⚫️忌避の精神は本当に「神の愛」と調和しているのか?

 

 「新しいおきて」という表現は、ヨハネ文書の中だけに見られる表現である。全部で、4回登場する。(ヨハネ13:34、第一ヨハネ2:7,8、第二ヨハネ5)JWにとっておなじみなのは、最後の晩餐の前にイエスが使徒たちに対して、「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます」と語ったとされる場面であろう。

 

 「真のクリスチャンは、「愛」によって見分けられる」。
 ヨハネ13:34,35の「新しいおきて」を主題とする公開講演である。

 

 JWの中には、自分たちこそ、「愛」によって見分けられている「真のクリスチャン」であると自負している人が多い。自分たちは、神が人類に対して抱いているのと同じ種類の「愛」を抱いている。不完全ながらも、イエスが体現してくれた「神の愛」と同じような「愛」により、見分けられている、と純粋に信じている。

 

 同じく「新しいおきて」という表現を用いている第一ヨハネの著者も、「愛は神からのものである。すべて「愛する者」は神から生まれている。「愛さない者」は神を知るようになっていない。神は「愛」だからである」。(第一ヨハネ4:7、8)と述べている。第二ヨハネの著者も「新しいおきて」とは、「互いに愛し合うことです」。(第二ヨハネ5)と述べている。

 

 この「愛」も、神が人間に対して抱いているような愛、「純粋な愛」を示すことが神に愛される者、神に献身した者の務めである、と信じているJWは多い。

 

 イエスは、旧約の613の戒律(Taryag mitzvoth)を二つの原則に統合した。それゆえ、クリスチャンの従うべき律法は、「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことの二つの「愛のおきて」だけである、という話もよく耳にする。

 

 大抵のJWなら、「隣人」とは誰か、に関しては、サマリア人の譬話を思い起こすなら、イエスが教えた「愛」とは、「自分の兄弟たち」に限定された愛ではないことはすぐに理解できるだろう。

 

 多くのJWにとって「新しいおきて」とは、原則的な「純粋な愛」、「神の愛」を示すことであり、真の「隣人愛」によって見分けられるのが、キリストの弟子である証拠である、と考えているだろう。

 

事実、WTでもそう教えている。

*** 塔07 10/1 5–6ページ 幸福につながる選択 ***
イエスは死ぬ前の晩,弟子たちに「新しいおきて」を与えました。それは互いに愛し合うというおきてです。(ヨハネ 13:34)それが新しいと言われたのはなぜでしょうか。そもそもイエスは,律法全体が二つのおきてにかかっており,その一つが隣人を愛することであるとすでに説明したのではないでしょうか。モーセの律法下でイスラエル人は,「あなたの仲間を自分自身のように愛さねばならない」と命じられていました。(レビ記 19:18)しかし,このたびイエスは弟子たちに,それ以上のことを行なうよう命じたのです。その同じ晩,イエスは弟子たちのためにご自分の命をまもなく与えると述べました。そしてこう言いました。「わたしがあなた方を愛したとおりにあなた方が互いを愛すること,これがわたしのおきてです。友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」。(ヨハネ 15:12,13)このおきては,自分より他の人の関心事を優先させるという点で,確かに新しいと言えます。

自分の関心事にだけ注意を向けるという枠を超え,利他的な愛を示す方法は数多くあります。例えば,アパートに住んでいるとしましょう。刺激を感じるような大きな音量で音楽を聴きたいと思っていますが,それでは隣の人の迷惑になってしまいます。その人が平安な気持ちでいられるように,音量を少し抑えることができるでしょうか。つまり,自分の福祉より隣の人の福祉を優先させるでしょうか。

別の状況について考えてみましょう。カナダでのことですが,雪の降る寒い冬の日に,二人のエホバの証人が年配の男性を訪問しました。会話していると,その男性は,心臓病を患っているため自宅の前に積もった雪を片付けられないと言いました。1時間ほどすると,雪かきの大きな音が聞こえてきました。二人のエホバの証人が戻って来て,玄関に通じる道と階段の雪かきをしていたのです。その人はエホバの証人のカナダ支部に次のような手紙を書き送りました。「今日わたしは,本物のクリスチャン愛を示していただきました。たいへん元気づけられ,見方が変わりました。これまでは今の世の中に対して概して悲観的な見方を持っていたのです。皆さんが世界中で行なっている活動は本当に素晴らしいと前々から感じていましたが,その気持ちはさらに強まりました」。どんなに小さなことと思えても,助けを差し伸べようとするなら,他の人に良い感化を与えることができます。自己犠牲を示すこうした選択をすることにより,大きな幸福を味わえるのです。

 

 「新しいおきて」とは、あらゆる差別を超えて示されるべき真の「隣人愛」を行動において実際に示すことである、ことが経験によっても語られている。

 

 

 イエスが教えた「愛」とは、自分を愛してくれる者を愛することではなく、自分の敵をも愛するように、という教えだった、と聖書は記録している。(マタイ5:23-48)

 

 聖書に基づく「神の愛」とは、「邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ、義なる者の上にも不義なる者上にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)という「無条件の愛」だと書いている。

 

 「自分の兄弟たちだけあいさつしたからといって、どんな格別なことをしているのでしょうか。諸国の人々も同じことをしているではありませんか。」(マタイ5:47)

 

 「真のクリスチャン」が示す「隣人愛」とは、同じ組織の仲間だけに示すべきものである。それ以外の人間には示さなくてもよいもの、ある場合にはむしろ示してはならないものである。そう考え、行動しているJWがいるとしたら、その人は自分が「神の愛」によって見分けられている「真のクリスチャン」である、と本当に考えるであろうか?

 

 むしろ、「サマリア人の譬え話」の「祭司」や「レビ人」と同じである。あるいは、イエスが「まむしらの子孫」と断罪した「パリサイ人」や「サドカイ人」と同じか、「諸国の人々」と同じだ、と考えるのではなかろうか。

 

 ヨハネ13:34,35における「新しいおきて」に基づく「愛」とは、イエスが示したような「愛」、人々のための贖いとして自分を犠牲とするような「無条件の愛」であり、決して同じ組織の仲間だけに限定された「条件付きの愛」ではなかったとする記事がWTにも多く登場する。

 

 

 ところが、忌避問題になると、この考え方が一変する。

 

 WTがJWに要求している排斥者や断絶者に対する「忌避」行為、とは、まさに「自分の兄弟たちだけにあいさつ」することを要求する行為である。「許される罪」と「許されない罪」があるとされるが、イエスは「人の子に逆らう言葉を語る」ことさえ、許される(マタイ12:32)、と言っている。それにもかかわらず、不完全な人間で構成されている「神の経路」の指示に従わないことは「霊に対する冒涜」であり、「許されない罪」として数えあげられてしまう。

 

 決して、イエスや聖書を敵視しているのではない。公正な事情聴取や弁護人が同席することもなく、排斥認定されることもある。組織側の一方的な論理から、兄弟関係を断ち、仲間の信者たちとの一切の接触を許さないというのである。

 その理由は、成員に対しては組織の「清さ」を守り、本人に対しては「悔い改め」を促す、という「愛」の名目で説明される。常に組織が「善」にて「聖」で、排斥者が「悪」にて「不浄」という一方的な構図で宣告される。

 

 諸国の人々にも葬式と火事を例外とする「村八分」という慣習があるかもしれないが、WTの忌避行為は「村十分」である。諸国の人々にもないほどの排他的な行為を、「神」と「愛」の名の下に行なっている。

 

 さすが「世のものではない人」たちが行なう行為は、「世にもない」ほどのご立派な行為である、と感心させられる。

 

 

 

 それにしても、忌避行為を「真のクリスチャン」が取るべき、「愛」に基づく行為であると信じてやまないJWが多いのはなぜなのだろうか。

 

 その一因として、ヨハネ13:34,35の「イエスが愛したように愛すること」という解釈に、WTが二重の基準を設けていることにあるように思える。

 

ヨハネ13:34,35(NWT)
「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それはあなた方が互いに愛し合うことです。つまりわたしがあなた方を愛したとおりに、あなた方も互いを愛することです。あなた方の間に愛があれば、それによってすべての人は、あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。

 

 一つの解釈は、上のWTの引用に見られるように、弟子たちの間に存在する「愛」とは、「わたしがあなた方を愛したとおり」の愛、つまりイエスが贖いとして人類のために示したような「無条件の愛」という意味で使う場合である。「互いに愛し合うこと」とはクリスチャン同士が「互いに無条件の愛を示しあうこと」と解することになる。そして、そのような「無条件の愛」を示すことを「新しいおきて」として解釈する。

 

 もう一つの解釈は、人々によって見分けられる「愛」とは、「弟子たちの間に見られる愛」のことであるという解釈である。つまり、イエスの「わたしがあなた方を愛した通りの愛」とは、「弟子たちを愛する限定的な愛」、「弟子たちだけを愛する」という「条件付きの愛」のことである、とする解釈である。「互いを愛する」とは、「イエスの弟子だけを愛する」という意味に解することになる。

 この場合、「新しいおきて」とは、すべての人は「イエスの弟子」となる可能性があるのだから、「すべての人を愛する」というのではない。すでに「イエスの弟子となっている」という条件を満たしている人だけに「愛」を示す、という「条件付きの愛」、「限定的な愛」を示すことを「新しいおきて」として解釈することになる。

 

 そして、JWドグマによると、イエスの「贖い」の直接の対象は、地から買い取られることになる弟子たち、つまり144、000人の天的クラスに限定されているのであるから、「統治体を愛する」という条件を満たしていなければ「イエスの弟子」ではない、ということになる。

 

 また、「愛」とは「そのおきてに従がうこと」でもあるのだから、地的クラスが「贖い」の適用を受けられるかどうかは、彼ら「油注がれた者たち」の指示に従うかどうかにかかっている、と解釈する。

 

*** 塔13 1/15 10–11ページ 15節 勇気を出しなさい ― エホバが共におられます! ***
アクラとプリスキラも,詳しい事情は分かりませんが,「[パウロ]の魂のために自分の首をかけ」ました。(使徒 18:2。ロマ 16:3,4)イエスの次の言葉に従い,勇敢に行動したのです。「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです」。(ヨハ 13:34)モーセの律法では,自分自身のように隣人を愛することが要求されました。(レビ 19:18)しかし,イエスのおきては,ご自身がなさったように,他の人のために命を与えるほどに愛する,という意味で「新しい」ものでした。多くのクリスチャンは,仲間の信者が敵によって虐待されたり殺されたりしないよう勇敢に「自分の首をかけ」,そうすることによって愛を示してきました。

 

 「互いに愛し合う」ことが「互いを愛する」こと、つまり「仲間の信者」に限定されて適用していることが理解できる。

 

 

 このように、WTでは、ヨハネ13:34の「新しいおきて」に従がうことを、ある場合には「互いに愛する」こと「無条件の博愛を示すこと」の意味で使い、別の場合には「互いを愛する」こと「仲間の兄弟に限定して偏愛を示すこと」の意味で使い、両者を混同させている。

 「イエスが弟子たちを愛したように愛する」ことが「新しいおきて」であると教えていながら、通常は「すべての人に愛を示すことである」と説き、忌避問題の時には「仲間の信者だけに愛を示すべきである」と説き、矛盾した二重の基準に従がうように教えているのである。

 

 もしイエスが本当に弟子だけを愛し、弟子たちにも、弟子だけしかを愛さないように「新しいおきて」を与えたのであれば、イエスは誰のための贖いとして命をささげたのであろうか。

 アダムに対応する最後のアダムではなかったことになるのではなかろうか。

 

 そのような偏狭で排他的な「イエスの愛」は「神の愛」を具現化した「神の像」と言えるのであろうか。

 

 新約聖典中で「異端排除」を明確に支持しているのは、第一ヨハネと第二ヨハネだけである。

 

 まず第一ヨハネの著者が言う、「新しいおきて」(NWT)「新しい戒命」(田川訳)とは何かを検証してみる。

第一ヨハネ2:7-8
「愛する者たちよ、わたしはあなた方に、新しいおきてではなく、あなた方が初めから持っている古いおきてについて書いています。この古いおきてとは、あなた方が聞いた言葉です。また、わたしはあなた方に新しいおきてについても書いています。このことは、彼の場合にも、あなた方の場合にも真実です。なぜなら、闇は過ぎ去りつつあり、真の光がすでに輝いているからです」。(NWT)


「愛する者たちよ、わたしがあなた方に書いているのは新しい戒命ではない。あなた方が最初から持っている古い戒命である。古い戒命とは、あなた方が聞いた言葉のことである。また、新しい戒命をあなた方に書く。それは彼においてもあなた方においても真である。闇が過ぎ、真の光がすでに顕れる、という」。(田川訳)

 

  キリスト信者が「初めから持っていた古いおきて」と「新しいおきて」を第一ヨハネの著者は別のものとして区別している。そしてこの「古いおきて」のことを著者は、「あなた方が聞いた言葉」のことであると言っているのだから、「新しいおきて」とは過去のキリスト教倫理とは異なる別の価値観を持った「おきて」「戒命」を念頭に置いていることがわかる。つまり、著者はこれまでの伝統的なキリスト教倫理とは異なる新たな倫理観をキリスト信者に植えこもうとしているのである。

   そのことは、「また」(palin)という原文では8節冒頭の言葉がよく示している。この表現は、「古いおきて」に対して「新しいおきて」を書く、という趣旨である。そしてこの「新しいおきて」とは、hotiに続く名詞句で説明している。NWTでは、このhotiを「このことは……です。なぜなら……からです」と二重に訳しているが、「それは……ということ」(英語で言うところのthat節)に対応している。

 

  原文を単純文法的に読むと、「彼においてもあなた方においても真である。闇が過ぎ、真の光がすでに顕れる」というのが「新しいおきて」であるという趣旨に読める。
 

  しかし、それでは「おきて」という表現とは適合しない。その句は、事実もしくは著者が真実と信じている宗教ドグマではあるかもしれないが、命令として守らせるべき「おきて」ではない。

   それで、NWTでは、「このことは」とは、「新しいおきて」を指すのではなく、曖昧に「書いていること」を指すかのように訳している。そうすれば、「古いおきて」にも「新しいおきて」にも従がうこと、と意味が通じるように読ませることができる。

   しかし、原文にそう書いてあるわけではない。NWTでは、「このことは……です。」「なぜなら……からである」とhotiを二重の意味に訳し、意味を整えたのであろう。確かに、hotiには、名詞節を導く用法も、理由を表わす従属節を導く用法もある。しかし、原文では一つしか出て来ない。一つしかない接続詞が、kai(英語のandに相当)で繋がれた句の一方を名詞節に導く用法で使い、他方を理由を導く従属節の用法で使うと解することは文法的にはありえない。

   もっとも、著者が言いたいのは、「古いおきて」にも、著者の言う「新しいおきて」にも、どちらにも従え、というつもりなのであろう。そういう意味では、NWTは、聖書著者の意図に忠実である。しかし、聖書の書かれている言葉に忠実なわけではない。同時に、第一ヨハネの著者と同じほど、偽善的で偏狭で排他的で矛盾してもいる。

 

  しかしながら、問題は、第一ヨハネの著者が「闇が過ぎ、真の光が、すでに顕れる」という、いわば自分たちの宗教ドグマを、なぜ、「新しいおきて」と呼んでいるのか、ということである。

   続く、彼の文章に、解くヒントが散りばめられているが、9節にフォーカスしてみる。

「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎む者は、今この時に至るまで闇の中にいます。自分の兄弟を愛する者は光の中にとどまっており、その人につまずきとなるものはありません」。(NWT)

「自分は光の中にいると言って、しかも兄弟を憎む者は、今にいたるまで闇の中にいるのである。自分の兄弟を愛する者は光の中に留まり、躓きはその者の中に存在しない」。(田川訳)

 

  「光の中にいる」とは「自分はキリスト信者である」という意味であり、「兄弟」とは「キリスト信者」を指している。

  JW的に読むと、自分は神の是認を受け、光の中にいる真のクリスチャンであると言いながら、「自分の兄弟」、特に「油注がれたイエスの兄弟」の指示に従わない者は、「今この時に至るまで」、つまり、「一世紀から終わりの日に至るまで」、「闇の中にいる」のであるから、神の是認は得られない、と解することになるであろう。

   第一ヨハネの著者も、言わんとしているのは同趣旨である。単に、「キリスト信者」同士が憎み合ってはいけない、と述べているわけではない。自分たちだけが「光の中」にいる存在であり、自分たちと信条を共にしない者は、たとえキリスト信者であっても、「兄弟を憎む者」であり、「闇の中」にいる、と主張しているのである。

   闇が過ぎ、真の光が、すでに顕れる」(原文は「過ぎる」も「顕れる」もどちらも現在形、NWTは「過ぎ去りつつある」「輝いている」と時制の差を持たせて原文のぎこちなさを消している)とは、自分たちのキリスト教こそ「真の光」であり、それ以外のキリスト教はたとえ多くの信者を持つ多数派であるとしても「闇」に過ぎない。我々の異端排除を標榜するキリスト信者が「真の光」として存在しているのであるから、やがて「闇」を打ち払い、正統なキリスト教として彼らを駆逐していくことになる、という趣旨である。

   著者は、この自分たちの宗教ドグマを「新しいおきて」と呼んでいる。「おきて」と表現しているのであるから、キリスト信者はみなその「戒律」に従がうべきだ、主張していることになる。

  その「おきて」に従がう者こそが「真の光」であり、イエスの場合にも我々の場合にも「真実」なのだ、と宣言しているのである。

   第一ヨハネの著者の中心主題は、「異端」排除である。何が「反キリスト」であるかは別にして、自分たちにとっての「反キリスト」を排除することを、キリスト信者が従がうべき共通の「おきて」としたいのである。

  つまり、第一ヨハネの著者は、「異端排除」に従がうことを、「新しいおきて」と表現していることになる。

   今まで我々の仲間たちは、キリスト教出発の最初から言われていた「古いおきて」を説いて来た。それはもちろん正しい教えである。しかし我々の中にはだんだんと「異端」が増えて来た。

  しかも彼らは我々の中にのさばっている。彼らは、我々兄弟たちを憎む悪い奴なのだ。だから今や彼らを追い出さなければならない。

  今や我々は、「我々が初めから持っていた古いおきて」に加えて、我々正統派の兄弟たちを愛さない悪いキリスト信者を追い出すべきだ、という「新しいおきて」も同時に守らなければならない。

  それに従がう者が「兄弟を愛する者」であり、「光の中にとどまる」ことである。その「新しいおきて」に従わない者は、「兄弟を憎む者」であり、「闇の中にいる」のであり、盲目で、自分がどこに行くのかも知らないのだ、と一方的に断罪し、正統主義を確立しようというのである。

   しかも、この著者にとっては、「異端排除」することが、「兄弟を愛する者」であり、「異端排除」に同意しない者が「兄弟を憎む者」である、と主張しているのであるから、本末転倒である。

  何をもって「異端」とするかという問題を別にしても、同じキリスト信者である「兄弟」を、あいつらは「異端」であるから、追い出せ、と忌避する者の方が、「兄弟を憎む者」であることは明らかであろう。

 

  しかしながら、WTの解釈によると、

*** 塔08 12/15 27ページ 6節 ヨハネおよびユダの手紙の目立った点 ***
ヨハネ第一2:7,8 ― ヨハネが「古い」また「新しい」と述べているのはどのおきてですか。ヨハネは自己犠牲的な兄弟愛に関するおきてについて述べています。(ヨハ 13:34)イエスの述べたそのおきてが「古い」とされているのは,ヨハネが霊感のもとに最初の手紙を記す60年余り前に与えられたからです。したがって,信者たちはそのおきてをクリスチャンとしての歩みの「初めから」持っていました。このおきてが「新しい」とも言われているのは,『仲間を自分自身のように愛する』以上の自己犠牲的な愛を求めているからです。―レビ 19:18。ヨハ 15:12,13。

 

 「古くて」「新しいおきて」とは、イエスが述べたヨハネ13:34に基づく「自己犠牲的な兄弟愛に関するおきて」のことである。つまり、「古いおきて」と「新しいおきて」とは同じものであるが、それが「新しい」のは、「仲間を自分自身のように愛する」という旧約レビ19:18の律法が求める以上の自己犠牲的な愛を求めているからであると解説している。

 

 しかしながら、それではレビ19:18の「仲間」をユダヤ教は「同じ信仰の信者」に限定して解釈したことにより、イエスによって糾弾されたことと矛盾する。

 イエスは、真の「隣人愛」とは、仲間の信者に限定されない「敵をも愛する愛」のことであると、キリスト信者に諭したはずなのに、イエスが与えた「新しいおきて」とは、「自分自身のように隣人を愛する愛」を「仲間に限定してそれ以上に愛する」ことが「新しいおきて」であると解説していることになる。

  さらにそれが「新しい」のは、ユダヤ教以上に、さらに偏狭に、キリスト教の「仲間」に対して「自己犠牲的な兄弟愛」を示さなければならないからである、と教えたことになる。

   このWTの教えは、イエスが糾弾したパリサイ人や祭司以上に偏狭なキリスト教信者になるべきであるというのだから、明らかにイエスの教えではなく、反キリストの教えであろう。

   ところが、聖書は矛盾のない神の言葉である、という聖書霊感十全信仰がJWにはある。聖書の正しい理解は、地上の唯一の神の組織である「統治体」と通して神の民に知らされる、という統治体信仰がある。

  疑念が湧いてきても、自分の理解に頼ってはならない、エホバを待つべきである、と諭される。理性による神聖な奉仕をもって神に仕えるべきなのに、理性を働かせることを僭越、傲慢、不信仰と糾弾される。

  それ故、違和感を感じながらも、この矛盾に気が付かない人が多いのではなかろうか。神は愛であり、聖書の言葉は、その著者の本質である「愛」によって、すべて説明しうる、と信じ込んでいるので、仲間を排除することも「愛」によって説明しようとする。

  冤罪削除や犯罪秘匿、不正引用や情報操作、組織の不正や寄付濫用まで、「愛」に基づく解釈を捏造しようとする。

  「愛は真実とともに喜ぶ」もののはずなのに……。

   WTは、地上における唯一の「神の組織」であるのだから、神が聖霊によって任命された人に不正はないはずであり、「愛」によって支配されている、と信じている。たとえ、不正なことがあるとしても、「神はすべてを御存知」であり、神に不正はないのだから、やがて神の公正な裁きによって正される、と信じてしまうのだろう。

   「人につまずかないで神だけを見なさい」、と問題の本質をすり替えられることもJWではよくあることである。

 
  第一ヨハネの著者が言う「愛」とは、終始、自分の宗教ドグマを信じ、それに従がう仲間だけを愛する「愛」について述べている。「愛」という表現を使っていても、広い意味での「愛」について述べているのではない。終始一貫して「条件付きの愛」を「愛」と称しているのであり、「無条件の愛」を奨励しているわけではない。

   ところが、WTでは、聖書正典中に書かれている「愛」とは、すべて「神の愛」「イエスの愛」と同じく「無条件の愛」であると信じ込まされている。「仲間を愛する」ことと「仲間だけを愛する」こととは、本質的に異なることである。「すべての人を愛する」ことの中に「仲間を愛する」ことも含まれるかもしれないが、逆は真ではない。ところが、「仲間だけを愛する」ことが「真の愛」の一つである、とWTは教えているのである。

   「古いおきて」と「新しいおきて」とは同じ「愛のおきて」を指していると解させることにより、「無条件の愛」と「条件付きの愛」との混同が起き易くなっているように思う。

 

 

 

  ちなみに、ヨハネ13:34,5の句は、オリジナルのヨハネ福音書原文に書き加えられた文の一つである。第一第二ヨハネの著者と同じ正統派を主張するグループの教会的編集者の付加であることは、使われているギリシャ語から検証されている。