第一ペテロ書簡

これは本当は疑似パウロ書簡の仲間とみなすべきだが、名目上はペテロが書いたという体裁だから、ここに(公同書簡)に置いておいた。しかし内容的にも、言葉遣いからしても、明らかにパウロ派文書である。いくつかの疑似パウロ文書よりももっとパウロに追随している。

文体について一つだけ。この人、極端な長文癖がある。「癖」というよりも、それが格好いいと思ったのだろう、わざと無理をしてそういう文体にしている。たとえば1:3-12。この長さで文法的には一文なのだから、あきれたものである。なに、文を切らずに、次々と関係代名詞ないし分詞でつなげるだけの単純な構文を続けるだけなのだが、それをここまでやられると、こっちもへきえきしてくる。ここだけでなく、文章全体に何度も見られる(こういうものをそのまま日本語に直訳するのは無理なのだが、我々は、一例として、ここだけは何とか途中で句点を入れずに、12節の終わりまで文を切らずに続けてみた。日本語で呼んでも、いかにも趣味の悪い文であることがおわかりいただけよう)。これは実はこの人だけの特徴ではなく、パウロ派の間で流行っていたスタイルであるようで(コロサイ書、エフェソス書にも何度も見られる)、第一ペテロの著者はそれを真似しただけだろう。しかし元祖はパウロ自身である(たとえばローマ11-6)自分の名前の紹介を、次々と関係代名詞を連ねながら全6節を引き伸ばしたのだから、恐れ入る。

これはドミティアヌス帝によるキリスト教弾圧下に書かれた文章だ、という説がけっこう流行っていたが、まったく根拠なし。そもそもドミティアヌスがキリスト教そのものを標的にして積極的に弾圧した、などということはまったく知られていないし、他方、第一ペテロの文書そのものにも、ローマ帝国からの直接の弾圧を示唆する言い方は一つも出て来ない。

露骨にパウロ派である例の一つ。疑似パウロ書簡はほぼそろって、私がからかい半分に「三従ないし四従の教え」と呼んでいる保守的倫理説教を並べている。帝国の国家権力は神が定めたものだから絶対的に従え。奴隷、召使は主人におとなしく従え。女は男におとなしく従え。子どもは親に従え。コロサイ書はごく短く並べているだけだが、他のパウロ派文書はこれを長々と書きつのっている。第一ペテロも。そしてこの「教え」もパウロ自身にさかのぼる。

著作年代、著者共に、まったく不明。ペテロの名前をここに冠したのは、すでに疑似パウロ書簡ならいくつも存在するから、それなら一つぐらいはペテロにしておくか、といった程度の軽い気持ちだろう。とすると、疑似パウロ書簡がある程度広まった時期だから、早くても一世紀末ないし二世紀はじめ。

 

WTによる「ペテロ第一の手紙」の解説 (霊感P251~)

初期クリスチャンたちが神の卓越性を広く宣明してゆくにつれて王国の業は栄え,ローマ帝国の全域に拡大してゆきました。しかしながら,この熱心な人々についてある程度の誤解も生じていました。一つの点として,彼らの宗教はエルサレムまたユダヤ人にその起源を置いていましたから,ある人々は彼らを政治的な野心を持つユダヤ教の熱狂者と混同し,ローマのくびきに反抗して絶えず地方の総督たちの手を焼かせていた者たちと同様にみなしました。さらに,クリスチャンは皇帝に犠牲をささげることを拒み,当時の異教の儀式に携わろうとしませんでしたから,その点で他の人々と異なっていました。彼らはあしざまに言われ,その信仰のゆえに数々の試練に耐えなければなりませんでした。まさに適切な時に,また神の霊感の証拠とも言うべき先見をもって,ペテロは自分の最初の手紙を書き,確固とした立場を守るようクリスチャンを励まし,時のカエサルであったネロのもとでいかに身を処すべきかを諭しました。そのすぐ後に始まったあらしのような迫害について思う時,この手紙は極めて適切な時期に書かれたと言えます。

2 ペテロがその筆者であることは冒頭の言葉から立証されます。さらに,イレナエウス,アレクサンドリアのクレメンス,オリゲネス,テルトゥリアヌスなども皆この手紙から引用し,その筆者としてペテロの名を挙げています。 ペテロ第一の書の信ぴょう性は,他の霊感の手紙の場合と同じく証明されています。エウセビオスは,教会の長老たちがこの手紙を自由に引用したことを述べています。つまり,エウセビオスの時代(西暦260‐342年ごろ)に,この手紙の信ぴょう性に関する疑いはなかったのです。イグナティウス,ヘルマス,バルナバスなど2世紀初めの人々も皆この手紙に言及しています。 ペテロ第一の書は霊感による聖書の他の部分と完全に調和しており,小アジアの地区である「ポントス,ガラテア,カパドキア,アジア,ビチニアの各地に散っている一時的居留者たち」,ユダヤ人と非ユダヤ人のクリスチャンに対する強力な音信を提出しています。―ペテロ第一 1:1。

3 この手紙はいつ書かれましたか。手紙全体の調子から見て,当時のクリスチャンは異教徒か,まだ転向していないユダヤ人のいずれかのために試練に遭遇してはいましたが,西暦64年に開始された,ネロによる組織的な迫害はまだ始まっていなかったと考えられます。ペテロはそのすぐ前,恐らく西暦62年から64年までの間にこの手紙を書いたものと思われます。マルコがまだペテロと共にいたということも,この結論を強化するものとなります。パウロがローマで最初に投獄されていた時(西暦59‐61年ごろ),マルコはパウロと一緒にいましたが,まもなく小アジアに向けて旅立つことになっていました。また,パウロが2度目に投獄された時(西暦65年ごろ),マルコは再びローマでパウロと共になることになっていました。(ペテロ第一 5:13。コロサイ 4:10。テモテ第二 4:11)この中間の期間に,マルコはバビロンでペテロと一緒にいる機会があったと考えられます。

4 ペテロ第一の書はどこで書かれましたか。聖書の注釈者たちは,この書の信ぴょう性,正典性,筆者,書かれた時期に関しては一致を見ていますが,どこで書かれたかという点になると意見が分かれています。ペテロ自身の証言によれば,彼はバビロンにいた時分に第一の手紙を書きました。(ペテロ第一 5:13)しかし,中には,「バビロン」とはローマを意味する,なぞのような名称であるとして,ペテロはローマから手紙を書き送ったのだと主張する人もいます。しかし,証拠はそのような見方を支持していません。バビロンが特にローマを指すことを示唆する箇所は聖書のどこにもありません。ペテロはこの手紙を文字通りのポントス,ガラテア,カパドキア,アジア,およびビチニアの人たちにあてて書いたので,当然のこととして,バビロンに言及したペテロはその名称を持つ文字通りの場所を指していたと考えられます。(1:1)ペテロがバビロンにいたと考えるべき十分の理由がありました。彼は『割礼を受けた人たちのための良いたより』を託されており,またバビロンにはかなりの数のユダヤ人が住んでいました。(ガラテア 2:7‐9)「ユダヤ百科事典」はバビロニア・タルムードが編さんされたことについて論じた箇所で,西暦紀元の始まった時期のユダヤ人の「バビロンの大学」に言及しています。

5 ペテロの二つの手紙を含め,霊感による聖書は,ペテロがローマに行ったとは述べていません。パウロは自分がローマに来ていることについて述べていますが,ペテロがそこにいたことについては一度も述べていません。パウロは「ローマ人への手紙」の中で35人の人の名を挙げ,26人の人に名ざしであいさつを送っています。しかし,どうしてペテロの名を挙げていないのでしょうか。ペテロがその時そこにいなかったからにほかなりません!(ローマ 16:3‐15)ペテロは第一の手紙を「バビロン」から書き送りましたが,この「バビロン」は明らかにメソポタミアのユーフラテス河畔にあった文字どおりのバビロン市でした。

 

 

WTの解説は、あくまでもペテロがその著者であることを前提に論議を進めているだけ。信憑性は証明されている、としているが、エウセビオスや他の教父の証言を信憑性の根拠としているだけ。二、三世紀以降の話であり、この手紙をペテロの著作とする証拠とはならない。彼らの時代にそのように信じられていたことを示しているだけである。

「各地に散っている一時的居留者」を「ユダヤ人と非ユダヤ人のクリスチャン」と解して、「聖書の他の部分と完全に調和している」としているが、具体的な論議には一切触れていない。

 

NWTが「各地に散っている一時的居留者」と訳している原文のギリシャ語は、parepidemois diasporas

diasporaは語源的には「散らされているもの」の意味。特にユダヤ人ギリシャ語においてはパレスチナ以外の諸都市に出て行って、ヘレニズム諸地域や中近東の都市に定住するようになったユダヤ人を指す語となっていた。従って、特に断りがなければ「ディアスポラのユダヤ人」を指すのであるが、ここではそれをキリスト教徒に適用して使っている。

ヤコブ1:1にも「散在」という表現が出て来る。新約ではこの二箇所だけ。しかし、「散在」をキリスト教徒に転用する言い方は普及しなかった。すでに「散在のユダヤ人」を指す語として定着していたので、無理があったのだろう。

当然ながら、ペテロが生きていた時代に、この表現がキリスト信者に適用されて使われることはなかった。

parepidemosという語は、epide(_)meo(_)「自分の本籍地ないし本拠の町に長期間滞在する、留まる」という動詞に、接頭語para「ずれる、はずれる」を付け、「人」を意味する接尾語-osをつけたもの。

この語は、古いギリシャ語にはまだ登場しない。新約でも、第一ペテロに二回(1:1,2:11)に出て来る以外は、ヘブライ書に一度(11:13)だけ。七十人訳でも二回(創世記23:4、詩編38(39):13のみ。特にユダヤ人ギリシャ語というわけではなく、通俗ギリシャ語では結構多く見られる。(VGT)都市の市民権をもっておらず、長期間にわたることも多いが、比較的短い期間滞在するだけの者を指す語。

キリスト信者の本籍は「天」にあるので、この世においてはそもそも「寄留者」である、というドグマに基づく表現。新約ではまだ第一ペテロとヘブライ書にしか出て来ないが、特にヘブライ書の影響によって、後のキリスト教で唱えられるようになった。

ペテロは、イエスをキリストであるとの信仰を持っていたと思われるが、キリスト信者が「寄留者」であるという信仰を持っていたとは、福音書の記述を見ても見当たらない。

 

また、ガリラヤ出身のユダヤ人であるペテロが、第二外国語であるギリシャ語で七十人訳を引用しながら、長文癖が出るまで堪能になっていたとは考えにくい。

イエスと初期弟子たち12使徒の中で、純粋にギリシャ語名を持つのは「フィリポ」と「トマス」だけである。WTは「トマス」を「双子」を意味するアラム語由来、と解説しているが、Thomasそのものはギリシャ語の「双子」とは関係ない。ギリシャ語の「双子」は(didymos)であり、アラム語の双子は(thoma)である。アラム語のThomaが元々の名前だったとすれば、親は自分の子どもに「双子」という名前を付けたことになる。もともとThomasとギリシャ語で呼ばれていたのであるが、音がアラム語のThomaに似ていたので、一部のユダヤ人キリスト信者の間で、「双子」というあだ名が付けられたと解する方が自然のように思われる。

「フィリポ」と「トマス」は、当初ヘブライ語を話すキリスト信者たちの通訳をしていたのではなかろうか。つまり、イエスをはじめ使徒たちの中で、アラム語名を持つ初期ユダヤ人キリスト信者は、ディオスポラのユダヤ人ではなく、ギリシャ語には堪能ではない。アラム語が母語であり、ほぼ日常生活はアラム語であったのではないかと思われる。

したがって、この点からも、第一ペテロの著者が使徒ペテロである可能性はほぼないであろう。

また、WTはパウロがローマでの投獄を一度解放され、二度目の投獄を受けた、としているが、その歴史的事実も、聖書的な証拠も確認できない。聖書霊感説に信憑性を持たせるために創作した小説的解説と思われる。