●「ノア」と「他の七人」は「来るべき事の型」となりますか?……第二ペテロ2:5‐6より
NWT(84)「また、古代の世を罰することを差し控えず、不敬虔な人々の世に大洪水をもたらした時に義の伝道者ノアをほかの七人と共に安全に守られた[のであれば]……来たるべき事の型を不敬虔な者たちに示された[のであれば]」。
NWT(19)「また、古代の世界を処罰しないでおくことはせず、神を敬わない人々の世界に洪水をもたらしました。ただし、正しいことの伝道者ノアをほかの七人と共に保護しました。……神を敬わない人たちが将来どうなるかを示しました」。
JWの多くは、ノアの大洪水は、終わりの日におけるハルマゲドンの「来たるべき事の型」であり、「将来どうなるかを示し」ている。さらに、ノアの「箱舟」は、終わりの日における「組織」の「型」であり、「安全に守られる」ためには、終わりの日における「箱船」の建造に協力する必要がある。「ほかの七人」は「義の伝道者ノア」と「共に安全に守られた」「保護された」のであるから、「ほかの七人」である「ほかの羊の大群衆」は「正しいことの伝道者」である「統治体」と「共に」行動する必要がある。
つまり、終わりの日に神を敬わない人々と一緒に処罰されないためには、「箱船」の中に入り、洪水が過ぎるまで留まる必要があるのだから、「神を敬わない人々と共に」歩むのではなく、「組織と共に」歩む必要がある。それが救いの道である、と信じている。
ペテロ第二の聖句は、本当に「ノア」と「その家族」の救いに関して「来たるべき事の型」を示しているのだろうか。
田川訳では次のように訳されている。
田川訳「またもしも、神が原初の世界をほっておかれず、義の告知者である八番目のノアは保護したが、不敬虔な者たちの世界を洪水でもって打ちのめしたとすれば、……来たるべき(時の)不敬虔な者たちに対する範例となしたのであれば、」。
新世界訳では、「ノア」と「ほかの七人」とあるが、田川訳では、「ノア」に対する言及だけであり、「ほかの七人」に関する文言は一切出て来ない。
ほかの日本語訳聖書を見てみると、
新共同訳「また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心の世界の者たちに洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。……それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました」。
口語訳「また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。……不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、」。
文語訳「また古き世を容さずして、ただ義の宣伝者なるノアと他の七人とをのみ護り、敬虔ならぬ者の世に洪水を来らせ、……後の不敬虔をおこなふ者の鑑とし、」。
その他の日本語の個人訳聖書を見ても、「ノア」以外の「他の七人」を別個に並べているのは、NWTと文語訳だけである。
文語訳が新約の底本としているのは、テクストゥス・レセプトゥス(Textus Receptus)であり、1516年に発行されたギリシャ語のテキストである。文語訳は発行委員会の日本人協力者たちが、当時、ギリシャ語が読めなかったので、同じ底本を使用している英文欽定訳を参考に造られた明治元訳を元としている。
テキストゥス・レセプトゥス(「受け入れられたテキスト」の意)のもととなったギリシャ語写本は、東ローマ帝国からもたらされたビザンティン型に属する小文字写本を原本としており、古くても12世紀以前には遡らないことが明らかになっている。その結果、テキストゥス・レセプトゥスは現在ではその名とは逆に、「受け入れられないテキスト」となっている。
NWTは、もはや「受け入れられないテキスト」となったビザンティン系の教理が読みこまれている底本に固執し、「ノアとほかの七人」という表現にこだわり続けているようである。
しかしながら、NWTがギリシャ語聖書の底本としているという王国行間逐語訳(KI)では、
kai archaiou kosmou ouk epheisato all ogdoon noe
dikaiosunes keruka ephulaxen kataklusmon kosmo asebon epaxas, kai……katekrinen hyupodeigma mellonton asebein tetheikos
となっており、字義訳として、eight-(ones) Noahをあてている。
つまり、「八(人)」「ノア」とあるものを、「ノアとほかの七人」と英訳(Noah……with seven others)も和訳も翻訳しているのである。「人」に関しても( )記号を付しており、意味上補った語であることを示している。つまり、原文には「八人」と書かれているのではなく、単に「八」とあるだけである。
では、この「八」「ノア」という表現は、どういう意味なのだろうか。
諸聖書訳や註解書等がこれを、「義の告知者ノアなど八人」と訳しているが、これは序数詞を基数詞の代わり用いる言い方が古典語以来多く見られるからである。「八番目の人」という言い方で、「八人の人」という意味に使うことがあったからである。ある人が「八番目」であるためには、その前に七人がいる必要があるので、「八番目の人」という言い方で「八人の人」という意味でも用いられたのである。
ここも、原文の「八」は序数の「八」であり、字義的には「八番目」という意味であり、「八人」とは書かれていない。確かに、洪水の時に箱船に入って救われたのは、創世記によれば、ノアと三人の息子とその妻たちで合計八人である。ここは、「八人」と読めば、創世記物語とうまく適合するので、「八番目」を「八人」の意味に読みたいのであろう。
しかし、序数詞を基数詞の代用として用いるためには、序数詞にかかる名詞がすべてに共通する単語でなければならない。たとえば「八番目の馬」という表現は「八頭の馬」という意味に用いることができる。八番目の馬が存在するということは、馬は全部で八頭いることになる、と言っているのであるから問題はない。
それに対し、ここの「八番目」は「ノア」にかかっているのであり、これが序数詞を基数詞の代わりに用いた表現なると解するなら、「八人のノア」が存在していたことになってしまう。
つまり、この個所を「ノアとほかの七人」という意味に読もうとするのは、原文を無視した解釈を読み込んでいるということである。
他方、字義通り「八番目」と解する人すでに古代から存在した。一つの意見は、これを「義の告知者」にかけ、ノアが史上八番目の義の告知者である、とする解釈である。写本の欄外に書きこまれた註にそう記しているものがあるという。
しかし、「八番目の義の告知者」とあるなら、そうも解しうるが、原文の「八番目」は「ノア」にかかっているのであり、やや強引である。
ビッグはどの写本の資料によるのか明記していないが、この書き込みの註には、八人の名前が記されているという。アダムの直系の子孫を順に並べ、ノアまで、アダムの直系の子孫はみんな「義の告知者」だった、という設定である。それを最初のアダムとセツを抜かして、孫のエノシュから数え始めて、ノアを「八番目の義の告知者」に仕立てている。
創世記5章のアダムからノアまでの系図では、1アダムー2セツー3エノシュー4ケナンー5マハラレルー6ヤレドー7エノクー8メトセラー9レメクー10ノア、と10代である。ユダヤ教の伝説の中では、8代目と9代目のメトセラとレメクは影の薄い存在であるという。
もしかすると、第二ペテロの著者が七人目のエノクの後の八代目はノアであると勘違いしていた可能性もある。現に第二ペテロの著者と共通の資料を用いたと思われるユダ14節では、エノクを「アダムから七番目」と表現している。
いずれにしても、聖書の原文に「ノア」と「ほかの七人」を共に保護された、とは書かれていないことは確かである。
「八人」と解釈して、そこに救いを見出そうとするのも、信仰の自由ですが、あくまでも一つの解釈にすぎないことをお忘れなく。
「来たるべき事の型を不敬虔な者たちに示す」「神を敬わない人たちが将来どうなるかを示す」と訳されている箇所には、異読があり、hupodeigma mellonton asebesinとする写本(P72BP及びいくつかの小文字写本)とhupodeigma mellonton asebeinとする写本(シナイ写本ACΨ33及びビザンチン系多数)がある。最後の「不敬虔な者」に相当する語に、sが入るか入らないかの違いであるが、mellontonという助動詞の扱いが、文法的にはだいぶ異なってくるという。
sが入る方のasebesinは「不敬虔な(者たち)」という形容詞の複数与格であり、「不敬虔な者たちに対する範例」という意味になり、mellontonは未来の助動詞の現在分詞中性複数属格であるが、名詞化され「未来の時、未来の事柄」の意味で使われていると解することになる。
sが入らないasebeinは「不敬虔である」という不定詞となり、mellontonの現在分詞複数属格は普通の助動詞のとしての用法となり、「(未来において)不敬虔であるであろう者たちの範例」の意味になる。未来における与格と属格の違いであるが、意味からすれば極微妙な違いにすぎない。
ちなみに、KIはhupodeigma mellonton adebesinとsが入る読みを採用している。84年版NWTでは、「不敬虔な者たちに対する」と形容詞の複数与格と捉えて訳しているが、2019年版NWTでは、「神を敬わない人たちが将来どのようになるか」と不定詞に捉えて訳している。
これは、ネストレ26,27版は、どちらの読みを採るべきか不確か、としながらもsが入る方の読みを採用している。それに対し、最新版のネストレ28版は、不定詞の読みを断定的に採用した。写本の重要性からすれば、sが入った方の読みに若干傾くようだ。
おそらく、NWTが訳を変えたのは、ネストレの変更によるものと思われる。NWTは基本的にはネストレに依存しているだけであり、統治体が聖書の原典研究を自らすすめているものではないであろうと思われる。JW以外の人々の社会を、神を敬わない不敬虔な者たちからなる「世」として蔑みながら、彼らの研究成果を自らの研究結果であるかのように事実を隠して喧伝するWT統治体。しかも、原文には書かれていないにもかかわらず、自分の教理を織り交ぜ、原文に忠実であると主張する。
このことが真実なら、どちらが、本当に「神を敬わない人たち」なのだろうか。
JWが信じている「終わりの日」に入り、この組織はイルミナティーとの関係が明らかにされてきた。また、性的虐待の問題を隠蔽したり、裁判所の召喚にも応じず多額の賠償金を支払い、問題が外部に漏れないように画策してきたことも明らかになっている。その他、ヨーロッパでもアフリカでもオーストラリアでも世界の各地で、「統治体」は「不敬虔な者」であることが暴露されている。
「神の王国の大使」を自認されておられる「統治体」は本当に、神を敬っているのだろうか。聖書が真実の預言書であり、かつ現代の「ノア」が「神を敬わない人たち」であるゆえ、救われないのであれば、「ほかの七人」が「共に」救われることはありえないのではないだろうか。
私には、少なくても、JWの組織が現代の「ノアの箱舟」になる可能性は極めて低いように思われる。
むしろ、その時に「神を敬わない人たちが将来どうなるかを示す」ために、WT組織が「来たるべき事の型」となった、ということになりませんように……。
まあ、第二ペテロの著者が書いたその聖句そのものが、聖なるものかどうかはわからないのではあるが……。