●第二ペテロ書簡の解説 (田川訳新約聖書 訳と註より)
第一ペテロとは内容上まったく無関係。ただ、第一ペテロが存在していることを知って、それなら自分が第二ペテロ書簡を創作してやろうかと思った、というだけのこと。(3:1参照)著者不明、著作年代不明。第一ペテロの存在を知った上で書いているから、またユダ書との関係からしても、すでに二世紀もかなりたってから書かれたものだろうか(半ば近く?)。著作の場所も不明。
著作の目的は、多分、終末論信仰(終末におけるキリストの再臨、それに伴う最後の審判)を疑う人がキリスト教内外に大勢いたから、それを批判する目的。批判というよりも排除にすぎないが。
文献学的に問題になるのはユダ書との関係。第二章はユダ書の全体とおおまかな筋書きが一致し(というよりか、かなり似ており)、しばしば単語、表現が同じである(一致率13.4%)。それで、不勉強な聖書学者たちが、自分で丁寧に一語一語両者を比較検討することをしないで、お互いにお互いを写しあっているうちに定説となってしまった解説によれば、第二ペテロが直接利用して書き写した、ということになっている。しかしこの説、全く説得力がない。両者に何らかの関係があるのは確かだろうが、庁舎の間の距離はかなり遠く、せいぜいのところ、両者に共通する資料(それも丁寧に書かれた文書ではなく、自分たちに反対する者の悪口を言うための悪口のせりふのメモ的一覧表)が存在し、それが適当に雑に移されて一部の教会に伝わっていたのを、第二ペテロとユダ書がそれぞれ利用した、という程度のこと。むしろ知っておくべき事実は、こんな低級な悪口一覧表が当時のキリスト教会の一部に出まわっていた、といううら寂しい事実であろう。
第二ペテロで重要なのは、最後に出て来るパウロ批判(3:15-16)。パウロ書簡集を露骨に名指しで「何かと理解し難い点のある(パウロの)書簡」とレッテルを貼り、「ものを知らないたどたどしい者たちは……、(パウロ書簡の文を)ほかの書物の場合と同様にねじまげて、みずからの滅びへと向っている」と決めつけている。この個所もまた、新約聖書の中にこれほど露骨なパウロ批判の文が存在するという事実をどうしても認めたくなかった聖書翻訳家たちが、ルター以来今に至るまで、嘘みたいに改竄して、パウロを誉める文に作り変えておいでになる。
●ペテロの第二の手紙 (霊感P254より)
二番目の手紙を書いた時,ペテロは自分の死の近いことを悟っていました。彼は,仲間のクリスチャンたちに,正確な知識の大切さを銘記させることを強く願っていました。それは,奉仕の務めにおいて確固とした態度を保つように彼らを助けるためでした。ペテロの名の付された第二の手紙の筆者が使徒ペテロであることを疑う理由が存在するでしょうか。この手紙そのものが,筆者がだれであるかに関する疑いをすべて取り除いています。筆者は,自分が「イエス・キリストの奴隷また使徒であるシモン・ペテロ」であることを述べています。(ペテロ第二 1:1)筆者はまた,これで「二度目の手紙をあなた方に書いてい(る)」とも述べています。(3:1)また,自分がイエス・キリストの変ぼうの目撃証人であることを述べ,目撃証人らしい感情を込めて,変ぼうについて記しています。ペテロはヤコブやヨハネと共にその変ぼうを目撃する特権に恵まれた人でした。(1:16‐21)また筆者は,イエスが自分の死について予告したことを述べています。―ペテロ第二 1:14。ヨハネ 21:18,19。
2 しかし,二つの手紙の文体の相違を指摘して,第二の手紙はペテロによるものではないとする人々がいます。しかし,それは真の問題とはならないはずです。それぞれの手紙の主題と目的は異なっているからです。さらに,ペテロは第一の手紙を「忠実な兄弟であるシルワノを通し(て)」書きましたが,シルワノが文章の構成という点である程度の自由を与えられていたとすれば,それは二つの手紙の文体の相違を説明するものとなるでしょう。シルワノは第二の手紙の記述には参与しなかったとみなされるからです。(ペテロ第一 5:12)「教父たちによる証言が乏しい」という理由でこの書の正典性を疑問視する人々もいます。しかし,『クリスチャン・ギリシャ語聖書の初期の重要な目録』の表にも見られるとおり,ペテロ第二の書は,カルタゴ第三会議以前の多くの権威者たちによって,聖書目録の一部とみなされていました。
3 「ペテロの第二の手紙」が書かれたのはいつですか。それは西暦64年ごろ,最初の手紙のすぐ後に,バビロンかその近くで書かれたと考えられます。しかし,特に書かれた場所については直接的な証拠がありません。この手紙が書かれた時,パウロの手紙の大部分は諸会衆で回覧されており,ペテロにも知られていました。ペテロはそれらの手紙を神の霊感によるものとみなし,それを「聖書の残りの部分」の部類に入れました。「ペテロの第二の手紙」は,「わたしたちと同じ特権としての信仰を得ている人々」にあてられており,その中には,最初の手紙をあてられた人々や,ペテロがそれまでに伝道した人々が含まれていました。最初の手紙は多くの地域で回覧されていたように,この二番目の手紙も一般的な性格の手紙でした。―ペテロ第二 3:15,16; 1:1; 3:1。ペテロ第一 1:1。
WTの解説が指摘するように、第二ペテロは、「この手紙そのものが」、筆者がペテロであることを示しているのだろうか。
その証拠の一つとして、「キリストの変貌の目撃証人である」(1:16-17)と述べていることを指摘している。
「我々があなた方に我らの主イエス・キリストの力と来臨について知らしめたのは、知恵ぶったお話などに従がっているのではなく、我々自身が彼の偉大さの直接の観察者となったからである。すなわち彼が父なる神から栄誉と栄光を受けた時に、偉大なる栄光によって彼に次のような声がもたらされたのであった、「我が愛する我が子、これは我が喜ぶ者なり」。」(田川訳)
「そうです、わたしたちが、わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなた方に知らせたのは、巧みに考えだされた作り話によったのではなく、その荘厳さの目撃証人となったことによるのです。というのは、「これはわたしの子、わたしの愛する者である。わたし自らこの者を是認した」という言葉が荘厳な栄光によってもたらされた時、[イエス]は父なる神から誉れと栄光をお受けになったのからです。」(NWT)
キリストの変貌の話は、共観福音書のすべてに出て来るが、表現が微妙に異なっている。
NWTで比較してみる。
マタイ17:5「彼がまだ話しているうちに、見よ、明るい雲が彼らを影で覆った。そして、見よ、その雲の中から声があって、「これはわたしの子、[わたしの]愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい」と言った。」
マルコ9:7「すると雲ができて彼らを影で覆い、その雲の中から声が出て、「これはわたしの子、[わたしの]愛する者である。この者に聴き従いなさい」と[言った]。」
ルカ9:34-35「しかし、彼がこうしたことを言っているうちに、雲ができて彼らを影で覆いはじめた。雲の中に入って行くにつれ、彼らは恐ろしくなった。すると雲の中から声が出て、「これはわたしの子、選ばれた者である。この者に聴き従いなさい」と言った。」
神が臨在する徴としての「雲」に関して、「明るい雲」としているのはマタイだけである。マルコとルカは単に「雲」とあるだけである。マタイとルカはマルコを下敷きに福音書を再編集しているのであるから、「明るい」という語を付加したのはマタイである。
ペテロ第二の著者は、イエスの変貌の際における神の声について、「偉大なる栄光によって」と述べている。福音書における「雲の中からの声」に関して、「栄光」と結びつけられている表現は、マタイの「明るい雲」だけである。マルコとルカにおける描写は、「雲が彼らを影で覆い」、ルカに至っては「恐ろしい」と感じる「雲の影」であるから、「明るい」とは結びつかず、むしろ「暗い雲」を感じさせる。
おそらく第二ペテロの著者は、マタイ福音書の記述を念頭にイエスの変貌を書いているのであろうと思われる。つまり、この著者はマタイ福音書を知っていたのであり、少なくてもマタイ福音書が書かれた70年以降に生きていた人間であるということになる。
しかしながら、ペテロが殉教したのは、64年ごろとされているのであるから、著者がペテロではあり得ない。
また第二ペテロの著者は、3:1で「あなた方に書き送る手紙はすでに二通目である」(田川訳)と述べている。つまり、第一ペテロの存在を知っていて、みずから偽ペテロ書簡を作成したことになる。
NWTは、文体の違いを「シルワノ」が第一ペテロ書簡の文書構成に関わったから、としている。しかし、第一ペテロ書簡がペテロの名を借りた偽書なのであるから、文体の相違は第一書簡とは別の著者によるゆえであると考える方が自然である。
さらに、2:1には興味深い言葉が出て来る。
「さて、民の中には偽預言者も出現したけれども、あなた方の中にも偽教師が出て来るだろう。滅亡の異端を導入し、彼らを贖い給うた君主を否定して、自分自身に速やかな滅亡を持ち込(む)」(田川訳)
「しかしながら、民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は、破壊的な分派をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し、自らに速やかな滅びをもたらすのです。」(NWT)
「異端」(hairesis)というギリシャ語は、「分派」という意味であるが、第二ペテロでは、同じキリスト信者ではあるものの著者が「偽教師」と断定している教派、つまり「「異端」という意味で用いている。
この語の原義は、haireo「手で取る、つかむ」という意味の動詞の名詞形である。つまり元々は「取ること」「選びとすること」「自分で選ぶこと」の意味である。それが、ストア派などの哲学の学派を指すのにも用いられるようになり、「異端」という意味を持つようになる。原義からすると、おそらく、自分でそういう考えを選んだ、という趣旨であろうか。
それが使徒行伝5:17などで用いられているように、単に「大きな流れの中の一つの流れ、大きな集団の中の一つの集団」を指すようになった。つまり「分派」の意味にも用いられるようになり、正当の集団から分かれて「分派」を形成した者たちを指すようになり、「異端」という意味を持つようになったのである。
この語を「異端」という意味に用いるようになったのは、キリスト教ギリシャ語が一般化されつつある時代の話であり、初期キリスト教の時代には「異端」という意味を持つ語ではなかった。「正統派」の流れが形成されつつあったのは、二世紀以降であり、当然パウロが生きていた時代の話ではない。
しかも、この語は新約ではこの個所しか出て来ない。つまり、第二ペテロ書は少なくても二世紀以降の著作であると考えられるのである。当然、生前のパウロのが書けるはずもない話である。またアラム語しか話せず、「無学な普通の人」でしかなかったパウロ自身が、当時の公用語であるギリシャ語で高尚な文書を書けるほどの語学力を持っていたとはとても考えにくい。
また田川訳「君主」、NWT「所有者」と訳しているここのギリシャ語は、despotesである。通常は「主キリスト」を指す場合の「主」には、kyuriosを当てるのが普通である。
despotesというギリシャ語は、いろいろな意味で使われる単語で、「奴隷、召使に対する主人」から「国王」、さらには「神」を呼ぶ際にも用いられている。Kyuriosとほとんど同義語であり、despotesとの意味領域は非常に重なっている。
第二ペテロの著者は、ここで「彼らを贖い給うた君主」、つまり「キリスト」を「君主」を指す語として、despotesという語を用いたのである。
ただし、ユダヤ教キリスト教ギリシャ語においては、神やキリストを呼ぶ場合には、正統派教会が力を持つようになり、kyriosを用いるように統一されていった。
新約で、despotesを「主キリスト」に適用しているのは、第二ペテロ2:1とユダ書だけである。
ユダ4でも「我らの唯一の君主(despotes)にて主(kyurio)なるイエス・キリストを否定する」と出て来るだけである。
いずれもしても、「第二ペテロ書簡」の著者がペテロ自身である可能性はまったくない。正統派が確立されつつあった二世紀前半以降の話であると考えられる。