのに役立ったに違いありません。人々は各々自分の土地の神々や国家の神々を崇拝することができましたが,だれもが皇帝をも崇拝しなければなりませんでした。

 

 

 

  ペルガモンには「皇帝崇拝」のための神殿が三つあり、「皇帝崇拝の重要な中心地」であり、だれもが皇帝をも崇拝しなければならなかった。つまり「皇帝崇拝」はローマ帝国の国策によって強制されていた、と読むことになるが、事実は異なるようである。

 

 

 

以下は、「訳と註」の付論「皇帝崇拝という歴史的幽霊」からの引用です。

 

確かにローマ帝政期になると皇帝の像を安置するための神殿が属州のおもな都市に作られ、そこで皇帝の像を祭る祭儀がなされた。けれどもそれは、その土地のすべての住民にその神殿に詣でて、皇帝の像を拝礼する儀式を強制する、というような質のものではなかった。

 

だいたいそんなことは、当時の帝国属州の統治実態からして、考えようもなかっただろう。そういった神殿は地元の貴族、有力者たちがローマ帝国にへつらうために建立したものであり、そういうものを立てることによって地元の経済的発展に資することを期待したのである。

 

そういうものだから、皇帝礼拝を全住民に強制するなどということは事実として行われることはなかったし、そんなことを示す歴史資料なぞ存在しない。

 

ましてや、少なくても我々の扱う時期(後1世紀~二世紀前半)においては、皇帝礼拝を受け入れないキリスト信者を帝国官憲が率先して弾圧した、などという事実は全く立証されないのである。

 

つまりこれは、文字通り、歴史の幽霊にすぎない」

 

 

 

 

  度々登場する「小プリニウス」の話は、本当に「黙示録」時代における、皇帝崇拝に基づくローマ帝国によるキリスト教徒弾圧の証拠となるものなのだろうか。

 

「彼らがそのこと(皇帝崇拝を受け入れないキリスト信者をローマ帝国が弾圧したこと)を示す歴史資料として引き合いに出すのは、唯一、小プリニウスが皇帝トラヤヌスにあてた短い書簡だけである。

 

それさえ、この手の神学者さんの中では、自分で原文を読んで検討した人なぞごく僅かしかおらず、ほとんどは孫引き、ひひひ孫引きの水準で、自分で読んだ人さえ、せいぜいのところ、この書簡だけをざっと読むだけで、この書簡集がどういった代物であるのか、そこに書かれていることがどの程度、どういう水準で信憑性があるのかないのか、と言ったことを自分で検討することもなさらない。

 

そのくせ彼らは、「プリニウス書簡によれば」ローマ帝国はキリスト信者に皇帝礼拝を強要し、それを受け入れないものを弾圧したのだ、と騒ぎ立てる。風評学問の典型である」。

 

 

 

 

  もしも、「小プリニウス書簡」がトラヤヌス帝時代のキリスト教徒弾圧の証拠とはならないのであれば、最後の使徒であるヨハネが皇帝崇拝を拒絶したしたためローマ帝国から弾圧され、パトモス島に流刑された、とする根拠は一挙に崩れて去ってしまうことになる。

 

 

  もっとも、福音書に登場する使徒と呼ばれたヨハネは、ガリラヤ出身のユダヤ人であり、アラム語しか話せなかったと思われる。イエスから「ボアネルゲス」とギリシャ語ではなく、アラム語であだ名されている(マルコ3:17)ことからしても、ましてや、貿易とは無関係の漁師であった使徒ヨハネには、聖書が記されたコイネーと呼ばれる地中海資本経済を中心とした共通語で文書を書く力など、なかったと思われる。

 

  同じガリラヤ村の出身のペテロは、福音書筆者とされるマルコをギリシャ語の通訳としていたという記述が残っている。それが事実かどうかは定かではないが、「使徒」と呼ばれたガリラヤ出身の一二弟子たちのほとんどは、ギリシャ語を話せなかったことは確かであると思われる。おそらく、使徒ヨハネは、トラヤヌス帝の時代には亡くなっていたものと思われる。

 

 

 

  聖書正典信仰を生み出したエイレナイオスが新約正典の権威付けをしようとしたのは180年ごろの話である。彼は、異端とされたマルキオンの正典表に対抗するために、各キリスト教派で伝統的に重んじられた文書をすべて正統派の正典にしてしまったのである。そのため、異なる著者が、異なる思想を、異なる時代に書かれた文書の統一性を矛盾なく説明しようと苦労していた。

 

  それ以後「使徒」の著作でないと「正典」には入れられない、という考え方が生まれ、それまでもあったが、実際には使徒の著作ではないものまでも、使徒の名を冠して発行されたり(新約外典他)、説明されたりしたのである。

 

 

  すなわち、WTが「真理」として解説するように、「黙示録」とは、最後の十二使徒となった「使徒ヨハネ」が皇帝崇拝を拒絶したため、ドミティアヌス帝によりパトモス島に流刑にされた時に幻を与えられ、神の経路を認める者たちに祝福を与える目的で書かれた神の霊感を受けて書かれたもの、とする根拠は、極めて乏しいもののようである。

 

 

少々長くなりすぎたので、ローマ帝国における「皇帝崇拝」の実態と「小プリニウス書簡」の正体については、次回にします。