疑似パウロ書簡

パウロの死後、パウロ派の中で、自分の言いたいことを書くのにパウロの名を借りて書くのが流行るようになった。この種の疑似文書は古代世界ではよくあること、特にめずらしいわけではない。

 

WTでは、正典の中における疑似パウロ書簡の存在を認めていない。聖書の正典のすべてが神の霊感受けて書かれているとされているので、本人の筆ではない書簡が聖書に紛れ込んでいるとすることは、できないのであろう。聖書霊感説を否定することにつながるので、WTドグマに反する解説は、すべてサタンの罠とレッテル貼りをし、高等批評を頑なに拒み、信者の高等教育を否定する。その理由の一端は、聖書の真相を知られたくないからではないか、と疑いたくなる。

 

コロサイ書

当時ギリシャ語圏の哲学好み人たちの間で流行っていた宇宙論的思考をキリスト教に取り込んで、キリスト信仰に結びつけたもの。著者は明らかに非ユダヤ人。従って旧約やユダヤ教には全く関心がない。誰であるかは不明、著作年代も不明。1世紀末から2世紀前半、という以外にない。

 

WTによる「コロサイ人への手紙」の解説 *** 洞‐1 965–967ページ コロサイ人への手紙 ***

使徒パウロが霊感を受けてコロサイのクリスチャンにあてて書いた手紙。現代英語の聖書の場合,この手紙は普通,クリスチャン・ギリシャ語聖書中の12番目の書とされています。パウロはこの手紙の冒頭で,「神のご意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロと,わたしたちの兄弟テモテから,コロサイにいる,キリストと結ばれた聖なる者たち,また忠実な兄弟たちへ」と述べ,自分が霊感によるこの手紙の筆者であることを明示しています。(コロ 1:1,2)この使徒が筆者であることは,パウロ自身の手で書き記された結びのあいさつによっても確証されています。―コロ 4:18。

コロサイ人への手紙と,やはりパウロが書いたエフェソス人への手紙は,よく似ています。これは,書かれた時期が近いことや,それらの都市のどちらにも同じような状況が広く見られた可能性があることに起因するのかもしれませんが,同時に,そのような類似性からすると,もしパウロがエフェソス人への手紙の筆者として受け入れられているなら,コロサイ人への手紙の筆者としても認めなければならないということになります。(例えば,コロ 1:24‐29をエフェ 3:1‐7と; コロ 2:13,14をエフェ 2:1‐5,13‐16と; コロ 2:19をエフェ 4:16と; コロ 3:8‐10,12,13をエフェ 4:20‐25,31,32と; コロ 3:18‐25; 4:1をエフェ 5:21‐23; 6:1‐9と比較。)さらに,チェスター・ビーティー・パピルス2号(P46,西暦200年ごろのもの)の中に,コロサイ人への手紙がパウロの他の手紙と共に入っていることからすれば,初期クリスチャンがコロサイ人への手紙を,霊感を受けたパウロの書物の一つとみなしていたことは明らかです。

コロサイ人への手紙を書くようパウロを動かした要因は二つあったようです。一つには,エパフラスが同使徒にこの会衆の霊的な状態を伝えていました。その情報には心配な点もありましたが,良い知らせもありました。パウロは,エパフラスが「霊的な面でのあなた方の愛をわたしたちに聞かせてもくれました」と述べているからです。(コロ 1:7,8)会衆内に問題はありましたが,状況は深刻なものではなく,ほめるべき点もたくさんありました。それにまた,フィレモンの奴隷オネシモもコロサイにいる主人のもとへ戻ろうとしていました。それでパウロはこうした状況を活用し,オネシモとその友テキコを通してその会衆に手紙を送ったのです。―コロ 4:7‐9。

書かれた場所と年代  パウロがコロサイ人に手紙を書き送った時どこにいたかということは,直接には述べられていません。エフェソスだと言う人もいます。しかし,この手紙は同使徒が獄にいることを示唆しており(コロ 1:24; 4:10,18),聖書にはパウロがエフェソスで監禁されていたことを示す記述はありません。コロサイ 4章2‐4,11節でパウロが述べている事柄は,ローマにおける同使徒の最初の投獄期間中(西暦59‐61年ごろ)の状況と最もよく合致するようです。確かに,パウロはカエサレアで獄に入れられ(使徒 23:33‐35),フェリクスは同使徒の拘禁の度をいくぶん緩めるように命じました。(使徒 24:23)しかしこの自由は,パウロがローマにおける最初の投獄期間中に得たような大幅な自由ではなかったようです。ローマでパウロは自分の借りた家に2年間とどまり,そこを訪れる人々に神の王国を宣べ伝えることができました。―使徒 28:16,23,30,31。

また,パウロがこの手紙を書いた場所にオネシモがいて,テキコと一緒に手紙をコロサイに届けることになっていたという点も,この手紙がローマで書かれたことを示しているようです。確かに,人のあふれていたローマであれば,逃亡奴隷にとって格好の避難所になったでしょう。コロサイ人への手紙は,ローマにおけるパウロの最初の投獄期間の終わりごろ,つまり西暦60‐61年ごろに書かれたようです。パウロは時を同じくしてフィレモンへの手紙も書きました。テキコとオネシモはコロサイ人への手紙だけではなく,同じ使徒のフィレモンあての手紙も届けました。(フィレ 10‐12)パウロはフィレモンへの手紙の中で釈放される見込みについて述べているので(22節),コロサイ人への手紙もフィレモンへの手紙と同様,ローマにおけるパウロの最初の投獄期間の終わりごろに書かれたと結論できるかもしれません。

 

コロサイ書がパウロの真筆とされる根拠を、パウロ筆と書いてあること、及びエフェソス書との類似性、ならびにP46の目録に入っていることを挙げている。しかし、これらはいずれもパウロの真筆である根拠とはならない。

 

「コロサイ書はパウロの著作ですか」

 

 

いわゆるエフェソス書の解説

原文にはどこにも、エフェソス教会の信者に宛てた手紙などということは書いていない。単に、世の中全体のキリスト信者あての公開文書。たぶん2世紀末かもっと後になって、誰かがこれはエフェソス教会あての手紙だ、と言いだし、写本にも表題としてつけられるようになってしまった。

著者は明らかにユダヤ人出身者の信者。また、コロサイ書を知っていて利用している。全体の半分ぐらいはコロサイ書のもじり。しかし非常に巧妙に、方向を変えている。コロサイ書を頭に置いて、あなた方「異邦人」はキリスト教が自分たちの宗教だと思い込んでおいでのようだが、本当は我々ユダヤ人から発し、あなた方は後から参加させてもらっただけなのだよ、だから我々の話に耳を傾け、我々と融和するようになさい、という呼びかけ。この内容からして、コロサイ書とあまり時は隔たっていないだろう。

 

WTによる「エフェソス人への手紙」の解説 

*** 洞‐1 375ページ エフェソス人への手紙 ***

使徒パウロが西暦60‐61年ごろ,ローマで投獄されていた時に書き記した,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中の一つの書。(エフェ 1:1; 3:1; 4:1; 6:20)この書はテキコによりエフェソスの会衆に届けられました。(エフェ 6:21,22)パウロはコロサイ人に手紙を送る時にもこのテキコを用いました。(コロ 4:7‐9)コロサイ人への手紙はパウロがエフェソスのクリスチャンにあてて手紙を書いたのと同じころに書かれたので,エフェソス人への手紙とコロサイ人への手紙の間には多くの類似点があります。チャールズ・スミス・ルイスによれば,「エフェソス[人への手紙]の155節中78節が,同一性の程度は色々異なるものの,コロサイ[人への手紙]にも見いだされ」ます。(国際標準聖書百科事典,J・オア編,1960年,第2巻,959ページ)コロサイの事情はエフェソスの事情と恐らく幾分似ていたに違いありません。そのためパウロは,同じような助言を与えるのが良いと思ったのでしょう。

エフェソスのクリスチャンにとって適切だった理由  バチカン写本1209号の元の読み方やシナイ写本をはじめ,チェスター・ビーティー・パピルス(P46)では,エフェソス 1章1節の「エフェソスにいる」という言葉が省かれています。しかし,他の写本には,また古代のどの訳本にもこの言葉が出ています。その上,初期の教会著述家たちはこの書をエフェソス人への手紙として受け入れていました。中には,この手紙のことをラオデキアに送られたと言われている手紙であろうと考えてきた人もいますが(コロ 4:16),「ラオデキアへの」という言葉が含まれている昔の写本は一つもないことに注目しなければなりません。この手紙のどの写本にせよ,この箇所で言及されている都市はエフェソスのほかにないのです。

 

コロサイ書では、P46の目録を真筆、信憑性の根拠としておきながら、エフェソス書に関しては、無視。他の翻訳や初期の強化著述家たちの伝統をエフェソス教会あての手紙であることの根拠としている。

 

「エフェソス書は本当に教会にあてた書簡ですか?」

 

 

第二テサロニケの解説

こちらは大部分パウロ自身の第一テサロニケの換骨奪胎。しかし著者の意図は非常にはっきりしている。パウロ教の信者たちが師の教えをそのまま信じ込んで、今すぐにでも終末が来ると、浮き足だった信仰にふりまわされているのに対して、そんな簡単に世界の終末が来るわけがないのだから、我々はもっと落ち着いて日常生活を過ごそう、と呼びかけている。日々真面目に自分の力で労働し、自分で稼いだパンを食べて生きていくのがいい、と。「働かざる者は食うべからず」という有名なせりふは、その文脈の中に出て来る(3:10)。著者は不明。執筆年代も不明。1世紀末~2世紀前半。

 

WTにおける「テサロニケ人への手紙」の解説

*** 洞‐2 271–273ページ テサロニケ人への手紙 ***

(テサロニケじんへのてがみ)(Thessalonians,Letters to the)

クリスチャン・ギリシャ語聖書中に収められている霊感による2通の手紙で,使徒パウロが書いた最初の手紙と思われるもの。パウロは自分がそれらの手紙を書いたことを明示しています。(テサ一 1:1; 2:18; テサ二 1:1; 3:17)これらの手紙が書かれた時,シルワノ(シラス)とテモテがパウロと共にいました。(テサ一 1:1; テサ二 1:1)このことから,この2通の手紙はコリントから書き送られたと考えられます。(使徒 18:5)コリントにおける同使徒の18か月にわたる活動は西暦50年の秋に始まったと考えられるので,テサロニケ人にあてた第一の手紙が書かれたのは,ほぼその時期であったと言えるでしょう。(使徒 18:11。「年代計算,年代学,年代記述」[その後の使徒時代]を参照。)第二の手紙はその後ほどなくして,恐らくは西暦51年ごろに書かれたに違いありません。

西暦2,3,4世紀のどんな顕著な目録においても,これら2通の手紙が正典として挙げられています。それらの手紙は,どんなときでも立派な行状を保つよう神の僕たちに訓戒を与える面で,聖書の他の部分と十分に調和しています。これらの手紙の中では祈りに強調が置かれている点も注目に値します。パウロは仲間の働き人と共に,常に祈りの中でテサロニケの人々を思い出しました。(テサ一 1:2; 2:13; テサ二 1:3,11; 2:13)また同使徒は,「絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい」(テサ一 5:17,18),「兄弟たち,わたしたちのために引き続き祈ってください」と彼らを励ましました。―テサ一 5:25; テサ二 3:1。

テサロニケ第一の手紙の背景  テサロニケ第一の手紙のあて先となった会衆は,事実上その当初から迫害を経験しました。パウロはテサロニケに着いた後,三つの安息日にわたってその地の会堂で宣べ伝えました。かなりの数の人々が信者になり,会衆が設立されました。ところが,狂信的なユダヤ人が暴動を引き起こします。ヤソンの家にパウロとシラスがいなかったので,暴徒はヤソンと他の幾人かの兄弟たちを市の支配者たちの前に引きずり出し,彼らを扇動のかどで告発します。ヤソンと他の人々は「十分の保証」を与えてやっと釈放されます。このことがあって兄弟たちは夜にパウロとシラスをベレアに送り出します。それは恐らく会衆のためであり,これら二人の男子の安全のためでもあったようです。―使徒 17:1‐10。

その後も会衆は,途切れることのない迫害に加えて(テサ一 2:14),会衆の成員(たち)と死別するという深い悲しみを経験したようです。(4:13)この新しい会衆に加えられていた圧力について知り,その圧力の影響を深く懸念したパウロは,テサロニケの人々を慰めて強めるためにテモテを派遣します。使徒パウロはそれよりも前に彼らに対する訪問を二度試みましたが,『サタンが彼の進路をさえぎりました』。―2:17–3:3。

パウロは,テサロニケの人々の忠実さと愛に関する励みとなる報告をテモテから受け取って歓びます。(テサ一 3:6‐10)しかし彼らは,肉の弱さに抵抗するためのさらに多くの励ましと訓戒を必要としていました。そのような理由で,パウロはテサロニケ人の忠実な忍耐をほめ(1:2‐10; 2:14; 3:6‐10),復活の希望で彼らを慰める(4:13‐18)ことに加え,神に是認される道に従い続け,しかも一層十分にそうすることを彼らに説き勧めました。(4:1,2)同使徒はとりわけ,淫行を避け(4:3‐8),より十分に愛し合い,手ずから働き(4:9‐12),霊的に目ざめ続け(5:6‐10),彼らの間で骨折って働く人たちに対する敬意を持ち,「無秩序な者を訓戒し,憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くあり」,「あらゆる形の悪を避け(る)」(5:11‐22)ように諭しました。

テサロニケ第二の手紙の背景  テサロニケのクリスチャンの信仰は大いに成長し,互いに対する彼らの愛は増し加わり,彼らは引き続き迫害と患難を忠実に耐えていました。ですから使徒パウロは,第一の手紙の場合と同様に彼らをほめ,しっかりと立ち続けるよう彼らを励ましました。―テサ二 1:3‐12; 2:13‐17。

ところが会衆の中には,イエス・キリストの臨在が差し迫っているという誤った主張をする人たちがいました。パウロが書いたと誤解された手紙も,「エホバの日が来ている」ことを示唆していると解釈されたようです。(テサ二 2:1,2)使徒パウロが自分の書いた第二の手紙の真正性を主張し,「私パウロのあいさつを自分の手でここに記します。どの手紙でもこれがしるしです。これがわたしの書き方です」と述べた理由はそこにあったのかもしれません。(3:17)パウロは兄弟たちがたぶらかされて誤った教えを受け入れることを望まなかったので,エホバの日が来る前に生じるべき他の出来事について示しました。「まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わし示されてからでなければ,それは来ないからです」とパウロは書きました。―2:3。

会衆内に以前から存在していた問題に関しては,なおも注意を向ける必要がありました。パウロはテサロニケ人への第一の手紙の中で彼らにこう告げていました。「兄弟たち,あなた方に勧めます。……わたしたちが命じたとおり,静かに生活し,自分の務めに励み,手ずから働くことをあなた方の目標としなさい。それは,外部の人々との関係では適正に歩むため,またあなた方が何にも事欠くことのないためです」。(テサ一 4:10‐12)その会衆にはこの訓戒に心を留めていない人がいました。それでパウロはそのような人たちに対して,静かに生活し,自分で働いて得た食物を食べるよう命じてから,こう付け加えました。「しかし,この手紙によるわたしたちの言葉に従順でない人がいれば,その人に特に注意するようにし,交わるのをやめなさい。その人が恥じるようになるためです。それでも,その人を敵と考えてはならず,兄弟として訓戒し続けなさい」― テサ二 3:10‐15。

 

二通ともパウロが、自分が書いたと書いていることをパウロの真筆していることの根拠としている。第二回宣教旅行以外にこれらの手紙に登場する三人が一緒に働いた記録がないことを認めながら、信者の短期間での信仰の変質に関しては、「パウロが書いたとされた手紙」を誤解したことによるものだとしている。どちらもパウロの真筆であるとすれば、第一書簡におけるパウロの終末思想と第二書簡におけるパウロの終末思想が全く異なるものであるにもかかわらず、同一の信仰を保っていたからのように扱っている。

 

→ 「第二テサロニケ書簡は誰が何のために書いたのか」