第一、第二ティモテオス、ティトス書の解説

この三つをまとめて牧会書簡と呼ぶ。教会の指導者(司教、長老、奉仕者。この三つが、当時のパウロ派教会で指導者ないしその助手とされた者の称号である。もちろん「司教」は後世のカトリック教会の司教のような広い地域の多くの教会を束ねる権力者ではなく、個々の町の教会をまとめる指導者だった)がどうあるべきかの心得を書いた一種のキリスト教指導者手引きみたいなもの。内容的には明らかにパウロ派の末裔だが、それにしても、ここまで陳腐で形式主義的な説教を並べられると、どうもね。しかしこれが後世カトリック、プロテスタントを問わず、教会の管理運営者の指針となってしまった。書かれた時期は、ほぼ確かに、2世紀後半(マルキオンはまだこれを知らない。ほか)。

 

WTによる牧会書簡の解説

*** 洞‐2 282–284ページ テモテへの手紙 ***

クリスチャン・ギリシャ語聖書中の霊感による2通の手紙で,使徒パウロがテモテにあてたもの。パウロはそれぞれの手紙の冒頭の言葉の中で,自分が筆者であることを明らかにしています。(テモ一 1:1; テモ二 1:1)第一の手紙はマケドニアから書き送られたようです。この手紙の書かれた大まかな時を算定するための根拠が,この手紙の1章3節にあります。そこにはこう記されています。「自分がマケドニアにたとうとしていた際,わたしはあなたがエフェソスに滞在しているようにと励ましましたが,今また同じようにします」。西暦33年のイエスの昇天から,ローマにおけるパウロの投獄の2年目,つまり西暦61年ごろまでの期間を扱っている「使徒たちの活動」の書に,この点は記されていません。したがって,エフェソスに滞在しているようパウロがテモテを励ましたのは,パウロが釈放されたしばらく後であり,その後パウロはマケドニアに向けて出発したようです。このことからすると,テモテ第一の手紙が書かれたのは,同使徒がローマにおける最初の投獄から釈放された時と,そこでの最後の投獄との間,つまり西暦61‐64年ごろになります。第二の手紙はパウロの最後の投獄期間中(西暦65年ごろと思われる),死の少し前にローマで書かれました。―テモ二 1:8,17; 4:6‐9。

信ぴょう性  テモテ第一および第二の手紙の信ぴょう性は十分に確立されています。西暦2世紀のムラトーリ断片をはじめとする古代の顕著な目録はすべてこの2通の手紙を正典として挙げています。非常に重要なのは,これらの手紙が聖書の残りの部分と完全に調和し,そこから引用していることです。この2通の手紙には,民数記(16:5; テモ二 2:19),申命記(19:15; 25:4; テモ一 5:18,19),イザヤ書(26:13; テモ二 2:19),イエス・キリストの言葉(マタ 10:10; ルカ 10:7; テモ一 5:18)からの引用,あるいはそれに間接的に言及した箇所が含まれています。注目に値するのは,信仰に言及した箇所が多いこと(テモ一 1:2,4,5,14,19; 2:7,15; 3:9,13; 4:1,6,12; 5:8,12; 6:10,11,12,21; テモ二 1:5,13; 2:18,22; 3:8,10,15; 4:7),また正しい教理(テモ一 1:3,4; 4:1‐3,6,7; 6:3,4,20,21; テモ二 1:13; 3:14,15; 4:3,5),振る舞い(テモ一 2:8‐11,15; 3:2‐13; 4:12; 5:1‐21; 6:1,2,11‐14; テモ二 2:22),祈り(テモ一 2:1,2,8; 4:5; 5:5; テモ二 1:3),苦しみを経験しているあいだ忠実に忍耐すること(テモ二 1:8,12; 2:3,8‐13)などを強調していることです。

テモテ第一の手紙の背景  西暦56年ごろ,使徒パウロはエフェソス会衆の年長者たちとミレトスで会合した時,それらの年長者たちにこう述べました。「わたしが去った後に,圧制的なおおかみがあなた方の中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなた方自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こるでしょう」。(使徒 20:29,30)それから数年もたたないうちに,偽りの教理を教えることに関する状況が実際に深刻化したため,パウロはテモテがエフェソスに滞在するよう励ましました。それはテモテが,「異なった教理を教えたり,作り話や系図に注意を寄せたりしないようにと,ある人々に命じるため」でした。(テモ一 1:3,4)ですからテモテは,クリスチャン会衆の浄さを保ち,会衆の成員が信仰のうちにとどまるのを助けるため,会衆内で霊的な戦いをしてゆかなければなりませんでした。(1:18,19)テモテが同使徒の手紙の中で述べられている事柄を当てはめるなら,離れ落ちないよう会衆の成員を守ることができたでしょう。

会衆が繁栄するためには,祈りを無視することはできませんでした。妨げられることなく平穏で静かな生活を送れるよう,クリスチャンが王たちや政府の高い地位にいる人たちについて祈るのはふさわしいことでした。パウロは祈りによって会衆を代表する人々に関して,「わたしは,どの場所でも男が祈りをし,忠節な手を挙げ,憤りや議論から離れているように望みます」と書きました。この言葉は,他の人に対する敵がい心や怒りの気持ちを少しも抱かず,浄い方法で神に近づくことを意味していました。―テモ一 2:1‐8。

さらにテモテは,次のような点に関しても注意を怠ってはなりませんでした。それは,婦人たちが神から割り当てられた自分の立場を守ること(テモ一 2:9‐15),監督と奉仕の僕は背教を防ぐ強力な堡塁として奉仕するので,資格を備えた男子だけがその立場で奉仕すること(3:1‐13; 5:22),会衆の援助はふさわしいやもめたちに与えられるようにすること(5:3‐16),りっぱに主宰の任を果たす年長者たちにふさわしい配慮を示すこと(5:17‐19),奴隷は自分の所有者に対して正しく振る舞うべきこと(6:1,2),すべての人は富むことを求めるのではなく自分にあるもので満足すべきこと(6:6‐10),富んだ人は物質的な物に希望を託すのではなく,むしろりっぱな業に富み,寛大さを表わすべきこと(6:17‐19)などです。テモテ自身,「語ることにも,行状にも,愛にも,信仰にも,貞潔さにも,忠実な者たちの手本」となり,進歩し続けることに関心を抱くべきでした。―4:12,15,16; 6:11‐14。

テモテ第二の手紙の背景  西暦64年には大火がローマで荒れ狂い,全市のほぼ4分の1が破壊されました。犯人はネロ帝だといううわさが広まり,ネロは自分を守るためにクリスチャンに罪を着せます。政府による激しい迫害の波が押し寄せた理由はそこにあったようです。使徒パウロがローマで再び投獄されたのはきっとこのころ(西暦65年ごろ)でしょう。多くの人に見捨てられ,鎖につながれた苦しみを味わい,死が迫っていたにもかかわらず(テモ二 1:15,16; 4:6‐8),同使徒はテモテに励ましの手紙を書きました。それは,会衆内の背教分子に抵抗し,迫害に面して堅く立つようこの若い仲間の働き人を備えさせる手紙でした。(2:3‐7,14‐26; 3:14–4:5)テモテはパウロの状況を知り,大きな患難のもとで忠実に忍耐する同使徒の良い模範から,励ましを得ることができたに違いありません。―2:8‐13。

パウロはエホバの力にあって恐れることなく,テモテにこう説き勧めました。『自分が手を置いたことによって今あなたのうちにある神の賜物を,火のように燃え立たせなさい。神はわたしたちに,憶病の霊ではなく,力と愛と健全な思いとの霊を与えてくださったからです。ですから,わたしたちの主についての証しを恥じてはならず,この方のために囚人となっているわたしのことを恥じてもなりません。むしろ,神の力にしたがい,良いたよりのため,共に苦しみを忍んでください』― テモ二 1:6‐8。

 

*** 洞‐2 276–277ページ テトスへの手紙 ***

使徒パウロがテトスにあてて書いた手紙。テトスは,クレタの幾つかの会衆で『不備な点を正し,年長者たちを任命するため』にパウロがクレタに残した同労者でした。(テト 1:1,4,5)この手紙の信ぴょう性は,西暦2世紀のムラトーリ断片をはじめ,クリスチャン・ギリシャ語聖書の古代の優れた目録すべてによって立証されています。

書かれた時期と場所  パウロがローマで最初に投獄される前にクレタ島でキリスト教の活動に携わったという記録は一つもないので,釈放後,最後に投獄されるまでの間のある時期にテトスと共にそこにいたに違いありません。したがって,この手紙は西暦61から64年ごろまでの間に書き記されたことになります。この手紙はマケドニアから送られたのかもしれません。それとほぼ同じ時期にそこで,パウロはテモテ第一の手紙をも書いたようです。―テモ一 1:3。

手紙の目的  この手紙はテトスが指針とするためのもの,またテトスにクレタの諸会衆に関連した責務を遂行する上での使徒からの後ろ盾を与えるものであったようです。彼の割り当ては容易なものではありませんでした。というのは,反抗的な人たちと闘わなければならなかったからです。パウロはそのことをこう書いています。「無規律な者,無益なことを語る者,そして人の思いを欺く者,特に,割礼を堅く守る者たちが多くい(ま)す。こうした者たちの口を封じることが必要です。まさにこうした者たちが,不正な利得のために教えるべきでないことを教えて,家族全体を覆してゆくからです」。(テト 1:10,11)また,クレタ人の間ではうそをつくこと,大食,怠惰などが普通のことになっていたので,クリスチャンの中にもそのような悪い特性を反映する人がいたようです。そのようなわけで,テトスは彼らを厳しく戒めなければならず,老若男女,奴隷,自由人の別なく,クリスチャンに求められている事柄を彼らに示さなけれなければなりませんでした。テトスは自ら立派な業の手本となり,教えの点で腐敗のないことを示さなければなりませんでした。―1:12–3:2。

 

JWにおいては、 長老や僕の資格に関する記述として取り上げられることが多い。物質的な必要を備えるよりも、霊的な必要を備える方がより重要であり、怠る者は信仰のない者より悪いと説く。JWの資格者聖人信仰と独善的差別主義を支えている文書の一つ。

 

「牧会書簡について」