公同書簡

パウロ・疑似パウロ以外の「書簡」はすべてまとめて「公同書簡」と呼ばれてきた。この場合の「公同」は「普遍的な」「世の中すべてにあてはまる」という意味である。実際これらの文書はかなり広範な地域のキリスト教信者全体を読者として想定している。しかしそれにしては、ヤコブ書以外は陳腐であるが。

 

WTにおいては、「公同書簡」という表現は、「洞察」、「ものみの塔‘90」、「ヤコブ書の註解」に数回登場するが、「公同書簡」そのものがどういうものであるかに関する説明は一切ない。純粋培養されたJWにとっては、「公同書簡」という表現自体が、?であり、会話の中に登場することはほぼないと思われる。

 

ヤコブ書

冒頭の著者名(ヤコブ)、宛先の「散在における十二支族へ」(ヘレニズム諸都市に存在するユダヤ人ディアスポラ)は、本書の内容にはまったく対応しないので、九分九厘、後の写本家たちがこの無名の著者の作品をお偉い「使徒」の文書として位置付けるために書きこんだものだろう。この書き込みをなした人物は、これはユダヤ人出身の信者の書いた文章だ、と思いこんだからそうしたのだろうが、実際には、ほとんどユダヤ人的な特色は見られない。もっとも、細かい言葉遣いからすればユダヤ人出身である可能性は十分にあるが、御本人はユダヤ教の伝統なんぞに固執する気はまったく見られない。

基本的な姿勢は、この社会の状態に対する批判的な姿勢をもとに、信仰のみを強調して行為を軽んじるパウロの宗教姿勢を正面から批判している。

著者がどういう人物であるかは、ここに書いてあることしかわからない。執筆時期も場所も不明。たぶん一世紀末の文書だろうが、幅をとって、70-100年のどこか、と推測するのが穏当なところだろう。

 

WTにおけるヤコブ書の解説  *** 洞‐2 1024–1026ページ ヤコブの手紙 ***

(ヤコブのてがみ)(James,Letter of)

クリスチャン・ギリシャ語聖書中の霊感による手紙の一つ。ペテロの第一および第二の手紙,ヨハネの第一の手紙,ユダの手紙と同様(しかし,使徒パウロの手紙の大半とは異なり),特定の会衆や個人にあてられたものではないので,いわゆる公同書簡の一つに数えられています。これは「各地に散っている十二部族」にあてた手紙です。―ヤコ 1:1。

筆者  筆者は自分自身を単に「神および主イエス・キリストの奴隷ヤコブ」と呼んでいます。(ヤコ 1:1)イエスにはヤコブという名の使徒が二人いましたが(マタ 10:2,3),そのどちらかがこの手紙を書いた可能性はまずありません。一方の使徒,ゼベダイの子ヤコブは西暦44年に殉教しました。「書かれた時と場所」の部分に示されているように,この殉教の年代はあまりにも早いので,このヤコブが筆者であるとは考えられません。(使徒 12:1,2)アルパヨの子であった他方の使徒ヤコブは,聖書の記述において目立った存在ではなく,この使徒についてはほとんど何も知られていません。ヤコブの手紙に見られる率直な性格からすると,筆者がアルパヨの子ヤコブであるとする考えは不利になるでしょう。そのヤコブが筆者であるとしたら,自分の強力な言葉を使徒の権威をもって裏打ちするために,12使徒の一人としての自分の身分を明らかにするはずだからです。

むしろ証拠は,イエス・キリストの異父兄弟ヤコブを指し示しています。復活させられたキリストはこの人に特別に現われたと考えられており,このヤコブは弟子たちの中でも顕著な存在でした。(マタ 13:55; 使徒 21:15‐25; コリ一 15:7; ガラ 2:9)ヤコブの手紙の筆者は自分の身分を,「神および主イエス・キリストの奴隷」としていますが,それは,手紙の書き出しの中で自分自身を「イエス・キリストの奴隷,しかしヤコブの兄弟」と呼んだユダの方法とほとんど同じです。(ヤコ 1:1; ユダ 1)さらに,ヤコブの手紙のあいさつの部分には,「あいさつを送ります」という表現が含まれていますが,割礼に関して諸会衆に送られた手紙の中でもこの同じ言い回しが用いられています。この後者の例において,エルサレムの「使徒や年長者たち」の集まりで目立った発言をしたのは,イエスの異父兄弟ヤコブだったようです。―使徒 15:13,22,23。

正典性  ヤコブの手紙はバチカン写本1209号にも,西暦四,五世紀のシナイ写本とアレクサンドリア写本にも含まれています。シリア語ペシタ訳にもこの手紙が含まれており,西暦397年のカルタゴ会議以前の少なくとも10の古代目録にもその名が見えます。初期の宗教著述家たちはこの手紙から引用し,オリゲネス,エルサレムのキュリロス,ヒエロニムスなども,この手紙を信ぴょう性のある聖書の一部として認めていました。

書かれた時と場所  この手紙には,エルサレムがローマ人の手に落ちるという事態(西暦70年)がすでに生じたことを示唆するものは何もありません。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると,サドカイ人でアナヌスという名の大祭司が,ヤコブと他の人たちをサンヘドリンの前に引き出し,彼らを石打ちにして死なせました。この出来事が生じたのは,ローマの行政長官<プロクラトール>フェストの死後であり,その後継者アルビノスが着任する前であったとヨセフスは書いています。(ユダヤ古代誌,XX,197‐203 [ix,1])もしそうであれば,そして,フェストの死を西暦62年ごろとするこの資料が正確であれば,ヤコブがこの手紙を書いたのは,その年よりも前であったに違いありません。

書かれた場所はエルサレムであったと思われます。ヤコブが住んでいたのはエルサレムだからです。―ガラ 1:18,19。

書き送られた相手  ヤコブはこの手紙を,「各地に散っている十二部族」,字義通りには「離散にある(者たち)」に書き送りました。(ヤコ 1:1,脚注)ヤコブはここで自分の霊的な「兄弟たち」,つまり「わたしたちの主イエス・キリストの信仰」を守る人々,おもにパレスチナ以遠の地に住む人々に呼びかけています。(1:2; 2:1,7; 5:7)ヤコブの議論の多くはヘブライ語聖書に基づいていますが,その事実は,ヤコブの手紙がユダヤ人のクリスチャンだけを対象にしていたことを証明するものではありません。それはちょうど,現代の人がヘブライ語聖書の知識を持っていても,ユダヤ人の子孫であるという証拠ではないのと同じです。ヤコブがアブラハムを「わたしたちの父」と述べていることは(2:21),ガラテア 3章28,29節のパウロの言葉と調和します。パウロはその聖句の中で,人がアブラハムの真の胤であるかどうかは,その人がユダヤ人かギリシャ人かによっては決まらないと述べています。ですから,手紙があてられた「十二部族」は,霊的な「神のイスラエル」であるに違いありません。―ガラ 6:15,16。

目的  ヤコブがこの手紙を書いた目的は二つあるようです。それは,(1)試練のただ中にあっても信仰と忍耐を示すよう仲間の信者に説き勧めること,そして,(2)神から非とされるという結果を生み出す罪をおかさないよう,彼らに警告することでした。

ある人々は,より著名で富んだ人々に頼り,人を偏り見るというわなに陥っていました。(ヤコ 2:1‐9)彼らは自分たちが神の目に実際にどんな者として映っているかを認識できず,み言葉を行なう者ではなく,み言葉を聞くだけの者になっていました。(1:22‐27)自分たちの舌を間違って用い始め,肉欲の快楽に対する渇望が彼らの間の闘いを引き起こしていました。(3:2‐12; 4:1‐3)物質的な物に対する彼らの願望は,一部の人々を世の友の立場へ,さらにはその結果として,貞潔な処女ではなく,神と敵対する霊的「姦婦たち」の立場へと追いやっていました。―4:4‐6。

ヤコブは,真の信仰を持つ人々がその信仰に調和した業によって信仰を表わすべきことを聖書中の例から示し,そのようにして,聞く者であるだけでなく行なう者となるという問題において彼らを正しました。例えば,真の信仰を持つ人は,裸で食物に事欠いている兄弟に対して,「安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけで,その人に必要な物を与えない,ということはありません。(ヤコ 2:14‐26)ここでヤコブは,人は業によって救いを獲得することができると述べてパウロの言葉に反対していたのではありません。むしろヤコブは,救いの基盤としての信仰を受け入れながらも,純粋な信仰で良い業を生み出さない信仰はあり得ないことを指摘しているのです。この点は,ガラテア 5章22‐24節にある霊の実に関するパウロの描写や,エフェソス 4章22‐24節とコロサイ 3章5‐10節にある新しい人格を身に着けるようにとのパウロの諭し,それにヘブライ 13章16節にある,善を行ない,他の人と分かち合うことを勧めるパウロの訓戒とも調和しています。

文体  ヤコブの手紙は預言者的な色彩が強く,多くの比喩表現や直喩を含んでいるので,山上の垂訓のようなイエス・キリストの講話とある程度類似したところがあります。ヤコブはイエスのように,海,草木,動物,船,農夫,地など,目に見えるものを引き合いに出して,信仰,舌を制御すること,忍耐などに関する自分の議論に多彩な裏付けを与えています。(ヤコ 1:6,9‐11; 3:3‐12; 5:7)このことと,率直な質問や,比較的短いこの手紙の中で50回余り命令形が用いられていることとのゆえに,ヤコブの手紙には生気があふれています。

それ以前の,霊感を受けた聖書との関係  ヤコブは次の点に関して,ヘブライ語聖書を引用もしくは参照しています。人間の創造(ヤコ 3:9; 創 1:26),アブラハムとラハブ(ヤコ 2:21‐26; 創 15:6; 22:9‐12; ヨシュ 2章; イザ 41:8),ヨブ(ヤコ 5:11; ヨブ 1:13‐22; 2:7‐10; 42:10‐17),律法(ヤコ 2:8,11; 出 20:13,14; レビ 19:18; 申 5:17,18),エリヤ(ヤコ 5:17,18; 王一 17:1; 18:1)。イエス・キリストの言葉とぴったり調和した,的を射た例も少なくありません。そのうちの幾つかを挙げましょう。迫害に関する事柄(ヤコ 1:2; マタ 5:10‐12),神に何かを求め,神から何かを与えられること(ヤコ 1:5,17; ルカ 11:9‐13),聞く者であるだけでなく行なう者となること(ヤコ 1:22; マタ 7:21‐27),世から離れていること(ヤコ 4:4; ヨハ 17:14),他の人を裁かないこと(ヤコ 4:12; ルカ 6:37),人の言葉の信頼性(ヤコ 5:12; マタ 5:33‐37)。

ヤコブ 4章5節は,ヤコブの引用した(もしくは,ただ単に言及したと思われる)節に関して不確実なところがあるため,問題となってきました。その聖句はこうです。「それとも,あなた方にとって,『わたしたちの内に宿っている霊は,そねみの傾向をもって絶えず慕う』と聖句が述べていることは無駄に思えるのですか」。この言葉に関しては,ヤコブが神の霊感のもとに,創世記 6章5節と8章21節,箴言 21章10節,ガラテア 5章17節といった聖句に含まれる全体的な考えを引用したものであるという見方が提唱されてきました。

 

 

ヤコブ書に関する註解