「黙示録」の構造

 

  WTには限らないのであるが、伝統的な理解によると、黙示録の著者は、使徒ヨハネであるとされるのが普通である。その根拠となる一因は、1:1-11「イエスについて証ししたためパトモスと呼ばれる島」に流刑となったとされる「奴隷ヨハネ」を使徒ヨハネと解する説による。

 

  確かに、西暦2世紀のパピアスや殉教者ユスティヌスは、使徒ヨハネが筆者であることを述べている。(エウスビオス「教会史」)2世紀末から3世紀初頭のクレメンスやテルトゥリアヌスなども、著者が「使徒ヨハネ」であるとしている。使徒教父たちの証言も根拠とされるが、これらはパピアスの記述を踏襲しているだけと思われる。

 

  一方で、著者とされている「ヨハネ」に関しても、実際にはほとんど知られていないとして、3世紀から、「ヨハネ福音書」とは異なる文体であることを根拠に、「ヨハネの黙示録」は使徒以外の「違うヨハネ」が筆者であることを指摘する議論があったこと伝えられている。(エウスビオス「教会史」)

 

  19世紀から20世紀のはじめにかけて、ヨーロッパの学者たちの研究によって、黙示録には異なる複数の筆者が存在することが指摘されていた。ギリシャ語の語学的な特色があまりにも異なっているからである。しかしながら、多くの新約学者は、正典聖書批判を避けようとする意識的あるいは無意識の護教主義から脱却できず、キリスト教ドグマを前提とした解釈に終始していたようである。

 

 

田川健三著「黙示録の註と解」(解説と後書き)によると

 

「今日我々が知っている黙示録は、二人の書き手の文章が混在している。元来の著者の作品と、そこに大量に自分の文を書き込んだ編集者の文である、分量にしてほぼ半分。この二人は、月とすっぽんほどにも似ていない。全く正反対の方向を向いているだけでなく、立っている水準も巨大な落差があるし、著作の目的、主題、質も全然異なるし、人間の品性も雲泥の差があるし、そして特に、ギリシャ語の語学力が桁違いに異なる。」

 

「黙示録」が二人の異なる筆者による著作、というより、原著者の文に自説を大量に加筆させた著作である、という結論は、純粋にギリシャ語の語学的な仕分けによる分析と、文章の内容と向いている方向の仕分けによる分析という異なるアプローチで作業した結果の結論である、という。(個々の言葉の分析については「註と解」を参照)

 

 

以下は、「註と解」の解説と後書きより

 

 「二つ(言語的な特色と内容的な特色)の仕分け作業を別々にやってみると、結果が、見事に一致しする。この一致は、この著作が二人の異なる書き手の文章によって構成されている、という事実を動かし難く証明する。普通は、歴史的著作について、このどちらか一方の要素だけによって分析しても、かなり確かな結論が得られるものだが、それが、二つの別種の要素の分析の結論がほぼすべての個所にわたってぴったり一致するのだから、学問的には、これ以上確かな結論を得られることはめったにない、と言っていいくらいのものである。ほんの数単語程度の短い箇所なら到し方ない。」

 

 「原著者と編集者Sのギリシャ語の能力の違いは極めて大きい。原著者にとってもギリシャ語はある程度年齢が進んでから習い覚えた第二言語であろうけれども、そのわりには、まずまずの水準である。確かにセム語を第一言語とする者にありがちな文法の間違いはある程度見られるけれども、それでも、そう目くじら立てて言うほどの分量ではない、まずまずまともなギリシャ語である。それに対し編集者Sの文では、嘘みたいに幼稚なギリシャ語の間違いが次々と最初から最後まで頻発する。一応ギリシャ語でギリシャ語の単語を並べてはいるが、あまりに幼稚すぎて(文法の初歩的間違い、構文がうまく作れない、単語の意味を正確に知らない、等々)、ただただ恥ずかしい、と言った程度の語学力である。」

 

  原著者の文に多数の文を挿入した編集者を田川氏は「編集者S」と呼んでいるが、「S」は「サディスト」の「S」である。この「編集者S」は、極端に偏狭な典型的なユダヤ主義者であり、ユダヤ人以外の世の中のすべての民族、すべての「異邦人」が例外なく、皆殺しになる終末の裁きを喜んでいるふしがある。徹頭徹尾、ユダヤ人万歳であり、神によって最終的に救われるのはユダヤ主義者だけである、「異邦人」は残虐され、滅ぼしつくされることを、執拗に、くり返し、挿入している。

 

  一方原著者は、彼自身もユダヤ人出身ではあるが、「編集者S」とは、正反対である。彼は、神によって最後に天上の極楽世界に招かれるのは、世界中のすべての民族、すべての言語の者たちである、とくり返し宣言する。その叙述の中には、偏狭なユダヤ人優越意識は露ほどにも見られないどころか、そもそもユダヤ人の存在そのものが全く意識の中にない。それは決して、敢えてユダヤ人を排除している、というわけではなく、全世界のすべての民族、言語の者たち、という以上、ユダヤ人もまた数え切れないほど多くの民族、氏族のうちの一つに過ぎないのだから、敢えてユダヤ人だけを特別扱いして意識する必要もない、という態度である。

 

 

  著作の主題に関しても、原著者と編集者Sとでは、全く異なっている。

 

  「原著者がこの文を書いた基本の目的は、ローマ帝国支配の批判、それも上っ面の現象の批判ではなく、その世界支配の基本構造、すなわちローマの町を中心として、地中海地域全体を支配する資本主義的経済支配の批判である。叙述全体にその問題が通っている。原著者の書いた部分の前半では(4-6章、7章後半、10-11章)、うち第6章がこの書物全体の主題を最初に要約的に提示する章になっていて、そこでまずローマ帝国支配が現実にどういう問題をもたらしているかを順に短く指摘していく。そして前半(前半全体が一種の序説)の最後の章(11章)の結びの句(11:18)で、いよいよ、後半(12章以下)で始まる本論部分の主題を一言で宣言する。「地を滅ぼしている者(=ローマ帝国支配)を滅ぼす時が来たのだ」と。そして13章でその基本主題をはっきりと説明する。帝国支配とは、ローマの町に蓄積された帝国の貨幣による帝国全体の経済支配である、と。(なお、黙示録の基本命題がこの点にあると言う事実を正確に見抜いたのはカール・マルクスだった)。そして18章がいよいよこの書物の頂点で、ここでまるまる1章を費やして著者はローマの町の崩壊を予言する。ローマの町の反映は世界のすべての人々の抑圧の上にはじめて成り立っているのであるが、そういう繁栄は必ず神によって滅ぼされねばならぬ、というのである。その繁栄は虚妄の贅沢三昧であるとて、その実態を細かく列挙し、そしてそのすべてが消滅せしめられるのだ、と焦点をそこに合わせて描き切っている。帝国の首都ローマの滅亡とは、その経済支配を支える基本機構たる地中海開運の崩壊にほかならない、と。

 

  他方、編集者Sは原著者の文章の主題を全く無視し、最初から最後まで、他のことには目もくれずに、ユダヤ教徒以外のすべての「異邦人」は、とことんまで殺しつくされねばならぬ、とのみ、ただただひたすら、同じことばかりくり返し続けている。なお最初に書かれた一種の序論部分(2-3章)はやや主題が異なるように見えるかもしれないが、こちらでは、キリスト教会で「異邦人」と交わっているその穢れにそまる者もみな教会から追い出されねばならぬ、その者たちも同様に永遠の滅びに定められているのだ、と宣言しているのだから、同じことである。そしてこの部分でも、その結論に当たる箇所では(2:27)、「異邦人」はみな、鉄の杖によって陶器が粉々に打ち砕かれるようにして、一人残らず殺しつくされねばならぬ、と宣言なさっておいでである。」

 

以上が、「ヨハネの黙示録 註と解」の解説と後書きからの抜粋である。

 

 

  黙示録を預言書と解釈し、ダニエル書などと同じく未来の事柄についても語られた終末預言の一種であることを前提に読むと、原著者が言わんとしていることが見えなくなる。正典たる新約文書には、キリスト教ドグマに反することが書かれているはずがないとか、正典聖書は神の霊感を受けて書かれているものであるから、初歩的な文法的な間違いがあるとしても、そこには何らかの神の意図が働いているはずだ、という前提で聖書文書を理解しようとするなら、聖書の本当の姿は見えて来ないように思う。

 

  今後、黙示録に登場するいくつかの個所について、NWTと田川訳を比較しながら、検討してみたいが、WTが説く「大いなるバビロン」や「緋色の野獣」の解釈を真に受け、「偽りの宗教の世界帝国」や「国連」の動向に一喜一憂しているJWが滑稽で気の毒に思えてしまう。

 

  宗教改革以降、プロテスタント教会ではパウロ書簡が最も大きな影響力を持つようになったが、黙示録の影響も強く残っており、中世キリスト教では、黙示録一色である。キリスト教信仰の中心は最後の審判であり、最後の審判に合格しなければ、恐ろしい永劫の劫罰にさらされる、と聖職者たちが説き続けた。信者たちはその恐怖によって支配され続けて来たのである。

 

  しかし、黙示録原著者の文章には、終末の審判によって人類の大多数に永遠の滅びが待ち受けている、という理念は全く出て来ない。黙示録には終末に際して神によって下される裁き、全世界的な破滅の惨劇が記録されていると言うのは、原著者の文ではなく、すべて「編集者S」の文から導き出されたものである。

 

  後世のキリスト教は、終末信仰と共に「編集者S」の理念をも継承した。行き過ぎた護教主義と聖書正典信仰が「異邦人」は全員神によって殺しつくされる、という信仰を無批判に受け入れたのである。キリスト教は、ユダヤ人の「異邦人」排除の理念を「異教徒」と読み替えてそのまま継承したのである。中世キリスト教は「異教徒」つまりキリスト教以外のすべての人間に対してはいくらでも侵略あるいは征服しても、場合によっては殺しても構わない、と思っていた。その代表的な出来事は十字軍であり、その意識は今日でも底流に息づいている。その矛先は、「異教徒」に限らず、正統派キリスト教に反対する「異端」にもあてはめられ、ひとたび「異端」のレッテルを貼られると、弾圧、生命の危険にさらされることとなった。

 

  現代においても、黙示録における「編集者S」の精神は、キリスト教ファンダメンタリストに受け継がれており、WTもその流れの一つである。WTは、88年に「啓示の書の最高潮」と題する本を発表したが、90年代以降のWTは「編集者S」の精神が次第に前面へと押し出されてきたように思える。「啓示の書」は廃番とされたが、近年、「組織に従順」と言う指示が、「統治体信仰」と一体化し、「経路信仰」「長老信仰」にまで発展し、「異端排除信仰」がますます先鋭化しているように思う。

 

  原著者による本来の「黙示録」とは、真逆の精神を持つ「編集者S」による「黙示録」も聖書正典の書であるのだから、そこには神の意図が書かれていると信奉するのであれば、暗黒時代のキリスト教を実践しているのと同じように思える。

 

  イエスは「汝の敵を愛せよ」と教えたのであるから、「異端排除」とは真逆の精神である。「編集者S」の精神は、聖書正典に書かれているキリスト教の教えであるとは、主張できるかもしれない。しかしながら、イエスの言葉とは矛盾しており、イエスに倣っているキリスト信者の精神ではないことは明らかであろう。

 

  WTは「真のキリスト教」の経路であり、JWは「真のキリスト教」の実践者である、と豪語しておられますが、イエスの精神や生き方と真逆の「真のキリスト教」なるものが、果たして存在するのだろうか?

 

  はなはだ疑問に思う、昨日今日この頃です。